第二章四十節「別離」
「あーら。珍しい。久しぶりにこんな場所通るんじゃない?」
果ての無い虚無に漂いながら、少年が僅かに瞼を開く。
星すら見えない闇は揺らぐ事もない。
空間も時間も在りはしないなら何故、声が聞こえるのか。
少年は理由を知っている。
意思だ。
何もかもを超越するのはそれしかない。
そして、こんな虚無で、魔族達の住まう世界、俗に魔界と呼ばれる【酷界】の外側にいる存在は例外を除けば唯一、一人だけだ。
「随分と消耗してるわねぇ? んもぅ。駄目よ。気を付けないと」
外なる神々すら回遊する虚無の海。
泳ぐは全身筋肉の怪物。
女のような男のような魔。
やけにテカテカした肉体は全裸で。
ホクホク顔で並び背泳ぎとは少年にしてもぞっとする光景だ。
「今の貴方はドM全開仕様なんだから♪」
それがこの世界において魂の行き着く終わりの最中。
死というものの途中であるというのだから、悪趣味な話である。
「あら? この症状ってまさか門」
「 」
上腕二頭筋が無闇に誇張されるポーズが少年の脳髄を直撃する。
「あんな骨董品何処から見つけてきたのかしら。家のインテリアにはちょっと向かないから小煩い基幹異種連中にくれてやったやつじゃない。よく使用方法なんて解ったわねぇ」
呆れた様子で少年を見る筋肉達磨がウィンク一つ。
「昔の自分を見てるみたいでちょっとセ・ン・チ♪」
死の最中。
久しぶりに来る場所の感覚に言葉も失くして。
少年が自分のいるべき場所の方角を見た。
輝き。
それは世界だ。
何も無い“外”とは比べるべくもない場所だ。
例え、それが真空の最中だろうと何も無いよりはよっぽどに、在る。
「それにしても懐かしいわ。此処に来るなんて川に落されて剣で串刺しにされた時以来じゃないかしら?」
「いつも君は笑ってたっけ」
胡乱なまま。
少年が呟けば、筋肉がグネグネと隆起し、至福の表情が形作られる。
「だって、あの時の顔、そそったもの♪ 幼馴染に殺されて、貴方はそれでもいいと泣いてたわ。そして、四人の仲間から剣を受けた時はもう泣くのは止めようって決めてた」
「随分、古い話だよ」
「こっちにしたら昨日の事よ。高々数十年。一瞬居眠りしたらあっと言う間だもの」
「……僕はまだ此処には用が無い」
「その生にしがみ付く理由なんて本当はない。それくらい解らないわけじゃないでしょうに」
筋肉の化身は、魔族の頂点に位置しながら、今は仕える身の上の彼が、少しだけ、いつもとは少しだけ違って、邪悪なまま少年の心に絶望を囁き掛ける。
いつもならば、やりなさいやりなさいとほくそ笑み、世界を弄ぶはずなのに。
「僕はさ。みんなの事が好きだよ。それはいつまでも変わらない。君が永遠の娯楽を求めて生きるように。僕は僕のやりたいようにやる」
筋肉の化身はその言葉に僅か瞳を柔和に細めた。
「偽善者。独善者。優しい人。どれもこれも貴方の為にあるような言葉だって多くの人間は言うわ。でも、貴方の本質はそれでしかない。永劫よりも永遠よりも強固なる意志。この世界が終わってすら終わらない。外なる神々すら呆れ果てる救済者。業なる天」
悠然と漂う二人の背後を何かが通り過ぎていく。
世界の外。
未だ在る旧い旧い何か。
それ一つで宇宙を喰らうに足るだろう影が異物に干渉するでもなく通り過ぎた。
