第一章六節「伽藍」
凡そ常識では考えられない空が世界を覆っていた。
永い永い時の果て。
全てが滅んだ後。
もしも、世界を見やる者あらば、それを見るかもしれない。
生物の気配無く。
永遠に続く無明の空。
月明かりも星明りもない。
広漠の灰色。
厚い雲が垂れ込め、大地には原野が広がっている。
その中心で“彼女”は一人。
己の不徳を嘆き、近付いてくる者を待ち構えていた。
モノクロの世界で唯一色を持つのは彼女の両目のみ。
それは空の青でも海の青でもない。
世界に唯一その星の蒼を宿した瞳。
よく視線を合わせた己の主が綺麗な色だと褒めていた事を彼女は思い出す。
世辞ではなかった。
それが何よりも嬉しくて。
震えるくらい、頬を染めてしまうくらい、嬉しくて。
伴(とも)となれて良かったと、そう思えて。
彼女はいつも思うのだ。
己の主。
その悲しい程に笑顔を浮かべる少年を守りたいと。
「……」
彼女を中心とする世界、その中で、それは起る。
いや、起こされる。
突如としてやってくる衝撃。
大地を削り、空を薙ぎ、灰色の全てを抉る鈍色。
当然。
その一撃を受けた地点を中心に膨大な土砂が撒き上がり。
キノコ雲が膨れ上がる。
瞬時に舞い上がった土砂と埃が上昇していく間に大気中で擦り合わせられ、静電気を溜め込み、火山雷の如く稲光が世界を焼く。
激しく。
激しく。
何度も何度も嘶く。
竜の如く。
獣の如く。
荒れ狂う。
「随分と余裕の無い攻撃と見受けます」
爆心地。
未だ吹き荒れる激流の如き風の中、歩いてくるソレを見つめて彼女は無傷のまま、彼を見つめた。
「こうして相対するのは初めてですね。我が主の宿敵よ。あの大戦では人間として唯一こちらの篩(ふるい)を抜けた者だけの事はある」
『御託は要らない。此処で貴女を行動不能にさせて貰います。【蒼穹の騎士】』
錆びたような声。
神々しい鎧に身を包み、人間マロウ・ブレステンドが剣を片手に歩み続ける。
たった一歩が成される度に彼は加護を消費していた。
鎧の外側。
概念兵装。
それ自体は高度だが、使う者はそれなりにいる。
刃を逸らす加護。
歩みを鈍らせぬ加護。
射手を誤認させる加護。
相手の干渉を跳ね除ける加護。
他、無数の守り。
鎧の表層に多重構造で七万層近く形作られた概念の砦が一つずつ剥がれていく。
消費されていく。
未だ鎧の動きを補正する為以外に彼は加護を使っていないというのに。
近付くだけで、まだ戦いすら始まっていないのに。
「その力…聖女の魔導ですか。よくそれほどの呪いに等しい加護の自重で潰れないものです。如何な聖女の奇跡とはいえ、万能ではないというのに」
『この身は既にあの男へ近づきつつある。貴女といえど、私と戦えば唯では済まない」
「大陸最強と名高き剣の使い手よ。もし、貴方がただの剣士だったなら個人的には一度手合せしたいと思っていました。詮無き事ですが」
『魔王の従者……我が剣を受け絶つ技の冴え、ただ剣士としては称賛しましょう』
もう二人の間に語られる事はなかった。
互いの距離・間合いは後二歩あるかどうか。
話している間に彼女は刀を引き抜いていたし、彼は加護を削られていた。
礼儀として戦う前に相手の顔を望んだのは彼だったが、彼の流儀に合わせる事を良しとしたのは彼女で、どちらもが自分の優位を削りながらの会話だった。
しかし、それも終わり。
どちらもが優位。
どちらもが一撃必倒。
あんなやり取りをしたところで解り合えぬのは最初から二人とも知っていた。
だから、此処からが、その始めの一撃が最後となる。
努めて二人には世界を滅ぼしたい理由が無い。
彼と彼女は相反する立場に身を置きながらもその一点だけは合致していた。
故に雑な小競り合いも、技量の駆け引きも、世界に傷を残す戦いを二人はしないし、望まない。
『「!!!」』
