第二章九節「親愛」
『その…シンア』
『?』
微かに薪の爆ぜる音。
森の獣達が遠巻きにする気配。
仲間達はもう眠っていて。
火の番を二人でしていたのだっけと少年は不意に気付いた。
『貴方にずっと……聞きたいと思ってた事があって……』
『何、ハティア?』
もじもじと黄金の髪の少女が少年に口元に手を当てて。
『その…もし、違ってたらごめんなさい。本当は…男の子が好きだったりしませんか?』
『……えっと、どうしてそう思うの?』
少年が何故そう思われたのかを疑問に思い尋ねる。
『だ、だって! フ、フルーが……こんなに女の子に囲まれてるのに手を出さないなんて、きっとその気があるんだよぅって……』
顔を真っ赤にした少女に少年は思わず苦笑してしまった。
『ご、ごめんなさい!』
『僕は…たぶん、ハティアが言ったような事は無い、かな』
『ほ、本当ですか!?』
『う、うん。それに手を出すって言われても……どうしたらいいか分からないし。ただ、こんな風に僕を助けてくれたのは皆で……ハティアで……もし、ハティアが男だったとしても、きっと…今の気持ちは変わらないと思う』
『え……い、今の、気持ち!?』
思わず身を乗り出しそうになった少女に少年はちょっと照れた様子で笑みを浮かべた。
『みんな…僕の大切な友達。ずっと、どんなに時間が経っても……この気持ちだけは変わらない……』
『あ、そ、そういう……』
『?』
『な、何でもありません。ありませんから!』
『そう? なら、いいけど。えっと、だから、ハティアを好きって……事でいいのかな?』
『あぅ!? そ、そういう好きとか、他の皆には言っちゃダメですよ!!』
『どうして?』
『そういう大事な言葉は貴方が大切に思う人にだけ、と、時々言うべきなんです!』
『そう、なの?』
大きく首を振る少女に少年は頷いて。
『うん。分かった。そうする……』
『分かればいいんです。分かれば……』
『じゃあ、約束』
少年が小指を差し出して。
少女はそれを見て少し恥ずかしそうにしながらも、自分の小指を絡めた。
『前々から聞きたかったんですけど、この約束する時の儀式は何処で?』
『クラルが教えてくれて。何か大切な事を約束したら、それは死ぬまで守るようにって』
『クラルさん、ですか……』
少女の顔が少しだけ翳った。
『僕の事……嫌いになったかもしれないけど。でも、やっぱりクラルとの約束だから……』
『……大丈夫です』
『ハティア?』
少女が指を解いて少年の手を握る。
『どんなに心が離れても、貴方が信じるなら、きっと……いつかまた笑い合える日は来ます。もし、その為に何か手伝える事があるなら、私が……いえ、私達が必ず助けますから……』
『ハティア……』
少年はその労わる手が嬉しくて、少しだけ強く手を握り返した。
『ありがとう。大好きだよ……』
少年は自然にそう言っていた。
『!?』
少女は耳たぶまで赤くなる。
『だ、だから、そういうのは……』
拒絶するのは簡単だろう繋がれた手を離す事もせず。
少女は少しだけ、握られている手に力を込めて。
傍の少年へと寄り掛かった。
『私もす、好きです……貴方は……シンアは、私の大切な……トモダチ、ですから……』
小さな声は届いたのか。
届かなかったのか。
少年は何も言わず。
ただ、少女の肩を受け入れて火を見つめ続けた。
*
フラリと後ろに倒れた自分の胸の上。
白い少女が心配そうな顔でいるのに気付いて。
少年は一瞬だけ脳裏で満ち欠けた記憶の残滓を振り払った。
「烙南……」
「兄様。お身体の具合が悪いのですか?」
「いや、そんな事は…近頃、色々あったせいかな。少し夢を見てたみたい」
