第二章十六節「心理」
“さぁ、行こう。サヤトネ”
幻が過ぎ去る。
冷たい雨に打たれている己を見て、彼女は言う。
“シンア”
幻が通り去る。
蒼い瞳に映る全てを見極めて、彼女は抜く。
「我が刃にて」
目が、拓かれた。
「断つ」
国境地帯の砦まで後少し。
近付くに連れて増えていった難民達に混じったマロウ達は夜の帳が落ちた頃、既に他の者達と同じく精神干渉に呑み込まれていた。
「……く」
ようやく目覚めたサヤトネが周辺で倒れ臥した少女達とその上に被さるようにして気を失っているマロウを見つける。
不意打ちに近かったせいで対応が遅れたものの、深層域までの干渉を何とか防いだおかげでパーティー四人は気を失っただけで済んだ。
「…ッ、今度は何が!?」
今正に正常復帰したサヤトネは遥か頭上から落ちてくるものの気配に気付いて、手にした刀を振るう。
ギリギリ。
数十m程上空で爆発の嵐が吹き荒れた。
(爆雷!? 高空からの攻撃。まさかイグニシアはこの一帯を!?)
自分達と同じような状況に陥っている者がいる事を悟って。
サヤトネは周辺に立ち尽くす難民達を見回す。
選択肢は二つ。
見捨てるか。
守り抜くか。
「答えなど。決まっている、か……」
風を裂く爆雷の鉄筒。
続けて降ってくる破滅の足音。
嗤うしかない。
人助けなんて柄ではない彼女もこの混沌とした国境地帯で無関心を決め込むわけにはいかなくなった。
チラリと倒れ臥す青年を少女は見つめる。
殺す事など今なら容易い。
そう、心の何処かが囁く。
しかし、それでは何一つ解決しない。
そう、理性が告げる。
「シンア……」
己の主の名を呟いて。
サヤトネと名乗る少女は常に青年へ使い続けている能力のほぼ全てを停止した。
「貴方の敵を守る為に技を振るう事。すみません……」
きっと、お人よしの少年ならば責めはしない。
それどころか良くやったと褒めすらするだろう。
それでも【蒼穹の騎士】は一人自らの行為が主の死へ行き着くかもしれない事を胸に刻んだ。
「――――――」
地域一帯から吹き上がる炎が世界を染めて、黒い雲を明るく映し出す。
照り返す煌めきに炙られながら、名刀には程遠い刀の根元がゆっくりと両手で握られた。
常に刃を他人へ向けてきた騎士はようやく自らの力を真に使う決断を下す。
紅く手が染まるのも気にせず、己の中心に刃を突き立てる。
傍目には自殺。
だが、まったくもって正しい能力の使い方だった。
「ぐぅッッッ」
埋まっていく刃の感触に仰け反りながら、それでも体は全てを受け入れる。
古き鈍ら。
騎士がまだ本当の主を見つけていなかった頃。
幾多の兵を手に掛けて、幾多の視線を集めた刃。
一度(ひとたび)掲げれば、敵は恐れ、一度(ひとたび)振れば、敵を裂いた。
死の中で磨かれ、彼女と共に朽ち果てた相棒。
幾度の練磨の果て。
折れて拉げて融け落ちながら、それでも少年が彼女の為に鍛え直した一振り。
【魔刃(ヴェネフィシア・グラディオ)】
切れ味も薄く。
凡人にも折れるその鋼。
されど、凝る因果は全てを断つ。
死が、叫びが、怨嗟が、絶望が、味方だった者の意思が、今も彼女に従う。
お前にならば殺されて良かったと。
まったく大した奴だと。
この殺戮者めと。
生きて購い続けろと。
お前の為なら、命果てて尚遣い潰されようと。
残響する魂の幻影が彼女を縛る。
―――因果断絶(いんがだんぜつ)、忌痕蒼視(いこんそうし)、祁魂禍送(きこんかそう)。
断ち切れていく因果の叫びは【因痕(キカトリクス)】となって世界を振るわせる。
原因と結果が途切れた時、運命(さだめ)は縁(よすが)と成り得ず。
絶対的孤独と引き換えに人の行き着く果てである破滅すら彼女は克服する。
「完…了……」
刃が心臓を貫き、彼女へと繋がった森羅万象を瞳に映す。
