第二章二節「皇帝」
―――イグニシア・クルシス帝都宮殿域太守大浴場。
大陸南部においての習慣には嘗て沐浴という概念しかなかった。
湯に浸かるという文化が広まったのは百数十年程前の事。
時の皇帝が武帝から東部の文化を輸入した事に始まる。
それ以来、帝都宮殿域に築かれた太守大浴場は時の皇帝達により増設を繰り返され、今や小さな街くらいの大きさにまで広がっている。
皇帝の一族以外にもイグニシアの貴人や貴族、その時々の有力者や使用人、他にも皇帝の抱える専業奴隷等が利用するようになった大浴場は半ば裸の付き合いが出来る社交場として活用されていた。
その中でも取り分け警戒が厳重な一角は無論、皇帝専用の区画。
俗に花園と呼ばれる小浴場である。
何処に置かれているのかは誰もが知っている。
が、その内実は殆ど漏れ聞こえて来ない。
使用する皇帝と一族以外には専属の湯女(ゆな)達しか内部の事は知らないという秘湯だ。
それもそのはず。
全裸となる場は極めて暗殺に有利なわけで、内部の事を公にしようとすれば、それだけで死罪となる。
だから、秘密は固く守られ、未だ内情を知る者は少ない。
そんな浴場の内部には今一人だけが入っていた。
意外にも石造りの露天。
華美な装飾の一つもない風呂の横には数人の湯女が全裸で並び、所有者の声を待っていた。
その手には巨大な扇や軟膏や香油の壷。
それから風呂上りの一杯と思われる小瓶を魔術で冷やしている者までいる。
「~~~♪」
国の者なら誰でも歌える童謡を上機嫌で鼻歌にして。
民に“我が麗しき”と枕詞を自分に添えさせる暴君が湯から上がろうとした時だった。
「皇帝陛下」
突如として浴場に声が響き渡る。
一瞬警戒した湯女達の手には物騒この上ない剣や槍が握られていた。
かなり旧いものばかり。
伝説とまではいかなくとも名のある魔術の名品であるのは一目瞭然。
所有しているだけで家の格が決まってしまうような宝物を手にした湯女達の殆どは代々皇帝の湯殿を守る守護者でもある。
暗殺者を切って捨て、狼藉者在らば抉り貫き、地獄のような責め苦を与えて、絶望させながら殺す。
そんな恐ろしくも美しい女達も唯一入浴中の皇帝から言い付けられた者だけは殺さない。
という掟を持つ。
声の主は皇帝の腹心。
女達も知る男の声だった。
「捕捉いたしました。準備は恙(つつが)無く完了しております」
ヒラヒラと手を振って応えた主に声が畏まった。
「捕獲の際の部隊はエーレインを使います。ご報告は早ければ昼頃。遅ければ明日までに。では」
声の気配がそのまま消え失せる。
本来ならば何も言わず皇帝の前から去るなど不敬である。
しかし、皇帝にしてみれば、そういう無駄を極力省く性分な声を好いている感があり、湯女達は内心溜息を吐くだけに留めた。
立ち上がった身体へ柔らかな布が当てられ、水気を適度に拭き取っていく。
水分を残した肌へ複数の手が薄く満遍なく軟膏を伸ばした。
その間にも髪が温風で乾かされ、整髪の香油で整えられ、純金の飾を絡めつつ結わえられていく。
湯殿から上がった皇帝が歩き出した。
肌と髪を整え終わった湯女達がそれに付き添いつつ。
更に下着や複雑な構成の肌着を紐で優しく結んで着せた。
皇帝の普段着は本来ならば約一キロ近くの宝玉と宝石をあしらうはずだったが、そのような無駄を好まない性質である今代の皇帝は常に魔術具の類だけを身に付ける事としている。
その為、その姿は一般的、もしくは普通にすら見えたかもしれない。
着せられたのは羽毛程も重量の無いゆったりとした白の衣装。
一点物のワンピース。
だが、その衣装に費やされた材料を知る者があれば、気が遠くなるだろう。
生地は聖人の遺骸、それも数人を包んだ布の現物。
縫う糸は千年生きた火竜の髭。
白に染める染料は大陸でも殆ど採掘されない最高純度の【銀金(ミスリル)】である。
