第一章八節「憐憫」
街道沿いに建つ小さな教会の最中。
幼い声の調べが静寂を震わせていた。
―――神は与えたもう。
―――世に唯一の希望を。
―――汝の名は救い手。
―――汝の名は担い手。
―――囚われの民を解き放つ。
―――全ての御霊を持つ者よ。
村の者が数人。
長椅子に座って、村々から集められた小さな聖歌隊の声に耳を傾けている。
教会に程近い叢(くさむら)に止まっていた馬車の中にまで開け放たれた窓から美声は聞こえていた。
決して上手いわけではない。
洗練されるには未だ程遠い。
されど、確かに籠る尊き願い。
子供達の楽しげな響きが三人の旅人を癒していた。
「良い音色だな」
イフィミスラが耳を傾けながら、荷台で静かに呟いた。
「うん。楽しそう♪」
その呟きにナーリャが言いつつ、聖歌を謳い継ぐように鼻歌を混ぜる。
「エルデナンドは教会の力が伝統的に強いって聞いてたけど。教会が何処もこういう風だったら、世の中から争いなんて消えるのかもね」
ティアが馬車を引く二頭の馬に草を食ませながら教会の方を見やる。
夏へ差し掛かろうとする四季の移り変わりを反映してか。
リンリンと虫の声。
聖歌を邪魔する事もなく。
全てが一体となった音色を少年と少女達はしばし聞き入った。
少年がそろそろ行こうと言い出したのは聖歌が終わった後。
馬車が出発する。
一時の穏やかな感傷から醒めるように進む速度は早かった。
*
エルデナンド領内を抜けた三人は誰に咎められる事もなく。
順調に旅路を進めていた。
そもそもが何処に行くのか少年次第の旅である。
生贄にされた少女は何処に行こうと全てが新鮮で芳しく。
奴隷にされた少女は記憶もないので見知らぬ世界を興味深く楽しんだ。
あの二人の少女が同時に果てた日から数日が経っていた。
その後、翌日の朝に目覚めたナーリャはいつも通り、何も分かっていない顔で少年にベタベタとした。
初めて自慰というものを、しかも…見知った少女が少年に啼かされているところを見つめながら、してしまったイフィミスラは恥ずかしさのあまり全てから逃避した。
己が最後に何を股間から噴出してしまったのか理解していたから、三日は少年とまともに顔を合わせられなかった。
羞恥もようやく治まったイフィミスラはそれからというもの、あの夜の事は普段努めて考えないようにしていたが、同時に脳裏の片隅で何かと考えるようにもなった。
少年の背中。
それを見て、感じて。
女としての本能は、そこに言葉とならないものを学び取った。
それは少年の気遣いとか、さり気ない気配りとか。
旅に必要なものを揃え、少女達に不自由させないようにしてくれていたのをイフィミスラはようやく感じられるようになっていた。
常に着替えらるように複数揃えられた服。
排泄後に身を清める上質な紙。
味が単調にならぬようにと料理に含まれる幾種類の香辛料。
労力の大きい馬の世話や馬車の補修作業の全て。
荷台に座り続ける事を考慮して敷かれた柔らかな藁。
枕もない其処にわざわざ眠れるようにと羽毛らしいものが詰まった麻袋まで用意された。
風通しの良い荷台に虫が寄り付かないのは何処からか摘んできた薫りの強い香草を撒いたから。
街道沿いの道端で夜盗にも襲われず、野犬にも合わないのは少年が毎夜火を絶やさず番をするからだ。
どれだけあるのだろうかと言う程に少年は少女達の為に沢山の事をしていた。
気付けなければ、きっとイフィミスラは後悔していただろう。
これ程までにさせていた少年に顔も合せないなんて失礼どころか無礼だった。
