第二章三十三節「御旗」
いつの日も沈む夕景は美しい。
もしも、それが取るに足らないものに見えたなら、問題は景色ではなく見る者の心にあるだろう。
隆盛を極めた嘗ての古都も例に漏れず。
人々の心に感動は薄れていた。
紅の街並みが映し出す世界。
出しっぱなしの樽と夕餉の白い炊煙。
遊ぶ子供達の明日への約束に開け始めた酒場の灯。
漂ってくる香りは母の待つ家のものか。
道往く者の顔が暗くとも子供達は変わらず。
されど、友と別れた子もやがては沈黙を増やしていく。
どれだけの悪辣が差別が時代を覆ってきたか。
国と思想に多くは従ったし、崇めてもきた。
涙の数も決して少なくは無い。
それでも彼らは嘗て幸せの只中だった。
例え、身分違いの恋に破れても。
例え、愛せない婚姻を結んでも。
例え、努力が血統の前に無力だとしても。
彼らはそれでも幸せだった。
とんでもない。
彼らは旧き因襲に不幸とされてきたのだ。
そう、新しい思想が彼らを被害者にしたとしても。
疑いようもない幸福が人々を包んでいたのだ。
その日までは。
他の国に半ば屈服するまでは。
因襲に然して価値はない。
思想による差別も時代の移り変わりを反映するだけのものでしかない。
しかし、共に過ごした家族が社会が国家が損なわれれば、誰もが問答無用で不幸を享受する事となる。
食事に多くが困らないのは集団としての彼らが餓えを許容しないからだ。
住む場所も着る服も貧富の差は在ろうと集団(コミュニティー)の力無くして維持は困難だ。
服を縫う事はあるだろう。
なら、それを縫う糸は何処で作る。
更に糸を紡ぐのは誰がする。
そもそも糸の原料を作るのは簡単な事ではない。
社会とは国家とは分業化された高度な技芸集団の総体とも取れる。
差別も因襲も彼ら自身が生み出した自縄自縛。
なればこそ、それに浴するのは生存上許容範囲の環境でしかない。
それがもしも時代や人々の意識に合わなくなれば、それこそ彼ら自身の中から変わるべしと立ち上がる者が増えるだろう。
どのような強固な総体も変化を廃する事は出来ない。
永劫不変というのが人の身には過ぎた代物である以上、避けられない真理だ。
幸せが相対的な価値を基準にしたものならば、彼らは未開の土地に暮らす部族よりも余程に豪勢な暮らしをしていると言える。
その日の糧に困らず。
その日の宿に困らず。
その日の衣に困らず。
それは議論のすり替えに過ぎないと言う者もいるだろう。
因襲と差別に囚われて幸せであるものか、と。
だが、例え不幸だろうと幸せだろうと腹は減る。
どんなに虚勢を張ろうと宿が無ければ凍えてしまう。
何も着ずに生きていける環境に住まう者は少ない。
幸せをもし満足する事だと言い代えるなら話は違うだろうが、物質的な充足無き満足は無智故の幸福。
無智でいる事と幸せである事が反比例するとまではいかないだろうが、人の大罪の一つが強欲なのはどうしようもない事実だ。
だから、彼らは少なくとも幸せではなかった。
あの日から。
国の指導者の一人であった男が消えた日から。
糸を作る者は他国の糸の安さに泣いた。
糸を紡ぐ者は糸に掛かる税に沈んだ。
糸で服を縫う者は他国の者に震えて秘伝を渡した。
彼らにとっての不幸とは因襲や差別ではない。
彼らが生存する為の条件を急激に変えていく多くの柵(しがらみ)だ。
何故、酒を造る倉を持ちながら、葡萄を他国から持ってこなければならない。
何故、己の血統をいつ攻めてくるとも分からない国に組み込まれねばならない。
何故、誰も変える必要性を感じない慣習を意味なく変えねばならない。
何故、こんな国にした者達の下で不幸に耐えていかねばならない。
彼らは無智ではなかったからこそ、それが不幸だと知っていた。
―――私はこの国を蝕む者に言いたい。
多くの瞳が空を向いていた。
不幸であるとすら、今は愚痴るだけが精一杯の誰もが。