衣装に込められた超常の呪言は国の大魔術師とされる複数の者に十年掛けて編ませた代物で、七教会が有する戦略級の火砲すら防ぎ切り、あらゆる魔力的な干渉を通さない。
正しい脱ぎ方を知らなければ一生脱げない呪いのような不脱機能は例え使用者が単独になったとしても最後まで貞操を守り切る。
数万度の炎に曝されようと涼しい顔をしていられるだろう衣装は着ているだけで使用者を超人にする。
見たいものが見え、聞きたいことが聞け、刃も超常の力も通さず、意識すれば膂力(りょりょく)は自分の重量の万倍のものを持ち上げられる。
ただ、それでも、並の宝物を遥かに越える値段の付けようのない優れた代物だとしても、宮殿域の皇帝に連なる者達には簡素過ぎるとその衣装は不評であった。
曰く、威厳が無いだとか。
曰く、絢爛さが足りないだとか。
曰く、権威が見えないだとか。
「外套を」
着替えの全ては一分にも満たない間に終わる。
湯女達の言葉が極力簡素なのも今代の皇帝が変えさせたものだ。
本来、仕来りに乗っ取った湯浴みは専属の魔術体系を修めた者が毎回長い加護を編んで施したり、形式的な長い祝詞を上げる者までいた。
長い伝統だと誰かが言ったのを聞いて皇帝が全てを変えるに至ったのは必然だったかもしれない。
古びた伝統より実利を。
新たな君主のやり方に最初こそ反発は多かったが、その実績で次第に誰もが押し黙って言った。
「今日は暑いですから夏の三番をご用意しました」
白のワンピースには不似合いな褐色の外套が最後に着せられた。
袖が無くボタンの一つも存在しない。
ただ、全体に刻まれた巨大な金糸の刺繍だけがワンピースを飾るようだった。
意匠は華々(はなばな)しい百花繚乱の図。
事実。
外套の隅から隅まで百を数える別の華が一つ一つ丁寧に縫い込まれている。
極細の糸に視線避けや魔避け日除け他多くの術式が古代語で書き込まれている事を思えば、ワンピースに負けず劣らずの品だろう。
「本日の御公務は代行としてバルデバラン総務局長とハリス卿が行っています。お二人への指示は昨日出されたもののままですが、変更はあるでしょうか?」
首が横に振られた。
「そうですか。今日の夕食のメインは好物の銅鳥(あかどり)ですのでお楽しみに。では、行ってらっしゃいませ」
『行ってらっしゃいませ』
湯女達が一斉に頭を下げる。
風変わりな皇帝は靴も履かずにその場を後にした。
「~~~♪」
足は地を蹴る事無く、僅か浮いている。
全裸で語り合う貴人や貴族の間を誰にも悟られず歩く姿は異様。
それは妖精か。
あるいは宮殿域に出ると噂の幻か。
誰にも知られず。
誰にも気付かれず。
疲れた様子も無く。
皇帝は一人お供も付けずに屋外へと出た。
宮殿域の庭に咲き乱れるのは大陸に唯一咲く蒼の睡蓮。
水と華に彩られた現世との境界から数kmも先に出口がある。
複雑に絡み合った官舎と各局が一個の街として庭の周囲に複数配置された宮殿域は上から見れば蜂の巣のようにフラクタルな構造となっている。
一般に庭を見る者は極々限られ、帝都では一生に一度拝めれば昇天間違いなしとの評判はほぼ事実。
その美しき涼やかな庭で最後を終えたいと言う貴族や貴人の老人達は多い。
大浴場の奥には鈍色の隕鉄を含んだ碧い柱で構成される城が聳えている。
其処は地域一体の政治中枢であると同時に水源の中心でもあり、膨大な水を湛える堀で囲まれていて、庭や浴場の水源としても活用されていた。
「~~~♪」
貴族や官僚達がちらほらと行き交う時間帯。
明け方も微動だにせず警備を続ける近衛兵達の幾人か。
熟達の域に達する者だけが庭を行過ぎる違和感に気付き。
何も言わず敬礼して城の主を見送った。
そうして痕跡も無く。
玄関口へと皇帝が辿り着く。
各国の大使や事務官や武官が詰める一角の門に涼やかな風が吹いた。
