第二章十七節「会議」
―――まず、お集まり頂いた方々にこのような場に参列して頂いた事を深く感謝申し上げる。
天井の一つ。
壁の一つ。
床の一つ。
何一つ、無い政庁の跡。
焦土の上に冗談のような長いテーブルが一つ。
列席した者達の心情を表すかのように飄々と風が吹き抜ける空間。
それを多くの者達が遠巻きに見守っている。
「イグニシア・クルシス皇帝である余の御名において、本日行われる集まりは武帝とイグニシア両者の意思決定を行う場として承認される。これに意義無き方は手元の“契約書”に署名を」
ズラリと椅子に座るのは武帝難民の長を勤める豪族達だった。
唯一、長いテーブルの端。
エトと対面に座る金色の髪の少女だけが場違いな程に浮いている。
少女の名を聞けば列席する理由も頷ける。
ハティア・ウェスティアリア。
七教会側の代表として彼女はその会議に立っていた。
「では、本日集って頂いた案件に付いて。こちら側で説明させて頂きたい」
パチンと指を弾いたエトの横に今まで一人立っていたハイランが会議の議題を読み上げていく。
「この会議はまずイグニシアにおける武帝難民の扱い及び武帝からの侵略行為に対しての賠償責任と問う場である事を確認いたします。これに異議無き方はもう一枚の“契約書”に署名を」
ハイランの声に豪族達が苦い顔をしながらも渋々と署名を書いていく。
「はい。確認しました。本日列席される方全員の総意として、この会議は難民と賠償に関するものとして執り行われます。この契約書がある限り、今後一切この会議に付いて無効や意義を申し立てる事は出来ません。また、この会議に列席される方の失脚や政治的後退があったとしても、武帝の総意としてイグニシアはこの会議結果を支持し、契約不履行が無きよう計らう事となりました」
エトの背後に白い紙が立ち上がり、巨大な地図を映し出す。
「では経過報告を簡易に行います。まず、イグニシア側が知る限りの事柄に付いて。四日前。武帝の兵士達によって国境付近にある砦が強襲され落とされました。その時、数百人の死者が出ています。その後、我々が派遣した二千の兵が“正体不明”の存在に襲われほぼ壊滅。これを追って出た特殊部隊がその戦力を駆逐後、国境一帯で大規模な精神干渉を確認。これにより、此方側から支援目的で向わせていた航空戦力が国境付近で武器を暴発。武帝側からの難民が被災、それに対して七教会の魔王追討師団が救助の名目で武力介入を開始。こちら側が何とか精神干渉の中核を破壊した後、七教会の部隊は難民保護の名目でイグニシア側の領土に駐留する事となりました。何か発言のある方は?」
幾人からか手が上がった。
「では、ディオスの丘のフェンの部族長様」
ハイランが差した男がゆっくりと発言し始める。
「正体不明の敵と言われたが、それは我が方の戦力ではない事を確認して頂きたい」
「はい。それは可能です。こちら側も情報不足でして。特殊部隊の方も殲滅時に詳しい姿が“見えなかった”そうですから。他に何か?」
「国境地帯で精神干渉を行った存在に付いても我が方の戦力ではないと確認して頂きたい」
男の声に賛同の声が幾つか上がる。
難民自体が被害を受けている惨状があるなら、それは此方側の非ではないと。
「無論、武帝難民の方々に被害が出ている現状で我が方からそのような事を申し上げる事はありません」
その発言に男達が内心安堵の溜息を吐いた。
何もかもを武帝側の責任とされる事態が何とか回避されたと。
だが、それにしてもこの機会に強引な手口で併合や領土の割譲を迫ってくるのではないかと考えていた武帝の長達は事態の推移を計りかねる。
「では、次に武帝側の情報を」
ハイランが次々に武帝から齎された情報を並べていく。
見えない化け物による部族の侵食。
精神干渉によって“違ってしまう”存在となる民達。
その疫病のような禍から逃れて大森林から逃げ出さなければならなかった状況。
まるで悪い冗談のような話。
一人それを聞いていたエトが手を上げる。
