第一章二十七節「魔王」
恐ろしきもの。
悍しきもの。
歪めしもの。
輝きしもの。
暗きもの。
深きもの。
神々しきもの。
混沌たるもの。
少年。
シンア・ザクリティカルアンラッカー。
ティア。
因痕の王。
不滅の化身。
―――あるいは乂羅に一度とて現われなかった災厄。
怖いと神門たる男は感じなかった。
僧侶の恰好をした全てが透明な男。
人の形を保ちながらも、神門となった永き時間の中、細胞の頚城を解き放たれた身体。
考える力そのもの。
あるいは神。
男の本質を知る者はそう呼ぶ事もあるだろう。
そして、それは実際に正しい。
人の身にて祀り上げられ、昇華されていった存在。
並みの高位の魔族では歯も立たない。
大陸極東の莫大な天地万象を司り、力を蓄え続けていたのだ。
二百余年浴した地脈や天脈と呼ばれる世界の流れに同化しつつある男は小さな世界の王に足る。
人々の意識における集合無意識、魂の流れすら男の手の内。
乂羅にある事象ならば、国を大結界と化し隔絶する事で万難を排し、旧き神々すらも退けるだろう。
極東の現人神(あらひとがみ)とは男の事である。
だから、男は決して少年を怖いとは思わなかった。
魔王。
それがどれだけ理不尽であるか知りながらも臆する事はなかった。
少年は何も言わずに戦いを始めた。
男もまた同じように戦いを始めた。
互いに超越者の身。
理解の速度は人間を越えている。
何の為に戦うのか。
誰の為に戦うのか。
その背景。
その因果。
語る事はあまり無かった。
だから、軽い挨拶をして結果だけを二人は求めたのだ。
禁山の麓。
新たな神門の誕生に関わった者達。
天御門と土御門。
その当主達は家の実力者達と共に大々的な発表の為に動いていたが、誰一人としてその異変に気付く者はいなかった。
「――――――」
一撃。
それは天から降り来る。
雨の形をした刃。
遥かな天の恵みは神門の掌から落ちる雫。
全てを原初に戻す万物流転の理を体現して。
触れたものを天地へと溶かす陰陽の秘儀は魂すらも還す。
まずは頭から。
触れた部分が腐り落ちていく。
腕、胴体、腹、腰、太腿、次々に、次々に。
超常である事にも二種類の原理がある。
男は自然というものが生み出した怪物。
少年は不自然というものが生み出した化物。
男にとっての陰陽とはこの世にある万物の流れの活用に他ならない。
智識。
あらゆる自然法則を手の内にした男の攻撃は正しく理に適っている。
指を動かせば風が逆巻き、涙を零せば大海となり、歯を鳴らせば獄炎が弾け、大地を踏めば鳴動するのだ。
だが、しかし、だからこそ、男は理不尽というものを真には理解していなかった。
「これに抗うか」
魂すら、構成する物質の分子一つにまで働く土塊(せかい)への回帰欲求。
命あるものならば、この世に存在するものならば、当然持っている死と還元される事への喜び。
それに抗うかの如く。
少年は輝く。
あってはならない少年の身体が輝き失われ、復元されていく。
太腿、腰、腹、胴体、腕、次々に、次々に。
「生憎と世界にも神様にも嫌われる身だよ」
言葉を紡ぐ事は優劣を付ける事。
未だ屈さぬのかと男は暗に問い。
少年は応えた。
まだ、まだ。
まだ、倒れてはいない、と。
「――――――」
一撃。
それは男から吹き来る。
風の形をした断裂。
異なる【要素】の顕現。
エルフ達の言うところの【本質(イデア)】を顕した故の現象。
触れた力と物質を別つ陰陽の秘儀は因果すら細切れとする。
原因と結果。
復元される理由と復元された肉体。
それが途絶する。
その断層は極小領域における因果律干渉と言える。
理由があっても結果と結び付かなければ意味がない。
この世にある人の生み出した概念。
