※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章が始まりました。今後はスチームパンク要素が入りつつ、物語は進んでいきます。二章までのヒロイン達が影も形もありませんが、そちらは回統世界ファルティオーナとして健全路線の方に乗せる事になるかと思います。では、次回。


第三章~西部仮面編~
第三章一節


第三章一節「霧の都」

 

 霧深い都市の一角。

 

 この五年で様変わりした新重点開発区域の摩天楼。

 

 高さにして過去立っていた塔の三十倍という高層建築群の下。

 

 影を追って一組の男女が闇を疾走していた。

 

 大陸中央諸国では珍しくない地瀝青(アスファルト)の道は固く。

 

 文明開化と呼ばれる大技術進展期の無骨さと凍て付いた洗練を想起させる。

 

 男女共に裸足であった。

 

 過去、土埃を上げながらも柔らかな感触を伝えていた大地の名残はもはや無く。

 

 それでも靴を履かずに駆け抜けるのは人間ではない。

 

 互いの四肢は獣毛に覆われている。

 

 人型の獣。

 

 いや、獣型の人と言うべきか。

 

 二人は亜人。

 

 それも揃って【獣人(ベスティア)】だった。

 

 着込んでいるのは都市部重犯罪捜査を管轄する貴族警邏隊の制服である。

 

 濃い紺の軍装にも見える衣装は実用性を重視し、四肢各部の稼働域を広く取るふんわりとゆとりのある造りだが、頑丈さをも持ち合わせていた。

 

 それもそのはず。

 

 生地は数種類の幻獣系列の皮膚や肉体の各部の端材を寄り合わせた代物。

 

 各所に仕込まれた高度な錬金の成果である合金は急所や関節部を守る金具や鋼板として使われ、本人の力を取り込んで増幅、使い込めば一点物として仕上がる豪華な仕様となっている。

 

「E班からの応答ありません。D・G・R班もやられたようです」

 

「残ってるのはオレ達のY班だけかよ」

 

「アルンとテオムも先程から応答ありません」

 

「やられたか。ったく、情けねぇなぁ」

 

 報告を受けた男は壮年。

 

 五十代くらいの虎型だった。

 

 黄色い体毛で覆われ鼻腔が前に突き出した顔付きは人間と獣の中間辺りで完全な“五十対五十(フィフティ・フィフティ)”である事が窺える。

 

 妙にやる気無さげながらも無精髭の男の躍動する肉体は今も若い男達に負けておらず。

 

 制服の下から浮き上がる筋肉が現場最優先という標語に値すると教えてくれる。

 

「いえ、今回の事件は明らかに我々の許容量を越えています。巡回中の七教会の特務艦に応援を要請するべき事態ではないですか?」

 

「それが出来れば苦労しねぇっての。お偉いさんがワザワザ貸しを作ってまで事件解決したいかって言やぁ、そうでもなさげだしな」

 

 男に付き従いながら疾駆する女はまだ十代の少女と見えた。

 

 同じ獣人でありながらも、大陸に現存する通常の四足獣とは似付かない容姿は一目を引くだけの美貌と呼んで差し支えないだろう。

 

 顔と肌が人間である事から“九十対十(ナインティ・テン)”な事が窺える。

 

 頭頂部にある豪奢な金毛で覆われた大耳(メインイヤー)と人間のように側頭部に生える小耳(サブイヤー)は特徴的な“四耳(パラ・ネーテー)”つまり、国においては下から二番目と蔑まれる血筋を顕している。

 

 仮にも貴族警邏隊に入っているからには名のある家柄である。

 

 しかし、亜人国家において人間の血が濃いと言うのは差別対象の一つだ。

 

 例え、金色の体毛や縦に割れた水晶の如き瞳を持っていても。

 

 例え、大人の獣人に息も切らさず話しながら付いていくだけの技量があっても。

 

 皮膚の大半が肌色で体毛が極一部を覆うだけでは立派な亜人とは認められない。

 

「元老院と七教会の綱引き、ですか」

 

 ほっそりとした長い二重の眉が眼鏡の下で八の字になった。

 

 長い睫に二重の瞳。

 

 顔を顰めた少女の落胆は三つ編みにされた尻尾の如き太い髪束までもダランと垂れ下がらせる。

 

 疾走中の慣性を無視した動きは少女が高位の獣、幻獣や神獣、魔獣にも似た“何かしらの高貴”である事の証左だ。

 

「お偉いさんにとっちゃ【近代化(レボリュション)】なんぞクソ喰らえってなもんだからな」

 

「で、ですが、彼ら旧教会派なら!!」

 

「教会の一派閥とはいえ、現在の反七教会派になら戦力を借りられる? それ程、貴族の誇りってのが軽かったら、オレ達も楽なんだけどなぁ」

 

 摩天楼を行過ぎると歓楽街の原色の夜景が夜霧を照らし出すものの、それでも視界は10m先まで見通せない。

 

 だが、そんな悪天候と視界不良の中でも二人が対象を追っていられたのは“鼻が利く”からだった。

 

「対象の動きが変わりました!! 80m先で地下に!! いつものパターンです!!」

 

 それもただ動物のように臭気を追っているのではない。

 

 魔力残滓を識別して追跡(トレース)する一種の【魔導技術(ハイ・クラフト)】や【電子噐械学(エレクトロニクス)】製の特殊観測機器にも似た能力が生来備わっているのだ。

 

「おっしゃ!!? ドンピシャだ!! 地下水道の迷宮がテメェの庭じゃねぇって事を教えてやるぜ!! 待機させていた武装制圧部隊に号令を掛けろ!!! 迷宮内の施設保護方陣起動!! 【崩燼機関(ソルヴァス・エンジエン)】の出力は最大で構わん!!! 【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】の開放を許可する!!」

 

「了解しました。各制圧部隊に打電!! カイホウ・ヲ・キョカ。ゼンリョク・デ・アタラレタシ」

 

「ついでに高純度【源理粒子(イデアル)】の装填も許可だ!!」

 

「コウジュウンド・シヨウ・キョカ!!」

 

 少女の小さな左の耳に付いた通信機に命令が直接伝えられる。

 

 曲線と幾何学模様が掘り込まれた輪(リング)の中央に細い鋼で固定された黒い正方形が燐光を発していた。

 

 魔導や魔術とは違う。

 

 大陸を席巻する【電子噐械学(エレクトロニクス)】製の高度機器とも異なる。

 

 彼らの国が生み出した一つの学問。

 

【崩燼機械工学(ソルヴァス・クラフト)】

 

 その成果である情報伝達機器は速やかに待ち伏せ部隊へと命令を打電した。

 

「各隊から目標を発見との報告です!! 現在交戦中!!」

 

「良しッ!! そのまま波状攻撃で位置を固めろ!! 相手は死ぬかどうかも解らん“何か”だ!! 遠慮は要らん!! 殺す気で掛かれ!!! オレ達も急ぐぞ!! 美紗(みしゃ)!!」

 

「はい。ヴァルさん!!」

 

 美紗と呼ばれた黄金の少女が頷く。

 

 ヴァルと呼ばれた男が先行して目標が潜ったと思われるマンホールに突入するまでそう時間は掛からなかった。

 

 人三人が楽々通れる地下へ続く穴はおよそ23m地下の下水道に続いている。

 

 事前に鼻を麻痺させる匂い袋を嗅いで。

 

 突入はすんなりと実行された。

 

 二人は気付け薬を嗅いでも鼻に突き刺さる臭気に顔を顰めつつ、制服各部の金具を魔力光で輝かせて制圧部隊との合流を急ぐ。

 

 地下水道が迷宮化したのはつい三年前の事だ。

 

 工業力が尋常ではない速度で更新され始めた五年前。

 

 都市部と地下上下水道の設備工事は投入された【崩燼機械工学(ソルヴァス・クラフト)】製の作業機械のおかげで恐ろしい程の進捗を見せた。

 

 その恩恵は国の首都だけに留まらず。

 

 どんな小さな林間町村だろうと隅の隅にまで行き渡ったのだ。

 

 比較的枯れた土地しか無かった亜人国家は領土こそ小さいものの今や西部の一大勢力。

 

 中央諸国の先進国規模の経済を誇り、大陸中へ大規模輸出政策を行うまでに成長した。

 

「次の角を左、そして100m直進した先を右に曲がれば、いる!!」

 

 ヴァルが獰猛な笑みになり、四つ足で疾駆し始めた。

 

 首都直下の地下水道網は半径だけでも15kmに及ぶ。

 

 その大迷宮にようやく追い詰めたのは近頃の仕事を全て他の部署に任せてまで確保しようとした相手である。

 

 興奮せずにいられる方がどうかしている、というのは表向き。

 

 実際には亜人の闘争本能に火が付いたと言うべきだろう。

 

 そもそもヴァルは狩人気質の獣人である【黄虎(ティグリス)】なのだ。

 

 来る日も来る日も地道に追って、大規模な作戦を申請して、許可が出るまでどれだけ掛かった事か。

 

 三ヶ月前から続く連続大量怪奇殺人と不可解な霧が蔓延るようになった魔都で、その事件の真相を知るであろう張本人たる“何か”を追い詰めたとなれば、血が騒いで仕方ないのも道理だ。

 

 猫じゃらしで焦らしに焦らされた獣がようやく捕獲出来るようになった対象に飛び付いた。

 

 そんな脳裏の図が僅か美紗の顔を綻ばせる。

 

 子供っぽいというか。

 

 獣っぽいというか。

 

 そういう上司の姿が彼女の緊張に凝り固まっていた心内を解していく。

 

「何だ? どうかしたのか?」

 

「いえ、何でもありません。それよりも各班より入電!! 中距離で包囲し、飽和射撃を行っているそうですが、未だ対象は健在!! やはり、高位魔族か、それに準じた“何か”である可能性が高いそうです!!」

 

「今から十秒後に射撃中断!! 切り込むぞ!!」

 

「了解しました!!! 飽和射撃中断を伝達!!」

 

 きっかり十秒後。

 

 曲がり角の先から途絶える事無く放たれていた眩い閃光が消え、角を曲がった二人は勢いのまま壁伝いに走って、完全武装の制圧部隊の背中を追い越した。

 

「見・つ・け・たぁああああああああああッッッ!!!」

 

 思わず喜びの声を上げて自慢の爪で躍り掛かったヴァルのタイミングは完璧だった。

 

 瞬間的に止んだ射撃に“相手”は困惑する気配があった。

 

 それだけで“ソレ”が明確な意思を持つ知性在る“誰か”だと彼は確信する。

 

 ザクンッ。

 

 通り抜け様に上半身のバネを全て使った一撃が叩き込まれた。

 

(手応え有りだッッ!!!)

 

 振り抜いた右腕には彼らの国において最強の兵器である最新の【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】が装備されている。

 

 細い手の骨格にも似た鋼細工には美紗の片耳に付く輪(リング)と同様に曲線と幾何学模様が掘り込まれ、手の甲付近に小さな丸い空間が空けられていた。

 

 その中央。

 

 細い金属に縫い止められた黒い正方形が燐光を発して、同時に鋼細工全体から蒸気が噴出する。

 

【源理粒子(イデアル)】

 

 純水に混ぜて正方形内部に吸収されていた動力の源が高純度の物理量(エネルギー)に変換されて、余った力が最も排出が簡便な熱として排出されたのだ。

 

 波動型魔力とほぼ同様にあらゆるエネルギーに置換可能な粒子(ソレ)は小さな激発用の触媒と空間圧縮型の内臓機器によって、多種多様な力として出力が可能な万能燃料とされている。

 

 それを使った内燃機関、【崩燼機関】を内包した機器は殆どの場合、過剰出力を逃がす安全弁が備えられていて、出力の解放時、空間制御によって蓄えられた純水を共に放出し蒸気にする事で機器使用者に見える形で安全を確保するのだ。

 

その方式は今の都市の在り方そのものと言える。

 

 霧の都。

 

 二人が住まう都市がそう呼ばれるようになったのも地下水道の迷宮が現われたのと同じ三年前。

 

 都市が消費するエネルギーを大規模な【崩燼機関】で生み出すようになってからというもの、国で霧、正確には蒸気で覆われない場所は皆無となった。

 

 嘗て、西部には石炭と機械と水を使った独自の技術が存在していたが、未だ【崩燼機械工学(ソルヴァス・クラフト)】に慣れない高齢者は当時の呼び名で【蒸気機関(ベイパー・クラフト)】と最新の機械を呼んでいる。

 

「ぬ!? 何だと?!!」

 

 十字路で反対側の部隊の前で反転したヴァルが見たのは鋼細工の巨大で凶悪な爪によって引き裂かれた“何か”が、後続の美紗の一撃を防いでいる場面(シーン)だった。

 

「くッ!!? こんなッ、事がッ!!?」

 

 仄かに“何か”の姿が明滅した。

 

 美紗の得物はヴァルとは違い背後に背負った長剣(ロングソード)だ。

 

 湾曲した片刃が二層左右から繋がって両刃を形成する独特の形態。

 

 波紋が浮き出る首都の国立工房で仕上げられた伝統の曲合剣(カタール)は切れ味のみならず。

 

 対魔力、対熱、対電、対爆、対魔族まで能力に含めた少数生産品であり、ロッドナンバー三桁に届かない工芸品でもある。

 

 その柄の虚空にはヴァルのものと同じく黒の正方形が縫い留められている。

 

 彼女の【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】は斬撃による切断力だけなら、彼の得物よりも優れているはずだった。

 

「ぐ、くぅぅぅぅ!!!」

 

 だというのに“何か”は非常識にも超絶の反応で対応してみせたのだ。

 

 刹那の強襲連撃は二人の十八番。

 

 まさか、受け切られるとはヴァルも思っていなかった。

 

(こいつ!?)

