※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三十五節

第三十五節「変転への跳躍」

 

「えへへ~イルトおにーちゃん早く行こ♡」

 

「お、おぅ……」

 

 コツコツと古びれた空がすぐ外に見える石製の回廊を歩きながら、不満そうな顔の少女が表情とはまるで裏腹にイルト・イナーシタに声を掛けた。

 

「本当にやになっちゃうよね!! 何で、こんな事になったんだろうね。まったく!!」

 

「そ、そうだな…う、ぅん……ホント、何でなんだろうな」

 

 灰金の髪の少女がまるでプンプンとか怒り出しそうな愛らしい声で言うものだから、思わず釣られて相槌を打つ青少年であるが、その言葉を発した当人の顔が不機嫌そのものである状況に内心で溜息を吐く。

 

 それというのも全て遺跡のせいだ。

 

 そう、それは数時間前まで遡る。

 

 ようやく目覚めた暴走明けなイルトは心配半分、呆れ半分に弄られていたのだ。

 

 あの上陸地点で………。

 

 *

 

―――3時間前、遺跡周辺丘陵。

 

「そう気に病むな。ちょっと“汁”が我の顔に付いただけだ」

 

「の、のぉぉぉぉぉぉぉぉッ?!!?」

 

「大丈夫だ。まったく、気にしていない。顔はさっき洗った」

 

「げふぁあああああああッッ?!!?」

 

「我の衣服は勿体無かったのだが、ちゃんと新しいのに変えて、前のは燃やしたから安心してくれ」

 

「こ、殺してくれ!? もういっそトドメを刺してくれぇぇっ?!」

 

「……この○漏め」

 

「ごっはぁあああああああああああああ?!!!?」

 

 カンカンカンとシャイがリュオの練成した黄金色のゴングを小槌で叩く。

 

 K.O.と何処何処かから文字でも飛び出てきそうな具合に言葉の暴力に打ちのめされた青少年イルト・イナーシタはシクシク泣き崩れつつ、取り戻したばかりの気を失ってガクリと挫け、プクプク泡を吹く。

 

 余程にショッキングだったらしい。

 

 だが、生憎とリュオが遠方から魔術で記録していた望遠映像が証拠よろしくバッチリとシャイの前の虚空に再生されており、逃れる術はない。

 

 聖女の試練という名の悪戯で野獣と化し、少女に二重の意味で襲い掛かって数時間追い掛け回したという極めて精神衛生上よろしくない事実が開陳され数分。

 

 グロッキーな当人のライフは完全にマイナス最低値を突破している。

 

「シャーイ?」

 

 ツンツンと未だ落書きにも気付いていない憐れな犠牲者兼加害者の頬を付いて。

 

 面白そうに遊んでいるシャイは長椅子に倒れ込んでいる保護者な青少年の上に乗ってご満悦だ。

 

「さて、憂さ晴らしはこれくらいにして真面目な話をするぞ。イルト」

 

 指を弾いたイフィーの前で強制的に動魔術で直立姿勢にされた青少年の頬が見えざる張り手でもされているかのようにパンパンと右左に張られて、強制的に覚醒させられる。

 

「うぅぅ、もうやめてくれぇぇ……」

 

「とりあえず、其処に座れ。今後のお前の育成方針をリュオ先生と幾らか話し合った」

 

 しばらくダメそうだなと思いつつも、容赦なく時間が押しているので灰金の少女は船室内部に置かれた白いボードを前に黒いペンを魔術で浮かせてサラサラと何事かを書き加えていく。

 

「な、何なんだ? オレのダメなところでも書き出してるのか? ふっぐ」

 

 涙目で訊ねる情けなさ限界突破中の相手に溜息を吐きつつ。

 

 三十秒程でギッシリと“分かり易いイルト育成計画”とやらが書き出された。

 

「オレ、育てられるのか?」

 

「はぁ、もう気にしていない。とっとといつもの状態に戻れ。それはそれで鬱陶しいぞ?」

 

