第二章三十五節「群影」
セイリ。
双來の猛き峰にある聖地には奇跡が眠っているんだ。
国父ニェハエルの力が。
昔、確かにこの目で私は見た。
そうだ。
あれはまだ戦乱が下火になりつつも燻っていた頃。
双來の王子だった方と剣を交えた事があった。
戦ではないよ。
単純に馬鹿な若者が己の腕試しをした、というだけの話だ。
何とか引き分けたのはいいものの、故郷に帰りたくなくてね。
何もかも忘れたくて絶景と謳われるラストーラから世界を見てみようと思った。
そうして山に一人登ったのだよ。
今にしてみれば、馬鹿な事をした。
誰が言うまでもなく。
死に掛けた。
いや、実際には死んでいたのかもしれない。
雪崩に巻き込まれ、息も満足に出来ず。
そのままならば、大昔から続く氷葬のようにこの身は凍てつき眠り続ける事となっただろう。
しかし、そうはならなかった。
次の朝目覚めると何故か私は雪の上に横たわっていた。
空には雲一つ無く。
雪原は肌を焼く程に晴れ晴れとした日差しを照り返していた。
最初、どうして自分が生きているのか分からなかったよ。
だが、途中で気付いた。
未だ到達していない峰に菫色の輝きが栄えているのを。
その輝きは、お前の魔力と同じ色をして、今までどんな人間にも見た事の無い、藩落の誰だろうと決して持ち得ないだろう強さで、煌めいていた。
私は光が消えた後、山を下って双來の人々に聞いて回った。
あの峰に何が有るのかと。
殆どの人々は知らぬと教えてはくれなかったが、その頃に世話になっていた武門の師範は幸いにして教えてくれた。
それはきっと聖地だと。
双來の王族達に秘匿されている場所。
そこには国父に関する奇跡が眠っているらしいとな。
偶然だったのか、必然だったのか。
あの時、空を晴らし、私を救ってくれたのはあの輝きだったのだと思う。
いつか、お前も大きくなったら生涯一度でもいい。
行ってみなさい。
「 父上 」
頭を撫でられながら聞かされた寝物語。
今は優しげな温もりのこもる寝台で薄らと目を明けて。
セイリは自分が生きている事を実感した。
「確か……私は……」
胸の奥底が少し熱く。
鼓動を確かめた両手がじんわりと温かくなる。
「?」
片手があるという事実に気付いて、セイリはぼんやりとした思考で首を傾げた。
肌は全て焼け焦げ、片腕は負荷の赤熱に融け落ち、両目は全て沸騰したはずだ。
「そう首を傾げる事でもあるまい? 大魔術師と呼ばれる連中なら余の国には腐る程いるわけであるからして……」
「!」
初めてセイリは寝台の横に人がいる事に気付く。
やけに豪奢なレリーフを彫り込まれた年代物の床几。
それに腰掛けて本を見つめている褐色の肌の乙女。
その片目は菫色に染まっている。
ニェハエルの血筋において瞳の色がこれ程に濃い者は藩落にいない。
「イグニシア・クルシスの……」
上手く舌が回らない様子でセイリはたどたどしく言葉を紡ぐ。
「余の槍を受け取って、死なぬ輩がこの辺境にいるとは思わなかった。何とこの世は不思議に満ちている事か」
本から顔を上げる事なく淡々とエトがセイリに告げる。
「あの後、どう、なったのでしょうか。皇帝陛下……」
「エーデリアの五割以上の兵が半分焦げた。それと受け止め切ったそなたの命を都市全域から嘆願されてな。【貴皇】に乗艦していた直属の近衛に救急を任せた。かなりの重症で再生では間に合わず復元の術式を使用。本来、復元はかなりの骨なのだが、そなたが持っていた触媒のおかげで施術は完璧。如何なる障害も残らないと確約しよう」
「しょく、ばい?」
「貰ったのであろう? 余はまだ貰っていないというのに……まったく妬ましいやら羨ましいやら……」
「な、何の話、でしょうか?」
