※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第二章十四節

第二章十四節「天使」

 

 廃墟というのはとても風の凪いだ場所だと知っている者は少ない。

 

 何故なら、廃墟に佇む者が稀だからだ。

 

 一面、灰色の世界。

 

 赤の煉瓦は曇り空の下ではくすんだ色をして。

 

 崩れ掛けた元は何の構造物だったかも分からない雪崩に壁だけが埋まるようにして立っている。

 

 火に焼け赤熱していた濁流は既に冷え、薄ら寒い黒を表面に残すのみ。

 

 人の活気が失せた場所にも風はある。

 

 けれど、廃墟にはその風すらも無い。

 

 止まってしまった絵のように薄暗がりは永遠とも思える程に静かで。

 

 思い出したようにパタパタと降り始める小雨が色を濃くして何もかも塗り込めてしまう。

 

 雨は動いているはずなのにやはり世界は凪いだまま。

 

 嘗てを偲ぶ者も無く。

 

 全ては沈んでいる。

 

「……」

 

 貧しくも一人の要人を匿った街は焼かれた。

 

 多くの兵隊でも無ければ、多くの兵器にでもない。

 

 たった数人の魔術師に。

 

 彼らの手際は美しくすらあった。

 

 その様子を兎狩りの帰り道に見た。

 

 街が見える高台。

 

 草原の上で彼らは何事かの呪文を唱えて、キラキラと光る触媒を用い、巨大な方陣を発動させた。

 

 それは炎を生み、空を燃やし、美しい色を街へ嵌め込んだ。

 

 最初に爆ぜたのは街自慢の鐘楼。

 

 月も見えない世界に赤く燃えた鐘が鳴った。

 

 鳴る間も刻々と変化していく音色はやがて鈍く擦れて融け。

 

 建物の中からは人形のように人が爆ぜながら踊った。

 

 焼けた筋肉がでたらめに全身を動かして。

 

 断末魔は炎の音色に掻き消されて。

 

 魔術師達を背後から襲った時、初めて捕えた獲物は放ってしまった。

 

 小さな刃。

 

 小動物を捌く為のギザギザが一杯のナイフ。

 

 刃の後ろに付いた曲がった棘のような部分は血抜きの部分。

 

 一人は首と手足からビュクビュクと失血して倒れた。

 

 塚の一部は鑢(やすり)として使える。

 

 一人は目をゴシゴシと削られて悲鳴の内に高台から転げ落ちて潰れた。

 

 刃の先端は平たくペラペラしている。

 

 一人は体の中に突き刺して、刃で皮と肉を切りつつ中身を抉ると臓物を零して事切れた。

 

 ギザギザな刃で残り三人をどうやって解体したかはあまり覚えていない。

 

 猟師の下男に教えられた通り。

 

 一気に捌いて〆(しめ)たという事だろう。

 

「……」

 

 廃墟が家と定めて四日目の事。

 

 もしも、そんな場所を人が訪れるなら、たぶん教会の者だと思っていた。

 

 惨劇に興味を覚えるのは暇を持て余した者と相場は決まっている。

 

 だからか。

 

 出会った時は驚いた。

 

 必然だったのか偶然だったのか

 

 国の王が滅び。

 

 重臣達は討ち死に。

 

 残る遺物を探しての事だったという。

 

 影武者は各地にいたらしく。

 

 怪しい街を虱潰しにしたらしい。

 

 それでも見付からない本人を探して、何故そんな身分の者が出てきたのか。

 

―――美しい菫色の眼を持つ少女だった。

 

 上等な軍靴を履いて。

 

 手には水が入った皮袋を提げて。

 

 着ていた外套には御菓子が一杯。

 

 探検でもしていたのか。

 

 それとも余程の大うつけなのか。

 

 まるで苦労を知らぬ肌は美しく。

 

 少し汗に濡れていた。

 

『お前か?』

 

 そう問われて何も言えなかった。

 

 少女はまるで宝物を見つけたように喜んで何度も何度も頷いた。

 

『この国の民に代わってお前が決めろ。どうしたい?』

 

 真っ直ぐな視線。

 

 今正に後ろ手にしたナイフならば、その柔らかそうな頬も足も手も腕も体も性器も口も内臓も心臓も肺も血管も腱も腎臓も肝臓も膵臓も背骨も骨髄も脳髄も眼球も神経もあらゆる部位を凄惨極まる方法で狂死するまでいたぶった挙句に殺してしまえるというのに。

 

 その瞳はキラキラと輝いていた。

 

 笑みも言葉も何かの冗談のように思えて。

 

 けれど、菫色の瞳には自分の顔が映り込んでいて。

 

 強張った自分の顔にはもう殺さないでと泣き顔が張り付いていて。

 

『泣くな。女の子であろう? 己の器量を弁えたからこそ、その刃落としたのではないのか?』

 

 いつの間にか。

 

 後ろ手の狂気は落ちていて。

 

