第二章三十節「演説」
『ハティア。どうかした?』
旅の途中。
仲間達が全員それぞれの用事で朝まで帰ってこない夜。
宿屋の一階。
激しくも気高く吟遊詩人達が謳い散らかしていた。
ぼんやりと音色に酔いしれて。
葡萄酒のグラスを見つめていた少女は顔を上げる。
『ぁ…シンア……』
『大丈夫?』
『はい』
『?』
『シンアはその……この詩どう思いますか?』
『え……』
二人組みの吟遊詩人。
どちらもまだ若い女の二人組み。
魔術具の明かりに照らされて、食事処に流れる詩は激しくも美しい。
内容はこうだ。
―――この世界を慈しもう。
―――愛の調べが終わらぬ内に。
―――渚に届く御国の先へ。
―――伴を連れて往き過ぎるまで。
―――今宵謳うは女の詩。
―――結ばれぬ男を想う祝詞。
―――君は確かに美しく。
―――君は確かに勇ましい。
―――けれど、傍にはいてくれない。
―――ならば、一時の恋紡ぎとなって。
―――その幸せが世を照らす光になる。
―――きっと、いつまでもこの想いは君を。
『哀しい気持ちになる、かな……』
『悲しい?』
少しだけ以外そうに少女は訊ねる。
『だって、きっと……これって結ばれない事は関係なくて。一人で想い続ける詩じゃないかと思うから』
『関係ない?』
『いつか、愛した事も忘れてしまう。死んだ先に誰かと共に消えて。どんなに思っても傍にいてくれなくて、それでも今の心だけは残したい。この気持ちが貴方の道を照らしても……貴女は気付かないかもしれないけど……そういう詩じゃない?』
『……』
『あ、あの…どうかした? ハティア』
『シンアには吟遊詩人が似合ってるかもしれません』
『!?』
クスクスと少女が微笑みを浮かべる。
『だって、ふふ……』
『ぅ……』
自分の言った事が急に恥しくなった少年が顔を伏せた。
『ごめんなさい。でも、そうですね。いつか、吟遊詩人になってみるのもいいかもしれません。その時は私が伴奏します』
『ハティアが?』
『はい。楽器は得意なんです。ウェスティアリアの一族は皆……子供には必ず教えていて、一年に何度か集う時は沢山の楽器を持ってきて夜通し演奏するのが慣わしで……』
『そうなんだ……』
『はい。もし……わ、私に赤ちゃんが出来たら、ちゃんと教えたいなって……』
『うん。出来るよ。きっと……』
『シンア……』
少年の優しい笑みに少女が恥しそうに頷いた。
『その……それじゃ、一つ教えますね』
『え?』
『一族に伝わる詩。親しい人に教える為のものがあって……』
『いいの?』
『はい。だって―――』
誰かの綻んだ顔を美しいと思ったのは、それが最初。
少年にとって、初めての言葉を少女は紡いだ。
―――シンアはもう私の大切な仲間ですから。
*
「………」
深夜を過ぎて星も一巡しようとする頃合。
少女。
いや、一人の聖女は月光に照らされながら、薄く目を開けた。
前日まで傍らにあった娘の体温も無く。
いつも気に掛けてくれる親友の姿も無く。
一人の部屋は虚ろにも思えて。
彼女は一面硝子張りの天蓋にぼんやりと視線を移す。
憖(なま)じ、魔術を極めた者だからこそ、要らぬ知識が否定したい事実を脳裏に組み立てる。
無論、そんな事をしなくても一般常識的に明白な事ではあったかもしれない。
心の何処かが囁いた。
行方不明の夫の夢は見なくても、ずっと戦い続ける“敵”の夢は見るの、と。
前日までは母親として過ごしていられた。
気に掛け連絡は取り合ってはいても、幼い頃から一緒にいる時間もよく取れなかった娘の事で頭が一杯だった。
人の親になって、親らしい事を精一杯にして、それでもやはり自分は良い母ではなかったと、彼女は知っている。
誕生日を三度生身で立ち会えなかった。
離乳食を三十回も食べさせられなかった。
初めて立ち上がった時、傍にいなかった。
毎日のように朝食と夕食を共には出来なかった。
まだ寝物語に読ませていない大好きな御伽噺が沢山ある。
いつの間にか大きくなって、自分の進路まで決めて、学校よりも職場に出たいと飛び出して、決める前に何も相談してはくれなかった。
(母親として失格だと言われた気がした……)
仲は良い。
心は通い合っている。
愛情は伝えているつもりではある。
けれども、彼女はそれだけではダメなのだと知っている。
共に積み上げる時間こそが思い出だというのに家族全員でいた時間は短い。
「これは……罰なんですか……」
誰にともなく彼女は呟く。
その言葉は今は傍にいない夫へのものか。
それとも永遠に戦い続けるかもしれない敵へのものか。
分からない。
彼女自身、意識しなかった。
本来、睡眠なんて必要ない身体だ。
寝惚ける事すら実は趣味の範囲を出ない。
その気になれば、睡眠も食事も排泄もあらゆる人間らしい生活様式を省ける。
魔力や生気すら不老不死である存在にとっては無限に内から沸き上がるものでしかない。
そんな存在に堕しても良き母にはなれなかった。
働き詰めでも問題ないと昼夜問わず仕事をしながら娘の事に懸命になっていた時、同じ聖女の一人に彼女はとある忠告を受けた。
身体は疲弊しなくとも心は磨耗してるわね、と。
まだ赤ん坊の娘を抱いてあやしていた時の話だ。
彼女にとって衝撃的な言葉だったと思う。
中々泣き止まないのはどうして分からず困り果てた彼女にその老女は原因を素気なく教えたのだ。
無理をした心で無理をした笑顔を浮かべても赤子には分かるのだと。
それ以来、彼女は無理をするのを止めた。
心を休ませなさいと言われて、その通りだと感じて、そのままでは娘に本当の笑顔すら見せられなくなると感じて。
けれども、時が経ち、今また彼女は思う。
無理をしていなくとも心は疲弊するのかと。
それは沢山の死を見たからだろうか?
