第十一節「此処にあるもの」
「ん……」
小さな吐息が零れたのは粗末な部屋での事だった。
相変わらず暗い野外には満点の星と月が両立している。
灰金の髪が藁の上に麻布を敷いただけの枕の上でサラサラと音を立てた。
隣で一人手を組んで少女を見守っているのはイルトだ。
一応の治療として包帯が巻かれている片足は無かったはずの部分が完全に元へ戻っていた。
途中、樹木の触媒から練成した小さな蝋燭が今は辺りを仄かに照らしている。
ギィィ。
小さな音を立てたドアの先から足音を立てないように桃色の髪がひょこひょこと入って来た。
ふわりと薫るのはその手に握られていた鉄皿の上の茹で麦。
干し肉と皿の縁に盛られた塩と香辛料の香りが今まで食事もせずに看病していたイルトの腹に随分と堪える。
「イルトさん。先生からです」
「悪りぃな。今まで高熱出してたのにさ」
皿を受け取りながら手を付ける様子も無く。
ただただイフィーの姿を見つめているイルトの横にピアリが座り込んだ。
「ご飯食べないとイルトさんまで倒れちゃいますよ」
「はは、そう簡単に倒れない。って言えたら格好良いんだけどな。病人に心配掛けるようじゃダメダメだな。オレ」
添えられたスプーンで湯で麦を口に運びつつ、塩を舐め、干し肉を齧ったイルトは、肉体の活力こそ甦ってくるのを感じたが、何処か心に暗いものが落ちるのを自覚した。
「イルトさん……」
心配そうな顔で覗き込まれて。
スプーンを動かす手が止まる。
ピアリはその顔にあるものが何なのか解らなかった。
後悔。
そう見る事も出来る。
しかし、悲痛に歪んでいるわけではない。
敢えて表現してしまうとすれば、何かを耐えているような顔、だろうか。
「オレさ。言っちゃ何だけど、これでも不幸自慢な方なんだぜ?」
「不幸自慢?」
「ああ、オレ両親死んじまってるから、結構苦労したんだ」
「あ、あの……ご、ごめんなさい」
「何でピアリが謝るんだよ。オレから言い出したのに」
苦笑して、イルトが湯で麦を口にしながら昔の記憶でも見ているかのように虚空に視線を彷徨わせる。
「もう五年も前の話だし、今はそれをちゃんと受け入れられるようになったんだ。だから、んな顔するなって。というか……オレより哀しそうな顔されたら、オレの立場が無い」
「あぅ……」
「ごめんな。急にこんな話」
「いえ……その、もし良かったらお話の続き。聞かせてくれませんか?」
「あ、ああ、それでんーと。オレって自分以上に不幸な奴はこの世にいないって昔は思ってたんだ」
何処か懐かしむような様子で声は呟く。
「何でオレの家族が死ななきゃならなかったのか。どうして両親が死んだのにオレは生きてるのか。これからオレはどうやって生きて行けばいいのか。解らなかった」
「苦労、したんですか?」
「まぁ、それなりだな。福祉施設や七教会の孤児院に入るとかの選択肢もあった。けど、オレの両親って結構財産持ってたらしくて。色々と手続きも済ませてあったから生活には困らなかった。七教会がすげー遠縁の後見人を見つけてきてくれたりもして、それでずっと一人暮らしだったんだ」
その顔は何か過去の自分を恥じているように歪んだ。
「オレ、凄く他のやつが羨ましかった。今まで自分がどれだけ恵まれてたのか知った。朝、起きて家族がいるってのは特権だったんだなぁって」
「特権?」
「学校で運動会とか、授業参観とか、進学希望とか、色々あって。その度に親や家族がいないってのがどんだけ哀しくて辛い事なのか解った。だから、オレ……自分は恵まれてるなんて思ってなかった」
「それは……」
ピアリがイルトの言いたい事を理解して、何と答えていいのか解らなくなる。
「人それぞれなのは解ってる。でも、誰かの不幸を見て、オレは自分が幸せだと感じる生き物だった。それで自分はマシだとか、自分は不幸じゃないって思っちまってた。そういう人間だったんだって、今なら解る」
