第一章四節「聖天」
それは死を彼方まで響かせるような音色だった。
ギィギィと鋼の擦過音が揺れる。
折れた剣が野原に無数散っていた。
その剣の硬度は既存の尺度では絶対に折れないとされる最高のもの。
【高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)】
その主要装備である“鉄剣”だ。
ただの鉄である刃が何故絶対に折れないとされるのか。
その理由は単純に与えられた加護が圧倒的だからだ。
一種の概念を操る魔術にも近い効果が確認されている。
折れる事無き剣は聖女の聖別の秘義において鍛造される。
だから、それが折れる時は聖女の奇跡の一端が破られた事を意味する。
七教会の兵達が騎士と呼ばれた頃から、教会の剣の取扱い指南書には一つの文言が載っている。
もし剣折れる事あらば、逃走を許可すると。
剣は相手の力量を測る尺度なのだ。
聖女級の者でなければ、戦ったところで待っているのは死なのだと教えている。
それが折れぬ鉄剣の意味だった。
「まだ、この程度の練度ならば」
木々生い茂る森へと進む者が一人そう呟いた。
黒い外套を纏い兵達の剣とは違う細い片面が反る刃を鞘に戻して。
引いていった男達の驚愕はたった数分前の事だというのに。
その神業にも等しき刃の術理を持って、ただ剣のみを折り砕いた達人は再び深淵へと潜っていく。
己の使命を全うする為に。
「我が主よ。どうかご無事で…」
ただ、そう呟いて。
これが【エルデナンド皇国領】において魔王残党に生贄が捧げられる前日。
未だ己が嵌められた事に気付かない者の最初で最後の見落としだった。
剣は折られたのではない。
確かに折る力量をその者は持っていた。
が、それにしても大量に折れ過ぎていたのだ。
未だ籠る聖女の力の一端。
奇跡の力が折れた剣を僅かに発光させ。
そして…剣折りし者の偽装を密かに暴いていた。
それがやがて一つの出会いに結実していく事を“彼女”はまだ知らずにいた。
*
「…ここでよい」
「ハッ」
誰もが早く離れたいのだろう。
森の入り口に着いた場所で我の言葉に耳を傾けるまでもなく。
全ての従者が逃げ去るように馬車を走らせ遠ざかっていく。
溜息の一つも吐いてやりたかったが、それは美しくない。
最期を看取る者すら無いとしても、己を忘れてはその最後すら無様だ。
だから、ただ視線を真っ直ぐに目的地に向けた。
もうそろそろ暮れる頃合い。
不気味にざわめく森の入り口が地獄の釜のように見えた。
「我は決して脅えない。決して……」
魔王の残党が逗留すると思われる場所。
己の墓場へと一歩足を進める。
【エルデナンド皇国領】
その国を統べる家の小娘。
イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンド。
今、亡国にならんとする国の姫にして、この捧げられし身は、決して怖じないと決めていた。
「今往くぞ。我が死よ」
靴が歩き難いと細い踵を圧し折る。
足を踏み入れた森の中は正に未知だった。
所々で小さな獣や鳥を見かける。
見た事もない植物が生えていて興味をそそる。
「これで自由の身か…」
次期皇主を望めるような身分でもないのは昔から分かっていた。
だから、母に誘われて行う習い事をこなして。
立派な政略結婚の道具になるよりは学者に成りたいと思っていた。
その願いはほんの少し叶った。
たぶん、とても短い間の事なのだろうが、それでも我は興味を満たされて何だか得意になる。
これから終わってしまうのだとしても。
皇主よりも博士に憧れている我が身には丁度いい贈り物だ。
醜い権力闘争にこれで完全に関わらなくてもいいのだし、ある意味清々した。
