第二章六節「老醜」
揺れる水面に映る夕暮れの街並み。
煙突から立ち上る白煙が昏(くら)き世界に狼煙のよう。
道行き交う誰もが仕事帰りか。
賑わう市場で何かを買い求めて行く。
碧い瓶の中で葡萄酒が夕景を照り返して。
流れていく雲は魚の鱗となって、夜の果てへと泳いでいく。
巨大な帝都の一角。
近頃流行りの屋上席。
宮殿息において腕を磨いたと評判の料理人が出す一品は極上。
貴腐葡萄(きふぶどう)の酒は蜜が入っているわけでもないのに甘く。
肉料理ともよく合った。
人々が群れ為す場所を一望出来る特等席。
しかし、鉄柵の先に沈む夕日は少女達の心を反映したように暗く。
料理もまた笑顔を浮かべさせる事は無かった。
帝都でも貴重な製氷器具で作られた氷の塊を口の中で舐め融かしながらナーリャ・ナーシムは今日一日の事を思い出す。
朝起きて、朝食を食べ、水で身を清め、二人の妹達と共に少年を待って。
(ご主人様…ティア……)
最初に部屋の扉を開けたのは見知らぬ男。
病的な気配を宿す紳士。
慇懃無礼に振舞いながらもイフィミスラと話して首を立てに振らせた。
その様子から守らなければと。
自分はお姉さんだからと。
彼女は思った。
連れて行かれたのは高級そうな宿の一室。
待っているように告げて消えた紳士は一刻もすると戻ってきて、全員に少年の言葉を伝えた。
長く逗留するという話。
心配しないでとの言葉。
信じたのは紳士が持ってきた水晶球の中、少年がいつもの笑みで見知らぬ少女と笑っていたから。
全員が少しだけムッとして。
同時に少年がいつも通りなのだと知って安堵した。
(それから…)
金貨を一袋渡されて、観光するよう言われて、観光庁の役人らしき女性を付けられて、帝都を回った。
女性は多くを語り、少女達に話してみせた。
帝都の歴史。
皇帝の改革。
観光名所の逸話。
ナーリャにはどれもこれもよく分からなかった。
楽しいとも思えなかった。
それは傍らに少年がいないから。
三人の誰も同じ。
最初こそお菓子に笑みを浮かべる事はあったものの、時間が経つに連れて笑顔は消えていった。
そうして、最後に辿り着いたのが帝都でも一番人気の店。
案内役の女性は三人から離れた場所で静かに立って待っている。
「ナーリャ。食べないのか?」
「イフィミスラ……」
ずっと暮れていく世界を見つめていたナーリャは笑いこそしないものの至って普通にしているイフィミスラに悄気た顔のまま視線を向けた。
「しっかり食べて明日に備えるのだ。あの大馬鹿者が迎えに来るまで……」
「迎えにくる?」
「明日来るかは分からぬが、その時になってお腹が空いたと駄々を捏ねてはみっともないな」
「……食べる」
ナーリャがフォークで切り分けもしない肉を突き刺した。
「そうするといい。我らは僅か三人。だが、あの背中と共に歩いてきた三人だ」
「いふぃみすらねぇさま……」
今まで沈んだ様子になっていたエフィリムが顔を上げて笑顔で頷く。
「我ら魔王の伴と為りて、されど後悔の一片も無し。だろう?」
二人が同時に頷いた。
「せっかく食わせてくれるというのだから、せいぜい食べて呑もう。干し肉や茹で麦もあれはあれで美味いが、多少飽きたからな」
クスリと笑みが誰とも無く零れて。
三人の食卓が明るくなる。
それを機に少女達に多くの視線が集るようになった。
尊い血筋であろう少女。
ダークエルフの少女。
幼くも笑み眩しき少女。
本来、ダークエルフは倦厭されがちな存在でしかない。
しかし、少女達の仲睦まじき姿は他の客達にハッとさせる程、美しい。
ただ美しき者を見ているだけでは得られない。
その場の人々が感じていたのは少女達の間の温かな空気であるとか、笑顔にある穏やかな色であるとか、そういった言葉では表現しにくいものだ。
少女達の晩餐は夜の風が吹く頃には終わりを告げた。
「お嬢様方。今日は一日楽しんで頂けたでしょうか?」
唐突に人々の視線の死角を縫うようにして。
ひっそり歩いてきた男がテーブルの横に立った。
「ハイランと言ったな」
イフィミスラが口元を拭ってから冷たい目を向ける。
「はい。イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンド様」
礼服姿の男が慇懃無礼に微笑む。