同時。
別に呼吸を読み合わせたわけでもない彼らは機を同じ刹那に見た。
ほぼ同等の技量にある者の性(さが)か。
両者の構えはその性格を反映してはいるが、似る。
大上段に構えられた刀と下段から斬り上げようとする鉄剣。
どちらの得物も実用性以外を重視してはいない為、飾り気も無い。
刃の交わる刹那。
斬り下ろした刀は彼女の力を帯びて。
斬り上げた剣は彼の加護を全て消費して。
剣は純然たる技量のみで刀を絶ち折った。
同時に彼女の力はマロウの鎧も力も剣も傷付けず。
――――――ただ唯一のものを絶つ。
腕が飛び、返す刃が首筋を捉え、肌に食い込み、肉を裂き、骨を抉り、血を噴出させ、それでも半ばまでしか絶てなかった事にマロウは疑問を感じる暇も無く。
今にも死にそうな、一瞬後には絶命しているだろう彼女の唇が僅かに笑んだ。
「 」
彼女は剣に首を半ばまで落とされながらも、使命を全うし、勝敗は決した。
マロウ・ブレステンドは魔王の従者を斬り伏せて、その後。
自分が何者かの見当を失った。
唯一、事態を理解していた彼女は倒れ。
【突然】の激痛と灼熱に身を焦がされた男もまた倒れた。
それが二人の剣士と刀士、その勝負の行方。
これから幾らかの時間をまた稼ぐ事に成功した彼女の成果だった。
二人の物語が動き出すのはしばし後。
廃棄された鎧と血に塗れた爆心地に七教会の調査部隊が派遣される頃。
部隊は彼らの行方を捜索するも、結局、当事者を見つけるには至らなかった。
ただ、師団長のものと思われる唾液や屎尿、糞便を確認したという事実だけが七教会本部に極秘裏の内に報告された。
そうして今しばらく少年と少女達の平穏な旅は続く。
*
少年とイフィミスラが翌日も街に繰り出したのは様々な点でまったく致し方ない事だった。
ナーリャ・ナーシムと名乗った少女の服が無かったとか。
馬車で旅をするにしても物が不足していたとか。
そういう話である。
朝早くから開いた店で食糧や雑貨を仕入れ。
街の近くに止めた馬車へと運ぶ作業。
単純な肉体労働だったが、今まで王宮暮らしだったイフィミスラにしてみれば、両手に抱える荷物は恐ろしい重量の鈍器にも見えていた。
(ぅぅ…もう腕が、吊りそうになっておる…)
それでも文句の一つも言わずにいるのは少年に感謝しているから。
そして、少年の隣でベッタリと腕を組んで紙袋を片手に抱えるナーリャが何も言わずに微笑んでいるからだった。
「♪」
ダークエルフの少女が朝起きてからというもの。
イフィミスラは世話に追われた。
排泄の仕方から川での身の清め方から、男である少年がやるのは不適切だろうと自分から買って出た話ではあったのだが、それでも色々と生活に関する知識が抜けているらしいナーリャに何かを覚えさせるのは一苦労だった。
それはいい。
それは良しとしよう。
だが、何かとナーリャは色々と教えている傍から少年を見ていた。
そうティアをずっと見ていた。
その内に穴でも開きそうな勢いで。
(何故、あんなに見る、のだ。むぅ…)
その時からもやもやとしたものがイフィミスラの内心を支配した。
街に繰り出す時もそうだ。
外套一つで歩き始めたナーリャの手を引こうと横を向いた瞬間にはもうその姿は少年の横にいた。
楽しげに腕まで組んでいた。
少年はちょっと驚いたような顔になったけれども、すぐに優しい顔でエルフの少女の頭を撫でた。
「重くない?」
「重くない。ナーリャ。重くないよ?」
前日よりは物言いがしっかりしてきた少女は少年の問いに愛らしい笑顔で何度も何度も肯定する。
隠された耳が外套の中でひょこひょこと動いている。
(何故、我には訊かないのだ。むぅ…)
自分でも理解出来ないもやもや。
それに苛まれながらイフィミスラは少し少年の方へ歩きながら寄る。
「イフィミスラ?」
「な、何だ?」
