第二章三十二節「平和」
―――藩落西部都市国家アーズトリテ大通りより。
ついに同盟の執拗な外交によって成ったイグニシア・クルシス皇帝遊説という一大イベント。
これに藩落の多くの国家が沸いたのは致し方ない事だった。
血統というものに縛られ、縛り付ける者達にとっての皇帝とは国父と讃えられるニェハエルの最も素晴らしい部分を煮詰めて凝集したような存在に他ならない。
確かに打算的な思考で何とか自分達の血統を嫁がせようと多くの都市国家が謀略を張り巡らせてはいたが、それでも憧れに近い感情を覚えずには要られないというのが、血統主義者達(かれら)の本音だった。
久方ぶりに史実に現われた女帝。
女神に仕えた神官(けんぞく)の血筋。
それにニェハエルの血が入ったのは二百余年前。
まだ、南部の支配権を未だ争う相手がイグニシアにもちらほらといた頃の事だ。
前皇帝の祖父の代。
ニェハエルと同盟したイグニシア・クルシスは嘗てない繁栄へと突き進んだ。
それは嫁いだ娘の産んだ子達が凄まじい鬼才ばかりだったからだ。
故に藩落の民からすれば、ニェハエルの直接的な血統を今も保持し、上手くやっている国の代表格であるイグニシアは実質的な交流が少なくとも国父を祖に持つ親戚のような感覚を覚える。
つまり、藩落の多くの人々にとって皇帝エトは国父を投影するには丁度いい偶像(アイドル)だった。
遊説の航路を絞るとはいえ、それなりの数の都市国家を通過。
ほぼ一つの国に一日停泊しながらの道程は大いに民草を沸かせた。
物見遊山に航路上の国家へ集う者は多数。
更にイグニシアの旗艦である【貴皇(ペルソナ・ノーブリス)】を見に来る各国の間諜や軍事関係者も多数。
清濁入り乱れて混沌とした地表を尻眼に悠々と巨大な島の如き物体が移動するのは正に一大スペクタクルである。
巷では一攫千金だと商売人達が集り、屋台が並び、多くの食事処が目も回る忙しさとなっている。
皇帝様々。
皇帝万歳。
そう言っても一向に変な目で見られたりしない世界がそこにはいつの間にか現われたのだ。
故に一人の女はまったくもって“善し”と素晴らしき時間を満喫する。
ホクホク顔で皇帝談義に華を咲かせても叱られないし、変な目で見られないし、皇帝グッズを買い漁っても後ろ指を指されないし、皇帝風料理にいちゃもんを付けても通行人は“いや、貴方の智識には御見それしました”と支持してくれるどころか拍手まで!!?
笑いが止まらないヴァルガンノース元隊長だった。
「ちょっと、行くわよ!」
「あ、ああ、それではこれで」
「よう! ねーちゃん!! あんた本当に面白いお人だな!? 今度、来た時にはまた寄ってくれよ!!」
「ええ、必ず!!?」
「イ・ク・ワ・ヨ!!!」
耳を引っ張られながらも元隊長はにこやかに皇帝風料理がいまいちな“疾風の狐亭”を後にした。
夕暮れ時の食事処を出て大通りから小さな裏通りへ。
そこに来てようやく耳から手を離されたエーレインはいつもとは違う余裕の表情で反りの合わない旅の相棒エリザリドに笑みを浮かべた。
二人ともいつもとは違い少し上等な南部風の旅装束姿である。
「ふ……陛下の御威光が永遠であるとまた布教してしまった」
「あ、あんたは……」
頭痛でもしたようにエリザが片手で頭を抑える。
「分かってるんでしょうね? 何で一々私達が【貴皇】から降りて、こんな場所までやってきたのか」
「分かっているとも! 陛下の初めてを奪っ―――陛下ぁああああああああ!!!?」
台詞の途中で衝撃的な過去がフラッシュバックしたらしく。
エーレインが絶望的な感じに滂沱の涙を流しつつ、ガックリと項垂れる。
「あんたのどうでもいいトラウマなんて、本気でどうでもいいから、つーか、声大きいッ!!?」
ベチンとエリザの手が頭を抱えて蹲るエーレインを叩(はた)く。
すると、正気に返ったのか。
グスグスと鼻を鳴らしながらもエーレインが立ち上がった。
「く、思い出してしまったではないか!?」
「はぁ、どうしてウチの城にはまともな人が少ないんだろ」
エリザの愚痴も聞いていないのか。
ぼやいた相棒に目もくれず。
グッとエーレインが涙を堪えて平静を取り戻す。
「へ、陛下ご自身が決められた事だ。あのいつ思い出しても首をちょっと刎ねたくなる暴挙に関しては私も目を瞑ろう。とにかく、私達はティア様の様子の確認と救出に来た。それは分かっているとも!」
「なら、旅先で一々あんたの荷物を帝都送りにしてる暇があるわけないのは分かってるわよね?」
