第四十六節「美しい人」
長い長い夢を見ていた。
これは何かと彼女は悩む。
この現実は本当に自分の人生だったのかと。
暗がりの中から這い出て来たような、ようやく手にした宝物を何処かに落としてしまったような気持ちとなる。
彼女は全うな人生とやらを歩んできたはずだ。
普通の家に生まれて。
普通の家庭に育って。
普通の学校に通い。
普通の学生となり。
普通の友達を作り。
普通の恋人を見初めて。
普通の恋愛をして。
普通に卒業し。
普通に就職し。
普通に子供を産み。
普通に子供を育て。
普通に老い。
普通に死んでいく。
幸せとはそういうものだと彼女は思っていた。
ああ、そうだ。
それが正解なのだと。
だが、本当にそうだろうか?
それなりに愉しい人生だったのだ。
それなりに嬉しい人生だったのだ。
だから、分かってしまうのだ。
この現実の酷さが……苦しさが、痛みが、何もかも押し寄せてきて、彼女は思うのだ。
こんな人生はきっと間違っているのだろうと。
夢の中で彼女は伴侶に看取られて。
幸せな最後を送ったはずだ。
世界を相手に大立ち回り。
何もかもを置き去りにして、そこまでして……少年を助ける旅をする、なんて……きっと、普通の人間ならば、諦めてしまえる程度の事だ。
だって、そうだろう。
その人生の終りに戻ってきた全てが教えている。
この道の先にはきっと困難ばかりだ。
だから、彼女は死人のような目で、小さな目の前の扉を見る。
それは館の扉だ。
開けてしまえば、戻れない扉だ。
【――――――】
何もしなくてもいいのだ。
終わってしまった事なのだ。
自分の人生は幸せなものだった。
だから、今更……苦痛と後悔と絶望に塗れた道を往かなくてもいい。
でも、不意に……彼女はあの日の声を聞いた。
扉の前で一人の少年と一人の少女が……崖の上から落ちたあの日の光景が劇でもやっているかのように……白い空間の白い床の上で上映される。
――――――ああ。
そうだ。
そうだったのだ、と。
彼女は思う。
自分の顔を見て。
相手の顔を見て。
何て事の無い事実に気付く。
この夜の最後の最後の最後まで小さな出来事に過ぎないだろう出会いの中。
自分は泣きそうな顔をしていた。
自分では気付かないくらいに不安そうな顔をしていた。
だから、きっと、あの少年は目の前の少女にあの時の笑顔を見せたのだ。
誰より苦しい癖に、誰より痛いのが辛い癖に、何て事の無いような顔で、いつもの事さと嘯くような顔で、あの……困ったような笑みをちょっとだけ己の中に押し込めて、己の人生に失望していた生贄に……大丈夫だと言う為に……あんな笑みだったのだ。
燐光の中で血が消えていく。
傷は治っていく。
だが、本来そんな風に傷付く必要すらなかったはずだと今ならば分かる。
一瞬で跳躍し、華麗に少女を救う事すら出来たはずなのだ。
ならば、あの日、あの時、あの場所で少年が少女に伝えたかった事は……きっと、とても単純な事なのだ。
彼女は知る。
生贄となって無理をしていた自分にあの“大馬鹿者”が本当に伝えたかった事。
それが何なのかを。
『お前は最初から……我に教えていてくれたのだな……例え、全てに裏切られても………君は一人じゃないと……』
馬車の旅路。
初めて止まった宿屋。
台車で眠った夜。
少年が温もりを持ち寄ったのは自分が寂しいからではないのだ。
ずっと、その寒々しさに耐えてきた相手が、それを求めなくてもいいだけの強がりが、あの“魔王様”にはあった。
「お節介め……世界で一番分かり難い……いや、我が愚かで小さな子供だったのだ……何も分からず……ただ、お前の善意と温かさに溺れて……何も見ていなかったのだな……」
人を愛するのはとても簡単で難しい。
けれど、それが無ければ、きっと今にも壊れてしまいそうな子供を前にして、シンア・ザ・クリティカル・アンラッカーは……魔王と呼ばれ、ただティアと己を名乗る少年は……きっと、それを伝えたかった。