「ん~~ここらは小物ばっかりで可愛いもんねぇ♪ 全部終わったら此処で釣りでもしない? きっと、たぁっくさん釣れるわよぅ。んふ♡」
少年は応えず。
一人泳ぎ出し、輝きを目指した。
「惑なる天。全てを遊びし君」
「なぁに?」
泳ぎ出す少年の背後。
天使との戦争中にも関わらず。
運動不足を解消がてら遠泳中のソレがニタリと嗤う。
「世界がどうしてあんなに輝いてるか解る?」
「さぁ、平々凡々な答えなら命がありふれてるからってところかしら」
「違うよ。世界が輝いてるのは複雑だからだと僕は思ってる」
「複雑だから?」
「あらゆる邪悪を成す君が世界を蝕むように。あらゆる人を守護した唯一神がいたように。世界には多くがある。悪いもの、良いもの、そうでないもの。同じものは一つとして無くて、同じようなものは幾らでもあって、それぞれが自分らしく振舞う。争いに塗れて、血の涙を流して、平和に腐って、幸せに死んで。何か一色には染まらない。解き明かす事に無限の浪費が生まれるくらいソレは複雑な形をしてる」
「多様性ねぇ」
「永遠の既知に絶望する超越者達の多くがこの世界から去った。けど、僕は思うよ。きっと、僕がこの世界をつまらないと感じる日は来ない」
「可能性の問題じゃない?」
「そうかもしれない。でも、君が停滞を嫌うように僕は全て在る事を望む」
「幾億回の出会いが最後には己を削るのに?」
「それが誰との別れだろうと、決して無駄なものはない」
「詭弁とは言わないわよ。それが貴方を強くしてきたんだもの♪」
「そろそろ帰るよ。みんなが待ってる」
少年は輝きへ向う。
消えていく己を感じながら。
再びの生を謳歌する為に。
やがて見えなくなる背中にやれやれを肩を竦めて声は呟く。
「哀しさも優しさも最後には風の中で朽ち果てる。報われぬ涙を幾ら救っても、最後にはたった一言が全てを別つ。そんな事、貴方が一番知ってるでしょうに……」
筋肉の化身は伸びをすると。
全てが還る場所で、己が破滅していく余韻にもう少しだけ溺れる事にした。
*
「ん……」
「だ、大丈夫なの?」
「あ、当たり前、だ。この程度の痛み……陛下のご心痛に比べればどうという事は……」
褐色の柔肌と紅い髪が踊る。
豊満な乳房も今は痛みに震えて何処か縮こまっている。
きゅっと己の胸を抱きながら、エーレインは自分の股間の違和感と痛みを受け入れていた。
クラウゼン公爵家地下研究棟特別交配実験室内部。
巨大な寝台の中央には二人の女と少年が一人。
そして、寝台横に人馬の少女がいた。
寝台横に下半身を座り込ませ、今も恍惚の表情をしながら眠る少年を見つめて、シュレディナは先程までの行為を思い出していた。
栗色の髪の下。
灰色の脳細胞の一つ一つに刻み込まれたような悦楽。
狩猟民族たる顔の凛々しさも何処へやら。
今の少女の脳裏にあるのは少年との甘い甘い交合(まぐわい)と温かな気持ちだけだった。
最後の瞬間。
大量の精を少女の中に吐き出して、少年は気を失った。
慌てた二人は少年を抱き止め、種付けられる悦びに飽和した頭で少女は女の悦びを受け切った。
妊娠したように精で膨れた腹。
白濁が少しずつ流れ落ちる秘裂は僅か開いて、続けての交配を欲していたが、少年の急な脱力に少女は全ての欲求を押さえ込み、室内に備えられた幾つかの薬を慌てて少年を支える二人へと配った。
