第二十一節「試練」
燦々と降り注ぐ陽光と何処までも蒼い海。
プランクトンの類が無いせいで透明度だけは無駄に高い海水は水平線までも透明にしてしまったように全ての光景が絵画の一枚とも見える。
その最中。
彼らの前に女は現れた。
東部風の顔立ちをした切れ長の瞳の美女。
月下美人の異名を取る七聖女。
ユアン・クオ。
その贋物が。
「これでしばらくは話していられそうだな」
まるで他人事のように守護者は肩を竦めた。
浜辺にいるパーティーの面々は大仕事だった密碑集めの事を思い出してゲンナリしている。
とにかく聖女を話が出来るだけの時間顕現させる為、前日を丸々無人島の中央にある台地で過ごしたのだ。
一度、密碑で呼び出した聖女に剣獣を大量に呼び出す方法は無いかと訊ね。
以降、特定の密碑を台地の内部で組み合わせて、数十体の敵を呼び出し倒すという事を延々と繰り返していた。
そうして稼いだ密碑の量は正に彼らの背丈程もある。
たった一日とはいえ、彼らがぶっ通しで倒し続けた剣獣の数は千では利かないだろう。
「では、お前達に問おう。お前達にとっての強さとは何だ?」
偽聖女の声に全員が思わず目を瞬かせた。
「それが試練か?」
イフィーの声に彼女は頷く。
「ああ、単純にして純粋な興味であり、試練だ。無論、正答無き問いであると承知している」
軽く言われて。
チョイチョイとイルトが灰金の髪の少女の耳元に囁く。
「なぁ、これってどう答えてもいいって事、なのか?」
「まぁ、額面通りに受け取れば、そうなるな」
「これは難問ですね」
リュオが僅かに顎に手を当てて考え込む。
「どういう事だよ? 師匠」
弟子の問いに彼が肩を竦める。
「彼女は別に答えたからと言って、何をするとは明言していません。また、その答えによって何が起るのかも話していない。つまり……」
「つまり?」
師は弟子にポリポリ頬を掻きながら伝えた。
「答え如何によってはこの場でリタイアさせられる可能性があります」
「本当(マジ)かよ」
「ええ、それも最悪なのは彼女が七聖女の中でも特に我々のような者に対しては最悪に近い相性だと言う事でしょうか」
「相性が悪いって。錬金術師とか?」
「いいえ、七教会は公式に聖女間の序列などはまったく公表していませんが、得意な分野というか。彼女達の特技に関しては公式のアナウンスを出している。その情報に拠れば、対人戦、対個人戦における最強は彼女ユアン・クオという事になっている。総合的に見れば、彼女よりも強い他の聖女達にしても、何かしらの広報などでの対談を見るとユアンと自分どっちが強いかと訊かれて、必ずユアンとだけは喧嘩しない云々と言っている」
「つまり?」
「僕達じゃ絶対に勝てません。それは聖女全員に対して言えますが、出し抜く方法くらいは考えられる。でも、彼女の場合対策のしようが無いんですよ。その特技がただの剣術である以上」
「剣術って、それがどうして対策のしようが無いんだ? 普通、逆じゃないか?」
イルトの暢気な声にイフィーが溜息を吐いた。
「本当に残念な頭をしているな。イルト」
「何か、物凄く馬鹿にされたオレ?!」
「ああ、馬鹿にしたぞ。今、物凄く馬鹿な発言をしたからな」
「ど、どこら辺が?」
「まず、剣術に対策出来ると言ったが、お前は大陸、酷界、天界、人類有史以来、たぶん後にも先にも存在しない真に無双なる刀師(とうし)に対策など通じると思うか?」
「対策が、通じない?」
「ああ、言っておくが、刃術を使う者として現在敵う者は誰もいない。中央では世界最強とか広報が誤魔化しているが、事実として人間にも魔族にも異種にも亜人にも人外にも超越者にも神格にも誰一人刃を用いて勝つ事が出来る者は存在しなかった。それがそこの女だ」
少女の言い分に偽ユアンが苦笑した。
「酷い言われ様だな」
「事実だろうに。刀、剣、刃を司る神々が自分すら敵わないと言い切った手並み。個人対個人のような戦い方以外か、純然たる戦闘力の大きな差でしか倒せない相手となれば、厄介極まりない。七聖女達の中で魔術と奇蹟を使わずに超高位魔族を覆滅出来るのはフルー・バレッサと貴女だけだ」
それまでの説明を聞いていたイルトがタラタラと額に汗を浮かべた。