違う。
それは大勢の難民達に笑顔を見せ続けたからだろうか?
違う。
それはたぶんずっと気に掛かっているからだ。
(そう……私は……)
少年と皇帝の姿を見てしまったからだ。
一つの甘味を二人で突いていた光景。
まるで、本当にただの恋人のような他愛ない景色の一部。
(不幸を滅ぼす……それだけの為に私は“正しい選択”をした。なのに……)
忠告して。
引き離そうとして。
高貴な少女に拒絶されて。
少年は変わらなくて。
(私は間違ってない。でも、彼女は……)
イグニシア・クルシスそのものである少女は少年の為に本気で怒っていた。
そんな光景があまりにも、そうあまりにも彼女の胸に突き刺さって。
(あんな風に怒る人間なんて、もう騎士しかいないと思ってたのに……)
―――シンアが傷付けられたら哀しいに決まってるじゃないですか。
「?!!」
不意に脳裏へ浮かび上がる声。
―――お願い…自分を大事にしてください。
いつだったか。
自分が言ったのだ。
―――仲間を傷付けられて怒らないわけないです。
胸を押さえて、彼女は蹲(うずくま)る。
「間違ってるのに……分かり合えなんてしないのに……」
皇帝である少女も過去の彼女と同じ気持ちだったのか。
「未来なんて無いのに……全部、諦めたのに……」
今も彼女の奥底に積もった言葉は不用意に舞い上がる。
―――もし、シンアが悪夢を見たら、私が追い払ってあげます。
魘(うな)されて、涙を滲ませた少年にそう言ったのは彼女自身で。
―――だから、安心して眠ってください。悪い夢に掴まらないように……傍で見守ってますから。
『ありがとう。ハティア』
「………助けてください……」
彼女は一人、寝台に一人、小さく助けを求めた。
誰にも届かないようにそっと。
『それじゃあ、ハティアが悪い夢を見たら、その時は僕が助けるから、きっと……』
夜明けが近付いた空が白み始めて。
少女は彼女は己を誡め始める。
明日には聖女に成れている様に。
いつものハティア・ウェスティアリアであるように。
そうしなければ。
そう出来なければ。
まるで悪夢に囚われた自分を“誰かが”助けに来てしまうと。
そう、信じているかの如く。
やがて、朝が来て。
全ての悪夢(こえ)は朱の輝きに融け。
今日もまた明日となる。
*
―――イグニシア国境地帯難民キャンプ付近艦隊停泊地上空より。
「オレ、ハティア様一筋だから(キリッ)」
「「「「「だっははははははっ?!!!」」」」」
「まったく、そんな事だから嫁の一人も来ないのよ(私だって行き遅れてるのにぷんぷん)」
「「「「「ひ~~~っ、あははははははっ!!!?」」」」」
「何じゃ。騒がしい(まだまだ二人とも結婚まで遠いようじゃのぉ)」
「「「「「くはははははははははッッ!!!?」」」」」
七教会魔王追討師団旗艦【双鯨(そうげい)】の談話室。
男女混合の兵士達がラフな恰好で休む比較的広い憩いの地。
そんな場所で爆笑の渦が巻き起こっていた。
兵達の中心にいるのはテーブルの上で何処かで聞いたような台詞を言う少女。
人真似の対象は三人の師団連隊長達である。
イグニシア・クルシス国境地帯の難民問題に一区切り付いて本部から支援チームが派遣され数日。
今まで難民の治安維持に当たってきた兵達は次々に通常待機の為、艦隊内部へ戻ってきていた。
ゲラゲラ笑いながら人真似の少女に拍手喝采を送る者が多数。
そもそも少女が何故追討師団の旗艦に乗船しているのか誰も知らなかったが、旗艦内部へ入る為のパスは持っていたので深く詮索してはいなかった。
艦内治安維持を行う風紀部隊、事実上の憲兵側に聞いてみても『大丈夫だ』としか返事はなく。
兵達は突如として現われた少女の一人芝居にやんややんやと喝采を送っては酒の肴にしていた。
「本当に皆さん仲がいいですね(にっこり)」
少女は十台後半という年齢。
淡く黄色いドレス風の衣装を着込んでいる。
ついに聖女の真似までし始めたところで開かれっぱなしのドアを異様な気配が通った。
誰もが背後を思わず振り向いて、更に驚愕する。
「し、師団長!!?」
バルガ・レオノトルテ。
暫定的に師団長を務めながら、殆ど師団の業務に付いていない男が其処にいた。
「しばらく出ていろ。その女に用がある」
「あ、いえ……こ、この子はどうやら不審者ではなく」
女の兵隊が咄嗟に庇おうと少女に手を伸ばし、するりと身体がすり抜けた。
「え?」
「あ、バルガだ~~~~♪」
とてとて少女が駆け出して、今は七教会の【軽殻装(コート)】姿であるバルガの腰に抱き付いた。
「ひっさしぶり~~近頃どうしてた?」
見目麗しい少女は少し幼くも整った顔立ちをしている。
透き通るような青い髪をショートヘアにしていて、見る者に活発的な印象を与えるかもしれない。
少し変っているのは眉が○型をしている事くらいだろうか。
「貴様に心配されるような落ちぶれ方はしていない」
「相変わらず口が悪いんだ~~いいの? そんな事言って」
「人事権は全てあの女の下だ。そもそもいつ戻ってきた?」
バルガに睨まれケロリと話す少女に驚き、兵達の大半が固まってしまう。