それから十数分。
寝かせられた少年の幹が大きく膨らんで来た事で、エーレインとエリザリドは少年の許しもなく交合に臨んでいた。
硬く雄々しいソレを自分の股間に宛がい。
痛みに耐えながら全て胎に収めた最初の一人はエーレインだ。
慎ましやかに整えられた陰毛の下。
男を知らなかった襞が抉られる事を受容して、蜜で少年の下腹部を濡らした。
改造されて後、膨らみ方も回復力も尋常では無い少年の幹である。
普通の女なら塗らされて尚苦しい。
しかし、皇帝の側近として肉体を鍛え、しなやかな筋力で剣を振るってきたエーレインの中は襞の一つ一つが厚いながらも過敏なくらいに官能を貪っていた。
「ん、ふ、くぅ! こんな、陛下もこれで篭絡、んくぅぅぅぅん♡」
グジュ。
僅かな身体の震えが未だ痛みしか感じていなかったエーレインの内部で蕩ける蜜を吐き出させる。
ほんの少し膣(なか)が幹と絡まりあっただけで思わぬ声を上げてしまう程、その変化は急激だった。
「な、こんにゃ、くぅ!? 薬も使われてないのにぃ!」
「そ、そんなにいいの?」
ゴクリと唾を飲み込んで。
未だに身体をシーツで覆っているエリザが相棒の表情の変化と甘くなった声に訊ねる。
初めては痛いもの。
それが貴人専門の性関連の雑誌でも通説だ。
アングラな辺りからそういう手引書を買う貴族は多いが、エリザもその例に漏れない。
智識だけなら豊富な耳年魔である。
「うぅ、へ、陛下はこんな行為を何時間も、あぅ!? やぁ?! 腰、うごいてぇ♡」
少年との交合(まぐわい)は初めてが気持ち良い。
それが魔王の能力かとエリザはモヂモヂと股間を擦り合せた。
もう蟲の息。
そんな状態で瞳の端に涙すら滲ませて乱れる様。
どうすれば、ここまで堅物のエーレインを淫乱に染められるのか。
少年が性的な意味で恐ろしい怪物であると認識する一方。
エリザの内心は好奇心とそわそわした落ち着かない心持で満たされていく。
少年を根元まで飲み込んで。
恥骨を少年にピットリと付け。
エーレインの腰が前後に揺さぶられていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、ん、くぅん♡」
腰をそれ以上揺すれば、本格的に快楽に飲み込まれてしまうと。
最後の意地のようなものが肉体を前に倒れさせた。
しかし、そのまま一休み出来るとの浅はかな目算は脆くも崩れ去る。
グニュム。
乳房が少年の胸板に押し付けられ、拉げて。
「ひぁぁぁ♡」
全身が性感帯のように快楽が奔った。
動きを抑えようとして胸の先を擦っては更に本末転倒。
更に高められた濃密な快楽が乳首を凝り固め。
自分の体重で磨り上げた乳房からの衝撃で半ばエーレインは達していた。
「う、ぐぅ!? ふぁ、や、これ、以上はぁぁ!?」
痴態を晒されてしまった恥辱と悦楽に負けつつある己の痴態に涙が零れる。
「だ、大丈夫!? エーレイン! ね、ねぇ!」
もうエリザの声も耳に入らない様子で。
緩んだ口元から唾液を滴らせながら腰を動かし、乳房を擦りつけ。
エーレインは少年に口付けしたい衝動に駆られた。
(そ、それは……へ、陛下の相手にそのよう、な。で、でも、もう、こんなぁ あ、あ、もう?!!)
