※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

76 / 318
これにて第二章の戦闘は終了しました。後はハルトゥムでのエロのみ。西部編へ続くプロローグ的扱いで後の話は消化される運びです。友人から「なげーよ」とツッコまれたのですが、次回ようやく何故この話が聖娼館ハルトゥムなのかが明かされます。更に友人から「最後の戦闘回がこの題名って・・・」と呆れられました。でも、一発でバシッと思い浮かんだものなので、このままで・・・。


第二章四十七節

第二章四十七節「麺麭」

 

「母さん!!」

 

 アーズトリテに発令された非常非難警報。

 

 クラウゼン公爵家によって出された都市退去命令によって人の河が外壁の外に続いていた。

 

「あ、ああ、お前は先に行っていなさい。母さんは血統証明を探してからにするよ」

 

 三日前に突如として通達された情報に民の大半は混乱。

 

 憶測も推測も様々出たが、結局クラウゼン広報から齎される情報に脱出する者が相次いでいる。

 

 そろそろ落ちるのが早くなってきた日差しの中。

 

 一人の少年は家の前で母を急かしていた。

 

 煉瓦造りの家々からは荷車や馬車が私財を乗せて去っていくが、彼の家はアーズトリテにあっても貧しく。

 

 持ち出せるようなものは数日分の食料と彼ら自身くらいしかない。

 

 それでもアーズトリテにあって人々が一つだけ必ず持ち出す物があった。

 

「母さん!! そんなものいいから!! 七教会の軍隊が来るかもしれないんだよ!!!」

 

「わ、分かってるわよ。でも、あれが無きゃ、あなた結婚はどうするの!!?」

 

 血統証明。

 

 都市においてはそれこそが彼ら自身の身分と地位を保証する。

 

 在外の者であっても、あるいは藩落の別国家だろうとクラウゼンが管理し発行する血統証明は有効な代物であり、冠婚葬祭においては多くの場合、これが用いられてきた。

 

【血統信仰(スティンマ)】を重んじる藩落で生きるには無くてはならないものと言っていいだろう。

 

 息子の未来の為に母が探すのも無理からぬ事だ。

 

 大事に仕舞い込んでいたのが不意の混乱と脱出のどさくさで見えなくなったのは親子にとって痛かった。

 

 いや、母親にとって、だろうか。

 

 下層階級にすら浸透する血統証明は確かに多くの場合、必須であるが真に絶対ではない。

 

 無論、それ無しには生きる事は難しくなる。

 

 が、それでも他に生活していく術はある。

 

 少年はそれを知っていたし、母親だって分かっている。

 

 誰だって紙切れ一枚より命が大事だ。

 

 だが、近代化の波が押し寄せている大陸各地と同様。

 

 若い世代は必ずしも血統のみを拠り所とする思想を良しとせず。

 

 合理的な思考も持ち合わせていた。

 

「あぁ、もう!! 分かった!! 分かったから先に行ってて!! 母さんの足じゃ短い時間で絶対遠くまで行けないんだから、オレが探すよ!! それで見つけたらすぐに追う!! だからさぁ!!?」

 

「で、でもお前ちゃんとどれか分かるの!?」

 

「分かるよ!! 母さんが毎年毎年大事にして年明けには出して飾ってたんだから!! イイから早く行きなよ!!」

 

「わ、分かったよ。無茶するんじゃないよ!! でも、絶対見つけてくるんだよ!」

 

 ようやく家の中から出てきた母親に少年は頷く。

 

 母親は何度も後ろを気にしながらイグニシア・クルシスが用意した緊急避難先へと赴いていった。

 

 隣国に急遽設置された難民抑留地への片道。

 

 優秀な血統を内部に囲い込んでいる為に他国との血縁が薄いアーズトリテの民の殆どは親戚などを頼れず、イグニシアの設定した其処へ一時避難せざるを得ない状況に陥っていた。

 

「こりゃ、大変だ」

 

 少年がまるで嵐の間ずっと放置していたような有様の家の中を歩く。

 

 物を引っくり返してとにかく目当てのものを見つけようとした母に文句こそなかったが、時間が掛かるだろう事は少年にも分かった。

 

 それでも根気良く血統証明を探し続けて数時間。

 

 夜の帳が落ちそうになった頃合、彼はようやく目当てのものを見つけてほぼ最後尾に近い避難の群れに加わろうとメインストリートを早足に駆けていく。

 

「?」

 

 不意に彼が立ち止まったのは人が避難していく方向とは反対に歩く者を見かけたからだ。

 

 いや、それだけだったなら、たぶん足は止まらなかった。

 

 反対方向に歩いていくのが、麗しい少女だったから、が本当のところだろう。

 

「ね、ねぇ! 君!! 何処行くんだよ!! 早くしないと七教会の軍隊が攻めてくるかもしれないって広報で知ってるだろ!! 危ないよそっちは!!? クラウゼン公爵家の方角は立ち入り禁止になってて魔術で封鎖されてる!!」

 

「?」

 

 彼の声にキョロキョロとした後。

 

 少女が少年を見つけて自分を指差す。

 

 金木犀色のドレス風の衣装。

 

 何も分かっていなさそうな顔からも少女は下層階級ではないのだろうと少年は判断した。

 

「ミュルトの事?」

 

「あ、ああ、君の事だって! 両親と逸れたの? それとも観光客? どっちにしても危ないから、早くこっちに!!」

 

 少年が少女の事を放っておけなかったのは少女が麗しいからだけではなく、多少自分よりも幼かったからだ。

 

 アーズトリテにおいての成人は十五歳だったが、それにしても街中でそんな目立つ色を着ながら非常時にウロウロしているのは能天気過ぎる。

 

「あ」

 

 少年に手を取られて少女が革靴を響かせて石畳を早足に抜ける。

 

「どうして七教会って言うのはこんなお節介なんだ!!」

 

「とと、どういう事? ミュルトあんまり此処の事詳しくなくて」

 

 一緒に人の群れへ飲み込まれながら少女が聞いた。

 

「そっか。じゃあ、観光客なんだ。ああ、それじゃあ、実感無いかもね。外国じゃ【近代化(レボリュション)】ってのは持て囃されてるんだろう?」

 

「ん~~~どうだろ? フルーが全部取り仕切ってるし。ミュルト。今まで海の方にいたから」

 

「海? 随分遠くから来たんだ? それならあんまり知らないかもしれないね。七教会ってのはいつもいつも大陸各地で要らぬ世話を焼きたがる厄介者だって」

 

「そうなの?」

 

「ああ、アーズトリテじゃ七教会の事は全部教えてくれるんだ。まぁ、それでも【近代化】したいって思う連中もいるけど、殆どはさ。やっぱり、クラウゼン公爵家の方が正しいって思ってるよ」

 

「クラウゼン公爵家。此処の一番偉い家の事?」

 

「そうさ。今はランナ様って偉い方が治めてる家だよ。あの方の学術書は此処で生まれた子供全員が学ぶんだ。教育にも力を入れて下さってるから此処で食い詰めても、藩落の他の国では食っていける。オレ達にとっては神様より神様みたいな人だよ」

 

「へぇ~~~その人凄いんだね。ミュルトも会って見たいな」

 

「あはは、無理無理。今は大事な実験中って話だし、それを狙って七教会の軍隊が来るって事だからさ」

 

「七教会って、やっぱり良く思われてないの?」

 

「藩落の外の人には救世主みたいに見えるって話だけど、やってる事は結局支配領域の拡大じゃないか。その支配の形が今までと全然違って、善人面してるだけだろ。アーズトリテは確かに差別も身分での理不尽も受けるけど、ランナ様は少なからず優秀な人材は取り立てて下さってる。そもそも優秀な血統って言うのは現実に功を立てた人間の血筋なんだ。無能で血統としての価値がない人間は此処じゃデクノボウって呼ばれるんだぜ」

 

「無能で血統の価値があったら?」

 

「そういう場合は一生慎ましやかに結婚せず暮らせって言うのがランナ様の教えだよ。間違っても高位の官職に就くなんて在り得ないし、それをランナ様は許されない」

 

「凄い合理主義なんだ。そのランナ様って」

 

「ああ、そうかも。そこは七教会とも似てるかもしれない」

 

 二人が都市の外へと外壁を潜って抜けた時には既にイグニシア・クルシスの兵達が住民を周辺の転移方陣にほぼ収容し終えた後だった。

 

「あちゃぁ。これじゃ、次の転移まで待たないと」

 

 正門は未だ何人も人を吐き出しているが、大方は転移で旅立った後。

 

 都市中に響き渡る誰かいないかと呼び掛ける最終確認の声が、少年と少女が最後の転移者達であると教えてくれる。

 

「そう言えば、君はどうしてアーズトリテに?」

 

「エーデリアの方向に行ったら、何かお祭りしてたから、こっちじゃないのかなぁって引き返して来たんだ」

 

「こっちじゃない? お祭り? あっちで何かあったのか。まさか、七教会を呼び寄せたのあいつらじゃないだろうな?」

 

 少年が溜息を吐く。

 

「どうしたの?」

 

「何でもないよ。仲の悪い都市国家を隣国に持つと苦労するって藩落の諺(ことわざ)を思い出しただけだから」

 

 少女が何かを言い掛けようとした時、顔を上げて手を空に翳した。

 

 直後。

 

 アーズトリテに閃光が奔った。

 

「な、何だぁああ!?」

 

 少年を庇うようにして光の盾となった少女の掌から先。

 

 数kmにも及ぶ半球状の魔導方陣。

 

 三次元的な造形の古代語を刻まれた障壁が四十層にも及んで展開される。

 

 その間にも閃光が遥か上空へと上っていく。

 

 急激に周辺温度が上がったせいで上昇気流が発生したのか。

 

 辺りに暴風が吹き荒れた。

 