ドキドキと今度はこちらに訊いてくれるのかと内心期待した少女が顔を上げる。
「中身が…」
「?」
「下」
自分が持っていた紙袋からコロコロと芋が転がっていくのを見つけて、少女は慌てて取りに行こうとして、ナーリャが飛び出した。
雑踏の中で回りも見ずに飛び出した為、当然の如く足にぶつかる。
「あ?」
芋を拾ったナーリャが上を向くと其処には傭兵崩れと思われる男が一人。
「!?」
その視線に脅えたのか。
サササッと機敏な動きでティアの背後へナーリャが戻っていく。
「おい。お前……昨日売られてた商品じゃねぇか?」
気付いた様子で男がティアの前にやってくる。
「おい。テメェ。昨日そのダークエルフを買ってたろ?」
少年は何も言わず男を見上げた。
無精髭。
帯剣。
二十代か。
胸を覆う鎧には幾つかの高名な工房の銘。
少なくとも金には困っていない様子だが、傭兵崩れと見えるのはその荒んだ雰囲気のせいか。
路地裏に屯する者にありがちな阿片の匂いを嗅ぎ取って、少年はそっとさりげなく横のイフィミスラを後ろにやった。
「ほぉう? 結構な上玉じゃねぇかよ。どうだ? その奴隷売らないか? 昨日は買おうかと思った瞬間に売れちまったからな。何、ただでとは言わねぇさ。お前が買った額に二割増しにしてやってもいい」
「いきなりですね?」
言葉使いを正した少年に男が詰め寄る。
「ああ、いきなりだな。だが、悪い話じゃあるまい? 高々が奴隷一人だ」
「一度手元に置いたものはあまり手放したくない主義なので」
少年の言葉に男が額をヒクつかせた。
「おい餓鬼。オレがお前にこんな事を言ってやってるのは優しさなんだぜ?」
「それで?」
「オイ? いいのか? お前みたいな餓鬼が大人を怒らせたらどうなるか。そのちんけな体に叩き込んでやろうか? あぁ!!」
「用がそれだけならこれで失礼します」
少年が踵を返して先に少女達を歩かせようとした時点で男の拳が少年の背後を捉えていた。
「ティア!?」
その光景を見たイフィミスラが慌てて少年に近付こうとして。
―――芋が宙を飛んだ。
ゴリッと芋ではない音がして、少年の背中に拳を叩き込んだ男がもんどりうって倒れる。
「がッッ!??」
男の鼻を折った芋の先。
ナーリャがその手に持った芋を更に投擲しようとし、少年の手に止められる。
「大丈夫だから」
「え…ぁ…」
反射的な行動だったのか。
ナーリャが自分の手の中の芋を見て、僅か驚いた様子になる。
「お、お゛まぇえッッッ!!? ど、奴隷の分際で人間様に何てことしてんだオラァアアア!!?」
ボタボタと鼻血を零しながら顔を歪めた男が起き上がり様に剣を引き抜いた。
人ごみがざわめいて、その場を遠ざかっていく。
「おいぃい!? テ、テメェ!! この落とし前どう付けてくれんだぁあああ!!!!?」
剣の切っ先を目の前の少年に向けて、男が恫喝する。
「人を奴隷扱いしたからじゃありませんか?」
振り返った少年の言葉に男の額に血管が浮き出る。
「ッッ!!? 人間だぁ!? そいつはダークエルフだ!!! 呪われた肌のエルフなんぞが人様を傷付けるなんて許されるわけねぇんだよぉおお!!!」
自分の言葉に激高して男が剣を振り上げた。
少年の背後からナーリャの芋が飛ぶものの。
さすがに二度目は無く斬り払われる。
「オイ!!? 責任取れやぁ!! 落とし前に腕一本で許してやらぁあ!!?」
完全に目が座った男の怒声に周辺の野次馬の輪が後ろに一段下がって、それでも少年は平静なまま。
「殺してみますか?」
軽く。
本当に軽く。
その自分に向けられている刃をひょいと取って自分の首筋に付けた。
「なッ?!」
男が驚きに固まり、虚仮にされたかと剣に力を入れようとして、剣の先にいる少年の瞳に気付く。
(な、んだ!? こいつッッ!!? 怖いとか思わねぇのかよ!!?)