それを擦り合わせた末に出る矛盾(パラドクス)。
神すら殺すだろう嵐の最中。
少年は散り散りとなっていく。
生まれたのに少年が此処にいる事と結び付かない連なりの不全。
存在の否定。
より高い次元で少年という存在が抹消されていく。
細切れになる因果の散らばりは確かに少年を否定した。
確かに、その時、少年の事を世界の約99.99999999%以上の人間は覚えていなかった。
少年に端を発する因果、巨大な糸の絡まり。
それに巻き込まれたはずの誰もが。
「……」
少年の城たる館で待つ少女達。
少年を倒そうとしていた七教会の追討師団。
怖い魔王の御伽噺を子供に読む母親。
魔王との戦いに砂漠と化した地を歩く商隊(キャラバン)、
誰も彼も、誰も彼も。
だが、しかし、だからこそ。
男は理不尽というものを真には理解していなかった。
「これで滅びぬか」
己すら忘れ掛けている少年の頚城の重さ。
罪(つみ)と罰(ばつ)と贖(あがない)。
それは如何に少年という存在が否定されようと、あらゆる記録、記憶から消え失せようと、決して無くなりはしない。
断裂に抗うかの如く。
少年は輝く。
あってはならない少年の身体が輝き、復元されていく。
引き寄せあい、引き寄せあい。
「生憎と殺したいと思われる事に掛けては自信あるよ」
正に皮肉。
散り散りになった因果は勝手に復元されていく。
少年を殺そうとする超常者。
聖女を筆頭にあらゆる種族に凝る妄念の糸(いんが)が少年を決して逃がしはしない。
少年の一欠けらにすら絡まる怨讐が肉体まで凝り固めていく。
「今度はこっちからでいいかな?」
言葉を紡ぐ事は優劣を付ける事。
未だ屈さぬのかと男は暗に問い。
少年は応え、紡ぎ返す。
お前はどうなんだと。
お前は耐えられるのかと。
「―――――」
一撃。
剣も持たず。
刃も隠さず。
少年はただ片手を弓なりに引いて、男の顔面に撃ち付けた。
陰陽を極めた者にどうして普通の拳を放ったのか。
とても男には理解出来なかった。
拳には何ら特別な力は篭っていなかった。
恐ろしく無力な拳。
少年の筋力のまま。
力が増した様子もない。
ただ、少年を包む黒い外套が男の自動での防御術法を無効化しただけ。
何の力もない拳は狙い違わず。
男の顔面を捉える。
肉体は当の昔に魔族以上。
傷付く理由は一欠けらもない。
少年の精一杯の拳が男を打ち据えて。
殴り飛ばして。
しかし、ダメージは一切なく。
「その拳に何の意味がある?」
言葉を紡ぐ事は優劣を付ける事。
男は不思議そうに問い。
「貴方が殴られる痛みを知っていれば、僕に負けなかった。きっと」
少年は応え、紡ぎ返す。
「な―――」
ガツン。
男を再び拳が打ち据える。
速度も無く。
効果も無い。
ただの拳。
「にが言い―――」
ガツン。
一撃を叩き込む毎に肉体が負うダメージに輝きを零しながら、少年は拳を振り下ろす。
「たい」
男は不可解だった。
何故、拳を振り下ろすのか。
痛みを訴える腕で。
「人に殴られるって痛いよ。人を殴るのも痛い。僕は好きになれない」
男には分かっていた。
少年の言葉は真実だと。
少年の肉体は痛みを覚える。
超常者には珍しい。
痛みを途絶させる事なんて容易であるだろうに少年はそうしていない。
「僕には人を殴る勇気が無い。でも、今の僕に出来るのはこれくらいだから」
ブシュリと腕から血が噴出した。
殴る力が上がっている。
だが、どれだけ殴る力が上がろうと男を殺す事は出来ない。
陰陽の力漲(みなぎ)る肉体にただの物理攻撃でダメージを与えられるわけがない。
「何千回殴ったところで何の―――」
ガツン。
「意味も」
ガツン。
「無い」
ガツン。
ついに腕が吹き飛ぶ。
輝きが巻き上がる。
ガツン。