刃が柄まで肉体の奥まで埋め込まれる。
四人の仲間達を横目に彼女は腕を虚空に伸ばす。
彼女の持つ蒼き瞳。
未だ主以外には知り得ない魔眼が具象化した因果の糸を引き寄せていく。
掌に集った糸の束は凡そ三百数十万。
一本一本が国境地帯で今にも命を終えようとする人の人生、その一端。
バッサリと掌に集ったソレを引き千切れば、誰もが死ぬだろう。
【運命糸(リネア・フェイティ)】
正にソレは人の織り成す因果律(じんせい)そのものだ。
干渉する存在は神の如き力を持っていると誇っていい。
しかし、至る場所から伸びるソレを彼女は不器用に編み始める。
縒って捻って一本の綱としていく。
今にも切れそうだった糸は結束し、その殆どが切れずに済んだ。
それでもやはり限界に近い糸は幾つかは切れて儚く散っていく。
「……」
それに憐れむ様子も無く。
彼女は選り分けていた四つの糸を手元に手繰り寄せた。
今正に彼女の傍で倒れる仲間達。
少女達と青年の糸を。
よく視れば、三つの糸はそれぞれ多少伸びた先で新しい糸を分岐させていた。
命の誕生を予定する吉兆。
青年の糸は彼女が見てきた糸の中では人間として最も太い部類。
断ち切れる事なく。
永劫の果てまで続いていそうな頑丈さを持っている。
「もう十分に絆は育まれたはずです…」
少女は太い青年の糸へ三つの糸を絡めていく。
数百万の運命を束ねた時とは違う。
一度絡み付いた少女達の糸は自然と青年のものと融和し。
まるで最初からそうだったように一つとなった。
「これで。もう大丈…夫……」
グラリと体を傾がせて、彼女は己が限界に近い事を知る。
(さすがにこれ以上の余裕はありませんか)
胸元に突き込まれた手が一気に刃を抜き出す。
鮮血が吹き上がって、視界を染めた。
バッタリと仰向けに倒れながら、もう糸が見えなくなった彼女は目を閉じる。
(これでもう彼は逃れられない。そろそろ帰らなくては……)
再び主である少年と合流する時期を見定めながら、その意識は深く闇に沈んでいった。
本当の敵を退け、また己の主の下へ帰れる喜びに満ちて。
*
第三位の御遣いが降臨する二時間前。
暮れ掛けた奴隷都市の最中。
政庁のある中央区で異変は起きていた。
魔王と皇帝の馬車が出て後。
様子のおかしい事に気付いたエーレインは都市構造物を強化した脚力で蹴り飛ばしながら最短ルートで政務中枢のある庁舎まで来ていた。
「…?」
都市のあちこちで駐屯騎士の妙な動きを察してやってきたわけだが、壁に囲まれた庁舎の中庭に降り立った彼女を待っていたのは、想定していた騒がしさとは裏腹の静けさだった。
(どういう事だ。何故、誰も出てこない?)
別に姿を隠してきたわけでもない。
すぐに駐屯騎士か誰かが人を呼んでくると彼女は思っていただけに違和感は大きかった。
ゆっくりと庁舎を繋ぐ回廊へと歩き出したエーレインは少しずつ内心で膨れ上がっていく危機感に目を細める。
回廊を抜けてエントランスまで往くも誰一人いない。
ただ、土の跡が濃い通路の方へと誰かいないかと歩いていく。
「誰かいないか!」
叫んでも響く通路の何処からも返す声は上がらない。
何かあったと告げる勘に従い剣の柄に手を触れさせたまま、政庁奥へと進んでいくと不意に人の気配を感じ、エーレインが足音を消す。
辿り着いたのは政庁の大広間へ続く扉。
「誰かいるなら、返事を」
そう呼び掛けてもやはり声は返されない。
半開きだった扉を蹴り開けて、そのまま内部へと足を進め―――。
「なッッ?!!!」
驚きに目を見開いて硬直した刹那、大広間の天井に張り付いていた見えざる魔手がその頭部へ―――。
銃声。
「!!?」
広間のテーブルの上に不可視の化け物が落下した。
「気を付けろ。まだ、いる」
両手に煙を上げる拳銃を下げたキリア・ユエト・セマネへ剣が投擲された。