「自分を責めないで下さい。それは誰のせいでもないはずです。ピアリは……そう思います」
「ありがとな。だけど、オレやっぱり何にも解ってないガキだった。イフィーがこんな事になって、ようやく気付いたんだ」
拳は白く白く。
「オレはきっとあの“幸せじゃない日常”から逃げ出したかったんだ。何かが変わるとか期待して此処に来た。甘えてたんだよ師匠に……オレを他の何処かに連れていってくれるような気がして……んなのただの幻想。自分の思いを押し付けてただけだ……」
「イルトさん……」
「馬っ鹿だよなぁ。目の前で女の子の手足が吹っ飛んでようやく気付くなんて」
ピアリの手が肩に触れようとして。
項垂れたイルトが身を引いた。
「悪りぃ……今は……」
「いえ……」
イルトの視線がイフィーに向く。
「オレなんかよりずっとずっと重いもんを背負ってイフィーは戦ってた。オレなんかよりもっともっと辛い事があるはずなのに……独りで立ってた。オレこれでもちっとは強いなんて自負してたけど、女の子一人守れやしなかった」
声に滲んだものをピアリは聞かなかった事にする。
それを覚えていて欲しい男なんていないと何となく彼女は知っていた。
「ピアリがもしもいなかったら、こんな宿を密碑(キャラクト)で出すなんて考え付かなかった。もし師匠がいなかったらイフィーの治療なんて出来なかった。オレ……役立たずだ……ッ」
流されているのは血なのか。
そう思えるくらいに傷は深く。
彼の心を抉る。
「……馬鹿者め」
『?!』
ピアリとイルトが同時に驚きで固まった。
「イ、イフィー!? 大丈夫か!!? 痛いところとか無いか!!?」
思わず身を乗り出したイルトの額にコツリと拳が当たる。
「そんな事より、幾つか言っておく。イルト」
「え、あ?! い、今の聞いて?!!」
どう反応したらいいのか解らず。
恥しさと情けなさでイルトの顔が歪んだ。
「我が背負うモノをお前が語るな」
「!?」
「我が幸せかどうかをお前が騙るな」
「ご、ごめ―――」
「我が一人かどうか、お前に解るわけがない」
「―――」
何も言えなくなってイルトが瞼をギュッと閉じた。
甘んじて罵倒を受けようと覚悟して。
「……お前は役立たずなどでは決して無い」
「え……?」
ゆっくりとイフィーが身を起こす。
慌ててピアリが付き添いに付いて。
身体の節々の痛みに顔を顰めながら少女は溜息を吐く。
「イルト。人は一人では生きられない。だが、一人で立たねば誰も救えない。我は一人で立っている。だがな。沢山の仲間達が送り出してくれているから此処(メイズ)に居られる。それもまた事実。その上、お前達のような仲間まで得たのだから、望外に幸せなのだぞ?」
「イ、イフィー?」
ニヤリと少女の唇の端が吊り上がった。
「ぜ、全部聞いてたのか?!」
顔から火が出そうなくらいに恥しく。
イルトはもう観念した様子で項垂れた。
「なぁ、イルト」
今までに無く優しげな声に彼の顔が上がる。
「より良い結末、より素晴らしい世界でなければ、お前は幸せになれないのか?」
瞳と瞳が交わる。
「例えば、もしお前の両親が生きていて、何一つとして不自由の無い世界があったとして。それが今から手に入るなら、お前は今の自分を捨てられるか?」
「より良い世界……」
「我ならばごめんだな。もし、我の母上が生きていて、優しい人々がいる名家に嫁いで、一生を幸せに過ごし老い死んで行く。そんな世界があったとしても、我は決して選ばないだろう」
イルトの瞳が揺らいだ。
「今、此処にいるイルト・イナーシタは幸せか否か。それはさして重要な命題ではない。いや、この世の誰もがそうだ。死に往く子供も、老人も、病人も、怪我人も、等しくな」
「どういう、事だ……?」