この我の未熟な体が蹂躙され、襤褸切れのようにされるのだとしても、策謀の中で死ぬよりは何倍もマシかもしれない。
女として踏み躙られるのがどういう事なのかおぼろげにしか分からずとも、権謀術数に命を落とす者は幾らか見ていたから、ああはなりたくないという思いの方が強い。
(それに、いつかは失うものと聞く)
そう、いつかは純潔(しょじょ)など失うものだ。
宮廷の女達で年頃の者は誰それと褥を共にしたのだと密やかに語る。
ならば、魔王残党に奪われるこの身の純真はきっと価値がある。
そんな女はこの世に多くないだろう。
もし、生き残る事が出来たなら、魔女と馬鹿にされようと触れ回るのもいい。
きっと、恐ろしい女だと誰も彼もが怯えた視線を向けるだろう。
「ふぁ?!」
躓いた。
ドレスの裾が邪魔だと思い切り引っ張り破く。
(こんな事をしても怒られないのだから愉快ではないか)
進む毎に森が深くなっていくのが感じられた。
もう、後ろを振り返っても森の外が見えない。
「いったいどのような者なのだろうか」
今も七教会に追われている超越者。
その姿は一部の噂では雄山羊の頭に人を足したような姿であるとも、形容し難い“名状し難き者”とも言われている。
「何だか楽しくなってきたではないか。はは……」
そう、この震えは断じて恐怖ではない。
断じて泣き喚きたいわけではない。
「……」
森の進む。
行く手から何か音が聞えてくる。
水音だった。
近くに水が流れているのか。
そのままに進んでいくとやがて小さな川が見えた。
その源泉となるのだろうチョロチョロと水の落ちる水辺も見える。
「何だ?」
歩きながら近付いていく。
落ちてくる水の下に人がいるのが解る。
更に近付いて、それが人だと確信する。
魔王の残党とは人のような者であったらしい。
「おい。そこのお前!! お前が魔王のざ――――――」
途中で言葉は喉の奥に引っ込んだ。
水を浴び頭に手をやり洗っているのは全裸の少年だった。
我の気配を感じたのか少年が振り返る。
最初の五秒間は無言だった。
次の五秒間で少年は即座に辺りを見回して何か身体を隠す物を探した。
最後の五秒間で何もない事を知って手で股間を隠した。
全て、そう全て、この我の前で行われた出来事だった。
「別に粗末なモノは隠さずとも良いぞ?」
我の言葉に少年は何を思ったのか。
一瞬、頬を染めた。
「えっと…誰?」
「お前こそ誰だ」
高まっていた気分が台無しにされた感覚。
此処にいるのは魔王の残党だと聞いていたのに、事実は小説より奇なるもの。
ただの少年、ただの人間にしか見えない。
少なくとも魔王の残党とか大そうな者には見えない。
「僕は旅の人…かな」
「ハッキリせぬな。生まれと齢と名前くらい言えぬのか?」
その曖昧な笑みに何故か酷く腹が立って我は少年を睨み付ける。
「あんまり人に本名を名乗ったりしないから…」
「ふん。まぁ、いい」
溜息が出た。
きっと、この少年は関係ない。
自分を奪う者でも殺す者でもない。
少なくとも皮を被った狼には見えない。
だから、横柄に。
いつもの如く。
平民に対する父のように訊く。
「では、一つ我が訊いてやろう。お前はそれに正直に答えろ」
「えっと、何で?」
「平民に皇の何たるかを語る必要性は無いであろう」
「あ、うん…その、ごめん…」
また、カチンと心の奥底に怒りの火花が散る。
「それとその粗末なモノを仕舞え。お前は初対面の女の前で自分のナニを曝したい変態の類なのか?」
「ごめん……」
何だか申し訳なさそうな顔をされた。
何故か。
それが何故か気に障る。
「悪いが此処でお前のような変態の毒牙には掛かっている暇は無いのだ。我の体はもう先約がいるのでな。さっさと此処を離れぬと死ぬぞ」