「ティアは今どうしているのだ?」
「魔王様なら現在、宮殿域の城へと赴かれています」
「一つ聞きたい」
「答えられる事ならば、なんなりと」
「我が知る限り、このイグニシア・クルシスの現状で戦を起こすような機会はないはずだ。二年前からの大改革とやらで随分と儲けているのだろう? 何故、今更に災厄の主たる魔王に手を出す必要がある」
「……随分と鋭いご指摘です」
「答えられないのか?」
「いえ、お答えします。お嬢様方には知る権利があります」
「まるで七教会のような事を言う……」
イフィミスラの皮肉もさらりと笑みで流してハイランがパチンと指を弾く。
次の瞬間、グニャリと周辺の景色が歪んで、三人が気付いた時にはもう最初に連れて行かれた宿の部屋へと戻っていた。
ナーリャが最後に食べようと残していたスイーツを一掬いしたスプーンだけを持って呆然とする。
それにハイランが「後で同じものを届けさせます」と言い置き、咳払いをして話し始めた。
「イフィミスラ様。聡明な貴女ならば知っているかと思いますが、現在の七教会が進める近代化の弊害をご存知ですか?」
「弊害?」
「はい」
「……まぁ、漠然とではあるが言っている事は解る」
「我々イグニシア・クルシスは大陸でも一、二を争う国家です。近代化の影響は免れないでしょう。ですが、もしもこれと同じ事を我々が主導して行ったら、どうなると思われますか?」
「【近代化(レボリュション)】を主導するだと? まさか、七教会との対立軸になる気か?」
「そんな恐れ多い事は考えていません。現在の七教会はざっと大陸全国家が抱える戦力の数十倍の力を持っています。更に言えば七聖女の戦力は未知数。惑星規模の魔術や超常の力、奇跡を行使されてはさすがの我々イグニシア・クルシスもお手上げです。たぶん、手も足も出ない」
「分かっているではないか。なら、どうして魔王を抱き込もう等と考えた?」
「彼らは善を名乗っている。人々の幸せになる権利を説いている。だからこそ、彼ら七教会には一つの弱点が存在する」
「何?」
「結論から申しますと、彼らにとって一番厄介なのは彼らが目指す国家を先に誕生させる事なのです」
イフィミスラが目を細めた。
「……七教会の理想をモデルにして新しい国家運営の形を目指すのか?」
「ご理解が早くて助かります。七教会、彼らの脅威たる点は今までの為政者をそっくりそのまま入れ替えてしまう点にあるのは王家を有する国の人間なら誰でも分かるかと思いますが、では……七教会が目指すものに賛同し、その上で自分達の影響力を残そうとすれば、どうなると思います?」
「……そうか。賛同して協力もしているというのに七教会は権勢を振って、それを邪魔していると喧伝したいわけか」
「はい。理想に向かって努力している仲間に対して文句ばかりを付けるとすれば、それは人々に欺瞞と映るでしょう。彼らより先に彼らと同じような形で世界を主導しようとすれば、七教会に国を乗っ取られるような状況は無い。我々はそう睨んでいます」
「ならば、更に不可解だな。何故、七教会を真似て生き残りを図ろうとする国家が魔王を欲する?」
「差別化というやつです。七教会は絶大な七聖女の力とカリスマによって変革された旧教会の残骸。では、新しい国造りをする国家が対抗するには何を頂きに冠してソレを行うべきだと思いますか?」
「七教会が許すまい」
ハイランの言いたい事を理解して、イフィミスラが否定する。
「これは国家の影響力の均衡に関する問題です。旧王家や旧皇家、その他にも多くの部族や豪族や無数の貴族達。彼らの一番恐れている事は特権の剥奪です。彼らは表立って七教会を批判出来る立場にはない。それは自分達の行いがそれなりに悪である事を認識する故でしょう。実際、教会の影響力が強くなった土地では住民達は豊かさと自由を謳歌している。大多数の国民に支持される七教会を現行の統治勢力は支持せざるを得ない」
「確かに。それは理解出来る。それで魔王がそこにどう関わってくる? 魔王を頂きに関するだけで状況がどうにか出来る等という戯言ならば、一笑に付すところだが?」