「陛下の御威光を確かめるのもまた陛下の側近である者の役目なれば」
「エトの顔が書かれた陶器だの壷だの怪しげな魔術具だの料理本だの買ってる人間が側近だなんて、ホント世の中って不思議だわ」
「ふん。いつも陛下の傍にいるから陛下の御威光を浴び過ぎて麻痺しているのだろう。私は普通だ」
「ふ~ん。イグニシアじゃ焚書か発禁になってる【皇帝娘々日記】(こうていにゃんにゃんにっき)とか買ってた人の言う事はまた一味違うわね?」
ビクゥゥゥッとエーレインが固まった。
「な、何を言うかと思えば、私はそ、そんな如何(いかが)わしい成人御用達の薄い本になんて興味はない!!?」
焚書された発禁本とは言われたものの内容までは言っていないエリザはジト目で『こいつ、いつかエトの事、真面目に襲っちゃいそうよね』と溜息を吐いた。
「もう何でもいいわよ。とりあえず、クラウゼン公爵家の私邸に向いましょ」
「あ、ああ」
少し挙動不審だったものの、かなりホッとした様子でエーレインが常の調子に戻って歩き出す。
主である皇帝の事を除けば、至って使える人間であるところの元隊長である。
そもそもが元王族や元豪族の二人は容姿こそまるで異なるものの通じ合うところは多い。
礼、智、仁、徳。
人の上に立つ者には欠かせないものを備え、尚且つ有能であるのは皇帝の側近として当然。
二人は言わば輝くコインの表裏のようなものだ。
そうでなければ帝都守護職を司ったり、皇帝の私室を掃除する大役を任せられたりはしない。
帝都の外と内。
どちらをエトが固めるのも二人がいなければ成り立たなかっただろう。
彼らの行いが一つ間違えば、国が狂う。
言い過ぎと言うなかれ。
帝都の治安を完璧に制御していた守護職時のエーレインは不穏分子や諸侯に付入る隙を与えなかったし、私室内部や身の回りの世話でエトに一度も文句を言われた事の無いエリザは国を滅ぼす武具や知ったら問答無用で処刑される機密を危うげなく扱って秘書めいた事をしていた。
誰が言わなくとも皇帝に最後まで付き従うのがこの二人であるという事に城の専業奴隷達やエトに近しい者達は異論が無い。
それどころか当然の話ですらあった。
好意や仁義というものを越え。
他者へ仕える忠誠心というものは中々芽生えない。
それこそがエトの最大の資産である事は彼女に仕える誰もが分かっていた。
もしも、主が真にそう望むなら。
主の為に“何事だろうとやってのける”のがエーレインとエリザリドだ。
それは良心や感情を越えるに足る。
赤子を殺せと言われれば、最後まで苦悩しながらもやがて殺すだろう。
親族を殺せと言われれば、嘆きに囚われながらも決して止めないだろう。
皇帝を殺せと言われれば、どれだけ血の涙を流しても、最後には願いを聞き届けるだろう。
いつもの様子で漫才がてら歩いていても本質は変わらない。
玉響(たまゆら)の人の生に絶対は無いとしても、限りなく近いものを持つ者達。
それがエトと共に覇道を歩む事を覚悟した両者にとっての別(わか)てない共通項なのだ。
「今頃、あっちで【瑠織(るおり)】とか買ってるんだろうなぁ。はぁ、私も本場見てみたかったなぁ」
エリザが狭い路地裏をトコトコと歩きつつ、愚痴った。
「織物には詳しくないが、あそこの服飾技術はウチの官職衣装の基礎でもある。陛下はそこらの技術者を幾らか引き抜くつもりかもしれない」
「そうなの?」
「辺境に来る理由は幾つかあるが、陛下は基本的にご自分の足で物を探すのが上手い方であるからして。その程度の事は考えていらっしゃるはずだ」
「ふ~ん」
「本来ならば、藩落の情勢からいって、こちらのアーズトリテに来るのが本筋だろう。なのに、わざわざ半分統合され掛けているエーデリアに向う理由は何か? あそこには陛下の求める物がある。そういう事だ」
「こっちは魔術とか結構発達してるって聞くけど?」
「考えが浅いな」
「な、何よ!?」
エリザがムッとする。
「魔術や魔導なんてウチの開発機関が大陸で最高峰に決まっているだろう? ここらは確かに地質学的にも優秀な魔術師が生まれ易いそうだが、イグニシア・クルシスの魔術開発は大陸国家数千の中でも十本の指に入る長い伝統がある。考えられる限りの方法で集約と淘汰、精練を繰り返してきた魔術血統とその技は七教会の魔導が蔓延る前までなら、国力も合せて大陸でほぼ三位以内。血統“だけ”に拘ってきた藩落の者達とは自力が違い過ぎる」
「ふ、ふん。言ってみただけよ! そりゃ、エトが使ってる魔術とか方陣とか古代語の術式とか凄いのは分かってるけど、こういうところからまた技術でも吸い上げないのかって思っただけ!」