自分の恥ずかしさ一つくらいなんだと。
地面に穴があったら入りたいくらいの失態だったが、それにしても無視し続けていれば、恩を返さない不義理以外の何ものでもない。
(我はこの恩をどうやって返せばいいのだ? ティア……)
晴れた空の下。
湿った風が吹きつつある街道で少女は少年の背中にそう内心問い掛けた。
「あ、見えてきたみたい」
「どうかしたのか?」
御者台の方にイフィミスラが顔を出すと同時。
ナーリャも同じように顔を出した。
二人が少年を挟んで左右に顔を出すと道の先が途中で二本に分かれていた。
「これは……東街道と西街道の境か?」
「うん。東に抜ければ【乂羅(がいら)】の方角で極東に。西に抜ければ【覇道(マグニトゥディネム)】大陸中央直通行路に出る」
「そうか。では、東だな」
サラッとそう言ったイフィミスラに少年が僅かに驚いた顔になった。
「ん? どうしたのだ?」
「いや、その、どうしてこっちの道を選んだのかなぁと」
「魔王がわざわざ七教会の本部がある大陸中央に向かうとすれば、また戦争になるではないか」
「あ、はは。うん……イフィミスラの言う通りだけど」
理路整然と言われて少年がポリポリと頬を掻いて苦笑した。
「本当は君達に沢山のものを見せるなら、西の方がいい。けど、僕は一応追われてる身で、これ以上君達に迷惑は掛けられないし、東に進もうかなって思ってた。いいかな?」
「言われるまでも無く。この旅の行き先はお前のものだ。我はお前の生贄。そして、ナーリャは」
「ナーリャ。ティアの、ご主人様のもの」
何の衒(てら)いもなくナーリャがコクンと笑顔で頷いた。
「……じゃあ」
手綱を取って東へと馬車を向けた少年は少女達に内心感謝を捧げながら、当然のようにその先に待つだろう艱難辛苦を思った。
聖女からの監視の網が感じられなくなってからというもの、何処からか監視の視線に晒されている。
それは少なくとも人間の視線。
一度補足された以上、もう二度と逃すつもりはないだろう。
(サヤトネ……大丈夫だといいけど)
自らの従者の命の心配はしていない。
しかし、行動不能に陥っている可能性は高いと見た少年はそろそろ少し力を使ってでも何か事を起こすべきなのかもしれないと顔を僅かに引き締めた。
逃げられず隠れられないなら、残る選択肢はただ一つ。
全てを打倒して進む以外に無い。
「そういえば」
「「?」」
少女達が少年の声に顔を上げた。
「東は結構大変かもしれないから、途中で馬車は使えなくなるかも」
「どうしてだ?」
「東から皇国連合を抜ける時、大抵【商隊(キャラバン)】なんかは護衛を雇うか。あるいは少し遠回りになる東の裏街道に出るんだけど」
「それはもしや、あの無法地帯の事か?」
「うん」
「?」
話が呑み込めないナーリャが疑問符を浮かべる。
「ナーリャにも分かり易いように言うと、途中で悪い人が一杯いるから馬車じゃ通れないかもって事」
「悪い人?」
「そう、本当は裏街道を通ればいいんだろうけど、あそこは阿片とか物騒な魔術具とか違法生物とか諸々を監視する目的で七教会が関所を作ってるから。皇国連合側もさすがに自分達の国の評判は落としたくないから受け入れてるって話だし」
「悪い人。やっつける?」
「やっつけない」
ナーリャの頭を撫でつつ、少年は首を横に振った。
「やっつけると倍になってやっつけにくるし、それをやっつけると更に倍になってやっつけにくる。ずっとそんな風にしてるわけにもいかないから」