「どうぞ。陛下」
ハイランが畏まると少女は響くように声を紡いだ。
「余の国にあなた方は病を持ち込んだとそう考えるべきであろうか?」
始まった。
そう感じた男達がグビリと唾を飲み込んだ。
「不可視の化け物。触れられれば心を操られる。武帝の侵攻は全て化け物のせいであって、我々のせいではない!! 等と言う方がいるならば、意見を述べられよ」
それが事実だとしてもイグニシアに対する損害は武帝側から押し寄せてきた兵と化け物によって出ているわけで、どんな抗弁をしたとしても、その事実が覆る事はない。
更に言えば、被害が出ているとはいえ、難民である彼らはイグニシアから強制的に追い出されれば、行き場を失う事になる。
理不尽だろうが、エトの一声で彼ら武帝の民は生死を別つ事になる為、下手に言い訳出来なかった。
「ふむ、良かった。余はまだ武帝の民に退去命令を出さずに済むようであるな。ハイラン」
「はッ!」
ハイランが同意する。
場の空気はもうイグニシア側のペース。
そもそもが難民の受け入れと賠償の席。
煮るなり焼くなり好きにしろと言わんばかりの場。
一人黙って推移を見守っているハティアくらいしか武帝の擁護者はいない。
事前に七教会との調整を済ませていた武帝側の難民代表者達が青い顔でエトの言葉を噛み締めた。
もし、イグニシアの機嫌を損ねれば、追い出され国境を封鎖されかねない。
再び不可視の化け物の脅威に晒される事を考えれば。
彼らの選択は相手の条件を唯々諾々と呑むしかない。
交渉にも幾つかあるものだが、その場での交渉とは相手側からの理不尽な要求をどうにか現実的に呑めるものにまで調整する事を指した。
「余はこれでも無欲である事を美徳としていな。長い会議は本当のところ好きではない。故に余が武帝側に対する賠償として突き付ける要求は一つだけじゃ」
『!?』
ハイランが細い羽ペンをエトに渡す。
サラサラと地図に細い線が書き加えられた。
「【宇宙樹(ユグドラシル)】のある大森林エルフの群落。この付近まで」
一本の線が何か。
その場で理解したのはハティアのみ。
「我が領土として一本の道を通したい」
『道?』
未だ理解していない顔で男達が互いに顔を見合わせる。
莫大な賠償を突き付けられ、身包み剥がされるかと思っていた者達にしてみれば、正に意味不明。
「ふむ。領土の割譲を道のみに限定したと言えばよいであろうか」
国土を別つ道。
その意味を理解したハティアが内心の焦りを飲み込む。
問題は一つだけ。
よく意味を理解していない男達が簡単にソレを受け入れてしまうかもしれないという事。
そもそもまだ未開の地である武帝で土地が重要とされるのは有益あるいは神聖である場所に限られる。
エトが示した大森林の中枢付近までは武帝の男達にとって重要な場所が殆ど入っていない。
それどころか環境が過酷過ぎて武帝でも近付く人間がいないような不毛地帯や危険地帯ばかりだ。
国を不完全ながらも分断する限定された領土割譲。
相場的に賠償要求が安過ぎる時点で相手の策に嵌ったも同然。
一時的に金を巻き上げるだけ、領土の地方ごとの割譲ならば、話し合いの余地が存在するだろう。
だが、道を通して、その部分だけの領土を割譲しろなんて奇想天外な要求には文句も付け難い。
今、現在実害があるわけでもないとなれば尚更だ。
それが将来どれだけ国にとっての痛手になるか考える余裕がない者達にとってみれば、相手が良心的に見えるかもしれない。
『それだけならば…』
『ええ、確かに…』
男達が安堵した様子で互いに意見を交わす。
ハティアはその時点でもう決着が付いた事を知った。
「どうやら、皆様方にはこの提案は好ましい様子。では、もし異議を唱える方がいなければ、三枚目の契約書に署名をして頂けませんでしょうか」
ハイランが笑顔で男達に署名を勧める。
正に悪魔の笑みだと珍しくハティアは相手の腹黒さを疎ましく思った。
此処で発言しても男達には受け入れられない。
