第十二節「月の欠片」
森とは命を育む場所。
動物、植物を問わず。
全てを包み込む畏敬の対象とされてきた。
人は其処から生活の糧を得て暮らし。
時に切り開き、時に育て、時に墓場とした。
深遠に住まうもの。
それは青き水底だけに在らず。
黒き緑の奥にもまた確かに朧な形を取る。
だが、蟲もなく、獣もなく。
人を飲み込む夜の闇と、人を貫く剣が徘徊するだけの場所が森と言えるのか。
果ても見えない終わり無き迷宮(もり)には一体何が座すのか。
月明りに照らされて進む一行に未だ答えは無い。
「なぁ、本当に大丈夫か?」
夜の森を移動しながら、イルトの声が前を進む灰金の少女に掛けられた。
剣獣(ソーディアス)から逃げるようにして進む最中の事である。
泉近くに密碑(キャラクト)で創造した拠点(セーフハウス)は緊急避難時用という事で早々に引き払い。
彼らは必要最小限度の戦闘をこなしつつ数時間歩き続けている。
道中、重症だったイフィーを気遣いイルトが話し掛けては呆れられるという場面はそれで四度目だった。
「十分に休息は取った。問題ない」
少女が溜息カがちに心配性な錬金術師の卵へそう返した。
「いや、でも、片足吹っ飛ばされてたんだぜ?」
「肉体の一部が消失した場合は自動で復元まで持っていく仕様だからな。再生と違って馴染むまでの違和感や慣らしも必要ない」
「仕様って。んな機械じゃないんだから……」
イフィーが実際重症だったところを見たイルトからすれば、彼女の言葉はあまり納得出来るものではなかった。
本来なら数日は密碑で創った宿で様子を見るべきとすら思っていたのだから。
それを押して旅程を消化しなければ。
そう言い張ったのは怪我をした当の本人である。
身体の一部を失っていたとは思えないような健脚で常にリュオの横を歩く姿はもう怪我の前と変わらない。
「それにしてもイフィーの回復力には驚きました」
イルトの心配も何処吹く風な少女にリュオが視線を向ける。
「自動での肉体の復元。高位魔術師にも中々出来ない芸当です」
「まぁ、魔術ではないのだがな」
「不死者(イモータル)系統の超常の力をお持ちですか?」
「そういうものに近くはある」
「チョウジョウの力?」
ピアリが首を傾げた。
「簡単に言うと通常の法則を超越する特別な力の事です」
「特別……」
よく想像出来ない様子でリュオの言葉をピアリが反芻する。
「色々在りますが、僕も軽いのを持ってますよ」
「へ? 師匠そんなの持ってたのか?!」
イルトの驚き様に苦笑しつつリュオが頷いた。
「ええ、魔術師は何かと超常の力と縁があるものですから。血統の収束で最強の個体を目指す魔術師は数多い。特異な魔力形質を求めて、あるいは魔術体系に不可欠な素養を超常の力として発現させる事もある。まぁ、僕の場合はそういうのとは違って偶然発現しただけのものなんですけどね」
「どんな能力なんだ!?」
師の隠された能力に対する好奇心。
イルトの瞳がキラキラと期待の色に染まる。
自分の事について言及せずに済んだイフィーが空気を呼んだリュオに感謝の視線を送った。
「単純なものですよ。では、イルト君。質問です。僕達は何処へ向っていると思いますか?」
師からの問いにイルトが首を傾げる。
「何処へって。師匠とイフィーが行く方向に、だろ?」
「僕達が目的地も無く彷徨っているとは考えられませんか?」
「そ、そうなのか!?」
「いえ、そんな事はありませんが、イフィーは僕に付いてきているだけです」
「じゃあ、師匠が目的地を知ってるって事じゃないのか?」
「いえいえ、僕は自分が何処に向ってるのかは知りません」
「ちょ!?」
笑顔で返された回答にイルトの顔が引き攣った。
「ですが、間違いなく僕達は目的地の近付いています。それは間違いありません」