意味も分からない子供が、樽を運んだ青年が、服を縫う母が、議論する老人が、多くの者達が空を見上げた。
赤い煉瓦が照り返す紅の城とその上に佇む巨大な船。
誰かが話の内容も聞き流しながら、美しいと呟いた。
―――私は決して諦める事はない。
多くを言った。
多くを語った。
空に響く声が何故か。
本当に何故か。
故郷にいる誰もに郷愁を呼び起こさせて。
―――例え、この身が砕けようと止まる事はない。
不幸であるはずの彼らは、エーデリアの民は……血のような紅に何かを見た。
母を思い出した者がいた。
父を思い出した者がいた。
上司を思い出す者がいれば、後輩を思い出す者もいた。
けれども、彼らが最後に思い出したのは国の誰もに慕われていた男だった。
将軍。
そう呼ばれた、人生そのものが滅私奉公と言うに相応しい、軍旗と夕景が似合う存在を。
―――十字を止り木と成した御方に願い申し上げる。
宵が迫る只中で軍を動かし、今正に一人の少女を。
将軍の一人娘を捕らえようとしていた軍人達の誰一人。
動ける者はいなかった。
いや、動きたい者はいなかった。
涙を堪えた者がいた。
嗚咽を漏らす者がいた。
震えて剣を取り落とす者がいた。
何故だ。
何故、この足は動かないんだと、軍を率いた一部隊の長がいた。
―――その城に巣食う者をどうか統治者と呼ばないで戴きたい。
大きな酒蔵の屋根の上。
全身鎧の大男達に囲まれながら。
それでもただ少女は船に、その奥にいる大国の主に告げる。
―――この国の誰もが知る裏切り者の客にはならないで戴きたい。
夕闇が揺るりと落ちていく影に蝕まれ。
少女はそれでも最後までする気は無かった嘆願を喋り終えた。
ジリジリと間隔を狭め出した軍人達が、その演説を聞き終えても、それでも議会の命令を遂行しなければならないと、己の仕事に忠実である悲嘆に暮れて、手をその少女の、セイリ・ティウアズライト・エルメトロ・ニェハエルに掛けようとして。
『く…くく…ははは…あははははははははは』
声が宵の空に響き渡る。
情熱が焦がした暗き虚を塗り込めるような。
一番星のように凄絶な耀きを放つ者の声。
硬直したのは何も兵士達だけではない。
今まで歯を軋ませて演説を聞いていた。
泡を食って部隊に確保を催促していた。
正に裏切り者と言われたエーデリア議会の重鎮達が震えていた。
滝のような汗と焦点の合わない瞳で恐慌を来たす一歩手前の状態で何とか踏み止まっていた。
『何とも。素晴らしき哉。我が人生。素晴らしき哉。我が航路。面白い。汝はこの余に意見した』
絶望には二種類有る。
一つは恐怖からの発露。
もう一つは諦観からの発露。
前者を齎す者は絶対者に向いている。
あらゆる万難を暴力によって解決する様は正に暴君の名が相応しい。
しかし、響いた声は前者ではなかった。
それは後者、諦めを人に与える者の声だった。
他者に諦観を齎す者は統治者に向いている。
何故なら、それを人に与える者は議論は言うに及ばず。
あらゆる傲慢を踏み潰す術を心得ているからだ。
万難を闇へ沈める手際はきっと暗君の名が相応しい。
暴君と暗君。
その最大の違いは力では解決しない事柄に対処出来るかどうかにある。
『名を聞こう』
「私の名はセイリ・ティウアズライト・エルメトロ・ニェハエル」
『余はエト・エイラル・エイム・イグニシア・クルシス。第三十七代イグニシア・クルシス皇帝である』
巨大な島の如き貴皇の真下に付く副砲が旋回し、セイリを捉えた。
『セイリ。余にはこの世に嫌いなものが三つある』
「三つ、ですか?」
決して目を反らさず。
今正に消し炭以下の塵になってもおかしくないと知りながら。
それでもセイリは船を見つめる。
『一つ。思い上がった大馬鹿者。二つ。妄言を吐く愚者。三つ。力無き偽善者』
今に己を捕まえようとしていた腕を退かして、それよりも前に出たセイリが僅か兵達に目配せする。