倍の倍とその数を脳裏で膨らませて、ふしゅぅっと知恵熱を出したナーリャがシオシオと荷台の藁の中へと崩れ落ちた。
「難しかった?」
まだ記憶が戻っていない少女は子供っぽいところが抜けていない。
それ故か。
難しい話はあまり得意ではなかった。
「そうか。では、さすがに荷馬車でというのは出来ぬだろうな。歩きになるのか?」
「たぶん。あそこは女と子供がいれば、若い子しかいない。更に言えば、全員が娼婦か奴隷かって場所だから、うっかり入り込んだ一般人は攫われて売られるしかない」
「その、どうして若い子ばかりしかないのだ?」
半ば、その理由を朧げに理解しつつ、それでも少女はそう訊いた。
「歳を取れば捨てられて、臓器も引き抜かれるって話。最後は魔術の材料か。あるいは違法生物の餌か。女子供は入れば二度と出られないっていうの誇張でも何でもないと思う」
「そう……か……」
自分の国。
少なくとも皇国連合に関してはそう教えられて育ったイフィミスラにしてみれば、そんな場所がある事自体衝撃である。
自分の国の暗部。
顔を背けてはいけない事だと皇に連なる者としての自覚もある身には面と向かって言われると辛いものがあった。
「別に君のせいじゃない」
「うむ」
悄気(しょげ)た少女は顔を悲しそうに歪めて、何かを祈るように瞳を閉じる。
その善良さに神聖さに慈愛に慈悲に憐憫に少年は「ああ」と、こんな顔をさせてしまった自分を責めつつ、それを謝る立場にはないのを誰よりも知っていたから、そっと内心で付け加えた。
(本当に悪いのはこの世でただ一人だけだから……)
カタコトと揺れる馬車はそうして何者かに導かれる如くディシグニアへと向かっていく。
その先で目にするものは凡そ人の良心や善意を全て否定する地獄の一端であると、未だ少年は知る由も無かった。
*
多くの犯罪者が最後に流れ着く場所は大体大陸でも数か所しかない。
その中の一つがディシグニアの緩衝領域なのは周辺の裏社会の人間にしてみれば、当然の話だった。
其処程に金を稼げる場所はない。
傭兵崩れが一攫千金を夢見ても良い場所である。
大きな山(しごと)に出会えば、賭け事に勝てば、より取り見取りの女達を買って、美味い酒を飯を食べ飲んで尚有り余る金が手に入る。
だから、一晩の夢のように男達は娼館にも賭場にも入り浸る。
しかし、だからこそ、彼らも理解していた。
厄介事に関わった時には自分達は何も残せず血の沁みと消えるのだとも。
そんな厄介事の一つがその日、賭場に現れたのは夜が更けるより前の事だった。
切れ長の鋭い瞳
赫い腰まで流れる髪。
まるで肉食の獣のような眼光。
鍛えられた肉体。
襤褸を纏っていても、明らかに近付いてはならない美しき放浪者の姿に彼らは目を見開き、テーブルの上で仕掛けられる巧妙なカードのやり取りに驚いていた。
「エースのフォーカード」
ドッと場が湧く。
チップが女の前に山と積まれてゆく。
他の誰もが下りたというのに女はまったく怖じる事なく最後まで駆け上がり、勝ちに行った。
そして、全ての勝敗が決した。
「これで見世物は終わりだ」
女が勝負を終えて、もはや金を増やす事もないと席を立ち、ザラザラとチップを大箱に入れて片手に下げて換金所へと持っていく。
「お客様。お受け取りになるものを選んでください。此処では女の身請けから当地帯一のスイートまで何だろうとチップの額に応じてお渡し致します」
一人清潔感のある白いシャツ姿の換金係が鉄格子の奥から女へ涼やかに事実を告げる。
「全て一括で金貨に変えてくれ」
「当店では他にも有名商会が出す証券などもございますが?」
