第四十三節「ザ・モータル・シンス」
おお、我らの神よ。
何故、あなたは我々の畢竟を前に救いの手を差し伸べて下さらないのか。
あなたの為に捧げた年月は人生の半分を優に超え。
世の果てまでの賛辞を並べても足りぬ程の信仰と善意を捧げてきたというのに。
見捨てられる者があるとすれば、それはあなたの名を貶め、永劫の闇に消そうとした者達であるはず。
しかし、ああ、しかし、あなたの御救いは未だ来たらず。
あなたの御心はこの胸に届かず。
あなたの御印はこの身体に顕れず。
ああ、ああ、ああ……あなたはどうして我らをこのように試すのか。
それもまた必要な事ならば、耐えてみせようという者は力尽きていき。
今、此処にいるのは私一人。
おお、神よ。
クソッたれなる神よ。
あなたの子羊は何処までも絶望と諦観に沈み。
あなたの子山羊は何処までも奈落の底へと落ちていく。
その最中ですらもあなたが救わなかった彼らに何と言い訳すれば。
人を殺しては為らない。
人の妻を犯しては為らない。
人の物を盗っては為らない。
いつだとて、戒めてきた我々が何故にただ無為の最中へ砕け散るのか。
教えて下さい。
―――カチュリ、カチュリ。
闇の奥で懺悔のように悔いていた者の口から神を疑念を抱く人の心情。
その発露が幾度も幾度も零される。
合間に何かが潰される音。
―――カチュリ、カチュリ、カチュリ。
それはまるで小さな少し硬い木の実を齧った時のような歯応えを露わとして、殆どの者が聞いた事も無い、想像すらした事が無い音に違いなく。
―――カチュリ、カチュリ、カチュリ、カチュリ。
まるで悪夢のように連続して、神の疑念を並べていた声はやがて糾弾するようになり、最後には罵倒となり、その音すらも連続していく。
―――カチュ、チュチュチュチュ、カカカカカカカカカ、チュ―――ィィイイイイイイイイイイイイイイ。
高周波にも似て。
それが神を憎悪する存在の口から漏れる。
いや、漏れるというのは正確ではないかもしれない。
暗く暗く。
月夜の晩の巨木の下で……その“喋っていない方の口”が何度も何度も高速で獲物を噛み砕いていたのだ。
それも一つではない。
複数の口が喰らっている。
何を?
そう思う者は思わず巨木の下の影の中を覗き込み、後悔するだろう。
〈彼〉は人型をしていたが、彼の頭は人型ではなかった。
〈彼〉の頭は身体の数百倍の体積を持って、巨木のように縦長だったが、彼の口は一つではなかった。
〈彼〉には無数の口があったものの、彼の瞳も耳も鼻も付いていなかった。
〈彼〉は全裸であったが、その全てが屍蝋の色をして、まるでそのものであるかのように生気に欠けた不死者を思わせ、不気味な斑模様の死斑に汚染されていた。
〈彼〉は重力に逆らうように身軽な様子でカチュリ、カチュリ、と無数に口元から落ちる人骨を吐き捨てながら、霧中より外へと向かっていく。
〈彼〉がこのような形となったのは3日前。
大仰な事も無く。
一人、〈彼〉の神に祈っていた最中に変貌してしまった。
〈彼〉の仲間達は〈彼〉の贄となり、〈彼〉の変貌に歓喜を浮かべながら、殺されるとも思わず近付いて齧り付かれた。
〈彼〉は彼らの一人であり、彼らの神を熱心に崇める一人だ。
その神を憎悪するというのだから、相応に罰を受けねばなるまい。
それはそうだ。
だって、〈彼〉が信仰していたのは邪神だったのだから。
彼の額に相当するだろう肉体の正面の頭部に浮かぶ焼き付いた文字は曰く。
【夜劫(ノクス・アエテルニタス)】
本来、あらゆる言葉も発せないはずの屍蝋の面が邪神への憎悪を口にして、呪われながら、呪い返し、更なる呪いを受け、力を得て進む。
滅ばず。