しかし、その中から質問が上がった。
「師団長……そ、その……そちらのお嬢さんとお知り合いなんですか?」
その問いに呆れた様子でバルガが鼻を鳴らした。
「貴様等は自分達のトップの顔も知らないのか」
「え、トップ?」
少女がにっこり笑って兵達に向かい合う。
「いつもいつもご苦労様。ミュルトからハティアに言っておくね。みんな良い人だったって」
「「「「「――――――!!!?」」」」」
兵達が一斉に固まった。
その名を知らぬわけがない。
このファルティオーナに存在しない二つの師団の一つ。
【外洋監察師団(がいようかんさつしだん)】を統括し、海神(わだつみ)以上に海岸線の人々には慕われている七聖女の名を。
彼女への信仰は一種教会へのものとは違って、教会各宗派以上とも囁かれる。
女神とすら讃えられる女を彼の地の人々は畏敬を込めてこう呼ぶ。
【灯台(きぼう)の姫女神(ひめがみ)】と。
七人の中で唯一自由気儘に大陸を離れて海を行き交う存在。
その与えられた役割は大陸外調査と海洋の安全確保。
事件に事欠かない女の逸話は多い。
そして、全てが事実だ。
嵐を吹き飛ばし、荒れ狂う海を凪ぎ、海面を地の底まで割り、未発見の島々を発見し、島民と協定を結び、旧き神の寝床を破壊し、嘗て繁栄を極めた種族達の遺構を掘り起こし、海に住む多くの種に崇められている。
海洋開発における七教会の莫大な利権を支え、海宝を全て手にして海賊という職業を絶滅させた。
大陸では然程存在感がない一方。
海洋の者達からは全能の唯一神を歯牙にも掛けない人気を誇り続けている。
「ミュルト・ジオバトス様でありましたか!!? ぜ、全員、敬礼!!!!!」
慌てた兵達が今更感が強いものの、全員最敬礼で頭を下げた。
そして、次々に談話室から失せていく。
最後に出た兵が扉を閉めると少女が頬を膨らませてバルガを見た。
「追い出さなくてもいいのに……」
「そんな気配をさせて人の師団に上がり込んだ貴様が言えた事か」
「そもそもいっつもいないってハティアやフルーがぼやいてたけど?」
「近頃、ロクな情報を寄越さない情報部へ催促しに来た帰りだ」
「ふ~~ん」
バルガがテーブル横の椅子に腰掛けると対面に少女も座った。
「何故、こんな場所にいる?」
「そろそろ海でする事が無くなったって言ったら、後任を百人ぐらい送るから、そろそろ帰ってきてってフルーが」
「一体何を始める気だ?」
「何か亜人とか異種に関する事だって言ってたよ」
「この世界で最も異種に詳しい貴様が呼ばれたのは道理だな」
「海は広くて大きいから、少し詳しくなっただけなのに」
「旧き者に好かれる性質が買われたわけか」
「お友達は沢山の方が良くない?」
「星を食い散らかす破滅、もはや滅んだとされる異種、人の手にあまる神が友達と言えるならな」
「頭固ーい。だから、友達出来ないんだよ。バルガは」
ミュルトにバルガが僅か沈黙し、不意に呟く。
「……あいつと会った」
「そう、なんだ」
「と言っても遠目に見ただけだがな」
「どうして?」
不思議そうな顔でミュルトが首を傾げる。
「部下の不始末をあの女が付けたからだ」
「あの女って、蒼穹の騎士の事?」
「ああ、あの騎士……貴様等七聖女が思っている程、温くはない」
「確かにあの子が強いのは認める。でも、全員に勝てるとも思わないよ」
「……その油断でせいぜい後悔しないように言っておく」
ミュルトが僅かに目を細めた。
「固い話はこれくらいにしておこう。今日はハティアに会いに来たから、一緒にどうかな?」
「あの女に話す事は何も無い」
「そう言えば、ユヒアちゃんも来てたって皆が言ってたけど、会った……わけないか……」
バルガの事をそれなりに知っているミュルトの断言にバルガが立ち上って扉へと向う。
「あの娘なら前日に仕事で西へ立ったと耳に挟んだ」
「西……藩落?」
扉が開かれる。
答えず。
そのまま部屋から出て行こうとする背中。
大きな木製のテーブルに頬杖を付いて少女は呟く。
「見つけたよ。【門(ゲート)】を……」
「……」
足が、止まった。
「これで七教会はあらゆる存在をこの惑星から消し去れるようになる」
「ふん。帰ってきた本当の理由はソレか」
「【基幹異種(バルバロス)】達の黄金期の遺産。凄っごく大きかった」
「興味はない」
「確か、藩落にも小さいけど同じような気配があるって話だから、ミュルトもユヒアちゃん追掛けちゃおうかな~~」
「勝手にすればいい」
バタンと扉が閉まる。
残った七聖女は僅かな沈黙の後、呟いた。
「もう時間ないよ……バルガ……」
声は誰にも届かなかった。
*
疾く来る。
それは鮮烈なる有史そのもの。
白き螺旋を降る足音は福音の一説。
翼は畳まれたまま。
乱暴なくらいに響き揃い飽和する靴音は一切の友愛を拒絶する。
【天環(ハイロウ)】が導く聖なる群れが動き出していた。
手には槍。
手には盾。
手には剣。
手には盃。
手には弓。
手には甕。
手には書。
手には筆。
そして、最後の一人は喇叭。
戦であるならば、その全てが必要であると彼らは知っていた。
白き衣は鎧ではない。
己を閉ざす服でもない。