「――――――き、君は……」

 

 スッと掌が下がると障壁も同時に消え失せる。

 

 一体、何が起こったのか分からなかった民は七教会の攻撃かと転移方陣に殺到し、それをイグニシアの兵が押し留めて大混乱になっていた。

 

「えっと、ごめんね。ミュルト……七教会の方から来たから……その……」

 

「ミュル……それってうそ、だよな?」

 

 今、自分の命を救った少女の自分を呼ぶ名にようやく思い至って。

 

 少年はグビリと唾液を飲み込んだ。

 

「もう行かないと。色々教えてくれてありがと。じゃあ、ね?」

 

 地面を蹴った少女がふわりと浮いてアーズトリテの中心部へと向っていくのを少年は見つめるしかなかった。

 

「ミュルト・ジオバトス。魔王に奪われた姉妹の片割れ?」

 

 少年は世闇に消えていく背中が何故か寂しそうだと思った。

 

 彼が七教会に入るのはまだ数年先の話である。

 

 *

 

 鉄の匂いを風が運んで。

 

 雷が弾け火を呼ぶ。

 

 焼け付く都市を前にして爆裂した異種達の血は黒く照り返す世界に染められた。

 

「……」

 

 本来、生命とは共に讃歌を謳うもの。

 

 優劣、貴賎、上下。

 

 そのようなものはない。

 

 一つの運命を奏でるのは道端を飛ぶ羽虫も一国の王も同じ。

 

 誰かと誰かが饗する時、命のやり取りさえも調和を奏でる。

 

 それが狂い始めたのは間違いなく人間という種の為だ。

 

 故に多くのものが人間を諌(いさ)めんとした。

 

 別に基幹異種だけが特別なのではない。

 

 人を滅ぼそうと躍起になった者達は大勢いた。

 

 それらの者達は人々から多くの場合、邪悪と断じられ、討伐の対象とされるようになった。

 

 子を狩られ人を襲った獣のように。

 

 裏切られ人を呪った神のように。

 

 だから、人を滅ぼそうなんて思考は珍しくも何とも無い。

 

 今や多くの種から疎まれ、同時に憧れの対象となった人という種が消えるなら、それは必然。

 

 繁栄の道を歩き続けても同じだけのリスクを背負い続けなければならない。

 

「調和が取れずに何が悪い。繁栄し続ける事が罪だと言うならば、あらゆる生命に等しく機会と罰は在る。今更、絶滅寸前に追い込んだところで人の運命の何が変わると言うのだ」

 

 白い血を滴らせながら、基幹異種達は嘶(いなな)いた。

 

 ランナの声は詠唱魔術にも勝る力と強さを持って彼らの内にまで響く。

 

 腕を組んだランナが見下ろしたのは何も異種達が遥か格下となったから、そのような理由からではない。

 

 その凋落の仕方がまるで人間のソレだったからだ。

 

「お前達が滅んだ理由はたった一つ。人間の如く他者を考慮の内に入れなかった愚か故だ」

 

 人を一部でも認める事さえ出来たなら、数は減ろうと最後まで絶滅する事は無かった。

 

 大陸に住む数万とも数十万とも言われる人種、部族、数千の国家の垣根は未だ根深い。

 

 そんな中で滅んでいった者達は他者の事を考えなかった者ばかりだ。

 

 情けは人の為ならず。

 

 争いで没した者達の大半は他者を省みなかったのだ。

 

「4;wgojopgjaoegh8oh4gaoirhjga4nmoi3g」

 

 異種達の一匹が灼熱の如き紅に染まった体躯で突撃を掛けた。

 

 形は獣。

 

 虚空を裂く一本の弓矢となって駆け抜けたソレは己の全てをぶつけてもランナを倒す気でいた。

 

 だが、

 

「憎悪を知った今、お前達は哀れですらある!!!」

 

 腕が揺らりと解かれ、獣の横面を殴った。

 

 圧倒的な速度で迫っていたはずの獣が虚空で静止する。

 

 一瞬の静寂。

 

 ギョロリと瞳だけがランナを呪殺せんと動くも、殴った腕とは違う二本目の腕が、指先が、眼球を刺し貫て潰した。

 

「g:ma4pkwiogjao4ihgauwerhagouwghaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!!!」

 

 ボグン。

 

 刹那、三本目の腕が放つ拳が虚空の肉体を捉え、脇腹を押し潰す。

 

 続いた四本目の腕による手刀が肉体の半ばまでも穿つ。

 

 五本目、拳。

 

 六本目、拳。

 

 七本目、拳。

 

 拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳、拳――――――。

 

 増えていく拳打。

 

 倍増していく残像。

 

 彼の背後に浮かぶ千手。

 

「受けよ。これが人の成した拳。傲慢なるも他者を受け入れし者の力」

 

 その御手は誰かに手を差し伸べる為にあるとされた神。

 

 観世音。

 

「変幻せよ。我ら未だ人を救わず。なればこそ、未熟なる人の為、万物よりの盾と成らん」

 

 変形していく肉体に堪らず悲鳴を上げて離れようとしたものの。

 

 他の基幹異種達が獣を助けようとする素振りはなく。

 

「優しさを持たぬからこそ、我ら人を滅ぼせなかったと未だ分からぬか!!!」

 

 ランナの声に獣は知る。

 

 いや、知っていたつもりになっていたものを知る。

 

 憎悪を学んで身を任せても得られなかった人の力。

 

 彼らが嘗て排斥した概念。

 

 男の身にあるのはきっと他者への限りない愛と傲慢だった。

 

「恩ッッッッッッ!!!!!」

 

 絶掌(ぜっしょう)。

 

 多くの武術。

 

 その中でも拳のみを頼りにする流派にて秘儀とされる奥義の一つ。

 

 それは拳を絶つ事。

 

 “見えない”のだ。

 

 自身すら打っているのかいないのか分からぬ未現の一撃。

 

 肉体のみで行う一種の魔術。

 

 いや、原理の一つにまで収斂された、他者へ自らを伝える絶尽(ぜつじん)の御手。

 

 彼ら基幹異種の誰一人として、その腕を知覚しなかった。

 

 超感覚は健在であるのに、攻撃が行われたかどうかすら、確認出来なかった。

 

 そして、彼らは気付く。

 

 自分達の肉体。

 

 その半分以上が消滅、消え失せている事に。

 

 拳の型だけが肉片に残っている事に。

 

 その傷が今までのように回復しないという現実に。

 

 Giooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo――――――。

 

「この身を産みし者に限りなき感謝と敬意を」

 

 両手を合せて、ランナはそっと頭を下げた。

 

 無様と酷薄に罵り、それでも感謝すると言う。

 

 一見矛盾するソレも彼の中では両立する。

 

 それも人という種の特質。

 

 愛と憎悪は表裏。

 

 あらゆる感情を一つの対象に持ち合わせなければ、永劫の果てまで何かを探求しようという情熱は持てないのかもしれなかった。

 

「ふむ」

 

 もう虚空でのたうつ者達を見向きもせず。

 

 ずっと近付いている事を感じていた存在に彼が向き合う。

 

「名を窺(うかが)おう」

 

「ミュルト。ミュルト・ジオバトス」

 

 虚空を歩いてやってきた聖女。

 

 その彼女を前にして彼は「ふぅ」と息を吐いた。

 

 それは溜息ではない。

 

「悪いが、此処は私と彼女の舞台だ。“関わらないでもらおうか”」

 

 能力の連続使用への心構えからだ。

 

「――――――」

 

 不意打ち。

 

 異種達にならば察知されていたであろう大母の証。

 

 額の紅点が輝きを増す。

 

【真権(パーフェクトゥム・インペリオ)】

 

 高格外套というデバイスを通さず顕現させたソレは多大な負担を肉体に強いた。

 

 絶大な疲労を感じながら、ランナは今にも崩れ落ちそうになる身体を意志力のみで立て直す。

 

(ふ、全てを分かり合えても譲れぬ事がある。同じ人ですらそうだ。大いなる祖と崇めてきた者達とすら、我ら人は噛み合わない。それでも、それでも我らは……)

 

「ようやく。来たか」

 

 その少女の到来を何年待っただろう。

 

 いつか来ると思っていた日を迎えて。

 

 その姿を、変わらぬ笑みを、感じて。

 

(こんなにも胸が熱くなる。まったく難儀なものだ。人の性と言うのは……)

 

 彼は、決して本人に伝えられない想いに笑んだ。

 

 *

 

 七聖女の筆頭。

 

 彼女がそう呼ばれ出したのは少女達が初めて一堂に介した日から、ではない。

 

 その実力を他の全員が認めた日から、でもない。

 

 彼女以外の七聖女達全員が自分達に欠けているものを自覚した頃からである。

 

 それはつまり政治や宗教と言った柵(しがらみ)に囚われてという事だ。

 

 無数の団体、組織、議会、そう言った有象無象との折衝において彼女達七聖女の大半は無力もいいところだった。

 

 影響力があろうとも、それに論理だった道筋を付ける力を誰も持っていなかったのだ。

 

 世界は理想だけでは変えられない。

 

 理想には金も人も物も動かせる力量が必要だ。

 

 全てを数字で捉え、的確なモデルを構築し、政治に反映させる手腕。

 

 それは唯一彼女しか持たない力だった。

 

 自分達の願いを叶える組織的、社会的な機構(システム)。

 

 これがあって初めて七聖女達は現実的な政治影響力を持つに至った。

 

 だから、彼女に誰もが自分達の筆頭としての役割を担わせる代わりに自らの力を惜しまず協力を断らない。

 

 フルー・バレッサ。

 

 時に宇宙の創生すら手に掛けていると噂される彼女。

 

 多くの眉唾な噂の大概が事実だったり、それより随分と度を越していたりする明らかに人間にしておくには惜しい女。

 