終り無く堕ちていく〈彼〉は正しく呪われて苦痛と退廃と堕落に染まる悪にすら憎まれる存在だ。
人間の腐った死体を無数の口から半分以上下半身だけ露出させて、ダラダラと口元を赤黒く染めながら〈彼〉は本来あるべき己。
彼らの巨大なコロニーの残骸へと向けて歩いていく。
其処には影。
彼と同じく。
人の道から外れ。
その敬うべき邪神からすら疎まれた仲間達が“仲間達の残骸”を同じ様に喰らいつつやってくる。
空は月に支配されている。
ホウホウと何処からか梟の声がする。
「あの女だ」
「あの女を殺せ」
「あの女のところに行こう」
「あの女が我々を落した」
「あの女が憎い」
「あの女は何処だ」
「あの女へ復讐しよう」
「あの女はまだいるぞ」
「あの女はきっとあそこに」
「終りへと向かう門の傍に」
彼らの内の〈彼〉と〈彼の仲間〉は浮島の端へとヨタヨタと巨大な巨木のような頭を振って歩いていく。
そうして、そのまま倒立でもするかのように頭から傾いで奈落へと向かって己を投下した。
「あの女が、あの女が我々を落さなければ、まだ―――」
「我が子を喰らわず済んだのに」
「我が夫を喰らわず済んだのに」
「我が妻を喰らわず済んだのに」
「我が友を喰らわず済んだのに」
カチュリ、カチュリ。
仲間達と共に身投げする〈彼〉は思い浮かべる。
彼らの希望を打ち砕いた姿を。
あの修道女のような女を。
七教会の関係者だろう巨大な力の体現を。
轟々と鳴る風音の最中、〈彼〉と〈彼の仲間〉は無数に集って全員の口に突き刺さっていく剣獣(ソーディアス)の群れを喰らいながら、まるで剣山のようにソレそのもので腕のように足のように屍蝋の刃の連なりを四肢の如く生やしていく。
「ああ、神よ。何故、我々をお見捨てになったのですか。死ね」
憎悪よりも易く。
呪い呪われる人食いの柱の化け物は無限のように沸く屍の刃を鈴なりに増やしながら、霧の渦巻く永劫の虚へと落ちていった。
やがて、ブチ当たるだろう相手。
あの怪物修道女を殺す為に……。
*
「シャーイ」
「うぅ……我の自尊心が粉々に……慰めてくれるのか? シャイ」
「シャーイ♪」
よしよしと蹲った灰金の髪の少女を人造生物なる角在り幼女が撫でていた。
仲間達と巨大な店舗内で逸れて数時間後。
随分と長い事、罠に引っ掛かっていたイフィー・ファサルトスは気付いた時には気を失っており、起きたら幼女に顔を覗き込まれていた。
その後、ズーンと暗い顔で後悔する事、数分。
ようやく立ち直った彼女は時間経過してしまったものはしょうがないと気を取り直して、仲間を見つける旅に出ようと自分を撫でていた幼女の片手を握って虚空へと浮かび上がる。
巨大な店舗内に他の相手は見えない。
しかし、それでも探索は続行。
とりあえず、カウンターのテーブルに戻ってみようと高速飛翔しつつ元の位置まで帰ってみれば、そこにはすっかりと中身を平らげられた皿が複数並んでいた。
「これは……誰かが食べたのか?」
「シャーイ!!」
はーいと手を上げた幼女を思わずイフィーが凝視する。
「もしかして、一人で平らげたか?」
「シャイシャイ!!」
「どうやって?」
「シャーイ?」
首を傾げる幼女は自分の好物である巨大な飴玉すら食べらそうになかったのだ。
時間制限もある試練の最中。
どうやったら、あの極大の食料を胃袋に詰め込めるのか。
物理的にオカシイという事実のみが疑問として残る。
「……ちょっと、記憶を覗かせてもらうぞ」
「?」
首を傾げる幼女に仕方なく脳内の情報を映像化する高等魔術を掛ける事にして、耳元で魔術方陣を唇に展開した彼女がボソボソと【秘儀文字(アルカナ)】を声に出して詠唱する。
それが終わった途端。
