第二章二十五節「奪界」
覗き込まれているぞ。
お前は覗き込まれている。
どこまでも追っていく視線がお前を見つめている。
翳りあるもの。
旧きもの。
黒き王(ファラオ)。
混沌の核芯。
あるいはこの世の果てより先に住まうもの。
今より――日前に顕現し、錬金の秘奥たる黄金を喰らったもの。
今より―――――――――年前、大いなる母と共に在ったもの。
今より――日前に一部を検閲されたもの。
「g4312tr2≫}>;」。er;oijP‘*}>gra‘.@;¥l」
そう、だから、お前は覗き込まれている。
旧き約定を身に秘めて、故にお前は自分が神子である事を知っている。
「G#%GOJ%$GPGwrqgtqo4tj34」
黒き棺。
失われていたはずの棺桶。
誰かが隠していたもの。
それにこの血が選ばれたのは運命か。
さぁ、覗き込まれているならば、お前も覗き込むがいい。
世界の終焉より後に残り。
世界の開始より先に生まれ。
全てを嘲笑うものの全てを。
これは力ではない。
これは技ではない。
これは契り。
ただ、それを為した何時かの誰かが齎した今への呪。
「b3qんg;mくぁ襟;5hg;くぉえjhrgくぁ:lれれgみwぺ5g?」
きっと、そこにはお前と踊ってくれる黒く嗤った何ものかがいるだろう。
―――ナーリヤ。
「!!!!?」
掛け布を払い除けて、バネ仕掛けの人形みたいに飛び起きて、彼女は自分が今何処にいるのかを知る。
落ち着いた飴色の天蓋。
壁に施された美しい装飾。
上等な絹(シルク)で形作られた寝台の上。
滴り落ちる汗がぐっしょりと身体を濡らしていく。
「大丈夫。まだ……ナーリャ、だから……っ」
思わず込み上げてきたものを堪えて。
部屋の中にある浴室へ彼女は駆け込んだ。
胃が空っぽになるまで数分。
窓の外が不意に涙の浮かぶ視界に映る。
険しい雪の積もる山岳と青き空が。
「……」
部屋に今の家族、姉妹が来る頃、もうそこに翳るものは一欠けらも存在してはいなかった。
*
「……ねぇ。クーバ」
「……はい。何でしょう。姫様」
「わたし、やっぱりまだ喋らないといけないみたい」
「はい。クーバめもそう思います」
「「……」」
氷雪が吹き荒ぶ山岳の険しい気象。
それは人の人智が及ぶところではない。
双來の二人にとって。
いや、大陸中の殆どの人間にとって、それはほぼ絶対の真理であった。
勿論、その光景を目にするまでは。
二人がたぶん生涯に一度かというだけ首を傾けて上を見る。
全長700m以上。
イグニシア・クルシス旗艦【貴皇(ペルソナ・ノーブリス)】の威容は正に圧巻の一言で双來の住人達、王族達に迎えられた。
彼の艦が有する大規模恒常性魔術方陣。
常時発動型気象制御魔術の余波は山岳の上に掛かる暗雲を吹き飛ばし、大気の状態を安定させて航路を確保していた。
双來の人々にとって見れば、正に神の所業か。
それが大国の力。
それが国力の差。
人々が空からやってくる者を神呼ばわりしなかったのは傭兵である男達が語る戦を知っていたからだ。
天から隕石を招き寄せ、大地を一瞬にして灰燼に帰し、万年氷獄を作り出す。
それもまた人の業だと知るからこそ、今にも見えない化け物に国を滅ぼされようとしていた者達はその空飛ぶ鋼鉄の船を崇めるのではなく、疑心に満ちた瞳で見上げていた。
近衛兵、湯女、航空士、機関士、調理士、技術者、魔術師、超常の力を持つ者。
搭乗員四百数十名全て現皇帝の集めた者達だ。
七教会の艦隊と一隻で互角という性能の艦に帝都の人間の方が少ないというのは如何にもエトらしい。
彼らは時に皇帝を守る盾であり、皇帝の振るう矛である。
しかし、今はただ皇帝の遊説に付き合わされる被害者だった。
エトの言葉一つで世界の果てまで赴くのが仕事である彼らにとって一日前に告げられた命令は殺人的な忙しさを齎していた。
奴隷都市から帝都に一端引き返し、三時間で艤装と物資搬入を終え、更にその足で七教会が行う武帝の化け物狩りの現場まで飛んで、其処から双來へと赴く。
寝る暇もなく。
休む暇もなく。
たった一日で全てこなせと言われた彼らはやり切った。
そして、ようやく最低限の休息を手に入れたのが数分前。
順次、睡眠を取るよう言われた彼らは気絶するように仕事から解放され、二時間置きに叩き起こされるという地獄の所業を受ける事となる。
一時停泊地。
山間部にある弧牢の城の上空。
