※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章二節

第三章二節「ライオン☆ガール」

 

 幾つかあるクラス用講堂の一つ。

 

 鳥や獣や海洋類の頭が屯(たむろ)する一室で見た目人間にしか見えない少年が一人。

 

 明らかに浮いた感のある窓際でポツリと座って講義を受けていた。

 

 巨大な黒板を背景に講壇へ立っているのは鳥人(オルニス)の女だ。

 

 亜人として人より獣側に傾いた腕は一対の翼となっている。

 

 それでも器用に足の鍵爪で細長い白墨(チョーク)を操る様は堂に入っていた。

 

 未だ教育分野でも貴族階級が根強いアルヴァスにおいて、女性教師というのはそれだけで女生徒達の憧れの一つである。

 

 殆ど男の仕事である教職という職に付いているだけで鳥人の女が如何に有能か分かろうというものだ。

 

 ゆったりとした教師用の制服姿で彼女がやんわりとした丸文字を黒板に書き込めていく。

 

「え~つまりですね。現在の工業特区や国内に点在する【崩燼機械工学(ソルヴァス・クラフト)】関連の重点開発区域における重工業政策は最終的に七教会が進める【近代化(レボリュション)】の文化発展速度に追いつく役割をしているわけです。建築様式の洗練や工業製品の大増産計画は国の最重要課題であり、今現在も様々な改善を加えながら進められており、今後はこの勢いが更に一段と加速する事でしょう」

 

 貴族出の生徒達は生真面目にノートを取るものばかりだ。

 

 そんな中、窓際でボケッと外を見ている少年にキラリと彼女の眼鏡が光った。

 

「其処。其処の貴方。えぇっと、出席番号032番。イクス・ゼオ君ね」

 

「あ、はい」

 

 さすがに外を見ていた事は否めないので少年が立ち上がる。

 

「では、一つ質問です。【近代化】の成果は数多いですが、その成果の中でも我が国で目覚しい躍進を遂げる私のような上級職に就く女性の事を何と言うか答えなさい」

 

「……えっと、職業婦人?」

 

「そうね。それも一つの呼び名だわ。でも、他にも名前があるでしょう?」

 

「確か、“出しゃばりな婦人”とか“キャリア・ウーマン”とか…だったかな…」

 

「はい。結構」

 

 少年を座らせた後。

 

 彼女がカツカツと黒板に大陸共通言語で半ば侮蔑語を書き連ねた。

 

「非常に残念な事ですが、我が国でもやはり上級職には男性を押す声が非常に大きいのが事実です。人間社会においても三十年程前まではそのような風潮が強く残っていたようですが、今では貴族制が残る地域でも、そのような意見は少数派だとか」

 

 黒板に新しい一文が連ねられていく。

 

「七教会は我が国とは半ば断絶にも近い状況ではありますが、女性として七聖女のお一人をワタクシは非常に慕っております。その方の名はハティア・ウェスティアリア。魔術師を志す者なら知っていますね。あの大魔導師にして世界にも数少ない【稀呪(ヴィクス・マギア)】。元々が法術師の家系という方です。ワタクシは若い頃にあの方の講演を一度聞いた事があります。あの方は亜人や異種との対話と女性の権利に対し、非常に造詣が深い方でした。現在、七教会に敵対する勢力は数多いですが、女性であの方が嫌いという者はどんな種族にも極少数でしょう」

 

 その言葉に女生徒達の大半が頷ける様子で大きく同意のざわめきを漏らす。

 

 男子生徒達の方はと言えば、綺麗ではあるとか、あの顔に大きい耳や尻尾が付いてないのはおかしいとか、そんな話題で盛り上がっていた。

 

 無論、その中には極少数。

 

 顔を顰める者達もいる。

 

 王侯貴族、皇族の廃滅を加速させる七教会思想の一つがハティア・ウェスティアリアの提唱する“男女平等”である。

 

 これに良い顔をしない貴族主義者は亜人国家にもそれなりの定数いて、そういう意見を持つ家の子息達だった。

 

 そこで校舎群の中でも一際高い鐘楼を持つ校舎。

 

 教師陣が席を置く職員舎から鐘が鳴り響いた。

 

「今日は此処まで。では、明日にも授業内容を一枚のレポートで提出して頂きます。書式は事前通達の通りで。お疲れ様でした」

 

 カツカツと鍵爪で床を鳴らして去っていく女の凛々しい姿。

 

 女生徒達はそんな光景に目を輝かせていた。

 

 今時の貴族の子女にとって最も刺激的な話の一つが聞けたのだから、致し方ないだろう。

 

 温情なのかどうか。

 

 当てられながらも注意されなかった少年はホッとした様子で席を立つ。

 

 昼休みに入ったら、大概貴族の子弟子女達は自家のシェフが作った昼食か学食を利用する。

 

 自分で用意する事の無い生徒は学食が基本だ。

 

 と言っても並んでいるメニューの殆どは手間の掛かるものばかり。

 

 如何に子供とはいえ、貴族に食わせるもので手抜きは許されない。

 

 山海の珍味や昼に食うとは思えない名前の料理だけが並ぶのも道理だろう。

 

 無論、多額の寄付が集る場所で料金制等という無粋な制度はない。

 

 全て無料だ。

 

(……今日も包んでもらおう……)

 

 食事を外のテラスやサロンでする場合は包むくらいの事はしてくれる。

 

 食堂と言っても一流のスタッフが運営するレストランに近い。

 

 声を掛ければ、指定の場所に出前も請け負っているくらいなのだ。

 

 前日包んでもらった燻製魚のサンドイッチでいいかと。

 

 少年はさっそく講堂の外へと足を向けた。

 

『あぁ? お前、七教会の手先かよ』

 

 殆どの生徒が付き人や従者を伴っていなくなった講堂の出入り口。

 

 其処で数人の子弟が一人の男子生徒を取り囲んでいた。

 

『い、いや、だから、だね。確かに君達の言う事も分かるんだが、これからの時代に教会を排除する事は殆ど不可能に近いと思うんだ。だから、反教会派とかの運動が過激化する前に抜けた方――が?!」

 

 眼鏡姿で何処か頼りない感じの少年だった。

 

 その耳には兎の耳が生えているが、何分顔が人間寄りなせいで“九十対十(ナインティ・テン)”である事は疑いようもない。

 