「つまり、七教会の影響を跳ね除けるには七教会と同等以上の優れた統治能力を持って人々の不満を解消しつつ、更には聖女達以上の力を示す必要がある。七教会の制度や理念を“我々風”に取り込み、教会から技術支援を受ければ、豊かさや制度の面はどうとでもなるでしょう。彼らは善人であり続けなければならない以上、我々への協力を拒否出来ない」
「自分達の影響力が低いからと支援を断れば、瑕疵には成り得るが、そう上手くいくか?」
「その上で七聖女以上のカリスマと力を手に入れる手段として我々は“魔王の血統”が欲しい」
その結論にイフィミスラの視線が険しくなった。
「まさか、皇帝の血に魔王の血を合わせるというのか? 随分と旧い考えだな」
「ええ、ですが、それが我々の望む世界への近道であると考えます。産まれの経緯は哀れなる皇帝陛下が魔王に襲われたとでもしておけばいい。問題は血筋がもたらす影響力です。魔王の血は穢れていると誰もが思うのでしょうが、強さという一点で魔王の血統は反七教会派を集めるいい餌となる。要は情報戦の仕方次第でしょう。皇帝の尊さと魔王の強さ。これを同時に持ち得て、尚且つ清廉な人物としての偶像まで昇華出来れば、これほどに優れた統治の象徴は存在しない」
「……」
様々な感情を廃し、王家の末としての思考でイフィミスラがハイランの言葉を思考する。
確かに。
その言葉は反七教会派と呼ばれる人々には魅力的に映るだろう。
七聖女と同等以上の力を持った魔王。
その血筋と皇帝の血筋。
二つの血統が齎す魅力は世間の魔王に対するイメージ以上ではある。
「ハイランと言ったな。貴様はティアが子供を儲けられる身体だと思うのか?」
「魔王の肉体は本体から離れた場合、体毛も血液も肉体も全てが輝きとなって失せる。ですが、一つだけ例外があるのは調べが付いています」
イフィミスラが目の前の男の調査能力を侮れないものと認める。
そんな事実、伴として旅をする人間、それも関係を持つ女にしか分からない。
「彼の精液だけはこの世界に現存する。つまり、子どもが出来る可能性は零ではない」
「だとして、そう簡単にティアがお前達の策略に乗―――」
「乗って頂けました」
「何ぃ!!?」
一番重要な部分でサラリと返されて。
思わずイフィミスラが椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。
「貴女達に決して手を出さない事。そして、逗留の間はイグニシア・クルシスが責任を持って庇護する事。これを条件に三か月の猶予を与えると我が麗しき皇帝陛下に対して仰られたそうです」
「あ、あの馬鹿者は何を考えているのだ!!」
頭痛を抑えるように手が頭に当てられる。
「まさか、あの水晶球で話していたのは……」
「はい。我が国の皇帝陛下エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス様であらせられます」
「ティアァ……」
諦観とも怒りとも付かない脱力に溜息を吐くイフィミスラにハイランが続ける。
「そのような訳でしばらくは帝都に逗留をお願い致します」
三人はそうして再び一箇所へと留まる事となった。
「事態は大体飲み込めた」
「それは良かった」
ハイランがそのまま礼をして、部屋を後にしようとすると。
その背後に声が掛かる。
「それでものは相談なのだが、あの水晶球に映った皇帝陛下をもう一度見せてくれるか?」
少女達の関心は少年の安否よりも今日、褥(しとね)を共にするかもしれない者に移って。
それぞれに話を聞いていたナーリャとエフィリムが頷き合う。
「どういう事でしょうか?」
「何、これからあの馬鹿者に浮気する心地はどうだったかと問い詰める材料が欲しいだけだ」
ハイランは少女達の笑顔に只ならぬ気配を感じて、若干動揺した。
それは力ある者としてのものではなく。
純粋に男としてのものだった。
「外部には陛下の外見情報は秘匿されています。扱いに注意して頂ければ幸いです」
「了解した。後は出て行ってもいいぞ」
ハイランが何処からとも無く取り出した水晶を奪うと三人がテーブルの中央に置いて凝視し始める。
昼間。
予想外にも外出し、魔王との接触を持った主。
彼らが【列車(ディムバール)】へ乗った際の映像。
少女達がその映像を見つめる様子を見ていられず。
早々にハイランはその場を後にした。