少年の顔に恐怖は無い。
酷く平静な瞳。
その奥を覗き込んだ男が震えた。
深淵を湛えて、今にも呑み込まれそうな瞳。
「――――――」
ゾッとするくらい瞳に宿るものが、無い。
硝子玉を見ていると他人から言われた方が納得出来るかもしれない。
「人、殺した事ないですよね?」
「な、何言って!?」
声に震えが混ざった事を男は自覚しない。
「精々が商家のボンボン。高い鎧は親に買って貰って、剣は脅しの道具。一度も血が付いた事すらない。阿片が好きで路地裏からあまり出ていないでしょう? 肌が青白くなって黴の臭いがしてますよ」
「な、何、だと!!? 何を根拠にッッ!! こ、このままぶっ殺してやろうか!!? ああ」
「これから二分で衛兵が駆け付けてくる。その間に逃げられますか? 家の名前に傷が付けば、今度こそ家を追い出されるかもしれないのに?」
「な、お、お前オレの事を!?」
カタカタと鎧が小刻みに鳴る。
「不摂生にヤケ酒をして、心はボロボロで、奴隷でも買って憂さ晴らし、自分は悪くないのにどうして責められるのか、ただ女を軟派して一発犯(や)っただけなのに、これからどうやって生きていこうか、奴隷でも奴隷商から奪うか、強盗に見せかけるの手だな、手始めの軍資金に路地裏でこの餓鬼からエルフを奪って売り捌いてみるか?」
次々に語られていく己の近況、心の声。
それは恐怖であるよりもまず先に君が悪い。
近付きたくない何かが奏でる破滅の言葉。
「この餓鬼はどうしてこんな事が? まさか超常の力? それとも魔術師、いや、待て早く逃げろ逃げろ、何かヤバイ、オレはどうしてこんな危ない餓鬼に手を出した? 何が間違ってた?」
もう男には何を言うだけの意思も残っていなかった。
少年の声は小さく。
男には届くが徴収には届かない。
「な、なん、なんだよぉ!? おまえ!!?」
ブルブルと震えて刃先が喉元に食い込んで、僅かに流れ始める血。
それをズブズブと周囲に見えないように手で隠しつつ、刃を己に突き立てて進む少年が囁いた。
「きっと、殺すのは楽しいですよ? ほら、今から僕を殺して、貴方も……」
その後の言葉を男はその日から一生忘れられなくなった。
―――一緒に地獄へ行きませんか?
男の手からカランと呆気なく剣が落ちた。
ガクガクと震える足元に尿溜まりが出来ていく。
ホカホカと湯気を上げるソレに気付きもせず。
黒い外套で巧妙に傷を隠した少年が男を見上げた。
「どう、します?」
笑み。
一点の曇りも無い。
その無垢なまでの笑顔に男は嘗て教会で聞いた一説を思い出す。
ろくに聞いてもいなかった教会連中の話。
そう、それは魔族の話。
天使の姿で人々を誘惑し、堕落の園へと導き、永遠の怨嗟を人々から絞り出す為、罪を犯させる。
目の前に、いるのは、なん、だ?