ガツン。
ガツン。
肉体が損傷する。
全てを込めた拳が大地を鳴動させる。
肉体を撒き散らしながら、ダメージの一つも与えない拳の威力が上がっていく。
ガツン。
ガツン。
ガツン。
肉体の痛みは感じているはずだというのに何故殴るのか。
己を傷付けるだけだというのに。
男は理解せず。
ガツン。
ガツン。
ガツン。
輝きで血で染まっていく腕で殴らせる。
鳴動する岩穴の上。
ダメージを負わないまま。
次の一手を考えながら。
ガツン。
ガツン。
ガツン。
少年は殴る。
殴る。
殴る。
(一体、何を考えている)
男が片腕を上げた。
それ以上はやらせまいと再び攻撃の火蓋を切る。
グシャリと少年の拳が砕けた。
男の腕に少年の拳が当たって吹き飛ぶ。
しかし、少年は復元される腕で何度でも何度でも殴っていく。
自分の肉体を破壊し、撒き散らしながら。
輝きを纏いながら。
「無意味なことを……」
男は起き上がり、殴り続ける少年を破壊する為。
紡いだ数万もの術をまるで咲き乱れる花火の如く撃ち放つ。
少年が消し飛んだ
爆裂する業火が切断する嵐が生気を吸う悪霊が力を封じる印が、千差万別の術が少年を襲う。
しかし、少年は全てを受け切り、大地を数キロも肉体で削りながら、肉体を無数の術に蝕まれながら、それでも立ち上がる。
立ち上がって、剰(あまつさ)え跳躍までしてみせる。
崩壊する足に構わず。
分解される頭部に構わず。
構成物質を侵蝕される痛みにすら抗って。
「……」
そこまで来て、男は、神門と呼ばれる男は気付く。
術は強いものばかりを使っている。
やがては少年を本当に殲滅出来る方法が見付かるかもしれない。
しかし、だが、それは一体、いつの話なのかと。
「……っ」
ぞくりともう肌が粟立つはずの無い肉体に男は鳥肌を立てた。
背筋に走る震えが何か。
男は理解したが、引けるはずもない。
「どうかした?」
未だ声の出る喉を震わせて、頭部が無い唇が呟く。
肉体を汚染されている。
頭部を破壊されている。
業火に焼かれている。
瘴気に腐らせている。
だが、しかし、だからこそ、男は見た。
少年の本質を。
負ける気など無かった。
止める気も諦める気も無かった。
普通の人間なら、その姿になるというだけで許しを請うだろう。
地獄。
煉獄。
罪人に課される永劫の罰をその身に受けて、魂すら抉られる衝撃を受けて。
その全ての絶望と痛みに抗って。
戦う事など不可能だ。
人間には出来ない。
神にすら出来るものは少ない。
精神活動を行う種なら、厭わないわけがない。
もしも、男がその傷を受けたなら、きっと身動き一つ出来ないだろう。
ああ、だが、しかし。
少年は動く。
動いて、殴る。
殴ろうとする。
「貴様は何だ……」
その呟きが出た時点で男は認めざるを得なかった。
地獄の最下層にすら届くかもしれない絶望を前にして動き続ける何か。
超常の者にすら忌避されるだろう姿のまま、抗う少年に恐怖を覚えている事を。
「僕は魔王。僕は不幸。僕は…ただの人間…そして、君と争う者…」
ガツン。
血飛沫が舞う。
ガツン。
身体が弾け飛ぶ。
ガツン。
業火が散る。
ガツン。
世界が歪む。
ガツン。
男の喉が渇く。
ガツン。
男の歯が噛み締められる。
ガツン。
―――男がようやく、術でも何でもなく、殴り返した。
人を殴るという衝撃。
人に触れるという熱さ。
知らなかった。
男は知らなかった事を知る。
つい手が出た。
いつの日も冷静に超常の頂点に君臨する男が、手を出していた。
「それが人を殴るって事だよ。どう? 感触は」
少年を蝕む力に触れぬよう。
復元したばかりの顔を殴り、消し飛ばした男は拳を震わせていた。
人が人を殴る。
暴力を振るう。