 

 二人の服と周囲の武装制圧部隊の服が帯びる光に照らし出されたのは人型の何か、としか言いようの無い影りを帯びた歪み。

 

 どんな魔術や魔導で姿を保護しているのか。

 

 正体不明のそれはようやく形の一端を彼らの前に晒していた。

 

 美紗の剣を受け止めているのも剣。

 

 それも何の変哲も無いように見える大陸標準に照らして“普通”にしか見えない代物だ。

 

「美紗!!!」

 

 すぐさまに取って返したヴァルの爪が唸る。

 

 鋼鉄どころか通常の防御方陣なら一撃で切り割る鋭利な凶器は歪みに接触した瞬間、刃先すらも満足動かせない程の圧力で止められていた。

 

(グッ?!!! コイツ!? 刃先がまったく動かん、だと?!! この感触は―――指で掴んで止めたってのか?!!)

 

 剣と指。

 

 どちらで相手の得物を止めようと、尋常ならざる相手なのは二人にも解る。

 

「美紗!! 行くぞ!!」

 

「了解しました!!! ヴァルさん!!!」

 

 二人が同時に頷いて。

 

 互いの得物を離して上に跳んだ。

 

『?!』

 

 人型の歪みが驚く気配を察して。

 

 同時に勝機を感じた美紗とヴァルは息の合った連携で互いの指を複雑に絡めて印を結んだ。

 

 それは丁度、小さな魔術の円環。

 

 簡易の魔術方陣にも見えて。

 

 上を警戒した“歪み”の意識が二人の得物から逸れた瞬間。

 

「「破ッッッ!!!!」」

 

 カキンッ。

 

 足元に刺さった剣と指で掴んでいた鋼細工。

 

 それらが同時に膨大な熱と運動エネルギーを発した。

 

『?!!!!』

 

 逆巻き、渦巻き、力の本流に晒された“歪み”が僅か怯む。

 

「今だ!!!」

 

 ヴァルの掛け声に待機していた制圧部隊が一斉射撃を放った。

 

 武装を焼き切る勢いで放たれた熱量の塊が“何か”に直撃、閃光が奔る。

 

 溶鉱炉さながらとなった空間の上空。

 

 爆圧を同時に発動した防御方陣で受け流し、周辺温度から身を守った二人が爆心地に降り立ち様。

 

 半ば融け掛けた得物を拾って振り抜く。

 

 ヴァルの爪は硬い何かに防御されるも、美紗の剣が歪みの中央に突き立った。

 

「姿を現せ!!! 腰抜け野郎!!!」

 

 使う暇が無かった魔術の解呪式が刻まれた鉄符(カード)。

 

 それを懐の衣嚢(ポケット)から取り出したヴァルが押し付けようとした時だった。

 

 激しく歪みが動く。

 

 バキンッ。

 

 熱量による歪みで変形していた剣が半ばから叩き折られ、融解した十字路の中央から熱量に変わって膨大な燐光が吹き荒れる。

 

「きゃッ?!」

 

「クソッ!!」

 

 美紗を庇ったヴァルが放出される輝きに吹き飛ばされながらも、武装隊員達に受け止められた。

 

「この輝きは―――奴も【崩燼武装】を持ってるってのか?!!」

 

 誰もが驚きに目を見張るのも仕方ない。

 

 今のところ【崩燼機関】を内臓した武装が製造出来るのは彼らの国家機関のみ。

 

 市販されるもので戦闘に流用出来る品は殆ど無い。

 

 多くは免許制の下で厳しく管理されている。

 

「ヴァルさん!!!」

 

 ハッと気付いた虎男が隊員に大声で呼び掛けた。

 

「防御方陣展開!!! 後退しろ!!!」

 

 大規模な攻撃が来る前に男達が輝く円環を明滅させながら後ろへとジリジリ下がっていく。

 

 その間にも歪みすら確認出来なくなった。

 

 輝きの本流で視覚を奪われたのだ。

 

「クソッ!!! どんな出力してやがるんだ!!!?」

 

 轟々と押し寄せるのはもはや閃光にも等しい。

 

 圧力を伴ったソレに目を瞑りそうになるのを理性で抑えて。

 

 少女が細めた視線の先で微か歪みの剥離を目撃した。

 

(あれは―――服? いいえ、制服!!?)

 

 フッといきなり周辺の明度が落ちる。

 

 同時に歪みがシュルシュルと風にでも巻かれるように消え失せていく。

 

 撤退を悟ったヴァルだったが、追撃しようにも大規模な攻撃が来るかもしれないというリスクから防御方陣を解く指示は出せなかった。

 

 カランッ。

 

 最後に音がしたかと思うと完全に抜けたカタールの半分が地面に落ちる。

 

「……行ったようだな」

 

 しばし、遅効性の攻撃を警戒していた隊員達だったが、安堵した様子で防御方陣を解き始めた。

 

「ありがとうございました。ヴァルさん」

 

「いや、結局は逃がしちまった……こりゃ上から大目玉だな。武装の修理費は給料から天引き。解った事は知性ある人型が軍事用(ミリタリー・クラス)の【崩燼機関】を持ってるって事だけ。これじゃ、上も納得しねぇだろうなぁ…」

 

 ガックリ項垂れ。

 

 またやる気の無さそうな顔になったヴァルが溜息越しに「かーちゃんにどやされて娘にカッコワルイ言われるのか」と悲壮な愚痴を零す間にも現場が封鎖されていく。

 

 現場調査し始める隊員達を横目に立ち上がった美紗は一人考え込んでいた。

 

(あれは確かに……なら、あの歪みの正体は……でも、そんな事が有り得るって言うの?)

 

「おい。どうした? 美紗」

 

「あ、その、ちょっと耳を」

 

「ああ」

 

 ヴァルが美紗の報告を聞く内に険しい顔になっていく。

 

「本当か?」

 

「はい」

 

「それで……どうするつもりだ?」

 

「しばらく単独でやらせてもらってもいいですか?」

 

「おいおい。そりゃぁ……」

 

 ヴァルが美紗のやろうとしている事に気付いて何とも言えない顔となった。

 

「大丈夫ですよ。これでも私、現役ですから。それに探しモノは得意な方ですし」

 

「……解った。今回の件でまたしばらくは書類仕事と始末書の山だろうからな。こっちの事は任せとけ。そっちの方を頼む」

 

「了解しました」

 

 ピシッと敬礼した美紗は地下水道の先。

 

 首都の外れの方角を見つめ、顔を引き締めた。

 

 歪みの剥離の隙間に見た衣装。

 

 それが無数行き交う場所。

 

 彼女の昼間の身の置き所に思いを馳せて。

 

 奏美紗(かなで・みしゃ)。

 

 十七歳。

 

 国立貴族院付属高等教育舎所属二年。

 

 つまり、国の最高学府付属の高校に通う少女は内心思った。

 

 自分の見たものが間違いであって欲しいと。

 

 彼女が見たのは己が通う学び舎の制服。

 

 どう見ても男子生徒のものだった。

 

 *

 

 大陸西部。

 

 其処には亜人貴族主義を掲げる小国が存在する。

 

 名をアルヴァス。

 

 元老院議会を持つ象徴君主制を採用した“人間以外”が優遇される国家である。

 

 基本的に議会制民主主義は根付いておらず。

 

 亜人を主体とする選民思想に等しい貴族制が生き残った珍しい地域だ。

 

 通常、人間が治める大陸で亜人や異種が国を持つ場合、細々としたものである事が殆どだ。

 

 それにしても規模にすれば、何処かの市町村にも等しい極細の域であり、常識的には都市国家以上の領土を獲得している例は少ない。

 

 それでも亜人による専制政治が敷かれ、格別に亜人の権利が保障されたアルヴァスは亜人の楽園と称される場合もある。

 

 その実態は亜人同士でも血筋の差が顕著な完全階層性の差別社会であるが、根本的に最下級の地位に人間が位置している為、然程亜人達自身の身分への不満は大きくない。

 

 七教会の治世に激震が奔るような事件が多発した五年前。

 

 今まではあまりいなかった人間の奴隷がアルヴァスには大量に流入した。

 

 その結果として亜人達の選民意識は向上したかもしれない。

 

 だが、低層に位置する亜人達の地位が向上したわけでもないので、彼らの意識に殆ど変化は無いと言って差し支えないだろう。

 

 国家は亜人の貴族によって治められ、その統治下で国民たる亜人達が人間奴隷をこき使う。

 

 この図は最下層が厚くなるだけでは変わらなかったのだ。

 

 【崩燼機械工学(ソルヴァス・クラフト)】による技術革新が起き、豊かさを享受する事になったアルヴァスだが、その豊かさは奴隷にまでも及んでいて、事実上大陸の他の奴隷制を敷く国家より、人間奴隷達の扱いは穏やかなものとなった。

 

 それには人間に反感を持つ亜人達特有の価値観。

 

 “人間のように野蛮な行為はしない”という人間世界での選民思想や優良種主義にも似て非なる高潔主義に根差す差別が教育によって行き届いていた事が大きい。

 

 人の制度は模倣せど、人の愚かは学ばざるのが亜人。

 

 そう言わしめたのは亜人達が己の国を人間達から勝ち取るまでに味わった艱難辛苦からの事である。

 

 現在も建国由来の逸話を歴史として学ぶ時、亜人達は常にこう語る。

 

 人の醜きを学ぶな。

 

 人の愚かさを学ぶな。

 

 人の哀れさに涙せよ。

 

 我らは違うのだ、と。

 

 故に最も人間が差別されながら、礼儀正しき亜人達が住まう土地としてアルヴァスはそれなりの領土と地位を獲得するに到った。

 

 人のように人を虐げる亜人は亜人に在らず。

 

 それはただの人である。

 

 そんな教育をされた亜人達は人間を基本的に奴隷と見るが、“最下層民”に対して、奴隷制が敷かれた人間社会のものとはまた違った“最低限の礼節”を心得えている。

 

 五年前の大陸騒乱で西部は一つの国が廃滅、難民が大量に出た。

 

 しかし、受け入れを表明したのはアルヴァス一国のみであった。

 

 魔族による汚染が囁かれる土地から来た人々を人間が治める国家が次々拒絶したのは大陸の慣習上仕方ない面もあったが、それ以上に自国への汚染拡大を恐れた現実的な検疫措置でもあった為、七教会も大きな圧力を掛けられなかった経緯がある。

 

 それを見ていたアルヴァスにしてみれば、難民の受け入れは“同胞すら見限る哀れな人間達に亜人が手を差し伸べた”という図である。

 

 これはアルヴァスの国民から難民支援が支持される理由ともなった。

 

 その後、難民達は食うに困り、奴隷としての契約に走る者達が続出。

 

 大きく難民流入は奴隷流入という形に置き換わる事となったのだ。

 

 難民はあくまで帰る場所が在る存在と見なされ、数年以内に人間社会での自立を促される。

 

 自立が困難なものは国外の人間国家に支援を求めるよう言われ、最終的には退去となる。

 

 逆に奴隷は最下層の存在であるものの、あくまで国家の一員と見なされた。

 

 それは奴隷用の補助や働き口を斡旋して貰えるという事だ。

 

 技術革新から多くの労働力を必要としていたアルヴァスは難民達の奴隷化を通じて躍進を図り、難民達は奴隷として生活の術を見出した。

 

 この利害の一致が極大にも等しいアルヴァスの大躍進の動力源であった事は政治に詳しい者なら誰でも認める事実である。

 

 故に最高学府付属の学び舎で人間を見かけるというのは通常在り得ない事だ。

 

 同時に人間の血が濃い者がいるのも中々にして珍しい。

 

 だから、亜人の若者達は人間のように見える同胞を抑圧(ストレス)の捌け口にしがちだ。

 

 例えば、人間の顔に耳と尻尾、鱗や翅が付いただけの“九十対十(ナインティ・テン)”や人にしか見えない亜人としての血が極端に薄い者は虐めの対象となる。

 

 人間に見える同胞。

 

 それこそ彼らにしてみれば、最も眉を顰めたくなる存在なのだ。

 

 人間の血が濃いと言う事は亜人の癖に人間のような中身であるという一種の偏見なのだが、時に奴隷達よりも厳しい現状に彼らは晒される。

 