「いや、金貨で一括だ」
「分かりました。他にも宿の手配や夜伽相手や多種多様な魔術具その他諸々もご用意できますが、ご利用しては如何でしょうか? 人間なら男も女も子供も年齢性別問わず。異種族でもエルフから魔族の血を引く者まで千差万別取り揃えてあります。もし旅がご不安でしたら傭兵もお雇い出来ますし、自分で戦いたい方には大陸中央製の銃器各種、法術や魔術を込めた武具や物品まで幅広い品を揃えてあります」
「金貨で、一括、だ」
女が言い含めるように言うと声の主はしばし沈黙してから頷いた。
「分かりました。では、金貨三千七百枚でございます。お渡しする際の袋は如何しましょう? 革製でしょうか? それとも鉄製のトランクもありますが」
「革袋でいい」
ジャラリと女の身の丈もありそうな分厚い袋が換金所の傍から運び出されて。
女に手渡される。
その皮袋の中身。
何枚かの金貨を噛んで確かめた女は「確かに」と呟いて店を出た。
雑踏に紛れて軽々と皮袋を背の上に乗せて歩く女は臭ってくる阿片に顔を顰めつつ、既に取っていた宿屋へと足を向ける。
大きな皮袋から音はしなかった。
詰まり切った金貨の重さは数十kgにもなる。
それでも金貨の匂いを嗅ぎ付けた男達の何人かは女の背後を付けていたし、あわよくば女を犯し、売り飛ばし、その袋の中身を頂こうと画策していた。
そんな顔をした男達の何人かを見ていた緩衝地帯に長く住む者達は「ああ、やれやれ」と憐れみの視線を男達に投げ掛けて女には見向きもしなかった。
世の中には触れてはならないものがある。
触れるに相応しいかどうか自己の力量を見定められない人間は早死にする。
女の美しい相貌。
それに騙されて男達はわざわざ己を地獄の釜へと誘って往く。
幾ら金があろうと死ねば終わり。
そんな鋭い嗅覚を持った者達は男達がその内にただの臓器の無い屍になって道端に転がるのを想像して、自分もそのお零れに与(あずか)るかどうかだけを思案した。
「……」
そんな事は露知らず。
女はそのまま宿屋へと入っていく。
そして、ゆっくりと扉を閉めて、締め切られた暗い室内の奥、燭台へと明かりを灯した。
二人用の部屋には寝台が二つ。
そして、その二つともが既に埋まっていた。
片方には男が一人。
優男だ。
金髪の髪。
美しい相貌。
鍛え抜かれた細身の肉体は常人には見えない。
騎士か兵士か傭兵か。
学者や聖職者が似合う相貌とは釣り合わない肉体美は長年の努力の賜物だろう。
「今、帰った。これでいいか?」
しかし、女が声を掛けたのはもう一つの寝台の方だった。
其処で女は意識が揺れるのを感じた。
寝台の上。
何かが寝かされていた。
いや、何かというのは比喩で実際には人間のはずだが、女はそれをまったく確認出来なかった。
女の頭は寝台の上の存在を人間だと認識しているが、その顔も容姿も全て女の記憶には残らない。
見たはずなのに、見ているはずなのに、女はその寝台の上にいる存在を半ばただの“人間”という記号でしか認識出来ていなかった。
「そう、ですか。貴女の協力に感謝、します…」
その存在はゼェゼェと喉を呻かせて。
首の上からグルグル巻きになった包帯を撫ぜながら女に応対した。
極めて奇妙な存在が二人。
何故、こんな風に彼らの面倒を見るような真似をしているのか。
女は、キリア・ユエト・セマネは思い出す。
全ては七教会から逃げ延びて何とか一息付こうとしていた頃まで遡る。
追跡者から逃れる為、山岳や森を抜けながら移動を繰り返していた彼女はその途中で奇妙な世界に入り込んだのだ。