「え、え~っと。オレ達、結構崖っぷちだったり」
「最初からそう言っているつもりなのだがな。我は……」
イフィーがやれやれと首を横に振った。
「ピアリはどう思……寝てるか。そりゃそうだよな。ピアリだもんな」
「………ハッ!? 今、何か物凄く失礼な事を呟かれたような?!!」
砂浜で心地良く難しい話を横に眠りこけていた桃色髪の少女が目を覚ます。
「とにかく、です。答えは慎重に選ばなければ。この場で戦闘となった場合、全滅する可能性があります」
「ちなみのそこの子。お前にとって強さとは何だ?」
ユアンが何気なく訊いた。
「強さ? んーと。イルトさんやイフィーさんや先生の事です」
「あ、馬鹿!?」
思わずピアリの口を手で押さえようとしたイルトだったが、何時の間にかピアリの前に移動していた偽ユアンに手をそっと掴んで止められる。
「ピアリは強くないから、強さが何かは分かりません。でも、皆さんを見ているとそれが強いって事なんだと思えるんです。ですから、ピアリにとっての強さは皆さんなんです」
にっこり笑顔で答えた少女に僅か笑みを零して、第二層の守護者はそっとその頭を撫でた。
「そうか。正直でいい。それがお前の強さか」
イルトの手を離して、ユアンは後ろの三人を振り返る。
「お前達にとっての強さとは何だ? この子のようにただ自らの心に偽り無く言ってみろ」
三人が思わず顔を見合わせたものの。
リュオが何かを決心した様子で最初に進み出た。
「私にとっての強さとは望みを叶える為の力です」
「願いの為の力だと?」
その問いにリュオが頷く。
「手段であり、決断。強くなければ、辿り着けない場所に私の望みは在る」
「……そうか。その強さを手段と断じ、捨て去る事すら出来る思い。それもまた確かに強さの形だろう」
ユアンが頷いた。
次は自分だと今度はイフィーが進み出る。
「お前にとっての強さとは何か尋ねよう。イフィ……今はイフィー・ファサルトスだったか」
「我にとっての強さとは……お前達七聖女を倒し、あいつを救い守る事の出来る力だ」
「ふ、勇ましい事だな。だが、今のままではそれも単なる夢想にしか過ぎないのではないか?」
「ああ、そうだろうな。この五年で幾ら追いつこうとしても、届かない壁ばかり見てきた。我は弱い。だが、だからこそ、強くありたいと願う。その願いが、想いが、行動が、我を確かに強くする。せいぜい奢って待っていろ。必ず、我はお前達が間違っていると証明しよう」
「その決意表明、受け取った。お前が確かにそう在り続けるなら、本当の私も決してお前を侮る事は無いだろう。強くありたいと願い続ける限り、お前は聖女にすら届く可能性を秘めていると認めよう」
クルリと最後にユアンはイルトを見つめる。
「君で最後だ。君にとって強さとは何だ? 少年」
「オレ、オレは……オレのとっての強さ……」
逡巡するイルトを静かな瞳でユアンが待つ。
「オレは……オレにとっての強さは……もう、幸せを失わない為の力だ」
「失いたくないものがあるのか?」
「……そうだ。オレは一度大切なものを失った……何も出来ずにただ結果を受け入れる事しか出来る事が無かった。でも、今度は嫌なんだ。ただ受け入れるだけなんて。だから、抗うだけの、失わなくて済むだけの、結果を変えてしまえるくらいの力が欲しい。もう二度と何も出来ずにいる自分ではいたくない」
「君は知っているようだ。私も知っている。それの名は抵抗だ。運命に抗う意思……それを持ち付けるならば、自らをただ鍛えろ。力の事だけではない。人は人との繋がりの中で沢山のものを得られる。それこそがやがては我が身を鍛え上げる槌となるはずだ」
全員分の答えを聞き終わった女が少しだけ歩き、四人から遠ざかり振り返る。
「では、これより試練の最後の内容を伝える。あの台地の中心で待っている。そこで一度だけ私の太刀を受けろ。どんな方法でも構わない。もし、受け切って生き残る事が出来たなら、第三層への道を開こう。もう顕現に密碑は必要無い。何日でも何十日でもいい。十分に時間を掛けて準備する事だ。では」
涼やかな風でも纏うように聖女の背中が密林の中に消えていく。
それを見送って。