一つの疑問は男の中にある言葉において無限回も脳裏に再生された。
「うっぁ……ぉ、お゛ぇ゛ぇえええええ!!!!?」
少年が男の吐瀉物を避けて二人の見守っていた少女の方へと歩いていく。
吐かれた胃の中身に足元に残っていた血が覆い隠され、同時にその煌きを隠す。
「行こっか?」
何でもない風に言って、唖然とする二人の少女を伴い少年はその場を後にした。
晩年、男は教会の司祭として述懐する事になる。
あの日出会ったのは果たして自分を神の道へと走らせた天使か。
それとも人間の屑を地獄へ導きに現れた魔族だったかと。
*
街を出たのは夕刻を過ぎた黄昏に雲が靡く時間帯。
夕闇が迫る中。
山々の稜線は橙色に染まっている。
カタコトと先程まで揺れていた馬車は既に止まっていた。
必要最低限の品を買った三人はまた野宿するべく用意に追われている。
と言っても用意しているのは主に少年の方だ。
二人の少女は水辺に辿り着いてから空が暮れる前に水浴びしてくるよう言われて、馬車から程近い川で互いの体を洗っていた。
黒と白。
灰と金。
対照的な二人の少女。
イフィミスラが主導する形で行われている洗いっこは既に水遊びと化している。
「いふぃみすら。気持ちいいよ♪」
未だ記憶の混乱が見られるナーリャはそれでも天真爛漫に笑い自分よりも年下のイフィミスラにすり寄っては何度も何度もくすぐっていた。
「こ、これ!? ナーリャ。だ、ダメだ!? ダメなのだ!! そ、そこは!?」
バシャバシャと水辺で燥ぐ少女達の声。
これでは汗を掻いてしまうとそろそろ水から上がろうとしたイフィミスラは不意に静かになった背後のナーリャを見て、言葉を失う。
今さっきまで元気に笑っていた少女の瞳が暮れていく空を見て。
滴を零していた。
水を弾く肌は粘液にも媚薬にも濡れていない。
ぽんやりしていた表情も色彩を少しずつ取り戻している。
それでもやはりナーリャ・ナーシムは奴隷で、記憶が曖昧で、人間に売られたダークエルフで、何より唯(ただ)一人だった。
(我は何も、この子の何もまだ、理解していないのだろうな)
美しい姿態。
水に煌く金の髪は黒の肌に張り付く。
僅かな膨らみが少女を女であると主張する。
ハラハラと落ちていく木々の枯葉が流れていく川の中で、少女は啼く。
「早く上がらねば、風邪を召すのだぞ。ナーリャ」
振り向いた顔にはもう涙は無かった。
「?」
自分が泣いていた事すら自覚せずにゴシゴシと目元の「水」を拭ってイフィミスラより大きな少女は慌てて自分の体を拭く布と服のある場所へと走っていく。
二人の少女が水浴びを終えて少年の待つ馬車の横に戻った時には夕飯である魚と木の実が茹でられた麦と共に木皿に盛られていた。
「お腹、空いた……」
ムシャムシャと傍らに置かれたスプーンを取ってナーリャが食事に夢中となる。
それを横目にして少年は楽しげなその風景を見つめた。
「なぁ、ティア」
「何?」
「この子の記憶はすぐには戻らぬのか?」
そんなに簡単に元に戻るなら、少年はきっとそうしている。
そうしていないのはそう出来ないから。
内心で何となく理解していてもイフィミスラは訊かずにはいられなかった。
「基本的に」
少年がそっと目を伏せて前の焚火を見つめる。
「この子みたいな娼婦や奴隷向けの人間を仕上げる工程は三つ。一つは余計な記憶を取り除く事。一つは身体を改造する事。一つは感情を制御する事」
「記憶を取り除く事など、その、奴隷商人如きに出来る技なのか?」
「出来るよ。精密な記憶操作じゃなくて、どっちかって言うと記憶の誘導と忘却に関してだけだけど」
「記憶の誘導と忘却?」
二人が話している間もナーリャは難しい言葉を聞き流しているのか。
まったく反応せずに食事に勤しんでいる。