「今、此処にあるモノを指して不幸か否かを図るのが人だとするなら、本質的に価値を決める行為が他者との比較なら、己一人の世界が最も最良の状態であるはずだ。幸せであるかどうか確認する必要もない。世界に己一人しかいないなら、この世に相対的な価値である不幸もまた存在しないだろう?」
「?!」
「お前にも解るはずだ。幸せを求めるから人は不幸になる。より善き時代を、より良き生活を、より素晴らしき世界を、そんなものを求め続けた先に幸せがあるのではない。此処にある己と他者を認めてこそ、幸せというのは生まれる」
それも一つの結論。
それが七教会の求める世界と違うのはイルトにも解った。
「我の半生を聞かせれば、お前は我を不幸な人間だと思うだろう。だが、我は違うぞ。この素晴らしき世界に生まれて、愛する喜びを知って、自らの敵を得て、目標を打ち立て、仲間を募り、人生を歩む」
ギュッと少女の手が握り締められる。
「嬉しいではないか。こんなに心躍る話もないではないか。絶望も諦観も悲哀も須(すべか)らく我の人生には付き物だった。だが、それがどうしたと言うのだ。そんなものどんな時代の誰の人生にも、腐るほど転がっている」
「……イフィー」
「己の幸せを他者に阿(おもね)る人の性(さが)なればこそ、不幸という言葉に踊らされるな。イルト」
「オレ、間違ってたのかな……」
「この問答に間違いも何も無い。幸せも不幸も“此処にある”のだ」
己の胸に当てた手でイフィーがイルトの手を取った。
「お前がいなければ、我はあれ以上の怪我を負っていただろう。我を救ったのは間違いなくお前だ」
「そ、そんな事……」
「全ては見る者によって変わる人生の一欠けら。我の意見はただ“自分にも他者にも一辺倒な見方を押し付けるな”というだけの話だ」
手から伝わる温もりに気恥ずかしさを感じながら。
視線が照れ臭そうに逸らされる。
「お前が不幸だろうと幸せだろうと、他者の不幸に幸せを確認する者だろうと、そんなの我には関係ない。我が前にいるのは、新しき友にして、この身の窮地を救いし者。イルト・イナーシタだ」
「………」
思わず顔を伏せたイルトが漏らす声を静かに彼女は聞いていた。
「イルトさんはきっと考え過ぎなんですよ!! ピアリはイルトさんが此処に来なかったら死んでたはずです。ですから、イルトさんが自分を責める必要なんて一つもないんです!!」
ピアリの言葉に声が僅か大きくなる。
(我は幸せに縋らない。だが、こんな仲間達を得ては……何をせずとも幸せになってしまうな……)
永遠の世闇の中。
蝋燭が尽きる頃まで声が止む事は無かった。
「……ふ」
扉の外。
少女の容態を確認しに来た青年は眼鏡の蔓を押し上げて。
『……っ……ぅ……』
中からの声が途絶えるのを待つ。
「教師という仕事はやはり素晴らしいものですね……」
弟子がまた一度(ひとたび)成長するのを嬉しく思いながら。
全員がその場を後にしたのは数時間後。
森は静かに彼らを呑み込んでいった。
*
パカラッ、パカラッ、パカラッ。
そう馬の蹄の音が周囲には響いていた。
天蓋蒼星(メイズ)内において基本的に外部から動植物を持ち込むのは一部の食物、作物を除いて禁止されている。
故に数万kmにも及ぶ内部を移動する際。
長距離時には転移を使う場合が殆どだ。
なのに馬という生物がいる。
実はとても奇妙な光景のはずなのだが、人々は大概にして気付かない。
その馬が本当に生き物であるのかどうかを。
高位の魔術師ですら気付かない精巧さ。
草を食み、水を飲み、糞もする。
真に馬である。
それをもし作り物と言い張られても殆どの人間は真に受けないだろう。
ノースポール・アガスタ。
大量の輸送艦が接岸する整備型逗留港(ドック)にその馬達は戻ってきていた。
魔力で駆動する内燃機関を軸に馬を必要としない自動馬車が出回る昨今。