 瓶底眼鏡に白衣を着込めば、冴えない女研究員と誰も疑わない容姿の怪物。

 

 その力を持ってして生み出される技術の大半はあまりにも現代の大陸には壮大過ぎるものばかりだ。

 

【時空兵装(テンプステルム)】

 

【無限機関(インフィニテ・マグナ)】

 

【外宇宙航行艦(スペティウム・アパラトゥス)】

 

【無辺空間制御(イメンサ・マンデータ)】

 

 その他etc。

 

 人類が手にするには早過ぎる技術の数々。

 

 【大源高炉(グラン・フォルナシス)】や【高格外套(ソーマ・パクシルム・ベルーター)】のような一個人に貸与出来る程度の品は大陸で培われてきた智識の延長線上にある比較的安全なものでしかない。

 

 人類の繁栄を約束する先鋭超高度技術の大半を公開していないのも結局はその危険な技術を扱い得る人材が未だ自分以外にいないと彼女が判断しているからである。

 

 七教会の一部門でチマチマと使用されるそれらの技術体系は彼女が数十年掛けて育成した技術者、高弟達に智識の一部を貸与する形で運用されている。

 

 事業が終われば、彼らはその智識と技術に関する記憶を彼女に返却し、脳裏に情報は跡形も残らない。

 

 故に彼女は自分よりも優れた技術を持つ存在がいるという事実を看過出来る立場になかった。

 

 大陸の未来に関わる技術を秘匿する彼女は常に技術の隠蔽と進歩の制御を行う側に立っているのだ。

 

(いつか、そこまで辿り着くとは思ってたけどさ)

 

 飄々(ひょうひょう)と。

 

 彼女は一人の男を脳裏に甦らせる。

 

 ランナ。

 

 彼女にとっての同類。

 

 開発能力も研究者としての自力も彼女の方が上回るし、技術者としてもランナは彼女に及ばない。

 

 しかし、彼女がランナと同系統の技術を開発しようと思えば、様々な制約からどんなに急いでも追いつくのに最短で数十年は掛かる。

 

 命、性、人間、というデリケートなモノを扱う血統に関する知識は多くの場合、実践を持ってしか集積し得ない。

 

 物理的な法則や事象を計算するだけなら、彼女には幾らでもやりようがある。

 だが、有機的な要素が絡む実験は計算が絶対ではない。

 

 それに実物としての遺伝子や血統を収集するのは七教会という組織の中にある存在にとっては比較的、道義に悖(もと)る行為だ。

 

 綺麗事の塊である七教会の思想と相反する技術は彼女にとって手を出し難い分野になってしまっていた。

 

(答え合わせの時間だよ。ランナ)

 

 フルーは串に刺された最後の麺麭を齧り。

 

 店先の長椅子の上。

 

 小さな皿の上に置いた。

 

「お代置いてくねぇ」

 

『ありがとうございました~』

 

 南部に近い藩落は比較的肥沃な穀倉地帯が多い。

 

 ニェハエルの統治下から離れた後も自給自足で他国からの援助を受けた事はほぼない。

 

 そんな土地柄だからか。

 

 各地の都市国家や城砦国家間での争いが一時的に収束して以降、治安は七教会の影響力が薄い地域より随分といい。

 

 店先にお代を置いて立ち去っても誰も慌てて確認しようとしないくらいだ。

 

 レンガ造りの家々が多いのは平原に樹木が少ない為。

 

 藩落北部も山岳地帯が不毛なので木造建築があまりない。

 

 藩落西部大公道。

 

 大陸中央諸国から続く陸路をフルーは歩いていた。

 

 大動脈にと周辺国へ道の整備を行わせていても、まだ中央を離れれば土埃を上げる道は多い。

 

 ガラガラと車輪を回して走る馬車も未だ現役。

 

 魔導や彼女の創造した学問が新式の移動手段を幾つも開発、中央で普及させていたとしても、外国にその影響が及ぶのはまだ十年以上の年月が必要だろう。

 

 馬がいなくても自動で馬車が走る。

 

 空飛ぶ船は伝説の乗り物ではない。

 

 疫病は呪いではなく細菌によるもの。

 

 虹は神が起こすのではなく光の回折現象。

 

 奴隷も一人の人格である。

 

 人型の魔族は人間の血統。

 

 人を守護する神は供物を必ずしも必要としない。

 

 物質は素粒子より出来ている。

 

 元素は数十種類以上に及ぶ。

 

 魔術が無くても人は空を飛ぶ事が出来る。

 

 宇宙は真空である。

 

 世界は神の掌上に無い。

 

 天体は恒星の周りを回っている。

 

 月は空の上どころか遥か遠い場所にある。

 

 どれも大陸中央では比較的知られている事実。

 

 だが、僻地的に見れば非常識な話だ。

 

 馬車は馬がいなければ走らないし、空飛ぶ船は国の伝説にしかないものだし、疫病は死神や魔族のせいだし、虹は神の恵みだし、奴隷は奴隷でしかなく、魔族は迫害の対象で、神への供物は毎年行うべき神事であり、物質は四大元素や五行の理に満ち、万物は天地の二括りで、人間は魔術や超常の力、他種に依存しなければ飛べず、空の上はずっと空のままで、世界は神の手の上に在り、全てはこの星を中心に周り、月は空の上で光る岩の塊なのだ。

 

 殆どの国の殆どの地域の殆どの民衆にとって。

 

 無知は罪であると必ずしも彼女は思わない。

 

 それで回る世の中なら、それはそれで認めるべき価値観だ。

 

 だが、より良く生きようとするのも人の常。

 

 人は退化もすれば、衰退もする。

 

 だが、進歩は決して止められない。

 

 宇宙の成り立ちすら説き明かしつつあり、実際にこの現実は膨大な法則と原理によって規定されるからこそ存在すると知れば、神も魔も命も全ては等しく数字で測れる。

 

 大陸で魔術師達が滅ぼうとしているのは一重に彼らが科学的な知見を持たず、大勢の民衆と同じく迷信や概念論的思考に囚われ、フルーのような唯物論的思考を拒否しているからである。

 

 これは大陸を包んでいた常識には誤謬や間違い、訂正や修整が必要な部分が多大に含まれていたという事例の一端であり、衰退と繁栄の岐路だ。

 

(【近代化(レボリュション)】は本質的な部分で魔術師達の衰退と同じ問題を誰もに突き付けてる)

 

 もしも、民衆が魔術師達と同じ道を歩めば、大陸中央諸国とは天地の格差に自ら沈んでいくだろうし、逆に受け入れる事が出来たなら中央と同じだけの繁栄を享受するに至るだろう。

 

 人は無智であってもいい。

 

 しかし、進歩を否定してはならない。

 

 これこそフルーの信条そのものである。

 

 知らずとも受け入れる事。

 

 七教会の教義にも通じる思想だ。

 

 それには勇気と実際に受け入れる度量が必要とされる。

 

 その下地作り。

 

 それこそ現在の七教会の役割であり、大陸秩序再編計画の主題と言えた。

 

(こんな事、君は解ってる。そして、解ってるから、もう一つの道を示そうとしてる。でも、その道は……)

 

 血統における技術革新。

 

 人間という種を強くする事をランナ・クラウゼン・アリト・ニェハエルは考えている。

 

 己の研究結果を持って人類に繁栄を約束しようとしている。

 

 間違ってはいない。

 

 本当に、間違いは一欠けらもない。

 

 生物としては至極妥当な見解であり、それをテコにして七教会が人々を効率よく導く事は可能だろう。

 

 もしも、ランナの思想が大陸中央で発表されれば、表立った非難や排斥はほぼ無いに違いない。

 

 七教会を生み出す前。

 

 まだ聖女になる前。

 

 ただのフルー・バレッサの頃ならば、彼女はその意見に協力すらしただろう。

 

 現状の打破に手を貸して、人々と親友の為に尽力出来ただろう。

 

 しかし、七教会の頂点に立つ聖女になったからこそ。

 

 彼女は言わなければならない。

 

 それでは駄目なのだと。

 

 血統に全てを背負わせる遣り方では唯一解決出来ない問題が残る。

 

 そう、たった一つ。

 

 彼女が今の彼女である理由が未完了となってしまう。

 

 あらゆる技術・能力では亡びず、自らの意思において永劫であり続け、全てを飲み込む因果の坩堝。

 

 魔王。

 

 世界が血統の力で満たされるという事は“最も優秀で強き血統”が必要という事である。

 

 ファルティオーナにおいて、人との子供を残し得る最優秀にして最強の血統とは“彼”の事に他ならない。

 

 そうとなれば、あらゆるものは魔王へと流れ込んでいく。

 

 怒涛となって七教会の権力基盤は崩れ去る。

 

 未来永劫に渡り、滅ばない指導者。

 

 正に末期の独裁国家が使いそうなフレーズが現実となる。

 

 その子孫に同じような能力が受け継がれるとなれば、彼を中心とした社会は永遠となるだろう。

 

 確実に、だ。

 

 それは、それだけは、フルーには許容出来ない未来だ。

 

 他の七聖女も同様だろう。

 

 彼女達は一人の少年と共に過ごした経験を持つ者達だ。

 

 多くを共有した仲間ですらあった。

 

 だからこそ、己の手で決着を付けると決めている。

 

 数十年の時が過ぎ去り、新たな時節を迎えようという世界。

 

 そこで魔王こそが人々を導く存在だ等という思想が立ち上がれば、それは彼女達の敗北だ。

 

 自分達が、七聖女がしてきた事の全否定だ。

 

 聖女が存在し、統率され、力を持つ意味はただ一つ。

 

 魔王を打倒するという一点にある。

 

 今まで自分達が下してきた全ての決断が最終的に覆るとして、それを許容出来るとすれば、そんな存在は聖女ではない。

 