風の吹き抜けた大理石製の門の上には古代語で水の宮殿と刻まれている。
「……」
門を潜れば絶景。
巨大な大通りと坂道が延々と地の果てまで伸びている。
貴人や地方の大貴族達の別邸は宮殿域に近ければ近い程広く権威の強さを表していて、数も少ない。
その様子が少しずつ変わっていくのは中級から下級の貴族達等が住まう一帯からで、大商人や各種組合の長が詰める超高層の総合宿舎群が道行には乱立し始める。
一般には大陸中央式の呼び名で【超高層建築群(ビルディング)】と言われる一帯は近頃ようやく整備が終わったもので、入居者を今も大量に飲み込んで住人は増える一方。
国の経済をどの国よりも強固にと改革に舵が切られて二年。
新たな皇帝の下で旧き慣習は変わりつつあったが、宮殿域の高さに届こうとする新たな住人達へ露骨に嫌悪を向ける者も少なくない。
「世は全て、そう全て、事も無し」
呟いて。
微笑んで。
帝都へと繰り出した唇は一言を宣言した。
「待っておれ」
声は朝の静けさに溶けて。
門の前にはもう誰もいなくなっていた。
*
ハルトゥムに住まう三人の少女達との逢瀬を終えて少年が帝都の部屋に帰ってきたのはイフィミスラ達に言っていた時間帯そのままに昼頃の事だった。
「?」
しかし、そこで少年は異常に気付く。
誰か一人は残っているだろうと思っていたのだが、全員姿が見えなかった。
昼食を食べに行ったのか。
それとも何か旅に必需品でも買いに行ったのか。
どちらだとしても誰も残っていないというのは考え難い。
「誰?」
少年が振り返った。
ただの勘。
魔力を使ったわけでもなく。
特殊な技能を用いたわけでもなく。
魔王として戦い続けてきた者の勘だけで少年はそう言った。
「こんにちわ」
音も無く。
気配も無く。
胸に手を当てて礼をする男が一人、いつの間にか戸の前に立っていた。
その姿は大陸中央式の紺の礼服(タキシード)。
病的な枯れ木。
そんな雰囲気の男だった。
げっそりと削げた頬。
肉の一つも付いているのかと疑うような手足。
しかし、立ち姿は堂に入っている。
漲る力の在り様は異質であるものの、確かに人間しか持ち合わせない熱が少年には感じ取れた。
「君は?」
「宮仕えの一矢。名を【D・グラム・ハイラン】と申します」
「宮仕えって事はクルシスの皇帝の下にいるって事?」
「はい。魔王猊下に於かれましてはご健勝の事とお喜び申し上げます」
「ありがとう。それで一体何の用?」
「大変恐縮なのですが、我が主である皇帝陛下の下(もと)まで、どうか同行して頂けませんでしょうか」
「良いけど」
「それは良かった。断られてしまうのではと気を揉んだ甲斐がありました」
「それで此処にいた子達は何処に行ったか知ってる?」
「はい。こちら側で保護させて頂きました。どうぞ」
D・グラム・ハイランと名乗った男が少年に水晶球を差し出した。
受け取った水晶の中で三人の少女達がお茶を飲んでいるのを確認して少年はクスリと笑った。
エフィリムはキョロキョロと周囲の大そうな装飾が施された部屋を見回していて、ナーリャは口を栗鼠(リス)のように膨らませて、相当に美味しいのだろう菓子を頬張りご満悦、イフィミスラだけが何やら不満そうな顔で溜息を吐いていた。
「何か面白い事でも?」
「いや、何て言うか。みんな逞しくなってきたなぁって思って」
男が何も言わずに頭を下げる。
「あの子達に直接、間接を問わず暴力的な干渉をしない事。約束出来る?」
「暴力的な干渉の定義を教えて頂けますか?」
「追い詰めたり、脅したり、誘導したり、肉体的なものだけではなく、本人の意思を捻じ曲げたり、そうなるよう仕向けたりする事…かな」
「そうならぬよう努力致します」
「そうするといいよ。君は聡明そうだから、これ以上は言わないでおくけど」