「ど、どういう事なんだ?」
「つまり、それが僕の能力です。目的地までの勘が働く。その程度の能力ですよ」
「それって探索者にしたら喉から手が出る程欲しい力なんじゃ……」
「言っておきますが、イルト君が僕と同じ要領で力を使ったら即死ですからね」
「え゛」
師のにっこり笑顔から出た発言である。
さすがのイルトも固まった。
「この森をよく見てください。イルト君」
「……普通の森だな」
イフィーが思わず苦笑して、肩を竦める。
「な、何だよ。イフィー」
「イルト。底無しの沼地や毒草だらけの草地、樹木そのものが幾度も蠢く森が普通ならば、お前の目はまるで節穴だな」
「――――――?!」
リュオが眼鏡の蔓を押し上げる。
「正解です。イギルの森。僕達は上の部分をそう呼んでいるのだと思っていましたが、此処も森には違いない。確かに悪意が満ちた場所ですね」
ピアリとイルトをイフィーが交互に見やる。
「お前達が食べた茸(きのこ)や野苺もだが、たぶん強弱の違いこそあれ全部毒入りだったのだろう。一つ幸いな事があるとすれば、此処には毒性の蟲や動物がいないという事か」
「拾い食いダメ。絶対」
もう懲りたとばかりにイルトが拳を握って主張する。
「あ、イルトさん。今度はとってもおいしそうな木の実が……」
ふらりと一行から離れようとしたピアリを物凄い勢いで被害者1が止めた。
「悪意だけならいいが……問題は……この森の空間自体だな……」
「そうですね。泉の近くは安全でしたが、一端離れて見るとよく違いが解る」
「オ、オレにも解り易く話してくれると助かるんだけど」
さっぱり付いていけてないイルトにイフィーが説明を始める。
「天井を見てみろ」
「どうかしたのか? 月とか星は前に見たま―――ん?」
目が細められる。
「解るか?」
「オレ達、こんなに移動したっけ?」
イルトが天蓋の月と星。
偽の夜空に浮かぶ光の配置がかなり異なるのを確認した。
「天蓋蒼星(メイズ)は多かれ少なかれ独特の空間特性を持っているのだが、この地下階層は縮尺がおかしい」
「縮尺?」
「空間が曲がっているならば、我やリュオ先生にも感知可能だが……少し止まれ」
全員が立ち止まるとイフィーが転がっていた枝に魔術で仄かに輝かせ、遠方に投げた。
「?!」
その変化にイルトだけではなくピアリまで目を丸くする。
枝が遠方に投げられたかと思うと高速で遠ざかっていく。
「枝を魔術で高速移動させた、とかじゃないんだよな?」
「そうだ。この地下階層が天蓋蒼星内部に在るなら、常識的に考えて数万kmはあるはずだ。だが、我々が数時間で内部を歩き切ったのは間違いない」
「い、意味が分からないって!?」
「言っただろう? 縮尺がおかしいのだ。街の端から端まで歩いた距離が実は大陸の端から端までの距離と変わらないとしたら、たぶんこんな感じだろうな」
「つ、つまり、オレ達は数時間しか歩いてないのにめちゃくちゃ移動したのか?」
「そうなる。しかも、空間歪曲のような状況ではない。現実が捻じ曲がっていると言った方がいいな。我々が歩いた数時間分の距離が大体20km弱だとして、今いるのは天蓋蒼星の反対側くらいか」
「ぜ、全然理屈が理解出来ない……そ、それって概念魔術的なもんに近いのか?」
リュオがイフィーから説明を引き継ぐ。
「今ままで歩いてきた距離は物理的には宿屋街から宿屋街までくらいの距離。しかし、現実は超長距離を移動してしまっている。概念魔術は確かに一見して理不尽な現象を引き起こしますが、あくまで概念領域側の原理をこちらで魔力によって誇張するだけ。つまり、法則そのものが完全に書き換わるような事はない。魔術による法則制御や書き換え、編纂は可能ですが、それには境界を弄るだけの技能と智識と現象を維持する膨大な力がいる。此処にそんな反応は無いし、地脈や大源(マナ)系統の魔力濃度も普通です」