 子弟達の中で最もガタイの良い獣人(ベスティア)が片腕で胸倉を吊り上げた。

 

「そういやぁ、お前んとこは金無しで人間奴隷一人雇えやしねぇんだったか。けっ、家柄ばかり良くてもお頭の方は残念だなぁオイ」

 

「く――ぼ、僕の事はいいが、い、家の事は関係ないだろ、がふ?!」

 

「んぅ~~聴こえねぇなぁ?」

 

「そ、それに成金貴族が愛国心を語るなら、少しはマナーと礼儀作法を学ぶべッ、がッッッ?!」

 

 腹部に一発。

 

 長い鼻面をヒク付かせながらハイエナにも似た獣人がニヤリとした。

 

「ちッ、旧い家柄だか何だか知らねぇがよぉ。本当の貴族ってのはこれからオレ達みたいな国に貢献してる【崩燼貴族(ソルヴァス・ノーブル)】の事を言うようになるんだぜ?」

 

「じ、自分で白状してるよ。今は僕達みたいな旧い貴――んぐ?!!」

 

 ギリリと胸元が締め上げられた。

 

「ぶん殴る以外にも遣り方ってのがあるんだぜ? 口には気を付けた方がいいなぁ」

 

 今にも窒息しそうに顔から血の気を引かせていく【兎賢(レポレム)】の少年の意識が落ちようとして。

 

「そろそろ止めた方がいいですよ」

 

「あん?」

 

 子弟達の顔が一斉に後ろを向く。

 

 イクス・ゼオと教師に呼ばれた少年はチョイチョイと扉の先を指差した。

 

 そちらに視線を向けた子弟達が人間奴隷の小間使いや従者達が数人見ているのに気付く。

 

「クソ。良いところで……おい。テメェもこの“九十対十”の仲間か?」

 

「さぁ?」

 

「ふざけやがって……此処は引いてやる。だが、次に目障りな事をしやがったらただじゃ済まねぇぜ」

 

 獣人の子弟が胸元を離すとゾロゾロ全員が講堂から出て行った。

 

 その横にすぐさま外で待機していたらしき人間や亜人の従者、小間使いの奴隷達が合流し、追従していく。

 

 そんな背中を見送って。

 

 少年はゼェゼェと息を切らした兎の耳持つ少年へ手を差し出した。

 

「あ、ありが、とう。こほ……いや、お恥しいところを見せたね。ええと、君は?」

 

「イクス・ゼオって呼ばれてます」

 

「ゼオ? まさか、アルゥ・ゼオ様の親族かな?」

 

「えっと、一応そういう事になってる、かな……」

 

「そうか。君はゼオ家の人なのか。いや、人、というのも侮辱かな」

 

「別に構いませんよ。慣用句ですし」

 

「いや、君がいなかったら正直パンツを取り替えなきゃならなかったかもしれない。そういう意味では君は僕の恩人なわけだから、礼節は大事だ」

 

 グッと手を取って立ち上がった少年が眼鏡を直して服の埃を払った。

 

 ハンカチで手を拭いた後、イクスに手を差し出す。

 

「【兎賢(レポレム)】アンサルの家の長男サイカだ」

 

 野兎のような茶色い耳が前にペコリと折れる。

 

「ゼオ家に世話になってるイクス・ゼオです」

 

 握手が交わされるものの、サイカと己を呼んだ少年がニコリとする。

 

「敬語は不要だよ。イクス君。恩人に敬語を使わせるような堅苦しいのは嫌いなんだ」

 

「あ、えっと、じゃあ……サイカ君?」

 

「あはは、君付けって柄でもないからサイカでいいさ。とりあえず今日の昼は奢らせて欲しい」

 

 気さくに話掛けて来るサイカに少年が戸惑った様子で笑った。

 

「あ、イタ!」

 

 遠方の廊下からトテトテ駆けて来る姿に気付いて。

 

 少年が苦笑いになった。

 

「ごめん。今日は無理かも」

 

「ん、あれはシルルゥ様かい?」

 

 黒髪の幼さが残る少女。

 

 顔立ちも整ってこそいるが、凡庸の域を出ない“九十対十”。

 

 最下級生の間で初日から瞬く間に噂の人となった“人間少女”あるいは“一角獣少女”シルルゥ・ゼオだった。

 

「うん。ちょっと面倒見て欲しいって頼まれてて」

 

「そうか。なら、仕方ないな。でも、今度機会があったら、奢らせてくれよ?」

 

「うん」

 

「じゃ、僕はこれで」

 

 頭を下げて去っていくサイカの背中を見るイクスの袖が引っ張られた。

 

「ダレなの?」

 

「知り合い」

 

 答える少年を見上げてシルルゥが僅か沈黙し、ヒョイと講堂入り口横の掲示板を指した。

 

 其処には学食で最高級の牛肉が仕入れられた旨が書かれている。

 

「行こう。オナカ空いた」

 

「昼からステーキ類はちょっと」

 

「ダメなの?」

 

 微妙に瞳がウルルッと涙を湛えている、ような気がしないでもない。

 

 表情の薄いお嬢様に少年は溜息を少し。

 

「いいよ。でも、野菜も取らないと」

 

「ハハサマみたいな事、言わないで……」

 

 ちょっとご機嫌を損ねたらしく。

 

 手の甲が少し抓られた。

 

「行こうか。あんまりこうしてると昼休み過ぎちゃいそうだし」

 

「ウン」

 

 喜んだらしく。

 

 片手を繋いで、少女はズンズン少年を引っ張っていく。

 

 昼の食堂で牛一頭分程の牛肉が消費されたのは昼休みが終わる直前の事。

 

 肉食亜人少女シルルゥ・ゼオはまた一躍噂の人となった。

 

 *

 

 放課後と言えば、学生にとって胸躍る部活動か放課後ライフの礎たる道草の時間である。

 

 昼間にシルルゥに付き合った少年はぶっちゃけ午後の講義の半分も聞いていなかった。

 

 腹の中に微笑ましい笑顔で差し出された「あ~ん」が残っていたからだ。

 

 後一ヶ月は肉要らずで過ごしたい脂ぎった気分。

 

 大量の胃酸は前日の夜の傷より余程身体に悪く。

 

 胃を激烈にムカムカさせていた。

 

 講堂の違うシルルゥと放課後の約束はしていない。

 