「ぅ……はい。先生」

 

「我はお前の先生ではない。こっちの先生が我と共に組んだ短期間での強化訓練用スケジュールをお前にはピアリ救出までの間にこなしてもらう」

 

 キラリと眼鏡を耀かせ、今まで弟子が罵倒されていたのを眺めていた師がボードの横に立つ。

 

「師匠。そ、それでこれギッシリ何か書かれてるけど、オレ何すりゃいいんだ?」

 

「よく聞いてくれました。イルト君」

 

 リュオが持っていたペンでキュ~ッと上から下に矢印を伸ばす。

 

「実はイルト君が生物として人間以上になったのでその能力の基礎を使いこなせるようにと錬金術の知識込み込みでの詰め込み暗記(魔術込み)と肉体鍛錬に関してはイフィーからの協力を得て、ガッチリ死なない程度の練成教程を組みました」

 

「つまり、勉強と肉体鍛錬って事か?」

 

「ええ、普通の人間なら即死する程度の代物ですが、ほらイルト君は人間止めちゃったじゃないですか。これくらいは出来るだろうと見込んでの事です」

 

「ふっぐぉ!? そ、それもさっき聞いてから気にしてるんだから、もうちょっとオブラートに包んでくれても」

 

「ははは、やだなぁ。僕も昔は遺跡の罠で鼠とか女とかにされた経験がありますが、君みたいに恵まれていなかったので大変だったんですよ? それに比べたら、何て事ありません」

 

「師匠が鼠……女……?」

 

「ええ、昔の恋人と別れ話が何度出た事か。それに比べれば、イルト君は体の中身が違うだけで心も外見もまんまなんですから、言う程問題ありませんよ。それに大陸中央諸国は人間以外にも住み易いですし」

 

「う……凄い言いくるめられてる気がするぜ……」

 

 青少年に少女が肩を竦める。

 

「今はくるめられておけ。実際、我も先生も此処から先の深部へ向かうのに足手纏いに構っている暇はないのだ。我は聖女との事もある。お前には例え、単独になったとしても生き残れるだけの実力を見に付けて欲しい。ピアリを守れるくらい強くなってくれれば……というのが切実な話でもある。分かるか?」

 

「それは……まぁ、物凄く妥当な話だとは思うけどさ。オレって具体的にどうなったんだ?」

 

「そこでこの表の説明です」

 

 リュオが上から諸々の情報を読み上げ始める。

 

「イルト君。君はどうやらかなり高位の異種と人間との混血。つまり、魔力が人間に血統で受け渡されるような時代に存在した亜人の始祖くらいの能力を手に入れたようです」

 

「そ、そうなのか。何も実感無いんだが……」

 

「そこですよ。普通、異なる生物の体に人間が入れられたら、数分で発狂するくらい単純に思いつく程度の話です。ですが、君はそうなっていない。それは何故か?」

 

「何でなんだ? 師匠?」

 

「簡単です。人間以上の能力や知覚を精神と肉体がブレーキしてるんです。でも、たぶんそれですら、かなりのもののはず。イルト君。今から僕がこの賽を見えないカップの中に入れて回します。君は適当に集中して、中身の数字を当ててみてください」

 

「は? いや、普通に不可能なんじゃソレ……」

 

「いいから、まずは実戦してみましょう」

 

 テーブルの上にリュオが黒い縦長のカップとサイコロを用意すると。

 

 内部に入れてカラカラと回してピタリと止める。

 

「……1?」

 

「正解は……4でした」

 

「やっぱ無理なんじゃ……」

 

「いえいえ、じゃあ、これから30回程同じ事を繰り返しますから、次々答えて下さい」

 

 そうしてリュオが何度もカップ内部を掻き回してはイルトに中身を言わせていく。

 

 最初はまるで当たらなかったのだが、とある時点から複数回当たるようになり、その後、次々に連続して正答が続くようになる。

 

「………師匠。これってどういう事なんだ? オレは別に中身が分かってて言ってるわけじゃないんだぜ? なのに……」

 