「つまり、未知の現象、なのか……」
「一概にそうとも言えないがな」
イフィーが掌を翳すと物凄い勢いで遥か見えなくなりそうだった枝が戻ってきて掌中に治まった。
「これは波動錬金学で言うところの“無辺”を弄る技術に近い」
「波動錬金学って、師匠にオレが教えてもらおうとしてたやつ?」
リュオがカチャリと眼鏡の蔓を押し上げた。
「波動錬金学は【魔導技術(ハイ・クラフト)】が進む前なら最新魔術理論の一大系でした。その中では神々の内包する真理を使用し、唯物論的に魔術形成する事が説かれていて。無辺世界、あるいは無辺法界と呼ばれるものを著しています」
「オレ、まだ絶叫樹(マンドラゴラ)くらいまでしか習ってないんだけど」
明らかに自分には過ぎた話になりそうな気配を感じて、イルトが最初に予防線を張った。
「七教会の最新技術と言えば解りますか?」
「おお、すげー身近!!」
やれやれと肩を竦めて。
極めて教師思考でリュオが額に手を当てた。
「近頃、総合魔導理論の学会で七聖女が実用化した【無辺空間制御(イメンサ・マンデータ)】の究明討論が行われました」
「いめんさ・まんでーた?」
鸚鵡(おうむ)返しのイルトにリュオが頷く。
「単純に言うと街の端から端までの距離がある棒を自分の衣嚢(ポケット)に入れる技術。あるいは大陸の端から端までを数時間で歩く技術。そういうものの討論をしたんですよ。今の魔術師。いえ、魔導師のお偉方が」
「魔術師なら出来ると思うけど、七聖女のって事は……それよりすげー事なんだよな?」
「ええ、法則制御や概念魔術とはまったく違う何か。特異な魔力形質や超常の力を用いた技能とも違う。完全に別系統として確立された技術です」
「ごめん。オレ、今言われたやつのどれか以外とか思い浮かばない。師匠」
「僕もですよ。でも、結果としてお偉方は結論を出しました。大陸で千人も残っていない大魔術師達が口を揃えて言うには七聖女が確立したのは“無辺”……つまり、次元を零にする技術じゃないのかとね」
「次元を零にする?」
「一つの点は一次元。二つの点を結んで線にすれば二次元。点三つを結べば三次元。そして、時間を足して四次元。更に魔術師は基本的に更なる高み。五次元や六次元以上の世界を観測して、其処から下位次元の法則を弄る事で万能に近くなっていく。我々がいるのは三次元。いえ、時間軸を足した“四次元以内”というのが定説ですが、此処で聖女は上を目指さず、下を目指した」
「何かもう頭痛くなってきたんだけど」
まぁまぁと宥め透かし、リュオが嬉々とした顔でイルトに教育者の笑顔で詰め寄った。
「此処からが為になる話ですから。聞いて下さい。いいですね?」
「は、はい……」
リュオの笑みに押されてイルトが頷く。
「こほん。つまり、七聖女が生み出したのは我々が暮らす宇宙が出来る前の状態を生み出す技術なのではないかと彼らは言ったんです」
「宇宙が、出来る前……」
「次元が零であった頃。つまり、質量も波動も空間も存在しない世界。宇宙の外側。外なる神々。これらが住まう外世界環境の構築技術。それを応用した距離という概念の喪失現象。まとめた概論で暫定的に推測された方程式が発表されましたが、大魔術師の更に上澄み、頂点辺りしか理屈は解らなかったようです」
「師匠にも解らなかったのか?」
「ええ、半分呼んで投げました。四百万行程の方程式なんですが、ちょっと時間渡航のやつより難しかったので」
「時間渡航って。そんなレベルより上の時点でオレにはもう何が何だか解らない」