 まだ部活動を選ぶまで幾分か日にちもある。

 

 となれば、大体は見学に行くのが正しい学生のあるべき姿だ。

 

 しかし、少年は特定の部活動をするような情熱を持ち合わせていない。

 

 と言うか。

 

 そもそも夜遅くまで寝床に帰らない事の方が多い。

 

 故に場違いな気がした放課後の校舎を後にしようと玄関へ赴いていた。

 

 所謂、帰宅部(フリョウ)というやつである。

 

「今日は……」

 

 何処かで暇を潰した後。

 

 また、“霧”を探索する事は決まっていたが、それまで時間がある。

 

(市場でまったり待ってよ―――)

 

「あぁああああああああああああああ!!!!?」

 

 ギギギッと油を挿されていない機械の如き回り具合で少年が首を横に向ける。

 

 そこには鬣っぽい髪型の金色の獣。

 

 いや、少女がいた。

 

 縦に割れた水晶の如き瞳。

 

 少年を睨み付けた凄まじい形相が喜びに歪んだ。

 

 どう見ても獰猛に微笑む肉食獣の図である。

 

「み、見つけたわよぉ!!!?」

 

 その目は微妙に血走っていた。

 

 何だか余裕の無さそうな顔は笑っているし、歪んでいるし、引き攣ってもいる。

 

 何があったのか察したものの。

 

 そのまま離脱した方が互いの為だと感じて。

 

 少年はスタコラッサッサと内履きのまま玄関を突っ切った。

 

「ま、待ちなさいよぉおおおおおお!!!?」

 

 奏美紗(かなで・みしゃ)は猛獣も真っ青になって逃げ出すような極悪極まる顔で獲物たる少年を裸足で追った。

 

 亜人の学習施設では氏族毎の特徴に応じて制服や靴に改造が許される。

 

 獣人の中でも珍しい種である彼女の基本改造部位は脚。

 

 つまり、靴を履かないというところにある。

 

 フサフサした獣らしい両足は凶悪な爪と肉球を備えていた。

 

 其処がどんな荒地だろうと走破する敏捷な健脚。

 

 それはそれだけで一種の天性の素質だろう。

 

 ダダダッと駆けたわりには足音もさせず。

 

 美紗は少年を追って走り去っていった。

 

 二年の中でも有名な方である彼女の豹変振りに周囲の帰り支度や部活の勧誘で忙しい学生達がザワ付く。

 

『な、なぁ、今の、何だったんだ?』

 

『さ、さぁ? ア、アレの日……だったのかなぁ?』

 

 男子達はどよめき、追われていった男子生徒が無事である事を願った。

 

 一重に同じ雄として。

 

『ね、ねぇ。あれってさ。まさか……』

 

『……発情期、かしらね?』

 

『やっぱり? そう言えばウチの担任が愚痴ってたよ。無遅刻無欠席だった美紗さんがどうして、あんな“言い訳もせず”に無断遅刻したのかしらって。年頃だからかもしれないわね、とか何とか』

 

『『『『……』』』』

 

 少年少女の生暖かい誤解の視線も知らず。

 

 刑事(デカ)気質な少女は鼠を追う猫の如く。

 

 脇目も振らずに前だけを見て少年を追う。

 

 それから十五分後。

 少年は結局学校の敷地からの逃走に失敗していた。

 

 それと言うのも全て追って来る少女の能力が高過ぎるせいだ。

 

 基本的に足が速い上に当たったら頭部くらい貫通しそうな投石で的確に進路を妨害してくるのだ。

 

 始末に負えない。

 

 鼻も良いらしく。

 

 視覚から消えてもすぐに居場所が特定されてしまう。

 

 何とか逃げ遂せようという幾つかの算段はすぐ見破られる事となった。

 

 “かくれんぼ”しながら校舎群の複雑な配置を使ってどうにかこうにか距離を置いたのはいいが、特殊学習棟の一角に逃げ込んでからというもの、周囲をくまなく見張って少年を探す美紗のせいで出るに出られなくなるという失態である。

 

 ギョロギョロ。

 

 そんな擬音が似合う血走った視線で徘徊する獅子少女(ライオン・ガール)。

 

 嫌な者に目を付けられてしまったと少年が理科準備室の裏手で嘆息する。

 

「どうしよう……」

 

 聞き付けられないようにポソリと零した時だった。

 

 カツン、カツン。

 

 木製の床を鳴らして歩いてくる誰かの足音。

 

 思わず緊張した少年が固まる。

 

 隣の理科室にガラガラと扉を開けて入ってきた足音の主が何かを探しているのかガサゴソと物音を立てた。

 

 それだけでも十分に拙い。

 

 音を聞き付けて校舎の外を見張る少女が入ってきたら、確実にバレる。

 

 止めようか。

 

 逃げ出そうか。

 

 迷っている内に理科準備室の扉が開いた。

 

「あ……」

 

 閉めるのをすっかり忘れていた事を今更後悔しても遅い。

 

「えっと、ノートノートっと、あ、ありま―――した?」

 

 理科準備室の片隅で身を縮こまらせている少年を見つけた瞳がパチクリとして。

 

「あ、あぁああ―――むぐぐ?!!」

 

 ササッと片手で口元が押さえられた。

 

 人差し指を立てて口元に持っていき「シー」と少年がジェスチャーする。

 

「ど、どうして、こんな場所にいるんですか!? イクスさん!!」

 

 理科準備室に入ってきたのはエストリアだった。

 

「こ、声のトーンを下げてくれると嬉しいんだけど」

 

「うぅ、き、昨日は大変だったんですよ!? いえ、と言うか!! 気付いたら今日でした!! 何で無敵番長と一緒に朝の市場で朝チュンしなきゃならないんですか!!? まるで意味が分かりません!! 昨日の事を聞いても、あのマッチョは『それはあいつに聞け』の一点張りだし!! 急いで帰ったら兄さんに『今月の小遣いは棒引きしておいた』宣言されるし!! イクスさんがちゃんと説明してください!! き、昨日一体何があったんですか!!?」

 

『見つけたぁあああああああああ!!!?』

 

 バチン。

 

 カーテンの引かれた窓ガラスの端。

 

 ギョロリと眼球が見えている。

 

 すぐさまに消えた気配が玄関口に遠ざかっていくのを確認して、これからどうするべきか少年は悩んだ。

 