ピアリ以外の全員が緊張の解けた溜息を吐く。
「ドッと疲れた気がするぜ……」
「そうですね。今回ばかりはイルト君と同じ意見です」
「あの場で戦いに為らず済んだ事を今は素直に喜ぼう。と言う事で次の難関が待っているわけだが、一応対応策は考えてみるべきだな。無策で突っ込んで死ぬわけにもいかない」
「縁起の悪い事言うなよ。イフィー」
現実としてどうにかなりそうには思えない話を聞かされた手前。
イルトの顔色は良くない。
「まぁ、我とていつかは聖女を打倒しようとする身だ。幾つか手札が無いわけでもないのだが、やはりそれだけでは心元無いな。リュオ先生」
「何でしょうか?」
「これから我々の装備を造りたい。前に行った大きな街で幾らかはモノを仕入れてきた。幸いにいして密碑はかなりの蓄えがあるし、触媒には困らないはずだ。武具や防具の類の錬成経験は?」
「それなら、延々と脱出出来ないダンジョンで毎日やってましたよ。今では懐かしい思い出です。ですが、聖女相手となるとどれだけ高度なものを創っても無駄なのでは?」
「そうだな。一理在る。だが、あの女は一太刀と言った。その一度を凌ぐ為に限定すれば、名案も浮かぶかもしれない。まずは合金の錬成から始めよう。その後に使い道を決めればいい。準備は一時間も有ればいいだろう」
「分かりました。では、さっそく始めましょう」
二人がポンポン話し合いでこれからの事を決めていくのを見て、イルトが手を上げた。
「師匠!! オレにも何か手伝わせてくれよ」
「そうですね。君には下準備の手伝いをお願いします」
それを見て今度はピアリが手を上げる。
「先生!! ピアリにも何かお仕事を下さい!!」
「では、ピアリ君にはイルト君の手伝いを」
「はい!!」
リュオの言葉に少女はイルトさんと一緒♪と楽しげに少年の傍に寄っていった。
「それでどんな合金を作るのかはもう?」
「ああ、それなら決めてある。前々から七聖女の倉庫を漁っていたのでな。二年前の七教会が次世代高格外套の資材として選定していたものを持ってきた。コレだ」
リュオの手にイフィーが何処からか取り出した光沢の無い鈍い色の鋼の塊を渡す。
「それはまた機密に該当しそうな代物ですね。ふむふむ。これは……」
何かに気付いた様子でリュオが眼鏡の蔓を押し上げた。
「現在、配備寸前となっているブラッシュアップした戦闘用の方に使われているらしい。一部はもう部隊に配属されているとか。ちなみに合金の組成はこれだ」
魔術で虚空に何やら難しそうな数式が連ねられていく。
「……ああ、コレですか。七教会もまたこういうのが好きですね。ええ、本当に……」
「?」
一目見たリュオの反応に少女は首を傾げる。
「済みません。一人で納得してしまって。コレ、元々どういう場所にあるか知ってますか?」
「新たに七聖女が合成したのではないのか?」
「いいえ、昔からありましたよ。と、言っても一部の伝説にしか登場しませんが」
「何かしらの武具として存在していたと?」
「ええ、随分と色々な遺跡で見ました。殆どは欠片くらいでしたが」
「欠ける程度の品だったのか?」
「いや、使用対象を考えれば、欠けた程度なのが驚異的と言うべきでしょう」
「使用対象……」
「コレは所謂、大陸で最も有名な“伝説の武器”の主要材質です。西方では未だにコレを鍛造出来る職人がいると言われていますが、七教会はどうやら量産する気らしい」
「最も有名な……?」
「イルト君」
「おう。いつでもいいぜ!!」
準備はバッチリだとばかりにイルトが試験管やらフラスコやらを大量にいつもの外套の中から取り出していた。
「この世界で一番有名な伝説の武器と言えば?」
「有名な武器? それって、あれだよな。歴代の魔王を何回か倒した剣だよな」
「―――そういうことか」
イフィーが思わず瞳を細めて、鋼の塊を見やった。
「ですが、確か七教会の次世代型は別の惑星の元素を使うとか何とか聞いたような気がするんですが」
「ああ、それは戦闘用ではない。あくまで警備用装備の方だ」
「警備用って、アレでですか? 七教会の情報は結構追っていたので案外詳しいんですが、確か地方都市一つくらいなら軽く制圧出来て、大魔術を苦も無く発動。ついでに高速転移が可能となった為、三次元戦闘に革新が起きる云々。諸々、最初にカタログスペックを見た時、ついに此処まで来たかって感じだったんですが」