彼らがどうして、その彼女の言いたい事が分かったのか。
それは単純な話だった。
彼女の父がしていたように彼女もまた兵を庇う者だったという事だ。
戦いが兵の仕事なら、それを死なせぬ交渉は将の仕事だと、兵達の為に親身な将軍は一兵たりとも蔑ろにした事は無かった。
(この御方は……やはり、将軍のご息女なのだな)
エーデリア議会の狗。
特務部隊の長。
そう己を蔑む男は一歩前に出たセイリの姿に彼女の父親の背中を見た。
『己の十字架を背負えず逃げ出した小娘に説教をされる日が来ようとは……余の名声はこの国では随分と地に落ちておるな』
誰にも静かな怒りが伝わってきた。
どうなるか。
いや、どうなってしまうのか。
イグニシアの歴史を見る限り、明白だ。
顔面蒼白になって、今からでも都市国家から逃げ出さなければ、死ぬ。
いや、死ぬよりも壮絶な地獄というものを見る羽目になる。
そう南部に近い出の者達は知っていた。
しかし、まるで息をするのも止めてしまったかのように。
誰もが空に響く会話を固唾を呑んで見守っている。
“彼ら”の範疇に無いのは議会の議員達とその取り巻きだけだった。
早く逃げなければと部下を急かしたのは言うまでもない。
緊急用の転移方陣が複数起動しては溜め込んだ金貨やら証券やら絵画やら財宝やらが都市中枢、議員達の蔵から消えていく。
『セイリとやらよ。汝に問う』
ゴクリと誰かが唾を飲み込んだ。
『貴様は思い上がった馬鹿者か?』
「いいえ、陛下。私はただ故郷を思うだけの馬鹿者です」
『貴様は妄言を吐く愚者か?』
「いいえ、陛下。私はただ国を憂うだけの愚者です」
『貴様は力無き偽善者か?』
「いいえ、陛下。何かを偽るつもりは毛頭ございません」
『ふ……ならば、証明してみせよ』
ガコン。
そう砲塔に砲弾が装填される音が世界に響く。
退避を。
そんな呟きが少女から漏れて、兵を司る男は…それに従った。
あくまで緊急時の避難だと己に言い聞かせながら兵達に周辺区域の避難を命令し始める。
『全くもって面白い。気に入った。汝に我が国が誇る最新鋭の槍をくれてやろう。もしも、この槍を受け取る事が出来たなら、今回の事は不問に付す。だが、もし汝が口だけの輩であったなら……故郷と共に滅ぶがいい』
「……分かりました」
セイリはただそう言った。
途端。
周辺の区画で一斉に小石がフワリと浮き上がる。
大気が宵闇の中で菫色に色付いていく。
キリキリと脳裏に螺旋(ねじ)でも埋め込まれるような痛みを感じながら、セイリは……ここまで事が大きくなってしまった事を少しだけ悔やんで、少年に内心で謝った。
己を偽る事も途中で逃げ出す事も出来ただろう。
演説だって止められたはずだ。
しかし、語る内に何もかもが口を突いて出た。
多くを語り、こんなにも自分は故郷が好きだったのかと。
こんなにも助けたかったのかと。
改めて知った。
救うと内心思いながら皇帝に言われたように自分は逃げ出したのではないかと自問した事もあった。
言われた事の何もかもが彼女にはそのまま当て嵌まる。
国を動かした事もない小娘が政治を語れば、それは思い上がった馬鹿者だろう。
悪辣な者達から国を取り戻すと力ない者が改革を語れば、それは間違いなく妄言を吐く愚者だ。
けれども、その行為が力なき偽善者のものだとしても、自分の生まれた国を想う心に偽りはない。
それがもしも糾弾されるものならば、己の命で購ってでも、正当化したいとセイリは思う。
正直に言って、馬鹿なことをした、愚かなことをしたのだろう。
国を危機に晒しただけでも噴飯ものなのだろう。
しかし、だが、それでも。
セイリ・ティウアズライト・エルメトロ・ニェハエルは何処までも将軍の娘だ。
少し、ほんの少しだけ、彼女は思う。
心の底から、まったくデタラメなくらいに馬鹿げた愚かしい事を思う。