「イ、イクスさん!? い、いい、今のは何なんですか!? 物凄く怒ってるっぽかったですよ!! あの覗いてた人!!?」

 

「あ、ぅん。ちょっと……」

 

「ちょ、ちょっと? ぜ、絶対アレちょっとじゃ済まない気が……」

 

 もはや何処に行っても襲ってくる怨霊ばりな扱いである。

 

 二人が話して数秒も経たない内に廊下を走ってくる足音。

 

 このまま逃げれば色々とまた面倒事になる。

 

 それでも“保険”が働いている内は大丈夫かと溜息一つ。

 

 少年は理科準備室に留まるようエストリアに言って理科室へ入った。

 

「み、見つけましたよ!!? この××××××!!? はッ!? またですか!!? もう!!? この×××野郎!!? いいですか!! これ以上私の××××を犯したら×××で××な××××の×××ああああああ?!!! とにかく!! この怪しげな術を解きなさい!!!」

 

 美紗の言葉が途中で不明瞭になった。

 

 何を言っているのかさっぱりな状況。

 

 字面にしてみると、もう卑猥な言語を連発しているようにしか見えない。

 

 聞いている分にも、実は淫靡極まる言語を駆使しているのでは?と疑うような会話である。

 

「とりあえず、落ち着いて座ってからにした方が……」

 

「あ、貴方を今から××してもいいのよ!!? うぅ!?」

 

 絶妙な場所が“×”で隠される少女が恨めしそうに少年を睨んだ。

 

「状況を整理してみたら、結構無罪のような気も……」

 

「ど、何処が無罪なのよ!!? 有罪も有罪!! しかも、あ、あの事件の首謀者容疑なのよ!! そ、そんな怪しさ満載な逃亡者なんて公務執行妨害で××されて当然!!」

 

 そう言いつつも少年の逃げようという意思を感じず。

 

 大人しく席に座って論破しようとした美紗は育ちが良過ぎた。

 

「じゃあ、まず霧の中で逃亡した件に付いて」

 

「貴方は明らかに何かをしてた!! あんな夜更けに霧の中で何をしてたの!!」

 

「……友達の見送りを」

 

「む……その友達があの近くに住んでるかどうか調べれば分かるわよ!」

 

「どうぞご自由に」

 

「ぅ、それが本当だとしても、やっぱり逃げた事に変わりないわ!!」

 

「そもそも、それがもう罪として成立しないと言うか……」

 

「ど、どういう事?」

 

「制止の声とか聞いてない気が……」

 

「―――け、気配が突然逃げ出したら追い掛けるわよ!! 普通、不審者だって思うじゃない!!」

 

「霧の中で何かが突然追い掛けてきそうにしたら、さすがに逃げるんじゃ……」

 

「くぅ!? あくまで驚いて逃げ出しただけだって言い張るのね!!?」

 

「え、まぁ、一応」

 

「そ、それが本当だとしても、妙な霧の中で学校に逃げ込んだわ!! これは明らかに不法侵入罪!!!」

 

「生徒が不審者から緊急避難的に学校へ退避したって考えてくれれば」

 

「ぐ、生徒特権を盾に使うなんて!! この卑怯者!! 例え、そうだとしても戦闘に発展した!! これはもうどう見ても公務執行妨害及び傷害罪!! あるいは危険致死傷罪だわ!!」

 

「一番最初に攻撃を回避してなかったら、即死してたような……それに攻撃とか加えてないような気が……」

 

「うぐ!? そ、そりゃ誰だって、逃げ切ろうとする犯罪者に対しては力が入るってものでしょう!!?」

 

「正当防衛だと思う……」

 

 少年が半笑いになった。

 

「くぅぅ!!? この後に及んで白を切るなんて!!? 亜人の風上にも置けない奴だわ!! それにあの××な場所の事は絶対言い訳出来ないわよ!! ウチの現地調査班が調べたら一発なんだから!!」

 

「えっと、記憶にゴザイマセン」

 

「政治家か!!!?」

 

 ドゴンッと大きな机が引っくり返るような音がした。

 

「私はあそこで××な××と××を繰り広げたわ!! それも貴方は××の事を知ってたのよ!! そして、私に頼んで××と××××わよね!? それを知らぬ存ぜぬで通せると思ってるの!? あの巨大な××はどう見ても××なヤバイ××だったじゃない!! ××は覚えてる!! すぐにでも調べて××してやるわ!!」

 

 ゼェゼェと息を切らしながら美紗は主張したものの。

 

 少年が小さな瑪瑙色(めのういろ)の輪を取り出した。

 

 キュルキュルキュルッと何やら圧縮した音が漏れると声が響き始める。

 

『あ、貴方を今から××してもいいのよ!!?』

 

「な!?」

 

 カチリと輪が押されたと同時に今度は別の音声が流れる。

 

『この×××野郎!!? いいですか!! これ以上私の××××を犯したら×××で××な××××の×××ああああああ?!!!』

 

「そ、そそそ、そんな音声を取ったって!!?」

 

『私はあそこで××な××と××を繰り広げたわ!!』

 

「う、そ、それを渡しなさい!!?」

 

『そして、私に頼んで××と××××わよね!? それを知らぬ存ぜぬで通せると思ってるの!? あの巨大な××はどう見ても××なヤバイ××だったじゃない!!』

 

「はぅ!?」

 

 思わず動こうとした少女が再び魔術具の録音機材から流れる音声に戦慄いた。

 

『××は覚えてる!! すぐにでも調べて××してやるわ!!』

 

「くはっ?!」

 

 今まで自分が発してきた言葉の危険性に顔を青褪めさせながら大ダメージを負った美紗がワナワナ震える。

 

『それにあの××な場所の事は絶対言い訳出来ないわよ!!』

 

「そ、そんなのにしょ、証拠能力なんて無いんだから!!」

 

『う、そ、それを渡しなさい!!?』

 

 明らかに××の部分がぼやけた会話は圧倒的不利。

 

 更に傍から見たら、少女の方が迫っているようにも聴こえる。

 

『そ、そんなのにしょ、証拠能力なんて無いんだから!!』

 

「ッ~~~~~!!!!?」

 

 もう美紗は涙目だった。

 

 自分がかなり偏っている存在で少年に対して交際を迫り、卑猥な事を強要しようとしているとしか、その録音は聞こえない。

 

