第二章四十三節「闘争」
懐かしい音色を奏でながら己を包むものを感じて。
彼女は自分が未だ己の足では立っていないのだと知った。
「これが次代の聖女、ですか」
蒼い礼服を身に纏う男。
イグニシア・クルシスの実質的な第三権力者。
D・グラム・ハイラン執政官。
藩落の荒野で仕掛けてくるには相手の名は大き過ぎた。
突如として馬車の前に現れた男の言葉は簡潔。
歯に衣着せて言おうとも一言。
帰れ。
己の目的とする人物の名さえ解らず。
母の親衛隊のような男を連れて。
それで追い掛けた相手が誰なのかを知って。
驚く間も無く罵倒されたに等しい。
だがそれでも追い返そうとする相手へ怒りを感じなかったのは立ち姿故。
世界は広い。
沢山の人がいて、沢山の出会いがある。
如何に大陸中央諸国からあまり出た事の無い箱入りとはいえ。
それでも世界が広い事を彼女は知っている。
多くの仕事場を渡り歩きながら、僻地へ任務に飛ばされる事は多々あった。
紛争地帯から無法地帯まで仕事現場は問わなかった。
だから、その姿に覚えたのは敬意一つ。
七教会の正式な部署の武官に喧嘩を売るという行為に聊かの躊躇も無い潔さ。
枯れ木の男が全て承知の上であると思えば、向けるのはただ武力のみ。
話し合いを持たなかったのは最善の選択ではなかったかもしれないが、最敬礼に近い。
「……」
彼女が一粒雫を落とす。
「貴女を甘く見ていたようだ。償いましょう」
D・グラム・ハイランは彼女に対して最大級の切札(カード)を切ろうと腕を上げる。
*
ユヒアとの馬車による鈍行の末。
そろそろ次の都市国家が見えてくるはずだと進んでいた夕暮の畦道(あぜみち)。
地平に落ちる夕暮に突如として現れた枯れ木の男との一連の争いに伊達男フェルラス・ディオスは一切の介入を行わなかった。
それは事前にユヒアと打ち合わせていた仕事相手(もくひょう)との戦闘には関わらないという約束があったからだ。
本来なら何に変えても守るべき少女。
それを見守るだけなんて本来ならば有り得ない。
フェルラスが七教会より個人として貸し出してきた装備は警備用の最軽量装甲(ハーフプレート)と何の変哲もない純鉄製の長剣(ロングソード)のみだったが、十分に少女を守れる気でいた。
世界最強の汎用兵装である高格外套を私事に貸し出す程、七教会の兵装管理は甘くない。
それが例え七聖女の身内を守るという目的であろうともだ。
それでもフェルラス一個人の技量は現代の兵士中において最上級に近く。
戦闘能力は極めて高い。
夜盗程度は言うに及ばず。
七教会に仇名す魔術結社や廃絶した王家、皇族の一派に至るまで並みの戦闘技能保有者の集団では傷一つ付けられないだろう。
その彼が今はただ何も出来ずにいた。
ユヒアの命が危なくなれば、護ろうと誓っていたにも関わらずだ。
その理由は目前にある。
(ゴリ押しでも装備を持って来るんだったか!!)