「それが君の能力の一端です。セーブされた能力でも普通の人間とは桁違いの知覚や推測する頭の回転の速さの結果が、潜在意識下に仕舞われていようと行動に影響を及ぼす。じゃあ、今度はこのカップにしましょう」

 

 リュオがまた別の蒼いカップを取り出すと同じようにイルトへ中身を当てさせ始めた。

 

 先程まで連続正解していたのが、また数回置きに不正解が出るようになったが、それもまた二十回以上連続で回答し始めた辺りから、連続で正解が出続けるようになった。

 

「今のって……」

 

「君の知覚を少し妨害する仕掛けがカップには施されていました。けれど、君はその知覚妨害を込みで内容を当て始めた。順応した結果、知覚が鋭敏になったり、理論や推測による予想精度が上がった、というように解釈していいでしょう」

 

「……オレがセーブしてる力ってのが少し表に出てきたって事か?」

 

「ええ、そういう事です。これを知識と肉体に絞ってガンガン底上げする教練過程を組んだと考えて下さい」

 

「つまり?」

 

 イフィーが教練過程を上から読み上げ始める。

 

「まずは我から。肉体の方だが、基本的には知覚、瞬発力、持久力、物理強度、反射速度に限って鍛錬を課す。方法は単純にこの腕輪を付けて過ごしてもらう」

 

 ゴトッと少し重たげな音を立てて、銀色の腕輪がテーブルの上に置かれた。

 

 表面にはどうやら魔術用の秘儀文字(アルカナ)がビッシリと書かれているらしく。

 

 ザラザラとしている。

 

「これは?」

 

「お前の今言った諸々の能力を強制的に落す代物だ」

 

「……肉体強度の能力を落すってどうなるんだ?」

 

「ん? まぁ、乱暴にすると腕がもげるくらいだ」

 

「―――物凄く断りたい気分なんだが、というか……それ大丈夫なのかよ?」

 

「人間イルト・イナーシタの能力をこの腕輪は時間経過で落としていく。だが、腕輪を付けていても、少しずつ肉体が力を解放していれば、現在の状態が維持されるはず。これが何を指すか解かるか?」

 

「腕輪を外したら、マイナスされてた能力が元に戻るから、プラス分の能力が元の状態に加算されてる?」

 

「正解だ。これはあくまで一時的に能力を落す代物。それに対抗したお前の肉体が自己を強化すれば、腕輪を外した時点アップした能力はそのままになる、はず」

 

「はずって……」

 

「我とて専門ではないのだ。だが、専門家を見つけている暇もないのでな。悪いが、これからは自分の肉体を意識的に使うのを心掛けてくれ」

 

「意識的……」

 

「感覚的に動かすのではない。指を曲げるという動作一つすらもお前が自分の意識で行えるようになれば、先程戦った感触から言って、あらゆる自分の肉体の出来事を自分で行えるようになる」

 

「それって……良い事なのか?」

 

「それはお前次第だ。使い方を間違わなければ、大きな力になるだろう」

 

「そうか……うん。分かった。ありがたく貰っておくぜ。イフィー」

 

 腕輪を装着したイルトがそっと窓から入ってくるソレを透かし見る。

 

「イルト君。僕からは単純に僕が知る限りの知識の詰め込み教養講座と精神的に錯乱しない為にどんな状況も想定しておく場面的な動き方のマニュアルなんかを進呈しましょう。ちなみにマニュアルの方は詰め込みません。自分で夜に少しずつ見て下さい」

 

「どういう事だ? 師匠。それも魔術なんかで覚えればいいんじゃ……」

 

「自分の命を掛ける場面でしっかりと考えた結果として行動しなかったら、後悔しか残りませんよ?」

 

「あぁ、そういう……」

 

「そういう事です。知識は知恵が無ければ、応用が利かない。ですが、そういう新しいものを生み出したり、常識とは違う事を思考する事に関して僕が君に教えておきたいと思う事はありません。少なくともイルト君にはそれなりに素質があると見込んでいますから……」