いきなり溜息と共に愚痴り始めた皇帝にセイリが身を堅くする。
「掌に納まるくらいの水晶玉。ティアからの贈り物である」
「ぁ……」
自分の首にぶら下がっているはずの紐と袋を探して、セイリは初めて少年から貰ったお守りがない事に気付く。
「そなたが途中まで共にいた男の名はティア。余の……愛人じゃ」
「あ、愛人!?」
思わずガバッと掛け布を跳ね除けてセイリが起き上がる。
「まさか、あ、貴方、いえ、陛下があの時の!?」
「見ていたのか? まぁ、よい。とりあえず、全快のようじゃし」
パチンとエトが指を弾くと部屋の数人の制服姿の女達がやってくる。
湯女も勤める精鋭。
彼女達の手には衣服やら下着やら香油やら化粧道具やらが持たれていた。
「こ、皇帝陛下!? な、何を!!?」
「何をとは無粋な事を訊く。余を持てなすはずの連中は雲隠れ。王家は只管平身低頭で謝るだけ。余をまともに相手する者が一人もおらぬ。それで戻ってきた家出娘の復権を願う民が王城と此処に押し寄せてくる始末。さて、ホストは何処じゃ?」
「わ、わた…し、でしょうか……」
「そなた以外に誰がいる。三日も待たせられた身にもなれ。更に言うなら、治療に携わった挙句に女の誇りが微妙に傷付いたのはどうしてくれる?」
「何か知らぬ間に無礼を?」
むんずとエトの両手がセイリの胸を下から掬い上げるように揉んだ。
「ひぁ!?」
「最初は余と同じくらいかと目測していたが、実態は着痩せしていただけじゃと? ティアめ……小さい方が好きかと思えば、大きいのもいける口とは……まったく……」
「あ、いえ、その、へ、陛下?」
あまりの事に顔を赤くして。
しかし、遥か格上のエトにあからさまに逆らう事も出来ず。
セイリが情けない顔で止めて欲しいという顔をする。
「凛々しい家出娘と出かけたかと思えば、今度はアーズトリテに持っていかれる。一体全体どうしたら、この心労を癒せるのか。帰って来たら縛り上げて寝かせておくのもありか」
「な、なな、何を言っているのですか!?」
「こちらの事だ。ええい。触っているだけで腹立たしい! 余はもう往く! 身支度を整えたら、さっさと王城へ向かって事態を収拾せよ。余はあちらに出向く」
「あ、あちらとは!?」
胸から手を放すと不機嫌な様子で部屋から出て行くエトは答えなかった。
残るは近衛達のみ。
(と、とにかく、私は……このエーデリアを……アーズトリテから取り返せた、のでしょうか?)
「それではエルメトロ様。これより身支度を整えさせて頂きます」
スッと近くに寄って来る女達の手がセイリに迫る。
幾つもの櫛がまずは髪を梳き始めた。
されるがままになりながら、少女は思う。
皇帝に聞かされた事を。
少年にまた救われたらしいという事実を。
(あのお守り……ティア……また、君に貸しが出来てしまったようです)
イグニシア・クルシス皇帝の愛人。
殺しても死なぬ不死者。
底無しのお人よし。
未だアーズトリテに囚われたままの恩人。
(早く事態を収拾せねばなりませんね。必ず迎えに行きます。君に貰った命に誓って……)
少女は僅かに口元を緩めて。
きゅっと胸に当てた拳を握り締めた。
身支度を整え終えたセイリが貴皇の外に出て初めて見たのは旗翻し、空に向って歓声を上げる群衆。
少しだけ風は塩を含んで、夕闇に憂いを浚っていった。
*
【人馬(ケンタウロ)】の勇士の一人は戦いの只中にあって、ここまで目前の崩狼が抗する理由をまるで理解していなかった。
「第三矢。撃てぇえええええ!!!」
六人の人馬の男達が駆け回りながら、その背の矢筒から褐色の鏃を付けた矢を白い巨躯へ射掛ける。
弓術の得意な種族と言えば、亜人では二種しかいない。
エルフか人馬か。
エルフの弓術は森や平地を前提とした汎用性の高い体系である。