(あれが魔王の伴……確かに情報にあった通り、あれは心の髄まで女の顔ですね……)
女の嫉妬程に恐ろしいものはない。
そう感じながらハイランは闇に融けた。
少女達の顔に何を見たのか。
筆頭執政官は誰にも語らなかった。
*
宮殿域庭園回廊。
一人巨躯の厳つい顔の男が城へと歩んでいた。
貴族にして白とも青とも無縁な衣服は褐色と鈍色を晒している。
唯一、古びれ擦り切れた蒼の外衣(マント)だけが貴族の証である巨大な鈴蘭の家紋を主張していた。
顔面に走る微細な刃傷は多く。
その顔を見て泣かない子供はいないとされた事から付いた綽名は【恐怖伯爵(テローコメス)】との不名誉だったが、本人は気にしていない。
バルデバラン・デオ・エイルム・ソシアニア大侯爵。
イグニシア・クルシス総務局長。
帝都の市井を取り仕切る首魁。
前代皇帝の時より国へ仕える実質的な都の指導者。
その力は皇帝直属の近衛から諸侯軍部まで及び、併合された領地の遍くまで届いている。
皇帝が方針を定める象徴なら、帝国を束ねる中枢は彼だ。
元々地方の伯爵に過ぎなかった男は辺境伯として常に外敵との戦いで先陣へ立ってきた。
それが四十代を機に全ての権利を後進に譲渡して隠居。
後の全てを余生と言って過ごしていたのを前皇帝が引き抜いて近衛の隊長として扱い躍進。
六十余の齢を重ねて今や事実上の支配者となった。
男に逆らえる者は帝国でも十人いるかいないか。
その内の一人の下へ、彼はようやく公務を終えて参じるところであった。
庭園の奥。
太守大浴場の脇を通り、近衛達に敬礼されながら通り過ぎ、巨大な支柱を潜り、城の内部へ。
専業奴隷。
主に女達が彼だけには頭を下げて一端、仕事の手を止める。
例え、それが外国の大使だろうと王族だろうと無視する女達が、だ。
広い回廊を歩きつつ、奴隷達が慌しく立ち働いている事を確認して、男は誰も怖がらせないよう内心で渋面を作る。
(ハイランめ……姫殿下。いや、陛下をまんまと丸め込みおって……)
女達が忙しい理由。
それはあまりにも危険な賭けへの支度。
大戦に後方支援で一応は参加していたイグニシア・クルシスの内実を知る者にすれば、筆頭執政官の一手は在り得ないような愚策とも思える。
相手は魔王。
当時、名目上断るわけにもいかず国庫の半分を空にした経験を今も男は忘れていない。
用意させられた各種の魔術触媒の総額は大国の年間予算十年分にも匹敵した。
それを何に使うのかと問われた七教会の使者は事も無げに「足止めです」と返したのだ。
それ以来、男にとって教会への印象は一気に悪くなった。
無論、それでも付き合わなければならない相手であるのは変わらない。
だからこそ、今までと変わらず穏便に事を運び、教会との関係も穏やかに男は国の運営を司ってきた。
正に忍耐。
正に努力。
だが、その関係を根底から覆す計画をぶち上げた若造へ若き主は頷いて。
(策としては悪くない。だが、七教会を見くびり過ぎている……)
男はそう冷徹に計画への評価を下す。
魔王の血統。
何物にも代えがたい呪い。
皇帝の血統と同じく。
付いて回る業は如何程になるか。
想像も出来ない代物。
(それに魔王……あれをどうにか出来るならば、七教会は最初からそうしている。どうして今更に不幸を自らの手で呼び込む。陛下もだが、アレが“本当は何なのか”知るまい……)
太い眉を厳めしく逆八の字にして、近衛の最精鋭の女達が警護している扉の前に辿り着く。
「バルデバラン総務局長。現在、皇帝陛下は食事に入られています」
四人の女が儀仗で男を遮った。
ヴァルガンノースとは違い蒼を基調する衣装。
嘗て自分も袖を通していた制服姿の後進。
その働きぶりに内心で男が満足した。
「分かっている」
「緊急の用以外通すなとの厳命も受けています」
「分かっている」
女達が顔を見合わせて、頷いた。
「今、陛下にご確認を」
女の一人が耳元を触る。
すぐに返答が来たのか。
「「「「どうぞ。お通り下さい」」」」
白銀の杖が下げられ、部屋を閉ざしていた四重の結界が解かれる。
一つ一つが女達の命で支えられた結界は女達の意思に応じてか、命が絶たれた時以外には開かれない。
扉がゆっくりと開く。
内部にあるのは更なる扉。
しかし、それはもう人の手で開けられる。
「では、お閉めします」