 

「持ち上げられ過ぎて、ちょっと怖いんだけど……」

 

「ははは、此処は素直に受け取っておいて下さい。でも、実際の話。僕らの世代は大陸中央諸国でもまだ未完成品というのが定説……君には是非、物語の中の主人公張りに活躍して欲しいと思ってますよ」

 

「未完成品?」

 

「ああ、政治的な意見の一つです。君には少し早い話でしょうから、この天蓋蒼星から帰ったら、自分で調べてみて下さい。もう少し大人になったら、僕らの世代と君達の世代の違いも分かるでしょう」

 

「そ、そんなもんなの、かな?」

 

「君が何を選び、何を選ばないのか。それは君にしか解からない。僕らの世代には出せない答えが、君にならば出せるのかもしれない。そこに善悪も優劣も貴賎もありません。ですが、その結果を受け止める覚悟さえあるならば、人は何処までも進んでいける。それだけは……覚えておいて下さい」

 

 リュオが僅かに眼鏡を取って、布でおもむろに拭き始める。

 

「説教臭くなりましたが、今はこんなところでしょう。では、船から下りて移動しましょうか。これ自体は空間圧縮系の魔術で持ち運べるタイプですから、問題ありませんし。先に下りて待っているので必要なものを取って来たら、そのまま出発にしましょう」

 

「ああ、分かった」

 

 リュオがお先にと言って船室から出て行く。

 

「……師匠、何が言いたかったんだろう最後……」

 

 残されたイルトがポツリと呟き。

 

「それこそ自分で考えるのだな。どのような言葉も叡智も己で経験してみなければ、本当の意味を真に掴んだとは言えまい?」

 

「イフィー……」

 

「後、シャイのお守もお前がするのだから、しっかりとな」

 

「い、言われなくたって!! な?」

 

「シャーい?」

 

 欠伸をする人造生物はまるで聞いた様子も無くきょとんとした顔で小首を傾げた。

 

 それから二十分程で準備を整えた一向は船の外に出て、巨大な船そのものを備え付けの空間圧縮魔術で掌サイズにまでして荷物に収納して出発。

 

 リュオを戦闘に続いてイルトとシャイ。

 

 殿をイフィーに任せ、遺跡へと歩き出した。

 

 元々巨大な島であるものの。

 

 一度所在を確認した遺跡までの道程は巨大な樹木の根を迂回したり、小川を渡ったりという極めて負担が少ない順調さで2時間もせずにその入り口が全員の前に姿を現す。

 

 聖女謹製と言っても入り口は何処にでも有りそうな少し苔生した煉瓦積み。

 

 古びれてはいたが、崩れそうな気配も無い。

 

 周囲は樹木に囲われていたが、地下へ続く階段はしっかりとしており、足を滑らせそうも無かった。

 

「此処なのか。師匠」

 

「ええ、地下にはかなり広がっているようでしたが、切断時の状況は見えていましたから、全部で3層程しかないと断言出来ます。広い坑内は入り組んでいるかもしれませんが、それは僕が腕でカバーします。然して問題ありません。問題は道中、剣獣に襲われた場合に狭い事と不用意に大きな攻撃が出来ない事くらいでしょう」

 

「つまり、オレが頑張って足止めして、師匠とイフィーが的確に相手を叩いていくって事でいいのか?」

 

「そういう事になるだろう。イルト。我はお前との戦闘でかなり消耗していてな。どんな場合も魔力の抽出は最短10秒。どんな敵が来てもそれまではどうもならないと心得ておいてくれ」

 

「ぅ……その節は本当にご迷惑をお掛けしました」

 

 その罪悪感に胃に罅でも入りそうな顔の青少年に少女が苦笑する。

 

「迷惑を掛けて、掛けられて、それもまたパーティーというやつであろう。頼れるところは頼ってくれればいい。こちらも頼りたい時には頼らせてもらう」

 