人馬の弓術は基本的に荒々しい狩りの為の体系である。
前者は人の使う軍用の術に似て。
後者は狩猟民族の生活の糧を得る術。
故に戦になれば、エルフの術が上回るかと言えば、一概にそうとも言えない。
人馬の術は彼らにとって、これしかないという武器だ。
逆にエルフの術は数多くある特質の一つでしかない。
その点で人馬達はその戦いにおいて、かなりの戦力と言えた。
肉体を支える関節、状況認識手段である目、四肢の踏ん張りの要である爪先。
それらを同時に射られて、崩狼が気を取られている間に異種四体による同時波状攻撃が崩狼を防戦一方へと追い込んだのだ。
だが、巨大な体躯が、更に内側から膨れ上がった。
「第四矢。撃てぇええええええ!!!」
圧倒的筋力と高位魔術程度では歯が立たない剛毛が瞬間的に矢の威力と拮抗し弾き返す。
並みの異種や亜人なら逃げ出していてもおかしくない威容。
もしも、攻勢に出られたなら一瞬で人馬達は壊滅するだろう。
それを留めているのは一重に彼らと同盟関係にある異種達のおかげでしかない。
【汪鯨(セティ)】
空飛ぶ鯨。
いや、巨大な黒い鱗で構成された空飛ぶ小島とでも言うべき存在。
彼(か)の者は常に極渦(きょくか)と呼ばれる遥か天空の気流に乗って惑星内部を回遊している。
人類が空飛ぶ術を身に付けてから数千年。
直に見た者は千人に満たないという希少種で未だ生態に謎が多く、幾多の魔術師や研究者が恒常的な滞空技術開発の為に追掛け続ける高度生息生物。
【彊獣(ベスティアルム)】
崩狼に勝るとも劣らない巨躯持つ獣。
彼(か)の者はそもそもが嘗て大陸で禍つ獣と言われた人にとっての災厄。
その肉体は非金属を含む有機物で不思議な濃い褐色の光沢を放ち、人にはほぼ破壊不能とされてきた。
細胞の柔軟性と魔力に対する親和性が高過ぎるせいで魔力形質の約半分を吸収する特質は事実上備えがない魔術師達には打倒不能という怪物。
【貴龍(アウロン)】
竜種の中でも一際旧い黄金期から続いた竜の盟主とも言われる尊い青き“人型”。
一切、人間の血筋を持たないながらも、竜という種から進化を遂げた彼(か)の者は半ば神。
大陸の何処かでは祀り上げられる対象として今も信仰の対象になっていて、転生を続けながら種族を維持する様から大昔より輪廻竜(りんねりゅう)と呼ばれてきた。
【祖精(ファイリィ・マトゥリナ)】
小精霊(ピクシー)の一種と言われているが、実際には肉体を持たない精神体。
光の玉にしか見えないが、その能力(ポテンシャル)は神に上り詰める事すら可能とされ、未だに大陸でも解明されていない魔術様式と魔力形質を持つ悪戯者。
彼(か)の者へ下手に手を出した人が瞬く間に蒸発したという逸話がある事からも決して侮れる存在ではない。
「矢を補給せよ!」
崩狼の周囲を駆け回りながら、射掛けていた男達が小山のような褐色の鋼の後ろへと引いていく。
その間にも空の黒き鯨【汪鯨】の上から【貴龍】の魔力が、【彊獣】の上から【祖精】の魔力が立ち上り、壮大な魔術として組み上がって巨躯にブチ当たった。
尊き青の魔力で編まれたのは剣。
黒き鯨の真下に現われたソレは大地を削りながら白い剛毛を切り裂き、毀れて失せていく。
淡い緑色の魔力で構成されたのは円錐。
褐色の獣。
その額の角に覆い被さった豪槍は突撃と同時に回転。
白の獣の脇腹に僅か突き刺さって、折れ失せる。
「続けて行くぞ!」
異種達が攻撃している間にも人馬達は【彊獣】が通った後に落ちている彼(か)の者の肉体より生成された数本の矢を地面から拾い上げた。
時に己の領地に入ってきた竜さえ狩った豪弓は鋼の鎧を四枚貫徹する威力。
だが、異種に形作られた矢を使うなら、その威力は白き暴威を狩るに足る。