「夢?」
「ずっと昔の夢……まだ僕が魔王なんて呼ばれて無かった頃の……」
少年の笑みをどう取ったのか。
何かを逡巡した後、烙南は少年の上で身を起こした。
「兄様……」
「何?」
「その、お疲れなのでしたら、その…こちらからしてもよろしいですか?」
「え……」
解けた長い髪がシュルシュルと音を立てて少年の包むように蠢く。
神門として一度は天地の流れに繋がれた少女の身体は既に人間から幾らか逸脱している。
髪が少女の意思のまま動くのもそう大げさな話ではない。
ただ、今までそういう事が無かったからか。
多少、驚きながら少年はされるがまま、髪に優しく衣服の紐を解かれた。
「兄様に助けて頂いてから……ずっと、どうすればいいのか考えていました。もう誰か知らない殿方の子を孕む事は無くて。神門となる子を産む事も、神門になる事も無い。なら、この先、わたくしはどう生きればいいのか」
「烙南はもう自由だよ。治療が終わったら、それこそ何だって出来る。好きなように生きればいい」
ふるふると少女が首を横に振る。
「兄様。絵巻の話を覚えていますか?」
「絵巻……恩返しの?」
「はい。世界を見てみたい。そんな、わたくしの願いを兄様は叶えてくださいました。ですから、その……兄様に恩返し、させて頂けませんか?」
「無理しなくても―――」
ピタリと少女の手が少年の口元に添えられる。
「兄様。わたくしに……あ、兄様の子を……孕ませてください」
キュッと少年の袖が掴まれて。
「烙南……」
「これしか今は出来なくて……兄様にして差し上げられる事無くて……でも、良い子を産みますから……」
必死な顔。
ハルトゥムでの生活の中、自分が暮らしてきた世界の異常さを知った瞳。
それでも少女は言う。
嘗て子を産む為だけに育てられた自分に出来る最大の事を。
少年に対して本当に捧げられる一つの事を。
「そんなに可愛い事を言われて嫌だって男はいないよ。烙南」
「あ…それでは……」
仄かに期待を込めた視線に少年が少女の身体を抱き寄せる。
「僕の伴となったら、後戻りは出来ない。僕の名前が君の一生に付いて回ることになる」
「はい」
嬉しそうに少女は笑顔で頷く。
本当ならもっと悩んで欲しい。
少年は心の底からそう思う。
いつか、その事を後悔する日が来ないとは言えないのだから。
「兄様」
それなのに少女は笑っていて。
「わたくしの生に兄様を刻ませてください……」
心の底から嬉しそうに胸へ頬ずりして。
少年の願いを甘く融かしていく。
「……うん」
優しく囁けば、白く長い髪が二人の間から衣服を取り去った。
着物は解かれ、跨る恰好の少女はその全てを少年の前に晒した。
後に残ったのは密着する身体だけ。
「兄様。ん……」
頬を染めて、瞳を潤ませて、少女は自分の股間を少年の腹の上に摺り寄せる。
「烙南。いい子だね……」
頭を撫でる手。
それに乳房を触れられる時のように身を震わせて。
少女は自分の尻から背に一本伝わる熱さを感じた。
「あに、さまぁ♡」
少年の腹の上はもう蜜で濡れている。
切なげに身体の甘い匂いを燻らせて。
少女は自分の膣(ほと)が少年の幹(まら)を欲しがっている事を自然に受け入れていた。
「蟲壷の代わりではなくて。烙南と子作りしてくださいませ……」
ニチャァッと少年の腹の上で蜜が幼いすじから糸を引く。
引き離された無毛の恥丘が少し後ろに下がって、少年の幹をなぞりながら、先端をその中央に捕える。
「あ……」
ピッタリと先端に吸い付いたすじの中央が、蟲壷にされていた時より、指で抜き差しされていた時より、甘美な感触に戦慄いて、。