そこは灰色の世界だった。
まだ森が続くと思われた矢先には荒野があった。
彼女は何かの魔術か超常の力が働いた空間に迷い込んだのだと昔から学んでいた知識の欠片から状況を判断して、これからどうするべきかと空を見上げていた。
突如としてモノクロの世界に変化が起きたのは彼女がその世界で休憩を終えて動き出そうとした時。
空の灰色雲を裂いて、何か輝くものが荒野の果てへと落ちて行った。
そうして直後、瞬間的にやってきた爆風に彼女は数メートル巻き上げられ、落下した。
何が起こっているのか。
まるで分からなかった。
果てでは大きくキノコ雲が上がり、雷光が全てを覆い尽くした。
地獄の果て。
正に魔族達が大陸へと侵攻してきたのかと本気で七教会が説く説教内容のような事を思った彼女だったが、しばらくは肉体への衝撃からまともに動くことも出来ず逃げられなかった。
ようやく体が動くようになったのは一刻程経ってから。
雷が止んで、もう大丈夫かとフラフラしながらその場を遠ざかろうとした彼女は、その時声を聞いた。
自分に呼び掛ける声を。
旅の人と声は彼女に言った。
貴女に一つして欲しい事があるのだと。
もしもそうしてくれるなら代価は払おうと。
その声にどうして応えてしまったのか。
魔族か何か。
大きな力を持つ者が其処にいるのは明白で。
命の危険は大きかった。
それでもまるで最後の力を振り絞るように「助けてくれませんか?」と訊かれて、何だか放っておけなくなったのだ。
自分は助けられて七教会から逃れたのだからと、その自分が誰かを助けなかったら何だか恰好が付かないじゃないかと。
教会の価値観に染まらず生きていく。
その自分が恰好の付かない事するのは理に合わない。
そう感じた。
キノコ雲の真下。
そうして未だ砂塵が吹き荒れるその場所で彼女は二人を見つけた。
金髪の優男。
何故か全裸で糞尿も唾液も垂れ流して痙攣している男と見ているのに認識しているはずなのに顔も容姿も分からない声の主。
助けてくださいと言われて。
そうしようと思ったからにはそうする以外なかった。
かなり重い男の体を担ぎ上げ。
それよりかなり軽い声の主を抱いての徒歩は辛かった。
それでもモノクロの世界から抜けた頃には声の主も少しは回復していて。
声の指示に従って彼女は彼らを助けた。
(それから…私は…こいつに…)
声の主は一向に目覚める気配の無い男を自分と同じように扱って欲しい彼女を伝えながら、少しずつ彼女へ代価を支払い始めた。
まったく驚嘆するべき代価を。
彼女に適切な逃走ルートを教え、服や食料を得させ、馬車まで用意し、今正に彼女へ与えた予言のような指示で金貨まで用意した。
キリアが店側のいかさまが横行している店で荒稼ぎ出来たのは声の主がそうしろと言ったからだ。
店に行って賭けをすれば勝てるからと。
半信半疑ではなかった。
キリアには確信があった。
目の前の存在が人間より遥か優れた能力を持っているのが。
服も食糧も馬車もほぼ偶然に手に入ったものばかり。
襤褸に見える服の下には旅に耐えられる耐水性の頑丈な革で出来た衣装が着られている。
それが手に入ったのは単なる偶然。
そう偶然。
店が売れずに処分しようとしていた服が一着。
それが何の偶然か馬車から落ちて彼女の前に落ちた。
食糧も川で魚を釣れと言われて、粗末な枝と蔓で作った竿を垂らしていたら大量に掛かっただけだ。
だが、偶然にしては出来過ぎている。
今日とて賭け事に行けと言って大勝してくるのだから……。