『余は合せて八人仲良き男兄弟をこの手で殺したが泣かなかったぞ? 高々五万の民と四百八十七人の臣下、十六人の親族、八人の家族を他人に殺されて亡くしただけではないか。お前にはまだ三百八十七万の民と六万五千の軍と十四万の官僚達がいるではないか。国を治める血筋として国が健やかになるまで面倒を見たいと思うのが心情であろう? さぁ、涙している暇はない。停戦の合意に署名して欲しい。余の祖父がそれを条件にしたのでな。あまり待たすと官僚やら軍やらが集中する都市を消し飛ばしかねん』

 

 恐ろしいとは思わなかった。

 

 悍しいとも思わなかった。

 

 悲しいとも苦しいとも冗談だとも思わなかった。

 

 悔しいとも殺してやりたいとも思わなかった。

 

 凪いだ瓦礫の中で、目の前に一人ポツンと停戦合意を取り付ける為だけにやってきた、その小さな来訪者が何故か、どうしてか、仇と言って差し支えない存在だろう高貴な少女が、眩く……見えた。

 

 頭がおかしくなったのか。

 

 それとも心が完全に屈したのか。

 

 いいや、違う。

 

 嘗ては分からなかった。

 

 しかし、今ならば分かる。

 

 少女は命を張って戦を止めに来た。

 

 上等な革靴は履くのに護衛は付けず。

 

 食事の代わりに誰にやろうというのか菓子だけを服に詰めて。

 

 魔術らしき気配も無く。

 

 たった独りで、探していた。

 

 死んでいるかもしれない存在の為にそこまで出来るだろうか?

 

 殺されるかもしれないのにやれるだろうか?

 

『そういえば、まだ名乗っていなかったな。この僥倖を祝して簡易ではあるが、名乗らせてもらおうか。余の名前はエト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシスじゃ。今はまだお前の仇、その孫娘の名である』

 

 名乗らなくともよいと少女は言った。

 

 名前はちゃんと調べてきたからと。

 

『さぁ、共に向おうぞ。この戦、止めたいであろう?』

 

 その手を、仇の孫娘の手を、皇帝の血筋の手を、取った。

 

 たぶん、それが始まり。

 

 全てを失った少女の。

 

 まだ沢山残っていると伝えられた少女の。

 

 無間のような世界に敢然と立ち向かう自分より幼い少女に心奪われた凡人の。

 

 エーレイン・ディウアーズ・L・アルバストレの人生の始まり。

 

 そう、偉大なる皇帝と共に歩む覇道の一歩目だった。

 

 *

 

 さぁさ、皆さん酔ってらっしゃい観てらっしゃい。

 

 彼方な帝都に座しますは。

 

 怪奇貫く成果狂。

 

 騙り飽きるは世の末と。

 

 謳われ続ける壊乱陛下。

 

 何方も貴方も聞いてくれ。

 

 二年に及ぶ夢幻の日々を。

 

 季節変れば世が変る。

 

 使い古した国なれど。

 

 覇を唱えんと駆け出した。

 

 これは悲しき姫の物語。

 

「ふ~ん。結構、こんな地方でもエトの人気ってあるのね」

 

「……」

 

「何か以外。変人とばかり言われてると思ってた」

 

「……」

 

「生きてる? エーレイン」

 

 人形劇。

 

 たった二年。

 

 されど二年。

 

 それは皇帝エトの冒険譚。

 

 男兄弟を皆殺し、皇帝の座に付いた。

 

 突飛も無い政策で民を翻弄し、多くの偉業を成し遂げた。

 

 今も人々の間に巣食う不安と期待。

 

 賢帝か愚帝か。

 

 どちらとも付かない不思議な姫陛下。

 

 興行師の語り口上は紡ぐ。

 

 彼の者は果たして一体何者かと。

 

 最後に小さな弦楽で奏でられるのは童謡。

 

 イグニシアに旧くから伝わる子守唄。

 

―――水分(みくまり)の女神が行過ぎて戻り来る。

 

―――星詠(ほしよ)んだ男は踏み締めて腕広げ。

 

―――泡沫(うたかた)の逢瀬(おうせ)交す。

 

 イグニシアの皇帝の血筋。

 

 その始祖が仕えたと謳われる水の女神。

 

 彼女が己を祭る男と恋に落ち。

 

 儚い愛に生きる。

 

 たった、それだけの詩。

 

「陛下は……星詠んだ男を捜しておられたのかもしれない」

 

 エーレインがポツリと漏らした言葉にエリザが少し驚いた様子になる。

 

「何よ。唐突に」

 

 賑わう市の端。

 

 奴隷の幼子が大勢集る最中。

 

 二人はフード姿でじっと話が終わるまで立ち尽くしていた。

 

 口上が途切れて水飴を売る男達が消えるまで沈黙を保ったエーレインが雑踏の中でエリザを見つめる。

 

「幾らか傍にいて、お前は何も気付かなかったか?」

 

「どういう事?」

 

「魔王についてだ」

 

「言ってる意味が分からないんだけど?」

 

「そうか。なら、いい」

 

「そんな事言われたら気になるじゃない」

 

「……ティア様はとてもよく陛下に似ている。いや、陛下がティア様に似ていると言うべきか」

 

「似たもの同士って事?」

 

「それだけで済めばいいが……」

 