 少なからず民衆の為に力を振るってきた彼女達だからこそ、彼を戮し続けてきた彼女達だからこそ、その罪・咎・罰、何もかもを諦め受け入れてきた彼女達だからこそ、言える。

 

 それは駄目だと。

 

 今更“あんなにも善良なる少年を殺し続けてきた想いを諦めろ”なんて言われても頷けはしない。

 

 背負ってきた荷物を「人々の為だから降ろせ」と言われて頷けるなら、彼女達は聖女なんてしていない。

 

(僕達が病んでるとすれば、そこなんだろうなぁ)

 

 それは魂の問題。

 

 存在理由を手放して彼女達は聖女足り得ない。

 

 人々の幸せの為に己の在り方を手放せば、彼女達はただの少女だ。

 

 ただの少女に社会も政治も人も多くを動かせはしないだろう。

 

 そうなれば、待っているのは破滅。

 

 少年という特異点に全ての未来が呑まれて消えるのを座視するだけの現実。

 

 だから、彼女達は自分を棄てずに人々を己の遣り方で導くしかない。

 

(結論としてランナの思想と技術は潰さざるを得ない)

 

 七聖女として。

 

 一人の少女として。

 

 たった一人の親友として。

 

(傲慢と罵られ、人類の繁栄を無為にするとしても僕は…)

 

 いつの間にかフルーは都市国家が見渡せる丘にいた。

 

 まだ一時間弱しか歩いていないはずだったが、凡そ二千キロ近くを彼女は徒歩で渡り切っていた。

 

 矛盾するような出来事。

 

 だが、彼女を知る者にはそう珍しい事でもないだろう。

 

 転移技術や空間制御は彼女が力を入れてきた技術だ。

 

 そして、大陸各地に神出鬼没である理由は彼女の開発した一つの発明に拠る。

 

「ん~~~いい感じに暖まってるねぇ」

 

 炎に没した世界の只中で尚紅き旗を振らんとする都市国家。

 

 今正に目の前を透明で巨大な魚。

 

 【基幹異種(バルバロス)】が落ちていくのを制服に黒の外套姿のまま、至極冷静に見下ろして。

 

 彼女は言う。

 

「出てくる時代が遅過ぎだよぅ。“僕達”が生まれる前に甦らなかった時点で君達の運命は決まってたんじゃない?」

 

 異種達が持っていた膨大な星すら破壊するに足る魔力が雲散霧消していく。

 

 シュウシュウと音を立てて何処かへと流れていく。

 

 その道筋を追えば、親友がいる。

 

 そう知りながら、フルーは視線を向けられなかった。

 

 そうしてしまえば、始まってしまうと理解していたから。

 

 彼女の意識の端。

 

 七聖女の戦力としては序列第六位ミュルト・ジオバトスが不意打ちの絶対権限で停止していた。

 

 初撃必殺。

 

 お手本のようなやられ方と言っていい。

 

 七聖女と倒す手法はフルーにも幾つか思い付く。

 

 その中でも一際珍しい事態が、ミュルトの現在の状況だった。

 

 思考は停止していない。

 

 奇跡も停止していない。

 

 肉体も停止していない。

 

 しかし、動けない。

 

 いや、この事態に干渉出来ずに固まっている。

 

 この惑星に在る全ての知的生物にとっての母。

 

 【大母】の基本能力。

 

 いや、能力というよりは遺伝子と因果に刻まれた序列そのもの。

 

【真権(パーフェクトム・インペリオ)】

 

 フルーは少なからずランナが保有に至る能力としてソレを想定していた。

 

 種の復元はその種の能力を持つに等しい。

 

 なら、彼が持つに至る最も強い能力は何か。

 

 言うまでも無い。

 

 大母の能力だ。

 

 少なくともランナが辿り着いた能力は人間、神、魔、亜人、異種、人外、その他の知能を持つ生物の殆どに対して有効な極大の絶対命令権限と言える。

 

 嘗て時々の大陸の王国が王権神受なんて嘯(うそぶ)いていたが、ランナが辿り着いたのは支配の法ですらない知的生物にとっての原初、生命の原理そのものだ。

 

 逆らう方法は一つ。

 

 大母に血縁的に近い生物になる事。

 

 基本的に人間では不可能。

 

 それを可能とするのは基幹異種か。

 

 それより上位の始祖くらいかもしれない。

 

 正に観念論や概念論の権化のような力。

 

 旧き世界に満ちていた掟である。

 

 もし、その能力に逆らうとすれば、神に逆らうよりも罪深く、罰を受ける覚悟がいる。

 

 遺伝子、連綿と受け継がれてきた命の螺旋への冒涜なのだから当たり前だ。

 

 母に逆らうとは、自分を産み落とした者への裏切り。

 

 世界からの離脱を暗喩する。

 

 その結果が如何なるものであるか。

 

 神話と神々は善きにしろ悪しきにしろ語る。

 

 結末はいつも悲惨だ。

 

「久しぶり」

 

 ゆっくりとフルーの顔が上がった。

 

 随分と逞しくなった青年と視線が合って、微笑が浮かぶ。

 

 距離なんて関係なく届く。

 

 仮初めの大母たる男は額に紅の輝きを抱いて頷く。

 

「ああ」

 

「僕の奇跡に勝てる算段は立った?」

 

「どうかな」

 

 フルー・バレッサの奇跡が使われた記録は公式には残っていない。

 

 大戦で七聖女全員の奇跡が魔王に対して叩き込まれたが、その時の詳細な記録は大陸に確認されていない。

 

 情報の全てが無かった事にされたのだ。

 

 その能力が発動したという事実を【聖杯委員会(ペルスヴァル)】は許さなかった。

 

 だから、本来。

 

 彼女は自分に勝てる算段は立ったか聞くべきなのだ。

 

 しかし、彼は、ランナは言う。

 

「これでようやく昔のお前には届くだろう」

 

「あはは、買い被ってくれてるようで何よりだよぅ♪」

 

「七つの奇跡。大聖廊禁忌書庫にすら無いだろう情報。その実態…探すのに随分と手間取った」

 

「提供先は?」

 

「旧教会派。今は大陸南西部に居を置いている【総主教(パトリアルヒス)】最後の一派だ」

 

 惚けるでもないランナの回答にフルーがはぁっと溜息を一つ。

 

「あの人には今も感謝してる。けど、最後の政敵があの人の取り巻きかぁ」

 

「追い落とした人間の言葉とは思えんな」

 

「少し中央から退いて貰っただけだよぅ?」

 

「それを凋落としか捉えられない人間が多過ぎたのだろう」

 

「別に悪気は無かったし」

 

「お前はいつもそうだ。正しいだけでは人を動かすには足りない」

 

「間違っている事も正しい選択の内である、なんて説教されたのは七教会に入った時以来かなぁ」

 

 世間話でもするように両者が互いの顔を見つめる。

 

「結論を聞こう」

 

「僕は君の研究を許可しない」

 

「想定内の回答だ」

 

「じゃあ、僕の答えも聞いてくれる?」

 

「いいだろう。いつかの答え合せといこう」

 

「これが、僕の、僕が考える限り一番合理的で冴えた解だよぅ」

 

 フルーの背後に巨大な円環が突如として現われた。

 

 七つの鋼の塊を編んだ螺旋。

 

 それが一体何なのか超感覚で捉えた彼は思わず驚きに固まって。

 

「く、くくく……はは、あははははははははは!! それがお前の回答か!!」

 

 笑い出した。

 

「うん」

 

「見事だ。確かに“それしか無い”のだろうな。大戦後に聖女まで付けて送り出した【外宙碩学師団】の目的はそれだったわけか」

 

「現在、確保した個数は八十七個。居住型は二十一個。未来永劫困らないだけの数は揃えた。魔導での複製技術と凍結技術も二年後までに完成する」

 

「複製、凍結、保存、これで宇宙が終わるまで繁栄し続けようと言うのか?」

 

「最終的なシステムの基幹には経年劣化しない生体を使う仕様だからね。可能だよぅ」

 

 今度はランナが溜息を吐いた。

 

「神にでもなったつもりか?」

 

「神様なんて劣化する高次生命体に任せる程、無責任じゃないって言って欲しいんだけどなぁ」

 

「機構そのものになってまで世界を支え続けると言うのか? その孤独、その運命、その末路、それの何処が魔王と違う? フルー」

 

「あの大戦を始める前に七聖女全員で決めたんだ。僕達が“命として終わる時”の器は造っておこうって」

 

 フルーの言葉に拳を握って。

 

 ランナが瞳を閉じる。

 

 その間。

 

 無防備な彼に少女が何もしなかったのは凡そ合理的な判断ではなかった。

 

 だが、彼女は何も言わず、黙って友の回答を待つ。

 

「その決断を―――我が名において粉砕する」

 

「言うと思った。ふふ」

 

 とても今から世界最高の能力で潰し合いをするとは思えない様子で両者が見つめ合う。

 

「最後に一つだけ言っていいか?」

 

「お先にどうぞ」

 

「お前の味覚はお子様過ぎだ。あの当時、紅茶を甘くしてから出されたが、あのやり方はまったく同意出来ない」

 

「酷!? 楽しい思い出に泥塗りまくりだよぅ!!? な、なら、僕だって。コホン」

 

 フルーが咳払いする。

 

「今もやってるのか知らないけど、あの当時…君が作ってきたお菓子、ハッキリ言って不味かった!!?」

 

「むぅ!? 旨い旨いと言っておきながら今更!? 娘達には今もあの当時のレシピのまま出して大好評だというのに!?」

 

 何処か互いにスッキリとした表情で。

 

 過去を清算した男と女は互いに「くくく」と苦笑し合う。

 

「僕達って自分達で言う程、本当は頭良くなかったみたいだねぇ」

 