「そうですか」
「今、この地域に住まう19884591人。いや、2人かな。全員の命が君の肩には掛かってる。頑張って」
少年がいつもの笑顔を男に向けた。
男が、ハイランが、その笑みに一歩だけ後ろに下がる。
侮っていたわけではない。
準備をしてこなかったわけでもない。
その気になれば、区画ごと人質を消し飛ばす術が地下に用意してある。
だが、そんなものをハイランはもう使う事は無いだろうと悟った。
力を失っているとされていても、魔王は魔王。
人質を取ったつもりだったが、その目論見が見当外れだった事を彼は痛感する。
その気になれば“そうするだろう”少年の笑みは自然だった。
まるで仕事を頑張ってと応援するような声で国を滅ぼすと宣言した少年にそれ以上の圧力を掛ける行為は危険だと判断し、ハイランは再度深く頭を下げる。
「もし良かったら、あの子達にこの地域の事を紹介したり、回らせてあげたりしてくれると嬉しいんだけど、どうかな?」
「分かりました。出来る限り手配致します」
「それとみんなにしばらく逗留する事になるかもしれないけど、心配しないでって伝えてくれない?」
「承りました」
それなりの長期間拘束しようとしていた事すら見通されて、内心の余裕を無くしつつ、彼はパンパンと手を叩いた。
「大人しく縛に付け!!! 魔王!!!!」
音声を途絶する結界が割られ。
戸を開けて入ってきた女に少年が気付いた。
「エーレイン。“この方を丁寧に扱って城へお連れするように”」
「は? はッ!!! りょ、了解しました!!! ハイラン筆頭執政官殿!!!!」
警邏隊ヴァルガンノース。
その隊長格の女が最初こそ打ち合わせと違った事に戸惑った様子になるもののビシッと敬礼した。
「それとこの方に自己紹介を」
「り、了解!!! 自分はエーレイン・ディウアーズ・L・アルバストレであります!!!」
「よろしくお願いします。エーレインさん」
手を差し出した少年に再び戸惑った視線がハイランへと向けられる。
上司に頷かれて、エーレインがその手を取って握手した。
「では、後は“頼みましたよ”エーレイン」
「了解しました!!!!」
ハイランに敬礼した女が、エーレインが、大きく頷く。
その様子に幾つかの不安を覚えながらも男は少年に言われた通りの事を実行する為、その場から魔力の耀きを纏って転移で去っていった。
「……」
「……」
沈黙が場を支配する。
少年は相変わらずの笑み。
エーレインは事前の打ち合わせとは違う展開への戸惑いをすぐに捨てて内心を切り替えた。
上司は丁寧に扱えと言ったのだ。
ならば、貴人や貴族をエスコートするようにせねばと少年に顔を向ける。
「魔王様と御呼びするべきでしょうか!!」
「いや、ティアでいいですよ」
余所行きの言葉使いで少年が言うとエーレインが頷く。
「了解しました!!! では、これより城まで案内させて頂きます!!! ティア様」
「お願いします」
そうして少年とエーレインは連れ立って教会の宿を出た。
教会の外には十数人の隊員達が呪符がベタベタと張ってある神輿のような檻の傍で待機していた。
「それは必要なくなった!! ただちに撤収させるよう!!!」
「は? は!!!」
やはり最初のエーレインと同様一瞬戸惑った様子になった隊員達だったが、命令は絶対なのか。
すぐさま数人が檻を担いで路地から消えていく。
「では、この方を連れて城へと送り届ける事となる!!! 各員、粗相の無いように!!!!」
『了解しました』
残った隊員達がエーレインと少年を囲むよう位置に付いた。
「では、出発します」
ぞろぞろと目立つ事この上ない一段に囲まれながら少年は大通りを歩く。
遥か地平の彼方にある城を目指して。
彼らがいるのは帝都の中でも最辺境。
道のりは長い。
「……」
「……っ」