殆ど何も知らされていなかった双來王族達は王と老人以外ポカンと空を見上げていた。
急いで城下から魔力強化で走ってきたのはシャルアを抱えたクーバである。
城の最上階。
行き積もる小塔に客人の遣いはやってきた。
「これはこれは双來の外交官殿」
笑みを浮かべるのは枯木が礼服を着込んだような男。
D・グラム・ハイラン。
言わずと知れた皇帝の側近。
映像越しに接していた相手の登場にシャルアは息を切らしながらも、何がどうなっているのか急いで問い質したくなった。
前日、転移でやってきたイグニシアの外交官は三人。
彼らは慌ててシャルアが作った条約内容に目を通してサラッと署名(サイン)を済ませるとすぐに帰っていった。
あまりにもあっさりと終わった為、クーバ共々不審に思っていたのだが、間違いではなかったらしい。
結果が空飛ぶ船の来航とは突拍子もない。
それでもシャルアは内心納得もしていた。
船には砲がハッキリと見える。
一万人分に匹敵する戦力とはソレの事なのだろう事は言われるまでも無い。
イグニシアの筆頭執政官であるハイランがいる時点で誰が船に乗っているのか、もう回答されたようなものだ。
それでもシャルアは相手の思惑に乗る。
あくまで裏の交渉なんて無かったかのように。
「イグニシア・クルシスのハイラン筆頭執政官とお見受けします。今日は突然のご来訪。どのような用件でしょうか?」
ハイランが唇の端を僅かに吊り上げる。
「突然、このような形で貴国に立ち寄った事。まずはお詫びします。真に申し訳ない。ですが、陛下のご意向でして。現在、誘いのあった藩落西部への遊説に赴く途中なのです。ただ少々過酷な道程だった為、すっかり艦の者達が疲れてしまいまして。付きましては今日一日、双來への逗留を許可しては頂けないでしょうか。藩落の先鋒には既に赴くと伝えていますのでご心配されるような事はないとは思うのですが」
まるで自分が大根役者になった気分だった。
シャルアはハイランの筋書きに舌を巻く。
(これならば波風も立たずに戦力を移動させられるわ。さすが、イグニシアの新しい懐刀。いえ、この男を使う陛下こそ……やはり最も警戒するべきなのかもしれない)
「そうですか。本来ならば、すぐにでもご逗留の許可を出したいところなのですが、今現在……我が国は多少の問題を抱えていまして」
「問題?」
まるで今聞いたような顔をされて、シャルアは本当に心の底から、この茶番を続ける事にした。
対外的発表に使用する事実を此処で作ってくれると言うならば、乗らない理由はまったくない。
「実は現在、見えない化け物が国の国境から押し寄せてきているのです」
「何と、それは本当ですか?」
「はい」
「そうですか。しかし、こちらも今日はこれ以上の運航は避けたい。では、我が方に化け物の駆除を任せては頂けないでしょうか?」
「よいのですか?」
「はい。陛下もきっと云われ無き不幸に泣く無辜の民にならば、お力をお貸しになりたいと思うはずです」
「何と慈悲深い事か。双來の民は皇帝陛下に心の底より感謝する事でしょう」
「では、陛下に取り次いで来ますので、今後の事は戻ってからという事に」
「はい。陛下に深く感謝致します」
一瞬でハイランが屋上から消えた。
転移で艦に戻ったのならば、次に来るのも一瞬だろうとシャルアが急いで城の内部へ戻る。
「やりましたね!! 姫様!!」
「ええ、やってくれたわ。あの枯木。もう双來を尻に敷く気満々じゃない」
「?」
ツカツカ国王がいるはずの部屋へと往く道すがら、シャルアが渋い顔をする。
「陛下は西部に遊説に行く。これ、どういう事か分かる?」
「方便なのでは?」
「そうよ。方便よ。そして、事実なのよ? いい? わたし達は今、我が麗しきなんて国民に修飾させる“イグニシア皇帝の美談”にされてるの」
「美談とは?」
「つまり、皇帝陛下は今まで一度も乗った事の無い避暑地への遊説を行いに行く途中、化け物に滅ぼされそうな双來に“偶然にも”逗留する事になって、その威光を持って化け物達を退治した。その縁で双來はイグニシアと硬い絆が出来たのだ、みたいな事を言い触らす気満々なのよ」
「ああ、そういう……」
「悔しい事にケチ付けるところが一つもないわ。イグニシアと双來の急な同盟となったら、藩落の連中は裏があると疑うでしょうけど、これなら自然な流れに見える。しかも、同時に他の藩落にも顔を売ってる時点で時勢を握ってるのはあっちって話よ」