数百メートルに渡って焦げ付いた荒野。
雹と雷を貫いて真昼の如き光が駆け抜け、天の雲を払っては遠ざけていく。
衝撃に引っくり返った大地のあちこちは隆起しながら地下水を吹き上げ。
空間の断裂に引き裂かれた位相の闇があちこちに奈落の如く広がっている。
繰り広げられる争いの傷跡は凡そ超常の力を持つ者達が数十人いてようやく成し遂げられるかどうか。
空気中の水を根こそぎ分解、圧縮水素として爆裂させたのはユヒアだ。
オゾンの匂いが立ち込める周辺で空間制御の精緻を極めた一撃を放ったのはハイランである。
その手から湧き出した位相の刃は単純に質量を別空間に消すのみならず。
周辺の環境を構築する物質。
彼をじわりじわりと追い詰めるユヒアの変化させた空気(どく)や珪素(つち)を消し去った。
呼吸すらしているのか怪しい枯れ木男は一呼吸の間にも手品よろしく別空間から取り出した反動利用式(ショートリコイル)の拳銃で散弾を放ち。
ユヒアはリロードが終わるより先に懐に飛び込んで攻防を同時にこなす。
反動を軽減するスライドが再び定位置に戻る間も与えない早業だ。
ハイランの使用する拳銃が大陸中央諸国でも一般には出回っていない型式なのは言うまでもないだろう。
軍事用の火砲でも個人の携帯用でも進んだ火器の流通は七教会に殆ど押さえられている。
それでも銃を使うのは現代の大陸において重火器の重要性を知っているイグニシアの頭脳だからこそだ。
放たれた散弾は外れてもその威力を遺憾なく発揮し、子弾に刻まれた【秘儀文字(アルカナ)】を回転させながら虚空に浮かび上がらせた。
弾丸が周辺魔力を吸収枯渇させて空間断裂を引き起こしていく。
懐に飛び込んだユヒアが油断したわけではないだろう。
しかし、個人対個人の戦闘というものは戦争ではない。
新しい兵器や技術が決め手とは必ずしもならない。
それどころか個人の戦術単位でものを言うのは最後には経験、場数の多さだ。
たかだか一年。
過酷な場所を歩いてきたとはいえ、未だ若いユヒアには争いの経験が圧倒的に不足している。
己の背後。
断裂した空間へと引き寄せられる空気の流入に気付きながらも問題無いと無視したのは彼女の経験が浅かったがためだ。
本来ならば、何の障害にもならないはずの微かな肉体の減速。
それが懐に入った瞬間を狙い澄ました刹那の一撃となって牙を向けば、腕の一本も飛ぶ。
ハイランの腕が防御や攻撃の態勢を取るより先に振り抜かれたユヒアの腕が、多大な物理量で反対側へと捻子(ねじ)折れた。
通常、ユヒアは傷付きようもない量の魔導によって肉体を保護されている。
だが、防護用の恒常性魔導の一切が瞬間的に肉体に掛かった過負荷に耐え切れず破壊を生んでいた。
ハイランの懐から離脱し、虚空を魔力の生み出す質量で数段蹴飛ばして距離を取ったユヒアだったが、痛みは消せても動揺までは消せない。
何が起こったのか。
冷静に観察すれば、彼女にも自分の腕を折ったものの正体の欠片は解った。
空間制御技術。
それは魔導においては高等技能の一つだ。
その技能を極めていくと最終的には身一つで惑星などの巨大質量の保存と管理を行う域にまで辿り着く。
つまり、端的に言えば“補給も兵站も要らない軍隊や国家を個人が持ち歩く”という事になる。
ハイランが制御し得る空間の容量が大きければ、何があってもおかしくない。
“蔵”の大きさは如何程か。
ユヒアが相手をしているのはイグニシア・クルシスの凡そ全ての軍事用装備や研究結果を所蔵しているかもしれない男だ。
それを考えれば、空間制御で別位相に溜めこんだ大質量の“何か”を極小単位にまで縮めて運用している事は想像に難くない。
それが鉄の塊だろうと鉛の塊だろうと物理的な圧縮限界を無視した質量を一定の体積で扱えば、それはそれだけで比類無き暴力だ。
空間制御術式を扱い得る鍛冶師が伝説の武具や防具を作る時、彼らが創作したものは一山岳の鉱脈を全てを次ぎ込んだ【質量武装(イングネス・アームズ)】である事も多い。
貫徹するのに文字通り山を刳り貫き断ち切る攻撃がいる防具は質量のみで幾万の攻撃を凌ぎ切り、山岳の総重量そのものを受け止めるだけの技量がいる剣は一太刀で高位の魔族を八つ裂きにする。
ハイランの地位を考えれば、稀少な魔力親和性の高い鉱石のストックや魔術防護を突破する兵装程度五万と溜め込まれているに相違なかった。
「「……」」
そこまで会話は無し。
ハイランとユヒアの間には相手の力量を測りかねるところがあった。
最初こそユヒアの方が劣性に立っているが、そもそも一撃で決着が付かないという事は二人のような高位の戦闘技能保有者にしてみれば、相手が手加減しているという話だ。
腕が捻子折れただけで済んだのは相手が一撃で殺害する事を前提とはしていなかったから。
無論、ユヒアにしてみれば一撃で殺されるつもりはなかったものの、小惑星程度の質量をぶつけられれば如何な彼女でも魔導の加護を消費し切った瀕死の状態だっただろう。
勿論、そこから肉体を回復し、反撃に転じる程度の芸当はこなすのが当然でもあるが、それにしても聖女の娘と知った上で争いに望み、挑発までしてきた相手が手傷を負わせる程度で済ますだろうか。
(屈服させて七教会に送り返したいって事?)