「全部事実だが、アレは魔力容量が低い。あくまでどんな敵が戦いを仕掛けてきても一体で都市一つを守るくらいの性能でしかない」
「くらい、ですか?」
リュオにイフィーが頷く。
「この間、仕入れた情報によるとブラッシュアップした従来高格外套のグレードアップ版は性能が数十倍だそうだ」
「数十倍……マイナーチェンジでも確か数倍くらいのは在ったはずですが……」
「ちなみに全ての性能において、という但し書きが付く」
「―――七教会らしいとしか。魔力容量だけで高位魔族を凌ぐんじゃないですか?」
「確実にそうだろうな。それを使いこなすのは百戦錬磨の兵に超越者で構成される【騎師団(ミリシェ)】となれば、大抵の敵は片付くだろう」
「何と言うか。凄まじいですね」
「とにかく。その装甲の未加工状態の塊だ。これを錬金術で錬成する事は可能か? 一応、こちらでも原料の当りは付けたが」
「見た限り、可能でしょう。特殊な加工を施す前の状態というのが分かれば、やりようはあります。では、触媒の方から始めましょう。イルト君。今から書き出す触媒を密碑で必要分精製して下さい」
「了解!!」
さっそく浜辺でイルトが大量の触媒を出す為に砂鉄を錬成して巨大な器を生み出していく。
ピアリがそれに混ぜろと騒ぎ出したものの。
お前のは毒があるだろと拒絶した少年は密碑の仕分けを頼んで、複数の壷を焼結させる作業へと入った。
「あちらは任せておいて問題ないでしょう。となると問題は火ですが」
「それなら、もう買ってある。丁度良いものが手に入った。ついでに灰もあるぞ」
「実は前から武具を創ろうと思ってましたか?」
準備の良過ぎる少女に訪ねた青年に頷きが返る。
「まぁ、な。本来はイルトに何か造ってやろうと思っていたのだが、思わぬところで役に立った」
「……ありがとうごいざいます」
「仲間の身を守るものを揃えようというのだ。これくらい普通だろう」
リュオがその言葉に苦笑して、少女の善性に内心で感謝を捧げた。
「では、さっそくですが、合金の元材を見せてもらえますか?」
「ああ、今出す」
そうして彼らの命を託す為の力の創造が始まった。
いつまでも翳らない陽射しの降り注ぐ浜辺で。
*
―――???
ピヨピヨと雛鳥達が明け方の日差しに鳴く頃。
密林に聳える巨木の一つの上で。
彼女は一人目を覚ました。
「ん……?」
いつもなら、きっと昼過ぎまで寝ていたいと駄々を捏ねるのが普通なのだが、今日は違う。
それがどうしてなのか。
それは身体が知っていた。
薄い胸板に寄り添うようにフワフワとした天然の羽毛の寝台に眠った彼。
その寝顔を見て、また一眠りする時の至福。
正しく二度寝が気持ちいいからである。
シンア。
黒髪で中肉中背の男とも女とも見える不思議な彼。
彼女にとって、自分の片割れと同じ。
家族にして半身のような存在。
一番最初の小さな頃の記憶は誰かの腕に抱かれていた時。
少し肌寒い地方だったのか。
染みるような冷たさを自分達を抱く温もりを確かに感じていた。
姉妹たる自分の妹。
いや、妹は姉だと言い張るけれども。
それと視線を合わせて、一緒に上を覗き込めば。
歩く彼の横顔があった。
衣服と毛布に包んだ子供を二人も抱えて。
両手が塞がるのも構わず。
自分達に微笑んだ人。
カシャカシャと腹から音を鳴らせながら。
今ならば分かる……複数の剣に貫かれていながら、彼女達の親、父、兄、保護者……家族としか形容出来ない少年は歩いていたのだ。
一刻も早く彼女達が凍えなくて良い場所まで、隠れながら、傷付きながら、移動していた。
幾夜を超えて。
今、歳も変わらぬ少年の傍で身を寄り添わせて眠る。
過去の夢の中ではいつも笑っていた顔ばかり。
自分達が普通の家族とは違うと思ったのはきっと小さい頃。
一晩の宿を民家に求めた時だろう。
古びれた石造りの家の中。
父親と母親と一人娘の家族が迎え入れてくれた。
少年はいつものように『両親を無くした兄姉妹(きょうだい)で旅をしている』という嘘を吐いた。