「敵も味方も手強いのですね。姫様」
(違う。敵とその敵も手強い、のよ……)
シャルアがその言葉を飲み込んだ。
イグニシア側との化け物退治の合同作戦はすぐに行われるはずで。
何か策を弄するような時間は無い。
「それでどうしましょうか?」
「何が?」
「いえ、あの将軍の娘の事です」
「確かに仕事は受けて貰ったけど、戦艦が来たんじゃ、兵の指揮とかは無いと思う。一応、呼ぶけど。その後の事はまた考えないといけないわね……」
「あの不死者の少年は?」
「それこそ今考えるような話じゃないわ」
そうして二人は廊下の先へと消えていく。
その“今、考えるような話ではない”少年が、どのような厄介なのか。
知る由もなく。
*
城下の宿屋からでも上空の艦の威容は見えていた。
街が翳って、誰もが顔を上げていれば、嫌でも気付く。
ただ、明け方まで幾つも化け物の排除案を書いていた少女はその限りではなく。
眠っているのを起こさないよう羽織を掛けた少年は皇帝の豪胆さに「さすがエト」と密かに賛辞と呆れを混ぜて呟いた。
本来、人の足音一つ、気配一つですぐに目が覚める性質であるはずの少女は今もすやすや夢の中。
さて、これからどうしたものかと少女の横で上空を見上げていた少年は岩肌にある城の上、遥か山の上から雪を滑って何かが下りてくるのを見つける。
「あれは……」
視力が常時10程ある少年にしてみれば、1km先の羽虫だろうと行方を追える。
数千m級の山岳であるラストーラの垂直に近い壁を棒切れらしきもの一枚で下りてくる姿。
白い迷彩外套に身を包んだ数人の者達。
少年は最初こそイグニシアの特殊部隊を疑った。
しかし、“視線が合った”瞬間に大体の事を察して、もう少し寝かせておこうと思っていたセイリの肩を揺する。
「セイリ。セイリ」
「―――ティア? 君ですか」
寝惚けるような事なく。
即座に意識を覚醒させた少女に少年が窓の外の滑り降りてくる輩を指差した。
「あれって、君の言ってた追手とかじゃない?」
「!?」
突如として告げられた危機にセイリが目を丸くする。
「案外早く見付かったようです。すみませんが、これを双來の姫に届けてくれませんか?」
パサッと十数枚の紙を少女が少年に押し付ける。
「どうするつもり?」
「上にいるのがイグニシアの戦力で間違いないなら、兵の運用は無いでしょう。とりあえず、効率よく駆除する為の方策は大体煮詰めました。一応の義理は果たしたと考えます」
急いで上着と更に褐色の外套を着込んで、セイリが横に立て掛けてあった帯剣を腰に差した。
崩狼との戦いで完全に使い物にならなくなっているのも構わず、だ。
「一人じゃ何も出来ないよ?」
「分かっています。ですが、これ以上、迷惑を掛けるわけにもいきません」
少女の気持ちは変わらないと悟って、少年は受け取った紙にそっと羽ペンで幾つかの方陣を手早く書き込んだ。
窓が開かれる。
身を差す寒気が入り込むとふわりと紙が浮き上がって飛び出していく。
「これで届く」
「君にはイグニシアとこの国を結ぶという―――」
「一人じゃやれる事なんてたかが知れてる。それに言ったはずだよ。君を手伝ってもいいって」
「どうして、そこまで……」
心底、不思議に思うセイリの疑問に少年はいつもの笑みで答えた。
「昔、友達と約束したんだ。困ってる人は見捨てないって……」
予想外の答えに最初何も少女は言えなかった。
「―――君は……本当に不思議な人です。ティア」
「手伝わせてくれる?」
コクリとセイリが頷いた。
「じゃあ、もう行こう。こういう目に見えて引き付けてる時はもう背後とかに居たりするものだし」
「?!」
ギャリッと火花が散る。
『!!?』
セイリが振り向けば、ドアが半開きになっていて、短剣が虚空で回転していた。
壁から街へと落下して迫ってくる敵は陽動。
釘付けにしておいて、背後から一撃。
「ティア!!?」
少女が気付いた時には少年が腰を掴んで窓から飛び出している。
「帯剣、今度弁償する」
短剣を受けたのはセイリの腰から引き抜かれたボロボロの剣だった。
宿の外に着地した少年が自分より少し背の高い身体を抱えて走り出す。
「じ、自分で走れます!」
「随分と包囲が用意周到みたいだから、下ろすのはもう少し後で!」
少年の速度が人を抱えているとは思えない域に上がる。
セイリは下が明るい事に気付いた。
(足が光って? まさか!?)