動物の力で移動しようとする輩は大陸中央諸国からすれば田舎者の類である。
それでも開放された天蓋蒼星(メイズ)に押し寄せる人々の大半は中央諸国よりも遅れた世界よりやって来るのが殆どだ。
未だに王侯貴族が統治し、奴隷制度が罷り通る場所からの来訪者である。
無知蒙昧に近いと言っても過言ではない。
迷信を信じる者もかなり多いだろう。
馬車が勝手に動いては悪霊の仕業だとすら騒ぎかねない。
故に見せかけの命は動物の形を取る。
それこそが【欺瞞生物機構(システム・アドバーディス)】だ。
それらの動物達は七教会の広告に等しい。
中身がバレれば七教会の【魔導技術(ハイ・クラフト)】に人々は関心し、中身がバレなければ、労働力として普通に使用され続けるだけの話。
効率よりも人々の意識に沿った行政を提供する統治プログラムの一環である。
というのは七教会内部への表向きの話。
実際にこれらの馬、犬などを筆頭にした働く動物を模した機構(カラクリ)達には幾つかの役割が与えられている。
それは七教会が把握しない場所に向う人間の情報を収集するというものだ。
魔力を使えば、それだけで波動を検知する機械が珍しくなくなった時代。
未だ未探査の領域が多い天蓋蒼星(メイズ)で好き勝手に厄介事を起こす者達は後を絶たない。
故にそういう者達の位置情報を正確に把握する目的で馬車は殆ど無料で貸し出され、馬も持ってけ泥棒とばかりにバラ撒かれている。
例え魔力を使わずに移動したとしても馬や犬達の視線からは逃れられない。
広大な領域を探索するのに足となる乗り物は欠かせず。
魔力を使わぬ移動手段を使わなければ、犯罪すら容易ではない。
だから、自らが位置を把握されているとも知らずに犯罪者へ堕ちる【潜星者(アイム)】は早期に掴まる。
「……来た」
整備型逗留港(ドック)内部の七教会支部。
ノースポール・アガスタを治める役所の裏手。
テラスとなった場所で遠くから戻ってくる【欺瞞生物機構(システム・アドバーディス)】を幾つか見つけて。
七教会の制服である黒と白を基調とした【軽殻装(コート)】が翻る。
テーブルの上には紅茶を呑み終わった陶器(カップ)が一つ。
琥珀色の水滴を内部に滴らせていた。
「停止コード。E0024。閲覧開始」
人間の眼球に直接光を投影する技術は今では七教会の業務(オペレート)に必要不可欠な代物だ。
瞳の内側、水晶体内の魔術具は透明な珪素の焼結体。
内部に高密度の魔術式。
この場合は魔導による閲覧用の共有情報演算体(プラットフォーム)を内臓している。
七教会製の魔術具の情報を読み込む際の手順簡略を容易にした技術は【高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)】に内臓される戦術情報共有機構の簡易版であり、権限さえあればあらゆる七教会製機器から様々な情報を閲覧照会する事が出来る。
「最終座標確認。イギルの森。域内の魔力形質走査。M-332純粋波動魔力形質。M-223準地脈型魔力形質……計測異常(エラー)……登録済みの形質と一致せず……やはり、使徒が混じっているようね」
機能が通常視界(ノーマル・ビジョン)に戻され、情報の一切が虚空から消え失せた。
積層魔力による情報の読み出し機器が普及し始めた大陸中央でも民間には開放されていない技術であるところの情報共有を終わらせて。
声の主は今までのハイカラぶりが嘘のように懐から紙媒体を取り出す。
「捜索対象は八名。イグニシア・クルシスからの不法入領者二名。特務戦技官一名。藩落からの入領者一名。アンデリットからの不法入領者一名。革命闘士組織幹部一名。不法入領人外一匹―――」
パラパラと経歴やら名前やら姿やら。