少女の疑問と同じく。
ハイランもまた思考の上で相手の意図が見えていた。
(あくまで仕事。他の執行者とは違って人死には出したくないという事ですか)
互いに全力には程遠い。
相手を殺す気もない。
なら、その五分にも満たない戦闘にも両者は納得がいった。
本気を出せばどちらかが死んでしまう。
不意を突いても半殺しで済ませられる技量同士ではない。
技量が高ければ高い程、拮抗すればする程。
戦いはどうなるか解らない予測不能の事態へと陥っていく。
だとすれば、争いを終わらせるのは純粋に根競べしかない。
一撃で不安ならば二撃で。
それがダメならば三撃で。
致命打にならない攻撃による消耗戦で勝負する事となる。
「これでも結社にて【真名(エイリアス)】を賜った事もある身です。一応、術者の端くれとして名乗らせて頂きましょうか。我は【虚淵光(イーヴィヒカイト)】これより貴女を倒す者の名です」
時間が掛かる戦いになると知るからこその名乗りだっただろうか。
旧き魔術結社には優秀な者に特定の名を授与する風習がある。
それがもはや七教会の総合学術である魔導で滅び掛けた存在でしかなかろうとも、未だ術者達の間では敵を敬し、礼節を重んずる雰囲気は残っていた。
大陸の何処だろうと通じる魔術師達の掟だ。
結社の殆どを解体してのけた神域の魔導聖女を母に持つユヒアにとって、真名は一般に出回っている大衆小説や古いお伽噺の魔法使いの話に過ぎず。
しかし、自分がその旧い旧いものものを亡ぼしつつある母の血を受け継ぐと知ればこそ、堂々と彼を前にして己の口上を舌に乗せるのもまた礼節を重んじる彼女らしかった。
「ユヒアはかあ様から真名を貰いました。いつか貴女が自分の技で相手を治める時に使いなさいと頂いた名が。我は法術師が一族ウェスティアリアの末【咒祝(シュノハフリ)】」
ハイランが胸に手を当てて礼をする。
「大陸に嘗て高名を馳せた【稀呪(ヴィクス・マギア)】の血統と立ち合える事。一術師としては光栄に思います。ですが、我が主の為、此処で処断させて頂く」
ハイランの周辺に轟々と音を立ててあらゆるものが流れ込み始めた。
「!?」
今の今まで静観していたフェルラスが今度こそ自分の身も危険だと判断し、大急ぎで馬車を走らせ、その場から遠ざかっていく。
――――――【獅禍埋葬(スィペリエント)】
あらゆる魔術師に言える事だが、彼らの最終目標の一つは熱力学の原則と等価交換の原則から逃れる事である。
巨大な技を編むなら、それなりの時間がいる。
精緻な技を紡ぐなら、それなりの触媒がいる。
その単純で純粋な理を捻じ曲げてこその魔術師なのだ。
時間と手間を惜しんで世界は変えられない。
しかし、彼らの一部はその過程を“比較的”覆す階梯へ至る。
世界の法則を編纂し、己の都合で改竄する者達は最後には必ず二つの法則を“多少”逸脱する。
辿り着く者は極少数だが、それに準じる者は大陸数億の民の中にも未だ万人もいるだろう。
ハイランもその一人。
嘗て大陸南部の魔術結社に所属した【名付き】の男だ。
一人の人間が瞬時に編むとしたら、その術は大き過ぎる。
一人の人間が刹那に組むとしたら、その式は複雑過ぎる。
だが、見かけ上瞬時に発動した彼の攻撃は法則を逸脱していない。
それは彼が“術式を保存して溜め込む程度の階梯”である証明に他ならない。
しかし、イグニシアが擁する大魔術師達に三日三晩編ませた術のストックは五百種以上。
並みの高位階梯の術師達では揃えられもしなければ太刀打ちも出来ない質と量は脅威だ。
その中でもあらゆる魔術師にとって天敵のような術がそれに違いなかった。
(力が―――この魔導は!?)