傍で眠る自分の何と幸せそうな寝顔か。
馬車の中。
小さな寝息を立てる自分を横にいつまでも眠らずにいい誰かさんは小さく……きっと、夢の中にすら届かないくらいに小さく、呟いていた。
―――あんまり長い間は無理かもしれないけど、君が泣かなくていいようになるまでは一緒にいるから……イフィミスラ。
世界に亀裂が入る。
白は何も無い虚空をその先に曝していた。
「馬鹿者……馬鹿者め……ああ、我の大馬鹿者め……何が助けるだ……何が苦痛と後悔と絶望に塗れた道だ……そんなのはとっくの昔にッ、あいつと出会った時に終わっていたではないか!!」
扉が開く。
世界は変わっていく。
終りもなく。
新しい戦いが始る。
だが、それは人の常だ。
其処が自分の戦場だ。
誰の戦もまた人生ならば、己の戦もまた人生なのだ。
イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンドにとって、この幸せな世界をもっと幸せにする方法はたった一つだけ。
―――おやすみ、イフィミスラ……可愛いよ。
あの一番言って欲しい事をひっそり相手の耳に聞えないよう囁く臆病者が、自分の傍で誰からも愛していると言われ、困った笑みを浮かべ続ける……そんな、未来を手にするしかない。
「待っていろ。今行く」
可愛いではなく。
今度は美しいと言わせてみせる。
それは女としての彼女の目標で……何てことない普通の女の子だったイフィミスラ・ファサルトスが目指していい……そんな、恋した相手への我侭だった。
走って扉が潜りながら、その先に溢れる閃光の中、彼女は全てを仕組む白衣に瓶底眼鏡の少女がこちらに手を上げて、フレンドリーそうな笑みで、何か愚昧な事を言う前に……その拳を頬に叩き込んでいた。
「我はティアが好きなのだ!! 覚えておけ!! この恋愛敗北者め!!」
砂の世界に嵐が“響く”。
そう、これは前触れ。
単なる前哨戦に過ぎない。
渦巻く魔力の咆哮が世界の果てまでも白衣と眼鏡とその余裕な笑みを吹き飛ばしていった。
その延々と続く横向きの渦の最中。
頬を打ち抜かれた少女はその部分を片手で触ってから、己の手に何処から取り出したものか。
一挺の拳銃を虚空から掴み取った。
今や何も表情を浮かべない―――能面のような真顔が少女を前に目を細める。
「それ“本物の僕”には言わない方がいいよぅ。あっちは僕みたいに優しくないからねぇ……じゃあ、ちょっと僕も本気を出してみようかなぁ……今のは大いに傷付いたからさ」
「望むところだ!! 我は―――」
魔力の渦が弱まるより前に灰金の少女の肉体の3分の1が衝撃に砕け散り、両手と左下半身が血肉の汚泥と化し。
だが、その再生。
いや、魔王の従者たる復元能力によるものか。
燐光を零しながら、全てが逆戻しのように修復されていく。
「お前などに負けてやるつもりなどない!! あいつを救う事を、大好きだと言ってやる事を、諦め切った貴様等聖女などに負けてなるものか!!?」
突撃、拳が汚泥と化して砕け。
しかし、形を保ちながら燐光を吹き上げて、突き出され、それでも白衣も眼鏡も無い少女の顔を血肉の泥のまま汚しながら、傷付けられずに貫く。
まるで腕の内部に頭部があるような不自然さ。
だが、お菓子好き聖女が動じる事は無かった。
「僕の奇跡に付いて一つ講釈しておくよぅ。クラルは唯一神の力。ソィラは全てを破壊する力。ユアンは全てを奪う力。ハティアは自分を無限大に等しく強化する力。メルフは全てを同化する力。ミュルトは何もかもを従える力。では、僕は、聖女筆頭であるフルー・バレッサはどんな力を持ってると思う?」
少女の肉体は未だ復元を続けている。
だが、続けているだけだ。
元に戻ろうとする力と別の分解しようとする力の間で拮抗している。
「この惑星の知的生命の全てを屈服させる【真権(パーフェクトゥム・インペリオ)】を凌ぐのだろう!! ならば、それは―――」