巨躯と魔力のぶつかり合い。
その間に弓を引き絞った人馬達は異種達が崩狼から離れた瞬間にまた射掛けた。
今や幾多の切り傷、刺傷に塗れているというのに白き狼が引く様子は無かった。
攻撃の出端を挫いているとはいえ、それでも数十時間にも及ぶ防戦で露程も覇気が衰えない相手に異種も人馬達も半ば尊敬の念を覚えている。
だが、彼らには理解不能だった。
人の為にそこまでする理由を見いだせなかった。
戦闘の初期に崩狼が張った結界により、周辺は外部とは隔絶されている。
音や光、破壊の余波までも遮断する白き半球内部に囚われた彼らにしてみれば、目前の存在を倒す以外にエーデリアへと出向く事は出来ない。
途中、何度か止めるよう警告したものの、最初に開戦を告げて以来返答は無い。
そうして。
三日という時間を費やした彼らはようやく相手の意図が見えてきていた。
(時間稼ぎ……なのか?)
人馬達を率いる男がそう気付いた瞬間。
今まで攻撃しては弾き返され、僅かな傷を負わせては引いていた戦場の旋律(リズム)に静寂が降る。
「!?」
今まで異種や人馬達に向けられていた崩狼の意識が外側へと向いた。
それを機として彼らが攻めなかったのは不気味さからだ。
「 」
白い全身に力が漲る。
「何だと!?」
今までの劣勢が嘘のように傷が塞がっていった。
連動するように周辺の結界が罅割れ、外の夕日が内部へと入り込んでいく。
そして、崩狼は……異種達に背を向けて走り出した。
此処に来て戦闘を放棄するとは思っていなかった異種も人馬達もあまりの事に戸惑った。
一体、どういう事なのか。
さっぱり分からなかったのだ。
「……」
平原の地平へ消えていく狼を見送って、彼らは互いに顔を見合わせたものの、ようやく自らの本懐が果たせるとエーデリアへと向きを変えた。
そうして、彼らは数人の人影を都市との間に認める。
四人の少女達。
一人はダークエルフ。
一人は人間。
一人は魔族。
最後の一人は、名状し難き者。
黒の外套を纏った彼女達を前にして異種達の盟主である青き竜の人型【貴龍】が上空から舞い降りる。
その左右に人馬達が護衛の為に付いた。
「お初にお目に掛かる。余はイグニシア・クルシス皇帝。エト・エイラル・イグニシア・クルシス。この地に逗留している者である。本日はエーデリア王室に依頼され、此処に参った」
進み出たエトに対して【貴龍】……衣服の代わりに鱗で全身を覆った美しい妙齢の婦人が何事かを人馬の一人に耳打ちする。
「我ら同盟は人語を発音出来ぬ故。この者と通訳とす。そう仰られています」
「分かった」
耳打ちされた人馬の言葉にエトが頷く。
「それで人里近くでこのような大規模戦闘を行うというのは聊か礼を欠くのではないだろうか? 異種の方々」
貴龍の口元が動くと人馬の声がそれをほぼ同時に通訳し始めた。
「礼を欠くと言うならば、それを最初に働いたのは人の方である」
「どういう事か?」
「我々は其々に我が子を人に奪われた者達が集まった同盟。一族を奪うのは礼だろうか?」
「しばし、待たれよ」
エトが横で異種達の様子を見守っていたイフィミスラに耳打ちする。
「分かった。すぐに連絡を取る」
掌の上で小さな魔導方陣を展開し、遠方のエーデリアへと連絡して数分後。
連絡を受け取ったイフィミスラからの報告にエトが再び前を向いた。
「確かに今から一か月程前に此処へ異種の奴隷として貴方達の子の搬入があったと記録が残っていた」
「ならば、即時返還を要求する。もしも、拒否するならば、同盟の力を持って力づくで奪う事となる」
「己の子を奪われて気が立っているのは分かるが、少し性急であろう。それでは事を仕損じる。まだ、この話には続きがある」
「続き?」