それは【神骸布(マネット・パンノ)】と呼ばれる近年大陸に齎された秘匿されるべき【源型(アーキタイプ・モールド)】だ。
彼らの顔は見えない。
いや、無いと言った方がいいか。
無難に表現するならば、彼らは“見る者にとっての聖(ひじり)”そのものとして顕現している。
本来、一人一人が大陸有数の魔術師それ以上とも目される存在。
今は主を失い無貌であるはずの強き光。
それが彼らだ。
【天の軍勢】(ツェバオート)
そう誰かが彼らを呼んだ。
旧き時代の書にはこうある。
『最初、それは光であった』
『続いて輝きであった』
『満たされた者であった』
『しかし、天より降り来る者は人の形を取るに至った』
『全ては尊き唯一を教えんが為に』
人々は彼らを天使とも御使いとも呼ぶ。
彼らの最下位である者すら、その羽の一片で他の命一つに吊り合うとされる。
本来、億を越える総体であるはずの彼らだが、今はたった“九天”である。
だが、問題はない。
彼らにとっての個体とは手足が増えたか減ったかの違いでしかない。
彼らは常に一つであり、数が少なかろうと総体としての力は十全に振るえる。
故に彼らを格付けする事にそう意味は無い。
が、人の手足が一本一本違うように総体としての力が出せても、その器に出来る事は限界がある。
一本の腕で同時に二つの事が出来ないのと一緒と言えば適当だろう。
故に彼らは人という種を守る神々と同等以上の力を持ちながらも万能ではない。
それでも彼らにはもう遠方に全てが見えていた。
大陸に“敵”と呼んで差し支えないモノが存在していると分かっていた。
―――それは闇とすら呼べない何かだ。
大陸中央諸国の中心国。
アルヴィッツ。
七教会総本山。
つまり、大本部の置かれる一帯。
聖人か聖人に類する者しか入れない巨大な白き天蓋を備える巨大な孔。
大伽藍と呼ばれる螺旋回廊の奥。
【天門(ゲート)】がある。
不思議な話だが、その場所では重力が逆転している。
もしも入る者在らば、螺旋を降りるのではなく、昇る事となる。
だから、彼らは地上へと下っていた。
地の奥底から大陸という現世へ降臨しようとしていた。
彼らを常人が直視すれば、すぐさまに昇天するだろう。
彼らに常人が近付けば、すぐさまに蒸発するだろう。
彼らの物理的な重量はほぼ天体に匹敵する。
まるで何処かの魔王のように、その内へ常人にならば無限と言って構わない質量を秘めている。
決して安易に人間に干渉するべき存在ではない。
それは歴代の魔王達の討伐に直接彼らが出てきていない事からも明らかだ。
“魔王程度は人間に任せて良い”というのが彼らの指針である。
そんな彼らの進軍は遅々として徒歩だ。
遍く人を守るならば、彼らはまず自分達から人を守らねばならない。
不用意に力を行使すれば、天災に為りかねないのだ。
己が脅威と為らぬよう。
彼らは人を模して行動する。
―――?
不意に足音が止まった。
留められる者なんていないはずの存在が停止した。
彼らの前には黒い影があった。
揺ら揺らと揺蕩うものだ。
人のような朧だ。
暗さを秘めて阻むものだ。
彼らは疑問にも思わなかった。
だが、どうするかは判断が付きかねた。
何故か。
それが何かを知っていたからだ。
そして、どうしてそんなものがこの場に存在するのか理解出来なかったからだ。
それは悪意ではない。
それは不ではない。
それは闇ではない。
それは影ではない。
いや、影のように見えて実際には揺らぎという現象が織り成す宇宙を破滅に導くモノだ。
あらゆる“熱量”を償却して、拡散し続ける世界を悪戯に加速させるモノだ。
世界を輝かせる真正の神災。
彼らが仕えし唯一と同等以上である何か。
「 」
揺らぎが形を取る。
ひひひ。
そんな波長が彼らにも感じられた。
「ナーリヤ……お腹空いた……」
名乗った刹那、彼らは目の前に暗い揺らぎに形作られたエルフの少女を見た。
その貌の半分には金色(こんじき)の仮面が張り付いている。
華美でも豪奢でもなく。
まるでノッペリとした貌。
ひひひ。
仮面が声を出しているのか。
それとも揺らぎが笑っているのか。
どちらにしろ。
彼らは既に抗う力も無かった。
いつの間にか。
バックリと肉体の大半が欠けてしまっていたからだ。
「お腹……空いた……」
何に咀嚼されたのか。
まるで鼠に齧られるチーズのように彼らは欠けて消えていく。
彼らが持っていた物も全てが消え失せて後。
貌(かんばせ)の目尻が僅か下がった。
「お腹一杯……」
ひひひ。
そんな笑い方でエルフの少女が消え失せる。
後には何も残らない。
ただ、一つだけ確かなのは、極大の異常事態に七聖女すらも気付かず。
莫大な戦力の一角が密かに失われたという事だけだった。
*
どんな街にも特徴というものがある。
それは時に街並みであり、其処に生きる人々の気風であり、土着の信仰である。
多くの都市国家が乱立する藩落の中でも古都として一際有名な場所は三つ。
ブランバシェ。
アーズトリテ。
エーデリア。
これらの都市国家は藩落の同盟内においての序列で一位二位三位を誇る。