「いい仕事ぶりだ。これからも励み続けろ」
「「「「はッッッ!!!!」」」」
僅かに女達の声には喜びがあった。
嘗ての上司からの称賛は何ものにも代え難いと言わんばかりに。
外側の扉が閉まり、男は内側の扉をゆっくりと開けた。
「あ、バランさん! こんばんわ。ほら、あんたもせっかく公務代わって下さってたんだから、何か言いなさいよ」
最初に飛んできた声はエリザのもの。
長いテーブルの脇、給仕係の服を着て。
皇帝である少女を肘で突く姿に相変わらずだなと男は微笑んだ。
「エリザリド様。今日も陛下の給仕とは精が出ますな」
「え、いや、一応住まわせてもらってる身ですから……」
「貴女がいつも通りで安心した」
顔をすぐ仕える者に変えて、男が片膝を付いて頭を下げる。
「陛下、本日の公務が滞りなく終わった事を此処にご報告申し上げます」
「ご苦労であった。ソシアニア。立ってもよいぞ」
「勿体なき御言葉です」
口元を紙で拭いたエトが鷹揚に頷きつつ。
横で食事をするハイランに視線を向ける。
最初から分かっていたのか。
ハイランも同じく紙で口を拭いた後、席を立つ。
「これはこれはバルデバラン大侯爵閣下。ご公務の代行お疲れさまでした」
「貴様に労われるような激務ではない。気を使われずとも。ハイラン筆頭執政官殿」
「……」
「……」
バチバチと火花でも散っていそうな空気に我関せずと再びエトは食事を再開する。
「それで、今日も執政官殿は公務を投げ出して何を成されていたのか? お聞きしてよろしいだろうか」
「はい。陛下の命により、御客人を幾人か迎えに行きまして」
「ほう。で、その客人とは?」
「あちらです」
一瞬だけ、大侯爵は、総務局長は、帝国の歯車たる男は、息を止めた。
まるで今までいなかったように感じていたのは、男が知っている気配では無かったから。
ハイランの向かい側。
作法も完璧にいそいそ食事をしている少年が顔を上げた。
「……こんばんわ」
「ソシアニア。無礼無きよう。分かっているな?」
エトの言葉に男は全ての動揺を押し込めて、礼の形を取る。
「イグニシア・クルシス総務局長。バルデバラン・デオ・エイルム・ソシアニアと申します。お会い出来て光栄です。魔族の王よ」
「ソシアニア!!」
思わず咎めようとしたエトを少年が手で遮った。
その動作に一瞬、帯刀していた刃を抜きそうになったものの、何とか自制して、男は目の前の少年を静かに見つめる。
「……」
互いに視線が交わった。
少年は理解する。
それは知っている瞳。
まだ少女達が知らない、皇帝も執政官も知らない、少年を真に理解する故の視線であった。
「丁度食べ終わった所だし、少し散歩してきていい? エト」
「……余の事はほったらかしにすると言うのか? ティア」
二人のやり取りで腕の筋肉が力が入ったものの、男は全てを見守った。
少し不満そうにエトが半眼となる。
「大きな庭が見えたから、ちょっと散策してみたいと思ったんだけど、どう?」
「……よい。余は寛大である故な」
「じゃあ、ついでにこの人も借りて行くけど、いい?」
エトの視線が男に向いた。
「ソシアニア。今の事は不問に付す。だが、余を落胆させるではないぞ? お前は余の右腕……代わりはない男だ」
何も言わず男は大きく頭を下げた。
「では、二人とも行ってくるがよい。今日の晩餐は終わりじゃ。余は寝室に行く」
「あ、ちょっと」
立ち上がり、そのまま部屋を出て行くエトに慌ててエリザが付き従った。
「では、お開きのようですし、私もこれで」
ハイランがエトに頭を下げて見送った後、僅か笑んで転移で消えた。
残った男が顔を上げる。
「それじゃ、行きましょうか」
男は思う。
今日が帝国に仕える最後の日になるかもしれないと。
*
ティアとバルデバラン。
二人がやってきたのは近衛もいない庭園の一角。
周辺からは死角になった水辺だった。
互いに無言。
先に歩き出した男に付いてきた少年は辺りを見回す。
水音と小さな休憩所が設けられた庭の隅には月明かりが降り注いでいる。
涼やかな風と水に咲く花の香り。
夜であっても人を愉しませる場所には似つかわしくない気配だけが浮いていて。
振り向いた男は背に月光を受け影に隠れた顔で少年へ向かい合う。