拳銃がイフィミスラの胸元に打ち込まれようとして、初めて回避行動が取られた。
しかし、あまりに離れるのも愚策かとその距離はたった5m。
一速跳びの間合いだった。
「正解は君自身で確めて貰おうかなぁ」
拳銃がその手にはあったはずだが、何故かいつの間にか黒炭の欠片になっていた。
ソレがツイっと虚空を滑れば、文字と数字と記号が全天を覆い尽す勢いで黒炭の欠片から噴出して何事かを虚空へと書き付けていく。
「!?」
「理解出来るようにデコードして表現までしておいたけど、どう? 分かった?」
「記述……だが、魔術の類ではない。奇跡がコレ……いや、この数式の群れは―――」
何もかもが数式で世界を埋め尽くしていく。
その最中も黒炭を虚空に滑らせていた少女はカッとまるで黒板に何かを書き終えるような音を響かせて、腕を下ろす。
「僕って非力なんだよねぇ。聖女中最弱。ミュルトやメルフより身体能力無いし、パーティー内だと足手纏いだったんだ。だからかもしれないねぇ。僕の奇跡がコレだったのは……」
描き出された世界を覆い尽す数式。
その最中を歩きながら、フルーがその一部。
手直にあった文字列を握り潰した。
途端、イフィミスラの肉体が泡立ち、沸騰するかのように煮え立ち始め、その肉体の全てが耀く燐光を吹き上げた人型と化す。
「今、この世界の規定を一つ握り潰したんだ。世界の恒常性が働いて元に戻るまで君の肉体は常温で沸騰状態だよぅ」
『―――ッ、セカイを!?』
「ああ、僕らって、この世界の生命ってさ。奇跡なんだよぅ。その奇跡的なバランスって言うのはこの世界の何一つ欠けても保てやしない。例えば、この宇宙が生まれてから“場”が破れてなかったら? 例えば、素粒子のスピンに関する値が今とは違っていたら? 生物の発生する条件が一つでも違えば、その世界には何も生まれたりしない」
『ソレは―――!?』
「この世界の物理法則や魔術法則は規定する素粒子や空間や波、色々な事象が複雑系として関わってるんだよぅ。で、それを一部利用する技術があり、技能があり、学問があり……じゃあ、世界の規定を書き換えたり、消したりしたら、どうなるでしょーか」
そう言いながら、フルーが再び黒炭で周囲にあった文字列の一つに何やら書き加える。
途端だった。
燐光が今度は人型すらも保てずに爆発的な耀きを噴出させる。
もう少女の声は聞こえていなかった。
「全部、成り立たなくなるよねぇ? 僕のライフワークは大抵そういうのの発見だったりするんだよぅ。あ、ちなみに今君を襲ってるのは物質の結合に関する記述の一部を書き足したから起こる事象だよぅ。簡単に言うと今の君の肉体を構成する物質が通常環境とは違ってデタラメに別のものに結合してる状態。だから、肉体が崩壊どころか。即死というよりは“生物的な存在は維持出来ない”はずなんだけど……まぁ、シンアの力を借り受けてれば、そうなるよねぇ。シンアはさ。僕らと黄昏の悠久戦争の最終盤で戦った時、この書き変えと消去と書き加えで3242321405409232項目くらいの規定を弄ったんだけど、ダメだったんだよぅ」
もう声は聞えない。
だが、それでも燐光の塊はフルーに向かって動こうとしていた。
「あ、ちなみにこの能力って僕そのものは対象外になるみたい。僕も自分を弄ってみたかったんだけど、自分で自分を書き換えるのは因果律的な矛盾?みたいなのが起きるらしくて。タイムパラドックス的な理由からなのか。最終的には不可能なんだ。可能にしてもいいんだけどさ。今度はそうすると世界が壊れかねないみたいでソィラの御株を奪わないように自重してるんだよねぇ」
聖女筆頭はもがく燐光の塊を前にして苦笑する。
「悪いけど、今の君じゃ本物に傷一つ付けるのも無理じゃないかなぁ。シンアの下位互換じゃね。まぁ、僕は“非情に優しい”から、今日はこの辺にし―――」
ゴシャリと燐光が凄まじい勢いで伸びて今一度聖女の頬を打った。