「あ、ああ!! 勿論!!」

 

「それでこそ、男の子だ」

 

「こ、子供扱いするなよ?!」

 

「ふふ、言うではないか。ならば、男らしいイルト・イナーシタを―――」

 

「どうしたんだ? イフィー?」

 

 途中で声を途切れさせたイルトが後を向く。

 

 すると、その時点で彼にも異変が分かった。

 

「イルト君!! 下がってください!?」

 

「師匠!? く、いつの間に!? シャイ!! オレの後にいろよ!!?」

 

「しゃーい」

 

 二人が殿で固まったままのイフィーのすぐ上にフワフワと浮いている者を前に思わず得物を構えた。

 

「新手の剣獣(ソーディアス)かよ!? イフィー!? どうしたんだ!? イフィー!! 返事してくれ!!」

 

 二人が見たのは少女の首筋にピタリと剣の切っ先を付けた剣獣の姿。

 

 だが、その形は今まで見てきたモノとはまるで違い。

 

 刃の中央付近が大きく歪んでハートの形を形成していた。

 

「これは……リュオ先生。このタイプは肉体に実害は無い、が……ッ、ぐぅ……」

 

 僅かに片膝を付いた灰金の少女を前に飛び出そうとしたイルトの体が師の片手によって制止される。

 

「大丈夫だ。問題、無い……これは剣獣の中でも精神干渉系なのだ……どんな効果なのかは想像も付かないが、少なくとも仲間を……攻撃、する類のものでは……ッ」

 

 脂汗を浮かべた仲間の姿にイルトがギリギリと得物を握る手に力を込める。

 

(く、手が出せねぇ!? 少しでも動いたら、首にッ!?)

 

「……疾(ち)ッ!!」

 

 刹那の呟きの後。

 

 突如としてリュオの姿が掻き消えた。

 

 途端、バキリとイフィーの背後で首筋に刃先を付けていた剣獣(ソーディアス)が一瞬で手折られ、ボフンと煙になって密碑を零して消えた。

 

「イフィー!?」

 

 慌てて駆け寄ったイルトの前で大きく溜息を吐いた少女がゆっくりと立ち上がる。

 

「だ、大丈夫か!? ケガしてないか!?」

 

 頷いたのも束の間。

 

 声を出そうとして、何やら喉に手を当てたイフィーが僅かに咳き込んでから、イルトを見て真っ直ぐに言った。

 

「大丈夫だよ!! イルトおにーちゃん♡」

 

「え……?」

 

「?!」

 

 一瞬、何を自分が口走ったのかと喉にまた手をやり、片手に自己検査用の魔術方陣を展開したイフィーが何やら難しい顔をした後にその表情とは打って変わって明るい声で叫ぶ。

 

「え~~!? 私、どうなっちゃったの~~!? ありえな~~い!? こんなんじゅ、大好きなイルトおにーちゃんに嫌われちゃうよぉ~~!? ふぇええん!?」

 

「ふぇ!? イ、イイイ、イフィー?!」

 

 何やら察した当人がズーンと何か物凄く絶望的な顔になった後、ガクリと両膝を両手を地面に付いて、ダラダラと冷や汗を流し始める。

 

「こんなのってないよぉ~~シクシク……あの剣獣はイルトおにーちゃんの刺客だったの!? もぉ!? 女の子の唇を奪うなんてダメなんだからね? イルトおにーちゃん♡」

 

 一々語尾にハートが付いているような涙眼少女を想像してしまったイルトだったが、自分を見上げる少女の瞳が「ゴゴゴゴ」と擬音がしそうなくらいに険しく。

 

 また、拳をフルフル握っている様子からして、『ああ、これさっきのやつの呪いみたいなもんだ』と分かってしまったので思わず引き気味に半笑いとなった。

 

「オ、オレのせいじゃないよ、な?」

 