「あら、こんなところに人間がいるわ」

 

「そうね。これは人間にしか見えないわよね」

 

「でも、何でこの場所にいるのかしら。クスクス」

 

 何処の世界でも女の虐めは陰湿だ。

 

 貴族出の少女達。

 

 亜人としての血が濃く、顔も獣類や鳥類の方に偏っている三人の女性徒が一人の少女を後ろから嗤っていた。

 

 無論、聴こえるような声で、である。

 

 校舎そのものが年代物のアンティークに等しい上位階級専用の教育施設。

 

 基本的に木製の勉強道具で固められている飴色の教室は講堂の形を取っていて、長椅子に長机の中央を下方へ道が通っている。

 

 教室の端。

 

 よく窓から校庭が見える席に陰口を叩かれる少女が座っていた。

 

 まるで聞いていないのか。

 

 翅も嘴も鱗も耳も尻尾も無い少女は無心で教科書を眺め、捲っている。

 

 最下級生。

 

 前日に入学式を済ませたばかりの少年少女が集う場で、もう虐めが始まっている事に集ってきていた同学年の者達は気付いていたが、少女の容姿に「まぁ、妥当な試練」という評価を下しただけで、誰も止める者はなかった。

 

 亜人の大人達がその光景を見ても小言を漏らす事はないだろう。

 

 彼らにしてみれば、人間のような姿形を持つ亜人は亜人と認め難い部分がある。

 

 差別そのものを肯定する社会において。

 

 人に“近しい”ということはそれだけで重石(ハンデ)なのだ。

 

 もし、その個人が社会的に認められたいと思うならば、それを吹き飛ばすだけの貢献が求められる。

 

 アルヴァスを統治する元老院にも人にしか見えない亜人はそれなりの数いる。

 

 つまり、それは自らに課せられた偏見を消し飛ばすだけの功績を残したという事である。

 

 人間社会の差別が変え得ない不変の呪縛だとするなら、アルヴァスにおける亜人間の差別は持って産まれた宿命、あるいは厳然とした試練であると捉えられる。

 

 そのような言い回しは亜人国家において論を待たない。

 

 亜人達の階層社会は通常の人間社会における貴族主義とは違って、かなり現実的な実力主義の側面も持ち合わせているのだ。

 

 認められたければ、力を示すしかない。

 

「……」

 

 だが、まだ高等教育を受け始めたばかりの少女にそんな事が出来るはずもなく。

 

 初々しい制服姿はまだ幼さに溢れている。

 

 透き通るような蒼いブレザー型の制服と金と赤の格子縞(チェック)柄のスカート。

 

 短いものが近頃は流行しているせいか。

 

 多少、大人達から顔を顰められる程度の洒落っ気で亜人の少女達のスカート丈は統一されている。

 

 そんな中で一人膝下まで届くような長さにして校則を守る“人間少女”は浮いている感が半端ではない。

 

 この時点で虐められている少女は“流行に乗り遅れた人間みたいな奴”という如何にも苛めて下さいと言わんばかりな評価(レッテル)が張られたのだ。

 

「クスクス。ダサいわねぇ」

 

「ホントホント。フフ」

 

「まったくですわ」

 

 誰だって仄暗い喜びに身を浸す行為は楽しい。

 

 亜人の少女達にしてみれば、このような場所で人間に見える少女が学んでいる事自体が悪い。

 

 自己正当化するまでもなく、彼女達自身は少女への嫌味を自然で当然の権利とすら考えていた。

 

「……」

 

 人間みたいに見える少女は一言で勤勉寡黙。

 

 唇をへの字にする意外は外野の声には至って無反応で教科書を捲っている。

 

 周囲の亜人達と同じ制服を着ていながら、種族毎に改造されるような部位は見当たらない。

 

 肩に掛からないくらいに纏められた黒髪。

 

 縦に割れたわけでもない黒の虹彩。

 

 顔立ちこそ人間的に整った方だが、特定の形容詞が見当たらない凡庸さ。

 

 胸元も薄く。

 

 背も低く。

 

 まるで初等部のような小さな形(なり)。

 

 痩せっぽっちという言葉が似合うだろう。

 

「あらあら、“九十対十(ナインティ・テン)”はお勉強するより、花嫁修業でもしたら如何かしら?」

 

 大陸に【近代化(レボリュション)】の嵐が吹き荒れる昨今。

 

 高度な技術体系を保有するようになったアルヴァスにも“職業婦人”という言葉は響いてきている。

 

 目敏い貴族の子女ならば、両親に対して旧い価値観を棄て、女も働くべきと説くのが時代の潮流でもあった。

 

 わざわざ学び舎まで来る子女にとっては、窮屈な家に閉じ込められまいという意気込みくらいあって然るべきだ。

 

 その点を擽(くすぐ)る絶妙な匙加減。

 

 嘴と背中に翼持つ虐めグループの中核たる【鳥人(オルニス)】の少女はニヤリと笑った。

 

 此処まで言われて反感を持たない女性徒はいないとの計算からである。

 

 しかし、少女の声が聞こえているのかいないのか。

 

 痩せっぽっちの少女はただ教科書を捲るだけだった。

 

「―――貴女、聞いているの?」

 

 貴族にとって名誉を傷付けられる事は何よりも許し難い事だ。

 

 此処で絡まれている少女が顔を上げるなり、何かしらのリアクションを取ったなら、事態は愚痴を吐かれて終わりだったかもしれない。

 

 しかし、少女は何も返さなかった。

 

 まるで見えていないように鳥少女を扱った。

 

 それは無視という名の最大に等しい侮辱だ。

 

 貴族が高貴とされるのは相手あってこそ。

 

 そして、高貴とは他者の目を留めさせる徳である、と貴族達は子に教える。

 

 それに照らし合わせれば、絡まれた少女は鳥少女を“見るにも値しない”という意思を無視で顕していると解釈されるのだ。

 

 相手の地位を重んじないのは貴族間では最も嫌われる理由の一つ。

 

 時に決闘に発展してもおかしくない危険行為だ。

 

 人間社会でならば、今や旧き慣習と馬鹿にされても仕方ない貴族達の慣例だが、未だ貴族制と奴隷制が敷かれるアルヴァスにおいては血を見てもおかしくない事態である。

 

「……」

 

「ッ―――」

 

 鳥少女が取り巻きの二人を置いてズンズンと進んで行き。

 

 教科書の上に手を置いた。

 

「貴女、このわたくしに喧嘩を売っているの?」

 

 ドスの利いた声。

 

 誰だろうと本気であると解る。

 

 さすがに止めるべきかと息を呑んだ生徒達だが、何分(なにぶん)出会って一時間も経たない。

 

 それに責められているのは人間少女であり、鳥少女を無視した行為は貴族的にアウトだ。

 

 そんな理由で誰もが固唾を飲んで見守る以外なかった。

 

「三年間もそうしているつもりかしら?」

 

「……」

 

 少女は不意に目を擦って口元に手を当てつつ欠伸をした。

 

『?!』

 

 ビキッと青筋が浮かんだ鳥少女が教科書に力を込めて再度訊ねる。

 

 さすがに教室へ緊張が奔った。

 

「突き殺しますわよ?」

 

 ニコヤカに微笑む鳥少女のボルテージは最高潮だ。

 

 そこでようやく気付いたような素振りで人間少女が顔を上げて首を傾げた。

 

「ナンデ?」

 

「~~~~ッッッ!!!!」

 

 嘴が少女の目を突こうと誰も咎められる者は無いだろう。

 

 少女は確かにそれ程の事をした。

 

 ページが破れそうなくらいに歪んでハッとしたような顔になった人間少女がパッと長机から教科書を取ると皺を伸ばして安堵の息を吐いた。

 

 もう完全に目が据わった鳥少女の嘴が少女の額へと大きく振り下ろされ、あわや大惨事。

 

 男の生徒ですら、血を見る事になるかと息を呑んだ。

 

 ビギィッと硬いモノが割れる音。

 

 思わず顔を覆って俯いた女生徒も多数いる。

 

 頭蓋を貫通したかと思われた少女が目をパチクリとさせた。

 

「ガフッ!?!!!!?!」

 

 思わず手で口元を押さえた鳥少女がガクガクと震えながら、下がっていき、取り巻きの少女達に抱き止められる。

 

「ドウシタの?」

 

『?!!』

 

 まるで悪びれずに訊いた人間少女に鳥少女が今にも死んでしまいそうな程に顔を青褪めさせて、“罅割れた嘴”を手で覆いつつ叫んだ。

 

「あ、貴女、鬼!?」

 

「オニ? チガウよ。シルルゥ、ユニコーンだよ?」

 

 サラッとしたおかっぱな前髪を上げて見せた少女の額に全員の視線が集まる。

 

 そこにはチョコンと先端が丸みを帯びた一センチ程の角が中央に生えていた。

 

 妙にカタコトな少女の言葉に教室へ漣(さざなみ)のような動揺が広がる。

 

 一角獣(ユニコーン)。

 

 魔力持つ異種の中でも上位竜種に匹敵する能力と神格に等しい階梯を持つ存在。

 

 その亜人がアルヴァスにいるという噂は多くの貴族達にとって興味をそそられる戯言だ。

 

 だが、実際に亜人を束ねる元老院や王家にも、そんな血筋がいると聞いた事の無かった彼らにしてみれば、噂は噂でしかなかった。

 

 それが冗談ではなく目の前にいる。

 

『………』

 

「?」

 

 何とも言い難い間が周囲に流れた。

 

 注目されるのを不思議そうに見た後、少女がまた教科書を置いて一人寡黙に捲り始めた。

 

 その姿を見て、大物と思うか。

 

 それともただの馬鹿と見るか。

 

 反応が生徒達を別ける前に教壇近くの扉からノシノシと緑色の体表を持った亜人がやって来る。

 

「ん、どうかしたかね諸君?」

 

 礼服(スーツ)姿の蛙。

 

 いや、蛙顔をした老齢の教諭。

 

 彼は周囲の何とも言い難い空気に気付き、嘴を押さえて呻く少女を教室の端に見つけた。

 

「具合でも悪くしたかな?」

 

 鳥少女は一瞬だけ逡巡した後。

 

「いえ、何でもありません。少し嘴を痛めてしまって。保健室に行ってもよろしいでしょうか?」

 

 流暢に返したのは貴族の意地か。

 

 蛙顔の教諭は「それは大変だ」と大きく頷いて取り巻きの少女達に介抱するように行って送り出した。

 

「え~では、本日入ってきた君達には―――」

 

 簡単なレクチャーから入って入校後の守るべき気風、校則を語り始める教師は気付かなかった。

 

 一角獣(ユニコーン)と名乗った少女以外に真面目に話を聞いている生徒が皆無だった事を。

 

 その日、クラスメイトの誰もシルルゥと名乗った少女には話し掛けなかった。

 

 *

 

 この世には“極秘”という判子が存在する。

 

 そんな文字が刻まれた資料が小さな円卓に七つ投げ出された。

 

 亜人達の間で使われる言語の大半は大陸標準言語と呼ばれる汎用言語に依存しているが、前提としての話であり、国家機関の機密指定を受ける資料、議事録は亜人特有の象形文字を使って羊皮紙に刻まれる。

 

 ざっと見ても人間の亜人研究者か老年の亜人くらいにしか解らない難しい言い回しが多用された紙束。

 

 一重にアルヴァスの最高機密に類する案件の経過報告書がソレだった。

 

 円卓を囲む者達の半分は元老院の最上位者で構成され、後の半分は象徴君主制の下に元老院に認可を下す王家のお歴々で構成されている。

 

 無論、国王もその一人だ。

 

 アルヴァスの王家は元々が元老院の下で他国と渡り合う為に創られた家だ。

 

 過去、人間と異種の混血によって産まれた亜人達の大半は人間の力を取り入れて勢力を拡大していた。

 

 それが人間の台頭と共に衰退し、人間国家が群雄割拠する時代、氏族毎の血統維持が困難になった為、近い種族間での統合と混血が承認された経緯から、今の亜人のほぼ全てはその頃の氏族達が混血の末に産み落とした血筋を祖としている。

 

 アルヴァスの王家は此処数千年で亡び掛けた氏族を受け入れ、血統の保存を行う一種の保護組織の一面を持った家であり、殆どの場合、混合種(キメラ)と呼ばれる複数の亜人の特徴を兼ね備える存在として、この世に生を受ける。

 

 基本的(スタンダード)は獣の耳に尻尾、縦に割れた瞳孔、龍種の翼という獣人と龍の形態を併せ持つ姿だが、長い時を掛けた融合によって入り混じった異種の血が隔世遺伝として発現すると姿形は劇的に変化する。

 

 下半身が人魚のようになる場合、蜥蜴のような尻尾が生えたり、顔付きが海洋に生息する哺乳類に似たり、ただの猫のような姿や龍そのものに近い形で生まれてくる事もある。

 

 最近生まれた寿命も人間並みの王。

 