虚空で魔導による方陣防壁を展開し、恒常性の防御魔術を最大効率で回していながら、ユヒアは己の肉体から力が奪われていくのを感じていた。
「潔く帰ればよし。あくまで進むと言うのなら、これを突破してからにして頂きたい」
ハイランの周辺に引き込まれていくのは惑星を構成する物質だ。
大地も大気もまるで飴のように引き延ばされて彼の足下に呑み込まれていく。
それだけならば、位相に周辺を引き込んでいるだけで説明が付く。
しかし、ユヒアは自分を守る防御が次々に魔力や術式原理上の媒質の枯渇で停止していくのを冷静に分析し、相手の術の正体を看破した。
(特殊な【魔匝窟(ルドゥム・ラクム)】の逆回し……こんな事が……)
大源(マナ)だけではない。
要素(エレメント)までも引き込む蟻地獄。
足元に引き込まれていると見せかけて、実際には彼の周囲、虚空までも呑み込まれている。
世界の一穴。
ユヒアは知りようもないが、それは大陸東部を治める乂羅の頂点【神門(みかど)】が座した禁山の中枢能力と原理は同じだった。
あらゆる世界の構成因子を集積する事で万象操る術式の一部。
神門との違いはハイランが全ての構成因子を引き込む事しか出来ない事だろう。
それでも天然に出来た場所とは違い引き寄せる力は強力だ。
全てを別空間へと誘う不可視の穴(ソレ)に引き込まれれば、圧死は何とか免れるにしても身も心も相手の制御する空間の下、好きに弄られるだろう。
“相手を倒したので帰還しました”とユヒアの口を使って語らせるのも不可能ではない。
無数の対策が少女の脳裏を廻って。
そして、斬り捨てられた。
(逃げる?)
論外だ。
(戦う?)
手持ちと瞬時に編める程度の魔導では強度不足。
(なら、もうコレしか。でも、これは……)
ユヒアは服に着られ気味な懐にある二つの鍵を意識した。
七教会の独立外部機構たる彼女の職場が彼女に持たせた二冊の本。
それを別位相から呼び出す鍵を使えば、事態を打開出来る可能性は高い。
高いというよりはほぼ100%だ。
【叙事詩機関(エピコス)】が貸し出したのは七教会大聖廊の禁忌書庫。
世に出てはならない遺物が入っているはずの場所に眠る災厄そのもの。
(これを使えば、使ったら……)
錆の浮いた鉄鎖と白銀の糸で編まれた装丁。
あらゆる【意匠】と力ある形を網羅した標本。
【シギル全集】
闇としか形容出来ない暗い布を重ねて編まれた柔らかな冊子。
大宇の全領域とその構成因子が記されていると言われる秩序の地図。
【カダス写本】
どちらも争いに使えば、終りを呼ぶ。
凡そ相手を消し炭にする程度では済まない。
(人を傷付けるならば、傷付けられる覚悟を。それが争いに身を投じる者の覚悟なら……)
二本の鍵に触れず。
ユヒアは、己の負けを認めた。
人を殺す覚悟もあれば、人を殺さぬ覚悟もある。
しかし、それでも彼女は自分が争う側ではなく争いを止める側だと知っている。
その自分が一方的な虐殺で仕事を良しとするなんて出来るはずもないと理解している。
仕事とはいえ、相手を殺さなければ任務を遂行出来ない状況。
迷った時点で相手の覚悟に届かない。
ならば、例え敗けようとも、まずは殺されぬ事を心掛けよう。
その上で相手からの干渉を跳ね除けて逃げ出す算段を立てるべきだと彼女は判断した。
(かあ様。ユヒアは間違っているでしょうか?)