「人間の心理を応用して、人工的に嫌な事を自分から忘れるように仕向けて、そこに薬を使って軽い催眠誘導を行ったりする。忘却は人間の防衛本能だから、本人が心から思い出したくない事は絶対に思い出せない強固な檻になる。そうして、同時に新しい反射や行動を植え付ける事も出来る。例えば、この子を入れてた蟲は内部の人型の女性体を快楽漬けにして男の悦ばせ方を学ばせる。嫌な事は忘れて、気持ちいい事だけを学ばせれば、基本的に大体の種族は娼婦に出来るって言うのが、奴隷商人の本音かな」
「そんな、人の意思を無視したやり方が……」
「それでも近頃はまだマシな方だって奴隷商人の誰もが言うよ。きっと」
「そんな事!!? ナーリャは記憶を、記憶の中にある家族や故郷すら奪われてッ!!」
「昔は直接魔術で心を崩壊させてからただの肉の塊として奴隷にしてる事も多かった。他にも頭の中に直接干渉する蟲や外科手術で取り付ける魔術具とか。身体の方もただ奴隷を痛め付けたい人間に出荷する時は内臓の一部を抜いて“消費期限”を定めてた者もいた」
口元を抑えて、吐き気を堪えたイフィミスラが泣きそうな顔になる。
「七教会が人権て言葉を作ってから随分と奴隷売買はその質が改善した。少なくとも昔を知ってる人間にしてみれば、まだ“救える”方だから……」
「ティア。お前はどうして……」
そんなに奴隷に詳しいのか。
そう訊こうとしたイフィミスラが口を告ぐんだ。
誰にだって語りたくない過去がある。
それはイフィミスラも同様で。
魔王と呼ばれる少年だってきっと同じはずだった。
「昔、僕がまだ小さかった頃、僕は奴隷として売られてたらしくて」
「え?」
「らしいって言っても村の人達が言ってただけで実際のところは分からないけど」
「お前も、奴隷だったのか?」
「そもそも最初は奴隷って言葉が何かすら僕は知らなかった」
少年が笑って昔話をする。
それは村に少年が売られた話。
小さな頃から奴隷として働かせられていた話。
「今はこんな肩書きになっちゃったけど」
その苦笑に込められた時間をイフィミスラは感じていた。
最期の魔王が現れたのは約七十年以上前。
それ以前にも魔王と呼ばれる存在はいた。
だが、魔王と認定された者が出てから今まで新たな魔王が生まれたという記録はない。
博学を修めた少女にしてみれば、魔王が奴隷だったという話は聞いた事もなければ、論文や本でも見たこともない荒唐無稽な話だった。
「我は、お前の事を何も、本当に何も知らないのだな」
済まなそうな顔をした少年に少女は頭を下げようとしたが、手で止められる。
「出会ってからまだちょっとの人間を全部理解出来たらその人はきっと神様か何かじゃない?」
「そう、だな。違いない……」
少女は少しだけ少年の事を知れた気がした。
魔王の残党と呼ばれ、実際には魔王だと名乗り、そして恐ろしいくらいに澄んだ瞳の優しい少年。
何も知らないイフィミスラを伴って旅をする。
そんな事を平然と言って、奴隷のダークエルフを放っておけない、そんな少年。
友達になって欲しいという言葉が。
初めて友達が出来た事が。
縁も所縁もない異種族を慈しむ瞳が。
少女の心に短期間の内に折り重なっていく。
その事実を少女は大切にしたいと思った。
目の前の少年が何であろうと少女が感じた少年は決して邪悪ではないから。
「お腹いっぱい……」
二人が同時に振り向く。
すると、満足そうな猫みたいな寛ぎ具合で。
ナーリャが馬車の荷台に入っていった。
「あ、そこは」
「ふぁ?! あ…ぁ…ぅ…ぅ…」
移動する時も少年は馬車の御者台に乗っていた。
その理由は馬車の荷台に未だ拭いた蟲の媚薬が残っているからだ。
少女の胎に詰まっていた大量の白濁液。
拭った布は捨てたものの、それでも前日の夜は荷台で誰も眠らなかった。
ほんの少しだが媚薬に触れていたイフィミスラは自分の体がもぞもぞとして、低血圧で機嫌の悪い朝ですら硬い御者台に文句も言わず乗ったのだ。
ナーリャの媚薬はまだ抜け切っていないのだと少年は言っていた。