「今、報告を受けたが、これはエーデリアの総意で行われた事ではない。そして、エーデリアにあなた方の子はもういない」
「どういう事か?」
「このエーデリアは今の今までもう片方の隣国、アーズトリテに併合され掛けていた。その隣国の命令でこの国の議会の下にいる者達が今回の件に関わっていたと見ていい。しかし、議会の人間はつい先日逃げ出して、兵そのものは命令を実行にしたに過ぎず罪には問えない」
「人の法は我らには関係ない」
「それは承知している。異種に人の法を押し付けるつもりはない。しかし、だからと言って多くの民を危険に晒すのは大陸に国持つ者として看過も出来ぬ。あなた方の子は今アーズトリテ……たぶんは其処を治めるクラウゼン侯爵家の地下施設に囚われているはずだ」
「それは何処にあるのか?」
「だから、そう事を急くのは早計であると言っている。この大地においてわざわざ異種の子を攫うような物好きは少ない。それが多くの民を統べる人間の仕業であるとしても、他の民にはまるで知らされていない。あなた方が動けば、何も知らぬ者が死に過ぎる。更に言うなら、人の国へ害意を持って接すれば、それ相応の対処として子が危険に晒される事も考えられる」
「人に攫われ、もはやどうなっているかも分からぬのに今更危険に晒されると言われて留まれるものではない」
「然り。だが、もしも生きていた場合、人を死なせれば殺されてもおかしくはない。なればこそ、一つあなた方に提案がある」
「提案?」
「余の伴が何人かアーズトリテに囚われている。それを奪い返すのに近日出立する。もしも、あなた方が穏便に事を進めたいと願うなら、余らに帯同して頂きたい」
「それは……」
貴龍が他の異種や人馬達に顔を向けて何事かを相談し始める。
それから一分程して再びエト達に顔が向けられた。
「我が子らが無事である保障はあるのか?」
「保証はない。生死は不明である。何をされているのかも分からぬ。だが、もしも生きて無事ならば、治療を施し帰す事は出来る」
「それを信用に足ると思うのか?」
「それを訊く事が既に回答だと受け取ろう。最悪の場合、辱められて死んでいると仮定すれば、あなた方は単に人を害する存在となる。その場合は互いの生存を掛けて戦えばいいだけの事。もしそうでないならば、人から我が子を取り返して自らの住処へと帰ればいいだけの事。最も穏便に済ませられる方法を余は提案しているつもりであるが、如何に?」
しばらく、異種達は身じろぎ一つしなかった。
「……だが、奪われたという事実に対する我らの尊厳はどうすればいい?」
その言葉にエトは満額回答を得たと言わんばかりの悪い笑みで魔術を展開する。
一瞬、硬直した人馬達だったが、裏切られたかと臨戦態勢を取ろうとして、貴龍の手に阻まれた。
「これが今回、あなた方の子を奪う指示を出した議会、この国から逃げ出した裏切り者の顔である。彼らに対してならば、煮るなり焼くなり好きにすればよい」
エトの前に魔術によって幾つかの人間の顔が浮かび上がる。
それはセイリの演説中に逃げ出したアーズトリテのシンパである議会議員達の顔だった。
「本当か?」
「構わぬ。余を持てなしもせず、国を捨てて逃げ出した愚か者まで庇う程、余の懐は広くない」
「……了解した」
「では、明日出立するまではエーデリアにあまり近付かず近辺で待機していてくれると助かる。あなた方を連れて移動するにも大義名分が必要であるからして。情報を更に集めるまでの猶予も欲しい。その後は現地で対応を協議したい。連絡用の魔導の術式は渡しておく。何かあればそれで連絡を」
細々とした事を幾つか決めた少女達が去った後。
人馬の男達は貴龍に視線を集めた。
あれで納得しているのか、と。
人の言語とは違う波動が否定を返す。