「三十七年前、一度この国へ来た時の事を覚えておいでだろうか。魔王よ」
「あの頃は何処の国も戦争の真っ最中だったと思うけど」
「その通り。当時は酷かった。戦線は膠着し、多くの命が泥沼の争いに沈んで、老いも若きも戦いに駆り出され、各地で戦っていた。そう……貴方が来るまでは」
「そっか、君は“あの時”見た人間?」
「北東部国境地帯ゴウラン。時の大侯爵アルスハットの大軍団の中にいたオレは貴方を見たのだ。あの日は風が凪いだ日だった。朝から前線で戦っていた誰もが西部戦線の敵国と同盟し乱入した大豪族アルエルが放つ竜達の猛攻に果てて行った。たった一人の男の野望、それだけの為に死んでいった。だが、それは名誉だった。例え死せるとも」
「……」
「だが、貴方は武帝の秘奥を持ち出したあの強大な男の竜を一蹴した。我々の成し得なかった、命を賭して成そうとした事を容易く。瞬きの内に……」
「あの当時、たぶん一番力を使った戦闘だったから」
「勝利の感慨等無かった……命救われた安堵も……それどころか、我々は敗走した。生きていたのに、死んでいなかったのにだ。貴方の暴威を前にして前線は完全に瓦解し、散り散りになって多くの騎士達が後方へと逃げ帰った。誰一人、オレも含めて再び同じ戦線に立つ事は果たせなかった……」
まるで地獄の業火に焼かれる罪人も顔負けに顔を歪めて、男が少年を見つめる。
「大戦に関わった時、オレは思った。アレに勝てるわけがないと。そして、現実はそうだった。貴方は死ななかった。力を失っている? 馬鹿な!! この老醜の考えが正しいならば、貴方は、いや……貴様は“負けてもいなければ力を失ってもいないはず”だ」
ガキンと腰の剣が引き抜かれる。
少年はそれを何もせず見つめていた。
「陛下もあの若造も本質が見えていない」
「本質?」
「人の形をした化け物とは言うまい。貴様は“化け物の形をした何か”だ」
その言葉に少年が「ああ」と思う。
本当に悲しい事実だったが、たぶん帝都の何処かで今頃寝ているだろう少女達よりも男は少年を理解する者だった。
「それが理解出来て尚挑もうという気概。自分の命を賭して、僕からエトが離れざるを得ないよう仕向けようとする思考。称賛に値する。この僕が、シンア・ザ・クリティカルアンラッカーが認めてもいい。君は確かに今この帝国の未来を背負ってる」
空間に腕が突き込まれた。
大陸北東部で衛星軌道上まで飛ばした剣が引き抜かれていく。
「君の考えは正しい。けど、結果は最初から見えてる。だから、機会を与えるのは一夜だけだ」
少年が剣をゆっくりと自分の指に滑らせる。
血が一滴、ゆっくりと滴って、鈍く輝きを伴い消えていく。
しかし、何故か。
傷は回復する様子もなかった。
「今、肉体が回復するまで約三か月掛かるように調整した。此処で僕に致命傷を負わせるか、あるいは喋れなくなるまで切り刻めば、エトの計画は破綻する。使うのは傷付く身体と剣の腕だけ……君が人間としての僕を超えられたなら、君の望みは果たされる」
「何故だ。どうしてそんな事をする必要がある!! 魔王!!!」
「誰だって自分を理解してくれる人には優しくしたくなる。ただ、それだけの事だよ」
「戯言をッッ!!?」
屈辱。
怒りを芯に冷静な太刀筋が少年を唐竹割にしようと真正面から迫る。
火花と、石畳の破片が散った。
陥没する足場をしっかりと踏み締めて少年が男の渾身の一太刀を受け止めていた。
「これでも並みの剣士よりは……一応、剣術の稽古はやってるし。まぁ、近頃は頭の中でだけだけど……」
蹴りが脇腹に叩き込まれる。
肋(あばら)が折れそうな音。
後ろに下がって直撃を避けた男が顔を歪める。
「その勝負受けよう。陛下の帝国を守らんとすれば、我が身一つ惜しくは無い!!!!」
男は外衣(マント)と外し、上着を引き裂き捨てた。
未だ、衰えを知らない肉体は絞り込まれていて、無駄なものは一つもない。
「エトには悪いけど、今日は君に付き合おう。古き帝国の騎士よ」
「バルデバラン・デオ・エイルム・ソシアニア。参るッッッ」
「閃剣の末としてお相手仕る」
閃剣(せんけん)。
流派無く。
師を持たぬ聖女の一人ユアン・クオが自ら名乗る二つ名だった。
その刃は閃きと同等の速度で迫るとされた一太刀を実現して。
少年と男の刃は真正面から交差した。