それを聞いてイフィミスラもあまり荷台にナーリャを近付けてなかった。
それなのに当の本人である少女が乗っては唯では済まない
幌で覆われた馬車の中。
急激にぽんやりした顔になったナーリャが頬を赤くして顔を幌に隠した。
「ぁ…ぅ…んくぅ♡」
「大丈夫?」
少年が慌てて荷台へと入っていく。
「だ、大丈夫か!?」
心配になったイフィミスラも食べ掛けの食事を置いて内部へと上がり込む。
「ひぅん♡ ひぁッ?!! んくぅ!!?」
荷台で悶えるナーリャの声に少女は赤くなる。
「な、昨日より、何か声が激しくなっていないか? ティア」
「昨日はこの子の媚薬を大体抜いてあげて記憶とか感情を一定化してた刻印を取っただけだから。この子が媚薬や行為で壊れないように歯止めを掛けてたものを取り払えば、慣れてる媚薬なら少量でも十分な効き目になっちゃってると思う」
少年が発情し始めた身体を抱き起して、その額に手を当てた。
「気持ちいぃ♡ ごひゅりんしゃまぁ♡」
「ご主人様じゃないから。ごめん。注意が足りて無くて」
「おにゃまぇ……おひえてぇ♡」
「今日一日何だか言いたそうに寄ってきてたのって。名前、教えて欲しかったから?」
「ぅん」
「そっか……」
何だか微笑ましそうにティアがナーリャの頭を撫でる。
甘い鳴き声を出す少女は既に出来上がっていた。
「それじゃあ、昨日みたいに気持ち良い事、する?」
「ん…するぅ♡ いっぱいすりゅぅ♡」
「ティ、ティア!! あ、あれは昨日こ、この子を安心させる為の嘘では無かったのか!?」
「あ、えっと、あんまり女の子に説明するのもどうかと思ってたんだけど、媚薬って言っても薬だから、定期的に接種しないと禁断症状が出たりして危なくて…この子に使われてた蟲の薬は高ぶりを行為で発散させないと、その、ごめん」
ティアが何が言いたいのか理解してイフィミスラの顔が真っ赤に染まった。
「お、お前、こ、此処で、な、ナーリャと、そ、その、す、すす、スル気、なのか!!?」
クワッと鬼の形相になった恋する乙女に済まなそうな顔が返される。
「一応、達すればどういう方法でもいいから。この子の純潔を奪ったりは…でも、このままにしておくとこの子の体に負荷が掛かって良くないから」
「そ、そう、なのか。う、うむ。な、ならば、仕方ない。ナーリャが苦しむのはダメだ。我もそういうのは……望まない」
「幾らかこの子が満足したら下りるけど、長くなったら先に食べてていいから」
それに頷いてイフィミスラが荷台から降りようとするとナーリャの手がその袖を掴んだ。
「いふぃ…みしゅらぁ♡ 行っちゃ…やぁ…」
まるで幼子のように潤んだ瞳でイヤイヤとする少女にイフィミスラの顔が僅か引き攣る。
「だ、大丈夫だ! ティアがどうにかして」
「ゃぁ…おいて…かない…でぇ…」
「お前……」
その瞳がただ濡れているだけではないと知って、イフィミスラは一瞬の内に次の事を考えた。
寂しいのだろうかと。
怖いのだろうかと。
記憶や感情が戻ってきた少女はきっと傍にいてくれる安心できる人から離れたくないのだと。
「ティア。我も此処に、いる」
「イフィミスラ……」
「我もこの子から離れたくない、のだ。み、見ぬようにするから、だから、その……」
恥ずかしさを堪えて、瞳をしっかり見てくるイフィミスラに少年はダメだとは言えなかった。
「うん。それじゃ、この子の手を握ってあげてて」
「う、うむ。頼む」
そうして二人の少女は夜。
幌の付いた荷台の中。
少年との密事へと誘われてゆく。
「ナーリャ。僕はティア。ティアって呼んで」
「てぃあ…てぃあ…てぃあぁ♡ なーりゃのあかひゃんのあにゃ…しゃわってぇ♡」
蕩けた少女のおねだりを聞いて赤くなったイフィミスラは自分が今日大人の階段を少しだけ昇ってしまうのだと覚悟した。
それは甘い、甘い、魔王と少女達の初めて日の話。
それが、そっと細やかに始まる。