興奮を覚えたかと聞かれれば、男は応えられなかった。
ガツン。
ガツン。
ガツン。
殴る手が二倍になった。
男は少年を遠ざけようと殴った。
殴り飛ばそうとした。
術を拳に込めた。
少年の肉体は消し飛んだ。
しかし、腹に穴を開け、上半身を蒸発させ、振り払おうとする男に、復元されていく腕が、何度も何度も迫る。
殴る。
傷の一つも負わせられないのに。
勝てるとか。
勝てないとか。
そもそもいつ終わるのかすら。
男には計算する余裕が無くなっていた。
「く……」
逃げるわけにはいかない。
逃げられるはずがない。
そもそも戦いは優位に立っている。
だというのに距離を取る必要性は無い。
無い、はずだ。
そう男は己に言い聞かせ、そして、殴り殴られる。
「はは……」
無数の術に肉体を絡め取られ、消滅させられながら。
少年は唇に笑みを浮かべた。
「何故…笑う!!」
男の怒りとも恐怖とも付かない声の音色。
それを復元され、また壊されていく鼓膜で聞きながら、少年は沸騰する舌で問いに答えた。
「逃げ出したっていいし、背を向けたって追いはしない。僕はただ、あの子を救う為、此処にいる」
「貴様ッッッ!!!?」
侮辱。
だが、それに激昂するなんて普段ならば有り得なかった。
男にとって、それはお前は負けていると言われたに等しい。
超常者の仮面が剥がれていく。
「あの子を返、してく、れるなら、あの子、を呪、わないな、らば、僕は君、を殺さない。だけど、あの子、を縛、り付けるなら、僕、は君を、決し、て許、さない」
「ゆる、さない、だと?!!」
輝きと血と暴力の渦巻く殴り合いの場で。
男の拳に肉体を損壊され、声を途切れさせながら。
少年は平然とただの事実を告げる。
「我、が前、に立つ、者よ」
もう少年の輝きに禁山の全てが包まれていた。
「?!!」
もし、少年の肉体が世界に否定されていなければ、山は紅に染まっていたかもしれない。
何度目かも分からない頭部の無くなった舌が声を紡ぐ。
「心、せよ」
「汝の、前にい、る、のは、魔王」
「終、焉の語り、手な、り」
「この世、の終、わり、を見る唯、一の者」
「尽き、果て、ぬ始源、に浴、する、因果」
人間ならば、勝てないわけがない。
存在ならば、滅ぼせないわけがない。
森羅万象。
天地万象。
それを智る男はようやく、その少年の本質を理解する。
「さぁ、ま、だ戦、える、だろう?」
震えていた。
震えていた。
何者にも屈する事無き身体が。
傷の一つも痛みの一つも負っていないのに。
男はその理不尽を理性で押さえ込もうとして。
バチャッと顔に掛かった血に動きを止められる。
輝きとなって散っていく。
何の害も齎さない少年の血肉。
「ぐ?!!」
それに触れていると思うだけで男の体が、戦慄いた。
「何を、恐、れる?」
「畏れてなど!!!!!」
男の大規模な術法が至近で炸裂した。
少年の身体が暴威の光の中に飲み込まれ、解けていく。
解けて、逆戻しのように形を取り戻していく。
「ッッ?!!!」
「な、らば、僕は、君が、滅ぶ、まで、殴るの、を、止めない」
「――――――ッッッッッッ?!!!!!!!!!」
距離を取ろうとした男がようやく全てを納得した。
少年に対し自分は善戦している。
そう男は思っていた。
しかし、違った。
全ては違っていた。
男は恐ろしい勘違いをしていた。
少年は滅ぼす気だった。
少年は殺す気だった。
少年は男を、神門を正面から拳で殴り負かす気だった。
それが不可能だとか。
現実的ではないとか。
そんな事を考えもしていなかった。
少年の言った言葉は全て事実。
次代の神門を開放しない限り、戦いは続く。
男は少年の拳では死なない。
けれど、少年も男の攻撃では死ねない。