ズヂュン。
「――――――」
あっさりと少年を呑み込んだ。
太く長い幹が普通ならば裂けてしまうだろう膣(なか)を一瞬で潜り抜けて、最奥へと到達する。
その壮絶な感触に少年は僅か吐息を零した。
狭く滑(ぬめ)る内部。
蜜と襞は幹を拒む事無く。
しかし、弾力に富んで。
雄に腰を振らせたいという欲求より、ずっと内部で揺蕩っていたいと、原初への回帰を思わせる。
「ぁ…は、いりましたぁ♡ これでわたくし……兄様の……」
悦びよりも慶びが勝るのか。
ポロポロと雫を両目の端から零して。
烙南は自分を始めて貫く幹(まら)の感触を一生忘れないと美しく笑んだ。
「兄様ぁ♡」
「烙南の膣(ここ)……ん、く」
生物が喉の渇きを覚えるのに似て。
男たる少年も例外なく腰の疼きを覚える。
「動き、ます…から……」
初めて受け入れた男の化身。
それに苦しくないわけがない。
だが、それ以上に生まれてから少年と出会うまで徹底的に管理・調教された少女の体内は歓喜に沸いていた。
性奴を作る為の生きた魔術具で調整された膣(なか)は例え相手がどれだけの体格差、馬並みの幹であろうと受け入れただろう。
だが、一つだけ少女を形作った者達が計算外だったのは少女の心。
未熟を絵に描いたような精神性。
何も知らない人工の無垢。
育まれた愚かさを越えて。
女としての答えを見つけた。
相手に尽す為の身体と相手を無条件に受け入れる心。
それは上等な奴隷として少女を完成していたが、女の情を僅かでも知り、最も大切なものを得た少女は今やそれ以上となった。
恋する乙女。
いや、恋する女となっていた。
「烙南」
腰を揺すりながら、涙と笑みに彩られた少女にもう嘗ての儚さは無い。
壊れてしまいそうな細い身体で懸命に恋する者へ奉仕する姿はまだ半人前にすらならなくとも、確かに女だった。
行為で得られる快楽よりも、姿態を貫く背徳よりも、少年は心の底から安心出来る心地を抱いて。
まだ慣れない様子で腰を揺する少女の額に指で触れた。
何を求めるでもない。
何を与えるでもない。
純粋に触れ合うという行為を少しでも共有したくて。
「……」
不思議そうにする事もなく。
少女もまた少年の指に額を押し付けた。
感じているものは一緒。
例え、深く己の性で繋がっても、それだけでは得られぬものがあると理解して。
二人の繋がる場所はどちらにも深い満足感と高揚を与えていたが、指と額の触れ合いが齎す想いの重なりはそれに鮮やかな彩りを加える。
艶やかな吐息に混じるのは雄牝の交尾というだけでは得られない慶(よろこ)び。
夜、密やかな行為に及んでいるはずの二人は太陽に照らされたような気分で互いの瞳を見つめ合った。
ジュグジュグと淫らな音と悦楽を抱えたまま。
二人の声は重なった。
互いの名前で。
「「 」」
他の少女達が見たならば、二人のしている行為よりも、その呼び合う姿に嫉妬を覚えただろう。
少年と少女は繋がったのではなくて、共有したのだから。
人の思いを感じ取るのではなくて。
同じ思いを持つに至ったのだから。
それはたぶん肉体的な業に勝るとも劣らない。
共に育む想いの始まり。
ティア。
そう、少女は呼ぶ。
兄様ではなくて。
一人の女として一人の男を呼ぶ。
幹の形が分かってしまうくらい胎内に深く少年を受け入れながら、少女は無意識に髪で少年を抱き起こした。
二人を取り囲む白い髪はまるで繭のように包んで、洋光(ランプ)の明かりを白銀に融かした。
身体の端から端まで。
少年の身体を髪が触れては愛撫していく。
撫でる仕草は少女の手そのもので。
労わろうという気遣いが少年の胸に響く。