「ああ、だからこそ、解り合えない事で争いもする」

 

 ランナがスッと片手で額を押さえる。

 

 フルーは背後の円環に触れた。

 

「我が名はランナ。ランナ・クラウゼン・アリト・ニェハエル。人の繁栄を約束する者」

 

「僕はフルー。フルー・バレッサ。全ての人に最後の楽園を授ける者」

 

 短く最後のやり取りが交わされる。

 

「どちらが正しいか」

 

「決着を付けよう」

 

 二つの道はどちらも人を導き続けるに足る。

 

 ならば、遺されるのは純粋に意思と力を持つ者。

 

 二人が互いに向けて技巧と能力と力の全てを向け合って。

 

 激突は刹那。

 

 擦れ違い虚空で止まった両者は背後に認める友に敗因を告げる。

 

「桁外れなわけだ。この力、魔導を極めても防げるかどうか」

 

「あ…はは…これが源初生命体の能力……まさか、半分も返される、なんて……予想外だよぅ……」

 

 グラリと傾いだフルーが背中に背負った環に入った罅を横目にして、吐血した。

 

「フルー。忘れるな。誰も皆、優劣を背負い生きるからこそ――――――」

 

 皺枯れた老人の声は最後擦れて。

 

 いつの間にか骨と皮のみとなった男は基幹異種達が開けた地下の穴へと落ちていった。

 

「知ってるよぅ。だって、僕みたいなパーティーで一番使えないやつが、今じゃ聖女の筆頭してるんだから……」

 

 少女の声に混じったのは涙で。

 

 けれど、雫は一粒たりとも落ちず。

 

 決着は付いた。

 

「っ…っ……」

 

 大規模な魔力も攻撃も無かった。

 

 ただ二人が互いに向けたのは相手を必殺する手札のみ。

 

 片や奇跡と全てを内包する円環。

 

 片や根源にして最古の能力。

 

 軍配は七聖女に上がり。

 

 彼女は無理やりに己を切り替えて。

 

 その今にも崩れてしまいそうな顔で最後の相手へと向き合う。

 

「さぁ、第二ラウンド。始めよう」

 

 今や無人となったアーズトリテの大通り。

 

 一人の少年が外套も羽織らず上を見上げていた。

 

「シンア」

 

 まだ、争いの終結は見えない。

 

 *

 

 少年は基幹異種達から逃走した後、幾つかあるクラウゼン民衆の非難先に襲い掛かった見えない化け物達を掃討していた。

 

 もしもの場合に備えて退避し、後方へと下がっていた【貴皇(ペルソナ・ノーブリス)】は転移方陣の結節点及び動力機関として固定されていた為、ロクな武装で迎え撃つ事が叶わず。

 

 本国から転送され続けるイグニシアの兵達が民衆の防護に付いている。

 

 エトが藩落の国境を焼き切り、化け物の侵入を防いだにも係(かかわ)らず。

 

 化け物達がまるで雲霞の如く押し寄せる光景は何も無い荒野に大規模な砂埃を立てる程だ。

 

 積層魔力の入った筒や術式を封じた符を大量に貸与された少年はすぐさまに出撃し、大量の見えざる化け物達を焼き払い、切り殺し、凍結させ、粉々に粉砕して回った。

 

 その光景を見た兵達は自分を救うのが何者かを知らず。

 

 その光景に震えた民衆は己の盾となったのが何者かを知らず。

 

 ただただ、目の前で繰り広げられる圧倒的な光景に呆然とする以外なく。

 

 ようやく最後の避難先で周辺の化け物を掃討し終えた少年は急いでアーズトリテへと引き返していく。

 

 転移するには魔力が足りなかった為、足を輝かせながらの疾走である。

 

 闇夜に輝きが灯り、少年の前に映像が送られてきた。

 

「エト。そっちはどう?」

 

「ああ、問題なかろう。よくイフィミスラがやってくれている。取り零した化け物はこちらで何とかする。そなたは現場へ全力で向ってくれ」

 

 映像の端で灰金(アッシュブロンド)の髪が駆け、周辺の見えざるものを火柱で焦がしていくのを見て、少年が微笑んだ。

 

「うん」

 

「それから観測班から届いた映像を送る」

 

 少年の前にランナとフルーが向かい合い激突し、背中合わせになるまでの一連の映像が流された。

 

「解析班の話によれば、魔力は殆ど確認出来ず。緒戦において聖女が固まったままなのも含めてランナ・クラウゼン・アリト・ニェハエルの能力は“高次生物にも有効な命令権限”のようなものと推測されている。それとフルー・バレッサの帯びる巨大な環だが、あれが現われてから艦の幾つかの計器が狂いを生じさせていてな。観測班も漠然と“大きいもの”としか知覚出来ぬようだ」

 

「充分だよ。ありがとう」

 

「これよりわざわざ七教会と戦わせて折衝の道具にしようという輩に言う台詞ではないな」

 

 少年がクラウゼンに向っているのは自分の用事だ。

 

 しかし、エトに頼まれたからでもある。

 

 現在、七教会にクラウゼンが潰されるという事態になれば、藩落は雪崩を打って七教会の版図に加わっていく。

 

 その治世は素晴らしいものになるだろうが、悪いものも善きものも伝統も全て消え失せる。

 

 それでは過去に生きる者達の寝床は何処にもなくなる。

 

 この広大なファルティオーナの一国、その一つの都市が無くなるという程度では済まない転換点だ。

 

 それを感じているからこそ、少年もエトの話に乗った。

 対外的には七教会がクラウゼンに攻め込んできたという流れ。

 

 其処に魔王が現われたとなれば、それは“七教会が魔王を呼び込んだ”という図式まで持っていける。

 

 七教会の支配に疑問を持つ者達を集める狼煙として、エトはこの状況を利用すると宣言したのだ。

 

「もしもの時の為にコレを持っていけ」

 

 幾つかの資料と魔術式が映し出される。

 

「これって……」

 

「これならば聖女にも僅かながら対抗出来るであろう」

 

「いいの? 国の財政とか傾くんじゃない?」

 

 エトが苦笑した。

 

「そんなのはそなたの考える事ではないな。このイグニシア・クルシス皇帝が持っていけと言っているのじゃ。素直に受け取っておくがいい」

 

「……うん」

 

「そなたの目的が何かは聞かぬ。だが、負けるでないぞ。余の魔王様……」

 

「行って来ます。僕の皇帝陛下……」

 

 そう返されて満更でもなさそうな声が告げる。

 

「今更、【聖征者(クルセイダー)】が魔と決め付けた者を滅ぼす時代でもなかろう。人様の家に勝手な事をしたなら、それがどんな者だろうと罰を受けると教えてやれ。ティア!」

 

「まぁ、親しき仲にも礼儀あり、くらいは言っておくよ」

 

 通信が笑い声を最後に途絶えた。

 

(相変わらず、あの子との連絡が取れない。転移が封鎖され始めてる。七教会の特務戦技官クラスの気配もあちこちにあるし、魔導の気配も……これはハティアの……)

 

 静かに藩落に浸透しつつある七教会の影とも言うべき者達の気配に少年は予想外に事態が不味い方向へ傾いている事を知る。

 

 足が一際強く、大地を蹴った。

 

 一拍の間を置いて。

 

 少年が燐光を纏って掻き消え。

 

 蹴られた地面を中心に大規模な地盤沈下が巻き起こる。

 

 膨大な加速を得た肉体が時速数千kmと言う非常識な値を記録する。

 

 肉体を完全に制御下に置いていたとしても、基本的には在り得ない速度。

 

 藩落を一直線に貫くように空へ少年の輝きが尾を引いていく。

 

 空気を割った雷の如き激音と空振。

 

 エトから預けられた積層魔力の最後の一欠けらを動魔術に注ぎ込んだ少年は空の上から幾つかの魔導の実力者達が藩落周辺で待機しているのを確認し、真っ直ぐにクラウゼンへと落下していった。

 

 紅の魔力の下、クラウゼンの守護者に墜とされた基幹異種達の魔力残滓が都市を燃やしていた。

 

(かなり削ったから、今の彼なら苦も無くってところかな。フルー君は……)

 

 一方の気配の途絶。

 

 それが何を意味するのか。

 

 少年に解らないはずも無かった。

 

 減速した肉体がクラウゼンの大通りへと着地した時にはもう決着は付いていた。

 

「さぁ、第二ラウンド。始めよう」

 

「――――――」

 

 少年が言葉を失ったのは少女が泣いていたからだ。

 

 あのフルー・バレッサの頬に一筋の跡があったからだ。

 

「シンア」

 

 久方ぶりに呼ばれる名前。

 

 これから歴史の転換点に立ち会おうというには場違いな心地で少年は“仲間”を気遣う。

 

「大丈夫?」

 

「あはは。今更、君に心配されるなんてさ」

 

 グイッと顔を服の袖で拭った少女はもう七聖女の顔をして、少年から十数メートル先に下り立った。

 

 パチンとフルーの指が弾かれる。

 

「何かした?」

 

 少年に少女は首を横に振る。

 

 傍に七聖女がもう一人。

 

 それも少年と特に関りの深い者がいると、フルーは伝えなかった。

 

 封鎖され始めている転移の形式とはまったく異なる術式。

 

 高格外套達が時に異相空間経由で行う転移方陣が展開され、クラウゼン私邸で固まっていたミュルトを飲み込んで消し去った。

 

「大戦以来だね。今日はランナとの答え合わせの他にも一つ用事があって来たんだよぅ」

 

「彼は?」

 

「ご先祖様と一緒に眠ってるんじゃないかなぁ」

 

「目的は“門”?」

 

「シンア。それは七教会を舐め過ぎだよぅ。もう確保してあるのに政治的優位を破棄までして欲しがる程、僕は強欲じゃない」

 