 彼が即位したのは四年前の話だ。

 

 アルデルト・エスラ・ウィム・アルヴァス。

 

 先代の父が竜そのものに近い男だった事を考えれば。

 

 あまりにも“人間臭い”青年。

 

 彼は六人の男達の間でソワソワと落ち着かない様子でいた。

 

 それもそのはず。

 

 顔が鳥や獣や爬虫類、人に近くても人魚やら鬼やら妖精やら。

 

 そんな面々が揃っているのだ。

 

 猫っぽい耳が付いただけの弱々しい青年は半ば檻に入れられた肉である。

 

 くすんだ赤髪の前髪は顔を隠しているが、王本人の気弱さまでは隠せておらず。

 

 自分達に怯える“議長”に六人の男達が白い目を向けた。

 

「アルデルト様」

 

「は、はひぃ!?」

 

 ビクッとした情けない王に赤い肌の巨漢、頭部に二つの角持つ赤鬼が囁いた。

 

「話を進めて頂きたいのですが」

 

「ぁ、ああ!! そ、そうするよ!!」

 

 一応、全員が正装である改造された法衣姿。

 

 しかし、一人服に着られている感のある二十四歳独身、職業王様の青年はせっせと小役人のような気の回しようで新しい書類を円卓に回した。

 

「え~では、第三十七次報告をします。資料033ページを」

 

 パラリと長さも細さも千差万別な指達が資料を繰る。

 

「現在、旧教会派の技術集団が測定した“霧”の境界維持時間は夕方から朝方までの十二時間。内部への侵入ルート上から溢れ出していると思われる“排除対象”のマーキング結果から推測して内外の時間誤差はほぼ四倍。特定した侵攻ルートは別途043ページを参照」

 

 殆どの男達が顔を険しくする中、一人アルデルトだけが重さとは無縁の様子で報告を続ける。

 

「“霧”に含まれる主成分の詳細な分析結果を040ページで見て欲しい。この数値からしてたぶん境界の先にあるのは“外”に放逐された何処か、かなり広い空間だと推測される。変質を含めた活動限界時間を考えると内部への突入はほぼ無謀。ただ、あちらで突入用人員を“計画”の被験者から登用すると言ってる。こちらからも魔術に優れた部隊を幾つか出そうって前回の会議で決まったけど、此処に記されてる“あちら側”の数値を見る限り、生身の部隊は厳しいと思う」

 

 ふぅ。

 

 そう溜息を吐いたのは六人中三人。

 

「アルデルト様」

 

「な、何かな?」

 

「鵜呑みにし過ぎです。如何にあちらの方が優れているとはいえ、此方側の観測結果も照らし合わせてみなければ、突入の件は何とも言えないと思いますが?」

 

「ぅ…だ、だって、いつまで経っても結果が上がって来ないじゃないか」

 

「それはこちらの技術が劣っているから仕方ない部分でしょう。あの女はあくまで【崩燼機関】の専門家であって、【魔導技術】や【電子噐械学】の専門家ではありませんからな」

 

「か、彼らは嘘を言わないと思うけど」

 

 恐る恐る言うアルデルトに六人中四人が溜息を吐いた。

 

「“今は”ですな」

 

「で、でも、実際、この数値からして数時間も活動したら限界になるのは目に見えてる。変質速度が急激に変化したら、全滅する可能性だって……」

 

「それはあくまで魔術による遮断保護の方式が確立するまでの話です。技術開発部からの報告では【崩燼機関】を使用した防御装備の開発にも目処が付いたと」

 

「だ、だとしても、“排除対象”との戦闘になったら……」

 

「解っています。それに付いては我らの幾人かで協議しましたが、少数精鋭を送り込むという事で話が付きました」

 

「そ、それって……」

 

「後で認可してくださいますよう、お願い致します」

 

「う、ぅん」

 

 青年が自分の与り知らぬところでドンドン進んでいく“政治”に憂いに満ちた顔となった。

 

「では、こちらからも報告、よろしいですか?」

 

「あ、ぁあ、ど、どうぞ……」

 

 青年が引っ掛かりながらも頷く。

 

「まず、首都ハガスの現状ですが、都民に不安が広がっています。さすがに目敏い新聞社や氏族達が気付き始めていますが、こちらから手を回しておきました。ですが、“排除対象”の残存物から下の警察機関が本格的な捜査を始めており、そろそろ捜査本部の動きが慌しくなってきました。介入してもよいですが、さすがに“今は”止めておくべきでしょう。都民の不満を回避する為にも監視を付けて放置しておくのが最良かと」

 

「そ、そうだな。僕もそう思う」

 

「それと、やはり原因不明の病として急激に【ザヴォイド】の噂が広まっており、検疫機関に依頼が増え出したそうです。“霧”の発生箇所は基本的に占術予測不能ですので、上位貴族邸宅付近には夕方から明け方まで密封型の汎用封鎖結界を張るよう通達を出しておきました」

 

「よ、よくやってくれた」

 

「……で、その予算に付いて後で少しお時間を。それと一つ未確認の情報なのですが、捜査機関の方で“排除対象”と思われる者に手傷を負わせたそうです」

 

「え!? それ本当!?」

 

「アルデルト様」

 

 思わず素に戻った青年に赤鬼の男が囁く。

 

「ほ、本当か?」

 

「はい。ただ、人型である事は確認したのですが、何やら“境界”を越えて来たにしては知性を有していたらしい、との事です」

 

「ち、知性だって?! そ、そそそ、そんなぁ!? それってまさか!!?」

 

 ガタガタ震え出したアルデルトの赤い尻尾がピーンと張った。

 

「ご安心を。アルデルト様が怯えるような“モノ”ではないかと思います。捜査関係者からの情報なので。正規の報告ではないとまずは心得ておいてください。で、その“何者か”ですが、少なくとも“排除対象”とは違って毎日のように境界から出てくるところを捕捉されていたようです。現在は身を潜めているのか、手傷を癒しているのか、捕捉されてはいないようですが……」

 

「で、出てくるって……同じ存在、なのか?」

 

「解りません。ですが、現場からの報告では同じ逃走経路を使ったり、一瞬で現場の捜査班の大半を行動不能にする等、手口が知性を持った同一存在でなければ不可能な事ばかりだと」

 

「それって、つまり……」

 

「アルデルト様」

 

 三回目の赤鬼の囁きに青年が言い直す。

 

「それはつまり……」

 

「はい。旧教会派や我々以外の誰かがもう先んじて境界を越えている可能性があります。それも既に出入りを繰り返している状態かもしれません」

 

「ま、まずいのではないか?」

 

「もし、この推測が正しいなら、まずいでしょうな。どれだけ変質しているのか見当も付きません」

 

「あ、あちら側から帰ってきているというより、そ、それは…あちら側からこちらに“何かをしに来ている”のではないのか!?」

 

「その可能性も十分あります。ですが、あちら側とこちら側の渡航を可能にするだけの技量を持った魔術師や魔導師は殆どこちらで押さえており、抑えていない方も監視は抜かりありません。我々が感知していない異常(イレギュラー)か。あるいは旧教会派の先行者という可能性もあります」

 

「……つ、続けてくれ」

 

「はい。それで前日の最新報告では、手傷を負わせた際に【源理粒子(イデアル)】の昇華光を大量に発生させたという事です」

 

「な!? 【源理粒子(イデアル)】という事は【崩燼機関】を手に入れたのか!?」

 

「まだ、そうとは決まっていません。ただ、何かしら【源理粒子(イデアル)】との関わりが疑われるという事は……ディミトリア公国の一件とも関連があるかもしれません。当時の研究者達は殆どが死亡するか行方不明。現在も現地を七教会の【騎師団(ミリシェ)】が封鎖している以上、詳しい事は確かめようもない」

 

「あの女に聞けば何か解るのでは?」

 

 青年以外の声が言うと発言者は首を横に降る。

 

「旧教会派から離脱したとはいえ、早々真実を話すかどうか」

 

「尋問しますか? それくらいの用意ならばありますが」

 

「機嫌を損ねるのはまずい。我々はあくまで互いの利益を確保してこその関係。あの女も危ないと悟れば、七教会に庇護を求めるか、あるいは此処から逃げ出すか。どちらにしろ、現状の対処にあの開発能力は必要不可欠。安易な手は使えないと誡めるべきでしょう」

 

 青年が少し物騒な話に背筋を冷やした後、ゆっくりと発言する。

 

「そ、そうだな。我々はあくまで亜人としての誇りを忘れてはならない。それに考えようによっては知性あるソレを旧教会派より先に捕獲出来れば、何かと現状の打開策の一助となるかもしれない。よ、よし、で、では、その“何か”を捕らえる為に幾分か予算を回そう。警察機関への干渉と共に、だ、誰か送り込んで捕獲を任せたい!」

 

 何とか王らしい威厳を保ちつつ発言した青年の後ろ。

 

 赤鬼が小さく拍手していた。

 

 まったくの思い付きなのは明白だったが、子猫のような王にしては普通の意見だったので、その場の誰も反対せず。

 

 ただ、誰がどんな人員を送り込むかという段になると話は別で男達の大半は顔を見合わせ沈黙した。

 

「では、此処はこの二本角の身内に任せて頂けないか。諸君」

 

 今まで青年を補佐してきた赤鬼の言葉に誰もが頷いた。

 

「…妥当かと」

 

「妥当ですか」

 

「妥当でしょう」

 

「妥当なところですね」

 

「妥当と言える」

 

 ようやく自分も王らしい事をした!!という感動と「だ、大丈夫、だよね?」という臆病さを一つの顔に混在させつつ。

 

 アルデルトが大仰に頷く。

 

「で、では、お前に任せる!! そ、それで誰を宛がう?」

 

「我が娘、エンシェンに」

 

「お、ぉお!! エンシェンならば何も問題ない!! あいつは昔から鬼ごっこで負け知らずだからな!!」

 

「「「「「……」」」」」

 

 微妙な空気が流れ、赤鬼はそっと二十年来の真実を告げた。

 

「……アルデルト様が遅かっただけにございます……」

 

 その日、とある女の運命が勝手に決まった。

 

「……………」

 

 本人に何の承諾もなく。

 

 *

 

 アルヴァス亜人国。

 

 首都ハガス。

 

 今も大型重機が都市辺境を造成する広がり続ける都市。

 

 昔は優美を誇った白レンガの街並みも今はない。

 

 家々の壁が近代的な複成合板技術で大量生産されるようになった白い樹板に置き換わって以来、人々は国家の中枢を商業特区よりも北へ見るようになった。

 

 経済開発特区の【高層建築群(ビルディング)】が主役となった金融街。

 

 その金の街に隣接するよう聳え【崩燼機械】量産を行う重工業特区の工場群。

 

 高位貴族達が暮らす東の高級住宅街と西に延々と広がる巨大な箱にも見える借屋群は対照的で、南に位置する赤線街は今や貴族だけではなく奴隷や平民までも遊ぶ一大歓楽街と化している。

 

 嘗て、都市中央にあった王城は近代的な白亜の大城塞と為り、各政庁を四方に置く行政区域として機能しつつ、地方貴族に睨みを利かせる要衝として栄え、都民達に広報を伝える宣伝塔としての役割も有していた。

 

 そんな王城内部からフワリと出てきた女が僅か人目を引いたのは彼女が美人だったからだ。

 

 それも特段、歓楽街の高級娼婦として会いたい感じな……。

 

 妖艶を湛える姿態を一言で表すなら、館の女主人(ママ)と言った風情。

 

 大の男にも張り合えるような高い身長に括れた腰。

 

 豊満な胸と尻は人間の女部族(アマゾネス)かと疑うような大きさで、特に胸は少なく見積もっても130cm以上。

 

 その癖、まるで垂れる様子もなく重力の力を無視している張りと形の良さを保っている。

 

 それでも多くの亜人が目を奪われなかったのは彼女が“亜人らしい亜人”には見えなかったからだ。

 

 喪服のような黒い貞淑な礼装。

 

 被った帽子の内部は垣間見えず。

 

 腰の辺りから下はふんわりとした丈のあるティアード。

 

 これが年頃の娘達が着る丈の短い流行物だったら、女は王城に勤める高官の愛人と間違われただろう。

 

 だが、おとなしさを全面に押し出した衣装から何かしらの制度を申し込みに来た住民だろうというのが亜人達の感想だった。

 

 大貴族が集う元老院が全てを決めるアルヴァスにおいて、人間みたいな亜人が派手な衣装を着ていたら、風紀粛清の名目で逮捕も在り得る。

 

 喪服にも等しい服を着て王城に出向くとすれば、死亡届けでも出したのだろうと道往く人はすぐに彼女の事も忘れ、忙しい都会暮らしに埋没していった。

 

「……」

 

 王城を後にした彼女が目指したのは王城からすぐの商業区。

 

 今や大陸中央や南部大帝国の首都並みな品揃えと評判の店舗が並ぶ一角である。

 

 敷き詰められた明るい爽やかな果実を思わせる黄色の石畳。

 