大きな湖畔の砦と肥沃な森林地帯を抱えるブランバシェ。
古より魔術具や工芸が発達し、大穀倉地帯を抱えるアーズトリテ。
小山に立つ巨大な城と赤い屋根瓦の街並みが美しいエーデリア。
そのどれもが近年大陸の【近代化(レボリュション)】の影響を一般的には制限してきた。
しかし、教会という蛇蝎(だかつ)の如く嫌われる存在とは正反対の存在が同じような技術を持ってやってくるとなれば、内心こそ複雑ではあるものの歓迎は当然の事だった。
エーデリアの王城へと向ってやってくる巨大な浮遊物体。
【貴皇(ペルソナ・ノーブリス)】
まだ、その双來での偉業も伝わっていない古都へとやってきたソレは民から畏怖と畏敬の念を持って見つめられた。
王城から街の屋根瓦を突き抜けるように発せられた演説は遍く人々に届き。
国父ニェハエルの血統が如何に偉大であるかと誰もが感心した。
その時点で彼らは“間違えていた”が、誰もその事には気付かなかった。
全ては皇帝でも血統の力でもなく。
一人の少女の血と代償の結果であるという事に。
―――本日、この地に招かれた事は余にとっても喜ばしい事である。
大帝国イグニシア・クルシス現皇帝であるというのを忘れてしまうくらいに少女の声は柔らかい。
続く声はまるで人々の一切の音を消す魔術なのだろうかというくらいに街を静まり返らせた。
街の至る場所で人々は顔を上げて空を見上げ、話すのを止めた。
語られるのは他愛ない事ばかりだったが、その他愛なさが雲上の人であるエトに親しみ易さを産んだ。
街の多くの検問や地下道に入っていた者達も等しく耳を澄ましている。
彼らの大半はたった一人の少女の確保に動いていたが、この時ばかりは足を止めて、たぶん歴史や都市国家の史実にも乗るだろう時間に浸っていた。
そんな者達を尻目に動き出した陰が幾つか。
小山の水源から運ばれてくる流水に身を潜め。
整備された水道を下っていた。
先頭に立つのは一人の少女。
セイリ・ティウアズライト・エルメトロ・ニェハエル。
エーデリア将軍の一人娘にして今や一人切りの高位血統だった。
『こちらから上へ。すぐ上の酒場横手に馬車を三台用意してあります。全員分の食料が二か月分詰まれていますから、それで此処から脱出を』
ほぼ一昼夜水道に隠れ、時に水底に潜ってやり過ごしてきた家の者達にセイリがそっと計画を説明する。
『エルメトロ様。何処へと逃れるおつもりで?』
四十代半ばまでの者達の代表として家令を勤め上げた壮年の髭面が訊く。
『双來です』
『双來!?』
どよめきが奔った。
彼らエーデリアの民からすれば、双來とは大辺境という噂以上に見下すような地域の人間。
血統も能力的が高くても高貴な者は少ないという認識だった。
荒くれが住まう野蛮な場所という見解はエーデリアの名家に仕えてきた彼らからしても当然のものだ。
『あちらに知り合いが出来ました。王族のシャルア・リクト・フェスに謁見を願い出て、これを渡してください』
彼女が今の今まで腰に結わえていた防水性の袋から一枚の手紙を取り出す。
『エルメトロ様!? 共に来るのではないのですか!?』
思わず聞いた家令にセイリは嘗てならばしなかっただろう悪戯っぽい笑みでそっと呟く。
『やる事が残っています。それを成せずして私はこの地から遠ざかれはしない』
『それは分かります! ですが、一人で議会を相手にするのは無謀にも―――』
それ以上を彼女は言わせなかった。
人差し指がそっと唇の前に出される。
『今回の件でよく分かりました。私は今まで何も知らず、何も聞かず、何も見てはいなかった。このお屋敷を出て旅をして、現実の厳しさに負け、多くの方に助けられて……ようやく私は此処にいる。一人では何も出来ず。一人では何も成せず。父上も死なせてしまった私が……』
『そんな!? エルメトロ様は何も悪くなど!!?』
『いえ、もし私がもっと早くに目を開いていれば、父上を助けられるくらいに仕事に携われていたら、結果は違っていたでしょう。エーデリア議会にしても父上が存命ならば、これだけの暴挙は出来なかったはず。そう考えれば、この状況の全ては私の不徳に致すところです』
『エルメトロ様……』
『己の不始末は己で付けます。ですが、その為には後顧の憂いは断たねばならない。ですから…』
『……分かりました。我々が貴女の重荷になっては何も上手くは運ばない。ですが、これだけはどうか覚えておいてください。この場にいる誰もが決して貴女や父君に味方して後悔はしておりません』
闇の中で交わされる言葉は全身を濡れさせているのに彼女の心には温かかった。
少しだけ鼻を啜って、溢れそうになるものを飲み下したセイリは頷いた。
『ありがとう』
使用人達の間から嗚咽が僅かに上がった。
『脱出の蔡にはこちらで騒ぎを起こします。騒ぎが起こったら迷わず馬車を東門に走らせてください。そこの担当の兵には偽の伝令で騒ぎが起きた場合には門を開けて迅速に追撃出来るようにせよと伝えました。馬車の内部には転移の符がそれぞれ一つずつ張ってありますから、実際に追撃された場合は即座に使ってください。あまり遠くへは跳べませんが、藩落南部の街道に出るよう設定しています』