ユヒアの肉体がハイランの術の効果に囚われ、彼が勝利を確信した刹那。
ゴォォォォォォン。
「え?」
引き延ばされていく己を何とか繋ぎ止めながら、ユヒア・ウェスティアリアは空に鐘の音を聞いた。
まるで輪唱されるアリア。
多数の鐘楼が演奏でもしているかのように暮れ掛けた世界に音が、波動が、満たされていく。
(何だ? 空気振動は感知出来ず。これは魔力でもない)
ハイランが周辺を警戒した。
ふわりと引き込まれようとしていたユヒアが引き延ばされた大地に降り立つ。
【明日だって、きっと幸せですよ。自分がそう望むなら】
不意にその耳に聞こえたのは幻聴。
それは彼女が忘れもしない日の言葉。
「これは……」
音色が荘厳に世界を染め上げていく。
優しい夕景。
尽き果てる事なき慈しみ。
それは嘗て二人の少女が感じた幸せという名の日常。
【やっぱりユヒアはちゃんと分かってる】
夢を語り合った相手はもういない。
それでも音色は奏でられる。
彼女を包んでいく。
それは……それは世界に名立たる超越者達すら畏れたもの。
七人の少女が嘗て開眼した人の未来を照らす光。
人の意志の具現する超常。
大宇の法すら曲げるに足る唯一のもの。
即ち、絶対なる意志の力。
奇跡。
――――――写本が接続されました。
彼女の目前。
虚空に文字が浮かぶ。
魔力すら枯渇しつつある場所で文字を浮かばせるのは彼女の持つ【電子噐械学(エレクトロニクス)】の端末だった。
――――――第七写本より【自己因果律(ネシス・フェトゥム)】が上書きされます。
――――――第六写本より【基幹異種(バルバロス)】が上書きされます。
――――――第零写本より【魔王(デウス・ムンディ)】が上書きされます。
――――――機構(システム)起動(スタンド・バイ)。
――――――使用者の周辺に展開される不明な事象により接続が承認されました。
――――――個人への強化要請を拒絶できませんでした。
――――――操作が有効になりました。
――――――ご注意ください。
――――――閲覧効果が発動します。
「こ、これは?! ぐ!?」
ハイランが口元を抑え、片膝を付く。
それを見て。
自分を包むものの温かさに懐かしさを覚えて。
ユヒアは訊く。
「アリエ…なの……?」
答えは返らない。
そも何一つとして事実が変わる事はない。
彼女の親友はもう二度と会えない場所にいる。
代わりに音色だけが強く。
強く強く彼女を包んだ。
まるで大丈夫だと抱き締めるように。
「ア…リエ……」
瞳を閉じて。
噛み締めるように親友の気配を胸に抱いて。
彼女は、ユヒア・ウェスティアリアは、自分を守ってくれているものに優しく触れた。
「これが次代の聖女、ですか」
膝を付く失態。
しかし、それよりもハイランは己を襲うものの正体に慄然とした。
相手は聖女の娘。
最悪の場合には奇跡が自分を襲う事すらあると理解はしていたのだ。
だが、現在の状況は彼にとって予想していたものを上回る。
まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚。
そして、肉体を硬直させ、心を染めて蝕み始める感情。
(まだ断定は出来ない。ですが、これは……この感情が正しければ、ユヒア・ウェスティアリアの持つ奇跡は!!?)