「君に光(せい)が在る事を、我が熾火(ひ)を持って、願おう」
薄らと少年の指先に輝く光が額の上に流れる。
描かれるのは十字。
本来は教会の洗礼に使われる儀式様式。
しかし、それが昔から教会だけの儀式ではなかった事を少年は知っている。
多くの土着信仰を取り込んできた旧教会。
その洗礼儀式の大本には厳しい環境が多い大陸北部の信仰が入り込んでいる。
嘗て少年がまだ人間であった頃。
教会にも入れぬ少年に祝福を授けた者は言った。
命の光は願いの結末。
灯(ともしび)は他者への慈しみの為にこそ在り。
「ん……」
瞳を閉じて。
少年の言葉を受け入れた少女は感じていた。
込み上げてくる少年の欲望の結果。
己の胎に新たな命を吹き込む源を。
「君に刻(おわり)が来るまでは、この身体(のろい)を用いて、捧げよう」
「……ティア」
喜びも、悦びも、慶びも、全てを受け入れた穏やかな顔で。
少女は少年を己と共に髪に埋(うず)める。
少年は抱き締めず。
両手を絡めて。
「Macarize(全てを祝福する女神の名において)」
伴となった少女へ力を注ぎ込んだ。
「―――――――――」
子種であり、祝福であり、生気であり、想いであるソレを。
自分の奥へと満たされていく熱が少年の気持ちであると知るからこそ。
少女は衝撃そのものであるような射精も、普段なら悲鳴を上げてしまったかもしれない圧迫感も、全て受け止め切った。
少年と少女の間にあった距離は膨れた胎によって埋まる。
そうして、二人の男女はしばらく、そのまま。
「「 」」
互いを感じながら、眠った。
とても、安らかに。
*
傍(かたわら)にいるだけで心が温かくなった。
きっと、それは焚火のせいではなくて。
少年の想いがあったから。
友達。
本当に大切な友達。
その出会いは突然だった事を覚えている。
少年は険しい渓谷の下。
流れる川縁に流れ着いた。
最初に見つけた時から死体ではないと分かっていた。
とても穏やかな顔でいたから。
凍え切って青ざめた身体。
それでも少年は笑んでいたから。
『……』
剣も使えなかった。
魔術の素養も無かった。
どうやって生活していたのか不思議なくらい何も欲しがらなかった。
こちらから言わなければ食事も取らず。
こちらから言わなければ傷病も言わず。
共に旅をするだけなのに感謝して。
ありがとう。
そう言って、仲間達の為に全てを投げ打った。
竜の吐息(ブレス)から仲間を守るように背を向けて。
骨まで消し炭になって。
傭兵崩れの短剣から仲間を守るように立ちはだかって。
内臓を抉られて。
生きているのが不思議なくらいの傷を何度も何度も受け続けて。
治しても治しても、痛かったはずなのに。
自分を犠牲にするのを止めてくれなくて。
『……』
いつの間にか。
救われていたのは仲間達の方で。
『シンア。みんな、貴方の事が大好きですよ……』
初めて少女は少年と出会って知った。
誰かの為に生きるという事。
『貴方がいなかったら…こんな風に私達は旅を続けられなかった。私も途中で果てていたかもしれない……』
仲間達の誰もきっと少年がいなければ一緒に旅を続けなかった。
一人は人々を守る剣になりたいと願う刀師。
一人は故郷の家族の為に傭兵となった拳師。
一人は技術を極めんと大陸を回る技師。
一人は巡礼によって一族を弔い続ける法術師。
目的も違う四人の女。
誰もが同じ。
少年との旅の中で何かを見つけた。
人を守りたいという心。
誰かを支えたいという願い。
倖せを共にする意義。
自分を大切にする価値。
『いつか貴方の願いが叶いますように……』
笑みのまま森の清かな音色に耳を傾けて。