『……分かりました。どうか、お元気で』
もう会う事もないかもしれない。
それをまざまざと感じた使用人達が一斉に頭を下げた。
それから少しして、梯子を昇っていく気配を見送り、彼女は再び水道の中へ身を躍らせた。
狙いは一つ。
エーデリア上層部に蔓延る怪しげな教えを信じた議会関係者。
その目を覚まさせる事。
最も【血統信仰(スティンマ)】の盛んな地域である藩落西部の上位三ヶ国。
その最高位に近い血統である将軍の家。
どうして実質的な国の権力者であり、血統の最高峰であるセイリの父が暗殺されたのか。
権力闘争と世間は見る向きもあるが実は違う。
確かにエーデリアの王家と将軍の間にはそれなりの柵や確執があったのは事実だが、それは貴重な血統を途絶えさせるかもしれない暴挙を犯してまでやる必要はない事だった。
本来的な血統信仰の教えに従うならば、新たな血筋を造る為に利用する方が遥かにいい。
セイリが知る限り、母が死んで後も父にはお見合いの話が引っ切り無しだった。
それを娘が大きくなるまではと頑なに拒んだからこそ、王家の顰蹙も買った。
なのに、どうして暗殺されたのか。
一応、藩落の何処かの仕業と言われていたが、実際には屋敷の警備は兵達が厳重に行っていた。
内通者でもいない限り、侵入は不可能。
ならば、そんな裏切り者がいたと考える方が自然だ。
その当時、エーデリアの政治を取り仕切る実質的な機関である議会において怪しい噂があるとセイリに父は話していた。
血統信仰とは異質な考えが蔓延り始めた議会内部で少しずつ父が孤立していった事は彼女も仕事から帰ってくる姿を見て感じていた。
果たしてエーデリア議会に巣食ったのはどんな考えだったのか。
彼女は具体的には知らなかったが、軟禁されて後、少しは探る機会もあった。
密かに使用人達と連絡を取り、情報を集めた彼女が行き当たったのは【異種教義(グノーシア・ドグマ)】という単語。
内容こそ分からなかったものの、それは藩落内部において爆発的な速度で広がる新しい血統思想であると言われている。
アーズトリテに嘗て存在していたとされるニェハエルに最も近い血筋。
【奇跡の一滴】
それを生み出したのもその思想に手を染めたクラウゼン公爵家であるらしいとの噂だった。
(この段に至っては議会内部の病巣を取り去るのは不可能。議会の健全化を図り、民を護る為の方策は……)
水流に逆らい静かに泳ぎながら、セイリは目張りされた馬車の内部で少年と話し合った事を思い出す。
新しい思想に染まった議会内部の人間を粛清する事にはあまり意味がない。
だが、このままではアーズトリテにエーデリアは戦わずに併合される。
これを引っくり返すにはまず情報が必要だと少年は言った。
最初に必要なのは誰がセイリの父を殺したのかという具体的な情報。
そして、その犯人と背後関係を明らかにし、証明する事。
これが出来て初めてエーデリアの惨状を救えると二人の意見は一致した。
(こちらの考えた通り、議会内部に手引きした者がいるとすれば……今もアーズトリテと繋がっている可能性は高い。当時の兵士達の背後関係は分かっている。現議会の副議長辺りから当たるべきですか……)
父が暗殺されて以降、軟禁されながらも情報を集め続けた彼女は当時警備に当たっていた兵士達の背後関係を既に洗い終えている。
兵士達の中に非番の兵士に代わって数人、議員の私兵のような男達が混じっていた事も知っている。
議員の中で最も黒に近いのは現議会の副議長。
父とは敵対する間柄であったと後に彼女は使用人達からの情報で聞いていた。
(とりあえず、まずは兵達の目を引き付ける必要がありますね)
最初に予定していた計画通り、彼女は王城に程近い水道の一角に出ていた。
魔術の光で何度か確認しながら進んでいた為、足取りに迷いはない。
石造りの通路に掛かる木製の梯子を昇って上の蓋をゆっくりと開く。
頭の上に蓋を乗せたまま視線を滑らせ、足が見えない事を確認して迅速に水道から脱出する。
セイリが出たのは王家や貴族達の葡萄酒を貯蔵する蔵元の傍。
巨大な倉庫は毎年付近で取れた葡萄を醸造し、王家や貴族、又は上流階級の人間達に供給している。
水の綺麗な王城近くで貴族達の家にも近い場所にある倉はエーデリアの宝とも言われていて、多くの貴人達や使用人が出入りする。
事を起こすには絶好の場所であるのは言うまでも無い。
非戦闘員で貴族に近しい者達が集る場所というのが衆目を引き付けるには打って付けだ。
(全てが終わったら謝りに来なければいけませんね)
セイリは行動を開始した。
周囲に気を配りながら、慎重な足取りで倉の位置を確認し、人がいる場所へと近付いていく。
一分も歩くと近くで声がした。
貴族に仕える使用人達がどうやら昼の一杯を片手にいつの間にか終わっていた皇帝の演説に付いて話しているらしい。
セイリも視界の端に王城の上空で対空する巨大な貴皇を目にしていたが、気を取られている暇が無かった事から無視していた。
しかし、現状そんな事が出来るのは彼女や彼女の使用人達くらいなのだろう。
誰もが空からやってきた皇帝の話で持ち切りだった。