「大陸に同じようなものが幾つかあるんじゃなかったっけ?」

 

「全部、異種や亜人側が押さえてるからねぇ。別口を探すしかなかったけど、何とかなった。ミュルトが大海洋で見つけてくれた」

 

「君が出てきたって事は……僕を倒す算段でも立った?」

 

「うん♪」

 

 不意に少年は自分の肉体が約半分。

 

 57%程が瞬時に引き裂かれた事を知覚した。

 

 両腕、右脚、左脇腹がごっそりと血も肉も骨も失われ、輝いて復元されていく。

 

(力の出所は……後ろの環? 僕の肉体の復元速度の限界を瞬時に超える出力)

 

 嘗て【神門(みかど)】との戦いで肉体を細切れにされた少年だが、それは殆ど相手が七聖女と同等以上の魔術的な極致、神すら越える能力を持っていたからだ。

 

 ハティア・ウェスティアリアの大出力の全方位同時波状攻撃。

 

 【宇宙樹(ユグドラシル)】を使った一撃でさえ、少年は骸骨になる程度で済んだ。

 

 少年の肉体の復元速度と負荷に対する抵抗の値は恐ろしく高い。

 

 自分の意思で復元速度を遅くする事もあるが、基本戦闘でそんな自殺行為を少年はしない。

 

 現在の少年の肉体を一瞬で引き千切るというのは復元速度を上回る速度と抵抗を無視する程の膨大で絶対とも言えるような出力(エネルギー)がいる。

 

 熱量ならば、太陽を軽く越える程に。

 

 圧力ならば単位的には億以上が必要だろう。

 

 殆ど黒星(ブラックホール)並みだった大天使の重力ですら、少年を引き千切るまでは及ばなかった。

 

 その少年の肉体を軽く引き裂くのは一体どんな手品なのか。

 

 空間転移関係の術式に関しては人並み以上な少年にも相手の力の正体が見極められなかった。

 

「さ、そろそろ行こっか♪」

 

「?!」

 

 少年の肉体が強制的に加速される。

 

 突如として発生した膨大な慣性が空気の壁を割らせながら肉体を遥か天空へと打ち上げる。

 

 基幹異種に対して使われた光速に近しい加速にも引けを取らない。

 

 それをフルーは刹那で遣ってのけた。

 

 一瞬の沈黙を割って、都市がフルーを中心に陥没していく。

 

 同時に空気が少年の通り抜けた道へと戻り。

 

 巨大な気圧偏差で建物がフルーの方向へと薙ぎ倒されていった。

 

「ん?」

 

 観測術式が僅かに捉えた違和感に瞳が少年を打ち上げた方角とは別方向へ向く。

 

 暴風の中でカシャリと複数の観測結果が少女の視覚へと反映され、鮮明に最適化された。

 

(流星? いや、これって人間じゃ……)

 

「面白い仲間を集めてるねぇ。でも、今日は僕とシンアの一騎打ちって決めてるんだ。退場してもらうよ」

 

 フルーの声に反応したか。

 

 【外宙碩学師団】がいる異相空間より背後の環を引き出した時と同じく。

 

 大陸の上空。

 

 黒い球体が可動を初め、七色の玉石と化した。

 

 七教会の各部門が使用する通信や観測部門から送られてくる航空衛星写真、その他無数の用途で使用される人工天体群のほぼ全てを足しても性能的にはフルーの浮かべているソレには及ばない。

 

 動力源。

 

 魔術的な出力。

 

 耐用年数。

 

 観測能力。

 

 攻撃能力。

 

 どれも既存の兵器体系を超えている。

 

「【擬似詠唱(ディス・キャスト)】開始。目標、魔王に接近中の高速移動物体。波動収束。温度はまぁ1500℃くらいでいいかなぁ。発射♪」

 

 大陸では基礎の一つである【秘儀文字(アルカナ)】とはまったく異なる数字のみ刻印された術式が瞬時に創造主の入力を実行した。

 

 玉石内部で乱反射しながら収束されていく波動(ひかり)が一点に集められたかと思うと惑星側へと発射される。

 

『――――――?!!!』

 

 発射される寸前に気付いたらしき流星が回避行動を取った。

 

 しかし、一度は逃げる事に成功したものの、真空をほぼ減衰無しで貫いた大出力光線(レーザー)は瞬時に点射ではなく照射へと切り替えられ、薙ぎ払われた

 

 ズドン。

 

 音はせずとも防壁として展開された魔術方陣が爆散、高度を落として流星は大気圏へと落ちていく。

 

 それでも少年に近付いた流星はたった一つの事実を告げる役割を果たした。

 

『ぐぅぅぅぅぅぅ!?!! ティ、ティア!!!? 私だ!!! 紅亜だ!! あの子からの伝言を伝える!!! あの聖女の武装は、武装はッッ!!!』

 

 ツインテールの少女が学生服と半身を焼かれ、今正に落ちていく最中、告げる。

 

『惑星規模の【質量武装(イングネス・アームズ)】だ!!!? 逃げろ!!!! 今のお前の能力では、あの子は勝てないと!!!!』

 

 無論、その通信を捉えていたフルーは早々バレた手品の中身を変える気も無く。

 

 高速で大気圏を登っていく。

 

 巨大な七つの球体を結わえた螺旋。

 

 その意味を悟った少年は真空で沸騰する肉体を輝かせながら、少女(フルー)がランナと何を話していたのか察する。

 

 星が球形をしているとよく見える位置。

 

 対峙する少女が通信を何故邪魔しなかったのかも含めて。

 

 何もかも合点がいった。

 

「フルー。銘を聞いていい?」

 

 音声を伝達する空気なんて無い。

 

 だが、唇を読んだフルーにはありありと少年の声が脳内で再生出来た。

 

「【星封質量器(ステラ・ファブリカ)】」

 

「まさかとは思うけど、それ全部?」

 

「うん。この星と同質量程度の惑星七つを突っ込んであるよぅ♪」

 

 にやりと余裕の笑みで語る少女の唇を読んで。

 

 少年は大きく仕方なさそうな溜息を吐いた。

 

「凄過ぎて。何て褒めればいいのか解らないんだけど」

 

 結わえられた七つの鋼の玉。

 

 その中には星がある。

 

 単純な事実がどれ程の技術の精粋か。

 

 解ろう者ならば、空いた口を塞ぐ事すらしないはずだ。

 

 超、超超超超大質量。

 

 全ての生命の源である惑星を少女はその小さな身体で、その小さな小さな環で、“運用している”のだ。

 

 空間制御の極北。

 

 同時に大質量が持つ慣性や重力の全てを管理するという馬鹿な話だ。

 

 もし、その背後の環の制御を一つでも誤れば、大陸の地方どころか、大陸そのものが沈む。

 

 星が重力変動に地軸を曲げ、全ての生物が瞬間的な重力異常で潰れる。

 

 そもそも質量を一箇所に集めて重さで自壊しないようにしているという時点でその御業は大神すら越えている。

 

「ようやく解った。【聖杯委員会(ペルスヴァル)】が七教会と、いや…君とした取引の条件が」

 

 今までのあらゆる情報を揃えれば、おのずと答えは見えてくる。

 

「亜人や異種、人外、神。人以外の知性を別の惑星に移そうなんて。君以外に考えないよ。フルー」

 

「褒め言葉として受け取っておくね♪」

 

「確かにそれしかないって回答だと思う。この大陸は沢山の人達が暮らすにはきっと狭い。他の種が繁栄するには彼らだけの土地が必要だって言うのも頷ける話だ。でも、それは……」

 

「解ってるよぅ。それはきっと哀しい決断なんだろうねぇ」

 

「理解していて。それでも君はそうすると決めた」

 

「誰もが一緒に暮らせる世界。他者を理解し共に生きられる世界。それにはきっとまだまだ“世界が足りない”と僕は感じた。だからこそ、僕はこの選択をする」

 

「本当にそれでいいの? 繁栄が必ずしも幸せじゃないって君は知ってるはずなのに」

 

 例え、争いの元となる問題の大半が解決して一つの種族が一つの星を治めるようになっても、繁栄があらゆる知性無き星を埋め尽くしても、それが必ずしも人々の幸せへ結び付かないのは、大陸の【近代化(レボリュション)】を推し進めるフルーには自明の事のはずだ。

 

「見てみなよ。シンア」

 

 少女が足元に視線を向けた。

 

 一つの大陸と大海洋しかない世界は今日も蒼く。

 

「此処には全てが在って、なのに誰もが幸せとはなれない」

 

「それは……」

 

「別に君だけのせいじゃないのは解ってる。君が皆の幸せを考えてくれて、その上で僕達の敵になってくれてた事だって知ってる。でも、僕達はあの日、あの時、あの丘で決めた。クラルは君をその手で刺し殺して河へ突き落とした時、ミュルトとメルフは君を裏切って世界を救おうとした時」

 

「……」

 

 少年がそっと瞳を閉じる。

 

「僕達七聖女は魔王と戦う。何故なら、それはもう決断された事だから。もう覆せない事だから。僕達は僕達の道を君と違えた時から、何が正しいかじゃなくて、何が最善かを考えて生きて来た。ハティアは君を殺す事を最善とした。ユアンは全てを見守る事を最善とした。ソィラは悪を破壊する事、僕は技術の進歩、クラルはあの神様の代わり、ミュルトとメルフは新しい道を模索し続ける事」

 

 顔を少年に向けて。

 

 フルー・バレッサは語る。

 

「ねぇ。僕達にとっての幸せって何なんだろうね」

 

「――――――」

 

 少年にそれは答えられない。

 

 いや、答えてはならない問いだった。

 

「僕達は君を倒す為に七聖女になった。今、地位も名誉も名声も手に入れて、ハティアは家族すら持った。人との関りだって昔よりずっと広がって、誰もが僕達を手伝ってくれる、助けてくれる、傍にいてくれる。でも、僕達はきっと、ハティアですら、この星で幸せじゃない誰とも同じ。幸せの意味を見失ってる」

 

「フルー。僕は―――」

 

 言い掛けて。

 

 それ以上を言わせず。

 

「ハティアには悪いけどシンア。君を此処で倒す。みんなが君を殺せないなら、殺したくないなら、君を殺せる僕が、君を殺す。殺した後、一緒に考えてみる。何が僕達の幸せなのかってさ」

 

 少年は瞬間的に身を護る為に顕現させていた外套を脱いだ。

 

「……ありがとう」

 

 とても自然に感謝が少年の口を突いて出て。

 

「どういたしまして」

 

 少女はそれを静かに受け取って、始める。

 

――――――ッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!?