「そもそも陛下は驚くくらいの平和主義者であって、そんな軍拡には興味がないお方だ」
「あ、あんたねぇ」
開いた口が塞がらないとはこの事だとエリザが溜息を吐く。
「あの【双來(そうらい)】での所業は見たでしょ? あれ殆ど戦争じゃない。というか、【貴皇】があんなヤバイ武装とか主砲とか積んでるって知らなかったわよ私!?」
「何故、陛下の侍従がそんな事を知る必要がある?」
「うぐ!?」
言われてみれば、その通り。
文官ですらない部屋の掃除係や給仕係が軍事情報を握っている方がおかしい。
「言っておくが、陛下は現在の【貴皇】に大きく制限を加えた状態で運用しておられる」
「へ?」
思わずエリザがポカンとした。
「主砲や武装の大半は既存の魔術系統の応用でどうにかなる代物。艦の動力源である炉も七教会からの技術指導の末に造られただけの代物に過ぎない。少なくとも陛下は一度も“七教会に危険視される力”は使っておられないし、これからも機会がない限り使おうとはなさらないだろう」
「ちょ、ちょっと待って!? つ、つまり、あんな惨状を生み出せる兵器以上のものがあるって言うの?」
エーレインが当然だろうという目でエリザを見る。
「ウ、ウチの国どうなってんのよ?!」
思わず唸った相棒にエーレインがフゥと溜息を吐く。
「知らない方が幸せな事もある。少なくとも陛下は七教会との全面戦争を行えるくらいの備えはしておられるし、それを不用意に運用するような軍国主義者でもない」
「そりゃ、確かにエトは王族とか貴族とかとは違って凄い優しいけど……」
「イグニシアの総力を持ってすれば、七聖女の何人かを道連れにするくらいは出来る。単にそうしないのは陛下が平和的に物事を解決しようと努力なさっているからだ。七教会は七聖女の私物と同義だが、それ以外の人間を常識的範囲で躊躇わせられるからこそ、イグニシアは【近代化(レボリュション)】の影響を抑えて二年であそこまで独自の発展を遂げられた」
「躊躇わせるってどういう事?」
「殆どイグニシアで七教会の勢力図が変わらないのは陛下の熱心な経済政策と穏健な軍事政策によるところが大きい。だが、七教会にとって陛下が本当に厄介なのは”平和”を武器にしているからに他ならない」
「平和? あんな兵器作っといて?」
「七教会が今まで滅ぼし……いや、介入して潰れた国々の内実を知っているか?」
エリザが首を横に振る。
「簡単に言えば、それらの国は暴力と階層社会の二つで統治を行っていた。何処の国でもそうだ。有史以来、それが最も優れた統治方法であるとされてきて、それを誰も疑わず、お手本としてきた。本来、七教会が行っているような【近代化】にしても、人々は最初統治者が代わるだけの話、あるいは技術の向上で生活が上向いただけ、と捉えていた。だが、この世の誰もが疑わない真理を七教会は全て覆した」
「それは何となく分かるわ」
エリザは知っている。
エトの目が届く帝都ですらも七教会に同調する民がそれなりにいる。
七教会そのものを嫌っている貴族や豪商連中にも親教会派や思想に共感する者は多い。
「国家とは統制された暴力であると言った偉人がいたが、それはまったく正しい。間違っていない。しかし」
「七教会はそれを変えた?」
その言葉にエーレインが大きく頷く。
「七教会はその圧倒的な戦力と七聖女という象徴、【近代化】という生活や公衆道徳の向上を盾にして、今まで大陸を支配してきた全ての常識をゴリ押しで変えてきた。大陸中央諸国の人間と話す機会があれば分かるが、年老いた世代はともかく四十代くらいから下の世代は誰もが本気で“大陸は平和になった”と信じている」
「――――――」
エリザが思わず沈黙した。
エーレインの言っている事が文字通りの事ではないのだと解ったからだ。
「我らは少なくとも知っている。国が戦で滅びた悲哀を。砕け散る際のやり場の無い憎しみを。お前が武帝の民をどうか助けて欲しいと陛下に懇願したように。嘗ての自分もそうした。我らはイグニシアがいつかこの報われぬ世界を変えてくれると信じた。陛下を、イグニシア・クルシス皇帝を信じた。だが、どうだ? もしも、この世界の私達以外の誰もが“大陸はもう平和なはずだろう”なんて言い出したら?」
「……常識が違うって事?」