 更に録音された事に動揺して渡せとか、証拠にならないとか、そういう言い訳をしているところまでバッチリ取られたのだ。

 

 此処で無理やり腕輪を奪おうとしても、腕輪を持って近くの警察機構に逃げられたら、アウトなのは明らかに美紗の方だ。

 

「ひ、卑怯者ぉ……ッ」

 

 唇を噛み締めた美紗にようやく安泰かと少年が安堵の息を吐いた時だった。

 

「ちょぉおおおっと待ったぁあああああああ!!!」

 

 駆け込んできたのは隣の理科準備室で聞き耳を立てていたエストリアだ。

 

「き、きき、聞いてれば何て破廉恥な事を!!? イ、イ、イクスさん!!? あまり聞こえませんでしたけど、あ、あんな破廉恥な事を言う人に言い寄られてたんですね!!? うぅ、まさかイクスさんがそんな事情を抱えていたなんて知りませんでした!! 知ってしまった以上黙ってはいられません!! このエストリアの目が黒い内はイクスさんに貴方のような破廉恥極まりない人の指は一本たりとも触れさせません!!」

 

 ザッとイクスを庇うようにしてエストリアが通せんぼした。

 

「ふぁ!? ち、ちち、違うんです!!? ほ、本官はあくまでこの極悪極まる×××野郎を××しようとしただけなんです!!? そ、それだけなんです!!? 本官は決して怪しいものじゃなくて、ほらちゃんと警官のバッジも有ります!!」

 

 不意の証人に誤解されまくった事で同様した美紗が泡を食ってブレザーの襟裏に吊るした名前入りのバッジを見せる。

 

 違う違うと身振り手振りで語り掛けるも、良識的な一般人であるところのエストリアはキリッと美紗に言い放った。

 

「不潔!! 不潔です!! お茶を濁した喋り方をしてもイクスさんは渡しません!! 貴女みたいな人が警官だなんて信じられない?!! もし、これ以上近付くなら【貴族連名(パリス・フォエドゥス)】の方からあ、貴方が所属している部署の方へ抗議が行くと思いますから、そのつもりで!! 権力を振り翳して好意を買おうなんて恥じを知って下さい!! イクスさんの身柄は【空飛ぶ麺類教団】が預かります!!」

 

「そ、空飛ぶ麺類教団!? ま、まさか、貴方は―――」

 

 目を見開いた美紗にバーンとエストリアが見せたのもブレザーの内側にあるバッジだった。

 

【貴族連名登録者(パリス・ホルダー)】

 

 そう大陸共通言語で書かれていた。

 

「エストリアって……実は結構凄い?」

 

 よく分からないという顔で少年が首を傾げる。

 

「ウチの教団は反七教会組織に登録されてるアルヴァスの正式な準国教の一つです。教団員は殆どいませんけど、母さんのおかげで特権と権力だけは持ってるんです」

 

「何だか分からないけど、その……ありがとう。エストリア」

 

「え? い、いぇ。イクスさんはその……友達、ですから……」

 

 オズオズと顔を伏せたエストリアが顔を赤くした。

 

「まさか【崩燼機関(アルヴァス・エンジン)】の生みの親であるリヒス・エス・トリア博士の……」

 

 美紗があまりの事に呆然としている間にもエストリアが少年の手を引いて、その場を後にする。

 

「あ、言っておきますけど、イクスさんに近付いたら、偉い人に貴方がどういう方か。説明させてもらいますから、悪しからず。行きましょう。イクスさん」

 

「え、あ、うん。えっと、それじゃあ、また」

 

「イクスさん。あんな恥しい人にそんな事言わなくてもいいんですよ」

 

 愕然とした美紗は固まった。

 

 少年少女が校舎から出て行く。

 

 残された彼女はまさかまさかの展開に茫然自失。

 

 しかし、明らかに事件との関連が疑われる少年への捜査意欲は衰えず。

 

 やがて、ポツリと呟くに到った。

 

「必ず、尻尾を捕まえてやるわ……覚えてなさいよ……」

 

 困難な試練にも果敢に挑んでいく。

 

 正に獅子の如き精神で少女は誓った。

 

 事件の解決と重要参考人の確保を。

 

 その誓いがあっさり最初の関門で躓(つまづ)くのは次の日。

 

 何とか今の状況を相棒である男に説明しようと出署した時である。

 

『美紗君。君には無期限休暇を言い渡す。まぁ、少し頭を冷やしてくるんだね』

 

 しっかり名指しで提出されていた瑪瑙の腕輪を署長の手元に見て。

 

 彼女は自分が捜査権を失ったと知った。

 

 *

 

 放課後、思わぬ展開で窮地を脱した少年はエストリアの実家に御呼ばれする事となっていた。

 

 東部の貴族居住地。

 

 その奥まった場所にある一件のこじんまりとした豪邸。

 

 家の広さはそれなりだが、庭が微妙に狭い蒼い屋根の平屋である。

 

「ただいま帰りました~」

 

 そう帰宅を告げるも、貴族にはお定まりの使用人や奴隷が出て来る気配はない。

 

「上がってください。何も無いところで恐縮ですけど」

 

 確かに貴族にしては慎ましいというか。

 

 殆ど飾りらしい飾もない質実剛健な家屋だった。

 

 内部はアンティークらしく。

 

 滲む飴色の廊下や白い壁を晒しているが、置物の一つもない。

 

 ただ、間取りだけはやけに広く取ってあるらしく。

 

 入ってすぐの場所によく日光の入る硝子張りのサロンが置かれていたり、応接間が合ったりと貴族らしい優雅な部屋が出迎えてくれる。

 

 赤い絨毯が敷かれた内部は何処が何処に通じているのかと迷う程にドアが多い。

 

 機能性重視の方向なのか。

 

 あまり豪華とは言えない空間は目新しく少年の目には映った。

 

「兄さ~~ん? 居ないんですか~」

 

 進むエストリアが片っ端からドアを開けては閉めて確認していく。

 

「もう……お客様が来ても出て来ないなんて。家長失格です」

 

 何処か不満そうに呟いたエストリアに話掛けようとした時、少年はギュルッと自分の身体に巻き付いた何かに天井に空いた穴へと吊り上げられていた。

 

 気付いた様子も無く不注意少女はズンズン進んでいく。

 

 何やら白い革製の布でグルグル巻きにされた少年は視線だけで虚空のエストリアの映像を注視する存在を見つける。

 