「何か言いたい事が曖昧ね。似てるから何か問題でもあるわけ?」

 

 名所巡りに借り出され、そろそろ夕暮れに突入しようとしている奴隷都市の空は薄暗い。

 

 エリザを先導するようにエーレインが歩き出す。

 

「言うまでも無い事だが、陛下はこの世界の支配構造を変える気でいらっしゃる。事実、イグニシアや周辺諸国においては陛下の影響力は顕著に世を動かした。だが、それはあくまで一時的な効果に過ぎない」

 

 時折、話し相手としてお茶をする事もある仲である。

 

 エリザにしてみれば、何処か冷静にエトの話をするエーレインは非常に珍しく瞳に映った。

 

「魔王は此処百年の史実にあるように無数の国家の衰退と繁栄に寄与してきた。間接的直接問わず国家再編を余儀無くさせた七教会とは表裏一体と言える。歴史学者の一部は魔王と教会の相反する二つの勢力が現在の大陸を形成する因子として相関関係にあると説く者もいる」

 

「つまり、何が言いたいわけ?」

 

「陛下はこの大陸に第三の意を唱える勢力として現実的な力をお持ちになった。そして、大陸に均衡する力そのものであるティア様と接触した。これは魔王を切り札として引き入れるという話ではない……本質的には」

 

「じゃあ、エトの目的は何だって言うの?」

「それは―――」

 

 エトの口が回答を導き出そうとした矢先、二人の前を大急ぎの兵が横切った。

 

 体がぶつかったエリザがよろめいたのを咄嗟にエーレインが受け止め、抗議の声を上げようとするものの、駐屯騎士達は目もくれずに走り去って行く。

 

「痛った~~何なのよもう!」

 

(あの慌てよう。何かあったな)

 

「人にぶち当たっておいて何も無しとか。後で抗議してやるんだから」

 

「お前を宿まで送る。名所巡りは此処までとしたい」

 

「エーレイン?」

 

「あの様子。ただ事ではない。政庁へ様子を見に行ってくる」

 

 エリザの腰をザッと肩の上に乗せて、跳んだ。

 

「ちょ、ちょっとぉおおおお!?」

 

 エーレインの跳躍は魔力によって強化されている。

 

 一足で数百メートル上空へと移動する様子は常人には刹那の出来事。

 

 目視出来ないものだ。

 

 思わぬ衝撃に目を回したエリザが意識を落とした事を確認しながら、次々に大地を蹴り飛ばしてエーレインはすぐ泊まっている宿の前まで移動した。

 

 視線避けの魔術で宿屋の部屋まで上がり込み、肩の上の荷物をそっと寝台に横たえて、横の台の上に一枚の書置きを残す。

 

 内容は至って単純。

 

『政庁で確認した後、陛下と合流し指示を仰ぐ。一人で出歩かないように』

 

 エリザが目を覚ました時にはもう……エーレインの姿は部屋の何処にも存在しなかった。

 

 *

 

 あ~~はん♪

 

 物語ってのは偉大よねぇ。

 

 だって、人の生み出した文化は数有れど。

 

 これに勝るものは無いんじゃないかしら?

 

 ま、世界を語るなんて人には過ぎた事だけど。

 

 真実よりも現実を。

 事実よりも虚実を。

 

 そう望んだのは悪い選択じゃないもの。

 

 前代の方はよく言ってたわ。

 

 なぁーんでお前が魔王をやらないのかって。

 

 あたしは言ったのよ。

 

 人と戯れて遊ぶより、人の奇跡を見ていた方が楽しいって。

 

 よく言うじゃない?

 

 人の不幸は蜜の味。

 

 同じよ。

 

 人の物語は刺激的に過ぎるわ。

 

 あんなに醜くて美しくて気高くて堕落して両極の振り子を持つ生物なんていないもの。

 

 あたしはそれが好きなのよ。

 

 眺めているだけで濡れてきちゃう♪

 

 戦乱が好き。

 

 殺し合いが好き。

 慰め合いが好き。

 

 淫らなものが好き。

 ぎらつく刃が好き。

 

 裏切りが好き。

 

 和解が好き。

 阿呆が好き。

 策謀が好き。

 逆襲が好き。

 復讐が好き。

 挫折が好き。

 勇気が好き。

 

 愛が好き。

 

 悲恋が好き。

 

 血みどろに描かれたドロドロの人の情って奴が堪らないの♪

 

 恋人の為に戦って死ぬ男が好き。

 

 恋人の為に権力者に体を売る乙女が好き。

 

 馬鹿な憧れで己を滅ぼす王様が好き。

 

 間抜けな道化を演じる賢人が好き。

 

 下らない思想に命投げる若者が好き。

 

 夢見たいな話を信じる聖者が好き。

 

 あらゆる種族を伴って、倒せない。

 

 勝てないはずの魔を絆の力で滅する勇者が好き。

 

 英雄だったのに人に殺され、絶望し、全てを諦観した悪魔が好き。

 

 けれど、今一番夢中なのは男の子の話よ。

 

 今も昔も変らない。

 

 命の意義を遍く全てに語ってみせる子の話。

 

 その子の人生が劇的になるなら、どんな犠牲も厭わないわ。

 