そう言って。
ああ、何だ。
そうなのかと。
己の不可解な感情の理由に気付く。
(我ながら優しいではないか。巻き込みたくないなんて……はは、まったく)
緊張を削がれて気分を害したのは本当だ。
けれど、それ以上に何の関係も無さそうな、こんな歪んだ小娘より善良そうな少年を、巻き込みたくは無かった。
だって、それは自分が身を捧げて守られるはずのものだから。
「十秒。後ろを向いてやる。さっさと着替えて、何処へなりとも行け。この森から出るのだ。振り返るでないぞ? もし、そうしたらお前は我が名において死刑にしてくれる」
スラスラと言葉が出てきた。
普通の平民ならば、この状況で貴人に恥を掻かせたと肝を冷やして逃げ去るに違いない。
後ろを向くと慌てた様子で水辺から上がる音と衣擦れの音。
「……」
それが終ったかと振り返れば、もう少年は黒い外套に身を包んでいた。
「ふむ。行くか」
沈黙していても始まらない。
とにかく。
この近辺にいる魔王の残党に捧げられに行かなければならない。
「ちょっと待って!?」
「何だ。悪いがお前に構っている暇はないのだ。行ったであろう? その首惜しくばさっさと去(い)ね」
「いや、突然だったから驚いたけど、どうして此処に君みたいな人が?」
「お前に話すべき事だと思うのか?」
逆に訊く。
少年は複雑そうな顔になるものの何処かへ行く気配はない。
(ふぅ。どうしたものか…)
我はしばし沈思黙考した。
知らせた方がいいのだろうかと。
此処には魔王の残党がいる。
そして、自分は捧げられる贄(いけにえ)なのだと。
「ふむ」
決断は早かった。
「この森に魔王の残党がいるらしくてな。我は贄(ぎせい)として捧げられる最中なのだ。わざわざ純潔(しょじょ)を奪われにいくのだが、どうにも見つからない。そして、お前を見つけたというわけだ。ちなみにそれらしいのを見なかったか?」
大抵の人間はこの答えに顔を引き吊らせるだろう。
そして、二択の表情をするはずだ。
1冗談と相手にせずに笑う。
2逃げ出す。
目の前の少年はどちらかというと後者だと思えた。
一瞬、女かと見紛う中性的な顔立ち。
体は男のものだが、それにしても後姿は絵画の乙女の水浴びかと少し思った。
つまり、頼りない。
それが我の偽らざる少年に対する感想だ。
故にきっと逃げ出す。
「あ、えと…もしかして、もう居場所がばれて? という事は何処かで傷ついてるはずだけど、その気配も無いし、何らかの手段で偽装を抜かれたとしたら…」
「何をゴチャゴチャと言っている。気でも違ったか?」
何やら独り言を呟いた後、溜息がちに少年はこちらを見た。
「な、何だ。我を見てどうして溜息を深くするのだ!!? 失礼であろう!!! 控えよ!!! 我はイフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンドであるぞ」
「君ってもしかしてエルデナンド皇主関係の人間だったりする?」
「我が早く行かなければならないのでな。済まないが此処までだ」
少年は慌てた様子で歩き出したこちらに近づいてくる。
来るなと。
さっさといなくなれと。
生贄は一人で良いのだと。
そう思って無視して進もうとしているのに。
恐ろしくモノが解らない馬鹿なのか。
「付いてくるな!!? 大馬鹿者め!!! 死にたいのか!!! 我はお前のような善良で悪意なんて一欠けらも無い女男に興味なんてないのだ!!! だから、さっさと失せろ!!!」
「ちょっと、待って!! そっちは」
樹の枝が折れる音がした。
「え…」
体が宙に舞う感覚。
踏み外した?
何を?