それが禁断の魔王の魅力か。
未だ気を失っているとはいえ。
それでも女のように綺麗で、あどけない顔が、エーレインの母性を擽った。
「へ、へいかぁ♡ すみまひぇん♡ んむぅ♡♡」
「ちょ、ちょっとエーレイン?!!」
エリザとシュレディナの前で端も外聞も無く。
眠り王子の唇を騎士が奪う。
はしたない。
最悪だ。
初めては陛下と決めていたのに。
そんな後悔とも不遜とも付かない感情と。
気持ちいい。
ずっとこうしていたい。
腰を突き上げられたい。
そんな雌の思考が混じり合い。
「ティア、しゃまぁ♡」
皇帝の側近。
ヴァルガンノースを束ねていた元隊長の理性は崩壊した。
グヂュ、グジュ、ジュヂュ、ミュチュ。
一度も引き抜かぬまま。
雌の穴が内部を戦慄かせ、少年の幹をリズミカルに甘く絞る。
「んぐぅ♪ ひぐぅ♡ おぐぅ♡ あ、あ、あ゛ぁぁあ゛ぁぁ゛ああ?!!」
「エ、エーレイ―――」
快楽に負けた。
皇帝に忠節を誓った相棒の豹変はエリザに恐怖にも近いものを感じさせた。
完全な雌の表情で至福の表情を浮かべて。
腰を揺すり立て、乳房を擦り立て、少年の唇に吸い付いて。
それではまるで獣だ。
人間ではない別の何かだ。
生々しい音と光景に頭が付いていかず。
動けもせずにエリザは股間からプチュッと蜜を吐き出した。
軽く達してしまったのだ。
それでも自覚は当の昔に無く。
その指がシーツ越しに己の乳首を摘む。
「エーレイン。し、しっかりしてよ。そ、そんな顔されたら……あ、あたし……」
その後、何と続けようとしたのか本人にすら解らない。
ただ、羨ましいという本音があったのは間違いなく。
「触ってよ……」
少年の手をシーツを解いた形の良い胸に導いたのはエリザ本人の意思だった。
まるで女の子の手。
細くて爪すら真珠のような手。
エトにすら触らせた事の無い胸に男の指が触れるという事実がえも言われぬ背徳感を生み出し、その背筋を今までの比ではない愉悦で震えさせた。
「や、やぁ こんな、ひんやりしててぇ♡ きもち、いいよぅ!?」
今にも消え去りそうな甘い声。
いけないと思いながらも止められず。
その指を両手で自分の胸に押し付け、絡ませ、乳首をコリコリと押し潰させて。
「一人で慰めるなんてだめ、なのにぃ?!」
もう自分がエーレインと同じ雌の顔になっているとも知らぬまま。
エリザは我慢しきれない衝動を行動に移した。
指が下へ下へ。
そのすじへと向う。
エーレインに比べれば薄い栗色の毛に覆われたすじがニチュリと蜜を吐き出す。
褐色の肌とコントラストを描く白い肌が仄かな朱に染まった。
「こ、これで……」
チュルン。
「~~~ッッ?!!」
あっさりと蕩けていた場所に指が埋没し、痛みを覚悟していたエリザを不意打ちした。
ビクン。
達していた。
腰の奥底。
胎の奥がキュウキュウと伸縮し、細く優しい指で処女膜までなぞられた快楽。
それが背筋から脳髄まで激烈な反応を送り出す。
言葉にならない。
それがエリザにとっての絶頂だった。
まだ、エーレインのように交合してすらいない。
(なのに、あたし、かんじひゃってぇぇ♡)
少年の身体が、見知っている凛々しくも愛らしい男とも女とも付かない顔が、いつもの曖昧な笑みを浮かべていないだけで、そこまでのものか。
雌として牡を慕う本能が。
服従と被虐と快楽に塗れる雌としての悦びが。
今まで知らなかった感情の置き所を放火した。
熱く熱く燃え盛るものが胸に渾然一体とした恐怖と愉悦のハーモニーを奏でる。
今までの自分の崩壊。
そして、新生。
昂揚しただけでは決して無い。
女としての自覚が、まだ十代でしかないエリザを、魔性にする。
「あ、あんたが、わ、悪いんだから、ね?」
自らがこれからしようとしている行動がはしたないものだと知りながら、それでも眉を怒らせて、少女は少年の顔の上に跨ろうと―――。
「……?」
「ふぁ!?」
「え?」
パチリと少年の目が開いた。