「七教会の真の武器は“平和”を基盤とした常識の刷新にある。このどんな難問よりも難しい事を七教会は一部とはいえ、やってのけた。平和を追う者は必ず過程で使われた己の暴力によって平和から遠ざかる。だが、七教会は“既に平和である自分達を暴力が変えようとしている”という図を人々に信じ込ませた」
「そ、そんなの詐欺じゃない!?」
「そうだ。順序があべこべにも程がある。平和を追う為の暴力という逃れられない図を七教会は平和を脅かす暴力を追放する力という図に上書きしただけだ。本質は何も変わっていない」
「そっか。エトは……」
「そうだ。陛下は七教会のこの欺瞞手法を逆手に取った。七教会は世界最強の暴力を保有しながら、自らの支配する地域では己を“暴力を退ける必要悪”だと人々に誤認させた。ならば、自分も同じ事をすればいいと」
「帝都の改革は七教会の真似なのね……」
然り。
エーレインが頷く。
「陛下がもしも百年以上前に生まれていれば、帝国は今より尚広くなっていただろう。きっと、その時の陛下は暴力という暴力を使って平和を実現し、それが恒常的である仕組みを作ったはずだ。だが、今は七教会がそれを平和という武器で実現しつつある。だから、陛下は同じ場所に立ち、同じ武器で争う事とした」
「平和が暴力にとって変わる世界……」
ようやくエリザが回答に辿り着く。
「暴力と平和ならば、人々は平和を取るだろう。しかし、平和と平和ならば、人々を導くのは単に中身の問題になる」
「エトは自分が作る平和で七教会が作る平和に対抗しようとしてるのね」
「七教会の平和は“過去の遺物を全て刷新した新しい平和”だ。陛下の平和は“過去を全て受け止めて尚進む平和”だ。これならば、切り捨てられる運命である大陸で圧倒的多数だろう“我々が知る常識”を持つ人間側の方が優位だ」
改めてエリザは己の婚約者の凄まじさを思い知った気がした。
「七教会は一点の曇りも無き正義。やつらの勧める民主主義とやらは人々の総意を映す鏡。なら、イグニシアが生む平和は七教会の切り捨てるものを取り込んで、より多くの者に支持される曇り有る正義となるだろう」
嘗て、これほど互いに語った事はあっただろうかと。
エリザはエーレインを見つめる。
ずっと、何処か似通った境遇の相手だと思ってきた。
それはとても正しく。
しかし、間違ってもいた。
「あんたって……いっつも陛下陛下言ってるだけの陛下馬鹿じゃなかったのね。エーレイン」
「な!? 陛下に馬鹿を付けるとは何事だ!? 例え、私の事だろうと不敬だろう!!?」
こんな時までエトの事かとエリザは思わず笑ってしまった。
「あんたと私。立場が逆だったら良かったのかもね」
「ふん。私が陛下の婚約者だったら、とっくの昔に子供を授かっている!」
「うわ~~女でも関係なく作る気満々なのね。今度エトに言っておくわ」
「はッ!? 嵌められた!!?」
「まぁ……まずは第一子を儲けるかもしれない人の救出が先よね」
「く、これが終わったら覚えていろ。救出するかどうかは本人に聞いてからだ。陛下はティア様の意思を尊重するようにと言っていたのだから」
「解ってるわよ。じゃ、さっそくやりましょ」
すっかり、夜も更けてきた世界には灯りがポツリポツリ。
一体、どれだけの敷地面積があるのか。
国父ニェハエルが葬られたとされる教会を内部に持つクラウゼン公爵家の私邸。
それが遥か彼方に見えてくる。
敷地を囲う柵の果ては左右に見えない。
人の姿も無いのは単に警備がいないのではなく魔術や魔導による監視が行き届いているからだろう。
「エトが寂しくて死んじゃう前に帰らないとね」
「だから、不敬だとあれほど!!?」
漫才は続く。
侵入者を迎え撃つ数多くの障害をまだこの時、二人は知らない。
*
貴皇が出港して数日。
シャルア・リクト・フェスは目の回るような外交交渉を一手に引き受け、双來の地盤を着々と固める下準備に奔走していた。
最初こそ、皇帝のやらかした“贈り物”に度肝を抜かれていたものの。
呆け続けているわけにも行かず。
現実的な観点から見れば、国の一大改革に乗り出す時期だと気を取り直したのは当たり前の話だろう。
イグニシア側と完全に繋がった数十キロに及ぶ隧道(トンネル)や国を囲うように出来た巨大な堀。
更に不毛地帯が丸ごと農地になったのだから、新しい国土の活用方法を考えねばならない。
ようやく藩落中の国々にもその変貌が伝わり始めた中、イグニシアへの“感謝”(追従ではない)の念を祝した式典だの行事だのを設け、諸国に大々的な宣伝を打つ案まで作ってようやく一段落。
それが終わってもイグニシアとの隧道使用規約の策定や条約の詰めが後には控えている。