今、皇帝の槍を受ける事に武人としての血が騒いでいる。
もしも、彼女が政治家の家系だったなら、己を呪って死んで詫びるという選択肢もあった。
だが、彼女は将軍の娘だ。
自分の国を自分の武を持って、部下達の武を持って、守り抜く者だ。
だから、たぶん最初で最後になるだろう一撃を、誉れ高き皇帝の暴威を身を持って防ぎ切るという行為に笑ってしまっている。
いや、楽しみにすら思ってしまっている。
もし、自分が死んだ後、皇帝が約束を破ったら。
そんな事を考えるのは政治家だ。
最後まで残っている誰かの話だ。
本当にどうしようもなく将軍にしか向いていない小娘は。
自分の命を掛けて、己の不始末を購い、そして……たぶん、死ぬ。
「放て」
「……よろしいのですか?」
貴皇メインブリッジ。
片腕である男ハイランの声に皇帝はただ一言。
「二度は言わぬ」
「御意に」
そう言った。
『受けよ』
音速を超えた人の身長を優に超える砲弾が発射された。
号砲。
都市国家エーデリアの隅々にまで響く破滅の咆哮が人々を固まらせる。
しかし、同時に人々の目は見ていた。
空に咲く華を。
菫色の耀きを持つ華麗な方陣が砲弾を防ぎ止めていた。
散るのは火花。
そして、全身の至る場所で破裂した毛細血管から失われていく紅(ち)。
轟々と身を潰した防御方陣から人生最大の過負荷を受けながら、セイリは毅然と前を向いている。
今にも破裂しそうな心臓。
砕け散りそうな魂。
魔力が枯渇すれば、途端に血の染みすら残さず砲弾に込められた術式に蒸発させられると察しながら、彼女は笑って両腕を前に突き出している。
都市の外延部からすら見えた。
人影が抗っているのが。
少女が過負荷による魔力の暴走で全身を燃え上がらせているのが。
それが皇帝に逆らった馬鹿者の最後か。
それが余りにも不敬な愚者の最後か。
何故、自分の瞳から涙が零れたのか。
人々は滅びに瀕して、泣いていた、動けなかった。
見上げる事しか出来なかった。
恨んでいい。
呪っていい。
そのはずの姿に罵声の一つも上がらなかったのはどうしてだろう。
少女の片目が受けた高温のあまり破裂する。
「―――ッ」
それでも腕は決して下がらない。
燃え上がり、血が沸騰して悲鳴を上げているというのに。
神経は既に死んでいる。
形を保っているのは魔力故だ。
溶け出した真下の瓦に足を埋もれさせながら、彼女は笑う。
(こんな終わり方……父上に怒られてしまうのに……どうしてでしょうか。こんなにも清々しい……)
脳裏で後悔らしい後悔を探して、一つだけ、彼女は思う。
(ティア。君に……沢山迷惑を掛けたのに……助けてもらったのに……私は……)
腕が、片方融け落ちた。
もう片方に掛かる負荷が倍増し、一瞬で負荷の炎が白くなっていく。
不意に視覚が消える。
そして、セイリは自分が両の視力を失ったのだと悟った。
しかし、魔力はまだ続いている。
持続している。
大気から大地から掻き集めた魔力の一欠けらまで術式に注ぎ込まれていく。
(ああ、もうすぐ、もうすぐ……私は……君に迷惑を掛けて、迎えに行くと約束したのに……私は……)
魔力が、心臓の鼓動がゆっくりと落ちていく事も気に掛けず。
少女は一つの無念を思う。
彼を迎えに行けないという一つだけを。
そして、終に全てがプッツリと失せようと意識が闇に―――閉ざされ―――終わろうと―――して。
グイッと彼女の背中が押された。
「貴方は此処で死ぬべきではない」
彼女はもう鼓膜なんて無い。
皮膚なんて無い。
目なんて無い。
耳なんて無い。
しかし、彼女の背中は唯一まだ少しだけ感覚の通った場所が再び押される。
「隊長!!! 非難誘導に向う以外の全部隊に声を掛けました!!! 間も無く到着します!!!」
「全部隊魔力方陣連結!!! 蘇生術式駆動開始!!! 超常の力を持つ者は全てサポートに回れ!!! 負荷の全てをこちらに誘導しろ!!! いいか!!!? 絶対にッッ!!! 絶対に死なせるな!!!!」