さすがに沈黙したまま歩くのは配慮に欠けると思ったのか。
すかさずエーレインは話題を脳裏に探した。
だが、相手が少年の姿をしているとはいえ、子供にするような態度で接しては怒らせかねないと悩む。
少なくとも彼女は世間一般で言うところのお伽噺の魔王や大戦に関する公的情報しか持ち合わせない。
超常の存在が何を好むのかなんて知りはしない。
故に彼女は魔王に関する一般知識から多少浮付いた話や大人向け、特に男性が喜びそうな知識を頭の片隅から引っ張っり出した。
「ティア様。このイグニシア・クルシスには初めてでしょうか?」
「昔、来た事ありますよ」
「そうですか。現在の帝都には二年前からの大改革によって幾つかの大規模商業施設や歓楽街も出来ました。各種の娼館から舞踏場の類まで多くあります」
少年は何となくエーレインの言いたい事を理解した。
魔王と言えば、よく成人向けの読み物に淫欲の権化として登場する。
七教会の打ち出す【近代化(レボリュション)】以降、急速に発達した廉価な書物の流通は学術方面だけに留まらず大衆文化の醸成にも一役買っている。
魔王が何処かの国の姫を××して×××する話。
魔王が魔族の娘と人間では在り得ない××する話。
エルフやその他の人型の種族の生娘達と××してハーレムを作る話。
どれもこれも想像逞しいというか。
一部は嘗ての魔王達がしていた事実に基づいて数多く創作されている。
そう言った書物に教会は眉を顰めがちであるものの、男の性をコントロールするには丁度いいと製造を黙認していたりもする。
「……はぁ」
あながち自分にも当て嵌まらないとは言えない身の上。
少年は乾いた笑みを浮かべる以外無かった。
「娼館では出張も承っているとの話です」
「そうですか」
「はい」
少年の表情に気付いてエーレインが再び沈黙した。
何が気に召さなかったのか。
魔王ならぬ女の身には分からない。
それでも機嫌を損ねないよう配慮しなければならないと使命感に駆られて、エーレインは再び思考を巡らせた。
彼女の脳裏に多くの思考はない。
どうして魔王が入国していたのか。
どうして魔王がこんな姿なのか。
疑問に思いこそするものの、それと任務を彼女は切り分けて思考する事の出来る人間だった。
軍人は命令を忠実に実行する者。
帝都守護職と言っても戦時には軍に編入される一部署である。
人間としての倫理や道徳の前に一個の歯車であれ。
そう教えられ、そう成ってきたエーレインには目の前の少年を城まで連れて行く以外の事は任務の範囲外として思考から切り落とせた。
「ご希望ならば―――」
「いいです」
エーレインの思考を先読みした少年が笑顔で断る。
「そ、そうですか!! 失礼しました!!!」
「いえ」
「……」
「……」
何か色々と誤解されている。
そう少年は感じたものの、それを訂正する気は無かった。
世の中には知らなくてよい事が数多くある。
魔王の実態なんてものはその最たるモノであり。
知らない方が良いに決まっている。
七教会の情報統制は恐ろしく緻密な機構の上に出来上がっているものだ。
一個人の主張を消す為に命までは取らなくとも様々な方法で誘導くらいはやっている。
軍人というのは何かと発言力が強い。
何も知らせない事が一番であると少年は結論していた。
「では、イグニシアの伝統的な習俗に付いてどうでしょうか」
「習俗?」
「はい。七教会で男女の交わりは互いに見定められる状態が正しいとされていますが、イグニシアではこれとは違って―――」
とんでもない事を口走ろうとするエーレインに少年は顔を引き攣らせる。
『エーレイン。困っておるようだが』
「!!!!!?」
ビクリッと身体を震わせたエーレインが直立不動になると辺りを見回して、違和感を見つけた方角に対して敬礼した。
『よいよい。全て余は見ておった故な』