藩落中の国々と戦をする考えを実行に移すなら、出稼ぎの民を呼び戻さねばならないし、流入してきている武帝や奴隷達の帰化問題も解決せねばならない。
各種の分野で人材確保案を出したり、労働力の運用、仕事の創設をイグニシア側と打ち合わせたり。
睡眠時間は一時間でも多過ぎると各種の分野を司る王族達も総出で不眠不休の仕事に忙殺されていた。
「いやぁ。参った参った。こんなに仕事があるなんて昔の戦以来かなぁ」
威厳もへったくれもないノンビリした様子で双來の王が机の上の書類に目を通し、サインしていた。
今や城の中枢となった決裁の間。
調度品も殆ど置かれない実務だけをこなす殺風景な部屋での事である。
「早くして。それ終わったら、一時間寝られるんだから……」
今にも寝落ちしそうな程にフラフラしながらも手を休める事なく書類を書いているシャルアは今や外交官として王の決裁を待つ身の上。
一時間でも早く寝て一時間でも早く起きて一時間でも早く仕事をしなければならない、という強迫観念に駆られた顔は凶悪な隈も相まって子供が見たら泣きそうなものとなっている。
「分かってるんだけど、かれこれ三十四時間くらい腕を動かしてる気がするんだ。あはは、せめて五分くらい眠らせてくれないかな?」
「後、二時間三十五分間決裁を続ければ、四時間半の時間が出来る。そうしたら好きにすればいいわ」
七十代の父親の痛切な悲鳴を却下して。
どちらが王か分かりはしない様子でシャルアは灰になりそうな意識を意志力だけで立て直す。
「そういえば、まだ言っていなかった……シャルア、ありがとう。我が国を救ってくれて……」
「え?」
不意の言葉だった。
皇帝が去った日から一日も休まず全力全開で事に当たってきたシャルアにとって、父親のそんな言葉は予想外に過ぎた。
沢山のものが変わってしまった。
これから国が辿る運命を考えれば、悲観したって責められたっておかしくない。
なのに、感謝とは聊か彼女にとって致命的だ。
「……計画は話したはず、です」
思わず王に対する言葉遣いになって、それでも娘に父親として王は応える。
「困難な道だ。しかし、確かにそれしかないと思わせるに足る案だ。僕の娘がこんなにも優秀である事を、歴史すらも動かした事実を、僕はいつか帰天しても忘れないだろう」
王の言葉。
死んでも忘れないとは最大限の賛辞。
「――――――知らないわよ」
あまりの事に言葉を失い掛けて、口から出る言葉は捻くれて、罪悪感がシャルアを満たしていく。
「昔、メルアが君を産んだ時、僕は父親として君に何をしてやれるのか分からなかった。そして、メルアが死んで後、君に僕が掛けられる言葉はもう無いのだと思っていた……」
「止めてよ!? 母さんの事を何今更!!?」
二人とも書類を書く手は止めない。
それが親子か。
どんな事をしていても投げ出せないという性質(たち)は二人同じ。
「メルアの死んだ年。我が国の冬の予算の五分の一を使えば、薬は手に入った。僕は……民を餓死させたくなくて、国庫には手を付けなかった」
「!!?」
知っていた。
いや、彼女がいつだったか母が死んで後調べた事を、父として双來の王は語る。
「僕は君に謝る事が出来ない。僕は“正しい選択をした”。それだけはメルアに誇れるからだ……」
シャルアの書く文字が僅かに筆圧を強くする。
「でも、僕は父親として、メルアをこの国に匿った張本人として、一つだけ……君に言わなきゃならない事がある」
「何で……何で今更そんな……」
顔を伏せて、娘は父の言葉に泣きそうになった。
「僕はメルアを愛していた。今も愛している」
「何がアイシテルよ。今更よ……そんなの……今更過ぎる!!?」
「今も君にとって僕は酷い男だろう。嘗て君の母親を、メルアを、その血筋の為に僕は受け入れた。それはこの双來最後の切り札として、滅びゆく国の王としての足掻きだった」
「知ってる。知ってるに決まってるじゃない!!」
「でも、ね。君の母親はメルアはそんな愚かな僕を愛してくれた。この国を、この双來という世界を、それが君を産むと決めた彼女と話した時に分かったんだ。彼女は自分の血筋を残すわけにはいかないといつも言っていた。僕との関係を持って以降も必ず降ろすとね。でも、君が自分の中にいると知って……僕にそれを打ち明けた時、彼女は涙を浮かべてこう言ったんだ」
「……何て?」
叫びはもはやない。
初めて聞く父と母の物語に娘はただそう返す。