これがただの偶然なわけが無い。
「具合はどうなんだ?」
「ただの傷なら一日もあれば治りますが、これは特別な傷ですから」
「特別な傷? 魔術的な?」
「傷に対する遅行型の呪いみたいなものです。【因痕(キカトリクス)】に干渉して傷がある限り、傷付き続ける。こちらの解析結果を応用したのでしょうが、やっている事は魔族並にえげつない……」
「呪い……治らないのか?」
「治ります。時間が有れば。傷の回復に専念するせいで偽装も完全に崩壊。我が主に詫びなければならない事態です」
「主……仕える身なのか?」
「これで代価は支払い終えたと認識します。出来れば、金貨を三百枚程置いていって貰えれば助かりますが、どうでしょうか?」
声の主は応えず。
関係はお終いだと切り出した。
それに動揺する事なくキリアは首を横に振った。
「あんたに言われた通り賭け事をしてきただけだ。全部やったって構わない。こんなに重いもんを持って旅するなんざごめんだ」
「欲が無いのも考え物ですが、その謙虚さがあれば、貴女は決して道を見誤る事はないでしょう」
「私はただ自分の道を往く。間違ってるかどうかなんてのは他の誰かが言うだけの事だ」
「そう、ですか。では、ここから先は貴女の謙虚さへ私からの贈り物です」
声の主がそっと手をこちらの胸に当てた。
キリアには手が認識出来なかったが、たぶんそういう動作だった。
「我が【蒼穹の騎士】の名において。汝の身に永劫の祝福在らん事を」
キンと何かが声の主の傍らで引き抜かれた。
その音が鉄の鳴る音だと気付いて。
それでもキリアは動じずに目の前の存在を見据える。
三度。
風切り音が鳴った。
そして、チンと再び鞘に刃が戻される音。
「何かの呪(まじな)いか?」
「そんなものです。では、いつか見える事を願って」
再び寝台に伏せり始めた声の主を見て、やはり何も容姿は記憶に残らず。
ガサリと身の丈もある皮袋から一掴みの金貨を懐に入れて。
キリアは部屋を後にした。
呆気なく分かれた二人に思い残す事もなく。
颯爽と歩いていくキリアは階段下から足音が上がってくる音を聞いた。
廊下にすぐ数人の男達が現れる。
欲望に目をギラ付かせて。
キリアが街に付いてから手に入れた短刀を懐で確認する。
「ひしし。じゃあ、お前ら。行くぞ。この階の四号室だ」
「ああ、ぬかるなよ」
「言ってないで行くぞ」
一瞬だけ目を細めていつでも短刀を振り抜けるように襤褸の中で握った彼女はすぐに男達の様子が変な事に気付く。
目の前に標的の自分がいるにも関わらず誰も視線をこちらに向けなかった。
それどころか静かに静かに足音を立てぬようキリアに近付いてくる。
足音を立てないように近付く意味等無いのに。
「おい。四号室って何処だよ」
「あ? あるだろ。無いわけが」
まるでキリアが見えていないのか。
男達は懐から取り出した錆びた刃を握り締めつつ、素通りしていく。
「……呪(まじな)い、か」
何となく事態を理解して、彼女は一応四号室を見つめるものの、男達は四号室の目の前で四号室が何処にあるのかと騒ぎ始めている。
「往くか」
心配するまでもないらしいとキリアは階段を下りて宿を出た。
緩衝地帯から出る為の門の付近には柄の悪い者達が屯している。
金銭を与えるか。
あるいは大物や関わり合いになりたくない者か。
そういう人間でなければ、安易にその地域から出る事も出来ない。
そのはずなのだが、キリアに誰も気付く者は無かった。
露店で食糧を買った時は普通に人が反応した事を鑑みて、彼女は随分と大そうな呪い、いや加護を与えられたのだろうと悟る。