ところどころ虫食いのように情報が無い追跡対象を脳裏に焼き付けながら、瞳の主は最後の一名の姿に目を細めた。
「【聖王同盟(サクラム・フェデレイションズ)】関係者一名」
灰金の髪。
儚げな少女の顔は紛れなくイフィー・ファサルトスのものだった。
「定時報告。数名の第一層下層域への侵入を確認。これより補足に掛かる。入領制限の為、装備は乙型。力不足の感は否めないものの、確保には支障無いものとして追加人員の必要無し。尚、現在は隠密行動中である為、リテル様はお休み中である」
ブツブツと呟きながら、彼女が役所の方へと視線を向けた。
「何でしょうか!!」
敬礼したのは厳つい顔の軍人。
左頬から眉間へと続く刃傷を持つ男。
野戦用の迷彩服に身を包んだゴードン・ゴーガン大佐だった。
「これより移動を開始します。今回、特別徴発に応じてくれたアンデリットには七教会財務部門よりの褒賞と天蓋蒼星(メイズ)での大隊戦力使用による密碑(キャラクト)大量確保。それから資材搬送用の大型転移方陣の接地運用許可が下りるでしょう」
「恐縮です!! このような厚遇に我々一堂感謝の念に絶えません!!」
ザッとゴードンの後ろに並んだ野戦服の男達が敬礼する。
全員で二百人近い部隊だった。
「では、短距離転移を用いた包囲探索陣を敷きつつ、目的地に向います。目標はイギルの森。この場の全ての兵に神とクラル・リテル様の加護在らん事を」
「ナハシュ特務監査官殿に敬礼!!!!」
ゴードンに倣って一指乱れぬ統率で背嚢を背負った兵達が敬礼した。
その先には七教会の制服を纏った一切毛の無い女がいる。
まだ二十代程だろう軍人然とした姿。
イルーデ・アリオイア・ナハシュ。
それが彼女の名前だ。
「全隊。行動開始」
まるで尼のような静謐さで彼女は命令を下す。
黒い縁無し帽には蒼と紅。
二つの色を宿した蛇の紋章が小さくあしらわれていた。
それは大陸にある二つの血族。
【メトシェラ】と【ナハシュ】の紋章。
今や七聖女に仕える家系の女はゆっくりと雄大な大地に視線を向けて。
小さく微笑む。
「楽しみね」
新たな追撃者を迎えた天蓋蒼星(メイズ)に嵐が吹き荒れようとしていた。
その発端であろう女の姿にゴードンは何処か違和感を覚えて目を擦る。
何故か。
女の後姿は歴戦の勇士の如く。
寂寥で黄昏ているように思えたからだ。
『各隊。転移開始』
兵達の足元に複雑な転移用の魔術方陣が浮かび、数秒後にはもうその場に誰も残ってはいなかった。
*
小川の傍にある芝生の上。
頭部の禿げ上がった少女が一人。
蒼き天蓋の星を見上げていた。
その手には編み物道具が一式と編まれ掛けのマフラーがある。
彼女のいる場所からそう離れていない一軒家の縁側で明かりも付けずに座る者が二人。
「どうっすか? ナハシュの嬢ちゃんの具合は」
「ああ、医者の話ではゆっくりとではあるが回復しつつあるらしい」
「そっすか。良かったっすね」
「ああ……そうだな」
若者と老人。
屋根の翳りに顔も見えない二人はまたゆっくりと編み物を始めた少女の背中を見つめる。
「それにしても、此処に来て半年……発見されたのは奇跡って話でしたけど、凄いですよね。あの嬢ちゃん……あんな事になった宇宙で発見されてまだ生きてたってんだから」
「クラル様のご加護だろう。だが、あんな状態になったのはあの事件が原因ではないらしい……」
「そうなんすか?」
「掛かり付け医の話では……精神干渉系の魔術を受けた時の症状に似ているそうだ」
「……誰かに心を壊された?」
「いや、それとも状態が違うらしい……何か怖ろしい体験をしてしまった事が原因と言っていたが……」
「怖ろしい? あの事件で宇宙にいたモノと出会う以上の怖ろしい体験があるって事っすか?」
「どうだろうな。しかし、人にとっての“怖ろしい”というのは何も恐怖だけではない」
老人が傍らにあるカップから紅茶を口にする。