格安の賠償は国の将来を売っているからだと唱えても意味はないとハティアは既に悟っていた。
「では、次に―――」
ハイランの声が次々に難民達には魅力的な提案を行っていく。
その間、ハティアは向かい合うエトを見つめるしかなかった。
皇帝はまるでこの世に怖いものなんて無いと言わんばかりにニヤリと笑った。
*
【貴皇(ペルソナ・ノーブリス)】の中枢。
一つの宮殿とさえ言えるエト専用の区画。
上機嫌極まる少女は壁に魔術で映し出された地図を見てニヤニヤしていた。
「あ、エト。どうだった?」
談話室の横。
ゲストを止める部屋の扉から少年が顔を出す。
「ああ、今日は祝いの席を設けるよう言っておいた。楽しみにしておれ」
「何かご機嫌みたいだけど」
広い室内は煌びやかな宝飾と天鵞絨で彩られている。
巨大なソファーに身を沈めながら、何を地図に透かし見ているのか。
横に座った少年はすぐ地図に引かれた道に気付いて、苦笑した。
「随分と高い賠償金じゃない?」
自分の意見を言わずとも理解してくれる者が傍にいる。
その高揚にエトは誇らしげに魔術で地図の上に新しい線を指で加えて地名を勝手に付けていく。
「これで百年先の武帝併合は為った。次は乂羅か」
「あっちは難しいと思うよ。少なくとも百年先までユアンがいるのは確実だし」
「永遠の聖女に有限の皇帝が挑む。中々、愉快だとは思わぬか?」
少年に語りたくて仕方ないのか。
子供が親に成績を自慢するような笑顔でエトが完成した地図を説明し始める。
「現在の武帝は死に体じゃ。更に言えば難民が発生した事も都合が良い。本来、余が奴隷達を使って行うはずだった辺境開発はこれで三十年、いや、五十年は進むであろう」
「世の中何があるか分からないものだと思うけど」
釘を刺す少年の言葉に少女は首を横に振る。
「だから、準備するのであろう? ティア……この世で一番儲ける方法が何か知っておるか?」
「生憎と数字はあんまり得意じゃなくて」
「それは仕組みを創造する事だと余は思う」
「仕組みを?」
「そう、七教会という仕組み。聖女という仕組み。皇帝という仕組み。最初にこれらの仕組みを作ったものは死して尚莫大な利を上げ続けている。余もまたその一人として新たな世の仕組みを創造せんと今働いている。そなたが魔王という仕組みに縛られ、新たな仕組みを作らんとするように」
「……」
「武帝はこの道を通す事で飛躍的にイグニシアへの依存を深めていくであろう。そして、多くの難民はイグニシアの国民として、文化の創造、向上していく生活に等しく同化を望むようになる。より便利な暮らし。より安全な暮らし。より素晴らしき世界を求めて」
横に長い武帝を中央まで分断する南からの道。
それに連なる幾つかの中継地。
開拓されれば、大森林の恵みを国境地帯に齎し、同時にエルフとの交流も始まるだろう。
一本の道が産む莫大な利権と資金は時間と共に辺境を大きく変え得るに違いなかった。
「七教会には武帝での化け物退治を押し付けた。難民への“支援”は此方側の利権じゃ。難民と言えど、食わねばならぬ。そして、食う為には労働が必要となる。この道が武帝の大森林より多くの富を運ぶであろう。武帝の民自身の手で今まで開拓出来なかった大森林は変貌していく。まだ見ぬ幾多の富、大森林の加護を間接的にイグニシアが享受する日は近い」
「壮大だね……」
「今、此処に書いた地図はまだ余と此処にいるそなただけのものでしかない。しかし、見ておれ。そなたが世紀を跨ぐ頃には誰もが知っている地図となる」
「……本当、エトって皇帝に向いてるよ」
「当たり前であろう? 余はこれより魔王の子まで孕む予定の後にも先にも唯一の大皇帝となるのだから」
少女の笑みは将来の夢を語るより、尚輝いて少年へ向けられる。
「それと、貴方じゃなかったっけ。今までの呼び方って」
「生死を共にすれば、そんなものは幾らでも変る」
「そう?」
「ああ」
「……」
ポリポリと頬を掻いて、何だかやけに距離が近付いた少女を見つめた。