 繊細な花柄が刻印された通りには売っていないものはなさそうな程、多種多様な店が溢れている。

 

 歩行者の大半は貴族の屋敷で働く使用人と庶民労働者だが、ちらほらと夕暮れに差し掛かった広場の露天に学生の姿もあった。

 

 正規店舗には学生服で入るべからず。

 

 そのような校則はアルヴァスにおいて一般的だ。

 

 五年前から始まった教育改革は労働者として子供を扱う事を禁じて総就学を推進した。

 

 結果、社会的未熟者として見なされる学徒達の大半は“商業の邪魔”をするなと長年労働者階級を対象としてきた露天式の屋台、つまり粗野な店や市場等の場所に群がる事となった。

 

 そんな場所の一角。

 

 幾つかの果実を売る店の前。

 

 彼女は店の主人に手を振って、差し出された袋を手に何も代価を払わず市場を後にする。

 

 果実を売っていた栗鼠みたいな顔の店主はニヤケ面だ。

 

 亜人だって、朱に染まれば何とやら。

 

 人間にしか見えない美人でも需要はある。

 

「おやっさん。どうかしたんですか? あの“九十対十”がどうかしましたか? あの袋のお代……」

 

 まだ歳若い獣人の青年が不思議そうな顔をした。

 

「いや、いいんだよ。あの方、おっと……“あの人”は……」

 

「は、はぁ…ごほ…でも、お代頂いて無かったんじゃ……」

 

「お代なら昔十分貰ったからな。ま、気にするな」

 

 青年はそれ以上何も言わず。

 

 ただ、不思議そうに歩き去る背中を見つめる。

 

 ひっそり栗鼠顔の男が片手を胸に当てて礼の形を簡易に取ったが誰も気付きはしなかった。

 

 そのまま市場を後にして。

 

 彼女は夕暮れに掛かり出した霧の中、紅蓮に染まる街を東へ通り抜けて往く。

 

 貴族の昔ながらの巨大な邸宅群を抜けて、下級貴族が住まう小ぶりな屋敷が立ち並ぶ一角を歩けば、周囲は閑静な住宅街といった風情である。

 

 込み入った路地裏をスイスイと縫うように歩を進めて。

 

 ようやく彼女の前に姿を現したのは館と言うには聊か小さい豪邸、あるいは邸宅止まりの家だった。

 

 繊細な植物の刻印(レリーフ)が付いた鉄門の横。

 

 小さな出入り口を潜ると草の生い茂る猫の額程の庭。

 

 その奥にある玄関までは徒歩十歩くらいはあるだろう。

 

 比較的古びれた飴色の鍵無しノブを回せば、内部まではすぐだ。

 

 小さなエントランスには螺旋階段が一つ。

 

 二階の部屋に続く赤い絨毯が敷かれていた。

 

 すぐ横のリビングや食堂、応接間には目もくれず。

 

 彼女は二階へと上がっていく。

 

 昇った先、左右に部屋は四つずつ。

 

 しかし、目指されたのは更に上。

 

 螺旋階段が続く屋根裏部屋だ。

 

 天井を押して開ける木製の扉が軋んだ音を立てた。

 

「今日も遅いのかしらね」

 

 残念そうな笑みで屋根裏にある寝台に誰もいない事を確認して。

 

 彼女は窓辺に飾られた写真立てに視線を向ける。

 

 その中では彼女と娘と部屋の主が三人揃って礼服姿となっていた。

 

 娘が真ん中。

 

 まるで家族写真だ。

 

 そう篆刻写真を取った業者に言われたのはそう遠い日の事ではない。

 

 せいぜいが数ヶ月前の話である。

 

 それを聞いて随分嬉しかった事を彼女は僅か思い出して笑みを浮かべた。

 

 小さな角を見せる娘の笑顔と少年の姿が彼女には何より眩く想えた。

 

「行ってらっしゃい」

 

 その場にいない部屋の主に囁いて。

 

 パタンと扉は閉められた。

 

 後には静寂だけが満ちていく。

 

 寝台と勉学用の本と筆記用具くらいしかない部屋の中。

 

 金色の埃がふわりと舞う。

 

 その日が終わるまで館に部屋の主が帰ってくる事は終に無かった。

 

 *

 

「ありがとー♪」

 

「あ、気を付けてくださいね。小さい子が驚いちゃいますから」

 

「うん。おねーちゃん。ばいばい」

 

 労働者階級の幼子か。

 

 まだ就学も前だろう小さな背中が黄昏の中で家の方角へと走っていった。

 

 その腕の中からはミーと小さな声。

 

「ふふ、今度は離しちゃダメですよ」

 

 都市に幾つかある市場の一つ。

 

 その玄関口でそんな呟きが零された。

 

 露天にも色々あるが、大きく分けて立食式と座食式がある。

 

 前者は時間の無い者。

 

 後者は落ち着いて食事をする者が客層だ。

 

 数年前から学生を意識したメニューも並ぶようになった屋台。

 

 その長椅子にテーブルの上にはホカホカと湯気を上げる若鶏の蒸し揚げが鎮座している。

 

 まだフォークも付けられていない甘辛いタレの乗ったご馳走は一重に記念日のため用意された。

 

「さ、イクスさん。乾杯しましょう?」

 

 小さな少女の背中が雑踏に失せた後。

 

 紫雲が燻(くゆ)る宵空の下で微笑んだのは赤み掛かった金髪の少女だった。

 

 外見の歳の頃は十二くらいだろう。

 

 国立貴族院付属高等教育舎。

 

 つまり国の最高学府に続く上級貴族御用達の学園。

 

 通称アルヴァス・カレッジの制服を着ている。

 

 透き通るような蒼いブレザー型の制服。

 

 金と赤の格子縞(チェック)柄のスカート。

 

 胸に輝く小さな黄金の竜が掘り込まれたバッジは下級生の証だ。

 

 彼女の周囲に客がいないのは一種、その制服のおかげだろう。

 

 大貴族の子息子女に何かあっては首が飛ぶ。

 

 そういう事だ。

 

 本来、高等教育を受けているはずの無い年齢に見える。

 

 しかし、亜人の成長速度はマチマチであり、それ程姿に違和感を覚える者はいないだろう。

 

 妖精系統の亜人ならば、そもそもがまったく小人かと見紛うような幼さや小ささなのだ。

 

 それよりも少女が見られるのは顔だろう。

 

 人間にしか見えない亜人。

 

 それが国の最も権威ある学校の制服を着ている方が目を引く。

 

 亜人の美的感覚は比較的人間に近いが、やはり何処かで人間には無い特徴が美醜の基準に組み込まれているのが普通だ。

 

 獣人(ベスティア)なら塗れた黒い鼻面がチャーミングだとか、鳥人(オルニス)なら翼の形や色だとか、他にも鱗の輝きや尻尾の太さ、爪の鋭さや腕の毛並みも評価の対象になる。

 

 故に幾ら人間的に見て美しいとしても、亜人達的な感性ではまぁまぁ整っている程度の認識。

 

 そんな美人はアルヴァスに五万といる。

 

 そういう点で少女は亜人基準の美人ではなかった。

 

 一言で類型(カテゴリ)するなら、三つ編み妹属性な“人間みたいな亜人”と言ったところだろう。

 

 眉が切り揃えられ、細い楕円をしている以外は至って普通な愛らしさ。

 

 妙に女の子らしい改造が制服に施されているのはご愛嬌か。

 

 スカート丈はかなり短く。

 

 ブレザーはボタンが全て外され着崩されている。

 

 薄い黒のタイツが辛うじて太腿を守っているものの、革靴(ローファ)には猫をデフォルメしたバッジが付いていて、これで学園に通えるのかと不思議なくらい校則に違反している。

 

「う、うん。今日はありがとうございます。ハイダルさん」

 

 イクスと呼ばれたのは膝まで掛かる程に黒髪を伸ばした少年だった。

 

 一見して男だと思わせるのは制服の下がスラックスだからだ。

 

 黒く細いタイを首下で蝶々結びにしている男子用の制服には女子生徒とは違ってピンが刺されている。

 

 男子学生達専用のピンとタイは共に黒。

 

 これは貴族達の慣習の一つで“男”としての器量や幾つかの状況によって使い分けられる。

 

 例えば黒はスタンダード。

 

 最も最初の色だ。

 

 これが女性との初体験を済ませたなら蒼となり、恋人を持てば赤になる。

 

 婚約をしていれば桃色。

 

 婚姻していれば緑。

 

 他の色にも様々な意味合いがあり、一種のステータスを暗に伝える広告の意味合いを持っている。

 

 長い黒髪で顔も隠れた少年が男と判断されるのは胸元に僅か見えるソレ故だ。

 

 実際、もしイクスと呼ばれた少年が女生徒の正装をしていれば、誰も彼を男とは考えないだろう。

 

 中肉中背。

 

 黒髪の間から垣間見える顔は中性的で性別の表現に困る。

 

 何処か男特有の堅さがなく。

 

 しなやかさを感じさせる肉体は女と言われても頷けるくらい物腰が柔らかい。

 

「もう……そういうのはダメです。×ですよ? イクスさんはもっとどっしりと『子猫を捕まえたのはオレだ!!』って顔してください♪」

 

「それってどんな顔ですか?」

 

「それもダメダメのダメです! いいですか? 私達はお友達なんですから、もっと砕けた調子で『可愛い子猫ちゃんだったぜ。ベイベー』くらいの口調にするべきです。敬語ダメ、絶対」

 

 胸も前で両手による×を形作る少女ハイダルにイクスと呼ばれた少年がポリポリと頬を掻いた。

 

「じゃ、じゃあ、ハ、ハイダル? 今日はありがとう」

 

「ダメ、ダメ、ダメの三連発です。イクスさん」

 

「え…」

 

「私の魂の名前はエストリアですから、ハイダル、なんて男なんだか地名なんだか解らない極悪な名で呼ばないでください。女の子は傷つき易い生き物なんです!!」

 

「エス・トリアが苗字だったような……」

 

「本名、ダメ絶対!!」

 

 力説する少女、仮名エストリアに少年イクスはそっと頷いた。

 

「ありがとう。エストリア……」

 

 その名前を呼ばれた瞬間、爛々と少女の瞳が輝き出した。

 

「うぅ、苦節十二年。ようやく魂の名前を理解してくれる人が現われたんですね……」

 

 ホロリと涙をチョチョギレさせ、うんうんエストリアが頷いた。

 

「その、それでいいんで……いいの? こんなに奢って貰っちゃって?」

 

「いいんです!! いいですとも!! だって、あの子の失った大切なものが戻ったんですから!! それに教団の方にもちゃんと顔を出してくれると約束してくれましたから」

 

「そうなんだ?」

 

「はい。ウチは常にカツカツなので祭神様の関連グッズ売り上げだけが頼りなんです!! あの子が他の子達にウチを勧めてくれれば、マスコットや団扇も売れて家計的には大助かりって寸法ですよコレ!!」

 

 少年は少しだけ明るい未来に浸る瞳が金貨なエストリアに微笑して。

 

 小さく食事を始める為の掛け声を掛けた。

 

「いただきます」

 

 しばし、楽しい時が過ぎた。

 

 二人の出会いは割りと最近。

 

 つい三日前の事である。

 

 最下級生の制服を着て事前の学校案内を受けた後。

 

 偶然に市場付近で出会ったのだ。

 

 その出会いはエストリアが小さな女の子を慰めていた事に始まる。

 

 話を聞いてみれば、泣いていた子が子猫を逃がしてしまったらしい。

 

 それで何となく放っておけなかった為、同じ学校の学生同士協力して迷い猫探しをしようという事になった。

 

 めでたく見付かった子猫を引き渡したお祝いがそのテーブルの上の豪勢な料理なのだ。

 

「イクスさんは不思議な方ですね」

 

「そう?」

 

「はい。だって、私みたいな“九十対十”に力を貸してくれました」

 

 コトリと鉄の食器が置かれ、エストリアが一般論を語る。

 

「困ってる人がいたら助ける。そういう事らしいから」

 

「事らしい?」

 

「気にしないで。それよりもお客さんみたいだけど」

 

「?」

 

 少年がエストリアの背後を見上げた。

 

 その視線に釣られて振り向いた矢先。

 

 少女は壁を見た。

 

「??」

 

 自分の後ろに壁なんてあったかと壁をゆっくり上まで見上げて。

 

「!?」

 

 ズザザッと長椅子を横に移動した。

 

「お前がハイダル・エス・トリアか?」

 

「な、なにゃなな、何なんですか!? 貴方!! いきなり吃驚するじゃないですか!!!」

 

 思わず抗議の声を上げたのは背後にいる男の姿からだった。

 

 190cm以上あるだろう巨躯(ガタイ)。

 

 引き絞られた感のある腹筋やら上腕二頭筋。

 

 美丈夫と呼んで差し支えない相貌。

 

 だが、何よりも彼女が驚いたのはその服だった。

 

「ウチの生徒、ですか?」

 