 一言にするなら、不健康そうに細い青年だった。

 

 妙に青白い事を覗けば、顔がシャープな印象である為、美形の一種に数えてもいいだろう。

 

 しかし、彼が着ている衣装で大体全てが台無しだ。

 今更に五百年は装いが遅れている魔術師ルックも珍しい。

 

 漆黒のローブを着込んで機能性の欠片もない簡素な麻の服を身に纏っていれば、誰でもそう思う。

 

 教科書の中にしか出てこないような、地方の片田舎にもいなさそうな下級魔術師の装い。

 

 今や高機能を売りにして大陸魔術師の大半が意匠を縫い込んだ普段着を持っている時代である。

 

 煌びやかに飾る事もあれば、材料に拘って魔術の触媒を仕込む事も普通だ。

 

 此処数十年で飛躍的に魔術師達の能力平均が上がったというのに何故古臭い姿なのか。

 

 今時、七教会が量産する魔導師や、滅び掛けている魔術結社の子弟でもそんな恰好はしない。

 

「君が、ハイダルの言っていた友達かい?」

 

「え、まぁ、一応友達のつもりですけど」

 

 暗い部屋にパチリと明かりが付く。

 

 天井の魔術具に照らされて少年は其処が魔術の研究室の類だと理解した。

 

 周辺にはフラスコ、ビーカー、魔術に使う秘薬や触媒、七教会製の実験機器が所狭しと並んでいる。

 

「そうか。済まないね。本当なら普通に出て行って挨拶しようかとも思ったんだが、妹の手前突っ込んだ話は出来ないだろう? それでこういう手段を取らせて貰った」

 

「それはいいんですけど……」

 

「いや、妹に関して少しだけ君に言っておきたい事があってね」

 

「言っておきたい事?」

 

「まずは名乗ろうか。僕はアーギスト。アーギスト・エス・トリアだ」

 

「イクス・ゼオです」

 

「知ってるよ。何せウチの妹がこの家に初めて呼んだ友達だからね」

 

「え……?」

 

「あの子はああ見えて結構苦労していて。あの学校に上がる前までは一人も友達がいなかったんだ。人間みたいな外見……ふむ……君はもう気付いていそうだから真っ正直に言おう。“人間”であったが故にね」

 

「……何となく」

 

「そうか。まぁ、君も大概にして普通には見えないが亜人にも見えない。そこら辺は惹かれ合うものがあるのかもしれないな」

 

 少年はアーギストと名乗った不健康そうな青年を不思議な心地で見つめた。

 

 相手に対してズケズケと物言う割には印象が柔らかいのだ。

 

 相手を不快にさせないのは才能のようなものかもしれない。

 

「それで本題は?」

 

「……まぁ、これ以上は談長になるし、時間もそう無い事だし、いいだろう。本題に入ろう」

 

 少年は少しだけ緊張する。

 

 青年の瞳の色が聊か不穏な色を帯びたからだ。

 

「妹を救ってくれて本当に心から感謝する。しかし、あの“霧”に関わる限りは妹と過度の付き合いは…ご遠慮願いたい」

 

「……」

 

「驚きは……しないか」

 

「ええ」

 

「僕の親友が教えてくれたよ。妹を巻き込まないよう“丁寧”に離脱させてくれた事をね」

 

「えっと、無敵番長の人、ですか?」

 

「ああ、ジルムス・デダル。僕の唯一の親友だ」

 

「あの人も何となく知ってるみたいでしたけど」

 

「それは、この都市の実力者なら大体は感じ取っているさ。ただ、感じられても見えも聞こえもしないのでは何かをしようもないだろう? 観測出来る連中は大体、国の上が抑えていてね。下っ端はそもそも観測能力の不足で大っぴらに騒ぐだけの確証もないのさ」

 

「見える人間に関われば、あちら側を覗けるようになるから……そういう事でいいですか?」

 

「話が早くて助かる。認識の共有は魔術師的には“相似”の状態。繋がりが深ければ、ああいう曖昧なのは脅威として実体化したも同然だ。つまり、そういう事だよ」

 

 簡潔な説明だった。

 

 危険な事に妹を関わらせたくない。

 

 故に近付くな。

 

 結論としては至極正しい話だ。

 

「分かりました。距離は置きます。ただ」

 

「ただ?」

 

「友達としてはこれからも関係は続けても?」

 

「勿論だ。関わらせない事を前提に関係を維持する分には何も言う事はないからね」

 

 革製の拘束が解かれ、少年が頷こうとした時。

 

 壮絶な足音が部屋に近付いて来るのを二人の耳が捉えた。

 

『兄~~~~さぁああああああああん!!!』

 

 ドガァアッ。

 

 部屋の扉が吹き飛び、蒸気を纏ったエストリアが飛び蹴りの姿勢のまま、兄の側頭部を足蹴にした。

 

 頭を蹴った反動で難なく着地する少女はともかく。

 

 アーギストはまるで襤褸屑のように部屋の機器や触媒の入った瓶その他諸々を巻き込んで、埃の溜まった部屋の片隅へと沈んだ。

 

「だ、大丈夫ですか!!? イクスさん!!」

 

「え、いや、それよりもお兄さんの方を心配した方がいいんじゃ……」

 

「いいんです! 変人がちょっと首とか曲がった変人になるだけですから!!」

 

「う、酷いじゃないか。マイシスター」

 

 呻くアーギストにもう興味もないらしく。

 

「変な事されてませんか!? 痛いところは無いですか!? あの変人に何か変な事を吹き込まれてませんか?」

 

 少年の身体をペタペタ触りながら、少女は本気で心配していた。

 

「別に……ちょっと話してただけだから」

 

「そ、そうですか。それならいいんですけど。兄さん……イクスさんは今大変なんですから、構わないで下さい。変な事して迷惑掛けたら蹴りますからね」

 

「もう蹴ってるじゃないか。妹よ……」

 

 引っくり返ったまま愚痴るアーギストがギロリと睨まれて口を閉ざした。

 

「あ、一応少しだけ紹介しておきますね。ウチの兄さん。アーギスト・エス・トリアです。あの無敵番長が言ってた通りの変人なので、あんまり近付かないようにしてください。ちなみに家がやってる【空飛ぶ麺類教団】の教祖も兼任してますけど、基本はただ飯食らいの根暗な魔術オタクなので、関わらないのが吉です」