その結果、導き出される答えは一つだけ。
永遠に戦うか。
逃げ出すか。
逃げ出せば、少年は神門の少女を奪うだろう。
逃げ出さなければ、男は永遠を戦う羽目となる。
戦う内で男が知り得た情報から考えられる方策は……ない。
封印は不可能。
遠き場所に転移で飛ばしてもすぐに戻ってくる。
術で禁山から追い出して、結界を張ったところで、少年を防ぎ切る結界は流れをも塞き止める。
それでは神門の意味がない。
八方塞。
万事休す。
ならば、男に取れる選択肢は二つだけ。
戦い続けるか。
神門の少女を差し出すか。
少なくとも、男が残れば、再び神門を選定する事は可能だ。
しかし、不完全な神門の少女一人を守り続けながら、永遠に戦い続ける理由は……その慈愛(こころ)は……永遠には持たない。
「――――――」
男が言葉を発しようとした時だった。
『兄様?』
声が響く。
男にも聞き覚えのある声。
『兄様…兄様……』
神門たる男。
その力の源たる天脈と地脈。
魔族のいるあちら側へと流れていく力の一欠けらが少年を包んだ。
ゴシャリと男の頬が撃ち抜かれる。
「―――?!!!」
ガクガクと視界が、感覚が揺れ、男はふらついた。
男の鳩尾が抉り抜かれ、吹き飛ぶ。
『兄様! 兄様!!』
「うん。迎えに来たよ。烙南」
『兄様ッ、兄様ッッ!!』
轟々と音を立てて少年を天地の流れが包んでいく。
「な、にをしている!!!? これから神門になる者が!!!!」
激昂した男だったが、納得もしていた。
神門の素質はあろうと。
今、少女は少女のまま。
『兄様ッ!! 兄様ッッ!!! 兄様ッッッ!!!!!』
人の心こそ儘ならない。
それを誰よりも今、知っている己が、少女を責められるわけもない。
服など当の昔に消え果て、透明な身体を曝した男が、今まで防がなかった少年の拳に対処し始める。
だが、差は明確に。
どれだけ早く防御しようと。
どれだけ速く攻撃しようと。
少年は拳を止めない。
肉体を潰される痛みを振り切ろうとして、男は自分の腕が身体を庇おうとするのに愕然とする。
咄嗟に防御しようとしたものの、少年の拳が顔を打ち抜く。
一瞬、男は自分が何をしているのか不確かになった。
続けて二撃目。
顎を揺らす横殴り。
後ろに辛うじて下がった男の顎が擦れ、頭部が揺すられた。
「~~~~!!!!?」
たたらを踏んだ男に向けて、最後の一撃を叩き込む為。
少年が左腕を弓なりに引く。
「君が善人だろうと悪人だろうと国を守る守護者だろうと関係ない。君はあの子の人生を呪う力の一つ。だから、僕は壊そう。この拳を持って」
一撃が、男の頭を撃ち貫き、神門の力の本流が、禁山の上空で弾けた。
長大な横一線。
莫大な輝きを放つ光の束が国の端から端まで虚空を貫き。
その中心である禁山も呑み込んで。
少年が最初に言った通り。
人を殴り、殴られた事の無かった神門は、二百余年を支配した男は……負けた。
*
「おおぉ~~~凄いよぅ~~~♪」
楽しげな声が光を観測しながら、空に浮かぶ艦艇。
巨大な鯨の如き旗艦の真上で喝采した。
本来、人がいるべき場所ではない。
光の束の影響で暴風が吹き荒れているとなれば尚更だったが、声の主はまったく気にしていなかった。
「ん~~神門も結局はあの程度かぁ。ま、抜かずの名刀ってのもよくある話だし、いっか。研究材料も増えたし、データも取れて満足だしね~~~ふふ、あそこで従者を壊さなかったのは正解だったよぅ」
声の主には数百km先の戦いが全て見えていた。
声の主の眼鏡は精密に全ての情報を計測している。
男の力や術の情報。
少年の肉体の使用傾向。
力のぶつかり合い。
巨大な一撃に繋がった次代神門の能力。
どれもこれも少女が欲しかったデータばかり。