沈黙の一瞬。
そう、例えるなら……眠った女を強姦しつつ快楽を貪っていた男が我に帰って暗澹とした気分に支配されるような、そんな間が静寂を生む。
「……」
「……」
「……」
「主様。御目が醒めたのですね」
一人空気を読まず。
今までエーレインとエリザを見守っていたシュレディナがニコリと寝台横で微笑んだ。
「えっと、その……何し―――」
「い、言うな!!? 言いたい事は解るが何も言うな!!?」
赤毛の女はもう顔を茹蛸のようにして叫んだ。
理性が一瞬で戻ってくる辺り、やはり彼女は皇帝の近衛騎士だった。
「ば、馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!! 何でこんな時に起きるのよぉおおおお!!!?」
殆ど涙声でエリザが恥死するかという勢いで騒ぎ立てる。
シュレディナと交合(まぐわ)っていたはずが、どうして二人といたしてしまっているのか。
意識が飛んで、一時死んでいたのだろうとは思うものの、それをその場で言って場を白けさせるのも悪いと、少年は相変わらずの曖昧な笑みで誤魔化した。
「もしも、良ければ。えっと、ここからは僕がしても……」
「な、何を言い出すんですか!? ティア様!!」
「そ、そうよ!!? そ、それは、それで、ええと、その……」
今まで自分達の方から一方的に快楽を貪る為の行為をしていた罪悪感。
そして、決まり悪い事この上ないシーンを見られた羞恥と絶望。
全てが綯い交ぜになって混乱する二人に少年はいつもよりも優しく、幼子に言い聞かせるよう囁く。
「僕が気を失ってた間に進めてくれてたなら、それくらいは……」
少年の気遣い。
自分達の身勝手な欲求の結果に助け舟を出し、尚且つ泥まで被ろうとそんな空々しい事を言う少年に、二人は己が一生頭が上がらなくなったような気がした。
「それにこんなに気持ちよくなったら、その……あんまり我慢も出来ない、かな」
「ティア様……」
「あんたって、ほんと……」
全部承知で笑むにはどんな聖人のような心が必要だろう。
自分がされていた事に怒るでもなく相手を気遣う様子に二人が沈黙する。
「大丈夫だよ。初めては誰にでもあるし、ゆっくり、ね?」
まだ繋がったまま。
理性を取り戻したエーレインが再びそれを手放し、少年をそっと抱き締めた。
「エ、エーレインさん?」
「馬鹿、なんだから……」
エリザが身体を少年に寄せて、腕を胸に抱き、そっと頬に口付けする。
「こ、これからは、エーレインで結構です。それと敬語も要りません」
「女二人に此処までさせたんだから、セ、セキニン、取ってよね?」
僅かに顔を綻ばせた二人のぎこちなくも温かな笑顔。
それが少年の脳裏から未だ残る死の気配を取り払っていく。
(君は何もかもが最後には虚しくなるって言うのかもしれない。でも、この世界がこんな風である限り、僕は進み続けられるよ。どんなに足が止まっても、此処には、この世界には、こんな人達が、僕の大切な人達がいる。護っていきたいものが在る)
遥か遠き虚無の中、今も泳いでいるだろう筋肉達磨に少年は内心で告げた。
「それじゃあ、みんなでしよっか?」
三人の雌達がこんな時だけは何処か凛々しい少年にコクンと素直に頷いた。
*
嘗て、人は旅人となって世を巡った。
地の奥底から天の階まで。
彼らの往く先々で多くの種は気付いた。
最盛と衰滅を次に享受するはこの者達だと。
強靭な爪があったわけではない。
堅牢な鱗があったわけではない。
幾ら強くなっても肉体は他の種族に並々劣る。
幾ら数が多くとも強者たる個体は僅かに過ぎない。
だが、二つだけ抜きん出て人という種全体に備わる大きな能力があった。
一つは変化の速さだ。
まるで月の満ち欠けを嘲笑うかのように人は変わっていく。
社会・生活様式・意識・文化・精神・肉体。
従来の種族が百万の年月を重ねて行う適応・最適化を人はほんの僅かの時間で体現する。