幼女の頭上にノイズ交じりに映像が浮かび上がる。
シャイは他の仲間達が消えてからも飴玉を舐め続けていた。
しかし、そこからおかしな事が起こる。
あまりにも食事の時間が長いのだ。
数時間早送りしても未だ食事が終わる気配も無い。
やがて、巨大な店主がそろそろ閉まるよという言葉を発した頃。
店舗内に掛けられていた時計がボーンボーンと轟音を立てて、世界に響き渡り、シャイの飴玉を筆頭に殆どの料理が下げられそうになる。
それに慌てた幼女が皿と時計を見比べた後。
その手を壁掛けの安っぽいソレに向けた。
腕が捻られると動魔術が働いたか。
時計の針がギチギチと音を立てながら戻っていき。
やがて、グルグルと逆回転させられて、再び入って来た時間とほぼ同時刻へ戻った。
すると、店主が時計を一度見てから、「あらやだ。まだ時間じゃなかったかしら」と下げようとしていた料理を再び置いて、店の奥へと消えていく。
「……時刻を誤魔化す、か。だが、数時間に対して12時間以上の誤差? 本当に時間が撒き戻った? いや、それなら我に検出されないわけがない。恐らくコレは……」
シャイの映像はまだまだ続く。
早送り。
倍速から200倍くらいまで加速されると料理は次々に地道に食べ進められ、恐らく数ヶ月レベルの時を掛けて完食されていた。
「時間の早さを操作している、のか? 撒き戻した分だけ外よりも長くこの場で食べられる、と……」
「シゃーい?」
疑問符の付いた幼女の頭をイフィーが撫でた。
「救われたな……この回答に辿り着くまで本来どれだけ試行錯誤すれば良かったのか……」
「~~~♪」
褒められて「えっへん」と言いたげな幼女が胸を張る。
その合間にも戻った場所に異変が起きた。
奥から店主が再びやってきて、何やらカウンターに置くと店舗内に踵を返して立ち去っていく。
『あ~お客さんみたいな人が来たら渡してって頼まれての。ハイ、これ』
それは巨大な絨毯のようにも見えたが、名刺だと分かったのは文字が辛うじてカウンターに立っていても確認出来たからだろう。
「……御困り事があったら、フルーの何でも研究所まで。転送まで……残り3秒?!」
マズイと逃げ出そうとした矢先。
魔術の一つも脳裏で発動させられず。
イフィーの肉体のみが瞬間的に何処かへと消える。
「シャーイ?」
キョロキョロと辺りを見回して何処に行ったのだろうと首を傾げたシャイがこれからどうしようかと思ったところで。
「お~い!! シャイか!!? 無事だったんだな!!」
イルトと元魔王。
そして、リュオが其々に別方向から空を飛んだり、跳んだり、走って集まってくる。
消えてしまった少女の事をどう伝えようかと悩む間にもいつの間にか名刺は消えており。
再び、いつの間にか戻った時計の針が開店時間を刻み。
店舗の奥から店主が湯気を上げる料理や飴玉を巨人サイズで再び持ってくる。
「シャイ!!?」
再び食べられるのかと目をキラキラさせた人造生物がすっかりと自分の頭を撫でた相手の事を失念したのは無理からぬ事かもしれず。
また初めからの試練を前にしてリュオとイルトは顔から血の気を引かせたのだった。
*
灰色の世界にポツリと立つ一軒家。
普通の大陸西部ならありがちだろう石積みの家の横には研究所と粗末な板切れの看板が立てかけられていた。
大きさは普通。
周囲は砂漠。
しかし、その空だけがグレーな曇り様で他の色すらも褪せたような、空間すらも変質してしまったかのような、奇妙な映画のフィルムにも似た質感の現実を彼女は歩く。
(聖女フルー・バレッサは西部の出とは聞いているが、実際に自伝のようなものは出ていない。それだけではなく詳しい出自も実際には誤魔化されている。となれば、これが生家か?)