「哀しみ、痛み、苦しみ、それは何処にでも転がっているものだ。心の弱い者が病む事は往々にしてある。問題はそれが当人にとってどれだけの衝撃であるかだ」
「当人にとって?」
「彼女はどうやら七教会内部でも特殊な地位にいたらしい。だが、そのおかげで精神的にはかなりの強さだったようだ。どんな化け物と対峙しても眉一つ動かさなかったとか」
「化け物じゃなくて。何か当人の心の琴線に触れる、壊れてしまうような何かがあった、と」
「そういう事だ。此処に来る者の中でもそういう事情を抱えた子は圧倒的に多い」
二人が話し込んでいる間にも本日分の編み物を終えた少女が道具をポシェットに仕舞って戻ってくる。
「今日はもういいのかい?」
老人が自分達の手前まで来た裸足の少女に尋ねると。
ニコリと頷きが返った。
「そうか……」
そろそろ寝るのだろうかと。
若者が綺麗過ぎる少女の笑みに何処か居心地の悪そうな様子となる。
そんな時。
カランと玄関の鐘が鳴った。
「おや? 誰か来たようだな」
「こんな夜中に? こっちで出てもいいっすよ?」
「その必要はございません」
「「ッ」」
二人が庭先からまだ離れているというのに耳元で囁かれたような声に驚き。
その歩いてくる何者かの姿を瞳に収める。
「御機嫌よう。お久しぶりですね。お迎えに上がりました」
少女がそちらを向いてポトリとポシェットを落とした。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
老人が立ち上がり、少女の横に立つ。
彼らの前に現れたのは三十代前半くらだろうか。
薄っすらと笑むシスター姿の女だった。
その背中に背負われたものがようやく雰囲気に飲まれていた老人と若者の目にも止まる。
巨大な銃。
いや、砲と呼ぶべきなのか。
巨大な鉄塊の如き砲身が当人の身長程もあるグリップだけが人間サイズの……まともな人間が持っているとは思えない兵器。
数百kgは確実に超えていそうなソレが二人に威圧感を覚えさせた。
「特務戦技官。アイネス・ラッシュバルトと申します」
若者と老人は同時に黙り込む。
七教会の特務と付く名の官位は極めて危ない連中にだけ与えられていると知っていたからだ。
単体の超越者として七教会の最強部隊【騎師団(ミリシェ)】に入れなかった問題児。
その殆どは協調性が無いとか、精神的に問題ありとか、単純に団体行動に向かない能力であるとか……そういう連中ばかりだ。
ただし、その力だけは折り紙付き。
最新装備の正規部隊に“粗末な武装”で立ち向かっても半壊させるだけの実力がある。
「クラル・リテル様お迎えの為、七教会月面支部に大遠征命令が出されました」
「大遠征?! 教会時代の話でしょう!? そもそも宇宙にどんな敵がいると!?」
思わず老人が声を荒げた。
大遠征。
それは嘗て旧教会が影響下の各国に義勇軍を募る時に使った単語だ。
その目的は大概が教会のある地域で虐されている同胞の救出を意味した。
軍隊としては傭兵主体の弱体であったとも言われているが、義勇軍は聖征者《クルセイダー》出撃の一歩手前の措置であり、実際には様々な教会の秘儀秘奥が授けられたとの逸話は多い。
その戦いぶりは大国相手でも師団クラスとまともに遣り合って三倍の兵を相手に持ち堪えたとされる。
「一般には公開されていませんが、現在この星系内にはあの事件で影響を受けた物質、生物、その他諸々……化け物化した存在がウヨウヨしているそうで。これは七聖女様の信託を受けた現七教会の立ち上げた統合幕僚本部。その初代総長バルガ・レオノトルテ様の発案に各支部の代表89%が賛成した事によって可決された決定事項です」
「「―――」」
二人が同時に目を剥いた。
何時の間に。
そう言うべき事態なのは確実だろう。