『いや~~~それにしても立派な船だよなぁ。竜でもないのに空飛んで、あんな綺麗な声の方が乗っていらっしゃるってんだから、こりゃ一生もんの語り草だ』
『確かに。あれが国父様の血統の凄さって奴なんだろうなぁ』
『ウチにも将軍様の家が、おっと……ご法度だったな……』
『ああ、今じゃ議会はアーズトリテの奴隷みたいなもんさ。本当に惜しい方を亡くしたよ。あの方のお嬢様もアーズトリテに嫁がれるって話だ。クソが………』
『他の奴には言うなよ?』
『ああ、分かってる。それより、何か昨日から騒がしくないか? 街中兵士が巡回してるみたいなんだが』
『何でも女の子捜してるらしいぜ? 兵士達には人相が出回っててな。何でもこういう顔らしい』
『何処でそんなもん手に入れたんだ?』
『昨日、酒場で呑んだくれてた兵士とカードやっててな。巻き上げた』
『ほう……見目麗しい顔をしていなさるな。どこの家のお嬢様だろう?』
『大方、家出した大貴族のご令嬢でも探してるんじゃないかって話もあるが、ちょっとな……』
『ちょっと?』
『よく見ろ。眉の辺りが似てると思わないか?』
『似てるって。え、いや……まさか、だろ?』
『兵達の中にも似てるって言ってる連中がいるらしい。そりゃ、一年に一度は目にしてたんだ。自分達の司令官の顔を数年で忘れるわけないよなぁ』
『……このイグニシアの皇帝陛下が来てる時に探されてるって事か?』
『王城じゃ、護衛の兵士達がかなりの数いて殺気立ってる。もし、万が一にでも助けを求められたら議会も厄介な事になるって分かってるんだろう……という噂だ』
『噂ねぇ……』
今まで考えもしなかった案がセイリの脳裏に閃いた。
本当なら倉の酒樽を片っ端から破壊して騒ぎを起こそうとしていたのだ。
それよりも簡単に大事となる方法が見付かれば、後になって倉に謝りに来る必要もなくなる。
(視野を広く……父上の教えをすっかり忘れていたようです……)
無き父の教えを噛み締めて、彼女が魔力を込めて駆け出した。
話し込んでいた使用人達にも見える程度の速度で横切って、多くの者が立ち働く正面玄関へと突入し、驚きに目を見張る人々を横目に階段を駆け上がって、窓枠から屋根へと飛び移る。
幾つかの倉庫の中心。
その上に来るまで数十秒。
ざわめきを下にして彼女は基本的な魔術を起動する。
それは声を大きくする拡声器の役割をする類の術。
大群を率いる時。
魔術的な連絡手段を途絶されても、物理的に軍を動かす為の手段。
それが今は滞空する皇帝の城に対して使われていた。
―――イグニシア・クルシスの皇帝陛下に申し上げる!!!!!
大気を振るわせる声はエーデリア中に広がる。
大博打。
歴史に名を残す皇帝の演説すら前座か。
一人の少女の告発が始まる。
―――その耳にどうか届く事を願って。
―――此処に私は一人の人間として貴方へ訴えます。
エーデリアの史実が後に編纂される時、この演説をする貴人の姿が表紙には描かれる事となるが、それはまだ誰も知らない未来の話だった
*
時は僅かに遡る。
まだエーデリアの地が見えない頃。
双來での一件の後、幾つかの都市国家に一日ずつ逗留しながら移動していた【貴皇】の内部。
一人ずつ艦内に部屋を与えられていた伴の少女達は少年不在の旅に少なからず違和感を覚えていた。
孤独に眠るのが寂しいと感じたのは誰も同じ。
名目的に義理姉妹の長女的立場にあるイフィミスラの部屋へエフィリムもナーリャも知らない内に潜り込んで、寝台内部で待ち構えていた。
友人となってからの日課であるエトとの会話を切り上げてきたイフィミスラが寝惚け眼で寝間着に着替え、大きな天蓋付きの寝台へ入ると違和感が二つ。
「エフィリム。ナーリャ。我の寝台で一体何をしているのだ?」
「良い匂いする。ナーリャねむねむ」
「あ、あの……なんだかさびしくて……ごめんなさい……」
もう寝る気満々なナーリャが蓑虫のように持ち込んだ掛け布に包まり、エフィリムを抱き締めていた。
「そうだな。我も……少し寂しいと感じていた。今日は一緒に寝るか?」
「は、はい」
「zzzz」
「早過ぎではないか?」
ツッコミもそこそこに横になったイフィミスラが二人の方を向く。
「あの馬鹿者と顔を合せていないと調子が出ないな。我も……次に会ったら、簀巻きにして船の下に吊るして反省させようと思うのだが、どう思う?」
「だ、だめです?! てぃあにいさま、わらいながらほんとうにそうされそうですから!!」
「はは、そうだな。我もそう思う。きっと、そうしたら、夜までそのままになっていそうだ……」
クスクスと自分で言い出しておきながら、イフィミスラは思わず想像の中の少年に笑ってしまった。
「では、全員で抱き枕にしよう……」
まるで乙女の秘密でも話すようにこっそり言われて。
エフィリムがコクコクと頷く。
しばしの沈黙を挟んで、イフィミスラは誰に言うでもなく一人呟いた。
「もし、我が一人であったなら。今頃、不安でいてもたってもいられなくなっていたかもしれん」
「いふぃみすらねえさま?」