少年の両足が輝きに包まれている理由に思い当たって、人間の限界を超える速度を魔力の気配も無しに実現した代償が何であるかセイリは思い至った。
「だ、大丈夫なのですか!?」
「あんまり喋ってると舌噛むかもしれないから、ちょっと静かに」
少年が跳躍する。
寸前、飛び上がった場所を短剣が通り抜けていく光景をセイリが確認した。
背後を振り向けば、雪煙を上げて、幾つかの気配と足音が迫ってくる。
見える者は囮。
本来は見えざる兵が本命。
数もさる事ながら、その統率の取れた様子から練度も相当だと知れた。
自分一人だったなら逃げ延びられただろうかとセイリは背筋を寒くする。
「防御用の方陣を!」
「索敵がいた場合、魔力痕を取られて逃げても逃げても追ってくるかもしれないから止めておいた方が」
重力に掴まって、跳躍した肉体が落下を始めようとした時、少年は再び、虚空を蹴った。
一瞬にして周辺に輝きが飛び散る。
「な!?」
更なる上昇。
二人の身体が一瞬で二十メートル近く飛び上がった。
更に一歩、二歩、三歩。
輝きを世界に散らしながら、少年は少女を抱えて空を、階段があるかのように昇っていく。
背後から驚きの気配が伝わってきて、セイリは相成れない追手だと分かっていながら、同感だという感想を禁じ得なかった。
魔力無し、技術無し、その上での虚空跳躍。
殆どの空飛ぶ生き物はその行為の為だけに肉体を特化している。
そして、幾つかの種族は飛ぶ為の魔力器官を保有する。
人間が空を飛ぶ。
いや、跳ぶ事は戦者の間でも一般的な技能ではある。
だが、それは魔術具や自身の魔力、何らかの技術を用いた場合の話だ。
体内の魔力で肉体を強化した末に為しえるような事だ。
しかし、少年は違った。
人間二人分の重量を人間としての脚力を爆発的に開放する事で空を跳んでいる。
虚空の空気を蹴っているのだ。
本来は体内魔力によって肉体強化を可能にした者にしか不可能なはずの行為。
それにしても相当の熟練がいると少女は知っている。
水の上を歩く。
炎の上を歩く。
空の上を歩く。
それは須らく超人の技だ。
だが、少年は肉体が、足が、一歩毎に完全破壊されるのを承知で跳んでいる。
無茶苦茶だ。
幾ら回復するのだとしても、人間的思考では為せない。
「このまま山岳に向って、そこから君の国の近くまで転移でいいかな?」
「は、はい!」
更に空へ輝きを撒きながら、少年が加速した。
山岳へと向う空の中。
吹き付けてくる雪の粒が顔に当たって解けるより先に後ろへと流れ去っていく。
そうして数分も跳んだ頃。
二人はようやく山肌の窪地に降りる事になった。
「少し揺れるよ。目瞑って」
きゅっと少女が目を瞑ると減速のGが身体を襲い、同時に雪煙の中に全身で突っ込む感触。
重力が肉体を再び捕えた時にはもう雪に埋もれるように二人は着地していた。
「ぷはっ!? ティア!! だ、大丈夫ですか?」
「うん」
何とか身を起こしたセイリが自分達のいる場所が何処か悟って、ゴクリと唾を飲み込む。
山岳の山肌。
それも何合か昇った位置にいた。
街の姿は小さく、追手の姿は見えない。
ただ、イグニシアの艦艇だけが大きく。
城下や城を隠すように浮かんでいた。
「君は本当に……」
何者なのか。
という疑問を放つより先に周辺に銃声が響いた。
「ごめん。急いでたから確認しなかったんだけど、敵のど真ん中に来たかも……」
(追手の戦力が密偵ばかりだと侮っていた?!)