「………ぅん。いいよぅ。それはとっても面白い選択だ。けど、僕だって女の子だからねぇ。まぁ……自分はこういうのとは無縁だと思ってたんだけど、偶にはいいか……」
周囲の文字列に何やら書き加えるやら、握り潰すやらする事数秒。
燐光が収束した跡には煙を上げて僅かに荒く息を吐くイフィミスラが全裸で体を持ち直そうと聖女を睨み付けていた。
「殴り合いしよっか? 奇跡は使わない。だけど、僕の発明品と兵器類を使わせてもらうよぅ。それも何とこの“周辺星系が壊れない程度の代物”ばかり。その上、他人を気に掛けなくてもいいように空間創生結界まで張ってあげる心配り。いやぁ、僕ってサーヴィス精神旺盛だよぅ」
世界から文字列が掻き消え、その代わり虚空に空間の歪みが現れたとかと思うと全天を覆う程、何かしらの物品が排出されて浮かぶ。
剣や槍や銃、火砲や小銃、盾や甕、他にも黒い正方形やら船やら、縄や碇、まるで関係性も分からないような、雑多な代物が兵器類から雑貨や小物類まで多種多様に空の果てまでも埋め尽くしていく。
「じゃあ、まずはコレからイってみようかなぁ? ナンバーはええと10桁飛んで9番。単に惑星が砕ける普通の【超重力破砕砲(グラビティ・バニッシャー)】(高格外套に100年後くらいに積む用の大型試作品)を発射ぁ♪」
砂が暗き歪曲の中で散っていく。
「!!?」
巨大な世界の全てを飲み込むような暗黒の球体が、超重力崩壊、ブラックホールが世界の上から振り落ちて、何もかもを飲み込んでは引き伸ばし。原子一つすら数m離れるような空間歪曲によって分解していく。
(………シンアッ!!!)
そうして、灰金の少女と砂の世界は闇に飲まれていくのだった。
*
蒼い瞳が霧の街を駆け抜ける。
廃墟となった浮島の一つ。
本来ならば、蜜碑を獲る軍の船が停泊しているのだろう埠頭も程近い倉庫街は今や黒い肌の人型が屯する化け物の宝庫と化していた。
仮面の文字を読み取るのも惜しいような絶え間ない敵の襲撃。
どれだけの敵がいたものか。
走り続ける彼女を中心に物事が動いているかのような錯覚が起きる程、緻密な敵の追撃は機械のように正確だ。
屋根の上を蹴り付けて跳び。
周囲の大小揃えた人型を切り払いながら進み。
背後から迫ってくる相手には単純な火球を放つ魔術で吹き飛ばして突き放し。
大仰な立ち回りをしながら薄暗い世界で色褪せた街並みに紛れて何千合を打ち合ったか。
殆どは雑魚。
気を付けねばならない相手は殆どいない。
屋根上から飛び降り、倉庫街の終り。
大通りに出た彼女が見たのは大通りをまるで棚に瓶を敷き詰めたようにも思える密度で満たす群勢。
切り払いながら進むにしても骨が折れそうだとその刀が突進と共に閃けば、音速を超える鞭のような腕が彼女に何千本向けられていても、全てが斬り落とされて霧へと溶けていく。
まるで大型重機で地面を均すかのような進むだけ後に道が出来る彼女の背後には霧の濁流が吹き抜け、正しく大洪水のように後に迫る敵を僅かに遅滞させ、押し流す。
100m20秒。
遅いと断じられても、敵を切り開きながらの速度だと言えば、誰もが驚くだろう攻撃速度。
今の相棒との合流地点にどうやら無事付きそうだと思ったのは普通なら正しい判断だっただろうが、その耳に異音が響いたと同時に状況が一変し始める。
カチュリ、カチュリ。
そんな肉を挽潰すような深いなおぞましい音色。
これを聞いて、何故か化け物達が今の今まで餌に群がる蟻のように少女を狙っていたのが嘘のような勢いで引いていき。
少しずつ近付いてくる音源の方へと霧に呑まれて消えていく。
それは彼女の前方。
約200m先。
『メ、め、め……めだり、り、り、オーン』
壊れた機械が再生するかのような音声。
それはくぐもっており、肉と唾液がグチャグチャと混ざる聞き取り難い雑音にも思える。
だが、その化け物達が通りから一斉に消えた霧の先。