 

「………」

 

 壮絶な家庭環境に多少茫然自失となった少年だったが、アーギストが起き上がっておもむろに手を差し出してくるに辺り、思わず握手していた。

 

「不出来な愚妹だが、仲良くしてやってくれ。イクス君」

 

「兄さん!?」

 

「ははは、こう見えて兄とのスキンシップを欠かさない出来た奴なんだよ。これが」

 

「何で貶しておいて持ち上げるんですか!? それとブラコン疑惑を混ぜないで下さい!!」

 

 ギャアギャアと喚くエストリアをいなしながら微笑むアーギストの視線は今まで話していた相手とは思えない程に明るく、少し不自然なくらいに朗らかだった。

 

 夕闇が暮れるまでお茶をして。

 

 少年が夕飯を固辞して帰るまで、その笑みは消える事が無かった。

 

 何度も引き止めようとするエストリアに「また、明日」と言って少年が霧の出る道に消えていった後。

 

 上機嫌で見送った少女の背中に声が掛かったのは必然。

 

「なぁ、ハイダル」

 

「何ですか? イクスさんの事なら何も教えませんよ」

 

「いや、ちょっと……彼は……イクス君は……“本当にイクスって名前なのか?”」

 

「何言ってるんですか?」

 

 兄が言わんとしている事が分からず。

 

 エストリアが首を傾げ、いつもの兄の戯言かと去っていった。

 

 青年は一人。

 

 まだ閉めていない玄関の先。

 

 濃くなってきた血の色にも似た霧を見つめ、口の中で囁く。

 

「そうか。イクス……“IX”……か……」

 

 その視線は遠く。

 

 消えていった背中の残滓を探すよう…しばし、夕景を見つめていた。

 

 *

 

 蒸気が夜すら満ちる都市。

 

 今や活力を生み出す心臓部にも等しい重工業特区。

 

 常に白い煙を吹き上げる煙突が伸びる一角。

 

 深夜にも関わらず未だ労働者で賑わう怪しい路地裏に少年は出向いていた。

 

 南部の赤線歓楽街まで出向く事が難しい低所得者層向けの店が工業特区では十数店舗営業している。

 

 無論、いかがわしい店ばかりだが、飲むには丁度いいと人気はそこそこだ。

 

 しかし、少年が入店したのは比較的空いている奥まった場所にあるバーだった。

 

 名前は【雷の精霊亭】と厳(いかめ)しい。

 

 近頃の技術の進歩の一つであるネオンの看板が目に優しくない原色の黄色を放っているが、その宣伝効果も怪しいものである。

 

 半開きのドアを潜れば、内部には所狭しと様々な品が棚に並べられている。

 

 煙管や花瓶といった日用品から、銃や剣といった物騒なものまで。

 

 あくまで“インテリア”だと客も店主も言い張っているが、実際には売り買いされる商品である。

 

 酒瓶の棚の横に大型の【崩燼機関】を積んだ回転刃(チェーン・ソー)がデカデカと飾られているのを見れば、酔っ払いの大半は揉め事も起こさない。

 

 カウンターの奥。

 

 何故か玄関口に無いレジ。

 

 そこにはニコニコと巨大な猫にしか見えない店員が座っている。

 

 店内の席には目もくれず。

 

 レジに向かった少年が買い取り希望を申し出ると猫の目尻がニンマリと招き猫のように下がった。

 

「店長~ご案内一名様~」

 

 馬面のバーテンダー。

 

 店長と呼ばれた亜人が頷くとレジの裏手へと少年が通される。

 

 狭い通路を抜けた先、ドアを二つ潜ると目を焼くような眩い【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】式の灯(ライト)。

 

 それが左右に陳列された品と一緒に室内をギラギラと照らしていた。

 

 室内の中央には黒いレジがある。

 

「は~い。本日はお買取ですね~では、お品物をどうぞ~」

 

 少年は黙って鞄に持ってきていた品を全てレジ前の天鵞絨(ビロード)が掛かった台座に置いた。

 

「おぉ~~」

 

 大きな猫にしか見えない亜人店員の目が輝く。

 

 台座の上に置かれたのは指輪は三つに銀の鎖が一つ。

 

 それから金の奥歯と小さな鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)だった。

 

「えぇと、鑑定させてもらいますねぇ~」

 

 少年が横のベンチに腰掛けると店員が繁々と懐から取り出した小眼鏡(ルーペ)で品を鑑定し始めた。

 

「ふむふむ。十八金。銀は…本物っと、差し歯は混ぜ物が多いんですけど、あぁ~そうですねぇ~この純度だと二十四金てところかな。簪は……ん? おぉ~~これ良い細工してます。これでしたらかなり高く買い取れますよ。お客様~」

 

 数分で鑑定を終えた猫がレジを打つとチーンと音がして金貨が数十枚程台座に詰まれた。

 

「これで良ければお取引は成立になります~」

 

 少年が頷くとササッと品をレジの横の台座へ店員が移動させた。

 

「本日はセールで色々取り揃えてありますから、もしお買い上げの際はお申し付け下さい~」

 

 買い取った品をレジ裏の扉から運び出していく店員を見送って。

 

 少年は左右に陳列された品を見回した。

 

 人の背丈の半分程の長さもある銃器や複数の弾丸の箱。

 

 通常の商店では出回らない禁制の魔術具や武具。

 

 小さな経典の山や何らかの魔術式が施された水晶。

 

 他にも鉄の筒にしか見えないものや針にしか見えないもの。

 

 古びれた木製の指輪や過激な女性用下着まであった。

 

 正に混沌としたラインナップだが、それが整然として並べられている様子は圧巻ですらある。

 

 少年は懐から小さな手帳を取り出した。

 

 パラパラと捲るとビッシリ様々な情報が載っている。

 

 昼間、図書室で集めてきた情報だ。

 

 過去、何回か来ていた為、覚えていた品の形状や色合いから合致する商品がどういうものなのか調べていたのである。

 

 【雷の精霊亭】のモットーは“黙って売買、返品不可”というものだ。

 

 一切、商品の説明はして貰えないが、代わりに買取品の詮索もしない。

 

 盗品だろうがヤバイ品だろうが、値段が付けば買う。

 

 そして、黙って売る。

 