 その子の物語が素晴らしいものになるなら、あらゆる行為を厭わないわ。

 

 ああ、今も今も続く幼子の物語。

 

 何も無い草原で一人。

 

 月を見上げていた。

 

 あの子の話。

 

 誰も知らないだろう、あの子の秘密。

 

 まったく滑稽よねぇ。

 

 あの子から一番程遠い場所にいるあたししか。

 

 あの子を真に理解してやれないなんて。

 

 ああ、もったいないもったいない。

 

 ただ、そろそろ梃(てこ)入れしましょうか。

 

 聖女が要らない事をしてくれたから。

 

 本当に面白いのは人が絶望し、立ち直る様。

 

 本当に見たいのは人が諦観し、再び信じる様。

 

 逆境に立ってこそ、人は輝くものよ。

 

 予定調和の「めでたし」より予測不能の「つづく」の方が美学としては好ましいんだから♪

 

 だから、この物語に一摘みの香辛料(スパイス)を。

 

 うふ。

 

 うふふふふふふ♪

 

 *

 

 近付いてくる。

 

 ゆっくりと。

 

 崩れ出した空は暗雲を運ぶ。

 

 カタカタと震えながら、彼は堆く堆積した衣服と同類だったものの合間でソレを凝視していた。

 

 彼の出自はとても平凡だ。

 

 イグニシア・クルシスの西部ディムリンドの生まれ。

 

 乾燥した地域ではあったが食事に事欠くような場所でも無かった。

 

 騎士という公僕を目指した動機は至って単純。

 

 学費が無料だったからだ。

 

 同時に貴族へと続く唯一の道でもあった為というのもある。

 

 親兄弟に良い暮らしをさせたい。

 

 願わくば帝都に住まわせたい。

 

 西部でも新規開拓が必要と言われる地域で併合されてからせいぜいが百年未満。

 

 まだまだ発言権も低い地で将来を夢見た彼は東部で新たに建設された都市の駐屯騎士となった。

 

 小さな部隊の小隊長。

 

 安月給の身ではあったが、それでも誇りを持って仕事に就いた。

 

 嫁はまだいないが、奴隷達の集う酒場で女給の仕事をする少女に一目惚れ。

 

 周囲には騙されていると言われるものの。

 

 いつか奴隷身分から開放するだけの金を持って求婚しに行くつもりでいた。

 

「……ッ」

 

 そんな彼には目の前で起こる出来事の全てがまるで夢のように思えていた。

 

 敵と思える者と接敵した前衛が白い光に消滅して、晴天に降り出した雨が人を融かしていく光景。

 

 呆気なく瓦解した陣形。

 

 誰が今、殿(しんがり)なのか。

 

 恐怖に脅えながら最後方の部隊であった彼の小隊は逃げ出した。

 

 魔術による不可視の結界を張り、何とか逃げ延びたと思ったのも束の間。

 

 共に逃走した数隊の騎士達が一瞬で土塊と化した。

 

 それを免れたのは偶然。

 

 息が切れて、日が暑いと背と頭に盾を置いていたから。

 

 疲れたと絶望しながら呟く彼に頑張りましょうと三人の部下達は立ち上がり、手を差し伸べてくれた。

 

 自分は良い部下を持ったと。

 

 必ず生きて帰ろうと。

 

 敵前逃亡で降格、または罪に問われても生き延びようと言った矢先。

 

 部下達は呆気なく崩れ落ちた。

 

 その人間であった土塊と鎧に守られるように彼は救われて。

 

 今も動けず。

 

「――――――」

 

 その恐怖でとっくの昔に心は折れて。

 

 吐息一つに身が縮んで。

 

 空からやってきたソレに叫びだしたくなって。

 

 小便も垂れ流しで。

 

 仲間達は部下達は良い奴だったのにと悔しくて。

 

 しかし、今もある死の恐怖から何も出来ずにいた。

 

 光が失せつつある空の曇天が広がっていく。

 

 楽になろうという弱気と生き残らなければという本能と部下を殺された悔しさが入り混じる。

 

 何かを待っているように佇む鮮やかな鎧。

 

 それも深い影に融けていく。

 

 パラパラと雨が降り出して。

 

(!?)

 

 彼の脳裏には希望が一つ生まれる。

 

 土砂降りになれと念じた。

 

 雨音が足音を消して姿を隠してくれるなら、逃走は容易となる。

 

 背を向けて立ち尽くす鎧からゆっくり離れようと彼は音を極力立てぬよう同僚達の中から少しずつ抜け出していく。

 

 這う姿は無様かもしれない。

 

 けれど、そんなのは構わない

 

 部下達が生かした命。

 

 なればこそ、彼は恐怖を押し殺し鎧に背を向ける。

 

 天の助けか。

 

 夜が来て、雨は土砂降り。

 

 彼は終に部下達の下から抜け出して、そのまま―――。

 

『……』

 

 何かに鼻面が当たった。

 

「……?」

 

 何も目の前には無かった。

 

 いや、無い故の違和感を彼はすぐに認識した。

 

 顔を上げれば分かる。

 