門を出て。
人々が集まる欲望の園を遠巻きにしながら、彼女は一度だけ振り返って、再び歩き出した。
また何処かでその声の主と出会うような、そんな予感が彼女の胸を僅かに弾ませていた。
*
東街道の道沿いに進んだ少年と少女達が野営したのは道の途中、今はもう使われなくなった教会の跡地だった。
近くにある教会の統廃合はよくある事だ。
教会内部を住処にする動物の姿はなく。
埃が舞っていたものの、教会の居住区はそれほどでもなかった。
硬い石の寝台の上をさっと布で拭いて、毛布を一枚敷けば立派な寝床である。
開け放した木戸の外からは虫の声。
昼間に鳴いていたのとは違う涼やかな音色。
それに蛙も混じったのか。
自然の合唱は耳を傷める事無い優しさを秘めていた。
「んむぅにゃ…ぁ…」
星明りしかない暗さ。
二つの寝台の一つにはナーリャが寝ている。
大きい場所に寝られるのが嬉しかったのか。
騒いだ後はすぐに寝入ってしまった。
それを見ていた少年と少女はそれに続いて眠ろうとしたものの。
そこで事件が起こった。
少年は馬車で寝ると言い、少女はそんな事はさせられないと言い、相反する二人のどちらかが折れるとしたら、それは少年以外になく。
イフィミスラはティアと共に同衾する事となっていた。
勿論、緊張した。
緊張して、緊張して、少年に頭を撫でられ、身体の上に掛けられた一枚布を撫でられ、フニャフニャと力が抜けてしまった。
それでいつの間にか。
眠ったのも束の間。
背中に感じる少年の温かさが窓から入ってくる風と相まって。
少女に意識を浮上させていく。
「ティァ?」
ひっそりと呼んで。
答えが返らない事を知って。
少女は残念なような安堵したような、不思議な心地になる。
寝息と合唱と。
その背中に感じるものを想い。
イフィミスラの手が自然と下腹部に伸びた。
ぼんやりとした頭の中に蘇ったのは少年とナーリャの秘事。
そして、それを見て、初めて己の秘部を触った記憶。
何だかその記憶を随分と昔のように少女は思った。
初めて達した日から。
夜になる度に思い出されて。
恥ずかしくて。
恥ずかしくて。
眠れなくて。
いつの間にか。
手が己の股間に伸びるようになった。
誰にも気付かれないよう。
少年にもナーリャにも気付かれないよう。
ただもぞもぞと股間をほんの少しずつ擦り合わせて、ほんの少しずつ手で自分の下腹部を触って。
(ん……んぅ…っ…っ…)
頬が熱い。
きっと熱を帯びて赤くなっているに違いないとイフィミスラには解る。
脳裏の光景が鮮明に思い出される度に手が大胆になって、寝間着にしている下着へと直接下りる。
(もぉ…こんなぁ。われ…われ…はしたなくてぇ…)
いけない事だとの自覚はあった。
本当はしてはいけない事なのだと本能的に理解していた。
それでも少年の傍で、少年の寝息が首筋を掛かる距離で、知られてしまったら軽蔑されてしまうかもしれないという恐怖を感じているのに、イフィミスラの手は止まる事も無かった。
もぞもぞと。
ぷちゅんくちゅんと。
少しずつ濡れていく下着を明日の朝こっそり洗わなければと、そんな思考すら下腹部の甘い痺れの中で消えていく。
ゾクゾクと背筋を震わせる興奮は少年の温かさを感じながら、それでも少年に見つからないようにとの少女の想いから、急速に高まっていく。
やがて、少女の指は下着の上、少女の秘部の上に到達する。
もう沁みになっていた。
(ぁぁ、われ……またぁ。きょう…ちがう…からだへんにぃ…ひぅ!?)