「そなたは嫌か? こう呼ばれる事が」
「嬉しく思うけど、まだ慣れない…かな」
「そうか」
ポフッと少女が少年の胸に頭を付ける。
「エト?」
「他の女の匂いがする……」
「?」
エトがそのまま上目遣いにジットリとした視線を投げ掛けた。
「しかも、何人も」
「さっき怒られてきたばかりだから」
「怒られる時、そなたは胸に女を抱くのか?」
「あはは……」
エトは脳裏で少女達の姿を思い浮かべた。
ハイランがしくじって帝都から追いかけてきた三人。
オマケに知らない女も一人。
「エリザさんとエーレインさんが世話してくれてて助かってる」
「それで誰が本妻で誰が妾じゃ?」
サラリと言われたとんでもない発言に少年が苦笑する。
「みんな、いい子だよ。僕には勿体無いくらい」
「この“たらし”め」
カリッと真珠のような光沢の爪が胸を引っ掻く。
「約束は忘れてなかろうな?」
「今も有効だとだけ言っておこうかな」
「そ、そうか……」
少しだけ視線を俯けて、エトは意を決したように両手で少年をソファーに軽く押して倒した。
「エ―――」
ちゅ。
軽い音が紡がれるはずだった声を止める。
「余は皇帝じゃ。そなたが魔王であるように。だからな……ずっと思っておった……」
胸の上の体がとても軽いのに気付いて、少年は少女の小ささを思った。
「余はきっと皇帝以外の何にも為れぬ宿世(さだめ)なのであろうと」
「……」
静かに語るのは今まで目の前にいた皇帝ではない。
純粋な求めを身の内に秘めた少女だと少年は悟る。
「そなたに出会って。そなたと話して。やはり同じだと余は思った……思っていた。己の道を往くそなたのように……そなたと同じように余も皇帝であり続けられると……」
優しく。
頭を撫でながら、少年は懺悔のように続けられる言葉を待つ。
「今回の事で女は……やはり皇帝には向かないと知った」
顔は見えない。
ただ、ジワリと少年の胸には温かさが広がった。
「天使に心を暴(あば)かれた時、救ってくれた事。感謝する」
「女の子を助けるのは普通の事じゃない?」
「余が……ただの女でも、そう思ってくれるか?」
「僕は君が皇帝だから約束したわけじゃない。本当に君が皇帝だっただけなら、別に記憶や記録を抹消して逃げ出す事くらいは出来たし」
「なら、何故じゃ。何故そなたは……」
「君に興味があったから」
「興味?」
「今まで王様だの皇帝だの見てきただけど、君は少し違った」
「……どう、余と他の者達が違う?」
「君は権力が道具に出来る人間に見えたから」
「権力を?」
「道具はいつでも棄てられる。それを大事にはしていても、いざとなれば誰かに渡す事も出来る。君は権力の先にあるものが見えてる。出会った時、君は僕に“気に入った”って言ってたけど、僕もそんな君に興味があった。僕より後に“僕みたいな事”をしようとする君に」
「……そうか」
ゆっくりと離れそうになる少女の体がやんわりと腕で留められる。
「ティア?」
「ちょっとあの車輪と戦った時に見えちゃったんけど、少しいい?」
「ッ」
天使に精神を覗かれた時の記憶が甦り、エトが体を硬くする。
「僕は牧師でもなければ神様でもない。君が知ってる通りの魔王で……まぁ、君が気付いてる通り、こういう風にしか生きられない。だから、お説教とかじゃないって前置きしておく」
何を言われるのか。
何も思いつかず。
少女は少年を見つめる。
「君がどれだけの後悔をしてきたのか知らない。けど、僕は“あれで良かった”と思う」
「――――――」
「別に君の事を肯定してるわけじゃないよ? ただ、少なくとも君がああしなければ、僕との出会いは無かった。君の身に起こった全てがあって、僕と君はこうしてる。時々、出会いが違っていれば、なんて言われる事があるんだけど、そういう言葉を聞く度に僕は思うよ。どんな不幸でも悲劇でも無かったよりはいいって」
「無かったより……では、そなたは自分が今まで受けてきた“仕打ち”をいいと、そう……言うのか?」