それは彼にとって最悪に近い能力と言えた。
いや、知性ある生物に取って、それは真に憂うべき能力かもしれない。
七つの奇跡で滅ぼせなかった魔王にすら届くかもしれない力でもある。
「貴女を甘く見ていたようだ。償いましょう」
ハイランが瞳を細めた。
今までは七教会への配慮を持って相対していたわけだが、もうそんな事は言っていられないと判断した彼は即決し、此処で、あまりにも危険な能力を持つ少女を葬り去ると決めた。
(この少女の能力は我が主の障害になるだけで済むはずがない!!)
もはや使命感にも等しい確信。
ハイランが此処まで即断で人の命を扱うのは余程だ。
だが、その手が上がり、必殺の切札(カード)が切られる直前――――――。
「チェェエエエエエエエエエエエストォオオオオオオオオオッッッッッ!!!?」
「ぬぅッ?!」
未だに勢いを衰えさせていない要素(エレメント)の集積術式の勢いに乗って。
七教会の警備用装備に身を固めたフェルラス・ディオスの渾身の一太刀がハイランを袈裟斬りにした。
本来ならば伏兵なんてものにやられるような男ではない。
そうだとしても、目前の少女に意識を取られ、更に攻撃寸前に先の先を取られた衝撃は大きく。
「本気で女の子を殺(や)っちまおうってのは頂けねぇな?」
フェルラスの軽装の鎧はハイランの術式の効果で拉げている。
それでも燃え散る護符を全身から溢れさせながら、返す剣での斬り上げが蒼の礼服を更に裂いた。
「ハティア様特製の護符だ。自身を無限に増殖させる仕様だそうだが、まだやるか?」
「っ」
舌打ちしたハイランが発動していた防御用の術式以外を全てカット。
急激に元に戻る景色の中。
燃える護符を纏うフェルラスを睨み付けて、指を弾いた。
風が周辺の土砂を巻き上げ壁となる。
「シェァアアアアアアアアア!!!?」
剣圧が土砂を斬り裂いた時にはもうそこに蒼い衣装は影も形も無く。
不意に鐘の音が途切れて。
「ユヒアちゃん!?」
振り返ったフェルラスの前で少女はゆっくりと崩れ落ちた。
「しっかりしろ! おい!! 大丈夫か!! ユヒアちゃん!!?」
呼び掛けも遠く。
落ちていく意識の片隅で。
少女はただ一つ。
何度も何度も友の名を呟いていた。
もう届かないと知っていても。
*
――――――クラウゼン侯爵家地下研究棟マヲン私室。
ティア!!!