「これで今度は何しようかなぁ~~~ユアン辺りに頼んで神門タイプでも開発してみるとか? 他にも色々出来そうで迷っちゃうよ~~♪」
上機嫌。
国の要が消えたというのに。
これから膨大な問題が人々を襲うというのに。
声の主は至って暢気だった。
「あ、でも、まずはハティアに治めてもらおうかなぁ。あれだけの傷ならしばらく放っておいても大丈夫そうだし。追討師団にバルガ辺りを当てて当分様子見という手も。ふふ」
『フルー様ぁああああああああ!!! そこは危険ですぅううううううう!!! お戻りくださぁあああああああああい!!!』
鯨の鋼板上。
頭を出した七教会兵士が大声で声の主に叫んだ。
「もぉおおおおちょっとぉおおおおおおおお!!! ここで見させてぇえええええええええ!!!」
それにアナログ極まる大声で返して、声の主は笑う。
フルー・バレッサ。
七教会権威の象徴たる七聖女の一人。
大陸最高の頭脳にして、人々の生活から軍事分野に至るまで強大な技術力を盾に多くの国で近代化を推し進める立役者。
ハティア・ウェスティアリアが道徳や倫理と言った心の面での近代化を進める者だとすれば、フルー・バレッサは大陸の人間にとって生活を向上させ、財を富を豊かさを生み出して近代化を進める者だ。
七教会の総資産。
その九割以上はフルーが持っている。
というか。
大陸の富の五分の一という天文学的な資産は教会が大国相手に立ち回る上で、最も厄介な武器となっていた。
「さ、今日はこのくらいにして帰ろ~~~」
極めて楽しげに、愉快げに。
彼女はバイバイと鋼板の下から顔を出した兵士に手を振って、飛び降りた。
『?!!!!』
何も身に付けない生身で超高空からのダイブ。
それを行ったのが同僚なら兵士は心配するかもしれない。
しかし、相手は聖女。
そういう気分の日もあるのだろうかと敬礼するだけに留まった。
「それにしても……伴かぁ。今まで騎士しか認めなかったのにどうしてだろう」
疑問の声。
高度数千mから真っ逆さまに自由落下しながら、「ううん」と悩んだ聖女は「そうだ」と悪戯を思い付いた顔で遥か先を見つめた。
「楽しみにしててねぇ。シンア」
やがて光が治まった時、もう落下している聖女の姿は何処にも無くなっていた。
*
乂羅の人々が西から東に奔った光の束を見上げている頃。
遥か大陸を離れた外洋上。
空に浮かぶ大地にある館で少女達は朝を迎えた。
日の出と共に館に逗留している少女達を起こしたのは給仕服を身に纏った紫色の髪をした少女。
イフィミスラは隣で寝ていた紅亜と共に起き出して少年を探し、エフィリムとナーリャも同じく少年を探してロビーまで出てきていた。
「おはようございます。皆様方」
ロビーで最も早く起きていた女が四人に頭を下げる。
若草色の民族衣装。
弓と矢の意匠が印象的な礼装に身を包んでいるのはまだ十代のエルフ。
オーレム。
ディシグニア国境地帯で魔に囚われ身体を改造されたエルフの女は今や館の住人になっていた。
記憶や見当識は未だ大きくは戻っていない。
しかし、少年の従者である紫髪の少女に館で暮らすよう言われてから、幾分かの時間が経っている。
時間の多くをオーレムは言われるがまま、生活の為の家事や炊事に当てていた。
記憶が無いとは言うものの、覚えている事も幾つかある。
それを反芻させながら、生活の中で徐々に回復させようとした少年の目論見は見事に当たった。
オーレムは日常生活を一人でこなすくらいには状態を安定させている。
自分の“ご主人様”である少年を思い、毎夜毎夜激しく己を慰めているとしても、普通の日常会話をするくらいには影響も無かった。
「お、おはよう……」
3日程逗留する事になっていたイフィミスラはこの館の住人が少し苦手だ。