 そう、土砂降りの中で、闇の中で、僅かに輪郭が雨の流れを変えていく。

 

 そこにあるのに無い。

 

 根源的な類のおぞましさが彼の背中を一瞬だけ硬直させて、下りてくる手が彼の額を触るより先に剣が奔った。

 

 驚いたのか。

 

 それとも思わぬ痛みに怯んだのか。

 

 見えない雨の中の異形が後退し跳躍する。

 

 彼は――機会(チャンス)だと思った。

 

 慌てて立ち上がり、背後の鎧が気になったものの、駆け出す。

 

 剣はもう投げ出していたが、腰の短剣は健在。

 

 飛び掛ってくる見えざる異形の胸に一瞬の擦れ違い様に突き立てる。

 

 腕を回避し、短剣を手放し、そのまま全速力で逃げ出す。

 

 もう彼は何も考えない。

 

 相手が敵か味方かさえ。

 

 少なくともこんな状況で姿を隠す何かなんて彼には区別出来ない。

 

 追ってくるかどうかすら暗視の魔術が掛かった瞳で確認しない。

 

 駆ける途中、鎧の金具を何とか外し、速度を上げて走る走る。

 

 泥濘に足を取られそうになりながらも、付近でも逃げ込めそうな森の入り口に目を付け、意を決して飛び込む。

 

 見えない異形がいるかどうかは分からなかったが、鎧に目を付けられれば、それこそ一瞬で殺される。

 

 森の中に道は無かった。

 

 しかし、大量の木の葉と枝が背後からの追跡者があれば教えてくれる。

 

 音で居場所がバレるとしても、逃げるこちらには有利だと彼は速度を緩めず走り続ける。

 

 騎士としての日頃の訓練の賜物か。

 

 凡そ走るには適さない森林の中でも転ばなかった。

 

 方向も分からずに直進して何処へ出るかも気付かず。

 

 足元と耳ばかりに集中していた為、対処に遅れた。

 

 踏み出した足が虚空をすっぽ抜け、彼は川べりの斜面を転がっていく。

 

 途中、顔をところどころ顔を出した岩石で砕かなかったのは僥倖。

 

 泥が目に入らなかったのは奇跡。

 

 そう深くはない渓流の中に彼は突っ込んだ。

 

 大雨で早くも増水しつつある流れだった。

 

 が、慌てずに水中で重い篭手や他の具足を外して軽量化を図る。

 

 流れに身を任せつつ、水面を目指し、水中から顔を出して酸素を貪った。

 

 そのまま立ち泳ぎの状態で流されるまま、彼は周囲を見回した。

 

 そうして唇を振るわせる。

 

 森が途切れた斜面で虚空が歪に雨を流していた。

 

 それも数箇所。

 

 もはや濁流になりそうな川の中、彼は泳ぐ事を決める。

 

 体力は限界に近かったが、追いつかれれば成す術が無い。

 

 異形が敵でないならば、姿を現し声を出せばいい。

 

 しかし、そうしないという事は敵に近い勢力かもしれない。

 

 雨が上がれば何処に潜んでいるかも分からなくなる以上。

 

 その前に逃げ切らなければならなかった。

 

 大量に息を吸い込み、水中へと潜った彼は激流の中で泳ぐ。

 

 バラバラに引き千切られそうな体は水に体温を持っていかれるものの、流される速度は増した。

 

 相手が彼を見つけようとするなら水中に潜って、彼以上の速度にならなければならない。

 

 泥で濁り始めた水の中から探すのは困難。

 

 後は溺れるのが先かどうか。

 

(ぐ…もう、息が……)

 

 増水する水中で泳ぐのは至難どころか不可能に近い。

 

 そんな無茶をし続けて息が長く持つはずはなかった。

 

 一端顔を上げるべきか。

 

 上げた瞬間に見えない異形がいそうで恐怖に駆られたものの、彼にはそれ以外に溺れずにいる方法は無かった。

 

「―――くはッッ!?」

 

 顔を出した途端、彼は自分が辿ってきた川の上に信じられないものを見た。

 

 見えぬ異形が滑るように水上を進んでいた。

 

 翼のような形がチラチラと背中付近に見える。

 

(まさか、飛ぶのか!?)

 

 もう先程の半分くらいまで距離が縮められている。

 

 急いで息を吸い込み川の中へ。

 

 泳いで泳いで意識が薄らぐまで泳いで。

 

 彼は朦朧とした意識の中で判断を誤った。

 

 川の中央にある岩を見逃し、激突した。

 

「か゛は゛ッッ?!!」

 

 血を吐き出し。

 

 濁流の勢いで跳ね上がった彼は運良く岸辺の方へとぶち当たった。

 

 体中を川原で強打した彼の肋骨や胸骨は罅割れ、腕は変な方向に曲がっている。

 

 それでも何とか立ち上がって。

 

 痛む全身を引きずりながら、もう霞んでいる瞳で彼は往く先を見つめる。

 

 ぼやけて何も分からない。

 

 それでも歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。

 

 不意にベチャリと泥に顔を突っ込んだ。

 

 斜面。

 

 行き止まり。

 

 しかし、それでも足は登ろうとして、転倒。

 