「苦しかったし、悲しかったし、痛かったし、辛かったし、少なくとも“そんなわけない”」
「矛盾してるであろう!?」
「でも」
笑みが、消えた。
「僕は……もし、今までの受けてきた“全て”が、誰かに出会う為なら、こうやって君みたいな子と出会う為に必要だったなら、いいかなって……思う」
何の偽りもない純粋な顔で。
ただの友達として。
少年は目の前の“皇帝”へ本当の気持ちを伝える。
「そんなに簡単なものではあるまい!」
「それはそうだけど。でも、これも僕の偽らざる気持ちだから」
「自分の大切な人々にあんな仕打ちをされ続けてか? 本当の事も知らず。真実に気付かず。そなたが今も変らぬと知りながら、刃を向けてくる者達に、そう言えるのか? ティア」
少年はそっと腕を解いて少女と体を起こして向かい合う。
「僕はそう言えるから魔王をしてるわけじゃない。ただ、そう言いたいから、いつか、そう出来たらいいなって思ったから、今も魔王なんてしてる」
その時、話しているのは確かに少年ではなく“魔王”だった。
人々から不幸の象徴とされた存在。
忌み嫌われ、人の敵とされた者の顔。
いつもいつも少女(こうてい)が見ていた笑顔とは似ても似付かない。
色褪せた硝子玉を思わせる悲しげな瞳。
「君はどう? エト……」
「余……余は……」
大勢の前で演説する時。
震えた事の無い舌は今何を紡ぐのも拒否して。
言葉を吐き出したくないと抵抗する。
「少なくとも僕の知ってるエトは人の命を天秤に掛けて後悔はしても決断が出来る子だよ。片方を斬り捨てて。でも、斬り捨てて尚拾おうといつも頑張ってる……」
「そんな事!?」
「君が言ってた通りなら、難民の墓なんて要らないはずだし。少なくとも支援物資で一番最初に用意するものじゃない」
「あ、あれは!?」
「墓なんてあったら、難民のイグニシアへの不満はいつまでも忘れ去られない。そんな事は君が一番よく知ってるんじゃない?」
「そ、それ、は……」
「統治の効率を重視するなら必要ない。難民感情を重視するなら墓より支援物資に関する工夫で十分。違う?」
もうエトは何も言えなくなっていた。
目の前にいる少年に何を隠しても意味が無いと悟って。
「そなたはやはり伝説の魔王なのであろうな」
「エト?」
「一体、何人の女をそうやって口説いてきた? 言ってみよ」
「あの、大丈夫?」
「大丈夫なわけあるか…余の繊細な心は粉々じゃ……」
罰が悪そうに少年がごめんと頭を下げようとして止められる。
「謝るな。そなたの言った事。まだ、全ては受け止められぬが、少し此処が軽くなった」
胸に手を当てて、少女が目を細めて笑う。
「余のことを……見ていてくれて、ありがとう…ティア……」
「ッ、あ、えっと……」
皇帝の笑みではない。
ただの少女の笑みがあまりにも自然で少年の方が今度は目を泳がせた。
スゥッとエトの菫色の隻眼が白と黒の色を取り戻していく。
「ど、どうかした?」
思わぬ変化に戸惑う少年の胸が再び押されて。
倒れた胸の上へ頭が飛び込んでくる。
顔を見られたくないのか。
少女は何かを堪えた様子だった。
「その、今の余は……余は、な……力を止めた余は本当に……ただの女じゃ……」
迷いと格闘しながら、それでも何とか笑みを貼り付けて、少女が顔を上げて笑い掛ける。
「きっと、今なら塵のような魔術で黒こげじゃ……」
言うまでもなく。
皇帝とは暗殺に脅える家業。
いつ如何なる時も真に休まる時は無い。
朝も昼も夜も寝静まってすらも、何年も解いた事なんてない力。
皇帝の血統に現われる力の精粋。
本当に最後まで頼れる命綱。
それを今、少女は、まだ交合(まぐわ)ってもいない男の為に解いて。
感謝を示す。
「エト。無理しな―――」
「無理などしておらぬ」
声に込められた想いが少年を打ち据える。
天使に心を叩かれた時より、余程に少年は衝撃を受けていた。
「無理など……して、おらぬ。余は魔王の子を孕むのじゃ。皇帝として、そう決めた……」