何故なら、少年に連れて来られてからというもの、夜になると獣のように激しい声が聞こえるから。
最大の理由はその胸部にもある。
凶悪な大きさの水蜜桃が2つ。
その大きさに比例して垂れる事もない釣鐘型。
ツンと上向きの乳房はどう見ても異常な大きさだった。
片方だけでイフィミスラの頭が3つ分はあるかもしれない。
子を孕んですら、そこまで大きくはならないだろう。
「はい」
ニッコリと微笑むオーレムを初めて見た紅亜が身動ぎでフルンと揺れ動く胸に釘付けとなる。
「紅亜殿?」
「はっ!?」
イフィミスラの声に正気となった紅亜が昨日の夜の事に意識が飛びかけていた頭を振って、いつも通りの少し引き締まった顔をした。
「こ、これは失礼しました。わ、私はあ……紅亜と言います」
姓はもう無い。
ならば、これからはただ名前だけを名乗ろうと紅亜がオーレムに頭を下げる。
「オーレムです。紅亜様」
微笑んだエルフの柔らかな仕種に少し緊張が解けた紅亜は少年が一目で何処かに行っていると悟り、己の妹をロビーに探した。
「青嵐様は今日の朝にお立ちになられました」
イフィミスラの後ろにいた紫髪の少女が紅亜の内心を読み取って発言する。
「そうなのか?」
「はい」
イフィミスラが振り返って尋ねると少女が頷く。
「何か紅亜殿に言伝は無いのか?」
「あります。ここで再生しますか?」
「再生? ああ、話してくれ。紅亜殿」
紅亜が紫髪の少女の前に立つと少女が録音した声を己の喉で再生し始める。
『お姉様』
「青嵐の声!?」
ナーリャやエフィリムも興味深そうにイフィミスラの後ろから覗き込んだ。
『おはようございます。昨日はお疲れ様でした。これはティアさん…いえ、ティア様と共に録音しています。どうか、最後まで聞いてください。これからの私達の身の振り方に付いてです』
「青嵐。いつの間に……」
今は此処にいない妹がどうして声を残したのか。
そもそも傍にいてくれると言った妹が何故、此処にいないのか。
その理由を声に求めて紅亜は静かに耳を澄ます。
『天御門家分家は本日を持って失われました。そして、更にティア様とお話しをさせて頂いた時、烙南様の事が話題に上がりました。烙南様をティア様は迎えに行くそうです。その際……ティア様はこの乂羅の根幹である神門を負かすとわたしに告げました』
「な、神門!? 何を言っている青嵐!!?」
目を見開いた紅亜が愕然とする間にも声が再生されていく。
『天御門と土御門。神門より別たれた二つの家。これ無くして乂羅は回ってこなかった。しかし、ティア様はこれからの時代は七教会が新たな秩序を打ち建てていく事は間違いないと言い切りました。わたし達が天御門家の人間が積極的に外国の文化を取り入れてきた理由。お姉様も知る通り、乂羅が旧い仕来(しきた)りに囚われていては地位を危うくするという危惧からです。それがもう現実になるとティア様は仰いました』
「ティア。まさか、烙南様を助けに……」
『お姉様。わたしは……良い機会だと思ったのです。天御門も土御門も長くなり過ぎました。お姉様も知るように内実は腐り切っています。それを内部からでも少しずつ変えようとした唯一の人間であるお姉様もこうして天御門から追われてしまった』
「青嵐。お前は……」
『もう、家に対する未練はありません。これからはずっとお姉様をお傍で支えようという気持ち、聞いてくださいましたよね? あの時の言葉に嘘偽りはありません。ですが、お姉様に守られて命を繋いだ時、わたしは力になれない自分の無力に気付いてしまいました』
「そんな事!! 私がそんな事を思うわけないだろう!! 青嵐!!!」
『ティア様にお姉様の事は全て託しました。ちゃんとお姉様の事を約束してくださいました。それに見合うだけの力があるのはお姉様も知る通りです』