『よもや、あのような方法で逃れるとは思っていませんでしたが、運は我らに味方したようだ。エルメトロ様』
数十人程の白い迷彩外套を着込んだ者達が二人の十数メートル先で拳銃を構えていた。
『随分と頼もしい護衛を雇ったようですが、抵抗は為さらない方が宜しいかと』
「名を名乗られよ。貴殿は?」
「エーデリア独立特務部隊イナーシェ」
「う、嘘です!? まさか、エーデリアはそこまで!!?」
一人、精悍な顔立ちの男が進み出てくる。
セイリは思わず狼狽した。
敵国アーズトリテの部隊ではなく。
祖国エーデリアの特務部隊。
追手の素性から分かるのは本格的にエーデリアが、祖国が、彼女を完全に売り渡したという事実。
祖国を救いたいと願ったセイリにしてみれば、その仕打ちは国から真に裏切られたに等しい。
確かに軟禁こそされていたものの、それでも何処か祖国の人々も話せば分かってくれると、そう思っていた少女にとって、辛い現実だった。
「エルメトロ様。どうかお戻りください。本国で婚姻準備が着々と進められています。貴方が戻れば―――」
「戻れば、隷属の道があるとでも言いたいのですか!!」
「残念ながら政治に口出しするのは我らの責務ではありません」
「貴方達が本当にエーデリアの人間だと言うのなら、理解しているはずです!! このままではエーデリアは、エーデリアの民はただの奴隷と変わらなくなってしまう!! 私はそれを!!」
「止める方法があるとでも? 残念ながら、そんな方法はありません。貴方が何を求めて、こんな大辺境まで来たのか私達には分かりませんが、逃避行も此処でお終いです」
セイリが苦悩の表情で訊く。
「どうしても、立ちはだかると?」
「もし、ご了承頂けないならば、こちらにも考えがあります。おい」
男の後ろから魔術方陣が浮かび上がり、虚空に何処かの景色を映し出した。
「―――卑怯なッ!!? それでもエーデリアの軍人ですか!!」
浮かび上がったのは一軒の屋敷。
その意味がセイリにはもう分かっていた。
「今、あちら側と繋がっています。屋敷の使用人達は現在監禁中であり、本国の委員会では既に死刑が決まっています。このままならば、処刑されるまでもなく此処で彼らは命を終わらせる事になるでしょう」
「くッッ!!!」
「お戻り頂ければ、恩赦が出ます」
男の声には真実があった。
躊躇う内に誰かが殺されれば、取り返しは付かない。
血が滴る程にセイリの拳が握り締められる。
「分、かり……」
唇を噛み締めて、そのまま断腸の思いで頷こうとした少女の手にカシャンと手枷が嵌った。
更にもう一回、手枷が嵌る音。
「あ、それじゃ、付いて行っていいかな?」
「ティ、ア?」
思わず横を振り向いたセイリは自分の手と少年の手を鎖の手枷が繋いでいるのを発見する。
握り締めた拳がそっと手枷が嵌った手で握られた。
「大丈夫だから。一緒に行くよ」
「何を勘違いしているのか知らないが貴様はエルメトロ様に付いていく事など出来ない。少年」
「じゃあ、逃げようかな」
「き、君は何をして!? そんな事をしたら!?」
少年が少女の身体を抱いて跳ぼうと背を向けた瞬間。
銃声。
渇いた音と共に―――穿たれた肉体が雪に倒れ込んだ。
「え?」
「馬鹿な事を……若い命を無駄に散らす事も無かっただろうに……」
男が呟き、少女が一瞬呆気に取られた。
「ティ、ア……?」
傷なんてすぐに回復するはずの少年がピクリともせずに自分の上に倒れ掛かるという事態が理解出来ず。
セイリは手を少年の頭に回して。
「―――」
ドロリとした温かい血を手に感じた。
輝く様子もなく。
頭部を撃たれた少年は即死していた。
「ティア……?」
信じられず。
不死者でも頭部を破壊されて尚生きられる者は少数だと今更に書の智識を思い出して。
少女は沈黙した。
涙ではなく。
後悔に顔を支配されながら。
*
―――イグニシア北東部国境地帯武帝難民キャンプより。
『ヤスイヨ。ヤスイヨ。オカイドクダヨ』
『はい。配給はこちらでーす。皆さん並んでくださいね~~』
『こちらで難民登録した方は今度はあちらになりまーす』