イフィーがただ木戸を金具で固定しただけの粗末な造りの家の前で僅か考え込み。
ノックをしてから返事が無いのを確認して、内部へと入る。
「―――これは……」
ズラリと天井の壁際に並ぶのは無数の刀剣だった。
あらゆる形、あらゆる種類が並んでいるようにも見える。
(伝説の鍛冶師。あの女の父の作品。もしくはあの女が打った……いや、断定するにはまだ早―――)
「あ、ようやく来たよう♪」
「?!」
背後からの声に振り向けば、家の手前の砂の上に丸いテーブルと椅子が二つ。
その一つに座った少女が、白衣に眼鏡を掛けた灰色の繋ぎ姿のフルー・バレッサが紅茶をカップから嗜みつつ、皿へ山盛りにされた小麦菓子(クッキー)や柔らかな菓子パンの類をバクバクと食べてはニコニコと彼女を見詰めていた。
「ふぁほはったね」
「食べながら喋るな。仮にも貴様は七聖女なのだろう? フルー・バレッサ・モドキ」
「モドキとか。あはははは、うん。まぁ、その通りだけどさ♪ ちょっと、座りなよ。此処に座って君や囚われた子に不利な事にはならないから」
「………いいだろう。御茶くらいはご馳走になろう」
「そうそう。世の中、もらえるものはもらっておくのがいいよぅ♪」
対面に座った少女の前にあるカップには湯気を立てる紅茶。
横にはクリームの小瓶と角砂糖が4つ。
それを全て入れて、大皿から菓子を齧りつつ、香り高い液体を喉の奥に流し込めば、思わず溜息が零れる。
それもそうだろう。
この今にも殺し合いでも始りそうな時間を前にしてのティーブレイクである。
「……率直に問いたい」
「ふぁーに?」
「だから、食べながら……いや、いい。このまま訊こう。お前は本物と何が違う?」
ゴクリと紅茶で菓子を喉へ流し込んだ白衣の瓶底眼鏡少女が肩を竦める。
「ん~~~悪意があるところかな」
「悪意?」
「そうそう。本物は怒りの権化だからねぇ……」
何でもなさそうな声で肩が竦められる。
「我は悪意を持たれているのか?」
「ん~~~聖女って一部、感情に支配されまくりなんだよね。怒りって純粋じゃない? 憎悪とかだって、ベクトルが違うだけで統一された感情って事では同じ様なものだろうし。だから、本物とボクの違いは誰かに悪戯するかどうか、くらいかなぁ?」
「悪戯で人間を別存在にクラスチェンジ。勝手な超越行為で命まで掛けさせる、と」
「だから、悪意があるって言ってるよぅ♪」
「どうしてだ。その悪意に理由はあるのか?」
「ふふ、どうだと思う?」
はぐらかす気も無いのだ。
ただ、聖女モドキは彼女へ確認しているに過ぎない。
そう、本物とほぼ同じ存在だと言うならば、目の前の相手は正しく超越者を超越する真に畏れるべき天災。
人の思考を読んだり、予測したり、計算したりなんて朝飯前だろう。
それはイフィー・ファサルトス自身が理解出来るくらいには理不尽な事実だ。
「嫉妬か?」
「それは僕の役目じゃないんだよねぇ」
「……憤怒、嫉妬……聖女達は其々に様々な感情をあいつに抱いている、と?」
「うんうん。飲み込みが早くて助かるよぅ。ま、対象がシンアとは限らないけど。今までそれなりに観察して来たでしょ? 聖女達には其々に属性がある。それは運命って奴が決めた僕らの性質そのもの……きっと、それは僕らが死ぬまで変わらない性だ。少なくとも、業から解放されない限りは……」
「何となく言いたい事は分かる。お前が怒り、あの寝てばかりいると評判の聖女が怠惰、他は本質的にまだ理解出来ていない我には推定出来そうにないな」
「メルフとかミュルトとか分かり易いよねぇ」
「ミュルト・ジオバトスが分かり易いだと? 魔王の双子と呼ばれた片方は怠惰なる聖女と評判で分かり易いが、もう一人は何だ?」
「嫉妬だよぅ。ちなみに神様の代わりになったあの人は傲慢。刀振り回すのが好きな人は強欲」
「フルー・バレッサの憤怒、ミュルト・ジオバトスの嫉妬、メルフ・グラネッタの怠惰、クラル・リテルの傲慢、ユアン・クオの強欲……ソィラ・ミクラとハティア・ウェスティアリアは……恐らく、暴食と色欲か」
「せいか~い」
パチパチと両手が叩かれ、賛辞が送られる。
「ほら、これで僕がどうして筆頭になってるのか。分かったんじゃない? 一番強そうでしょ?」
「……対応する獣、暗示される存在……お前達は……」
少女が目を細める。