「ま、結局のところ。その技術を使えば、あらゆる物質や波動を無限に内包する空間が生み出せるんです。同時に距離を喪失する零次元化の副次干渉効果で光の速さ以上での移動をも魔術無く実現する。これが示すところは君に説明する必要ありませんよね?」
「あ、ああ、それくらいならどうなるかは解るさ。あれ、だろ? 物流や移動手段が発達するって事はつまり社会の形態が根本から変わるって事だ」
「その通り。ですが、今のところ【無辺空間制御(イメンサ・マンデータ)】を実用化した例は三つだけ。一つは高格外套の最新型に搭載された【賢者の釜】。二つ目は【外宇宙航行艦(スペティウム・アパラトゥス)】の移動装置。それから超大質量建造体の自重崩壊を防ぐ自壊防止装置。これだけです。七聖女個人はこれを専ら移動するのに使っているそうですが、生身で零次化する非・領域下環境を渡るという時点で何か人間止めてる気がしますよね」
「……いや、うん。ごめん。オレ、もう少し真面目に勉強する。師匠」
全てを理解出来ず。
知恵熱寸前のイルトがガックリ項垂れ。
それを難なく理解したイフィーは七聖女という単語に顔を顰め。
一番そんな話に向いてなさそうなピアリに到っては立ったまま寝ていた。
「はは、僕も熱が入り過ぎたようです。という事で結局のところ、この空間は次元下降現象にも似た状態にあるという事を言いたかっただけなんですよ」
リュオが肌をツヤツヤさせながら、教師的感情を満足させた様子で「ふぅ~」っと汗を拭った。
「では、往こうか」
「おうとも!」
ダメな生徒筆頭である自分の散々な学力に対する劣等感から立ち直ったイルトが頷く。
「逸れるな。イルト。ピアリ。今のを聞けば解る通り、一度離れたら、探すのは至難だ」
数万km以上の距離を“渡ってしまう”現状。
逸れたら次に会えるのは何時になるか解らない。
というか、合流出来ない可能性の方が高い。
「ふぁ……お話終わりましたか?」
ピアリが伸びをすると目を瞬かせた。
「目的地が近くなってきたら、再び宿屋を密碑で出そう。その後は周囲を警戒しつつ、休息だ」
「あ、ピアリ。今度は可愛い宿屋さんがいいです♪」
「可愛いとはどんなのだ?」
心底天然少女の頭の中が解らず。
イフィーは苦笑しつつ、歩き出した。
*
第一層【夜の帳】の下層域。
呑み込んだ者の時間感覚と距離感を狂わせる魔の森は限りなく続く。
それというのもその性質が悪意と言うべきものを内包しているからだ。
常人には視認すら難しい世界。
イルト達が気付いたように数万kmもの距離を“移動してしまう”不便さ。
これで目的地に付こうというのは七教会の階層突破部隊でも中々にして難しい。
上層域の入り口であるイギルの森以外にも下層域への侵入ルートはあるが、入ったら二度と出られない可能性もある場所を七教会が【星潜者(アイム)】達に進めるわけもなく。
結局のところ。
何があるか分からない夜の世界へ足を踏み入れる者は稀だ。
だからこそ、資源は豊富。
だからこそ、見付かっていない剣獣(ソーディアス)から密碑(キャラクト)を奪える。
と、考える者もいる。
第一層からして実は既に上級者向け。
そういう性質を知っている者からすれば、下層域は手付かずの狩場なのだ。
故に集る者達は少数精鋭な変人が多い。
発見の極端に少ない階層を地道にマッピングする者がいる。
様々な毒を持つ植物達から稀少な霊薬を精製する者もいる。
他には一層であるにも関わらず妙に強い剣獣(ソーディアス)相手に鍛錬する者すらある。
第二層へと抜ける下層域の出入り口を見付けよう。
という、開拓精神旺盛な探索者は殆ど皆無だ。
なので、人と滅多に出会わない場所として隠遁する者。
何かを隠す為に来る者も在る。
「ひぎゃぁああああああああああああああああ」