目にも留まらぬ早業。
避ける暇も無く。
キリアの頭部に伸びていた魔手が剣に貫かれ、背後の壁へと縫い止められた。
「ッ」
振り向き様に拳銃を連射したキリアが頭蓋の割れる音を確認して、溜息を吐く。
「貴様は何者で、コレは一体何だ!!」
エーレインが腰の短剣を落ちてきた見えざる化け物に突き刺して、虚空に剣が縫い止められた奇妙な光景を横目に問う。
「気付いたの先程の事だ。少し此処に用事があって来てみれば、この状態。人に害為す何かが入り込んだのは明白。それで生きている人間を探していた」
キリアの言葉にエーレインが一瞬信じられるかと思案した。
しかし、現在の異様な状況で安易に揉め事を起こして隙を作る事もないと用心しながらもキリアに近付いていく。
「話は分かった。一つ聞きたい。何処も同じ状況という事か?」
キリアがエーレインの背後。
人であった者の山を見て頷く。
「奥に二つ。更に連れが幾つか発見している。此処は既に落とされた。現在、あの空飛ぶ船の方へ仲間達から連絡を入れている。もし無事ならば、そろそろこちらに」
言い掛けたところで二人の耳に複数の足音が聞こえてくる。
「逃げろ!!! 上の連中と連絡を取ったが、此処を吹き飛ばすつもりらしい!!」
やってきたのはイフィミスラとエフィリムを小脇に抱えたナーリャだった。
キリアがその言葉に目を見張る。
「聞いた通りだ。とにかく、詳しい話は此処から離れてからにしたい」
「あ、ああ」
呆気に取られながらも慌てて駆け出した四人を追ってエーレインも走り出す。
政庁から出た時点で。
上空で佇んでいた艦艇の下部副砲が動き出し。
既に政庁へ照準した事が見て取れた。
「まさか、本当に!? いや、正しい判断だが、どうなるか分かっているのか!!?」
皇帝所有の旗艦に化け物の侵入を許す訳にはいかない。
その気持ちはエーレインにも分かった。
だが、被害を最小限に抑える為とはいえ、化け物ごと政庁を焼き払うという行為がどういう事態に繋がるか。
エトに仕えて見守ってきた彼女には推移が手に取るように予測出来た。
「上との連絡手段は無いか!?」
本来ならば見ず知らずの者に縋る事なんて考えもしなかったエーレインだが、切羽詰った状況に思わず先を往く少女達に聞いていた。
「こういう時にあの馬鹿者がいてくれれば、何とかなるのだが、仕方あるまい。周波数を【大源(マナ)】の環境に比例、無限数列を用いた非純粋知性系波動錬金学の関数を用いて数値設定、暗号化が最新式の圧縮言語の南部訛り? 先程の通信記録から魔術意匠を割り出して。コレでいい、か……」
走りながら手の中で何かを弄っていたイフィミスラが手を横に突き出した。
その手には魔術方陣が複数積層化されていて、その最上部に幾つかの番号が連なっていく。
カチン。
そんな軽い音と共に繋がった。
「おい!! ブリッジ!!! 撃つな!!! 今後の陛下の統治に支障が出ても構わないのか!!!!」
『こちら、“貴皇”メインブリッジ。そちらの官名を名乗られたし』
「こちら陛下付きの直属エーレイン・ディウアーズ・L・アルバストレだ!!!!」
『……確認した。尚、そちらの精神状態をこちらは把握出来ない為、発言の信憑性は無いものとして扱う』
「どういう事だ!?」
『先程連絡してきた任意の第三者からの情報によれば、不可視の化け物に触れられた人間は精神汚染された可能性が非常に高い』
「何だと!? く…仕方ない!? だが、聞け!!! 今、此処を吹き飛ばせば、奴隷都市の運営は今後困難となる!!! 陛下はそれを望まれないはずだ!!! そちらに聞く気があるなら、今すぐに砲撃を中止、援軍による包囲を待て!!!!」
『理解した。しかし、砲撃は継続する』
「奴隷達の反感を買う事となるぞ!!?」