「ああ、二年。ジルムス・デダルだ」

 

 太く凛々しい眉。

 

 切れ長の相貌。

 

 褐色のオールバック。

 

 筋骨隆々でありながら、洗練を思わせる姿はスラリとして見える。

 

 一見して何の亜人かも解らない“九十対十”の青年。

 

 一種、異様なのは彼の制服が改造されているからだろうか。

 

 本来、エストリアのような種族毎の特徴に沿わない変化を加えると風紀を乱していると思われ、減点対象となる。

 

 アルヴァスにおいて最高の学校に通う人間がワザワザそのような違反を犯すのは珍しい。

 

 最下級生では殆どエストリアくらいかもしれない。

 

 だが、二年と言った彼。

 

 ジルムス・デダルの制服の変化はエストリアの比ではない。

 

 ブレザーのボタンが完全に抜かれた前面は完全に開いていて。

 

 ゴツイ銀のベルトがギラギラと眩しい。

 

 極め付けは学帽だろうか。

 

 本来、胸元に付いているはずのタイとピンがアクセントよろしく一つの華飾(コサージ)として付いていた。

 

 その色は銀。

 

 意味合いは最も物騒な一言。

 

 決闘の勝者。

 

 つまり、喧嘩上等を謳っていた。

 

「あ、ジ、ジルムスって!? 二年の無敵番長の!!?」

 

「あん? そっちかよ」

 

 『頭の悪いお嬢ちゃんだ』とでも言いたげな視線だった。

 

「そ、そっちって、どういう事ですか?」

 

「アーギストの親友って言やぁ、分かるか?」

 

「に、兄さんの!?」

 

 思わず警戒態勢に入ったエストリアがシタタッと敏捷な猫の如く少年の背後に隠れた。

 

「今日、オレは本来もう帰って夕食を取ってるはずなんだが、お前の兄貴に緊急の要件とやらで呼び出されたわけだ。言ってる事は解るよな?」

 

「う……」

 

 思わず縮こまったエストリアに少年が首を傾げる。

 

「エストリア?」

 

「き、昨日一日帰らなかった事は謝ります!! で、でも、お食事をしてから帰ると兄さんには伝えてください!!」

 

「ダメだな。あのいけ好かねぇ野郎に脅されてる立場だ。さっさと回収させてもらうぜ」

 

「お、脅すって!? に、兄さん貴方に何してるんですか!?」

 

「昔撮られた恥しい篆刻写真を人質にされてる」

 

「ぅ、敵みたいですけど、ウチの兄がご迷惑お掛けしてます」

 

「そう思うなら、大人しく帰れ」

 

「それはお断りします!!」

 

 まるで狩人に睨まれた兎。

 

 ビクビクしつつもエストリアがう~~~ッと獣のように唸った。

 

「あの……」

 

「何か文句でもあるのか? 坊主」

 

 ジルムスの視線に同じ年頃の学生ならビビらないわけがない。

 

 無論、喧嘩上等を謳う番長に挑む他の学校の男連中はいるが、そういう敵意向き出しの視線とも違う温和な視線を彼は訝(いぶか)しむ。

 

「結構まだ残ってますし、一緒にどうですか?」

 

 少年がまだ半分程残っている鳥を指して提案する。

 

「麺麭くらいなら奢りますよ?」

 

(ほぅ。オレの視線を受けても動揺しやがらねぇとは……見掛けに因らず肝が据わってんな)

 

 ジルムスが少年の瞳の色に何の不安も読めず。

 

 僅か沈黙した。

 

「……いいだろう。だが、オレは大食いだぜ?」

 

「飲み物も付けます」

 

「乗った」

 

 ドスン。

 

 長椅子が一瞬、撓(たわ)んだ。

 

 それを見て何事も無かったように店員へ麺麭と温めて酒精(アルコール)を抜いた葡萄酒を頼んだ少年を見て、エストリアが目を見開く。

 

「……」

 

「エストリア?」

 

 振り向いた少年にエストリアは気後れしたような様子で呟いた。

 

 それはそうだろう。

 

 学校で最も危険と言われる相手に対し、まるで意に介さない様子で対応するのだから。

 

「イクスさんて……不思議な人です。やっぱり……」

 

「そう?」

 

 自覚も無さそうに微笑んで。

 

 少年は店員が運んで来た一斤近くの麺麭と四合はあるだろう大ジョッキの葡萄酒をジルムスの前へ置いた。

 

 さっそく食事を始めるジルムスの対面で麺麭と鳥を切り分けつつ、宴は始まる。

 

 とりあえず。

 

 奇妙な学生トリオが食事を終えるまで営業上がったりだったはずの店の店主は次々入ってくる注文に喜色満面。

 

 食事を終え夜の闇に消えていく背中へ「ご贔屓に」と声を掛ける程度にはホクホク顔で彼らを見送った。

 

 *

 

 近頃、首都を騒がせている事件がある。

 

 ジャーナリズムと呼ばれる思想が勃興して後。

 

 新聞と呼ばれる大衆広報紙の拡大は人々に大きな歓呼を持って迎えられた。

 

 その幾つかある紙面を賑わせる一件の名は誰が呼んだか【連続大量怪奇殺人】。

 

 事件の内容はこうだ。

 

 夜な夜な妙な霧が出るようになって後。

 

 霧が晴れた朝になると無数の服の切れ端や装身具が大量に発見される。

 

 そのどれもが血だらけの染みを残すものばかり。

 

 しかし、誰かが殺されたかもしれないという届出はなく。

 

 その装身具や服も人間が身に付けるものばかり。

 

 誰かが犠牲になっているはずだが、その被害者当人はまったく発見出来ず。

 

 何らかの事件は起こっている“はず”だが、全容は未だ霧の中。

 

 愉快犯の犯行か。

 

 はたまた人間の犯罪者が遺留品を棄てているのか。

 

 真相の究明が待たれる。

 

 と、言うのが新聞社の見解である。

 

 連続大量殺人ならば、警察機関が全力で捜査に当たるだろうが、怪奇と付いて被害者らしい被害者も発見出来ないのでは何をどう調べていいやら。

 

 そういう訳でゴシップ紙に恰好のネタとして重宝され、元老院や警察批判の道具として事件は扱われていた。

 

「何だか出そうですね」

 

 夜霧の中。

 

 外灯が灯る東部の貴族居住区に至る道を三人は進んでいた。

 

 視界はせいぜいが3m以下。

 

 それでも歩けているのは文明の光と舗装された地瀝青(アスファルト)の道故だろう。

 

 五年よりも前。

 

 まだ工業も発達していなかった頃の道は何処も土埃を上げるのが普通だった。

 

 子供が霧の出る夜中に歩いていたら、昔ならば良識ある大人が諌めただろう。

 

 だが、誰もも彼もが忙しい都会へと変貌したハガスの亜人達の誰も三人を咎めるような事は無かった。

 

「チッ」

 

 舌打ちしたのはジルムスだ。

 

「か、感じ悪いですよ!? ジルムスさん!?」

 

「感じが悪くもなるだろ。この霧じゃ、帰りたくても帰れねぇ」

 

「何でですか?」

 

 首都はかなり端でも無ければ主要な道に外灯が完備されている。

 

 それは貴族の住宅地も一般の住宅地も変わらない。

 

「大物何だかボケてるんだか、さすがあいつの妹だな」

 

「ムッ!? 兄さんはボケてますが、私は至って普通人ですよ!!?」

 

「あいつの妹ってだけで十分にヤバイだろ?」

 

「う……我が兄ながら反論出来ない強力な証拠ですね」

 

(エストリアのお兄さんて、どういう人なんだろう?)

 

 少女の兄の言われ様を疑問に思いつつ、少年は霧の切るように進んでいく。

 

「おい。お前……イクスとかいったか。あんまり一人で前に進むなよ」

 

「あ、はい」

 

 少年が速度を落とした。

 

「イクスさん。足元、気を付けた方がいいですよ」

 

 エストリアがいつもよりも濃い霧に僅か不安そうな顔をして少年に忠告する。

 

「エストリアも大丈夫?」

 

「え、あ、ああ、私はちょっと何かさっきから寒気がしてて……前はこんなに霧が濃くなんてなかったのに……新聞社が変なゴシップ流すから。まったくもう……」

 

 愚痴った少女が徐々に深くなっていくような霧に顔を顰めた。

 

「……おい。ちょっと、待て」

 

「わ!? な、何ですか!? 吃驚するじゃないですか!!」

 

 ジルムスがムンズと少年と少女の襟を後ろから掴んで止めた。

 

「買い物し忘れた。ちょっと商業特区まで戻って麺麭買って来い」

 

「な!? こんな夜中に堂々と少年少女をパシらせようとしないで下さい!? 実は傲慢番長の本性とか隠してたんですか!? ジルムスさん!!」

 

 思わず顔を怒らせたエストリアだったが、振り返った時見たジルムスの顔が本気の瞳である事に気付いて、僅か怯んだ。

 

「そ、そんな顔したってダメです!! こんな人だとは思いませんでした!! 行きましょうイクスさん!!」

 

 少年の手を掴んで、そのまま霧を抜けようと歩き出そうとした少女だったが、途中でガクンと糸が切れるように身体を弛緩させて少年の腕に倒れ込んだ。

 

「おいおい。ガールフレンドの延髄くらい大事にしろよ」

 

「ただの友達です。それよりエストリアの事。頼んでもいいですか?」

 

「そりゃあ、オレの台詞なんだがな……」

 

 少年の背中を見ていたジルムスは僅かな警戒心も悟らせぬよう、そっと全身の力を抜いた。

 

 一瞬でトップスピードまで肉体を加速させる前準備だ。

 

 自分の前で堂々と少女の延髄に衝撃を与えて上手く気絶させた手並み。

 

 尋常ではない速度の手刀を彼は見逃していなかった。

 

 まるで女のように髪の長い少年。

 

 その気配が出会った時と“寸分違わない”という異常にこそ、ジルムスは不安を抱いた。

 

 霧の中。

 

 何が敵で何が味方か。

 

 彼は未だ知らない。

 

 だが、たぶん、少年はその区別くらいは知っているのだ。

 

 それだけでも彼は少年との間に差がある。

 

 一瞬の判断が命取りになる刹那。

 

 喧嘩上等を常とするジルムスにとって、その一時が近付いていた。

 

「お前、何者だ?」

 

「さぁ? 昔の記憶とか無いので、ちょっと解りかねます。今はただの一般人と思ってくれれば」

 

「ふざけてんのか? それともイカレてんのか?」

 

「30mを切りました。もし、エストリアを友人の妹だと言うなら、このまま商業特区に引き返して下さい」

 

「……信じていいんだな?」

 

「空飛ぶ麺類を信じる程度には信じていいですよ」

 

「チッ」

 

 舌打ちしたジルムスが片腕を広げた少年からエストリアを受け取った。

 

「オレはアーギストの野郎がやってる教団とは関係無ぇ」

 

「後、20m。射程まで5mを切りました。逃げる時の鉄則は絶対路地に入らない事。それとどんな状況でも相手を視認せずに人気のある方へ向かう事」

 

「随分、アレの事に詳しいな。一体、ありゃ何なんだ?」

 

 僅かな沈黙があった。

 

 そして、少年が前へと飛び出す。

 

 その呟きを聞き逃さず。

 

 ジルムスはエストリアをお姫様抱っこしながら、その場を超人的な脚力で離脱し始めた。

 

(クソッ、一体この都市に何が起こってやがる?!)