頭の禿げた豹っぽい獣人(ベスティア)が悲鳴を上げながら疾走していく。
第一層でギルドを襲った二回目の強盗である。
逃げ足だけは速い彼が鼻水と涙塗れで逃げろや逃げろと走っているのは一重に追い掛けてくる者があるからだ。
それは公権力の類ではない。
純粋に街も野営地も皆無に等しい下層域を跋扈する剣獣(ソーディアス)。
その中でもかなり珍しいものが彼を追い立てていた。
七色に近いカラフルな剣。
浮遊するソレ。
現在七教会が階層突破部隊を送る第五層にも稀にしか現われない種類。
俗に【虹剣(イリス)】と呼ばれる稀少種だった。
戦闘能力はかなり高く。
というか、全力の高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)を薙ぎ倒すような怪物である。
具体的な能力(スペック)だけを抽出するなら、硬度は七教会が扱う特殊合金以上、総質量443トン、復元能力完備、切れ味は高格外套の複合装甲をバターのようにサックリ、ついでに200種類以上の魔力形質を全て無効化するという鉄壁さ。
つまり、大概にして現天蓋蒼星内で倒せる実力者は十人に満たない。
「このマルート様が何したってんだよぉおおおおおおおおお?!!」
ちんけな強盗に抗する術無し。
逃げるが勝ち。
普通の剣獣(ソーディアス)にすら及び腰である如何にもな悪人面の獣人は基本的に武器が効かない相手には頭を下げるか尻を見せて逃げるのが相場だ。
しかし、執拗に追ってくる虹剣を彼は自慢の逃げ足でも振り切れていなかった。
今年で六十四歳。
頭は禿げたし、身体はダルダル、健脚も過去の若い頃に比べれば相当落ちた。
体脂肪は気になるし、医者にはお大事にと言われてしまう。
そんな彼の名はマルート・マルと言う。
(くっそ、息が切れてきやがった……)
ゼヒゼヒと気管支が焼けるように熱くなっている事を自覚して。
マルートが褐色の外套を脱ぎ捨てた。
少しでも死重量(デッド・ウェイト)を減らそうという涙ぐましい努力である。
するとキラリと彼の手にあるものが光る。
(逃げた先はお先真っ暗。見つけて拾った鉱石は仕掛罠(ブービー・トラップ)ときたもんだ。くっそ!? 手放すか? 手放したら追って来ないか? いや、こりゃ最後だ……)
七教会の捜索部隊から逃れてノースポール・アガスタに点在する傷病者達の療養地域に隠れ潜んでいたマルートが下層域に来たのは偶然だ。
逃げ込んだ先の病院で隠れながら病院食をくすね何とか餓えを凌いでいた彼は裏手の林に潜伏していた。
そして、知らずに何も無い虚空を踏み抜いたのだ。
たぶん、七教会や病院関係者も知らなかっただろう落とし穴。
背筋を凍らせて落下した先は闇の中で果ても無い巨木ばかりの世界。
上に昇ろうにも穴は遠過ぎて。
結局、階層を降る事になった彼はその先で妙に明るい場所へと出た。
下層域を照らす星と月。
その実態に触れたのだ。
キラキラと輝く鉱石が張り付いた岩盤。
それを裏側の坑道らしき場所から見つけた彼は落ちていた鉱石の欠片を手にした。
手にしてしまった。
虹剣が現われたのは直後だ。
まるで、侵入者を排除するとでも言いたげに彼は追われ始めた。
洞窟らしき岩盤を抜ければ、巨大な黒い樹木が地上まで延びていて。
横穴からは水音。
天の助けとばかりに飛び込めば、激流に流され、もみくちゃである。
洗濯された襤褸布みたいになりながらも何とか下層域に流れ着いて。
そして、何処までも追ってくる虹剣が背後にいた。
逃げないわけが無い。
しかし、そんな逃亡劇も六十四歳、職業、強盗には荷が重かった。
どんなに逃げても引き離せない相手は疲れた様子も無い。
となれば、全ては時間の問題だったのだ。