だが、ついっとその細やかな指がエーデリアの頭上に聳える王城の上を差した。
そうして初めて人馬達は巨大な汪鯨に勝るとも劣らない大きさの艦船の下腹部。
大きな砲が自らに狙いを定めていたのを見つける。
「……我らの力ならば、あの空飛ぶ船を沈める事も出来ましょう」
そう人馬の筆頭は息巻いたものの、今まで自分達の目の前にいた皇帝と名乗った少女の事を思い出して、顔を硬くした。
それはそうだろう。
異種達にも人馬達にも分かるくらいにエト・エイラル・イグニシア・クルシスは異質だった。
その気配。
ただの人間には分からないだろうが、高位の能力を持ち、気配を読む事に長けた者には重圧(プレッシャー)以外の何ものでもない。
そんな気配すら実は控えめに押し留められていただろう事は想像に難くない。
そもそも話し合いに来たのだろう少女達に敵意は無く。
一欠けらの悪意も見えなかったのだから。
「 」
貴龍が僅かに溜息を吐く。
どれだけ強大な力を持つ異種だろうとも人という種に敵わないのは彼女が一番よく分かっていた。
神とすら崇められる種だからこそ知る人の業は深い。
不必要とも思える武力や技術を有し、それを維持し発展させ、更には何者をも超える知略を働かせる事もある人という生物の強さ。
それは個人のものではなく集団の強さだ。
実際、四種が束になれば、今まで話し合いをしていたエトと互角には戦えるだろうと彼女は踏んでいたが、同時にエトが有するのだろう背後の船までは相手に出来ないと分かっていた。
強烈な個性を発揮する個体とそれを取り巻く統率された大勢。
それを持って戦を起こし、異種達には理解不能の理由で他者を戮(りく)す人。
長い年月を観察に費やした者ならば分かる。
世界で最も敵に回してはいけないのが誰なのか。
過去の【大戦】に参加した人以外の種は数多いが、その場で多くの種族達は再確認してもいただろう。
人間の力はついに神にすら届く域に達している。
その力が自分達に向けられたならば、もう抗する術はないと。
「 」
我が子を思えばこそ行動を起こした四氏族だったが、それでも人間の話し合いに応じたのは単に力関係が明確だったからだ。
人に仇成す存在に成り果てても復讐するというのは、つまり種族ごと滅ぼしてくれという言葉と同義。
それを決断するにはまだ早い。
そう彼らは思ったのだ。
その日、エーデリアの民達はイグニシア・クルシス皇帝に再び感服した。
人を畏れた異種達の行動は皇帝の手柄となり、名声は高まるばかりだった。
悪い笑みを浮かべる少女の思惑通りに……。
*
永遠に続くと思われる書庫に一人。
幼い少年が立っていた。
彼の前途は水平線の彼方に消えている。
あるのは左右を塞ぐ何処まで続いているかも分からない高さの本棚とそれを照らす所々掛かる洋光(ランプ)のみ。
悪夢とその光景を見る者もいるだろうが、ある種の者達にとっては宝の山かもしれない。
本棚に並べられている背表紙に記された文字はこの大宇の始まりから終わりまでに知性ある種が残した全てを網羅している。
今現在、現存する文字もあれば、もう滅びた文字もある。
遥か未来に創造されたものや、一つの集落でしか通じなかったモノもある。
時に背表紙にあるのは文字ですらない記号、あるいは赤子が初めて描いた意味成さぬ絵もあった。
そこに在る本は意味を成した情報ではない。
人類が宇宙の始まりから終わりまでに瞬きした総回数なんて羅列もある。
または一人の男が生まれてから死ぬまでの頭の中身なんてのもある。
下らない情報は一つもないが、意味と価値を見出す情報は極僅かに過ぎない。
そもそも実際には“情報ですらない”本棚の本達は視覚化されている宇宙そのものだ。
「これはここか……」