それどころか。
あらゆる分岐を種族内部で繰り返し、巨大で複雑な適応形態を確保するまでになった。
争いは種と力を洗練させ、平和は文化と精神を発達させ、次々と引いては返す波の如く千変万化の進歩を続けた。
遥か昔。
大陸で最弱の力しか持たなかった人は今や大陸に覇を唱える種族となった。
人から分岐した亜人。
人の文化を取り込んだ種族。
人に崇められる事で高まり衰える神。
今や人は全ての中心にいる。
超越者達すら驚く神速の変幻は破滅すらも糧としたのだ。
話を返して、二つ目の能力は愛だ。
多くの種が明確に持ちながら言語化も出来ずにいた概念。
人はそれに名を付けた。
そして、多くの種との間でそれを語った。
愛する事。
愛される事。
どんな者とも語らう事が出来る人の性こそ繁栄の礎であった。
神も魔もそれを齎した人を愛し、愛された。
種が存在が違っても変わらぬ営みは文化であり本能。
分かち合う事の喜びを誰もが人に求めた。
「故に」
クラウゼン公爵家の敷地内。
墓地の上に立つ聖堂。
その中央。
老人は周囲の虚空に浮かぶ多くの映像を見るでもなく世界の変容を感じていた。
近付きつつある旧き異種とイグニシアの航空戦艦。
多くの教会施設を襲った恐ろしき化け物。
突如として人の出入りが途絶えた重要地。
傀儡の消え新たな門出を迎えた隣国。
大国との関係を模索する遠国。
新たなる戦力を投下した聖女。
「我らは誰もが皆、人の子であると己を知る。唯一、あの魔王を除いては」
どんな異種も亜人も今や人の影響を受けぬ者はいない。
しかし、人に感化され、良くも悪くも付き合いの深い種族や神々と、あの少年は違う。
それがクラウゼン公爵家党首の結論だ。
「人を習う事もあるだろう」
無論、それ無しに魔王は生きてこれなかった。
「人を愛す事もあるだろう」
今も誰かを愛し、愛される少年の姿が虚空にはある。
「人を救う事もあるだろう」
だからこそ、世界は破滅を免れてきた。
「ならば、何故この“門”は起動する?」
ソレを起動し得る存在は基幹異種が唯一。
だが、動かす為の動力には特定の因子が必要だ。
数百年から千年掛けて集積されるはずだった力はもう既に満ちている。
魔王たる少年が満たしてしまった。
「人に習い、愛し、救いながら、やはり貴方は……」
クラウゼン地下最終層。
遥か古より護られてきた円環(システム)が起動する。
“起動承認”
「人に絶望もしている」
“起動因の入力を確認”
「感情。最も暗き思い。それ無くして最後の機構は回らなかった」
“管理者権限が移譲されます”
「千年掛けて聖女に届かせる闇が高々数日で溜まる」
“プロトコル正常”
「まるで笑い話だ」
“当該機構の正常動作を確認”
「こちらの計算上、暗黒神ですら起動に一月の猶予が要ると言うのに」
“外部補助機関始動”
「幾万の贄が嘆いて、ようやく千年」
“散逸因子集積開始”
「その諦観の深さ、如何ばかりか」
“予定数値到達まで七十二時間”
聖堂内部。
ニェハエルの紋章たる“黒き十字架”が描かれた床に魔術方陣が奔る。
無数に並んだ長椅子が燃え上がり、中央で佇むランナは一人深い溜息を吐いた。
「歳を取ったか……被検体に感傷をぶつけるなど……」
「クゥヲ?」
聖堂の奥。
演台に座って父の愚痴を聞いていた異形の娘がどうかしたのかと父に尋ねる。
「何でもない。ただ、人の世の業とは深いものだと再認識しただけだ」
「クゥ……」
よく解らないという顔でマヲンが首を傾げる。
「あの三人が終わったら行ってくるがいい」
「クヲ!」
パタパタともちを伸ばしたような尻尾が揺れた。
「このいつ怨念に朽ちるともしれない世界に価値を認めた男だ。お前の花婿には似合いだろう」
「クックヲ///」
その言葉に照れる娘の姿を目に焼き付けて。
ランナは天蓋を見上げた。
「我、蹙(しじ)まう儚き泡沫の如くなり……か」
身体が燃え上がり始める。