「自分は自分の母や姉妹や父みたいにはなりたくないと思っていた。血統なんて下らない、そんなのはただの幻想に過ぎない。でも、今この子を降ろしたら、自分は大嫌いだった家族にすら劣る何かになってしまう気がする。こんなにも綺麗な空を、こんなにも美しい景色を、こんなにも温かい人達を……見せて上げられないなら、自分はこの世に生まれてきた価値すらないんじゃないか、ってね」
まるで懐かしむように。
泣いているかの如く。
瞳を閉じ、皺枯れた男が呟く。
「母さんはそんな事を……」
「僕は悔いたよ。ずっと戦い続けていて、気付きもしなかったんだ。この国が美しいなんて、本当に当たり前の事に。この国の人達がきっと今日も不幸に耐えて生きているに違いないと思い込んでいた。でも、それは一面の真実でしなくて、見方は他に幾つもある。メルアはそれを僕に教えてくれたんだ」
「それで……それで貴方は……何て返したの?」
僅かな沈黙があった。
「……謝ったよ。君を愛していなかった僕を赦してくれって」
照れた様子で王は笑う。
「そうしたら、メルアは言ったよ。そんなの分かってるって。何故なんて野暮な事は聞かないでくれって。愛しい男の心一つ分からないで妻になる女はいないって」
「あはは。母さんらしいわ……」
「あの時は堪えたなぁ。僕は最初から見抜かれていたんだ。それでも彼女は僕を愛してくれていた。恥しかったよ。心の底から……それ以来、僕は自分に正直に生きる事にした。もう愛しい誰かを泣かせたくないと心から思ったから……」
「手、止まってるわよ」
「あ、おっと、いけない」
再び羽根ペンを紙面に奔らせ始める王がそれ以上を言う前に。
少女はそっと呟く。
「私は貴方を赦さない。でも、一つだけ、一つだけは認めてあげるわ。母さんは父さんを愛していた。それだけはね……」
「ああ、ぁあ、それで十分だ」
眠気に襲われながらも書類地獄の最中でも同じように羽根ペンを奔らせ続ける姿は本当に不器用ながらも親子に見えた。
分かり合えなくても、赦し合えなくても、傍にいる。
それだけが絆であるかのように書類は書き上がり、詰み上がっていく。
「姫様ぁあああああああああああああああああ!!!?」
ガタンと扉が大慌てで開かれる。
「何よクーバ!!? ビックリしてサイン間違うところだったじゃない!!?」
ぜぇぜぇ。
そう息を切らしながら駆け込んできたのはシャルアの護衛騎士クーバだった。
「ひ、姫様!! お話があります!!」
「何なのよ。戦争でも始まった? それとも七教会が攻めてきた? あるいはイグニシアのご機嫌でも損ねたの?」
「違います!! 是非、再編している軍に取り立てて欲しい者がいまして!!?」
「はぁ!?」
思わず、そんな事で来たのかと立ち上がろうとした時、クーバの後ろに人がいるのに気付いて、シャルアが余所行きの顔を作った。
「で、そのあんたのお眼鏡に適ったのは何処のどいつなのよ?」
「城下で軍への勧誘がてら剣の大会を開いているのはご存知ですよね?」
「ああ、あんたが進言してサクッと認可したやつ?」
「はい。その大会で優勝されたのが、この方です!!」
クーバが満面の笑みで後ろの人物をシャルアの前に連れてくる。
「……何かナヨナヨしてる」
「失礼ですよ! 姫様。この方、何と私に勝ったのです!!」
「いや、そりゃそれくらい出来ない人間とか要らないし」
「いえいえ、それどころか大会で全勝したのです!!」
「へぇ。それなら結構期待出来そうね」
「すいませんが、その……賞金を貰えると聞いて来たのですが……」
何処か困った顔で金髪の青年がシャルアに話し掛ける。
「賞金? ねぇ、クーバ。賞金なんて掛かってたっけ? あの大会。書類じゃ、全然そんな事触れてなかった気がするんだけど」
「姫様は知らないかもしれませんが、今日日武芸が出来る兵は減っているのです。剣よりも銃。魔術師だって打ち倒せちゃうとか考える馬鹿者が増えていますし、実際剣で銃弾をいなすのは骨ですから」
「そりゃ、まぁ、分からなくも無いけど。って、何か話を逸らそうとしてない?」
「は、はは、何を仰いますやら。とにかくクーバはこの方の剣に感動しました。付きましては高待遇で軍に迎え入れるべきと進言します」
「いえ、あの、旅の途中で……出来れば賞金を……」
男の言葉にシャルアが目を細めてクーバを見る。
「ねぇ、クーバ」
「は、はい。何でしょうか? 姫様」
「勝手に賞金掛けた?」
「……世の中、人を集めるのにはお金がいるんですよ。姫様」
何やら真摯な瞳でそんな事を言い出すクーバにシャルアが半眼となった。