「イルトおにーちゃんの馬鹿!! 私はこんなにイルトおにーちゃんが好きなのにイルトおにーちゃんはイフィーの事が嫌いなんだ!? うぅぅ、死んでやるぅ~~~?!」

 

 何やらヒステリーを起こした乙女みたいな言葉を上げつつ、一致しない表情で愕然とする少女はもはや投げやりになりつつ、その呪い?を掛けたのだろう張本人に重いを巡らせて青筋を立てた。

 

「絶対、フルー・バレッサちゃんからイルトおにーちゃんを取り返してみせるんだからぁ~~!?」

 

 きっと、本当なら容赦ない攻撃の決意を固めているのだろう灰金の少女の声に微妙に脱力しつつ、これは大丈夫そうだとイルトが安堵の息を吐く。

 

「お、怖ろしい敵?だったぜ……!!」

 

 気を取り直した青少年の言葉に師は『嬉しそうだ……』と自分の弟子の性癖と趣味を心配しつつ、続けて口を押さえたまま、自分に行こうと促す少女に頷いたのだった。

 

 *

 

 この世の男女の中が全て良かったなら、世の争い事の半分は無いも同然である。

 

 とは、有名な戯曲の一節である。

 

 無論のように人々は同意するだろうし、同性同士を好き合う者達だろうと同じように考えるのでは無かろうか。

 

 少なからず。

 

 彼女はそう思う。

 

 ツルリと剃り上がった頭に今日も帽子を被せ。

 

 特務と名の付く監察官。

 

 イルーデは世の半分の争い事を横目にお茶を飲む。

 

 第三層の深域は極めて難しい選択を迫られる男女が多数出る事で有名な一帯でもある。

 

 理由は単純。

 

 第四層から即死率が跳ね上がるせいで男女の関係の者達の大半が女に残れ。

 

 もしくは引き返して待っていてくれと言うからだ。

 

 七教会の公営酒場。

 

 常駐する高格外套が1人という安全地帯(セーフゾーン)は極めて人気の高い宿屋も兼ねる数百m四方の施設だ。

 

 現在、ゴードン・ゴーガン大佐が率いる陸軍は近場の比較的安全な浮島で野営中。

 

 本国に送金する為に大規模な密碑確保を行いつつ、周辺空域でこの数日稼いでいた。

 

 足止めされている理由は単純だ。

 

 第四層が荒れているとの連絡が入っていて、入るに入れないし、目的の人物も見付かっていないという事から暇になったのだ。

 

 彼女は急いでこそいないので第四層が落ち着くまではと指揮下にある彼らに密碑の確保ついでに周辺を哨戒させており、七教会もこれを黙認。

 

 イルーデも酒場でのんびりしているのである。

 

 尼が酒なんてと思う者もいるかもしれないが、彼女自身は節制を弁えているし、七教会の人員だって酒は嗜む。

 

 まぁ、彼女には他にも色々と事情があったりするのだが、それは余人には分からない話だ。

 

 薄暗い店内の高い天井からは仄か明かりを洩らすランタンが複数個付いた荒縄が下がっており、浮島の僅かな動きに合わせて微振動して薄く翳りを揺らせていた。

 

 大陸中央式の酒場ならば、唄うのは吟遊詩人ではなく。

 

 今流行の無線通信から流れてくる音楽と相場は決まっているが、此処はちゃんと歌い手を用意しているらしく。

 

 琥珀色の酒瓶が犇くカウンターの背後。

 

 スタッフルームから出てきたフリル控えめなドレスを着た30代の女がバー横に併設された舞台に上がるとマイクスタンドの傍でひっそりと歌い始めた。

 

「あら、良い声じゃない……」

 

 イルーデがカラリと鳴った自分のグラスの氷の音と同時に横から聞こえた声に顔を上げ。

 

 そっと頭を下げて、歌に聞き入る。

 

「そう言えば、貴女が歌っているところは見た事がないわね……」

 

「いえ、そんな、畏れ多いです……」

 

 僅かに瞳を伏せた彼女に声の主は苦笑する。

 