「本物はそんなの知らないしねぇ? まぁ、そこまで分かってるなら、いいんだよぅ。そう、僕らはそういうものだ。感情に囚われてるから、聞く耳も持たないし、そもそも自分達の業を全うする事にしか興味が無いから、根本的に折り合いが悪い」
「聖女が全員で力を合わせてくれない“おかげで”……随分と助かっている」
「ふふ、だよねぇ。協調性無さ過ぎぃ……って、つるピカに呆れられるくらいだし」
愉快げに溜息を吐く少女がボリボリと菓子を口に放り込む。
「……何を知っているか。何を知らないか。それがお前達と本物の差だとあの老女は言っていた」
「そうだねぇ。それは特定の状況下では真だ。でも、偽になる可能性も否定出来ない」
「嘘になる、と?」
「僕は全部を知っている。いや、知らない事を知っているという点では僕の方が本物よりも人格的には“本物に近い”のかもしれない。けれど、その分……僕らには彼女達が持っているモノが足りない。それは僕らが偽である証拠でもあるんだよぅ」
紅茶がようやく飲み干される。
「君がもしも自分が本物の偽物にしか過ぎないと知ったら、どうする?」
「何が変わるものか。我の気持ちは此処にある」
「ふふ、じゃあ、逆に本物がシンアに寄り添う姿を見たら、どう思うかな?」
「……嫉妬くらいは覚えるかもしれん」
「じゃあ、問題です。僕ら偽物の聖女は本物がシンアと敵対する様子をどう見ているでしょうか?」
「……複雑な気分になるのではないか?」
「哀しいでも苦しいでもなく?」
「止めて欲しい。けれども、そうする気持ちも分かるから、と」
「ん~~少し違うかなぁ」
「では、本当のところはどうなのだ?」
その言葉に聖女が椅子から立ち上がってポンポンと膝の菓子の粒を払う。
「僕らはね。シンアの心の一部なんだよぅ。でも、だからって僕らはシンアに“本質的な同情”をしたりはしない。僕らは僕らがしてる事がどれだけ酷い事かを知っても、どれだけ悲惨な事か分かっても、それを本物に分からせてはやれない。僕らは本物が持っているべきモノを持ってない。でも、それを持っていたら、きっとシンアと上手くやれない。だから、僕らは偽物なんだよぅ。“本物に成りそこなった偽物”……」
「―――成りそこなった?」
少女が思わず、その不穏な呟きに反応する。
「この世界には運命があった。大半の者を救うだけの運命が。そして……シンアは優しかった……だから、救われない者すらも救おうとした……救ってはいけない人を救おうとした……だから、僕達は“用意されていながら”、本物にはなれない……本物が救われてしまう以上、僕らは絶対に……ただ、其処にあるだけのモノでしかない……」
空を見上げたフルー・バレッサ・モドキは肩を竦める。
「僕の悪意はそういうものなんだよぅ。君達だって、クラルの悪意を、ユアンの悪意を、見てきたはずだ。それがどんな名前でどんな行為だったのか。分からずとも……それは確かに存在する」
(聖女の悪意。いや、偽者だからこその悪意……か)
考えても、何が悪意だったのか。
それが分かり易い形で無かったのなら、自分に分かるわけも無いかと少女は瞳を伏せる。
「……君達が食べたものは本物なら君達に絶対食べさせなかったトッテオキかもしれないし、君達が経験した攻撃は本物なら君達に絶対喰らわせなかったイチゲキかもしれないし、君達が直面する僕の悪意は……本物ならきっと押さえられたコウイなのかもしれない……そういう事なのさ」
ふわりと聖女モドキが少女を前に浮いていく。
その瞳に怒りはない。
ただ、何処か硝子細工めいた輝きがゾッとする程に今まで如何なる難敵を前にしても奮い立って来た、起たせて来た彼女の心を……圧し折る勢いで圧迫する。
「?!!」
「僕は怒ってない。だから、おそらく……“本物より怖い”よ? きっと……」
思わず戦闘態勢を取ったイフィーが、そのままグラリと傾いだ。
「―――ッ」
微動だにしない肉体。
動けと思う事すら不可能な精神。
何故とすら疑問を抱けない心理。
「試練を一つ課そう。もしもクリア出来たなら、柱の場所を教えてあげるよぅ……頑張って、絶望していってねぇ♪」
灰色の空の下。
小さな懐中時計が偽聖女の手の中で開かれる。
「ご飯も食べたし、さ……仕事仕事ぉ。ふふふふふ♪」
灰色の世界に少女が呟き。
灰金の少女は瞼が落ちるのを堪え切れず。
意識を強制的に手放す事になったのだった。
*
―――???