「不思議な縁、と言うべきなのか。あの馬鹿者が我を、我らを出会わせてくれた。もし、ティアがいなかったら……我は国の礎として愛せもしない男に嫁ぎ、交合(まぐわい)、孕み、子を産んで……母と同じようになっていただろう」
「それは……えふぃもおなじです。もし、にいさまがいなかったら、しらないおとこのひとにだかれて……めずらしい“おもちゃ”になっていたはずですから……」
イフィミスラもエフィリムも互いの言葉を事実だと感じた。
もしも、IF。
それは在り得ない話ではなく。
在り得た可能性そのもの。
そして、そこにいる自分は今よりも不幸であったはずだと何の躊躇も無く彼女達は言える。
それ程に彼女達が知る“世界”は残酷だ。
いや、残酷だった。
「ナーリャにしても出会っていなければ、金持ちの慰みものとして道具のまま……こう考えれば、つくづく我らはティアに救われているのだな」
「はい」
「今、我はこう思うのだ。この世界は何も変わらない。ただ、我らが変わっただけなのだと」
「わたしたちが?」
「この地獄のような世界に我らの運命はただの道具として終わっていた。政治の道具、性の道具、男の道具、それが我らの立場だった……だが、その因果は歪んだ。あの馬鹿者のおかげで……」
「いんがをゆがめしもの……」
魔王の別称の一つを呟いて、エフィリムがもぞもぞと身動ぎした。
「時折な……夢を見るのだ。この瞬きが終わったら、いつの間にか……元の王城の一室で目が覚める……そんな夢を……」
「もと、の?」
「ああ、我は魔王に捧げられず、ただの政治の道具のまま、見知らぬ愛せもしない男に抱かれて、壊れて……そんな夢だ……」
「ねえさま……」
「あの馬鹿者が傍にいる時は見なかった。夢だとは分かっている。だがな……」
きゅっとイフィミスラが身体を縮める。
「……こんなに繋がっていて、ちゃんと傍に感じるのに……怖いものなのだな」
「いふぃみすらねえさま……」
エフィリムがそっと、その胸元の手を握る。
「こんなに怖いものから、ティアは……我らを救ってくれていたのだな……」
「にぃさまはそれをたすけたともおもっていないかもしれません」
「ぁあ、そうかもしれない。きっと、あやつにとって、それは特別ではない。だが、我らにとっては宿世(さだめ)すらも変わる出来事だった」
「はい……」
「人の運命すら変えて、それでもあの馬鹿者は何も欲しがらない。報いられる気がない……我らがこんなに気を揉んでしまう程………」
「わかります。にぃさまは“かぜ”みたいなところがありますから」
「一体どれだけの時間苦しい思いをすれば、そんな考えに行き着くのだろうな」
「え?」
「誰からも疎まれ憎まれて、世界を敵に回さなければならない。だから、心から誰かに助けてとは言えない。いや、言わない。涙も流さず傷付く事も受け入れ……ただ、あの笑顔を浮かべるだけで……」
「そう、ですね」
ああ、とエフィリムは思う。
目の前の人は本当に自分の姉妹なのだと。
血が繋がっていなくとも、共に過ごした時が僅かでも。
きっと、少年を、兄と慕う人を、思う気持ちは同じなのだと。
少年の本当の笑みを知るからこそ、エフィリムはそう感じた。
「でも、てぃあにいさまはいっていました。じぶんはしあわせだったと、いまもしあわせなんだと……」
「ティアが?」
「はい。たくさんのひととであって、わらって、きずついて、たのしくて、くるしくて、かなしくて。でも、しあわせだった。だから、きっと……にぃさまは……」
「そうか。帰って来たら、今度は我にも聴かせてもらおう。その話を……」
イフィミスラの手がエフィリムの頭をそっと撫でる。
「ねぇさま。えふぃはおもいます。にぃさまはふこうをまげるまおうなんじゃないかって」
「不幸を曲げる、か。そうだな……我らが知る男は確かにそんな男だ……」
エフィリムが頷いた。
「いつか、己の悪夢を打ち払って、ただの馬鹿者に戻れるまで、我が、いや、我らが護ろう。ティアを」
それは宣言だった。
きっと、数十年前。
少年と旅をした誰かが思っていた。
少年を諦めてしまった誰かの切実なる願い。
永遠の宵に置き去られた本当の言葉。
「そうしたら、色惚けになるまで愛してもらわなければな?」
冗談交じりにそんな未来を所望する少女にエフィリムも釣られて笑みを零す。
「はい。ねぇさま」
「寝よう……」
「おやすみなさい」
「おやすみ。エフィリ―――」
「もう食べりゃれぇにゃむ……」
お約束の寝言をナーリャが呟き、思わず二人は苦笑した。
「「ふふ……」」
三姉妹を乗せて寝台は全員を忘我の果てへ旅立たせたる
小さな幸せと共に。
少年の幸せを願う気持ちのままに。
その夜、少女達は夢を見た。
それはとても騒がしくて楽しい夢。
敵も味方もなく。
少年と共に誰もが笑いに包まれた光景。
まだ、遠い遠い可能性(いつか)でしかない物語。
けれども、少女達の誰もそれが夢物語だとは思わなかった。
それが自分達次第なのだと分かっていたから。
いつだって、男の未来を救うのは女の役目と決まっている。
愛した男一人護れず何が女か。
それこそが魔王の伴となった少女達が辿り着いた、たった一つの冴えない結論だった。