きっと枝や枯葉に隠されていた地面を。
頭上。
もう頭上。
少年の顔が見えた。
きっと、こちらが危ない場所だと教えようとしていた少年。
(ああ、大馬鹿者め。これでは、この者すら危ういではないか。この痴れ者が…)
自業自得。
少年を遠ざけようとして足元を疎かにした。
その上、生贄たる自分すら満足に守れない。
少年を危険に晒してしまった己の不出来を嘆く。
これが貴人か。
これが大皇の血を引く者か。
これがあの聡明な母の娘か。
嗤ってしまうではないか。
狂おしい程に泣けてしまうではないか。
(馬鹿め。大馬鹿者め…我の、大馬鹿者め…)
それでも死んでしまうなら、しょうがない。
本当は。
本当の本当は。
怖かった。
怖じていた。
逃げ出したかった。
自分は幼いと、自分はそうしてもいいはずだと、何度心の奥で思ったか。
自分は大した者なんかではなくて。
愚者を救う聖女でもなくて。
ただ父や親類に見放された都合の良い人形。
血筋だけを求められたカードの一つ。
それが今切られ、愚かにも自滅しただけの事。
(早く逃げよ。魔王の残党が気づく前に。お前がそう、食われてしまう前に)
下らない強がりも自負も矜持も死の間際、消えた。
「泣かないで。君は死なない」
「!?」
閉じ掛けた瞼が開く。
時間にすれば、どれだけの時間、そうしただろう。
一秒か。
果たして二秒か。
(何故!? 何故!? 何故だ!!? 何故お前は?!!)
死んでしまうのに。
もう数秒したら死んでしまうのに。
少年の声が、少年の姿が、見えて。
「馬鹿者!!!」
「大丈夫!!!」
そう言って。
体が抱き締められて。
ポスンと呆気ないくらい軽い音がして。
「……」
もう落ちている感覚はない。
自分の下には少しだけ硬い感覚。
それが誰かの肉の感触だと知って。
落下に強張った体が今更のように震え出して。
「……何故だ」
腕の中。
恐々と顔を上げる。
自分を抱き締めて地面に叩き付けられたはずの顔は血に塗れていた。
「何故…助けた…」
体はもう死んでいるのかもしれなかった。
胸がズキズキと痛んで。
震えながら我は訊いた。
「泣いている女の子を見捨てて逃げたら、僕はきっとこの世界に生まれた価値すらない。ただ、それだけだよ……うん、きっと……」
腕の中、体を振り返らせようとして気付いた。
自分を抱いた体。
その肩や背中を突き抜けるようにして、枝が。
「だ、大丈夫か!!? い、今、助ける!!?」
自分を抱き締めた少年が枝の上に刺さって圧死を免れた事よりも。
自分が死なず魔王の残党の生贄になるよりも。
大切な事に今更、気付いた。
「お前は助かる!! 助かるからな!! 今、助けてやるからな!!? だから、だからっ、死ぬではないっ!! こんな所で死ぬでないぞっっ!!!」
医者なんていない。
医学知識なんてない。
外科手術なんて出来ない。
それでも、そうだとしても諦めるのは嫌だった。
だって、それは、自分の責任で。
あんなに貶したのに、あんなにあっちに行けと冷たく追い払ったのに、それでもただの小娘を、今から捧げられてしまう小娘を、助けてくれた人がいた。
それを諦めたら、きっと我は、自分は、己は、このイフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンドは、魔王の残党にも劣る、あの愚劣な貴族達や親類達にも劣る、ただのホントの屑に成り下がる。
本当にあの大好きだった母が育ててくれた自分では居られなくなる。
「ゆ、ゆっくりだ!! ゆっくり、我を離せ!! そうしたら、お前の体を確認する!!! 傷が浅い方から処置するからな!!!」
纏っていたドレスを引き裂く。
包帯。
そうまずは包帯。
出血を止めなければ。
傷ついた臓器から血が溢れたら死んでしまうかもしれない。