チュンチュンと雀の声に目を薄ら開ければ、其処は白いシーツと薄いブランケットの狭間。
妙に視界が滲んで歪み。
欠伸をしながら、上半身を起こせば……彼女は殺風景というには花瓶が一つ生けてある壁紙も草柄の室内で小首を傾げた。
カーテンの先からは光が差し込んでいて、そっと起き出して開けば―――。
「 」
何か衝撃を受けたような感慨。
しかし、見慣れた景色。
そうだ。
此処は大陸中央諸国のど真ん中アルヴィッツの地方都市。
何処まで続く住宅街とその先にあるビル街。
それを見渡す小高い造成地の一角にある一軒家。
瀟洒で小奇麗な家々が立ち並ぶ中。
邸宅と言っていいはずの場所の一角。
窓の外は3m下の坂道に続き。
風が吹き抜ければ、心地良い一等地なる我が部屋。
「……?」
とりあえず、とりあえず。
彼女は、イフィミスラ・ファサルトスは、だらしなく崩れた下着姿のまま。
もそもそと床を歩いて洗面所に向かう。
そのまま傍の風呂まで行って脱ぎ、近頃気に成り出した未成熟な己の身体を曇りの無い浴槽横の立て長な鏡に曝しながら、歯を磨きつつ、もう張られている湯に入る。
時間が無い。
シャコシャコしている内に茹で上がった彼女が今度はシャワーを浴びて、短めな髪を洗い。
プルプルと子犬みたいに顔を振って水気を弾き飛ばした後、まだ半分くらいしか目が覚めていないままに風呂場から脱衣所まで出て顔も洗って体も拭いて、順番もチグハグの状態でどれから何をすればと考えながら、結局結論も出ずに全裸で自室に戻り、下着を付け、ブラウスを着て、スカートを履き、最後に首元にタイを巻いて……ああ、そうだと室内の机の上にあったやりかけの宿題に2分程スラスラと問題を読んでいないような速度でペンを奔らせ、黒皮製の鞄に突っ込み。
『ご飯ですよ。イフィミスラ~』
母の求めに応じて、一階へと通路の中を降りていく。
緩やかな螺旋階段の下。
広々としたリビングと一体空間型のキッチン。
大きな10人は囲めるだろう長いテーブルの端には母が好きだと言っていた東部式の朝食。
米と焼き魚と東部調味料製のスープが白い陶磁器に盛られて待っていた。
その横で席に着いて待っていた―――〈母〉は微かに儚げな微笑で。
「おはよう。イフィミスラ」
「おは……よう……かあ様」
そう彼女は寝惚けたように滲む視界の中で呟いていた。
「さ、食べましょう。学校に行くまで時間もそんなに無いわ」
「はい」
麗らかなレースカーテン越しの陽光に照らし出された埃一つ無いリビングで朝食が始る。
東部式の箸を片手に食事に勤しめば、どれもこれも美味く。
焼き立ての魚は熱々でスープも白米もホカホカ。
その湯気越しに見えるのは彼女に似た容姿の……母親というよりは姉妹に見られる事の多い姿。
まだ年齢が20代を超えていないと言われても頷ける近所でも評判の若奥様は未亡人。
しかし、近頃は傍にある教会の少し歳のいった司教様とよく話している姿を見る者が多く。
アレは犯罪だとやっかみ混じりで男達はその関係を羨みつつ噂していたりする。
サラサラとした自分よりも長い髪。
ふんわりとした優しい笑顔。
その衆目を集めるに足るだろう美貌は化粧も殆どしていないのに化粧したようなクッキリとした印象を相手に与えるだろう。
美人と評するのは簡単だが、それよりも人の良さそうな人というのが彼女の母親。
エスミラ・ファサルトスのご近所評判である。
「かあ様」
「なぁに?」
「……朝食、美味しい」
「そう。良かった」
「……その」
「?」
「明日の参観日は……」