一瞬、霧が揺らいだかと思えば、ヌゥゥゥッと突如地面から何かが立ち上がるのをサヤトネは目撃した。
カチュリカチュリカカカカカチュチュチュチュ、ゴクンッ。
巨大な塔。
そうとしか思えない撓る物体がヨタヨタと左右に振れながら、彼女の目前へと迫る。
その塔のあちこちにある口はようやく飲み込み終えた……明らかに体積的に不可能なはずの“食事”を足の先まで飲み込んでニィィィッと唇をひん曲げた。
「これは……」
恐らく30m近くあるだろう。
巨大なソレの全体がようやく彼女にも分かった。
霧が晴れていく。
否、吸い込まれていく。
塔の表面にある無数の口が吸引しているのだ。
それに体を持っていかれそうにはならないが、竜巻の中心に物体が引き込まれるような現象で街の大半の屋根瓦が巻き上がり、口内へと消えていく様子は悪夢のようにも見えて。
更に体積が肥大化していく様子は恐らく普通ならば絶望するに足る。
『メ、メめ、メダリオーン』
また口の一つが呟き。
その塔の背後。
巨大な円筒すらも超える溝色の魔術方陣が展開され始める。
だが、その円環に使われている文字は大陸でメジャーな既存の文字のどれとも合致しない。
そして、禍々しいという印象を受けるのも確実だろう。
それ程に刺々しく、毒々しい。
『神よ。死ねシネシネシね死ね―――』
口が昭和する大音量と共に魔術方陣内から噴出すようにして霧ではない瘴気の類が目に見えて周囲に満ちていく。
サヤトネは自らの肉体への影響を因果律から切り離しつつ、周囲でその瘴気に触れた建造物や大地が腐りゆくのを目撃した。
今までの屍蝋の仮面とは明らかに違う。
それが分かっていても、蒼い瞳には何の躊躇も戸惑いも無かった。
立ち止まっていた足が動き出し、その塔の如きものを両断するべく跳躍する。
しかし、ゴッと敵の方が早く動いた。
恐らくは音速以上。
その鈍重そうにも見える肉の塔が怖ろしい速度でサヤトネに向けて振り下ろされる。
それは正しく剣のように己を使った。
だが、ガギリと真正面から虚空で受け止めた少女は己の両足の下に魔術方陣を展開しながら、その唾液と瘴気と膿と血生臭い息を吐く口に刃を噛み止められていながらも冷静に力を込める。
途端、真横に両断された屍蝋の仮面が、塔がズレて半分程が背後の地表へと落下する。
それでも未だ相手は肉体全てが霧に返る事なく健在。
一瞬の引きが終わった後は乱打に切り替えたか。
高速で相手に接触と打撃を繰り返すヒット&アウェイに移行した。
それを虚空で器用に避けながら直撃だけを刀で逸らした彼女は並みの巨大な構造物が音速で加速するという銃弾よりも悪辣な打撃を受けながらもケロリとした様子で敵を観察。
最後には相手の直上へと移動して、刃を投擲した。
相手が突撃してくると睨んでいたか。
折れた塔の断面から無数の唇が表出して、その内部の乱杭歯のビッシリと生えた壷の如き口内から瘴気と同時に歯そのものを発射する。
正しく弾幕と言うに相応しいだけの物量。
であるものの、投擲された刀の得から魔術方陣が展開したかと思えば、全ての牙の弾丸を弾き散らして、そのまま刃先が相手の中心の口内に飲み込まれ、落ちてきた方陣が展開されたままに相手をミンチにしながら押し潰していく。
超高重力による見掛け上の質量増加。
その刃に掛けられた魔術は絶対にその化け物程度の力では壊せない方陣と全てを押し潰す重力異常による威力増加によって相手を上から圧縮、耐え切れず次々に拉げながら、口内を潰れさせ、最後には本体人型部分が股下まで裂かれて潰れた。
まるで果実をジュースにするような光景。
悪夢に出てきそうな血肉の濁流が次々に霧の爆風へと変わっては周囲に拡散していく。
刃を再び手元に動魔術で回収した頃にはもう周囲に化け物は一匹も見えなくなっていた。
(喋る新手……どうやらこちらで間違いないようですね……この状況の元凶の詳しい居場所を早く特定しなければ……あちらはどうなっているでしょうか?)