「そう、畏まるものでもないわよ。所詮、私も女ですもの。尊いものは夜毎消え、醜きものは朝露に出でる。年月を重ねた分、偉いわけじゃないわ」

 

「……はぃ。御身がそう仰るならば、それは世の真実なのでございましょう」

 

「ふふ、お堅いわねぇ。貴女くらいの歳の頃、私なんてとある国で傭兵紛い事してたわよ。随分と助けてもらったわ。色々な人から……まぁ、今じゃ七教会と敵対関係になっちゃってるけれど」

 

「それはもしや?」

 

「ええ、北部三国の一つよ。私の魔術は全てとは言わないけれど、大抵が其処で得たものが下地になっているの。後はハティアにも色々教わったけれど、今時のは肌に合わなくて……結局、昔のまま……フルーが見たら、この概念論信者って罵られそうね」

 

 声の主は苦笑一つ。

 

 昔の記憶を思い出したらしく。

 

 虚空の薄ら暈けた天井に視線を向けた。

 

「貴女の一族を助けたのもそう。あの国を出る直前だったかしら。ナハシュとメトシェラ。その頃は名前しか知らなかった貴女の曽祖母ともそれ以来の付き合いなのよ」

 

「そうなのですか?」

 

「ええ、教会に入ってからよ。また出会ったのは……あの頃は聖女だなんだって、話が諸々面倒になってね? 天界に引き篭もろうかって考えてたわ」

 

「……その、どうしてそうしなかったのか。訊ねても構いませんでしょうか?」

 

「ふふ、簡単よ。七聖女と呼ばれ始めていた私達の罪を唯一神に許してくださいなんて頼むのも気が引けたし、そうしろと五月蝿い連中を黙らせたくなったのよ」

 

「それは……旧教会派との?」

 

「さぁ、どうでしょうね? 一つ言えるのは教会は一枚岩じゃ無かったし、あの政敵だらけの場所に間の抜けた仲間達を放っておくのも気が引けた……そういう事かもしれないわ」

 

「御辛い事もあったのですか?」

 

「そりゃね。おの子達のやってた【近代化(レボリュション)】がどういう結果になるのかは分かってたし、最初の頃はフルーのやり方も甘かったから、伝手を頼って色々と裏から支えたりしたわよ。結局、そういうやり方でしか変わらなかったでしょうし、事実として行動しなかった時よりは笑顔や幸せな人達も増えたでしょう。それがどんな犠牲の上に成り立ったかなんて、それこそ挙げていくのも面倒な数だけれど、少なからず……考え得る限り、上から数えた方が良い結果ばかりだったから、黙認したわ」

 

「そうですか……」

 

「一番良いのはね? 其処に生きる人々が突然、正義に目覚めて誰かの為に働き出し、物語みたいに自分達で物事を解決していく事だったのよ。でも、それを為そうとするなら、人に意思なんて要らない。そういう方法が必要になる。だから、あの筆頭様は一番良い方法と悪い方法を同時に取ったの」

 

「良い方法と悪い方法、ですか?」

 

「そうよ。飴と鞭。この世界の常識が許容する限界の変革を強引に推し進めながら、逆に今まで存在しなかった完全なる善政を敷いて人々を満足させ、納得させる。いえ、納得しなければならないようにした……それこそが近代化(レボリュション)の最も肝要な部分」

 

「………浅学非才なこの身にはあまり……分かりかねるかと」

 

「ごめんなさいね。困らせちゃって。でも、単純よ……例えにすれば、一切れのパンをどう分けるか、で語るに足りるわ」

 

「それは説法の一節にあるお話の“一切れのパン”でしょうか?」

 

「そうね。あれは一切れのパンを二人で分けて仲良くすれば、現実にどうなるかはさておき天への扉が開かれるって話だけど、フルーはアレが嫌いだったのよ。いえ、不満だったと言うべきかしら?」

 

「不満、ですか?」

 