「も、走れ……ねぇ……ッ」
一際大きな巨木の前でついにマルートは力尽きた。
息を整える間にも彼から10m程離れた場所に虹剣が浮遊して止まる。
「ほ、ら、よ!!」
鉱石を投げ付けたものの。
カツンと虹剣に当たって落ちたソレには見向きもせず。
ゆっくりと七色の輝きがマルートに剣先を向けた。
「クッソッ!!!」
悪人だって命は惜しい。
ガタガタと疲れとは別の感情が肉体を震わせる。
もう老年とも言える男には新鮮だった。
まだこんなにも生汚い自分というものが。
かれこれ十代の頃から強盗一筋生きてきたマルートだったが、死にそうな事は何度もあった。
体制が崩壊した国では難民に殺されかけたし、腐った貴族に珍しい種族だと狩猟相手にされた事もあった。
銀行警邏の兵に殺されかけた事もあるし、戦争に伝令兵として借り出された事もある。
「ろくな死に方しねぇや。けっ」
開き直ってみても様子が変わらない虹剣が奔った。
何とか僅かな休息で力を蓄えた肢が再び大地を蹴ろうとして。
「大丈夫ですか」
ガキンッ。
虹剣が、中程から真っ二つに断ち割れた。
急激に色が失せて崩れていく化け物剣獣が輝きを発して、消え失せたと同時に地面へポトリと密碑が落ちる。
唖然とするマルートの前で投げ付けられた鉱石と密碑が拾い上げられた。
「へぇ、綺麗じゃない」
「さすが、英雄殿」
「お、女?」
女が二人。
しかも、綺麗どころで若いとくれば、悪人の顔もニヤけようというものだが、マルートの視線は自分を救った剣の主に注がれていた。
「怪我はありませんか?」
「か、兜!?」
獣人も驚く剣の主は兜姿の男だった。
それも顔まで完全に隠すフルフェイス仕様である。
マルートが思わず冷や汗を掻いたのは顔にある穴が七つも開いていたからだ。
眼球周辺に三つずつ。
更に額に一つ。
黒い穴が開いている。
内部を見通せないのは場所が夜だからではない。
何らかの魔術で覆っているからだ。
「ああ、すみません。怖がらせてしまったようで」
「い、いや……」
兜の男は純然たる旅装束姿だった。
しかし、それよりも気になるのは背中を覆う白い外套(マント)だろう。
現代では珍しいどころの話ではない。
大陸片田舎の貴族すら人前では使用しないだろう儀礼用のものである。
マルートが若い頃なら憧れたであろう騎士の正装。
白が意味するのは潔白と正義。
自分が正しいという傲慢が服になれば、ソレ以外にない。
そんなものを堂々と着こなして人助けするというのだから、マルートには冗談の類にしか見えなかった。
「あ、あんた騎士か?」
「元傭兵で今は貴方と同じ。此処を攻略する者です」
手を取って立ち上がったマルートは相手が益々分からなくなった。
声が若過ぎたのだ。
それが傭兵を名乗る。
それも騎士の姿で。
鋼の軽装鎧(ハーフプレート)。
黒い皮製の旅装束。
どれをとっても若さとは結び付かない。
虹剣を貴族のボンボンが倒せる程度の相手だったと思う程、マルートは世間知らずではない。
少なくとも死の実感は彼に現状を冷静に把握させていた。
「あ、ありがとう、よ……」
「いえ、こういうのはお互い様ですから」
淡々と言った兜の男に思わずマルートは聞いていた。
「な、名前は何てんだ!!」
もう興味もないのか。
淡々と兜の男と二人の女が彼に背中を向けて歩き去っていく。
「マウロ。マウロ・フレステントです」
獣人は思う。
命拾いした。
だが、これ以上此処を一人で進むのはヤバイ。
「ま、待ってくれ。待ってくれよぉ!?」
とある三人のパーティーに一人の獣人が加わった瞬間だった。
変人くらいしかいない下層域で必死の声が木霊する。
新しい出会いは唐突に。
しかし、これ以上ないタイミングでマルート・マルに訪れたのだ。