魔術での通信を確保していないのは単純にもうそれが不可能な域にまで霧の影響が強くなっているからだ。
分散して周辺地形の状況を調べていたはずの男の方にも恐らく同じ様に強敵が現れているだろう。
その現在位置はこちらとは反対側の港。
そろそろ合流しようかと彼女が街の中をまた駆け抜けようとした時。
不意に翳った空を見上げて、その蒼い瞳を大きく見開かせた。
それは遥か上空から降ってきていた。
島。
そう、小さいとはいえ。
島と同等の面積にある何かが点というよりは面となって落下してくる。
そして、その表面には先程と同じように無数の口が……今度は恐らく口一つで家一軒を数棟喰らえるだろう大きさで……存在していた。
インパクトまで10秒も無く。
彼女は気を引き締める。
そうして、ソレが島を直撃した瞬間。
大地は割れ、喰らわれながら、ソレそのものと一緒に破片の濁流となって彼女達がいた島は更なる大深度へと落ちていった。
*
モシャモシャモシャモシャモシャ―――。
自分達の好物が並んだ店舗の中。
一人の青少年が普通の大食いに勤しんでいた。
食べる事、20分。
ようやく全員分を食べ終えたイルト・イナーシタがフゥッと息を吐く。
『イルト君。これで完食ですよ!! よくやりました』
「あ、ああ、何つーか。方法を考え付けば、呆気ないというか。これはさすがに思い付かなかったな」
今現在、彼は店舗の中で普通に椅子へ座り、普通に飯を食べ終えた。
それは取りも直さずイルトが巨大になっているという事だ。
ついでに胃と小腸、大腸の機能を強化した為、もう食べたものの消化が始まっているだろう。
『じゃあ、タイムリミット前にトイレにでも行っておいて下さい』
『シャーい!!』
カウンターの上の小さなミニチュアにも見える師と人造生物幼女。
二人に促されて、イルトが店の奥にある扉の奥へと消えていく。
「ふぅ。これでようやく試練はクリアでしょうか。時計を戻して時間を稼ぎつつ、概念魔術で肉体を拡大して、食事をして排泄まで行えば、後は元に戻しても大丈夫でしょう……」
「シャーイ!!」
とりあえず、最後の飴玉を削った欠片を口に放り込み飲み下したシャイが嬉しそうに両手で万歳した。
「イフィーが恐らく試練を突破したと考えたのは妥当……そちらの記憶を除かせてもらって正解でしたね」
「シャ~イ?」
首を傾げる幼女に苦笑しながら、それでも種が割れた手品を見破るような試練の解き方をしたので少し悪いかとも思いつつ、リュオは一息吐く。
その合間にも店の奥から店主が再び名刺を持ってきて置くと戻っていく。
「……どうやら我々は別の場所に飛ばされるようですね」
名刺には訪問したかったら押してねと紙の端にハートマークが書かれている。
「無事に突破出来たようだな」
今まで何処に行っていたのか。
グラフマンがようやく彼らの下に姿を顕し、後方から歩いてきていた。
「おかげさまで……一つ聞いてもいいでしょうか? グラフマン」
「何だ?」
過去の魔王。
その一人と己を示した彼がリュオに瞳を向ける。
「あなたの実際の存在理由に付いて」
その鋭い眼光の男を前にして、嘗て大陸に王として君臨した魔族は肩を竦める。
「実際とは何を指す?」
「……魔王の一欠けら。貴方は何故我々を導くのか。そして、何故我々を手助けするのか。これが本当にただ説明されただけの理由ならば、何も問題はない。しかし、それを無邪気に信じていられる程、子供でも無いんですよ」
「……ふ、では訊ねよう。聖女は何故聖女として此処に存在すると思う?」
「聖女……偽聖女達の事ですか?」
「ああ」
「それは勿論、聖女と魔王に深い繋がりがあるから、では?」
「正解だ。だが、その魔王との繋がりがどうして今代だけのものだと思う」
「どういう事でしょうか?」
「嘗て、今代の魔王以外の時代にも聖女はいた、という事だ」
「……それが今の聖女とどう関係があると?」