 噂ではアルヴァスで力を持ち始めた反七教会派へ武器弾薬補給物資を売り付けているという。

 

 しかし、それ自体がアルヴァスの半公認、つまりは黙認の上に成り立っているらしい。

 

 教会側からしてみれば、いい迷惑だろう。

 

「……」

 

 しばし、眺めて。

 

 少年は一つのペンダントを手に取った。

 

 それは微妙に凶悪な形をしている。

 

 鎖を形成する輪に微細な針のような棘が剣山のように連なっているのだ。

 

 ペンダントの中央には何も嵌めこまれていない小さなロケットが一つ。

 

 いつの間にか少年の脇まで戻ってきていた店員がにんまりと微笑んだ。

 

「お買い上げですか?」

 

 頷いて。

 

 少年はその日換金した全ての金貨を支払う事となった。

 

「ありがとうございました~」

 

 カランとベルが鳴って。

 

 店の外に出た少年は懐のペンダントを意識しつつ、霧の中を進む。

 

 蒸気とは違う霧が出るようになって、歓楽街では人が減ったと言われているが、工場労働者全般が毎日のように働いて通っている場所ではそう影響も無いのか。

 

 道端ではネオンの明かりに照らされて酔っ払いだの、街娼だの、流しの吟遊詩人が人を集めている。

 

 通り抜ければ精々が数十m。

 

 霧が深くなった折、道往く人の顔は常に朧げで少年を咎める者はいない。

 

 歩き続けて通りを抜けようとした背中に声が掛かった。

 

 いや、鳴き声と言うべきか。

 

「マーヲ」

 

 振り返ろうとした頭にシタッと何かがヘバリ付いた。

 

「君は……」

 

 それが前日の猫だと気付いて。

 

 少年は何とも言えない困った顔となる。

 

「結構、神出鬼没だったりする?」

 

「マーヲ?」

 

 少年のこめかみ辺りに顎を乗せて。

 

 プラプラと尻尾を揺らしながら、黒猫は知らぬ存ぜぬと鳴く。

 

 溜息。

 

 普通ではないとしても、今は別に害らしい害も受けていない。

 

 それだけの理由で少年は仕方なく頭の上の重さを許容した。

 

 猫を頭に乗せて夜中の街を徘徊する変人。

 

 連続怪奇殺人魔呼ばわりされるより、少しだけマシかもしれない。

 

 そのまま霧の都市を歩いて中央区域の城塞まで一時間弱。

 

 常よりも霧が濃くなっている事を少年は肌身で感じていた。

 

 今日も“境界”がやって来る。

 

―――滲み出る白の出所。

 

 それは深い虚空。

 

 通常の世界に穿孔する形を取った何も無い世界。

 

 しかし、何処からが“孔(ソレ)”なのか明確ではない。

 

 一区画全てが収まるようなものが通常の空間に重なるようにして開く事もあれば、小さな人一人が通れるようなものがポツポツ空いている事もある。

 

 ただ、その領域に入ったかどうかは感じるしかなく。

 

 通常の探査用の魔導や魔術では曖昧な値しか得られない。

 

 故にその孔と世界が繋がる“境界”上で少年は待つ事にしている。

 

 湧き出す霧と共にやってくるソレは黒く。

 

 屍蝋の面に一文を宿す。

 

 彼らが何であるか。

 

 半ば分かってはいるものの、何故現われるのかまでは解っていない。

 

 知れた事があるとすれば、彼らは被害者であり、同時に加害者でもある事か。

 

 本日の“境界”は中央の行政が集る一角。

 

 鎮座する役所の前の噴水。

 

 無論、もう閉じている施設周辺に人影はない、はずだった。

 

「!」

 

 少年が驚いたのは人影が複数いたからだ。

 

 虚ろな視線で噴水の縁に座る者が数人。

 

 亜人も人間もいるが、その年齢も性別もバラバラだった。

 

 声を掛けようと歩き出した時。

 

 呻きが少年の足を止めた。

 

『ぅ…ぁ、あ゛……あA゛a゛あ゛……』

 

 ダガンッ。

 

 いきなり棒立ちになった全員がまるで天を仰ぐように両手を掲げた。

 

 刹那。

 

 緑色の輝きが周囲を照らし出す。

 

「?!」

 

 人体発火。

 

 赤でも青でも白でもなく。

 

 緑の炎を上げて煙一つ無く。

 

 人々を薪とした火が静かに気炎を上げていく。

 

 少年が駆け寄らなかったのは発火した彼らが助からなかったからではない。

 

 純粋に危険を感知したからだ。

 

 炎を上げた者の当然として、黒ずんでいった彼ら。

 

 その首がまるで焼かれているとは思えない滑らかさで少年を向いた。

 

 日常的に連日連夜相手をしていたモノとは違う。

 

 明らかに不可思議な緑炎を纏って。

 

 被害者達の顔面を口や鼻、目や耳から湧き出した屍蝋が覆っていく。

 

「これは……!!?」

 

 ツルリとした表面に同一の文言、金文字が焼き付けられていく。

 

 その意味は大陸標準言語にて。

 

【黒逝者(レウス)】

 

 背徳者や七罪を犯した大罪人が死んだ時、教会が認定する字(あざな)。

 

 もはや、消し炭に成り果てた動く死体。

 

 それが誰だったかに関わらず。

 

 夜が明けるより先に消し去らなければ、どんな恐ろしい事になるか解らない。

 

 そう判断して。

 

 少年が掌の魔術方陣から剣を呼び出そうとした瞬間。

 

「イクス……さん?」

 

「!?」

 

 後ろから掛かった声にその心臓が鳴った。

 

 振り向くより先に炎の人型達が少年と後ろの少女へ殺到した。

 

 ハイダル・エス・トリア。

 

 今はふんわりとしたベージュのワンピース姿の少女の腰を抱いて。

 

 少年は脱兎の如く逃げ出した。

 

 そうして二人の姿を捉えた男が一人。

 

 その筋骨隆々の肉体を駆使して疾走し始める。

 

 アーギストの親友。

 

 アルヴァス・カレッジの無敵番長。

 

 ジルムス・デダル。

 

 またもや親友に夜中頼み事をされた巨漢は二人を追って自身の家があるハガス西部へと向かっていった。

 

 夜の始まり。

 

 外灯がポツポツと消えていく道に黒猫が鳴く。

 

 戦いのゴングでも告げるように……。

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