 

 強烈な加速だった。

 

 少年の全身。

 

 約四割が瞬時に消え失せ、大気との摩擦熱と断熱圧縮で焼け焦げていく。

 

 顔面を少女の手に掴まれながら、更なる加速。

 

 突入した大気圏上層で少年は自分の肉体に掛かる膨大な負荷にフルーの用意周到な準備を感じた。

 

 今まで肉体の復元速度と破壊の鬩ぎ合いにおいて少年が勝つのは常の事だった。

 

 一瞬で破壊が完了する攻撃に対しては不死身。

 

 常時、肉体を傷付ける攻撃に対しては復元速度が上回る状態で行動が出来た。

 

 しかし、現在。

 

 肉体を上手く動かす事すら出来ない程の莫大な負荷で既に骨までも焼き崩れ始めている。

 

「君の復元速度を僕の【星封質量器(ステラ・ファブリカ)】の能力は上回る。その能力を限界まで封印した状態で【因痕(キカトリクス)】を気にしてる君に勝ち目はない」

 

 唇から言葉を拾って。

 

 まったくその通りだと少年の僅かに残った顎の骨が動いた。

 

 膨大な枚数を誇る三次元式の法術防護、奇跡を使うまでも無く現在の少年が突破出来ない量の膨大な加護が亜光速以上まで加速しているフルーの肉体を保護していた。

 

「奇跡は使わないの?」

 

「ランナに能力を半分も返されて、結構重症なんだよぅ。わざわざ自爆するかもしれない能力には頼れないでしょ?」

 

 本来、フルーの奇跡を使えば、少年の肉体を完全な消滅状況にまで持っていくのは然程難しくない。

 

 現在使用されている惑星質量を内包した環も本来なら戦闘において補助的な役割を果たしているはずの力に過ぎないと少年は理解していた。

 

 だからこそ、殺すという言葉を使った時点で、奥の手があるのは必定。

 

「切り札の説明くらいしてあげるよ。君が意識を断絶せずに受けられればの話だけどね」

 

 フルーの瞳が仄暗い光を帯びる。

 

「【六分偽鋼(ジ・セクスタンス)】」

 

 ガコン。

 

「      」

 

 少年の頭部が輝きと化し、骸骨として復元される。

 

「シンア」

 

 己を呼ぶ声を聞く事も出来ない様子に少女が笑む。

 

 頭部を掴んだ手と額の間に今も輝きが吹き上がり続けていた。

 

 僅かな隙間の間に指のように細い金属製の筒が見える。

 

「頭蓋を貫通した時にどうなったか解ったと思うけど、これは君という“場”が復元の零起点情報に対して反応した瞬間に空間の絶対座標をズラして、復元内容を別々の場所に指定し直すものなんだ」

 

 七教会のとある部門は言った。

 

 少年は、魔王は、その正体は、絶対に敗れぬ“場”のようなものだと。

 

「君の存在はこの宇宙を規定する根幹法則にも近い場と同一視される。君はどんな状況下でも“この宇宙の中でならば”如何なる負傷、破壊、消滅、抹消、からも回復する。でも、それにだって条件はある。例えば、君が復元される際に指定される情報とか。君が君の自己同一性を保ちながら復元される過程をずっと調べて、ようやく発見した。君の復元には破壊された肉体から発される情報が必要だって。そうじゃなければ、君は昨日の自分や十秒前の自分を復元しかねない。零起点情報は破壊に対して発生し、その時点で場への書き換えを行う。書き換えられた情報そのものは場へ保存されてるから、破壊は出来ないけど、場から逆に現実の君という物体へ干渉する場合は話が違う。君の根源的な副交感神経とも言うべき零起点情報を君は制御下に置いてない。復元する場所を別々に指定すれば、君という存在は分割が可能になる!」

 

 少年は答えない。

 

 答えられる状態ではない。

 

 頭部の殆どは機能を停止している。

 

「あはは、あはははははッ!!!」

 

 涙をポロポロと零しながら。

 

 それが、どうしようもなく、どうしようもなく、嬉しくて、哀しくて。

 

 少女は思った。

 

「お菓子、食べたいなぁ」

 

 沸き上がる無力な己への怒り。

 

 その全てを呑み下せるだけの甘い甘い果実が、彼女にはどうしても必要だった。

 

「あの日、皆で食べたやつがさぁ」

 

 一人の少年を剣で串刺しにした日から、まともな食事を取った事のない少女の小さな幸せはそんなものに違いなかった。

 

 *

 

―――深い深い闇の中、少年は刹那の夢を見る。

 

―――昔々、まだ少年がただの少年であった頃の夢を。

 

―――まだ、たった一人の少女と話すのも精一杯だった日々を。

 

『ねぇ。シンア』

 

『何?』

 

『あなた。どうしていつも自分で何かを決めようとしないの?』

 

『何かを、決める?』

 

『ええ。だって、あの粗暴で野卑なやつらにコキ使われてるじゃない』

 

『ソボウ。ヤヒ?』

 

『少なくともあなたみたいな人じゃないって事』

 

『……僕、ドレイっていうのみたいだから』

 

『そうだとしても、食べ物まであんな……あれじゃ馬や牛より酷いわ!』

 

『あんまり食べなくても大丈夫、だよ?』

 

『この間、わたしに野いちご持ってきてくれたじゃない。あれ、森にたくさん生えているのでしょう?』

 

『こっそり食べたら怒られるし……』

 

『森のあちこちに生えてるものなのに? そんなばかな事……』

 

『前に食べたらクビワ重くされたから……』

 

『……ねぇ。どうして怒らないの?』

 

『怒る?』

 

『そう、腹が立つでしょう! あなたはあいつらよりずっとずっと立派なのよ! わたしの話す事をお母様よりお父様より聞いてくれる。毎日毎日、あんなに沢山働いてるじゃない! それなのにあなたと違って遊んでる子があなたより良い物を食べてる! ふつうならやっつけてやりたいって思うはずよ!』

 

『……ごめん』

 

『どうしてあなたが謝るのよ?!』

 

『クラル。怒ってるみたいだから……』

 

『だ、だって、あなたはわたしの友達なのよ。友達がひどいめにあって、それでも怒らないままだなんて……』

 

『あの、一つ聞いていい?』

 

『何かしら?』

 

『トモ、ダチって何?』

 

『え?』

 

『その、わからなくて。ごめん……』

 

『……友達って言うのは……えっと、その……ずっとずっと大切にしたい人って言う意味の言葉よ』

 

『大切?』

 

『そう。そばにいてくれて、色んな話を聞いてくれて、それで……守りたいって思う人の事』

 

『守りたい……』

 

『だ、だから、わたしはあなたがあんな風にされてるのががまん出来ないの! 友達なのに、ひどい事をされたまま、従ってるのが嫌なの! 怒って欲しいのよ!』

 

『ごめん』

 

『だから、謝らないで!?』

 

『でも、その……クラル』

 

『な、何?』

 

『えっと、こういう時は……あ、ありがとう?』

 

『――――――』

 

『僕のために……怒ってくれて……』

 

『……はぁ、もういいわ。きっと、あなた天使様みたいに怒らないまま一生を過ごす人みたいだから』

 

『天使様?』

 

『何でもない。こっちの話よ』

 

『ごめん……』

 

『……ねぇ。シンア』

 

『?』

 

『きっと、あなた。このままじゃずっとずっとひどい事されたままだと思うの。でも、人の言う事をちゃんと守る事は出来るわよね?』

 

『うん』

 

『それなら、わたしと約束しなさい』

 

『ヤク、ソク?』

 

『解らないなら教えてあげる。約束って言うのは絶対守らなきゃいけない言葉って意味よ』

 

『絶対、守る……』

 

『そう。どんな事があっても守らなきゃいけない言葉。例え、嵐が来ても、偉い人に言われても、守らなきゃいけないの。それが間違ってても、正しくなくても、一度約束した事は絶対なのよ』

 

『絶対……』

 

『わたしが約束してあげる。だから、どんな約束だろうと絶対にあなたは守るの。そうすれば、きっとあなたはあんなやつらにいじめられなくてもよくなる』

 

『そう、なの?』

 

『ええ、だから、私と約束しなさい』

 

『う、うん』

 

『じゃあ、えと。一つ目の約束ね。約束はどんな事があっても絶対に守る。はい』

 

『?』

 

『ちゃんと自分で言って覚えるのよ!』

 

『や、約束はどんな事があっても絶対に守る!』

 

『そう。いいわよ。それじゃあ、次は……約束するのは大事な事だけ!』

 

『約束するのは大事な事だけ!』

 

『他にもまだ約束する事が一杯あるんだから、覚えないとしょうちしないわ』

 

『が、がんばる……』

 

『ふふ、それでこそわたしの友達よ♪』

 

『クラル……』

 

『約束の三つ目は―――』

 

 *

 

―――遠い昔。

 

―――きっと、何も知らなかった頃。

 

―――約束した。

 

「約束はどんな事があっても絶対守る」

 

 唇が紡ぐ。

 

 言葉を話す。

 

 否、少女の耳に届く言霊(ことだま)ですらあった。

 

「そんな?!! この状態になってまでまだ!!!?」

 

 フルーには少年がどういう状態なのかよく見えている。

 

 凡そ、動ける状態ではない。

 

 思考出来る状態ではない。

 

 そもそも死んでいるも同然の状況。

 

 少年は確かに類稀なる復元能力を持つ。

 

 しかし、その実、肉体の能力は大して常人と変わらない。

 

 絶対的な力を支えるのは唯一。

 

 意思の力のみだ。

 

 それすら、脳がまともに機能していてこそ動く。

 

 だが、そんな常識が彼女の目の前で覆されていく。

 

(脳が殆ど沸騰してるのにどうして!? 肉体そのものに意思があるなんて概念論―――?!!! そうだ!!? 神門との戦いの最中、あの時も確かに頭部が無くても喋って―――?!!! あれがもしも周辺魔力を使った魔術の類じゃなかったとしたらッッ!!!?)