「隊長!! し、市街地の方を!!!」
「ッ!!! そうか……そうだよな。はは……黙って見てるような、オレ達の故郷はそんな場所じゃない……」
彼女の背中がまた押される。
セイリは知らない。
己の背中に幾多の兵がいる事を。
自分が抱き締められている事を。
屋根の上まで連なる鎧の群れが負荷を自ら受け持ち、熱する鎧に身を焦がしている事を。
それだけではない。
闇が全てを覆い始めた都市には旗が翻る。
それはエーデリアの旗だ。
全ての兵が掲げる軍の象徴だ。
その一面の真紅は誇り高き血統を表し。
大地に突き立つ剣は何事をも貫く意を表す。
旗は振られている。
人々が振っている。
たった一発の号砲で滅ぼうとしている人々は己を守ろうとする者へ。
喉が枯れそうな声援を送る。
誰が避難などするのか。
兵達の声なんて拒絶する者ばかり。
都市の者ではない部外者達ですら、呆然として全てを見届けていた。
死が迫っていながら、見入っていた。
頑張れと誰かが言った。
負けるなと誰かが言った。
死ぬなと誰かが言った。
勝てと誰かが言った。
お願いだから生きていてと、人々は祈った。
逃げ出す外国の者すら祈っていた。
あの菫色の気炎を上げて燃え尽きようとする者がどうか無事であるように。
逃げ出してしまう自分を責めながら。
「―――?」
うねりとなって、大気は鳴動する。
そうだ。
一人の人間が出来る事には限界がある。
たった一人で国を護れる人間なんていない。
いや、いたとしてもそれは人間ではない。
ボロボロに焼き崩れた肌のまま、少女は何か温かなものを感じた。
それは嘗て父の腕に抱かれた日の心地だったかもしれない。
故郷とはそういうものだ。
そういうものだったと、彼女は心の何処かで忘れていた自分に気付いた。
(私は……何を守れる人間に成りたかったんだ。何を……)
今や砲弾を塞き止めている腕がどうなったのかすら彼女の思考にはない。
それは都市を危機に陥れた者としては罪深い事だろう。
それでも死を持ってして護りたかったものが何だったのか。
セイリは思い出していた。
(ああ、そうか……私は父上のいる此処を……エーデリアを……)
もう二度と護れない人を思って。
初めて、本当に初めて、少女は一粒涙を零した。
「死なないで下さい!!! 我々、エーデリアの民には貴方がまだ必要だ!!! 貴方が破滅を持ってきたとしても、それはきっと、こんな国にしてしまった我々が背負うべき咎だ!!! 今、貴方を支える民がいる!!! 貴方を必要としている民がいる!!! 貴方は死んで此処を守るより、生きて国を変えるべき人だ!!!」
兵達の誰も異存無かった。
特務部隊の隊長に全軍を動かす権限なんてあるはずがない。
議会の下で軍事行動を起こす者こそが兵だ。
迫る破滅に際して議会からの応答は途絶。
残った兵がどうして動いたのか。
それは一重に少女の姿に心動かされたからだ。
とても訓練された兵のする事ではない。
だが、彼らも国を愛する一人だ。
故郷を護りたいと願った国民だ。
破滅を誘い込んだ彼女が滅ぶ姿に悲哀を感じた人間だ。
どうして、こんな事になってしまったのかと歯を噛み締めた者だ。
多くの国民も同じ。
何故、こんな事になったのかと、あんな風に少女一人に多くを背負わせるような国だったのかと、嘆いたのだ。
それは久しく失われていた感情だった。
いつの日も沈む夕景は美しい。
もしも、それが取るに足らないものに見えたなら、問題は景色ではなく見る者の心にある。
ずっと、自らの住まう国の姿を瑕疵もなく美しいと思えなかった“彼ら”は、不幸というものに飲み込まれていた“彼ら”は禍を齎した“彼女”を救うと決めた。
美しいものを救うと決めた。
それは同情の気持ちからだろうか?