突然の事にも素早く反応し、隊員の誰もがエーレインに倣って礼をする。
「全員!!! 唱和せよ!!!! これより降臨儀礼を行う!!!!」
エーレインの言葉に制服姿の誰もが目を剥いた。
降臨儀礼。
それは二年前から始まった。
軍人や官僚達には今やお馴染みの定型文。
ただ、一生使わない者が殆どだろう冗談の類。
三ヶ月に一回唱和義務が課されていて、これが出来ないと減点対象なので多くの宮殿域に勤める者達は必死になって覚えたと市井の間では専らの噂だった。
近衛隊だけはそれなりに遣う事も多い事から俗に近衛儀礼と呼ばれ、これが使われるのを一生に一度聞けたなら国民として何世代にも渡って語り草に出来るとされている。
「喝采せよ!!! 喝采せよ!!!」
『喝采せよ!!! 喝采せよ!!!』
「彼の者、四十七の偉業と七百五十四の軍団持つ輝ける翼也!!!!」
『彼の者、四十七の偉業と七百五十四の軍団持つ輝ける翼也!!!!』
「七千八百の公領と一万二千の諸侯束ねるイグニシアの操にして明けの明星也!!!!」
『七千八百の公領と一万二千の諸侯束ねるイグニシアの操にして明けの明星也!!!!』
「誰も彼もが畏れよ!!!! 果ては日の出(いずる)べき国から!!!! 西は日の落つるべき国まで!!!!!」
『誰も彼もが畏れよ!!!! 果ては日の出(いずる)べき国から!!!! 西は日の落つるべき国まで!!!!!』
「この方は畏れ多くも水分(みくまり)の女神に連なる最後の使徒である!!!!」
『この方は畏れ多くも水分(みくまり)の女神に連なる最後の使徒である!!!!』
「平伏し、崇め、讃えよ!!!! エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス!!!! 帝国万歳!!!! 万歳!!!! 万歳!!!!」
『平伏し、崇め、讃えよ!!!! エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス!!!! 帝国万歳!!!! 万歳!!!! 万歳!!!!』
ガヤガヤと人々が集ってくる。
降臨儀礼が唱和された。
この帝都最辺境の地において。
それは恐ろしく在り得ない事柄であった。
しかし、ヴァルガンノースが唱和している姿にこれは本物だと感じた誰もが土下座して地面に頭を付けていく。
「えっと………」
さすがにドン引きというか。
結局は顔を引き攣らせて少年は木造の家の上に立つ“違和感”を見つめる。
『ははははは、照れるであろう。此処は人が集まり過ぎたな。エーレイン。余が命ずる。その者を連れてディムバールの乗り場まで走るがいい』
「失礼!!! ティア様!!!!」
ガシッとエーレインの鍛えられた腕が少年の身体を担ぎ上げる。
「え?」
少年が何かを言う前にエーレインは走っていた。
隊員達も慌てた様子を見せずに走り出す。
全力疾走。
何事かと道端の人々が見つめているのも構わず。
何故か宮殿から出ている皇帝の事にも言及せず。
エーレインは命令を遂行した。
距離にして2km弱。
その間を魔力で強化された足で走破するのに四十秒。
最辺境に複数ある七教会製の動力機関で動く鋼鉄の箱が並ぶ一角。
既にお触れが出されていたのか。
朝だと言うのに誰も客がいない駅舎で操作盤を操る職員が脂汗を浮かべて通り抜けていく隊員達へ敬礼した。
数十メートルはあるだろう鉄箱は人々から【列車(ディムバール)】と呼ばれている。
それは二年前からの改革で人々に皇帝から与えられた益の一つだ。
それまでは馬車での移動が主流で貴族達が転移の魔術を使う程度だった交通手段は劇的に変わり、人も物も金も何もかもが流動するようになった。
古臭い黴の生えたような最辺境にすら新たな活力が生まれ、人々の生活は劇的に変化した。