何の為に少女がそうしたか。
少年は知っていながら、少女に触れる事を躊躇った。
少女の傍にずっといてやれない人間が踏み込んでいいのは皇帝に対する魔王としての領分まで。
ただの男として、誰かを真に幸福へ導けない者が、今の少女へ触れるのは躊躇われた。
それが弱さか。
星を砕く攻撃を受けて尚本当には傷付かない少年が己の愚昧さに唇を噛む。
「余は…そなたにとって……今、なんじゃ? ティア」
「約束の、相手だよ……」
「その約束にもう一つ、一つだけ……内容を足してはくれまいか」
「僕が許せる範囲なら……」
沈黙はたぶん一分も無かった。
「余を……」
それ以上、唇は紡ぐ事なく。
愛してくれ。
ティア……。
それが一体どちらの少年への想いだったのか。
シンア・ザ・クリティカルアンラッカーは考えるのを止めて、また罪を犯した。
*
舌と舌が交じり合うまで時間は掛からなかった。
優しく初めて深く口付けするエトを誘いながら。
少年は絡める舌で口内を蹂躙する。
甘やかな吐息。
空気を求めるより先に舌の熱さを好んで。
初めての行為に少女は夢中となった。
つぅっと滴り落ちていく唾液が二人の間に落ち、顎を伝っていく。
離れたくないとねだりながら、糸を引かせる間(ま)も開けたくないと少女の唇は少年を求める。
くちゃくちゃと唾液を味わいながら悦びを得た少女の中に、もう皇帝という存在は無かった。
「てぃ…ぁ、よは…んぅ♡」
涙は喜びに満ちて。
ちゅる。
唾液に濡れながら、恋人がするような口付けだと智識では理解しているのに、少女は己の奥から溢れ始めたものを止められない。
夫婦ぐらいの関係なら、そのようにはしたなくなってしまうかもしれない。
しかし、まだ初めて触れ合っただけの関係でこんなにも乱れるのは己が淫らだからなのかと少女は恥じ入った。
「てぃ…あ…てぃあ…くちゅ…ちゅ…ぁ…てぃ、あ……」
高まっていく性感は底無しに行為を求めて。
己の舌を可愛がられているという自覚すら無く。
無垢な乙女のまま、エトの脳裏が真っ白に染まっていく。
「ん!? ぁ…ぁ…てぃ…ぁ~~~っっっ」
思わず唇を離して。
少年の胸で果ててしまった少女は何が起こったのかも分からず。
心地良く洗い吐息を吐きながら、ぼんやりとした。
「エト……達しちゃった?」
本来なら、涙目でそんな自分を見せてしまった事に怒っていたかもしれない。
しかし、少年の声があまりにも優しいからか。
初めての体験に意識が朦朧としていたからか。
心地良かったと伝えたくて。
褒めて欲しくて。
まるで幼子のように。
ただ喜びのままに。
少女はこくんと笑顔で頷いた。
「―――可愛いよ。エト」
口付けだけで女の悦びの一つを知った少女に少年は再び口付けを再開する。
ぷちゅ、くちゅ、ぐちゅ、くちゃ、くちゃ、くちゅ。
何度も繰り返される行為は反復される度に感度を上げていき。
そう時間も掛からずまた少女を高みへ誘おうとする。
しかし、その寸前で唇が離された。
「ぁ…てぃ…あ?」
少し不安そうに眉を下げるエトの頭を撫でて。
少年はその手で体を膝立ちにさせた。
「服、たぶん自分でしか脱げないと思うんだけど、どう?」
「ぁ…そ、そう…であるな……」
行為に没頭していた意識が少し現実に戻ってきたのか。
自分のしていた事に頬を染めながら、エトが己の白い衣装に手を触れる。
肩の辺りから服がハラリと解けていく。
パサリとソファーの下に全てが落ちた。
残ったのは美しい素肌と股間を覆う小さな布のみ。
「こ、これで……よいか?」
「胸に下着、付けてなかったんだ……」
「ぁ…こ、これは/// よ、余はまだ付けなくとも良いと。従者達が……ぉ、おおきい方がよい、か?」
まるで叱れたような顔で自分の胸に手を当てて尋ねてくる愛らしい少女。
どう答えるべきかと少年は悩む。
「大小は関係ないよ。綺麗なものに優劣を付けるのは僕の仕事じゃないし。よく見せて。エト」
「っ…ん……」