年頃が同じくらいだった一人娘と彼女達はお喋りをしたが、分かったのは二つだけ。
自分達がまったく違う世界に生きていて、どちらも幸せだという事だけだった。
毎日、水を汲みに隣村の井戸まで母親と一緒に行く幸せを相手が語れば、彼女の片割れは家族と一緒に湯で麦を食べる幸せを聞かせた。
旅は危ない事ばかりで少年が守ってくれるのだと言えば、父親は強くて森の獣から守ってくれるのだと相手は返した。
けれども、彼女達姉妹は母親というものを知らなかったから、その話だけは返すだけの物語が無くて。
幼いなりに母親とはそんなにいいものなのだろうかと思ったのだ。
いつも優しく抱き締めてくれる。
いつも頭を撫でてくれる。
何処からか手に入れてきた吟遊詩人の傑作集を夜に読み聞かせては明日の夜にと一緒の毛布で眠ってくれる。
昔はオシメだった取り替えたし、用の足し方だって教えていた。
身体の洗い方から靴の履き方まで。
何だって全部教えてくれるのは少年だった。
時間が経ってからは自分で必要な事を覚えたいからと教えられるのではなく。
教えて欲しいと請うようになったけれど、彼女達にとって母親がするべき事をしてくれたのは少年に違いなかったのだ。
街や村の宿に止まる事はあまり無い事だったけれども、どんなに気持ち良さそうな寝台でも少年の傍に寄り添って眠る以上の心地良さではなくて。
だから、お母さんが大好きと笑う女の子を前にしても、彼女は、彼女達は何一つ、本当に何一つとして劣っていると思う事もなく。
シンアが大好きと返せた。
今着ている物、履いている下穿き、付けている装飾、何もかもが少年のお手製。
大きくなるにつれて、それが外見こそ普通に見えるけれども、実は凄く高価な素材を使っていたのだと彼女達にも分かってきた。
様々な異種や魔獣、神獣の類の一部。
魔術師が使っていてもおかしくないような錬金の精粋。
旅の目的地の大半が実は自分達に使わせるものを手に入れる為のものだったのだと知ったのはつい近頃の事だ。
色々な土地の気候風土、慣習因習、無数の知識を授けながら、一人でも出来るように、生きていけるように、そうどんな事を聞いても答えて、教えてくれた。
それが実は大陸中央諸国と呼ばれるようになっていた当時の最先端の教育現場にすら無いような……真に高度な叡智と知恵だった事は……物心付いて、大陸中央の本を読むようになってから分かった事だ。
世界中の大半の子供はきっと自分達よりも沢山の事を、色々な場所の事も、素晴らしい景色や人々の事も知らない。
恵まれているのだと。
自分達の家で毎日、日常を一生懸命に生きている殆どの人とは違うとしても、自分達は少年のおかげで良い日々を送っているのだと。
その頃には彼女も妹も分かっていた。
「………ん」
胸に顔を寄せて。
離さないように両手で服の端を掴んで。
小さな小さな幸せの中で彼女は眠る。
今日という日がいつまでも続きますように。
そう誰にでもなく祈りながら。
その時はきっと、どんなに世界が残酷で陰惨で理不尽ばかりが蔓延っているのかなんて……彼女は、彼女達は一つも知りはしなかったのだ。
夢のような世界の階で夢のような日々を過ごしながら、世界に溢れた哀しみも真実も彼女達には関係なかった。
毎日、毎日、少年が彼女達の眠った後に誰かと追ってくる何かや誰かと戦い退け続け。
見るだけで気が狂うだろう凄惨な戦乱の跡を通らぬよう気を付けていた事等、知る由も無かったのだ。
それは幸せな夢だった。
きっと、どんな時代のどんな子供が夢見ても為し得ない……たった二人の家族の為の……優しさと労わりと慈しみが篭った……儚くて、切なくて、幸せな……そんな起きてみる夢だったのだ。
――――――。
メルフ・グラネッタ。
ミュルト・ジオバトス。
たった二人の姉妹。
でも、今は一人だけの彼女は温もりも消えた簡易の寝台の上で。
一筋、涙を零した。
目も開けず。
陽光の中に今日を見つめながら「ああ」と思う。
返されたモノ。
それは今も、いや……失っていてすら、彼女を守ってくれていたのだと。
午睡みの中。
沈んでいく彼女が最後に掴んだのは間違いなく。
もう戻らない日の追憶。
彼女が世界に踏み出す前の大切な思い出だった。