七教会の近代化に勝るとも劣らない変革の二年は多くの点で皇帝への支持に繋がっている。
人々に明らかな強制を行う事すらある皇帝のお触れがそれでも守られているのは改革による恩恵があるからこそ。
嘗ての官僚や貴族達が反発こそするものの。
最終的には皇帝の突飛な発案を肯定するのも同じ理由からだ。
誰も止めない。
いや、止められない皇帝の傍若無人は多くの人々からすれば、生活で実質的に害とならない程度の代価として受け入れられている。
『しゅぅっぱつぅ~~進行~~~』
職員が安全確認をした後、電車を発車させた。
ゴウンと動き出した箱の中。
再びエーレインは声を聞く。
『人避けせよ。エーレイン』
「全員!!! 後ろの車両で待機せよ!!!!」
『はッッッ!!!!!』
隊員達が一糸乱れぬ統率で最後尾の車両へと駆け足で消えていく。
そうして少年とエーレインしかいなくなった時、先頭車両の屋根の上がガコンと丸く開いた。
穴を何かが通って車両を風が吹き抜ける。
少年は風の出所である何も無いように見える空間を見つめた。
違和感。
魔力を使わずとも集中力さえあれば見える程度の視線避けの魔術の塊が其処にはいた。
「そのご尊顔を拝す事をお許しください。陛下」
エーレインは少年を抱えたまま、頭を下げている。
器用この上ないが、少年にしてみれば、そろそろ下ろして欲しかった。
『よい。余も汝と話したいと思っていたところじゃ。面を上げよ』
パチンと指を弾く音。
視線避けの術が停止すると、その場で瞬きの内に違和感の正体が現われた。
ドレスや礼服姿を想像していた少年は白いワンピースに褐色の外套姿の“ちょっと変わったセンス”に言及する事なく、マジマジと現皇帝【エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス】というらしい少女を見つめた。
「……」
「面白い。余を見て、そんな反応をする者は未だ嘗ていなかった。初めまして魔王猊下。余がエト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス。三十七代皇帝である」
外見年齢は少年より少し上くらいだろう。
年頃の少女にしては少年よりも少し背が高い。
それに比例するようにスレンダーな姿態は相応の服を着ていれば、かなり優美に見えたかもしれない。
肌は快活な小麦色をして。
その姿は威厳と貴族特有の仕えられる事を当然とする色を宿していた。
片方の瞳には瞳孔が存在せず、眼球全体が菫色をして、二重と長い睫が特徴的な目元は力強さを秘めている。
化粧をしてもいないのに優美な横顔は自身に満ち溢れた様子で少年を見下ろしていた。
一つに編み込んだ尻尾のように長い髪には幾つか金の輪が結わえられている。
「随分僕に詳しいみたいだけど、それも皇帝だから?」
少年の言葉に反応する事なく。
自分の主とのやり取りには一切口を挟まないと決めていたエーレインだったが、少年の皇帝を皇帝とも思わない無礼に青筋を額に浮かべる。
「然り然り。皇帝特権とは伊達と酔狂ではない。猊下が嘗て七教会の【総主教(パトリアルヒス)】に位を授けられた事、七聖女に対して全てを隠匿している事、何もかも存じている、と言ったら?」
「それ調べるのに死人出したりした?」
「腹心が存外役に立つ男で一人で調べさせたとだけ」
「君は……」
少年は相手が未だ幼いながらも“一番遣り難い人間”だと悟った。
全ての状況を把握している。
少年の事を調べ上げている。
七聖女ですら知らないはずの秘密。
此処数十年この世界で誰も語らなかった話をどうやって知ったのか。
大いに興味はあったものの、少年は詮索を止めた。
こういう類の人間は予め綿密に計画を立てて物事を実行する。
それも少年の趣味趣向を分析した上で頷かざるを得ない状況を生み出す。