『押さないでください!! 十分に配給はありますので押さないでください!!』
『七教会の職業斡旋所はあちらになります。イグニシア側の労働局はこちらになります』
『皆さん。列に並んでくださ~い。就業斡旋は無くなりませんから~~~』
『えー本日は七教会が化け物を掃討したルートにそって道の舗装に―――』
『騎士養成所への入所には実技試験がありますのでご了承くださいませ』
『え~~数字が出来ない等の問題を抱えた方は七教会の教育フォーラムにご参加下さい。普通教育課程八年分の知識を魔導によって一ヶ月間貸し出します~~』
雑多・猥雑・混沌。
どんな言葉でもいい。
ただ、騒がしい難民の渦に埋もれて、荒れ果てた国境地帯には熱気とも言えるものが漂っていた。
腰蓑一つが基本スタイルだった人々は今や七教会とイグニシア両者からの支援を受けて、普通の木綿の服を来て、配給に並び、職を求めて乱造された紹介所に津波の如く押し寄せている。
あちこちで魔導や魔術具の拡声器が使用され、大声を張り上げる誘導係の喉は連日の激務でくったりと力なく、微妙に枯れ気味だ。
そんな最中。
一人配給に並んでいたフード姿の女がヒッソリと七教会の炊き出しを二人分受け取って難民キャンプの一角へと歩き出した。
今も武帝での生活習慣から抜け出せない人々が衣服らしい衣服も着ずに押し込まれているテントは無数。
人々に紛れて難民でない者がいても誰も気にしない。
難民達の顔にあるのは疲れ。
慣れない強行軍で武帝から脱出し、着の身着のまま部族ごと逃げ出してきた彼らには衣食住全ての当てが無かった。
そもそもが大森林の恵みで気ままに生活する事を良しとしてきた彼らにとって、食事、衣服、住む場所に金が掛かるというのは未だ実体験として理解されていない。
やがて、職業に付いて配給を受け取れなくなる日が来ると言われても彼らにはピンと来ない。
本当は疲れてなどいられない状況。
テントの中でグッタリしている者達は今後自分達が置かれる過酷な環境への想像力が不足していた。
不可視の化け物が広大な武帝から一匹残らず駆除されるまでどれだけの年月が掛かるか。
如何に七教会の戦力が恐ろしいものだろうと、大森林で何万何十万何百万いるかもしれない化け物を完全に駆除するのは相当に骨なのは間違い無く。
ある種、疲労による停滞は不安や不満が表れ始めるまでの猶予期間なのかもしれなかった。
「配給は此処に置く」
「すみません……」
テント群の端の端。
難民達が無意識下で避けていく、まるで無人の一角で配給を貰ってきたキリア・ユエト・セマネは横たわる少女に麺麭を渡して水筒を置き、横に座り込んだ。
「感謝します」
世界に唯一の蒼き輝きを持つ瞳が【褐色狼(フォックス)】を見つめる。
魔王の騎士。
蒼穹の騎士と呼ばれる少女はあの混乱の最中から自分を保護した女の顔をジッと見つめた。
「?」
見つめ返す瞳。
それはマロウとの相打ちで事切れそうになっていた意識を繋ぎとめた時と同じ。
「不思議な縁だと。そう思ったので……」
「あんたとまたこんな形で会う事になるとは誰も思わないさ」
キリアの瞳にやはりサヤトネはよく分からない存在として映っている。
ぼんやりと姿が滲んで焦点が合わせられない。
「それにしても爆雷の落ちる国境で寝てるなんて、度胸が据わり過ぎだ」
「それを言うなら、危ない国境にやってきた貴女こそ、度胸が据わっています」
「……知り合いがこっちに行ったって話を聞いて。体が動いてただけだ」
「知り合い?」
「前に借りを作った。だから、どうなってるのか様子を見に行ってみたら、途中で意識が途切れて、気付けば……」
「私を見つけていた?」
キリアが頷く。
三人の少女達に付いていった政庁での一件の後。
少女達があの少年の伴だと知って、彼女は何か言いようの無い何かを感じた。
イグニシアの騎士らしき女から位置情報が漏れた時にはもう行動に移っていた。
軽い挨拶一つで少女達から離れたのは何故だったのか。
キリア自身にも分からない。
本当ならば少女達と待っていた方が会える事は確実だったのだから、その行動は不合理という他に無い。