刺さった枝を不用意に抜かないよう。
刺さったままに救出しなければ。
「大丈夫。これくらいはいつもの、事だから…」
動こうとした少年を思わず押し留めていた。
「ば、馬鹿者!? 止めよ!! 止めよ!!? 死んでしまう!! 死んでしまうぞ!!? お願いだから、動かずにじっとしているのだ!!? わ、我が助けてやる!!! 必ず助けてやるからッッ!!!」
涙で前が見なくなった。
こんなにも弱い己が嫌になった。
大人になっていたならば、助けられるくらい聡明であったなら、いいや、いいや、今でも助けてみせる、助けてみせる、そう決意して。
「本当に大丈夫、だから…ほら、もう血も止まってるし」
「え…こ、これは…?」
目の前で不思議な事が起こっていた。
血に濡れた顔から仄かに輝きが立ち上る。
他の枝に刺さった体のあちこちからも。
それと同時に溢れていた血が、失せていく。
外套に沁み込んでいたはずの血が、消えていく。
「――――――」
驚いてしまって。
ようやく体ごと振り返った我に少年は、その体を輝かせる男は、言った。
「どうして生贄にされたのかは分からないけど、一つだけ君に言わなきゃならない事がある」
「お前は…」
「僕が…」
少年はそっと綻ぶような笑顔で枝に串刺しにされた片腕でそっと我の汚れていた頬を拭った。
「僕が君の言うソレだと思う。正確には残党じゃないけど、ね」
「お前が、我を奪う者…」
体をゆっくりと体を起こしていく少年から枝が引き抜かれていく。
我の前で溢れ出る血がキラキラと輝きを帯びて消えていく。
ああ、それはまるで教会にある輝ける聖人のようで。
傷が輝き、消え失せていく体がそっと我を抱き締めた。
「あんまり本名は好きじゃなくて。呪われてたり、色々と問題もあるから、いつもはティアって名乗ってるんだけど。君は……君が生贄になった理由は、君が不幸になった理由は……僕みたいだから。君には……」
我をその普通の男よりも随分と細い腕で抱き締めて、木々の上、その者がゆっくりと跳んだ。
「シンア」
大空の中。
消えていく紫雲の下。
黄昏の終りに名を聞いた。
「シンア・ザ・クリティカルアンラッカー。僕を追う人間、僕を殺そうとする人間、そして僕の友達は僕を【不幸を呼ぶ者】あるいは【因果を歪める魔王】または【有限ではあるが果ての無い者】って呼ぶ」
「シンア…?」
「ティアって呼んでくれると嬉しいかな」
「…ティア?」
恐る恐るそう言えば。
「うん」
優しい笑顔が返ってきた。
「君の名前。出来れば、ちゃんと聞かせて欲しいんだけど。いいかな?」
「わ、我は…」
何故か喉が鳴って。
それが緊張なのか。
あるいは別の感情なのか。
分からず。
ただ、我はその少年に、ティアに、名を告げた。
「我はイフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンド。そなたの、えと……生贄だ……」
「イフィミスラ」
「ふぁ?! な、何だ!!?」
不意打ちだった。
そんな風に呼ぶなんて。
誰も、誰もそんな風には呼んでなんてくれなかったのだ。
それなのに、そのティア、は、我の名を軽々と呼んで。
「君がこれからどうするのかは君が考えればいい。僕は君を巻き込んだ責任を取る覚悟くらいはある。だから」
「だ、だから?」
何を言われるのだろうかと心臓が、ドキドキと、緊張で、きっと大空を跳んだ緊張で、強張って。
「もし良かったら、友達になってくれない?」
「と、友達だと?」
「うん」
その言葉は奇妙に胸をざわめかせた。
「ふ、ふん。い、良いだろう。いいぞ。少年よ。いや、ティアよ。我が命を、その……救った事に免じ、我の友となる栄誉を与えよう」
何を馬鹿な事を言っているのか。
内心とは裏腹に声が勝手に口を突いて出ていた。