故に計画が何処かで破綻する事すら織り込み済みで対策をしているはずだった。
「昔からよく人間観察は得意な方なんだけど」
「?」
「君は……友達にはなれるけど、友達とはなりたくない人、かな」
「っ」
少女が、皇帝が、一瞬身を震わせる。
思わず少年に対しもの申そうとしたエーレインの耳にクスリと笑い声が聞こえた。
「く…くく…ふ、ふふふ…あははははははは…友達にはなりたくない、か。そうか、そうか。何とこの世は驚きに満ちているだろう。この余に対して友達、か……」
止まらなくなった様子で、本当の心の底から可笑しそうな声で、少女は少年に頷く。
「気に入った。気に入ったぞ!!! やはり余の考えに間違いは無かった!!! エーレイン。下ろせ」
「はッッッ!!!!」
少年がようやく自分の足で立つと少女が車両の左右にある長い座席の一つに腰を下ろした。
「陛下!!? 今、何か敷物を!!!!」
「構わぬ。今、余はこうしたい気分なのじゃ。猊下、こちらに」
自分の横をポンポンと叩いて少女が少年を促す。
言われるまま少年が座ると少女はまるで年頃の少女のように微笑んで、興奮に顔を煌かせた。
「友達に成れぬ。確かにその通り。余は己と同等の者を未だ誰も知らぬ。そして、猊下、貴方もまた余とは同等ではない。いや、貶しているわけではない。褒めていると言っていい」
「人に好かれたり、嫌われたりするのは得意だけど、褒められる事はあんまり無かったから、ちょっと変な感じかも……」
少女の性格を掴みつつある少年は苦笑した。
目の前の存在が壮大な気配を持つ者。
皇帝に相応しい人間だと認めて。
(陛下が誰かを褒める!!? 誰に対しても決して褒めた事の無かった陛下が!!!?)
エーレインがその人生の大事件に戦慄いた。
「猊下。いえ、貴方に一つ頼みたい事がある」
「頼み?」
「ええ。もしも余の願いを聞き届けてくれるのならば、貴方をイグニシア・クルシスの名において庇護すると約束する」
「内容に拠るよ?」
頷いた少女が外套を脱ぎ捨てて身軽になると少年の頬を包み込むように両手で触れて微笑んだ。
「この余と…エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシスと…交合(まぐわい)…この皇帝を産む胎(はら)に子を孕ませて…恵んで欲しい。それが余の願い。魔王猊下、貴方にしか出来ない事だ……」
「は―――――――――――――――――――――――――?」
その声は少年ではなくエーレインのものだった。
ボシュウッ。
頭から湯気を上げた女隊長があまりの事に口をあんぐりと開けて呆ける。
「ふふ……まさか、こんな雑多なところで女のようにねだる事になろうとは。世は本当にままならないものじゃ。さぁ、返答は如何に? 魔王猊下」
少年は何となくイフィミスラの顔を思い出した。
更に未だ少年の為に頑張っているだろう騎士の顔も。
想像の中、どちらも半眼になって少年を見つめている。
「……断れないんだよね?」
「無論である」
「断ろうと逃げ出しても嫌がらせされるんだよね?」
「勿論とも」
「何となく想像が付くけど、理由を一応聞くべき?」
「余の不老不死。そして、このイグニシア・クルシスの繁栄と未来の為に」
「そう……」
「ああ、それから」
「?」
少女が初めて何処か戸惑った様子になったのを見て少年が首を傾げる。
「もう一つ。余は一目惚れしてしまったようじゃ。ん……ちゅ♡」
口付け。
その優しい唇の感触に少年が子を欲しいと言われた時よりも確実に身体を硬直させる。
「まさか、余が三文小説の姫のように成り下がるとは。これもまた世の不思議か……」
少年と皇帝と女隊長を乗せて列車は走る。
それは地獄への片道か。
それとも天国への坂道か。
南部の水の都で魔王と皇帝の物語が始まる。