そう呼ばれて振り返った少年を見て。
凡そ、彼女達の心情を理解出来る人間は大陸で数人しかいなかった。
「……」
巨大な庭園を抜けて。
広大な屋敷を駆けて。
幾多の異種や亜人、屋敷の使用人達をバッタバッタと魔術で気絶させながらの道程だった。
侵入者へ容赦なく襲い掛かる罠の数々。
初歩的な落とし穴に破壊したら効果を発動させる壁。
時間感覚の遅延する廊下やら、かなりの魔力形質を押さえ込む部屋やら。
駆け抜けなければ死神の加護を得たギロチンで掠り傷でさえ即死の通路。
空間転移を多用し、正しい手順で歩かなければ都市の外へ放逐される迷宮。
防衛部隊に一撃離脱戦法を取られ、罠や迎撃手段の詳細が解らず、ほぼ五時間は足止めされた。
ようやく気絶させた人員を相手の転移魔術で回収される前に確保。
内部の構造を吐かせるのに一時間。
地下研究棟へと突入した時点で外は朝日を上らせていた。
前衛を務めたセイリの剣はかなりの名剣だった。
が、既に毀れていない場所は無い。
衣装はエーデリアの秘儀によって編まれているので解(ほつ)れていないが、本人の疲労は限界に達している。
後衛の防御と遊撃に務めたイフィミスラは背後の異種サイドが致死性の攻撃を行おうとする度に静止し、防御用の方陣を随時展開しながらの道程だった為、精神的な過負荷は相当だ。
どちらかと言えば、クラウゼン側を護るような行動を取ったのは背後から毒矢やら物騒な魔術やら超常の力が放たれようとしていたからだ。
そうなれば禍根を残す以上に防衛側を頑なにさせるのは必至。
無用な命を散らさせる必要に迫られただろう。
結局、突入組(パーティー)は実質セイリとイフィミスラの二人のみ。
それでも長年幾多の組織や個人を返り討ちにしてきたクラウゼンの地下迷宮は攻略された。
「……クゥヲ……」
スヤスヤと部屋の中央。
巨大な寝台の上で眠っている白き異形の少女。
今は当主代行であるマヲンの寝顔は安らかだった。
そして、その少女に抱き枕よろしくギュっとされている少年は何やら二人の少女達の突入してきた後の顔を見て、半笑いのまま。
随分と心配を掛けたのだろう相手に無難な挨拶をした。
「おはよう。イフィミスラ。セイリ」
「……」
「……」
現在の最高責任者の寝室にまで突入組が侵入出来たのは簡単な話。
少年がマヲンを通じて侵入者の顔を確認し、進言したのだ。
不用意な事をすると死人が出るので本気で防衛しない方がいい、と。
無論、四大貴族の少女達を筆頭にクラウゼンを任されている者達はその言葉を聞く必要はなかった。
だが、マヲン直々に死人が出ない程度に誘導するよう言われれば頷く以外ない。
それでもクラウゼンを護っていた者達にとっては全て頷ける話でもなく。
せめて夜が明けるまでは当主を休ませようという気遣いは実質突入組に六時間もの刻を消費させた。
「……」
「……」
天蓋付きのフカフカな寝台に白い羽毛と絹で包まれた二人。
傍目に見るなら、朝チュンだ。
情事後だ。
言い訳出来ようはずもない。
昨夜はお楽しみでしたねとか言われる始末だろう。
突入してきたセイリとイフィミスラを心配した少年が夜中ずっと起きて魔術具で迷宮突破を見ていたとしても、それは変わらない事実である。
「あの……」
「クゥ……」
侵入者を待っている内に眠くなり、スヤスヤと健やかな寝息を立てていたマヲンがムズがる赤ん坊のように少年の腕をギュっと抱き締めた。
沈黙を突破する術なんて少女達には無く。
その場を監視していた四大貴族の少女達や防衛部隊の面々も近くで待機しつつも安易に出て行けず。
「えっと、朝ご飯にしない? エーレインとエリザさんも隣の部屋にいるし。此処の食事って中々美味し―――」
ツカツカと寝台横に歩み寄ってきたイフィミスラとセイリの拳が無言で少年の頭を殴り降ろしたのは女という生き物ならば誰もが許す所業だった。
何とも言えぬ空気の中。
置いてけぼりになった背後の人馬と貴龍だけが、彫刻のように固まっていた。
自分達の目の前にいる存在。
それが“何なのか”をよく知る故に。
朝の気配に欠伸をして。
白い手が目を擦ったのはそれから数分後の事。
少年が引き攣った顔で床に伏しているのを差し引いても、その日のクラウゼンは混沌が過ぎた。
世界の命運や国の将来なんて。
彼女達の間で始まる女の諍(いさか)いに比べれば児戯に等しく。
終わり無き嫉妬の煉獄に火を燃(く)べた張本人はガックリと地べたに這い蹲りつつ言った。
ごめんなさい、と。