「うん。君が傍にある限り、この魔王の名において、君を……我が友を、必ず」
その先の言葉は風に解けて消えた。
森の中、川に落ちて、盛大に二人で水飛沫を浴びたからだった。
我と魔王の、いや、我と友の物語はどうやら1頁(ページ)では済まないらしかった。
*
二人の旅人が盛大な水を被ってずぶ濡れになった後。
焚火を囲んで少女は恥ずかしさに顔を伏せていた。
灰金(アッシュブロンド)の肩まで届く髪。
まだ一桁の歳だろう身体は白いというより青白い程で肌も薄い。
その華奢な姿は少女が飛び切りの箱入り、極め付きの希少(レアリティー)だと保障している。
小さな体で大言を吐く吊り目の少女も今は借りてきた猫の如く大人しい。
それもそのはず。
少女は毛布を一枚被っただけで、他には何も身に着けていなかった。
元から着ていた服は破れ、靴は何処かに消え、下着は全て汚れて濡れていて。
風邪を引かせるわけにもゆかないと。
森の中、少年は焚火をして、少女の服を処分した。
少女は「わ、我の着る服が無くなってしまったではないか!」と抗議したものの、少年は少女の頭を撫でながら、明日には街に赴いて手に入れられると軽い調子で応えた。
川の辺。
釣りで得物を得た少年が魚を串焼きにしているのを最初は少し面白がってみていたイフィミスラだったが、夜が更けてくると自分が今どういう立場でどういう風な恰好でどういう状況になっているのかを理解するに至り、ティアの顔を見られなくなった。
答えは至極簡単。
少女は生贄で肌着一枚着ておらず生贄に捧げられた当人の前に毛布一枚。
これを危険と言わず何を危険と言うのか。
つまり、犬の前に肉であるとか、盗賊へ財宝であるとか、そういう諺(ことわざ)がグルグルとイフィミスラの頭の中を回っていた。
「イフィミスラ? 焼けたから。はい」
「う、うむ。感心な事だな」
何が感心なのか当の本人であるイフィミスラはまるで分かっていない。
「あ、ありがとう…ティア…」
それでも少年の心遣いが、ちょっと冷ましてある魚の温かさが嬉しかったから、少女は礼を言った。
「ご飯食べたら寝よう。今日は疲れたんじゃない? 僕も今日はちょっと驚く事ばかりで疲れちゃったし」
「良いぞ(むぐむぐ)」
チマチマと初めて見る魚を食べながらイフィミスラが頷く。
「それにしても……生贄を貰うなんて初めてかも……」
「え?」
その言に驚いて少女が目を見開く。
魔王とはよく世間一般で言われる限り、悪徳の限りを尽くしている。
世の中にはそういう“大人向けの魔王と美女達の絵本”が大量に出回っている。
知識では知っていた彼女にすれば、ティアの言葉は意外なものだった。
同年代の貴族の子女からも大人向けな魔王の話が幾らか零れてもいたので、イフィミスラにしてみれば、本当なのか疑わしい。
「その、お前は、確か一万人の美女と、その、色々と楽しい事をしたのではないのか?」
「えっと、楽しい事?」
「た、楽しい事は楽しい事だ!!! その、純潔をどうにかこうにかして奪ってしまったのだろう!!!」
「それって何のお伽噺?」
「お、お伽噺ではない!!! 貴族の子女達が言っていたのだ。ま、魔王は好色で沢山の女を飼っていて、飽きたらバリバリ頭から食ってしまうのだと…」
「そういう風に見える?」
「そ、それは…見えぬが、それでも人は見かけによらないものだろう?」
「その話はたぶん、昔街を一つ移動させたからだと思う」
「な、街を一つ移動!?」
「ちょっと滅びそうな街があって、危ないからって別の場所に移した時、神隠しとか何とか言われてた気がする。美女を一万人とか尾ひれが付いてるけど」
「そうなのか。で、でも、他にもあるのだぞ!? 例えば、東国一の歌姫を誑かして、じ、自分のものにして……自分を讃える歌を謳わせたとか!!」