『承知の上だ』
「分からず屋め!?」
『現在、探査魔術によって把握した不可視の化け物の数は数百体。その殆どが政庁に集結している。もし、これが都市全土に広がれば、容易に混乱を誘発し、多数の死傷者が出る可能性がある。この看過出来ない事態を防ぐ為にも此処で化け物達を砲撃によって殲滅する』
「(どうする!? 至極全う過ぎて待たせる理由が見付からない!!?)」
エーレインが歯噛みした。
見かねた様子で今まで手を差し出し続けていたイフィミスラが割って入った。
「こちら善意の第三者」
『先程の者か……』
政庁から抜け出した五人が大通りまで戻って空の艦艇を振り返る。
「一つ提案がある」
『何?』
「今までの会話から殲滅する方法を艦砲以外にすれば問題は無いと認識するが、どうか?」
『そちらの言う通りだが、我が方には現在政庁一帯を吹き飛ばす装備は艦砲以外に存在しない』
「ならば、我が代わりを努めよう。三分で政庁を消し炭にする」
『―――そんな事が本当に可能だと言うのか?』
エーレインも思わずイフィミスラを凝視していた。
可憐な少女。
こんな幼い子が何を言い出すのかと。
「可能だとも」
自信満々に言い切るイフィミスラの声に通信先の相手もさすがに困惑している。
エーレインにもその気持ちがよく分かった。
『……二分後に艦砲射撃を開始する』
プツリと通信が途切れる。
「二分。まぁ、今の我ならば、十分か」
時間を短縮される事も通信を切られる事も分かっていたようにイフィミスラが掌の方陣を消して、大きく深呼吸し始める。
「おい!? お前、本当にあんな事が出来ると―――」
「少し黙っていてくれないか」
エーレインが詰め寄ろうとした時、声がその足を止めた。
思わず。
そう、思わず足を止めた彼女は自分が止まった理由に内心愕然とする。
(この声……陛下と何故、こんな幼い子が同じ響きを!?)
皇帝の威厳と言うべきか。
国の行く末を決める重要な決断の度に皇帝の声に聞いたものが、イフィミスラの声にも篭っていた。
「範囲確定。対象全域。内部構成、単純魔力飽和爆撃。外壁。四式多重積層化魔力陣。大気内の魔力同調開始。引導火力強化。意匠を【虹炎女神(アルロラ)】に指定。焼却温度4200度固定。導引魔力点火」
少女がブツブツと呟く度に大気が鳴動していく。
大きくなっていく異変に奴隷達が何事かと建造物の内部から飛び出してくる。
少女の手が小さく最も基礎的な【五望星(ペンタゴン)】を虚空に切った。
チリッ。
軽く空気内部に魔力が流れ―――全てが弾けた。
ボン。
音こそ空砲程はあったかもしれない。
「――――――馬鹿な」
しかし、それとは似てに似付かない巨大な魔術方陣が政庁全域を収めるように上空へと出現し、一瞬の閃光が奔った。
その時、周辺の人々は見てしまった。
政庁が美しい紅蓮の光に没してボロボロと崩れ、音も無く跡形も無く蒸発していく姿を。
音が無いのは一切の衝撃波を見えざる防壁が遮断しているから。
そして、輝く炎はやがて虹色へと変化し、見る者にソレが滅びの力だという事を失念させていく。
「綺麗。ナーリャ鼻高々……」
何処で覚えてきたのか。
妹を守るお姉さん気取りのナーリャがイフィミスラの背後で拍手した。
まさか、そこまでの事が起こるとは予測していなかったキリアとエーレインが呆けた様子で美しき炎に染まった術者の横顔を見た。
「む? ティアもどれだけ我に力を注ぎ込んだのだ。予想以上に制御が……」
多少、汗を掻いた様子でイフィミスラが制御の難しい術に顔を引き締める。
「ティア? まさか、貴方達は……」
「ティア、だと!?」
エーレインが少女達の正体に気付き、キリアが思わぬところで聞いた名に驚く。
「ん? 何だ? あの馬鹿者の事を知っているのか?」
「「……」」