少女は明け方までそうしていた。
いつまでも、眠ってしまった少年に肩を預けたまま。
*
(あの頃でも見ているのか……ハティア……)
親友の笑む姿。
いつも浮かべられているものと違う顔。
それが誰に向けられているのかを知る故に極東の聖女ユアン・クオは明け方の庭から見た親友の様子を忘れる事にした。
大きな庭園を持つ極東様式の建築。
広大な家屋は幾つも渡り廊下で繋がれている。
その最奥。
外界から途絶された一角。
今は二人の聖女が住まう寝所。
紫雲が運ぶ風が入り組んだ家屋の間を吹き抜けて。
束の間の涼を運ぶ。
『ほら、どうした。それで終わりか?』
『ちょっと、ま、待って……息、が…ん、く……』
庭の端で二人の姉弟(してい)が刀と剣を並んで振っている。
幻視。
普段ならば、そう全てを片づけたかもしれない。
しかし、ユアンはそれが決して己の心の弱さから顕れたとは思わなかった。
『ユアンの刀を振るところ。僕は綺麗だと思う』
『し、師匠を揄(からかう)な。まだまだだ……』
人々を守る剱(つるぎ)として。
己を大陸に封じた。
そんな不器用な聖女のたぶん、刀を振っていて一番幸せだった時間。
師も無く。
全てを独学にして術を起した女は昔一つの才能と出会った。
決して習熟は早く無かった。
決して技量は高く無かった。
決して殺人に向く器量ではなかった。
けれども、いつかみんなを守りたい。
そう、そんな才能だった。
誰かを傷付ける為の剣で誰かを守る為に戦う。
それは綺麗事ですらなくて。
何もかもが足りない少年の日常。
せめて、自分を守ってくれた人を守れるように。
そんな、冀(こいねが)う気持ち。
『もし、伝授の最後に私を殺さなければならないとしたらどうする?』
優し過ぎる少年に何処かの流派にはそんな事もあったはずだと戯れに尋ねた時。
『弱くても戦えるように……もうユアンには教わらない』
少年はそう言った。
『そんなだから、お前はいつまでたっても上手くならないんだ』
何故、その時少年に向けて笑みを浮かべていたのか。
聖女と呼ばれるようになってからもユアンは決して忘れていない。
強さ。
そんなものに執着していた己の未熟さを痛感したからだ。
力が無ければ何も成せはしない。
しかし、強さに拘泥した者に先は無い。
確かに少年はその時だけ師であるユアンよりも先を行っていた。
武芸術の最終的な到達点。
武器を手放せば死んでしまう。
それでも武器を手放すという選択。
生きる事を諦めず。
己から争いを治める心。
それこそが心(しん)の神髄。
「いつもいつもお前は先へ行く。私よりも、私達よりも……」
魔王との大戦末期。
七聖女総出での決戦において聖女達は誰も少年に勝てなかった。
その理由を知る者がいれば、きっと驚いただろう。
命を諦める事と争いを治める事は違う。
だが、魔王は一度たりとも聖女に攻撃する事は無かった。
どんな攻撃にも、どんな一撃にも、ただ笑みを浮かべて、受け入れて、生きようとした。
そも戦いではなかった。
勝てないも何もない。
聖女達は誰もが争いを求めて。
少年は一人、和平と命を望んだ。
ただの不老不死だったならば。
どんな化け物も聖女達に倒せないわけがなかった。
誰も勝てなかったのは、殺せなかったのは、武の神髄を持って、心の神髄を打ち砕けなかったから。
それだけの話。
七つの奇蹟に魂魄まで砕かれて、不死の肉体を神剣に貫かれて、それでも話し掛けては結ばれると信じて伸ばされた手が、最後には残った。
攻撃に疲弊し、心を摩耗させ、己の良心と矛盾する願いに苛まれ、それでも戦うと決めた聖女の誰もが、敗北の二文字を持って地に伏した。