七教会が今や銀獅子と呼ばれたマシア・ミクニス・アルヴィッツと往年の|騎士物語りの騎士(ナイツ・オブ・ナイツ)とも揶揄されるバルガ・レオノトルテ。
この二人の間で割れ始めている事は関係者には衆知の事ではあった。
しかし、下の人間が知らない間に大仰な話が進んでいる事といい。
意思決定のプロセスが不明瞭な挙句に秘密主義という遣り方は七教会の影響統治下においては歓迎されないもののはずだ。
だが、既に何もかもが決まってしまってるという。
いきなり心を壊した少女の下に特務戦技官がやってきた事も合わせれば。
時代が急激に移ろい始めている事を若者も老人も感じざるを得なかった。
「イルーデ・アリオイア・ナハシュ。クラル様は今も帰り道の途中、様々な敵と戦っている事が予想されます。これを共に撃滅するのは我ら七教会の中でも特に信仰と親交の深い貴方達ナハシュとメトシェラを置いて他にはないでしょう。クラル様の器として、また力を分け与えられた予備戦力としての面で期待が掛かっております。まぁ、もう廃人同然の身。このまま指を咥えて聖女様をお見捨てになると言うのなら、幕僚本部にはこちらからそう言っておきましょうか?」
ドゴンッと。
家が揺れた。
「「?!!」」
それが一人の少女の腕が壁を叩いた故のものだと二人はその腕を見て気付く。
「服を……」
その呟きにアイネスがニッコリとして、片手にしていた黒皮製の鞄を少女に差し出した。
少女は裸足のまま。
衣服を全て破り捨てるように脱ぎ散らかすと鞄の中のものを取り出してゴソゴソとその場で纏い始める。
男達はその様子に一瞬、慌てふためき。
視線を逸らしたが、二十秒もせずに自分達の前で衣服を身に纏い終えた存在に息を呑む事となった。
「―――アイネス・ラッシュバルトッ。直ちに統合幕僚本部に出頭します!! 連れて行け!!」
「それでこそ特務。精神の死が何なのでしょうか? 聖女様達の為に自分を使い潰す事など当たり前でしょう。ああ、そのお顔でこそ人は貴方をあの方の僕と認めるでしょう。さあ、往きましょうか? 監察官殿」
「能書きは要りません」
二人が連れ立って歩き始める。
「お待ちを」
それに立ち止まった二人はしかし振り返らない。
すぐに老人は家の中に入って戻ってくると。
今まで世話してきた少女の足の横にそっと軍靴を置いた。
「お忘れですよ」
未だイルーデは裸足だった。
「貴方の献身に感謝します……」
「お早いお戻りをお待ちしております。まだ、貴女は完全に癒えておりません。療養の義務もまた戦う者の勤めと覚えておいて下されば、幸いです。ナハシュの方」
「……覚えておきます」
二人がそのまま月明かりの下、敷地外へと歩いていく。
そして、不意に転移の燐光に導かれて、何処かへと一瞬で跳び。
姿を消した。
「……良かったんすか?」
「孫が出来たようで嬉しかったが、ここらが潮時だろう……彼女が帰ってくるまで此処を閉めようと思う」
「そっすか。戻るんすね?」
「ああ、全てを若者にだけ押し付けてはおけまい。老僕もまた使い様だろう……まぁ、こちらは銀獅子陛下の方だがな」
「歓ぶっすよ。お爺ちゃんも」
「………王子。これより老骨が一人帰参すると陛下にお伝え頂けませんか?」
「育ての親同然の貴方にそう言われてはやらないわけにもいかないっすね……引き受けよう」
その日、七教会の外郭団体が運営する少人数制の療養所が一つ閉まる事となった。
そして、大陸中央諸国の雄。
もはや失われた王国の家臣が一人。
嘗ての主の下へと参じ。
現場の指揮を取る者達の一角に加えられる事となる。
時代の激流が七教会を二つに分けていく最中。
一般には殆ど公開される事もなく。
数日後、宇宙に40隻からなる艦隊が飛び立ち。
その星は再び混沌へと沈んでいく。
また、次なる異変を迎え入れるように………。