それが尋常の炎でないのはマヲンにも解った。
あらゆる因子を焼くのではなく分解する炎。
構成因子の情報の繋がりを保持したまま人を止める術。
大陸において神への昇華儀礼の一つだった古代術式。
仮初めの死と再盛。
生まれ変わりの秘儀は人の業が生み出した輪廻そのものだ。
「後は全て任せる。やれるな?」
「クゥヲ!」
胸を張ったマヲンに微笑んで。
ランナは自分が失われていく間も恐怖一つ浮かべず。
「これより基幹異種への転生実験を始める」
ただ研究者の顔で、己を被検体とした人生最後になるかもしれない実験の開始を告げた。
「失われた因子の収束、再構築、再構成、これによって新たなる命の創世と甦りは果たされるだろう」
己の父親が人として逝ってしまう。
それを理解しながらもマヲンは涙を流すでもなく止めるでもなく。
最後まで好奇心に満ちたまま微笑んだ。
「世界よ。唯(ただ)、其処に在れ。全てが必然である宿世(さだめ)の如く。愚かなる人の叡智に今一度の夢を」
炎の中に今まで血統に絡め取られてきた男は没した。
「クゥ」
任せられた。
そんな響き。
燃え上がる聖堂の中。
少女は父に聞いてみたかった事が今更にある事を知る。
彼にとっての夢とは何だったのか。
今となっては解らない。
もし再び出会う事が出来ても人間を止めた父がそれに応える事はないだろうと感じるからこそ、彼女は、マヲンは、少し残念に思った。
灰になって散っていく椅子は紅く。
煙もなく失われる歴史の一部がマヲンの背中を押す。
「クークヲク。クックヲクヲ。クヲックヲ」
育った場所。
始まった場所。
祈った場所。
そのどれもが聖堂だった。
地下研究棟の命の大半は此処で聖別されてきた。
使い潰される命にも等しく、祈りと祝福は与えられた。
それが終わる。
「ク~~」
仮初めの墓はもう要らない。
そして、これから来るどんな時代も祈りと祝福を必要としない。
もう幸せであるものに何が必要であろうか。
そう説いたランナの声が聞こえてきそうで。
マヲンは一際大きく啼いた。
「ク~~~~~~~ヲ~~~~~~~~~~~」
物悲しい声かもしれず。
祝福の声かもしれず。
あるいは単なる別れの挨拶かもしれず。
叫びはアーズトリテの隅々にまで響き渡っていく。
「……」
一粒落ちた雫が涙である事を彼女は知らない。
誰もそれが大切なものだとはマヲンには教えなかったから。
生まれながらに人というものを悟っていた少女の悲劇が一つだけあるとすれば。
それはきっと哀しみも痛みも苦しみも人として刻む事が出来ないという事だけだろう。
少年は言うに及ばず。
“悟る”とは涅槃を得るという事。
それ即ち死である。
生きながらに死んでいる者が生を真に謳歌する事はない。
それでも諦めきれない者がいるという事。
少年の生き様をこそランナは娘に伝え損ねた。
けれども、いつかはそれを少女が知る日も来る。
何故ならば、人として親として父としてランナが最後に残したのは少年と少女の結び付きなのだから。
「…ヲ…」
不意に喉の奥から出てくる言葉をマヲンは呟いていた。
「ク…ヲ…サン」
何故か。
今、言わなければならない気がして。
「ヲ…クゥヲ…サん」
届かない感情の本流は行き場を失い。
やがて、一つの言葉として結実する。
幼子が初めて発するようなたどたどしい韻を刻んで。
普通の親子ならば、何千回、何万回も使うだろうありふれた言葉は。
――――――ヲトウサン。
燃え上がる世界の中、空に届く。
聞いてくれる人もない言葉の虚しさ。
哀しみにこそ宿るもの。
人として知らなければならないはずのものを父から受け取って。
少女は初めて自分が不完全な生物だと知る。
どんなに擦っても胸の痛みは消えなくて。
凍えたように手と足は震えて。
視界は歪んでしまったのだから。
「……ッ」
父の死を糧にマヲン・クラウゼン・セト・ニェハエルはようやくその日。
本当の“人”となった。