『もしユアンみたいに強くなったら、隣で戦ってもいい?』
『ああ、もし強くなったらな』
初めての弟子に頷いたのはいつか。
「これがハティアの見た幻……」
幸福の虚像。
心乱れないわけがない。
こんなにも柔らかく笑った自分を夢の中にしか見ない。
聖女となって、ユアンが失ったものが、幻視の先には多くあった。
仲間達と共に旧い遺跡の化け物を退治して。
誰にも知られぬ秘密の泉で水浴びに興じ。
明日も知れぬ戦の中を五人で駆け抜け。
森で疲れ切るまで馬鹿な話を咲かす。
それは若き日の輝かしい思い出達。
聖女になっても得られはしない。
無常な世界に見た唯一の幸せ。
『ユアンって良い人だよね』
『な、何を突然……』
『だって、こんな風に教えてくれるし』
『ただの気紛れだ』
『気紛れで奥義まで教えてくれるんだから、やっぱり良い人だと思うけど?』
『お、お前はどうしてそう恥ずかしい事しか言えないんだ!』
『恥ずかしいの?』
『そんな風に首を傾げてもダメだ!』
『何が?』
『……お前みたいな奴は後ろでハティアと一緒にいた方がいい。法術も習っているならそうしろ』
『一応、僕も男だから……』
『男ならば何だ。このままではいずれ死ぬぞ』
『昔の約束で。女の子は守るって』
『約束だと?』
『いつも守られてばかりだった。だから、いつか強くなれたら、守るって……』
『私は、お前に守られる程弱くない』
『うん』
『そ、それに私は女の子という歳ではない……』
『知ってる』
『叩き斬られたいらしいな!?』
『自分で言ったのに? あはは』
『わ、笑うな!』
『うん』
『顔が笑っている!』
『うん』
『少しは反省しろ!!』
『うん。ユアン……』
守るべき者が在るなら、その少年はきっと仲間達にとって誰よりも守るべき人だった。
戦争、飢饉、貧困。
親に売られた子は兵にされるか慰みものにされるか。
魔術の犠牲か。
金持ちの道楽に命を落とす。
人々は隣人を信じず、戦禍は世を包み、道中道端に転がる死体を見ない日は無かった。
何も守れず。
誰も護れず。
朽ち果てるような諦観の中で出会った。
四人の仲間達。
一人だけの男なのに一番弱く。
誰よりも一番強かった。
沈んだ誰の顔を上げさせるのも少年だった。
救えぬ多くに涙して、刀を振るう悪鬼のような女に、初めて刃へ祈らせた。
技量ではなく。
感情を乗せて奔らせた刃の重さ。
少年がいなければ、女は知りようも無かった。
刃の切っ先に乗せた運命を左右するという事。
初めて失いたくないものを得て、女は刃の重さを知ったのだ。
余りある天武の才と技量が曇らせていた瞳を開かせた。
だから、ユアンは今も生きている。
森羅万象、人も神も斬り捨てて、滅びすらも断ち切って。
「私に出来るのはいつだろうとコレだけか」
揺らりと両手でユアンは朱塗りの鞘から刀を抜き出す。
「幻よ。いつかに置き去られた我が半身……素晴らしき時間よ。去らばだ……」
今しか生きられない人の身にて。
戻らぬ過去に惑わされては生きていけない。
それが例えもう二度と戻らぬ美しき貴ぶべき日々だとしても、彼女は斬る。
今はただ仲間達の為に。
「【廬山匡廬(ろざんきょうろ)の果てに我が刃は在り】」
切っ先から一滴、朝露が刃を伝った。
「【仙棲む猛き峰に一太刀の痕(きずあと)守る大岩と共に発(た)つ】」
聖女の使う奇蹟。
それは人類が知る限り、超常の力としての最高位。
人どころか超常者たる神や魔族達すら届かぬ不思議が存在する。
この大宇(だいう)すらも従う一つが、顕現した。