二人の女は同時に顔を見合わせ、そして同じ顔を思い浮かべて思った。
世の中は狭い、と。
*
―――時は再び進む。
意思司る者。
第三位の御遣い。
肉を持つ天使の最上位。
偉大なる者の座を運ぶ車輪。
彼こそは精神世界の王。
人という矮小な生物ならば、その心を底から改訂する等、造作もない。
そんな存在である彼は実際のところ、高位の魔族すら影響下におく事が出来る。
故に精神防壁、人の言葉で表すところの表層から深層までの全ての意識の壁に侵入どころか影響も及ぼせないというふざけた相手に驚いていた。
魔族のようであり、神のようであり、人のようである心の有様。
まったく全ての属性の特色を覗かせながら、決して同じではない何か。
そもそも精神の壁は単純に言えば。
多くの場合、智識や記憶によって積み重ねられた鎧のようなものだ。
彼の精神干渉はそういった壁を能力で震わせて剥がし落とすところから始まる。
通常の生物ならば、ほぼ一瞬。
下位の神々の防壁ですら、一日もあれば全て崩せる。
しかし、目の前にある防壁の強固さに彼は驚くばかりだった。
天を突いて尚高き壁。
大地そのものであるかのような厚さ。
底が見えない。
いや、そもそも有限なものであるのかすら定かでは無い。
そんな壁が彼の前には立っている。
突破不可能。
だからこそ、彼は力で対象を抹消する事と決めた。
しかし、精神世界での彼は未だ崩せる場所があるのではないかと壁の前で思案している途中。
壁の性質を見れば、容易に崩せない理由がすぐ分かる。
まず壁の継ぎ目が見えないのだ。
単純な話。
智識や記憶の連なりには断絶が必ず存在する。
それは誰だろうと同じ。
しかし、目の前の壁は断絶で出来る継ぎ目が極端に少ない。
その精神構造は眠らない存在。
始めから終わりまで記憶に断絶が存在しない生き物と例えてもいいだろう。
人間の形をしていながら、人では在り得ない性質を持っている。
それは如何なる時でも意識が落ちていないという事であり、普通ではない。
疲れを知らず意識が連綿と続くなんて通常の生物には拷問と言える。
それでも幾つかの継ぎ目があるので、そこを抉じ開ける事は不可能ではない。
だが、二つ目の問題がそれを更に困難とする。
壁を構成する記憶と智識の性質。
記憶に干渉するならば、記憶で触れねばならない。
智識に干渉するならば、智識で触れねばならない。
能力による圧倒的優位性があっても根本は同質のものによる干渉。
そこで彼は壁を構成する殆どが相手を拒絶する因子である事に気付いた。
つまりは痛みや悲しみと言った不の性質。
厚さも分からぬ壁へ無闇に干渉すれば、壁に取り込まれてもおかしくない。
恐ろしい程の厚さを誇る壁を割って進むには彼自身(リソース)が圧倒的に足りなかった。
今も現実で戦い続ける彼は壁の前で立ち尽くし。
そして―――いつの間にか壁が僅か開いている事に気付く。
『こんにちわ』
『!!!?』
驚く、なんて感情は彼にあるはずがない。
なのに、彼は一歩後ろに遠ざかった。
壁の奥。
暗い闇の中から響いた音。
それは無論、少年の声。
『壁を叩いてたのは君?』
『……』
開いた壁の一部からまた一歩彼は遠ざかる。
『なら、おいでよ』
『ッッッ?!!!』
ぬっと、とても白い腕が彼を掴む。
真っ黒の彼。
意思の王である彼。
天使の第三位である彼。
その彼を強引に壁の中へと誘う。
『ギッッ?!?』
引き込まれる強さに彼は抗えなかった。
彼の予想とは裏腹に白い腕は体を離さず。
ズリュンと僅かに開いた壁の中へと引き込んだ。
『――――――』
少しだけ間を置いて。
ギュィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ―――!!!!!!!!!!