ピクリと体を震わせて、少年にバレてはいないかと飲み込まれそうな快楽を味わいながら、イフィミスラは指で割れ目を、まだ誰のものを受け入れた事もないそこをなぞった。
くちゅくちゅと下着の上から滑らせるだけで、今にも喘いでしまいそうになる。
それでも何とか口を閉じて、すじの奥から背骨を駆け上がる気持ち良さに耐えて、少女は震える下半身をピンと張らせて動かない。
(ぁあ…が…まん…しないと…われぇ…ちょくせつはだめって決めてぇ♡ ん…ぁ♡ ぁ♡ もぉじかにぃ…さわってぇ。てぃぁの…こと…かんじながらぁ♡♡♡)
努めてあまり考えないようにしてきた少年が背後にいるという事実を考えた瞬間、沸騰した脳裏からイフィミスラはどうなってもいいから気持ち良くなりたいという欲望の声を聴いた。
トクトクと心臓が脈打ち、震える指は下着の中、すじの上、一番気持ちいい場所に優しく触れた。
(てぃぁあ♡ われもぉ、こんなに……そなたの前でぇ♡ はしたなくなってぇ!! われのここぉ♡ とろとろでぇ♡♡)
顔を甘く歪ませて、その眉を八の字にして、唇の端から一筋唾液が零れる。
そんなもう誰が見ても発情した雌の顔になった少女は自分の手が濡れていくのも構わず最後には自分の突起を隠している包皮をゆっくりと剥いてしまう。
初めて、剥かれて外に出た陰核(クリトリス)は既に膨らんで張っていた。
体の火照りと蜜で布の内部はもう仄温かく湿っている。
その空気に直に突起を触れさせただけで少女は軽く達していた。
少年と同じ布の中。
そう思うだけですじからは糸を引く蜜がプクリと膨れ上がり滴り落ちていく。
(てぃぁ♡ てぃぁあ♡ てぃああ♡♡♡)
少女は知らない。
世の女が想い人の姿を想像して己を慰める事があるなんて。
しかし、誰に教えられずとも本能はそうするべきと少女の理性を押し流し、少女はそれに逆らわなければと思いながらもそう出来ず、名前を内心で呼びながら、少女はゆっくりと指で自分の突起に触れた。
ツンとですらない。
指が触れるか触れないか。
それぐらいの一瞬だけ。
(~~~~~~!!!?)
声にならなかった。
辛うじて。
ただ、少年の顔を手を指を想像して、傍に感じて、雌の顔で少女は蕩けながら達して。
「てぃ……ぁ♡」
そう現実で、忘我の彼方で、胸の奥にある大切な名前を無意識に甘く甘く呼んでいた。
淫らに少年の幹をねだるように。
「イフィミスラ……」
「?!!!!!!」
少女は完全に恐慌状態に陥った。
その慌て振りはビクリと少女の体を揺らし。
今までの悦楽なんて吹き飛んで。
甘い自分の体臭が、蜜の匂いが部屋に漂っている事を自覚して。
何をしているのだ我は!!!?
と正気に返って少女が自分の完全に言い訳出来ない状況に絶望して。
それでも尚いやまだ見られたわけではないと隠し通そうと決意して。
「あんまり毎日してると。その癖になっちゃうから……少しは日を置いても大丈夫なように……やり方、教えようか?」
「~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!?」
あまりの事に本当に少女は恥も外聞もなく叫ぶところだった。
毎日している事に気付かれていた。
癖になっちゃうからと恥ずかしそうに少年に言われた。
隠し通せていると信じて止まなかった秘密を全て知られていた。
その上、少年の名を呼んだところまで聞かれて。
ボシュウッと。
イフィミスラ・ハージェット・テトス・エルデナンドの頭は完全にオーバーヒートした。
全て。
そう全てどうでもよくなった。
自棄になった少女の口はもう焦土化した内心なんて反映せず。
「てぃぁぁ♡ われにぃ♡ じょうずなぁ、おまんこぉぉ、おしえてぇぇ♡♡」
そうとんでもない事を口にして、もはや、後戻りすら考えず。
「イフィミスラ……」
少年の頬を赤らめさせた。
「……いいけど。あんまり無理しないで。それと明日からでいい?」
コクンと。
完全な雌の顔のまま。
内心の超絶的な大荒れ具合もかなぐり捨て。
少女は頷いた。
翌日。
一人寝台で目を覚まし全てを思い出した皇女殿下は錯乱した。
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛と悶え転げて。
ナーリャに遊んでいると勘違いされ、抱き着かれるくらいに。
その胸の奥。
夜が早く来ないかと期待した心は恥じる事無い自然な感情なのだと気付きもしないで。