「全ては大いなる者達の掌の上。だが、今代のように嘗て聖女を求めた魔王もまたいたのだ。自分が駒だとも知らず、非業の死を遂げる者達を愛した者がな……」
「それが、あなたであると?」
「さぁ、それは自分で調べるといい。しかし、どうしてこう我々は惹かれるのだろうな。魔王と聖女。そんな正反対な存在と認識されていながら……」
「男と女だからでは?」
リュオの言葉にグラフマンが僅かに唇の端を曲げた。
「過去には女の魔王もいた。そして、聖女を愛した者すらいた」
「それは随分と先進的な……それに随分と詳しいようで」
「ああ、これでも力無く非力だったからな。こういった調べは生前得意だった」
「酷界の恐ろしさがその言葉だけで垣間見えますよ……」
リュオが僅かに相手の力量ですら魔族の世界では弱小なのかと溜息を吐く。
「これは推測に過ぎないが……恐らく、我々と聖女は幾度と無く邂逅しているのだろう。転生を繰り返し、やがて“来るべき日”を迎えんが為……何度も何度も時と空間を越えて……そうして我らが末とあの女達はこの時代に収斂されたのだ……恐らくは……」
「転生……魔王と聖女は昔から戦ってきたと?」
「違うな。愛し合う為にこそ戦わされていた。そうオレには思える」
「……色々と魔王というのも大変な事情をお持ちなのですね」
リュオには正しく推測しか出来なかったが、今の話を聞く限り、魔王も聖女も随分と昔から誰かの手で踊らされてきた被害者のようにも思えていた。
何かをする為に集められた彼ら。
それを取り巻く人物の一人が自分という事ならば、正しく己は脇役。
そうして……恐らくそれは自分の弟子にも言える事なのだろうと。
「ふ、もう全て過去の事だ」
「と言いながらも、貴方はこうして此処にいる」
「人のせいだ。愛を言葉にしてしまった罪は永劫に残る偉業だろう……我々は同じ時代に生きているだけで被害者だろう。そして、何よりも感謝せねばならない……この星の全ての知的生命は須らく人無しには生きていけないところまで来ているのだから」
「買い被られているようですね。人類種は」
「酷界が人の力を得て幾星霜。その魅力に取り憑かれずして、どうして血統種(ブラッディー)は生存闘争に明け暮れねばならない? 魔族でも我々がほぼ9割以上を占めているのは……一重に愛故だ、それをそう分からぬ蒙昧が多いとしても、これは厳然たる事実なのだ。愛するが故に子を産み。愛するが故に己の血筋を絶やさんとする者と戦い。愛するが故にその生きる為の場所を確保しようとする。人の罪を糾弾する種族は数在れど、最も被害を受け、最も利を受けたのは我々だ」
魔族達の内実に触れて。
リュオはまるで人と変わらぬようにも聞える話の内容に自分が今、どんな事の一端に関わっているのかを理解したような気がした。
恐らくソレは彼にとって到底把握し切れない大きな流れの中の出来事に過ぎないのだと。
『ふぅ~~師匠。取り合えず、これで大丈夫だと思うぜ。あ、魔王のおっさん……』
イルトが戻って来ると。
いつの間にか合流していたグラフマンを見て、何処行ってたんだろうという顔をする。
「イルト君。今、小さくします。そうしたら出発しましょう。名刺が渡されました。転移で恐らくは別空間に飛びます」
『おお!? これで試練クリアだな!!』
「ええ、全員で行きましょう。イフィーに追いつかなければ」
『だな。シャイもおっさんも逸れるなよ?』
「シャーイ!!」
ハイと返事をした人造生物がウンウン頷いた。
こうして四人は名刺に仕込まれた転移術式によって跳ぶ。
あの砂漠の大地へ。
しかし、其処に待ち受けているものは恐らく……これまでで最も過酷な戦いの幕開けにしか過ぎない。
巨大な店舗は彼らが消えた後、閉店しましたの看板を下げ……“濃霧の中”で砂のように崩れて消える。
もう戦いは次なるステージへと到達していた。
誰がそれを知らずとも………。