凄絶な叫びを掻き消すように扉は閉まった。
精神の七割が突如として摩滅、彼の心は崩壊した。
*
「何?」
重力波とエトの魔力による拮抗が崩れたのはティアがこれからのプランを耳打ちし終えた時だった。
天を覆う黒い車輪に罅が入り、重力波が消え去る。
菫色の輝きが車輪を押し上げていく。
「何があったか分からぬが、機会か」
「まぁ、人の心を弄ぶとロクな事にならないって事、かな」
「? では、頼む」
「任せておいて」
エトがその場から離脱した。
鎧の全身から溢れていく菫色の魔力が弧を描いて少年を中心に一面に方陣を描いていく。
上空で崩落を始めている天使に少年が囁いた。
「昔からよく精神干渉系の術者には苦労させられてたから、備えは万全なんだ。さすがに即死しなかった事は褒めてあげるよ。でも、あの子の心を弄んだ報いは受けてもらう。僕が言えた事じゃないけど……」
永劫不変と謳われる剣がゆっくりと天上に構えられた。
少年が足元に展開されていく方陣をコツコツと爪先で叩いて微笑する。
「さよなら」
足が一歩踏み出された。
刹那。
妙な間が一帯を支配し、方陣が少年の足元から壮絶に罅割れる。
「閃剣が奥義の一つ」
少年が跳んだ。
エトの方陣が、空を支配する黒の車輪より外へと広がっていた方陣が、全て、砕け散った。
迸る魔力の乱流。
崩壊の余波で地域一帯の地盤が数メートル沈む。
まるで遅い。
人の目にも見えるような速度で翔天していく少年の剣がゆらりと振り被られ、車輪の中心へと叩き付けられた。
物理強度という事を考えるなら、天使の車輪はこの世界に存在する物質の中で最も強靭な部類に入る。
破壊不能と言って差し支えない。
使われる原子の配列はこの世界にはそもそも存在しない。
元素として表せば、人が未だ生み出せもしなければ、解析した事もない物質だ。
それは組成自体が天然の方陣を形成内包する巨大な超常の理そのものと言える。
無限に増減出来る質量に重力の制御。
あらゆる攻撃に対して重力による防壁を持ち、質量を削り切れないという一点で彼は最強だ。
大陸に存在する最上位の能力を持つ者達以外に天使の第三位なんて化け物は倒す術がない。
ペキン。
それでも小さく車輪が割れる音がして、微細な罅割れが全身へ走った。
「断ち割れ【心斬(しんざん)】」
少年の斬撃は天使の体を一ミリたりとも傷付けてはいない。
それどころか触れてすらいない。
叩き付けた剣は薄皮一枚分の隙間を残して重力防壁に留められていた。
しかし。
―――ィ゛ァ゛ォ゛ォォォォォォォォォォォオォォォォォォォォォオォォォ!!!!!?
ガラガラと車輪が無数に砕けて、地面に落ちるより先に無へと帰していく。
天使は自分が“滅んでいなかった事”を理解しなかった。
少年の姿。
少年の鼓動。
少年の心。
悍しい程に美しく。
この世の神と呼ばれる者すらも忌避する何か。
その全てを見つめていた故に天使は砕けた。
攻撃されているという事実が肉体を砕いた。
何故ならば、確かに見えていたから。
少年の殺意が。
これに触れて殺されないと思う方がどうかしている。
切り裂かれないと思う方が無理だ。
第三位は意思の支配者。
故に心理の事ならば、全て心得ている。
そして、その世界で最も人の心理を弄ぶ車輪が自ら断じたのだ。
“この一撃で己が死ぬ”と。
恐ろしき風を纏いて。
神すら発狂するだろう禍々しい殺意を抱いて。
天使は心を砕かれた。
少年が演出し、そうしようと思った通りに。
精神と肉体が同義である高位存在にとって、それは致命的な“自滅”だった。
人間ですら、その一撃を受け止めれば、心臓が止まり、廃人になるだろう。
「じゃあ、ね?」
今度こそ。
少年の剣が重力防壁の消えた車輪の中心を安々と貫き。
車輪が弾け、溜め込んだ魔力を暴発させ、一帯を爆風が蹂躙していった。
*
「シンア……」
ポツリと呟いて。
今まで祈りの姿勢で床に膝を付いていたハティア・ウェスティアリアが教会の祭壇で顔を上げた。
不意に加護を授けている地域一帯の禍々しい気配が途絶えたのだ。
理由を探すまでもない。
準魔王級と七教会が認定する存在をいとも容易く鎮圧出来る者は限られる。
そして、最もその可能性が高い名を彼女は呟いただけだ。
多くの民が救われた。
その事実だけを見れば、人は魔王と呼ばれる少年を英雄と讃えてもいい。
だが、七教会にそのような思考は存在しない。
七聖女と呼ばれる全員に同じ事が言える。
「貴方は変らないんですね。やはり、今も……」
色褪せない数十年前の記憶。
まだ、聖女なんて何処にいなかった頃からお人よしが過ぎた少年。
心配した事は無数。
傷付いた体を癒した回数も。
それでも今はただ大陸秩序を乱す魔王でしかなく。
「神もいないのに。私は誰に祈ればいいんですか……」
今傍にいない少年に問い。
一粒雫が床に落ちた。
「マロウ……助けてください……」
そう伴侶の名を囁いて、聖女の祈りは続けられた。
いつまでもいつまでも。
難民達が全て救助されるまで。
その難民達の中に生涯の伴侶がいる事を彼女は知らずにいた。
四日後。
彼の地に聖女は赴く事となる。
難民達の行く末を決める会議。
後に武帝の運命を決めたとされる場へ。