(ああ、そうか。オレ……)

 

 瞳が暗闇の中で幾つかの歪を捕らえた。

 

 囲まれているのは誰の目にも明らか。

 

(此処で…死ぬのか……)

 

 思い出されたのは女給の事。

 

 必ず次の定休日に誘うと約束した。

 

 思い出されたのは母の事。

 

 怪我をしないか心配だと手紙にあった。

 

 思い出されるのは部下の事。

 

 一人は息子に剣を教える約束をしていた。

 

 一人は娶ったばかりの妻に贈り物をすると決めていた。

 

 一人は久しぶりに帰省するのだと楽しげだった。

 

 彼の額に歪な手が伸びて、その額を触ろうと。

 

「エト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス!!!! 帝国万歳!!!!」

 

 指が、全てを変える指が、彼を“チガッテイル”者へ―――。

 

『照れるであろう』

 

 閃光。

 

 蒸気爆発が至近で彼を吹き飛ばし、意識を刈り取った。

 

『今際に叫ぶなら、女の名にしておけ』

 

 爆発と同時に彼の体を少年が虚空で受け止め、跳躍した速度のまま川の対岸へと下りる。

 

「治療するけど、近づけないように頼める?」

 

「余は直すのより壊す方が得意じゃ。無論、壊すより支配する事の方が容易いが」

 

 一人、雨にも打たれず。

 

 白い衣が地面に付きもせず舞う。

 

 突如として現われた存在に不可視の異形達が一瞬で距離を取って遠巻きにする。

 

 まさか、そんな事があるのかと他者が見たなら言うだろう。

 

 莫大な民を統べる現皇帝その人が戦場となるかもしれない場所に来るのかと。

 

「何か手伝えばいい?」

 

「あまり笑わせてくれるな。これでも戦闘論理から魔術、魔導、超常の力に至るまで。並の高位術師より詳しいのであるからして」

 

「そう……じゃ、頑張って。エト」

 

「言われるまでも無い。余の臣民を傷付けた……その罪、咎、余が断罪せずして何とする」

 

 笑顔で、本当にただの笑顔で皇帝エトはこっそりと背後から強襲を掛けた化け物の首を刎ねた。

 

 ビシャリと血飛沫が上がるものの、雨と同様、一滴も衣服と体には掛からない。

 

「飛び道具無しなら、これで良かろう」

 

 いつの間にやらエトの手には一本の白い鞭が握られていた。

 

 独り手に動いて首を切断した鞭がうねって肉体の周囲をシュルシュルと回転しつつ囲む。

 

「竜かと思えば、不可視の化け物。一体誰の差し金やら。何、答えずとも良い」

 

『?!!』

 

 化け物達が、異形が、不可視の人間に対して最大級の危険物が、ゾッと背筋を凍らせた。

 

 少女の片方の瞳。

 

 菫色の眼球が冥い色を宿して彼らを睥睨した。

 

「汝ら一切糾弾の価値無し。余の眼前から去(い)ねい」

 

『―――!!?』

 

 ゾブリと見えざる化け物達が己の肉体を幾つも貫通する白いものを見つける。

 

 いつの間に。

 

 いや、それ言うならどうやってが正しいか。

 

 少なくとも、化け物達には攻撃の気配すら分からなかった。

 

 今もとぐろを巻く鞭は変っていないように見える。

 

 ただ、貫かれた内の一匹だけが気付いた。

 

 虚空に鞭の先端が消えている事に。

 

 ギュルギュルと何処からともなく化け物達を無数貫いた鞭の実態は一本。

 

 方向もバラバラに虚空から虚空へと空間をあらゆる角度から貫き通していた。

 

 バジュン。

 

 そんな音がして化け物達が見えない血飛沫を上げながら倒れる事も許されず事切れた。

 

 足の爪先から頭の天辺までギッチリと詰まった蜂の巣。

 

 そんな肉の詰まっていない皮袋にされて。

 

 傍目には数千本の鞭の束が化け物達を食い尽くしたように見えただろう。

 

 やはり、攻撃の気配は無い。

 

(空間跳躍? 攻撃の予備動作も無いし、見えなかったのが顕現したわけでもない。空間を割りながら現われたようには見えなかったから……あっち側で“貫いていた”のを無理やりこっち側に引っ張り出してる?)

 

 少年は唯一生き延びたらしき男を魔術で治療しつつ観察する。

 

 世界には幾つも位相というものが存在する。

 

 空間は見かけ上は別の位相空間と繋がっていないように見えるが、それは低い次元で見た時に限る。

 

 空間を歪ませ、別の位相空間と繋がる現象は存在するし、空間内部の“場”は幾つも重なり合って“次の空間”との間に経路(チャンネル)を持つ。

 

 これは魔術師や魔導師には常識の一つ。

 

 その経路は一つではないし、種類も特性も利用方法も多種多様。

 

 エトの鞭はその中でも特異な経路利用をしている。

 

 基本は物体を変質させて経路に押し込む空間転移の形に近い。

 

 ただの転移と違うのは位相を挟んだ空間内部で再結合し、経路そのものを拡大させる事にある。

 