「掛けたのね。どれくらい?」
はぁ、と溜息を吐いたシャルアが仕方ない幾らかポケットマネーでどうにかしようと金額を尋ねる。
「これ、くらい……なのですが」
指が四本立てられる。
「銀貨四枚くらい?」
「いえ、その……」
「四十枚?」
「何と言いますか……」
「四百枚とか、あ、分かった。金貨? ちょっと額が多過ぎるわよ。金貨四枚とか。後で給料から―――」
「姫様!!?」
ヒシッとクーバがシャルアに縋り付いた。
「大会に協賛してくれると言った商人がドロンと消えたのです!! 煙みたいに消えたのです!!? 本当にたったそれだけの手違いだったんですぅぅううううう!!!?」
滂沱の涙を流し始めるクーバの様子に嫌な予感がして、シャルアはそっとまた額を訊いた。
「金貨、何枚?」
「よ、四百枚、です」
「ヨ――――――」
絶句するシャルアに青年がポリポリと頬を掻く。
「もし、無理なようなら宿と馬車を用立ててくだされば、十分なんですが」
「ちょっと、待ってて下さらない? 旅のお方。これ信用問題になるから、少し席を外させてもらうわ」
シャルアが泣きながら謝るクーバをズルズルと連れて廊下に出た。
扉を閉まった次の瞬間。
ドンガラガッシャーン、パリンパリン、ズゴゴゴゴゴゴ、ドッカンドッカン。
何やら尋常ではない音が城中に木霊し始める。
「……」
しばらく黙って待っていた青年がふと顔を上げると七十代の男が自分を見つめているのに出くわした。
「な、何か?」
「いや、僕の勘違いならいいんだが、名前を聞かせてもらえるかな?」
「名前、ですか?」
「はは、ウチに仕えるかもしれないんだろう?」
青年はその気が無かったが、国のお偉方の不興を買う行為は控えたいと一応の偽名を名乗る事にした。
そもそもが記憶喪失。
それを今までカバーしてくれた少女はもう傍らに無い。
三人の伴を護り、食べさせていかなければならない身にとって、過去の自分に繋がる情報は場合によっては危険。
元々傭兵崩れの事をしていたと聞かされていたのも大きい。
青年は自分の過去が追いかけてきても少女達を守らなければならないとの思いに駆られていた。
「【マウロ・フレステント】です」
「マウロ……そうか。いや、僕も歳を取ったかな。昔見た英雄に君が似ていたものだから」
「英雄に、ですか?」
「ああ、これでも傭兵家業をしていたから。色々な英傑を見てきた。国を導く者。国を護る者。魔を滅する者。魔と和する者。そして、全てを背負う者」
「全てを背負う?」
「君に似ていた英雄はもう四十年も前に見ただけだから、記憶も少しぼやけているが、決して忘れられる類の人間ではなかった」
「それはどういった?」
青年はまったく自分とは別人だろうと全くの“思い違い”をして聞く。
「一言で言えば、人に背負い切れないモノを背負い、人が耐え切れない事を耐える。そんな英雄だ」
「背負い切れない?」
「人間でありながら、人間を越えて尚人間であろうとする意志。僕が見た彼は……そうだな……一言で言えば、馬鹿な人間だった」
「馬鹿、ですか?」
「愚かでも阿呆でも間抜けでも狂っているでもなく。馬鹿で間違いない」
双來の王は過去の記憶に目を閉じる。
「だからこそ、なんだろう。彼は世界そのものと戦っていた。彼が倒すべきはまず己の後ろにいる者が取り憑かれている妄念ではないかと僕は思ったよ」
「後ろにいる者とは?」
「平和にしたい。誰もに幸せを。けど、それは誰にとっても“余計なお世話”だって話さ」
王は大陸を回り傭兵稼業で稼いでいた懐かしい記憶に微笑む。
「……」
何故か。
その言葉に衝撃を受けている自分がいて。
今は“マウロ・フレステント”である青年が少女達の事を思う。
自分は相手に幸せという名の荷物を背負わせているだけなのだろうかと。
「あ、お待たせしました」
パタンと扉が開いて何やら清々しい顔でシャルアがやってくる。
「マウロさん。すみませんが、金貨四百枚はどう考えても捻出出来ません。ですが、あの“使えないにも程がある護衛騎士”の推薦で軍の一部隊を任せる事は出来ます。もし、貴方に適正があるならば、一月で金貨二十枚は堅い上級職をご紹介します。どうなされますか?」
「あ、いえ、こちらとしてはそんなに無理をしてもらわなくとも。今日の宿と馬車を一台仕立てて貰えれば、それで十分なのですが」
「すいません。他の参加者達への示しもあるので、こちらとしては金貨四百枚に匹敵するか、更に厚遇したという事実が必要なんです。貴方、今はちょっとした有名人ですし、是非軍で働いてみませんか? 絶対に待遇は確約しますので」