 

 商業区域へと駆けていく彼の耳には呟きがこびり付いている。

 

『僕もそれが知りたいんです。きっと……』

 

 夜霧の中。

 

 甲高い金属音が小さく小さく響いた。

 

「ふっ」

 

 規則正しい旋律(リズム)を刻む心臓の拍数に乗っ取って。

 

 月明りも朧な一角で火花が散る。

 

 一本だけ明滅を繰り返す外灯の下。

 

 振り抜かれたのは鋼の刃だ。

 

 凡そ、凡庸な刀剣。

 

 大陸標準に従って製造された粗製乱造品かと疑う簡素な造り。

 

 長さから何から名剣の臭いが一切しない得物が縦横無尽に翻る。

 

 それと打ち合っているのは黒く長いものだった。

 

 それが霧の中で無いならば、腕だと誰もが解っただろう。

 

 剣と打ち合っているからには肉体として尋常ではない

 

 しかし、それよりも何よりも驚きを誘うのはきっと、腕の持ち主の顔だ。

 

 屍蝋にも似た質感の白。

 

 そのツルリとした能面には顔がない。

 

 しかし、文字が連なって描かれている。

 

 その黒い腕を振り回す、黒い体の白い面には大陸標準言語で金色の一文。

 

“一般人”

 

 そう書かれていた。

 

 実態を伴った衝撃が剣に受け流されながら霧を裂いていく。

 

 少年は高速で振るわれる長い腕を楽々いなしているように見えるが、実際には難事だ。

 

 人体が生み出せる以上の速度。

 

 通常の生物が知覚出来る限界近い高速の連撃は凡そ筋肉の反射を超える。

 

 正面からの三連突きを剣を立てて受け切り、横殴りの一撃を背後へのバックステップで回避。

 

 突進後の乱打は相手を跳び越して躱(かわ)す。

 

『~~~~~?!!!』

 

 頭上を抜け様に振り抜いた鉄剣が首を斜めに切り飛ばしていた。

 

 ジュクジュクと黒い肉体の断面からコールタールのような液体が飛び散り、能面の表層。

 

 金文字に罅が入る。

 

 途端、黒い肉体の動きが停止し。

 

 まるで絵の具で塗り込められるように霧へ融けた。

 

「ん、く……」

 

 少年の顔が少し歪んだ。

 

 制服の下へポタポタと血が滴っている。

 

「っ…ふぅ……」

 

 ヨタヨタと外灯の鉄柱へ背中を預けて。

 

 剣が掌に浮き出た魔術方陣の中へ吸い込まれるようにして消えていく。

 

「大丈夫、だったかな……」

 

 息を整えて、少年は商業特区の方へと向かい歩き出そうとして止まった。

 

 元来た道に一匹の猫がいたからだ。

 

『マヲ~~~』

 

 黒猫が照り返す黄金の瞳でパチクリと少年を捉えた。

 

 すると、数十m先から誰かが駆け付けて来る気配。

 

 そのまま立ち止まっているわけにもいかず。

 

 ふらついた足が跳躍した。

 

 疾走するだけでも追跡者は撒けそうなものだったが、相手の追尾能力は高く。

 

 距離を少しずつだが詰めつつある。

 

 シタッ。

 

「え?」

 

「マ~~ヲ」

 

 黒猫だった。

 

 脱兎の如く逃げ出した少年の頭。

 

 其処が我が家であるような調子で。

 

 出会ったばかりの小動物は帽子みたいにベッタリと張り付いていた。

 

「ええと……君も逃げる?」

 

「マヲ」

 

 返事なのかどうか。

 

 亜人国家において本当に猫かどうか怪しいものだが、悪意らしいものを感じなかった少年は仕方なく同乗を許可した。

 

「いいよ。でも、危険かもしれないから、途中で降りてくれると嬉しい…かな」

 

 応える声は無い。

 

 が、ペロペロと生え際を舐められた少年は苦笑して速度を上げた。

 

 ハガス東部。

 

 最も治安が良いと言われる主要な国道を往けば、道の終端近くで巨大な施設群が見える。

 

 アルヴァス・カレッジの校舎だ。

 

 十三棟にも及ぶ教育関連施設。

 

 四つの運動場。

 

 盆地であるハガスの辺境は宅地造成の真っ最中であるが、例外的に貴族領とされた校舎群を中心にした一帯は開発禁止区域に指定されている。

 

 故に今も五年前と変わらず深い森と山を背後に抱くアルヴァス・カレッジは恰好の逃げ場所と言えた。

 

 巨大な校門。

 

 閉ざされた鉄格子。

 

 その表面に描かれるのは亜人達の標語だ。

 

“背を向けるなかれ”

 

 千年以上の戦いに次ぐ戦いを征して国を手に維持してきた亜人達だからこその言葉だと入学して後、下級生は耳にタコが出来る程に聞かされる。

 

 正に真逆な少年は己の境遇に肩を竦めるしかないが、そんな事もしていられないのでサクッと門を跳び越えた。

 

 侵入者監視と迎撃用の魔術方陣が常時、閉ざされた学園を守っている。

 

 本来、警備員が駆け付けて来るはずだったが、今は何をせずとも誰も来ないと少年は知っていた。

 

 何故なら、一面霧に覆われた校舎群は既に“境界”の向こう側だからだ。

 

 その裏手。

 

 深い山々が連なる一帯に逃げ込めば、さすがの追跡者も追ってこれまい。

 

 という計算なわけだが、少年にしても賭けな部分が多い。

 

 それでも如何なる痕跡も遮断する場所へと向かう足取りに躊躇は無かった。

 

 相手が国家公安。

 

 情報局か警察機関の手足だと解っていたからだ。

 

 指名手配されて後見人に迷惑も掛けられない。

 

 となれば、取れる方策は一つだけ。

 

 相手を完全に撒くしかない。

 

 相手とて“境界”を安易に越えて戻ってこれると考える程、お人よしではないはずだ。

 

 そもそもがいつ襲われてもおかしくない領域。

 

 容易な侵入は避けるはずである。

 

 そんな事を少年は思っていた。

 

 裏山の獣道へと突入し、そのまま獣すら上回る速度で樹木の間を進む。

 

 足跡を極力残さぬように跳躍の間隔は10m程。

 

 例え獣道を見つけても最初の足跡すら発見困難な場所で正確な位置を測定するのは難しい。

 

(諦めてくれたかな?)

 

 少しずつ離れていく気配に安堵の吐息を吐(つ)こうとした刹那。

 

『チェェアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!』

 

「?!!」

 

 上空から閃いた斬撃を超人的な反射で躱(かわ)したものの、その前髪がバッサリと持っていかれた。

 

 ドズン。

 

 一撃で決める気だった相手は地面にめり込んだ得物に頓着しなかった。

 

 次の一瞬で格闘に切り替えたか。

 

 抉り込むような鋭いアッパーが少年の顎を捉えようと繰り出される。

 

 何とか背筋を反らしてブリッジ気味に回避したものの、魔力の奔る気配。

 

 頭に乗せた黒猫はまるで意に介さず大欠伸。

 

 どうしろと言うのかと脱力しつつ。

 

 少年は身を翻して出来れば行きたくなかった場所に退避する事とした。

 

「あ、待て!!? 連続大量怪奇殺人魔!!!」

 

 黄金の瞳がギラリと鼠を追う獣めいて耀いた。

 

 とっさの逃走で稼いだ距離は15m弱。

 

 校門付近から遠ざかろうとした気配はグルグルと学園の周囲を回っていた。

 

(自動で気配を振りまく魔術式? 霧のせいで読み誤ったかな?)

 

 待てぇぇえええええええ。

 

 と追い掛けて来る声の主を振り返る余裕もなく。

 

 少年は山の奥。

 

 ひっそりと小さな結界が張ってある一角へ突入した。

 

 抜ける際にパリッと全身に静電気が奔る。

 

 すると潜り抜けた先。

 

 樹木や草が20m四方開けた場所が在った。

 

 その中央。

 

 錆びれた巨大な鳥居が鎮座している。

 

 大陸東部式。

 

 神を祀る社への入り口だ。

 

 本来、鳥居の先にあるはずの社が無いという事は“鳥居の先”が此処にない事を示している。

 

「な、何コレ!?」

 

 金色の体毛。

 

 縦に割れた水晶の如き瞳。

 

 貴族警邏隊の制服。

 

 ようやく犯人を捕まえる事が出来ると喜び勇んで走ってきた奏美紗(かなで・みしゃ)は校舎裏の山にこんなものがあるとは思ってもみず、目を見開いた。

 

「……此処に入って来れるって事は……君も関係者?」

 

 黒猫を頭に乗せたまま。

 

 鳥居の近くに佇んでいた少年がようやく追跡者の少女を繁々と見つめた。

 

「―――あ、貴方が連続大量怪奇殺人事件の犯人ですね!!」

 

「まだ、容疑者じゃない?」

 

「惚けた事を!! 思いっ切り逃げた癖に!! これは現行犯ですよ!! 現行犯!!」

 

「いや、だって、霧の中から何かよく分からないものに追われたら怖いじゃないですか」

 

「で、でも、本官から逃走して怪しい場所まで誘い込んだのが運の尽きです!! 今、警邏隊の仲間達が現場に急行してくるはず!! 言い訳は取調室で聞きますから、大人しくお縄に付きなさい!! ええと、君の名前は?」

 

「出来れば黙秘の方向で」

 

 シレッと権利を行使する少年にムッと美紗が顔を顰めた。

 

「犯罪者はみんなそうやって言い訳するの!!」

 

「それって偏見な気が……」

 

「マ~~ヲ」

 

「?」

 

 黒猫が鳴いて。

 

 少年が鳥居を見た。

 

 本来、その四角い視界の先に見えているはずの景色が歪んでいた。

 

「あんまり騒いだから、ご機嫌斜めになってる?」

 

「何を訳の解らない事を!!」

 

 少年が鳥居から離れて美紗の傍まで跳躍した。

 

「て、抵抗する気!?」

 

「抵抗って言うか。抵抗しないと餌食って言うか。とりあえず戦う得物とかまだありますか?」

 

「得物はさっき貴方が回避して地面に埋まりっぱなしよ!!」

 

「ちょっと魔術とかで支援してくれると嬉しいんですけど」

 

「はぁ!? 貴方、この状況で何言っ―――?!!!」

 

 ゾワリと。

 

 美紗は自らの肉体に掛かる無形の圧力に口を噤(つぐ)んだ。

 

「今日は大物が出てくるかも……」

 

「お、大物って何?! あの変な門と関係があるの?!」

 

「……出て来る……出来れば、支援してくれると助かります」

 

「あ、ちょっと!!」

 

 少年が右腕の掌に魔術方陣を浮かび上がらせると鉄剣が出てくる。

 

「あ、やっぱり!! あの時の剣!! 貴方、二日前地下水道にいたでしょう!!!」

 

「あの、何の事か解りませんけど、死にかねないので一つだけ」

 

「な、何よ!? 本官を脅そうとしても無駄よ!!」

 

「集って来てる方をよろしくお願いします。たぶん、こっちの方で手一杯になると思うので」

 

「え―――」

 

 美紗が少年の言葉に何かしらのリアクションを起こす前にゾロゾロと黒い肉体に屍蝋の能面を宿した存在が数体、結界を越えて侵入してきていた。

 

 その光景に全身の毛を逆立たせて。

 

 美紗が少年の傍に退避してくる。

 

「な、何なのコイツラ!!?」

 

「このタイプは射程が15m。主武装は伸びる腕。速いので近接格闘は避けて魔術で仕留めるのをお勧めします。弱点は能面。能面と肉体が切り離されると存在を維持出来ないので、首辺りが狙い目です」

 

「た、戦えって言うの?!」

 

「あっちはやる気みたいですけど」

 

 少年の言う通り。

 

 臨戦態勢に入ったか。

 

 能面達が一つ所に集ってジリジリと少年と少女へ近付いて来ていた。

 

「マ~ヲ?」

 

 黒猫が鳴く。

 

 するとギュリッと鳥居の下に敷き詰められている玉砂利を踏み締め、何かが歪みを越えた。

 

 ズンッ。

 

「んぐ!? 何、この圧力(プレッシャー)?!!」

 

 思わず膝を付きそうになりながら、美紗が鳥居から出てきた黒いソレを見た。

 

 10mはあるだろう門の半分。

 

 それでも5m近い巨躯だった。

 

 能面の中央には金文字で一文。

 

 曰く“巨人”。

 

「後は頼みます」

 

 少年が剣を片手に鳥居へと疾駆した。

 

 それと同時に七体の“一般人”が美紗に殺到した。

 

「あ、ちょっと!? こんな!!!? 何なのよもう!!!!」

 

 触手の如く十四本の腕が美紗のいた地面を抉り、土埃を上げる。

 

 当然のように回避した少女の腕が虚空で一定の所作を取った。

 

 片腕は伸ばし、片腕は何かを摘んで後ろへと引き絞る。

 

 指先が開いた。

 

 斬心の型を取った刹那。

 

 三体の“一般人”の仮面が弾ける。

 

 何かが当たった様子はない。

 

 それでも首を仰け反らせて罅割れた仮面の下、黒い体が霧に溶けていく。

 

(一応、こっちの魔術は利くみたいだけど、何なのコイツラ?)

 

 己の魔術の結果に相手の性質を見極めんとした瞳が細められる。

 

「ッ」

 

 少年が“巨人”の足元で跳躍した。

 

 5m上空の仮面まで一直線。

 

 しかし、その鈍重そうな印象とは裏腹に仮面に振り下ろされた剣が虚空を切る。

 

 ドゴォオオオオオオオ。

 

 猛烈な横殴りの一撃が少年を直撃した。

 

「くッ」

 

 ブレザーに血が滲む。

 

 振り抜かれた腕に剣を突き刺して衝撃を和らげたものの。

 

 それでも全身を強打されて硬直した肉体を立て直すまでの数瞬、無防備な時間が生まれた。

 

 まるで羽虫でも叩き潰すように。

 

 もう片方の腕が少年の頭上から振り下ろされ―――。

 

「マヲ~」

 

 黒猫が鳴いた。

 

 一瞬後。

 

 少年の頭上に輝くものが顕現する。

 

「魔術方陣!? あの猫、魔導や魔術が!? っと言うか、本当に猫?!!」

 

 実は猫型の亜人、という線も棄て切れないと美紗が目を瞬かせる。

 

 “巨人”の腕を留めている魔術方陣に顕されているのは魔導で多用される幾何学模様と大陸標準の【秘儀文字(アルカナ)】とは違う複雑な象形文字だった。

 

「ありがとう」

 

 言っている場合ではない。

 

 胴体内部の内臓が強烈な圧迫でショック状態なのだ。

 

 常人ならば即死とはいかずとも数分で死に至る事もある。

 

 そんな状況にも関わらず。

 

 少年は自らの剣を両手で正眼より斜(ななめ)に構えた。

 

 “巨人”の機動速度が常識を超える以上。

 

 一撃でケリを付けなければ不利なのは少年だ。

 

 根競べしようにも“境界”上での化け物達のスタミナは無尽蔵。

 

 それなりの経験の蓄積からそれを少年は知っていた。

 

 攻撃動作に移る肉体が緊張を強制的に解かれ。

 

 内臓が悲鳴を上げるのも構わず。

 

 頭に黒猫を乗せたまま。

 

 呟き一つ。

 

「【射斬(いざん)】」

 

 剣より速く動く“巨人”が次の刹那。

 

 自らの視界がズレ落ちていくの知覚するより早く霧に融けていく。

 

(今、どうやったの?! アレ!?)