「それで? 今まで訊いてなかったが、あの男は何処かにほったらかしにでもしたのか?」
「いえ、色々と問題が解決したので分かれました」
「そうか」
それ以上、キリアは何も訊かなかった。
「これから私は主を追うつもりです」
「前も言っていた?」
「はい」
「大切なのかい?」
「ええ」
「なら、もう少し回復する事だ」
麺麭を千切ったキリアがサヤトネに手渡すものの、ポロリと落とした。
「首の傷は治っても、まだ本調子には程遠いようだ」
その言葉にサヤトネは自分の置かれている状況が酷く拙い事を感じずにはいられなかった。
目覚めて以降。
キリアに色々と国境地帯の様子を探らせて分かったのはすぐ傍に聖女と七教会の部隊がいるという事実。
力を使えば、能力を検出されて強襲される事は間違いない。
能力を使えば傷は治るが戦いは不可避。
逆に能力を使わないならば、肉体の極度の疲労と生命力が低下した状態に悩ませられる。
難民キャンプを出るにしても一人ではまず不可能。
治安維持の名目で【高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)】が徘徊する場所を通り抜ければ、如何に人から認識され難くなっているとはいえ、能力残滓を検知されて追われる事となる。
大規模な能力使用の反動で極端に事物との関係が薄れている状態のサヤトネにはキリア以外に頼れるような人間はまったくいなかった。
たぶん、今まで旅をしてきたマロウや少女達にならば、見付かる可能性は高いが、それにしても今どうしているのか分からない。
七教会に見付かっていれば、マロウは三人の少女達を孕ませている事が明るみになり、求心力や聖女信仰者が多い師団内で地位を揺らがせる事になるだろう。
記憶が戻ったとしても少女達の扱いに四苦八苦するのは明白だ。
その点でもうサヤトネの仕事は終わりを迎えている。
マロウと聖女の関係に罅が入れば、それはそれで主に資するだろうし、聖女が少女達とマロウの関係を受け入れるならば、七教会への醜聞となるに違いない。
(後は私が此処を抜け出せるかどうか……)
少女は思う。
まだ、七教会に見付かるわけにはいかないと。
何とか主である少年と合流しなければと。
「どうかしたのか?」
「一つお願いをしたい事があります」
「何?」
「私を、此処から連れ出してください。七教会に見付かる事なく」
キリアが姿も見えない少女の願いに目を細めた。
この再開が何かを暗示しているような気がして。
運命論者のような思考とは掛け離れた世界に生きてきた。
その自分に今正に全ての柵から解き放たれた自分の下に転がり込んだ少女。
この正体不明の存在と一体どうするべきか迷って。
「大陸中央だとこういう時はこう言うそうだ」
獰猛で気高く。
獣の顔をして。
早くも閃いた決めた女は自分の中にある思いを形にして吐き出した。
「ギブアンドテイク」
「何が望みですか?」
「七教会から……私の……いや、この世の誰もが奪われた世界を取り返したい」
まさか、そんな言葉を聞く事になるとは思ってもいなかったサヤトネはキリアを凝視する。
「確かに連中の言うお題目は素晴らしい。正しくて、間違いは無くて、幸せかもしれない。だが、私はそうは思わない。間違い、醜悪であろうと、不幸が降りかかろうとも、私は私の世界で生きたい」
女はその時正しく真の意味で自らの旅の目的を定めたのかもしれない。
「七教会の掲げる心地良い天国よりも、私が生きてきた地獄を進みたい」
もしも、人生を果たすならば。
幸せな箱庭ではなく。
過酷な荒地でいいと。
「だから、あんたの力を借りたい」
まさか、このご時勢に。
こんなにも“自分と同じ道”を望む者がいるという事実。
それがサヤトネの胸を震わせた。
「……高く付きますよ?」
「それはこちらの台詞だ」
確かに二人の視線が重なった。
そうして。
その日の内に誰も居ないテントが一つ難民キャンプに増えた。
女と少女が立ち去った現場を見た者は一人としていなかった。
その再会がたぶん聖女達最大の誤算であり、瑕疵である事をこの時まだ誰も知らない。
魔王の騎士の回り道はまだ続くようだった。