「いや、一人ではなく三人程連れがいまし―――」
ガシィッとシャルアが妙に生き生きとした笑顔で青年の手を取った。
明らかに逃がさないつもりである。
「お連れの方とはどのようなご関係で?」
「いえ、仲間というか」
『姫様~~~マウロさんのお連れの方達が~~~』
「!?」
思わず青年が後ろを向くと其処には外套を頭まで被った三人の少女達が何やら罰の悪そうな顔でやってきていた。
どうやら不安になってこっそり付いてきていたらしい。
「ま…ぅろ!」
一応、偽名としての名前を教えておいたイーステルがテテテッと駆けてきてヒシッと抱き付く。
それに武帝の少女達も追随した。
三人の少女達の様子に多少シャルアが面食らった様子でマジマジと見つめる。
「随分と妹、いえ、娘……えっと、どういうご関係で?」
「いえ、この三人は―――」
「つぅ…ま!」
イーステルが何処で覚えてきたのか。
そんな事を言った。
続けて、それに同意するように武帝の少女達も同じく呟く。
「ツマ」
「つま!」
「「「……つま?」」」
クーバとシャルアと双來の王が同時に青年へ生暖かい視線を向ける。
『こ、こんな幼い子らを妻!? はッ、これが世に言う年下好(ロリコン)!!?』
『嘘!? こっちよりも若いじゃない!? この肌、武帝の……これが所謂部族ハーレムって奴なのね!?』
『僕の若い頃もこんな(以下省略)』
三者三様の瞳に青年はさすがに顔を引き攣らせた。
「マウロさん」
シャルアがニッコリと微笑む。
「な、何でしょうか?」
「こんなに若くて可愛い妻を三人も養うのは大変でしょう? それも旅の途中というなら、尚更に……ウチは福利厚生がちゃんとしてますし、戦死した場合でも保険が降ります。今は国庫がカツカツですが、これから隧道の使用料とか入ってくるので財政は安定必至です。どうですか? 此処で務めてみませんか? どうやら、外套姿でなければお困りのご事情も抱えているご様子。双來は昔から魔族でも天使でも異種でも亜人でも人外でも共に戦う者は受け入れてきた口です。今は少なくなってしまいましたが、彼らの血を幾らか引いている者もいます。我が国は貴方が抱える問題を少しは負担出来るところですよ」
「ッ」
イーステルの事をサクッと見抜かれたのは想定外。
だが、青年は何故か、それよりも“戦死”という言葉に衝撃を受けていた。
自分が死ぬ。
少女達を守れずに消える。
そうなれば、少女達はどうなるのか。
自分を夫とまで慕ってくれる少女達がどうなってしまうのか。
厳しい大陸の事情を見てきた青年はありありと想像出来た。
「……今の話は本当ですか?」
言わずにはいられなかった。
何故なら、彼は今正にサヤトネという“保護者(しょうじょ)”を失ったばかりだったのだから。
「はい。我が国は来る者は受け入れ、去る者は追わず。そういうところです。傭兵家業では人種も宗教も種族も関係なく戦わねばならなかった。いえ、戦わずして生きられなかった。我が国は貴方達が失望するような場所ではありません」
言い切ったのはシャルアにとって半ば夢だったかもしれない。
しかし、これからそうしていくという決意でもあった。
どうなろうとこれから戦いに没していく双來で失望させないと言い切ったのは己の全てを掛けて国を再興すると決めたからだ。
その言葉は宣誓にも近い。
王は、全てを任せた外交官の姿に、娘の立派な姿に、自分の時代は終わったのだとまざまざと感じた。
「……その言葉を信じてもいいですか?」
青年は真面目な顔で、見定める視線で、まだ三人の少女達とそう歳も離れていない姫へ問う。
「はい。少なくとも此処は……この身が知る限り、世界で一番素敵な場所ですから」
数日前までやさぐれていた少女の姿はそこにない。
滅んだって構わないと毒づいていたはずの少女の言葉にクーバは自然と目頭が熱くなった。
姫様が初めて自分の国を、自分の祖国を、故郷を、素敵だと、そう言った。
たった、それだけの事がどうしようもなく護衛騎士には奇跡に思えて。
彼女は扉から少し離れた廊下に出て、顔をゴシゴシと拳で拭う。
「姫様……クーバめはこれからも姫様の傍で一生仕え続けます……」
その日、“マウロ・フレステント”こと”マロウ・ブレステンド”は潰れ掛け、これから戦争へと向ってゆく双來に任官を果たし、主となる少女へ頭を下げた。
青年と少女達の密やかな日常が始まろうとしていた。