罪悪感に駆られたからだろうか?
無論、それもあるだろう。
だが、それよりも圧倒的多数の意思は明確だった。
“これほど国を懸命に想う人を死なせていいはずがない”
それは偽善だ。
流された意見だ。
人の最たる罪業の一つ。
しかし、それこそが人々を駆り立てたものだった。
命を掛けてもいいと思えるものだった。
力無き偽善はただの戯言。
けれども、一つ一つがどれだけ軽い意思だろうと、集れば巌の如き重さとなる。
力無き偽善はただの戯言だが、力有る偽善は国を動かすに足る。
命を張って偽りの善を通す時、確かに其処へ宿るもの。
それこそが人が追い求めて止まない、教会が説いて回るものの正体ではないか。
汚れても軽くても御為倒(おためごか)しだとしても、人間は綺麗事にこそ美を感じる。
夕暮れが美しいのはそれが本質だからではない。
それが美しい主な理由は人が“美しいと決めているから”だ。
セイリ・ティウアズライト・エルメトロ・ニェハエルは故郷を護りたいと綺麗事を言った。
誰もが“こんな都市になってしまったら価値がない”と感じていたエーデリアを“この国は護るに値する場所だ”と言ってのけた。
美しい場所だと断言した。
それが事実かどうかは関係ない。
世界が美しいかどうかはいつだって見た人間の心で決まるのだから。
「押し返すぞおおおおおおおおおおおおお!!!!!!?」
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――。
幾百、幾千の怒号が響く。
振られる旗は菫色の耀きを照り返し、遠方からもよく映えた。
エーデリアという一つの国に英雄が誕生した瞬間。
立ち会った者達が後世に語り継ぐだろう刹那。
国を滅ぼす砲弾は夜空の華と散った。
砕ける方陣の中。
少女はまだ自分が何者となったか知らず。
遠く消えた父の温もりに抱かれて眠った。
*
全てを見ていた白き巨獣は身体を持ち上げて空に一度、小さく吼えた。
それは喜びの声。
真なる主の生誕を尊ぶ聖歌。
「 」
主の死に直面しながら、彼の獣が動かなかったのは何故か?