「【抜けよ。我が意は此処に。我が技は此処に。閃剣(せんけん)は此処に】」
刀に起きた異変はとても小さい。
「【六道(りくどう)寄らず、他化自在天(たけじざいてん)滅す、我が一刀】」
刃紋に黒色が浮く。
「【白刀峯真円(はくとうほうまえん)】」
刹那の事。
振られた刀の斬線が焼付いたかのように距離すら曖昧な幻視がズレた。
幻視は幻視でしかない。
そのはずだ。
しかし、無いはずのものがただ刃によって斬れる。
溢れていく幸せの虚像が次々に一線を刻まれて失せていく。
物理的にはただ刀を振り回しているに過ぎないはずだ。
しかし、ユアンの動きは舞にも似て、全てを絶つ。
「そこか」
ただの庭の壁へ刃が突き立った。
そうして何もかもが静止したような間が降りる。
「ユアン?」
―――庭で一人素振りしていた聖女ユアン・クオが振り返る。
「ああ、ハティアか。おはよう」
「あ…はい。その……変な事を聞くんですが……今、何かしてませんでしたか?」
ハティア・ウェスティアリアは首を傾げて。
庭の玉石の上で佇んでいた親友に聞く。
「いや、何も」
「そう、ですか……ユアン?!」
「ど、どうかしたか?!」
「その……何か辛い事でも?」
何やらオロオロした様子でハティアが素足のまま庭に降りてくる。
「?」
何やら心配そうな顔をした親友にユアンは理由が分からず木刀を下ろした。
「泣いて、るんですか?」
「え……」
驚いた様子でユアンが自分の頬を拭う。
何故なのか。
頬は濡れていた。
「いや、目に何か塵でも入ったか……?」
どうして、自分が泣いているのか分からず。
ユアンはハティアを見つめる。
「……とりあえず、そろそろ朝食ですから、此処で切り上げた方が。今日も乂羅との調整に忙しいんですから」
ニコリと笑って、ハティアがそう汗に濡れたユアンの袖を引いた。
「あ、ああ」
親友には見せないようにして。
ハティア・ウェスティアリアは顔を歪めた。
朝、“悲しい夢を見ていた”彼女は事態を全て察していた。
大切な親友が自分の大切な“何か”を奇蹟を乗せた一撃で斬ったのだと。
それが何なのかはハティアにも分からない。
何故なら、幾つかの例外を除いて、斬られたものは決して戻らないから。
奇蹟を使った本人すら何を斬ったのか知らないだろう。
【白刀峯真円(はくとうほうまえん)】
七聖女ユアン・クオの使う奇蹟(かたな)。
その能力は使用者すら真には理解していない。
使用を見た七聖女は三人以下。
更にその中でもフルー・バレッサだけが能力をこう推定した。
『あれはたぶん情報の“検閲”に近い能力なんだよぅ。検閲対象を“森羅万象からの参照結果より除外する”……そんな最終兵器みたいな。あくまで閉ざすだけだから、見る能力がなければ、何が閉ざされたか知る術はないし、その結果として“現実”と“現在”が食い違ったりするのかも……』
(一体何を貴女は)
「ハティア?」
ドキリと少女の心臓が跳ねた。
「な、何ですか?」
「明け方に魘されていたが、大丈夫か?」
「え? あ、はい。昔の事、旅をしてた時の事を思いだして、ちょっと……」
「そうか」
「……シンアと“あんまり仲良くなかった”ユアンは覚えてない話かもしれませんけど」
「そうだな。私はあいつと“何も無かった”からな」
少し笑みを浮かべたユアンは再び頬を零れるものに気付いて、片手で拭った。
「お前は、いや……仲間の誰も私が守ってみせる」
「ユアン?」
何故、今更にそんな言葉を吐いたのか。
自分の心が理解出来ず。
女は一人、ただ一人、誓う。
自分を守ってくれると言った誰かの事なんて露知らず。
涙は旭(あさひ)の下、儚い耀きとなって、失せた。