「数年前に喉を傷めてて豪商に売られそうになってた子を直してあげた記憶ならあるけど」
「む、あ、あくまで違うというのだな?」
「自分の噂で真実はあんまり聞いたことはないかな」
「そうか。では、実は七聖女の何人かを誑かして関係を持ったとかも噂なのか……」
「……」
イフィミスラは沈黙の意味にも気付かずに何やら納得した様子で頷いた。
「そうか。お前はその通りの者なのだな」
「?」
「いや、いいのだ。こちらの事だ」
「まぁ、みんな関わり合いにならない方がいいってところだけは当たってるから」
自嘲が微か浮いた顔。
何故だか腹立たしいくらいに清い声。
それにもやもやとした少女は火でも見て心を落ち着けるようと少年から顔を逸らした。
「そろそろ火を消すけど、いい?」
「こ、此処でか? 普通ならば火の番をするのではないのか?」
「普通ならそうかも。でも、此処は“あちら側”の影響が多少はある森だから」
「あちら側?」
「魔族とかそういうのが住まう場所からこちら側が影響を受けてる場所があるって聞いた事ない?」
「確か【魔匝窟(ルドゥム・ラクム)】だったか?」
「此処はそこまでじゃないけど、火に寄ってくる獣が沢山いる。僕は基本的に動物とかからは嫌われる性質であんまり気にしないけど、君がいる場所に火を置いておくのはちょっと」
「な、あ、危ないのか!?」
「今はまだ。もう少し夜になったら活動し始める獣ばっかりだから」
「そ、そうなのか」
少しホッとしてイフィミスラが胸を撫で下ろす。
「それじゃあ…」
「?」
ティアが少女の傍まで来るとそっとその毛布ごと自分の腕の中に納めて座った。
まるで赤子を抱えるように胡坐を掻いた膝の上に座らせられて、少女の顔は真っ赤になる。
「な、何をするのだ。突然で驚いたではないか……」
「ごめん」
「う、うむ。こうしていれば、その、大丈夫なのか?」
「火はそろそろ消えるからこのままで。眠ってても大丈夫だから」
優しく。
あくまで優しく。
少年の手の甲が少女の頬を撫でる。
それに言いようのない恥ずかしさとくすぐったさを感じて。
イフィミスラは抗議しようとしたものの、すぐに自分を守ってくれているのだからと思い直す。
恥ずかしいのは何も抱かれているからだけではない。
小さな子のように撫でられて安心してしまって。
更には少年と触れ合う場所に自分から身を寄せてしまいそうな誘惑に駆られてしまうからだ。
安堵。
心地よい温もり。
此処まで他人に毛布や服越しとはいえ接したのは母以来。
それでなくてもイフィミスラは自分が今日此処で奪われると覚悟してきた。
純潔も命も。
だから、自分を奪う者が本当にこんな少年なのだとすれば、少しだけ、ほんの少しだけ、それでもいいと、そうしたなら貴族や何処かの王族と結婚させられるよりは幸せな方なのではないかと考えてしまって、冷静に大言を吐いてもいられなかったのだ。
「そういえば、お前の噂にはこういうのもあったな。お前が抱く者はお前の虜になるとか。お前の精は不老不死の妙薬であるとか。あるいは……」
トロンと少女の瞼が落ち始める。
「お前の愛する者は……聖女になる…だ…とか………」
「……」
スヤスヤと眠り始めたイフィミスラの乾いた髪をそっと撫ぜて。
ついに消えた火の奥。
輝き始める赫の軍勢を前に少年もまた瞳を閉じる。
決して襲ってはこない。
いや、襲った瞬間に自分がどうなるか理解する本能の為に襲えない。
獣の吐息が混じり始める世界の片隅で少年は微笑む。
「おやすみ……」
明日にはどんな服を少女に買おうかと、そんな他愛ない事を思いながら、少年はただ眠る事もなく、少女の鼓動を感じ続けた。
瞼の裏には今日もいつか見た光景が広がる。
それは少年が愛した者、あるいは少年が恋した者、あるいは少年を殺そうとする聖女の……大切な、大切な、優しい過去の記憶だった。