と言っても、少年にとっては些細な事である。
全てが在るという事は全てが無いという事に等しい。
惑星の大陸に君臨する人類の極々一部分はコレを【宇宙記録(アカシック・レコード)】と呼ぶ。
魔術師や魔導士、科学者、技術者の頂点に君臨する一部分はソレを【世界根源(ムンドゥス・アーカイヴ)】とも呼ぶ。
古くは【宙(そら)の契約書(けいやくしょ)】と呼ばれ、多くの種の頂点存在に信奉されてきた。
大陸を統べる七教会の外部独立機構ではまた別の名で【根幹経典(セファー・ラジエール)】と書棚(ソレ)を呼ぶ。
「と、言っても全部写本だけどさ」
黒髪の少年はボリボリとポケットから小麦菓子を取り出しては貪っていた。
片手で本棚から器用に本を抜き出して捲る様子は手馴れている。
「それにしても人をこき使い過ぎだろ。あの悪女……」
一冊の本の半ばまで捲った時、少年は菓子を口に入れる手を止めてポケットからペンを取り出した。
ボリボリと菓子を頬張りつつ、ペンで本のページにサラサラと何事かを書き加えていく。
「あの“天”が作った写本の写本とか。後生大事にしてるにしては扱いも乱雑だし、人間てのはこれだから始末に負えない」
愚痴るのはいつもの事だったが、彼がわざわざ音声を発してまで愚痴り続けているのは七教会の上の方、主に七聖女からの依頼に忙しいからに他ならなった。
「可愛い部下の運命変えて欲しいとか。自分でやれよ。出来るだろ実際……あーあのババアめ……」
公に発言出来ない類の罵倒を並べながら、彼は最後の一行を書き加えると乱暴に本を本棚に戻してサックリと仕事を切り上げた。
遥か地平まで続いている書棚の群れの先。
一枚の扉が見えてくる。
ようやく仕事を終えた少年は蹴飛ばすように扉を開いて、その先で待っていた黒い制服を来た男にペンを渡すとドッカリと自分の部屋の椅子に腰掛けた。
バタンと閉まる音と共に部屋の内部から巨大な扉が消え失せる。
「お疲れさまでした」
「で、例の件は?」
「はい。滞りなく」
「それとあの聖女の娘の方。どうなってる?」
「現在、追っている最中です。まだ二つとも本は起動されていません」
「……なら、まだ気付かれてない、か」
「起動して初めて意味を持つ類のものですから」
「あの聖女もさすがに自分の娘が自分の意思で不幸を受け入れると決めたなら、文句なんて言ってこない。嫌味くらいは言われても逆に口角が下がる思いだね。はは」
「随分と荒れていますが、紅茶をお入れしましょうか?」
「いや、それより先にやる事がある」
「何でしょうか?」
「研究部門の旧教会派連中に貸しを一つ作っておこうと思ってね。こいつをウチの司書見習い扱いで引き抜いてきて」
「分かりました。配属は何処へ?」
「ディミトリア公国にある独立公文書館。すぐ傍に例の研究をしてるチームがいる。今更負け犬の魔術結社だの集めてやってるから、後は勝手にやるだろう。ウチが偶々スカウトした人材が偶々すぐ傍の連中の玩具にされるだけなら問題ない」
「お任せを」
男がすぐ横の扉が出ていく。
その様子を見て。
少年は黒檀の机の上にある缶から小麦菓子を貪りつつ。
一枚の篆刻写真を取り出した。
もっと簡単に映像や画像を送受信保存する術はあるのだが、七教会の中でもかなりの左遷先である独立外部機構でそんな最新機材や技術は降りてこない。
「ふん。自分達の後釜造り……手伝ってやるよ。細やかなプレゼントってやつさ」
皮肉げな嗤みを向けられた先。
写真には一人の少女の姿があった。
くすんだ色の髪。
気の弱そうな顔。
彼女の名はラタウト・ヴェルガナ。
ユヒア・ウェスティアリアの一番新しい友人。
そして、魔王に愛されし女。
救われたはずの少女の上を今再び影が覆おうとしていた。