そっと腕が開かれ、慎ましやかな胸が露になる。
ふっくらと乳首を立たせた胸は瑕疵もなく。
一つの彫像のような黄金比を思わせて。
「触れていい?」
「あぁ。そなたの手で…余の此処を……」
下から上へと危うげなく掬いあげるように指でなぞられ。
「!?」
少女は思わず背筋を大きく震わせていた。
「気持ちよかった?」
「ぃ…ぃぇぬ…」
蚊の鳴く様な声。
初めて恋人達の口付けを覚え。
初めて想う者に性の象徴を転がされる甘美を覚え。
乙女はただ恥じらいしか己を表現する術を知らない。
「言えるようにしてあげるのが男の役目だって、友達が言ってたよ」
指が優しく尖った先端に触れた。
「っ…っ……」
女のように繊細な爪の先が突(つつ)けば、ふっくりとした弾力。
「~~!?」
声を抑えなければならない程の快感を覚えて。
少女の意識は悦楽に没していく。
「声。抑えなくてもいいんだよ?」
悪戯っぽく笑う少年の事を始めて少女は魔族だと思った。
扉に鍵は掛かっていない。
今少年と共にいるのは共有の談話室。
ゲストがいつ来てもよいように設えられた場所。
いつ、誰が、扉を開けてもおかしくはない。
はしたない姿を誰に見せるわけにはいかない皇帝としての自制心。
僅かばかり残った抵抗の気持ちが少女を弱気にさせた。
「これ…いじょう…は……」
少年は全て察しながらも少しだけ微笑んで体を起こし。
そっと少女を抱き締めながら、耳元で囁く。
「もう、みんな扉の外で顔を紅くしてるよ」
「ッッッ?!?」
思わず幾つかの扉を見たエトだった。
が、どの扉の外に誰がいるかまでは分からない。
「エト。誰かに見られるのが嫌なら場所変える?」
「~~~///」
親しい人間にこんな姿を声を姿態を見られたら、皇帝なんて出来なくなると半ば本気で混乱して、少女はおろおろと視線を彷徨わせる。
少年が立ち上がり、そんな背中と膝裏を持ち上げた。
「ティ、ティア!?」
「行こっか。そろそろ抑えるのも限界みたいだし」
「?」
下着一枚姿の乙女をお姫様のように持ち上げて、一瞬跳躍した少年がその場から掻き消える。
それから少しして扉が開いたと思った刹那。
「へ、陛下ぁああああああああ!!!? 貞操はご無事ですか!!!? 陛下ぁああああああああ!!!?」
顔を真っ赤にしながら、幾多の手に絡め取られつつ、エーレインがベシャリと床に転がった。
「ああ、もう!!? エーレインさん!!! 陛下の大切な時間を邪魔してはいけませんわ!!!」
「そうですとも!! あんなに愛らしい陛下の恋を邪魔してはなりません!!!」
「陛下の恋路を邪魔しては竜の餌にされても文句は言えませんよ。まったく」
「陛下も乙女なのです。乙女の初めてを無粋に穢すのは女として頂けません!」
エト付きの従者達。
湯女を任される者達が小言を雨霰(あめあられ)とエーレインの上に降らせていく。
それでも涙目で忠犬よろしく貞操を守らなければと駆け出す【陛下馬鹿(エトダイスキ)】へ捕縛の魔導やら沈静の魔術やら縄やら手錠やらが襲い掛かった。
「ぐ、ぐぅううううううううぉおおおおおおおおお、な、なな、ナンノコレシキィイイイイイイイイイイ!!!?」
「うーわ。さすが忠義の犬。これで沈まないなんて驚きを通り越して賞賛ものね。それにしてもエトがあんな風になっちゃうなんて……恋ってスゴイのね……」
エリザが顔を紅くし手で頬を冷ましつつ。
呆れた様子で湯女達を引きずる相棒にやれやれと溜息を吐く。
縄も手錠も魔術も魔導も引き千切る勢いで鎮圧されるものかと前進するエーレインは軽く人間の限界を超えてしまっていた。
恐るべきは意思の力か。
「エト様ぁああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
主の貞操を守る為なら限りなく超人な忠義者(じゃまもの)が渾身の力で叫んだ。
転移で寝室へと移動したエトは誰かに呼ばれたような気がして……。
言いようの無い恥ずかしさに頬を紅くした。