 経路が拡大した位相は近似の位相と引き寄せあう性質があるので、これを利用した鞭の間接攻撃は位相空間内部と現在の鞭の起点が存在する位相を直接的に相似させる。

 

 つまり、“あちら側”で空間を貫いて、その空間と対象のいる空間を相似(おなじ)にする事で無理やりに対象を貫いた状態にしているという事。

 

 空間に掛かる負荷や貫いた場所にあった物質が根こそぎ空間の相似化の際に何処かへ失われている事を考えても、それは禁術と呼ばれる外法に近い。

 

 相似化の際に消えた熱量や物質が一体何処に消えているのか。

 

 少なくとも通常の空間でない事は確実だ。

 

 宇宙の死を早め、世界を壊す鞭と言ったところか。

 

 大概これと同じような外法の攻撃を受けてきた少年だったが、回避が極端に困難なエトの鞭に世の中広いものだと素直に感心した。

 

「これからどうする?」

 

「余はこのまま通信が途絶した場所まで足跡を辿る。そちらは一端馬車まで後退し、都市へその者を」

 

「馬車に備え付けの転移術の魔術具って緊急避難用って説明されたけど、いいの?」

 

「構わぬ」

 

「……気を付けて」

 

 少年は男を背負って跳躍した。

 

 森林地帯に程近い場所で止めた馬車へと向かって後退していく。

 

 残されたエトは浮遊しながら、男が流されてきたと思しき河川を辿った。

 

 数キロ程上ったところで気付く。

 

(……生命力が希薄になっている?)

 

 幾多の魔術や加護に守られ強化された五感。

 

 研ぎ澄まされた感覚は遠方から命の気配が急速に失せているのを確認した。

 

 森林の中を浮遊しながら、逃げてきたのだろう騎士の足跡を遡っていくエトはやがて樹木の間を抜けて、その場所まで辿り着いた。

 

「これは……」

 

 鎧と衣服だけが散乱する場。

 

 一目で騎士達がどうなったのかエトには分かった。

 

「安らかに眠れ。今、葬ってはやれぬが、必ず」

 

 ゆっくりとエトの視線が己を見ている遥か上空の存在に向けられる。

 

「貴様が騎士達を平らげた者か」

 

 闇の中でもハッキリと加護を得た瞳は相手を捉えていた。

 

 その鎧の姿と紋章から幾つか推測し、エトが大体の事を察する。

 

(このようなものを作れるとしたら辺境伯しかおるまい。乗っ取られたか。奪われたか。どちらにせよ。油断は出来ぬ)

 

 鞭を握り締めるエトの手に力が入る。

 

 ギュルギュルとエトの周辺を回りながら、先端が虚空へと消え、相手を捉えるべく奔った。

 

『!!!』

 

 先に動いたのは鎧だった。

 

 超高速での突撃。

 

 握られた剣が刹那の間に振り被られ。

 

 鞭が位相空間で捕えるより先に白い輝きが真正面からエトを捉えた。

 

 時間にすれば一秒も無い。

 

 爆風。

 

 超高熱の一撃が周辺の雨を全て高熱の蒸気へと変えて吹き飛ばした。

 

 高速で周辺の位相空間に展開されていく鞭を掻い潜るように鎧が離脱していく。

 

「危機回避能力も高いか」

 

 正面から白い輝きを受け止めた魔術方陣が音を立てて崩れ消えていく。

 

「む?」

 

 エトが違和感に鞭を見る。

 

 白煙が上がり、所々が溶けていた。

 

「これは水竜の……やはり、支竜【劫竜(エンシェント・ドラグラ)】の能力」

 

 使い物にならなくなった鞭をそのまま棄てて、菫色の隻瞳(かため)が輝く。

 

「来たれ。絢爛たる余の手に」

 

 瞳の中心に方陣が浮かんだ。

 

【七望(セプテム・サピエンテス)】

 

 嘗て、【大皇(ディヴス・プリンシプス)】の軍が掲げた意匠。

 

 エトが着ていた上着が失せて、黒い鎧が一着、体を覆っていく。

 

 薄く流線型を基本とした装甲には古の言語で幾つかの文言が刻まれている。

 

 一言ずつ。

 

 まるで呪いを書き殴ったような荒々しさで。

 

―――過ちは正せない。

 

―――詳らかなる虚妄も。

 

―――全ては明日の為。

 

―――血塗られた道を往け。

 

 胸に刻まれた一言だけが何故か優しかった。

 

―――女神は今も此処に。

 

「【皇帝(インペレータ)】の名において告げる。目覚めよ【哭詠寡吟(カルミナ)】」

 

 黒い鎧に菫色の幾何学模様が奔る。

 

 ゆっくりと主の魔力を吸い上げて、機能を開放していく。

 

 支竜の能力を封じた鎧にしてみれば、攻撃の機会(チャンス)は幾らでもあった。

 

 内部に入り込んだ化け物の命が尽きる寸前で単に動けなかっただけだ。

 

 だが、それこそが致命的。

 

 周囲で機を窺っていた不可視の化け物達は鎧へ新たに乗り移る機会を逸した。

 