 

「約束するのは大事な事だけ」

 

 大気圏上層を周回、焦がし削られている。

 

 己の能力を極限まで封じたまま、少年は語る。

 

 ただ、意思のみで、想いのみで。

 

「友達は大切にする」

 

 まるで慈しむように。

 

「自分も大切にする」

 

 自分を磨り潰し、永遠の牢獄に閉じ込めようとする少女へ。

 

「もし辛くなったら―――」

 

 何かが罅割れる音。

 

 それは少女の心の音だったかもしれない。

 

 思考が止まり掛けて。

 

「友達に頼ってもいい」

 

―――もし辛くなったら、友達に頼ってもいいんだよぅ? 約束だからねぇ。

 

 それは眼鏡姿の少女が未だ鍛冶師の娘として友達に微笑んでいた頃の約束。

 

 轟々と音を立てて焼き滅ぼされながら。

 

 赤熱し復元しようと輝く骨になりながら。

 

 それでも少年は語る。

 

 その声だけはしっかりと彼女の耳にも届いた。

 

「エト。借りるよ」

 

 今度こそ、万能に手を掛ける七聖女フルー・バレッサの思考が停止した。

 

 何故、衝撃を受けているのか。

 

 どうしてこんなにも胸が痛いのか。

 

 それを生理学的には説明出来る。

 

 出来るのに、フルーの心は理解する事を拒んでいた。

 

 心の何処かで思っていたのだ。

 

 きっと、まるで奢り高ぶる愚者のように自分達の絆を感じていたのだ。

 

 最後まで自分の与えた品に頼ってくれると。

 

 穢れを知らぬ幼子の如く思っていたのだ。

 

 力を借りてくれると、高を括っていたのだ。

 

 なのに、呟かれたのは別人の名前だった。

 

 自分の名前ではなかった。

 

 自分の造ったものの名前ではなかった。

 

 それがフルー・バレッサにはちっとも予測しようのない一言だった。

 

 どんな発見や閃きよりも驚きだった

 

―――何故なら、彼女は今だって少年を心の底から信じていたから。

 

「【七星護封巌(セブンス・ロー)】」

 

 少年の求めに応じて。

 

 イグニシア・クルシスが大陸上空へと打ち上げた要石が反応する。

 

 国の大魔術師達に建造させた七つの巨岩。

 

 奇しくもフルーが浮かべている人工衛星にも似た灰色の多面体。

 

 表面及び数万層に及ぶ多層構造内部。

 

 そこには数兆行の超高精度極小式が刻まれている。

 

 その全ては因果律性誘導領域。

 

 つまり、奇跡を持って生み出された“加護”を人工的に再現する為のものだ。

 

 たぶん、能力的には【終滅(アド・ア・プロキシマ)】を運用する【縛束鋼(リガトゥス・モルフェーメ)】にも劣る。

 

 だが、このフルー・バレッサが予想し得なかった魔の時間に少年へ多少の手助けをするには十分な性能を有していた。

 

 唸りを上げて刻まれた秘儀文字が循環し始める。

 

 大気圏上層部。

 

 太陽から降ってくる電子の雨を貪欲に飲み込みながら、空の大源(マナ)までも取り込んで、少年の意志に呼応した七つの要石はたった一つの現象を出力する。

 

「フルー。今日は僕の勝ちだよ」

 

「もう!! もう零起点情報は分散させた!! 後は全てを別々に封印すれば!!?」

 

 頭部へ半ば埋め込まれつつある鉄筒が貫通し切れば勝利は確定。

 

 それでなくとも零起点情報の分裂発現も既に始まっている。

 

 どうしようもなく少年は復元するべき要素を一つの肉体には保てない。

 

 刹那でも頭部が再び消滅を迎えれば、詰みだ。

 

 だが、

 

「なら、こういうのはどう?」

 

「なッ!!!!!?」

 

 自分の背後から声を受けて。

 

 少女の明晰な頭脳は状況を瞬時に悟った。

 

「君の言う零起点情報を強引にこっちから分裂させればいい」

 

 少年がもう一人。

 

 彼女の背後に出現していた。

 

 今正に滅ぼうとしている自分を見つめながら。

 

 それでも冷静な瞳で少年は告げる。

 

「君に持っていかれた情報はどうにもならないけど、残ってるものは予定座標に飛ばさせない」

 

 その手が少女を押し退けた。

 

 最後まで剣も拳も作らぬまま。

 

 少年は地表へと再突入していく顔を見送る。

 

「また、ね。フルー」

 

「?!!」

 

 少女が大人しく流れ星となったのは全てが決した事を知ったからだ。

 

 これ以上の戦闘は無意味。

 

 そう思考の上で計算したなら、例え自分の人生目標の達成が目の前であっても彼女は手を出さない。

 

 魔王と七聖女の暗黙の了解というのはそういうもので。

 

 彼と彼女の信頼はそういうものだった。

 

「      」

 

 離れていく少女の顔は歪んでいる。

 

 熱さにではない。

 

 引力にでもない。

 

 心の痛みにだ。

 

 そんな表情をさせてしまった事こそが。

 

 少年にとって今日、最も痛い一撃だった。

 

「僕はッッ、僕はッッッ!!!! ッッッ――――――」

 

 理性と合理性に鎧われていたはずの少女が発した絶叫は誰にも届かず。

 

 涙すら灼熱に気化していく世界で、自ら背負う惑星七つ分の重さへ引かれて、聖女は墜ちていく。

 

(今だって君達が誰かと笑いあったりしながら元気に生きててくれる)

 

 減速、軌道を調整しながら、己を互いに見つつ“二人の彼”は同じように苦く苦く笑った。

 

(それだけでも僕は結構幸せなんだよ。フルー)

 

 骸骨と化していた片方が輝きを発して消え去り、フルーの背後に現われた方が自分の肉体が戻った事を確かめるように手を見つめる。

 

「殆どあっちに持っていかれちゃった、かな」

 

 今の自分が仮初めでしかない事を自覚して、少年は今も待っているだろう少女達の顔を思い浮かべた。

 

『我が創造主。“貴方のいる場所”が判明しました』

 

 いつもはハルトゥムに在る声が少年の脳裏へ直接響く。

 

「何処?」

 

『その位置から惑星の反対側、月とこの星の中間で保険が働きました。封印は不可能になりましたが、同時に七教会の【外宙碩学師団】の艦艇三十隻が出現し、周辺を封鎖。聖女三人の出撃も確認。手出し出来ない状態です』

 

「そっか」

 

『分裂した構成要素は三つ。記憶、肉体、意思であると思われ、最後の一つを検索(サーチ)出来ません。推測になりますが、何かしらの“入れ物”に入っている可能性があります』

 

「解った。でも、とりあえず帰ろう。色々これから準備しないと」

 

『了解しました。周辺での転移行動は封鎖されている為、このまま大気圏下層へ突入するルートを取ります。よろしいでしょうか?』

 

「うん。流れ星になって帰るって言うのも偶には乙じゃない?」

 

 ゆっくりと肉体の向きが変わって落下軌道を取る。

 

「あ……」

 

 自分と同じ運命を辿るイグニシアの要石の破片を見つけて。

 

 少年の顔が半笑いになった。

 

「エトに謝らないと。弁償、かなぁ」

 

『イグニシア・クルシス皇帝の現在表情を出しますか?』

 

「帰ってから見るよ。これからしばらく見られなくなるだろうし、ね」

 

 断熱圧縮に曝されながら、少年はそっと瞳を閉じる。

 

 どんどん自分が希薄になっていく事を悟りながら、それでもその顔には笑みが浮いていた。

 

 火葬でもされるように燃え上がりながら。

 

 少年は一度(ひとたび)また夢を見る。

 

 それはいつだったか。

 

 まだ、仲間達が傍にいた頃。

 

 小さな街の路地裏で。

 

『何してんのよ。さ、焼きたてが美味いんだからさっさと来なさいよ』

 

 短い銀髪が揺れ。

 

『ほら、こちら側の部分もなかなかのものだ』

 

 長い黒髪が照り返し。

 

『そんなに口へ押し込んだらダメです!? 大丈夫ですか?』

 

 黄金の穂波が輝き。

 

『あ、美味しいよぅ。一緒に食べよう♪ シンア!』

 

 眼鏡の下で目が細められ。

 

『……うん』

 

 少年はそう心の底から呟いて。

 

 その仄かに甘い麺麭(パン)を口へ入れる。

 

 幸せなんて、少年にとって、きっとそんな些細な事に違いなかった。

 

 夢の中でもう傍にいない人達を思いながら。

 

 少年は妙に塩味の利いた幸福(ソレ)を噛み締める。

 

 もう戻れない日々の芳香だけが、揺らりと夢の黄昏に立ち昇っていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。