しばし、沈黙があった。
『だから…ですから…わたしは…青嵐は…自分に出来る事をしようと思うのです。お姉様を幸せにしてくださる殿方はようやく見つかりました。でも、それだけではきっと…お姉様はきっと心の底から喜べない。乂羅の事、学徒憲兵隊の事、土御門の事…投げ出せない性分なのは知っています。だから、わたしはお姉様の代わりにこれから混沌に沈む乂羅で……お姉様が出来ない事をしようと思っています』
何処か明るく。
声に暗さは無く。
されど、天御門青嵐の姉である天御門紅亜には分かった。
声の先で妹はきっと泣いていた。
『ティア様は必ず天御門と土御門の業たる神門を破壊すると約束して下さいました。これから天御門も土神門も神門無く国を立て直さなければならなくなるでしょう。その為に一番良い方法をわたしは取るつもりです。ティア様が言うにはその場所からなら、時期こそ選ぶそうですが乂羅に再び来る事も出来るそうです。薬をゆっくり抜きながら待っていてください。お姉様が目指した理想を、お姉様が築いたものを、わたしは必ずまた育てます。失われたものも、これから失われるものもきっと、再びお目に掛ける事を誓います。ですから、どうか……わたしが行く事をお許しください……』
紫髪の少女を深く抱き締めながら、紅亜は誰にも見られないよう、顔を俯ける。
『……答えは訊きません。分かっていますから。だって、それがわたしのお姉様の答えに決まっていますから…再び見(まみ)える日を楽しみにしています。では、また……』
「っ…く…ぅ…ふ…ぅぅ…私は……」
幾度も雫が落ちる。
紅い絨毯に音は消えていく。
誰も何も言わなかった。
「再生を終了します」
紫髪の少女は一人そう終わりを告げる。
「……ありがとう」
紅亜がその頭を撫でて部屋に用意されていた学徒憲兵隊の制服の袖で目元を拭い振り向く。
「イフィミスラ様。一つ、教えて頂けますか?」
「ああ、我に分かる事なら」
「だ、こほん…あの男は…ティアは一体何者なのですか?」
問いに応えは、返る。
「お人よし、だ」
「御人好し?」
「ああ、世界で一番のお人よし。お伽噺では散々に悪事を働く癖に我にも頭が上がらない大馬鹿者だ」
「お伽噺。まさか、それって……」
イフィミスラが微笑んだ。
「ちなみに教会の壁画でよく退治されているぞ? まぁ、本物は小心者でいつも我らを連れて旅をしているがな」
「……」
紅亜はそれ以上訊かなかった。
きっと、それは誰の口からでもなく少年から聞かなければならない言葉なのだと気付いたから。
「怖くなったか?」
イフィミスラのまったく心配してなさそうな顔に紅亜は微笑み返す。
「いえ、よく分かりました」
「?」
「あの男が婦女子の敵である事が、です」
戦いが終わり、やがて帰ってくる少年に向けられた言葉はどこまでも、どこまでも、優しかった。
神門を生み出す禁山を消滅させ、全てを終わらせて少年が帰ってきたのは夕方。
連れて来られた白い少女は出迎えた者達の笑顔に嬉しくなって泣いてしまい。
大勢に囲まれながら、少年は女の敵に認定された。
その日、二人の聖女の下に青い嵐の名を冠する者が訪ねてきたのは必然。
翌日を境に乂羅は変わっていく事となる。
幽国の士と呼ばれる革命の中枢である教会から人気が失せた事に人々が気付くのはそれからかなり後になってからの事だった。
東部での細やかで致命的な混乱はやがて大陸全土へと波及していく。
而(しか)して、旅の舞台は南へ。
彼らが向かうのは南東部を統治する【武帝(ぶてい)】の先。
南部の大穀倉地帯を有し、数百の国々を統括する帝政国家。
【イグニシア・クルシス】
大陸十分の一を統べる大帝国だった。