 

 瞬間的に剣が輝いたところまでは美紗も観測した。

 

 が、それ以上の事は解らなかった。

 

 ただ、彼女は“巨人”が仮面と頭部を斜めに割られたという結果だけを見て、何かしらの力が剣を媒介にして放たれたのだと推測する。

 

 ズルン。

 

 残った“一般人”の腕が美紗を追った。

 

「しつこい!!!」

 

 再び何も無い虚空で弓を引く所作が繰り返された途端。

 

 残りの人型達も仮面を弾けさせて身体を霧に融かしていく。

 

「ふぅ。ただちに武装解除して投降しなさ―――」

 

 危険が去った事でさっそく呼びかけた美紗だったが、少年の姿が鳥居周辺に影も形も無くなっている事に気付いて、額に青筋を浮かび上がらせた。

 

「い、いい度胸です。顔を見られても逃げるなんて……超・重要参考人として指名手配してやるんだから!!!!」

 

 そこにヒラヒラと一枚の紙が風に流れてやってくる。

 

「ば、馬鹿にして!!」

 

 それが少年からの置手紙だと悟った美紗は普段らしからぬ迂闊さで内容を覗き込んだ。

 

「         」

 

 次に目を覚ましたのは翌日の昼。

 

 就学後、頑張って更新していた彼女の無遅刻無欠席記録は理不尽な理由でご破算となった。

 

 怒り狂った少女の目が血走っていて、クラス替え直後の教室で不良少女として定着してしまったのは本当に不憫としか言いようの無い出来事だったかもしれない。

 

 *

 

―――アルヴァス亜人国家首都ハガス近郊領空。

 

 一重に亜人と言っても種類は色々いる。

 

 常識的な範囲では獣に似た獣人(ベスティア)、鳥に似た鳥人(オルニス)、竜に似た竜人(ラセルタ)、他にも蟲に似た者や海洋生物に似た者も数は少ないが存在する。

 

 しかし、亜人国家にとって最も珍しい種が“人間(ホモサピエンス)”である事は言うまでもないだろう。

 

 嘗てはそうだった。

 

 そう、“だった”のだ。

 

 五年前の大陸騒乱以降。

 

 流入した難民の奴隷化は国内に留まる人間達を急増させた。

 

 亜人達が必要以上に弾圧や権利侵害を行っていないか、七教会が気を揉んだのは当然の話だった。

 

 亜人国家は通常の人間国家と同等に取り扱う事が難しい場である。

 

 教会が有する人員の七割以上は人間なのだ。

 

 それを知っている亜人側にしてみれば、奴隷達の扱いに関する教会との折衝が亜人主体で行われていても、その後ろに人間がいる事は見通している。

 

 故に彼らは教会に対して強い態度に出る事が多い。

 

 教会自らが推し進める平等、人権、民主主義という三大セットは返って、人間が亜人にしてきた迫害に対する壮絶なブーメランなのだ。

 

 これを理由にして教会からの干渉を撥ね退ける種族は多い。

 

 そうなってしまえば、亜人国家で奴隷という身分に身を落した人間の現状を調査・救う術は殆どなくなる。

 

 それが五年前までの常識だ。

 

 しかし、頑なな世の理が絶対であるのは新しい理屈が現われ出でるまでと相場は決まっている。

 

『航路視界有効。魔力流動機関、“霧”の侵食率23%以下で運行中』

 

『本日も“境界”の出現を確認。探査魔力波動334m地点で途絶。基準値-033m。誤差範囲内』

 

『北北西の風、風速12m。船体への影響無し。定期航路を順調に回遊中』

 

『都市東部に“排除対象”の出現を確認。どうやら先日の異常(イレギュラー)と接触したようです』

 

『観測班より入電。イレギュラー・ホソク・フノウ・カンド・テイカチュウ』

 

『研究開発班からの要請に応じて捕獲部隊を出しますか?』

 

 20m四方の部屋には床が無かった。

 

 いや、実際には床が透けている、というのが正しいだろう。

 

 遥か下方。

 

 街の明かりがあちこちにある。

 

 小国の内部を回遊する巨大な飛行船。

 

 七教会が有する積層魔力の技術化に伴う艦船の浮遊技術とも違う。

 

 船体内部の構造に膨大な浮遊性の稀瓦斯(レアガス)を圧縮搭載する事によって浮力を得る原始的な飛船体は教会の意匠(シンボル)とは違った形をその腹に描いていた。

 

 夜の中に浮かぶのは輝ける光球。

 

 “大いなる一つ”と天使達。

 

 七人の聖女が過去、見ていたはずの旧き形象。

 

 今や教会の殆どから“旧教会派”と綽名される彼ら【総主教(パトリアルヒス)】一派こそ、亜人達相手に最も力を持つ教会関係者であった。

 

『……解りました。では、観測班にはこちらからお伝えしておきます』

 

 現在の七教会が有する機器からしてみれば、二世代、三世代遅れているだろう無骨な無線機器や観測機器を生真面目に見る法衣姿の修道女達がブリッジ中央の指示に頷いた。

 

 半球状となった艦長席には彼女達の主が座っている。

 

 今や教会の主流から外され、閑職の地位にまで落されているものの。

 

 それでも彼女達からすれば、その席の主は信じる唯一神にも劣らない。

 

 彼女達は全員が全員、本来ならば尊き御神の教えの為に一生を捧げる慎ましい生活を送るはずだった。

 

 しかし、彼女達が所属する非主流派の人材不足は嘗て無い程に深刻で。

 

 本来、男がいるべき席へ彼女達は座っている。

 

 それでも笑みが絶えないのは揺るがぬ信仰と神への愛の賜物であり、艦長席に座る者への忠誠と敬愛、そして母親の如き母性からであった。

 

 修道女達が法衣を着ているのは彼女達を伝統的な女司祭として取り扱う旨が通達されたからだ。

 

 最初こそ過ぎた位だと辞していた彼女達もこれも試練であると司教達に説き伏せられ、今では誇りを持って、その白と紫に彩られた衣装を着ている。

 

 彼ら【総主教】一派の任は主流である七教会から下された奴隷達の監視調査だけに留まらない。

 

 それはその場の誰もが知っている。

 

 亜人国家の首都を覆うようになった霧。

 

 その中で蠢く影。

 

 一歩間違えば巨大な災厄となるだろう胎動を見逃さず。

 

 同時に彼ら旧教会派が信じる“来るべき日”の為に働く事。

 

 この重大極まる人類と神への貢献に誰もが自らの全力を尽しているのだ。

 

『“排除対象”の奴隷居住区への侵入ありません。東部貴族居住地に境界の不安定化を確認。周辺の機関へ注意を促すよう元老院へ通達しますか?』

 

 五年前。

 

 七教会がアルヴァスから拒絶されて以来。

 

 前々から付き合いのあった旧教会派が主導する事で奴隷達の治安と福祉、その現状は維持されている。

 

 それは結局の所、七教会が万能とは程遠い事を露呈しており、正統なる教会の指導者である【総主教】の威光が未だ大陸において有効である事を示していた。

 

 だらこそ、彼らには迷いというものが無い。

 

 須らく必要な事だと彼らを導く存在が言うならば。

 

 何事だろうとしてみせるのが、彼ら旧教会派だ。

 

『……了解しました。通達の後に進路を貴族居住地へ。魔力流動率44.32%へ上昇。船体表面空壁の物理量(エネルギー)侵食率が五割を超えた時点で集積魔力を開放するよう再設定。船体維持の為、32ノットに減速。これより隠密軌道に入ります』

 

『各セクション異常ありません。研究開発部門からのコールです。“排除対象”との戦闘を想定した試作四号の試運転を求めていますが、如何なさいますか?』

 

『……はい。では、試作四号の投下位置を東部貴族居住地へ。回収班は“霧”の晴れる一時間前に投入を……』

 

 飛行船が尋常ではない速さを多少緩め、ハガスの東部へ航路を取った。

 

 旧き教会の白銀の船は深く静かに雲の間へ消えていく。

 

 元老院への勧告は速やかに行われ。

 

 関係機関に対する注意が行われた結果。

 

 同僚からの通報を貰った貴族警邏隊の出動は見合わせとなり、もう“既に起きている事件”はまた白日に照らされる事なく没した。

 

 上司の制止を振り切り。

 

 応援を呼んだ相棒の下へ向かった男が謹慎処分を喰らったのは翌日の事。

 

 更に相棒が突如免許停止の憂き目に合うのはその一日後。

 

 誰も彼もを巻き込んでいる事件は衆目に晒される事なく。

 

 一般の誰にも気付かれる事もなく。

 

 淡々と過ぎていく。

 

 まるで心までも“霧”に覆われ始めたような不安と沈黙に支配されながら、都市の人々は朝へ向かっていた。

 

 *

 

 ポツポツと霧に雨が混じり始めた頃合。

 

 深夜も半ばを過ぎた貴族達の住処に少年は帰ってきていた。

 

 小さな館。

 

 その鉄門を潜る頭には未だ黒猫がベッタリと引っ付いている。

 

 途中で引き剥がそうとしたものの、嫌がる猫に爪を立てられては堪ったものではなく。

 

 仕方なくの午前様(ごぜんさま)である。

 

 相棒が猫な時点で色々と間違っているが、少年の心情的には酒を呑んできたよりも性質が悪い。

 

「ただいまぁ~……」

 

 そぉっと玄関を潜り抜けて内部に入るとフッと通路の明かりが付いた。

 

 蝋燭ではない。

 

 魔力の光が燭架の皿に直接灯ったのだ。

 

 単純な魔術の応用だが、その好意が少年にはありがたかった。

 

 そろそろと上がり込んで食堂を見れば、小さな明かりが付く燭台の下に布巾が掛けられたバスケットと折られた紙が被さった皿が一つ。

 

 中を見れば、牛肉の煮込みと柔らかそうな麺麭が数切れ入っていた。

 

「……ありがとうございます」

 

 用意しておいてくれた館の主である女性へポツリと漏らして。

 

 疲れに支配された身体で少年が椅子に腰掛ける。

 

 食事は静かに始まって数分で終わった。

 

 予想外に傷の回復へ体力を使っていた身体は夕飯をすっかり消化し切っていたらしく。

 

 麺麭も煮込みも残される事なく少年の胃袋へ消えた。

 

 台所に皿とバスケットを返して。

 

 螺旋階段を上がった先。

 

 屋根裏部屋の寝床にようやく辿り着いた少年は服を脱ぎ散らかした。

 

 最低限の下穿き一枚の姿。

 

 上半身のあちこちが赤黒く腫れている。

 

 心臓より下。

 

 横隔膜辺りの傷には出血していた痕跡。

 

 常人ならば、痛みに耐えかねて喚かずにはいられないだろう。

 

 寝台横にある薬箱から塗り薬と包帯を取った少年は手早く薬を塗り広げて上半身を白く巻いていく。

 

 そうして。

 

 ようやく寝台に身体を横たえたところで黒猫がシタッと頭から降りた。

 

「今日はありがとう。でも、自分のところに帰った方がいい…よ……明日は学校だし、さすがに連れて行けないと思うから……それと猫って……ナ~ウとかミーとかニャーって鳴くもんじゃなかったっけ……」

 

 すぐに午睡み始めた少年に黒猫が「マヲ~~」と鳴いた。

 

「あはは……まるで……魔王って言ってる……みたい………おやすみ………」

 

「………」

 

 ジッと少年を見ていた黒猫は指先をスンスンと嗅いだ後。

 

 スゥッと部屋の闇に同化していった。

 

 蠢く霧の中。

 

 今日も何かと何かがぶつかりあう。

 

 人知れず。

 

 誰の目にも止まらぬよう。

 

 世を越えた場所で。

 

 大陸西部。

 

 混沌の坩堝にて事件は加速する。

 

 まだ、何も見えずとも、それは確かに胎動していた。

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