 ゴシャリと支竜の鎧が音を立てて、頭部が捻り飛ぶ。

 

『?!!』

 

 何が起きたか分からないまま、それでも最後の力を振り絞って、不可視の化け物がエトに背を向けて能力を起動する。

 

 有機物を全て土塊と化す還元の魔眼が剥き出しのエトの顔を捉えた。

 

 ピキリ。

 

 鎧に刻まれた文言の一つ。

 

 その一字に微かな罅が入る。

 

 しかし、土塊と化すはずの生身の部分に変化は無く。

 

「この鎧の守りに傷を付けた事は褒めよう。だが、この借り易くは付かぬ」

 

 盾も剣もありはしない鎧の動きは古の仙者が使う縮地の秘儀にも似て。

 

 支竜の鎧の背後。

 

 一対の瞳がその両拳に粉砕された。

 

 ガクンと鎧が脱力する。

 

 一撃で両肩を貫かれた内部の化け物は即死していた。

 

 しかし、それを確認して尚エトは止まらない。

 

 鋼が拉げる音がして、肩を破壊された鎧がグシャグシャに潰されていく。

 

 【哭詠寡吟】と呼ばれた黒の旧き力に鎧われた腕がまるで粘土でも捏ねるように鎧を砕き、拉がせ、最後にはただの鋼の塊として丸めてしまう。

 

 その手の剣も盾も同じ末路を辿った。

 

 *

 

 未だ国境地帯で息を潜めていた不可視の化け物達。

 

 その瞳を借りて全ての状況を見ていた修道服姿の女が一人。

 

 武帝より西への道無き道を歩きつつ、苦笑していた。

 

「何と乱暴な。これが皇帝とは……」

 

 森林の中、彼女を守るように部族の男や化け物、亜人達が付き従っている。

 

 不意に立ち止まった女が顔を上げて、驚いた様子になる。

 

「ああ、御神よ。まさか、このような場所にご降臨頂けるとは……」

 

 さっと頭を下げて泥に衣服が浸るのも構わず頭が下げられる。

 

 周囲の者も彼女に倣った。

 

 女の前。

 

 虚空に闇より深い色を讃えた棺が滲み出していく。

 

 ダークエルフを狂わせ、女に力を与えた武帝騒乱の引き金。

 

 その黒の棺の下に何かがゆっくりと産み落とされる。

 

 棺から滲むように影が形を取って女の頭上へと浮いた。

 

 それは天使の環にも似ていたが、違う。

 

「あ、ああ、そんな!? 御神よ!! このような出来損ないの身に!? 感激のあまり全てを愛してしまいそうです!!?」

 

 女の頭上。

 

 浮いているのは一つの車輪だった。

 

 黒いソレは馬車にも使われるだろう人間の生み出した形。

 

 されど、天の位にある容(かたち)でもある。

 

「あ、ぁぁぁ゛ぁ゛ぁ゛」

 

 女の顔が急激に皺枯れていく。

 

 伴う異常は劇的に。

 

 周囲の動植物。

 

 更には男や化け物達まで急速に生気を失って死骸のように細っていく。

 

「ぉぉ゛、これこそ第三位…あぁ゛、皆捧げるのです……あの思い上がった愚者に意思の支配者の祝福を……」

 

 化け物達が絶命した。

 

 男達も絶命した。

 

 動植物は完全に生気を奪い取られ土塊と化した。

 

 広がっていく病の如き生気の欠落はほぼ数キロ四方を呑み込んで、大地を更地とした。

 

 蟲の一匹もいない最中、鉱物と水以外が全て失せた荒野で木乃伊のような女が頬を緩める。

 

「み゛づがい゛よ゛……す゛べて゛の゛も゛の゛にし゛ゅ゛く゛ふ゛く゛を゛!!!」

 

 黒の車輪が女の頭を離れ、闇を飛翔した。

 

 大森林西部より加速した巨大な気配を及ぼすソレは雷よりも速く。

 

 空気抵抗を無視して直進。

 

 飛翔した地域に激音を響かせながら、イグニシア・クルシス国境地帯まで移動。

 

 然る後。

 

 国境地帯で屯していた不可視の化け物と共に黒の鎧へと食指を伸ばした。

 

 同時刻。

 

 帝都において発令された命令に出撃した航空師団は移動途中、国境地帯付近において命令無視の末に爆撃を開始した。

 

 武帝の人間もクルシスの人間も無く。

 

 人間か亜人か種別の区分も無く。

 

 ほぼ国境全域に渡って思考する存在は己の意思というものを失い。

 

 ただ空を見上げるだけの何かと化した。

 

 一部の者達だけがその奇怪な異変に飲み込まれる事なく事態の爆心地へと引き寄せられ。

 

 戦いへと沈んでいく。

 

 第三位。

 

 玉座の運び手。

 

 意思統べる王。

 

 ソロネ。

 

 オファニム。

 

 ガルガリン。

 

 又の名を座天使。

 

 人の世を一晩で塗り替える究極の精神干渉存在。

 

 御子(アーフル)が顕現させた不可視の化け物の大本は手始めに皇帝のトラウマを暴く事から開始した。

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