「そうよ。だから、あの筆頭様はね。一切れのパンを抱える今にも死にそうな男女や周辺にいるゴロツキに一万切れのパンを渡して、これからちゃんとした労働者になるなら、毎年同じ分だけパンをやるから、罪を犯したり、倫理に悖(もと)る行為はするな。したら、逮捕するから。あ、それと僕達の信じる未来の為に無意識の献身と分厚い支持とパンより安い税金を払ってねぇ……ってな事を極めて合理的な解釈で言葉にして相手へ呑ませ続けたの」

 

「―――どう、言っていいのか困ります。すみません」

 

「あははは、いいのよ。いいのよ。それで正しいから」

 

 声の主が思わず笑い出して、皺枯れた手で氷が解けた琥珀色の水をツイッと喉に流し込む。

 

「その途中でパンなんて要らないって輩が一杯いたから、あの子は『なら勝負しよう。お前達に凄く有利でお前達が勝てそうな勝負だ。だから、受けてくれるよね?』って屁理屈を捏ねて、相手を千切っては投げ、千切っては投げ……反則イカサマ金権力技術科学政治、何でも使って相手を倒した。それこそ聖女の奇跡ってのはあの子にとってはツールだったんでしょう。沢山恨みを買ったし、沢山人を諦めさせたのは確実。でも、人の意思を捻じ曲げても、救った命の総数と平和の中で生まれ育った人々による数の暴力が全ての反対意見を封殺したわ」

 

「大陸中央諸国……」

 

 声の主が微笑んで続ける。

 

「もし、あの子の位が聖女じゃなくて王様だったら、こんなに素晴らしい名君はいないって名を残したはずよ……きっと、近代化(レボリュション)に呑まれて未だに不平不満を愚痴る国々だって『何て凄い王様だ!! 沢山の反対意見は出たけど、皆を幸せにしてしまったよ』と最終的には絶賛していたでしょう。過去の大陸はね。そういう“世界”だったの」

 

「………」

 

「分かるかしら? あの子は上手くやったのよ。今、この七教会が揺らいでいる時さえも、全ては掌の内。王様の時代が終わっている事に一体、どれだけの人間が気付いているんでしょうね」

 

「………」

 

「あの子はもう勝者なのよ。【近代化(レボリュション)】の一番肝心な部分は完了している。だから、こうして魔王追討だの、魔王討伐だの、自分達の事に現を抜かしていられるの」

 

「………」

 

「此処から先の未来はもう投げっぱなし。無論、ハティアは最後の最後の最後まで過保護な母親みたいに面倒を見るでしょうし、自分のしてきた事の償いに自分の人生を掛ける気でしょうけど、それだっていつか“どんな意味でも必要なくなる”のは確実だもの……どうなるのかは正しく未知数……その時になってみなきゃ分からないわね」

 

「難しい……とても、難しい御話だと思います……」

 

「簡単よ。男を許せない女が多過ぎて、女を許せ過ぎる男がいるってだけ。世界も同じ。王様の世界も今の世界もそれが何に価値を置いているかって違いがあるだけ。皮肉なのは私達が目指した世界が、旧い世界でこそ賞賛されるべきものであり、新しい世界にとって私達の目指した世界は不満なものに映るって……それだけなのよ」

 

 僅かな氷すら呑み下し、皺枯れた手が帽子を剥いで、そのツルツルの頭を撫でる。

 

「愉しかったわ。また、呑みましょう。今度は神域にある御酒でもってね」

 

 その優しげな手付きに僅か頬を染めた彼女が顔を上げようとした時。

 

 歌が終わった。

 

 パチパチと観客席からは結局、仲直りしたらしき男女が拍手をしている。

 

「………はぃ」

 

 彼女の席の前にはただ空になった酒器だけが氷もなく静かに雫を滴らせていた。

 

 翌日、アンデリット陸軍は第三層で新たな深層の遺跡を発見する事となる。

 

 その先頭には珍しく帽子を被らずにいる監察官とそれを怪訝そうに見つめる男の姿があるのだった。

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