答えは“どうにでもなる”からだ。
人間というちっぽけな生き物に比べれば、【崩狼(ソラ・アヴィス)】の能力は神々にも匹敵する。
人間一人を生き返らせる程度、造作も無い。
未だ小さな息吹である少女を助けるのは容易い。
しかし、それでは成長が見込めない。
ニェハエルという男は大概にして不幸を糧に生きるようなところがあった。
己の国を放り出し、双來に隠居を決めたのは自らの力の衰えを悟ったからだ。
彼の決断が何故だったのか。
獣はいつも傍で見ていた。
大言壮語を良しとして、それを実現する力を持っていたからこそ、男は誰よりも気高き英傑だった。
しかし、その力が無くなれば、男はただの大法螺吹きに成り下がるしかない。
多くの人の運命を背負い続ける覚悟くらい男にもあったが、覚悟と力は別物だ。
力の全てを失った男が国をまとめ続ける事は可能だったが、それは同時に国を拡張しなければならない破滅への道でもあった。
国内の世論や他国の脅威は言う事無しに人々を戦いへと駆り立てていたのだ。
国王だろうと英雄だろうと人間の本性までは変えられない。
力を失った事を悟られれば、攻め入られただろうし、全てを覆い隠して穏健な政策に転換しようと結局は戦争が人々には必要だった。
憎悪を御する術をそれしか“彼ら”は知らなかったのだ。
しかし、王が役立たずとなれば、統制はやがて乱れ崩壊する。
だからこそ、ニェハエルは一人死を装い隠居を決めた。
国が分裂したのはそもそもが策の一つ。
他国に対して国の分裂で弱体化したとみせ。
同時に相手国に傀儡として操らせたのだ。
本来、殲滅戦の形でしか侵略しなかっただろう国々はニェハエル本人の思い描いた通り、分割された国々を操り、内乱で全てを掌握しようと積極的な派兵は控えるようになった。
当時の激しい戦乱では兵力の多寡は即ち国の寿命と同義。
ニェハエル無き烏合の衆に余計な戦力を割きたくない国々は敢えて殲滅を選ぶ必要性が無くなった。
「 」
意図したのではないとしても、嘗ての主に少女は似ていると獣は思う。
人を動かすのが本質的には業であり、その業を刺激するのはニェハエルの戦の本質でもあった。
裏切り、嫉妬し、虚勢を張る。
薄汚い感情の魔力には抗い難いものがある。
それを時に人は美徳と呼んで憚(はばか)らない。
聖も悪も本質は業。
人々の故郷が美しいという虚勢。
いや、そうであって欲しいという願いを形にした少女は間違いなく祖先に連なる血統。
そう獣は確信する。
『そこを通して頂こうか。旧き獣よ』
音声というよりは波動に近い響き。
大昔の異種達がよく使っていた情報伝達手段が獣に目を細めさせた。
空に浮かぶ影は鯨とも見える。
その上には淡い緑色の魔力が煌めき舞っている。
そして、大地には小山の如き鋼。
その上には凍て付き尊い青の魔力が渦巻いている。
四つの異種。
それも旧き種の中でも強者と呼んで差し支えない希少種ばかり。
まだ若い獣にとっては“血の中に情報を垣間見る”程度の存在。
「旧き御方よ。どうか、我々に道を空けては貰えまいか」
四つの異種に付き従うように数頭の蹄の音が進み出る。
音声による情報。
比較的新しい亜人。
【人馬(ケンタウロ)】の勇士達だった。
「我らは人の子に子女を捕らえられ、それを取り戻しに行く者。貴方を害する気持ちは毛頭無い」
意思は伝わる。
言いたい事は獣にも分かる。
しかし、彼らが向おうとしているのは新しき主が生まれ変わろうとしている場。
今は巨大な気配が一つ船の中にあるとはいえ、それが多くの民を護るかどうか獣には判断出来ない。
それに重症である主にこれ以上の試練は未だ早いとの思いもあった。
故に獣は自らに負けず劣らず巨大な気配を有する異種達と亜人に否定の意味を込めて立ちはだかる。
「あくまで立ちはだかるか。ならば、致し方ない。我ら同盟の力を持って貴方を排除する」
キリキリと弓が引かれる音。
鯨は啼き、緑の魔力は膨れ、鋼の山は四肢を隆起させ、尊き青の魔力が鋭く研ぎ澄まされ。
―――ツイエルモノ、コトゴトク、ソノゴウニヨリテホロブベシ。
獣は、巨獣は、たった一人の主を再び得た存在は、嘗て主が行っていた戦の流儀を真似た。
大地を削って、稲光(いなびかり)が世を通り抜ける。
彼らの朝は未だ遠く、力と力が激突の瞬間を待ち侘びて、躍動した。