「勿論、行きます。だって、イフィミスラの晴れ舞台ですもの。うふふ」
「は、晴れ舞台では、ない……ふ、普通だ」
「そうなの?」
「う、うむ」
「そう言えば、学校で近頃何かあったのかしら? 一週間前くらいからポヤ~っとして帰ってくる事が多いけれど」
「ッ、そ、それは……」
「?」
「が、学校で……その……助けられたのだ」
「助けられた?」
「う、うむ。我が体育の途中でボールに当たりそうになっていたのを2年の先輩が身体を張って……」
「まぁ、それは感謝しないと。今度、何か贈物でも持っていってあげなさい。それでどうしてポヤ~っとしていたの?」
「その……先輩が他の女性の先輩とその……」
「女性? 相手は男性の先輩だったの?」
「何だかナヨナヨしている癖に妙な粘り強さというか。微妙に中性的なのに男らしいというか。優しいというか。その、とりあえず……女誑しなのだ!!」
「女誑し? 御付き合いしている方が一杯いるの?」
「う、うむ!! けしからん!! 2年や1年や3年と全学年にく、9人も恋人というか。それっぽい相手がいるのだ!! それだけに留まらず!? 学外にも恋人というか。親しげな娘達が大量にいるのだ!! しかも、その誰もから好かれているというか。イチャイチャしているのだ!!?」
「まぁ、ドンファン、なのね?」
「そ、そうだ!! そうなのだ!! けしからん!! 我の気持ちも考えて欲しいものだ!!」
「……その娘達と男らしいけど中性的で優しい先輩が何かしてたの?」
「?!!」
「あら、これはこれは……してたの?」
「そうなのだ……ちゅ、ちゅーしていたのだ」
「ちゅー?」
「そうなのだ!!? 我が追い掛けていったら、都市の端にある公園でちゅ、ちゅーをしまくっていたのだ!!」
「まぁまぁまぁ、スゴイのね。近頃の学生さんは」
「そういう問題ではない!!」
「で、イフィミスラはちゅ~してもらったのかしら?」
「ブホ?! し、しているわけが無いではないか!? かあ様!!?」
「あら~~これは重症ねぇ……分かりました。では、しっかりとその娘達から奪ってきなさい。ふふ、ファサルトスの女は強いのよ。せめて2番か1番に食い込めるよう努力なさいな」
「な?! か、かあ様?!!」
「あ、そろそろ時間よ。言ってらっしゃい。ふふふ」
「ぐ、ぐむ?! もうこんな時間!? う、うぅ……かあ様は時々、過激だ……」
「あら、そうかしら?」
食事を終えた彼女は立ち上がって、少し紅い顔でペコリと頭を下げてから、そのままテーブル横の弁当を鞄に入れて、走り出す。
玄関先で革靴(ローファ)に足を入れて、玄関を出れば―――そこはもう初夏の兆しが見え始めたアスファルト製の舗装が延々と続く道路。
世界の果てまでも続く始まりの場所を前にしてイフィミスラは……その道行きの先。
あの少年が大勢の少女達に囲まれて歩く姿を見付け。
「何であの馬鹿者はあ、朝からッ、ちゅーしているのだぁ!?」
そう怒りに身を任せて猛烈にダッシュした。
その後頭部に跳び蹴りを食らわせてやる為に。
『マゥヲ~~~?』
そんな様子の少女の家の屋根の上。
何やらキョロキョロしていた黒猫が彼らをチラリと見てから何処かへ向かって走り出す。
小さな試練の始まりに少女は何処か胸躍らせていた。
こんなにも明るい日々を彼女は、イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンドは、知らなかったからだ。
何一つ……本当に何一つ……。