第三章三節「緑炎の葬列Ⅰ」
いつも人は試されているのではないかと。
時折、ハイダル・エス・トリアは考える。
それは彼女が学校でいつも孤独だった事や兄が胡散臭い宗教団体を立ち上げている事に対してだけではない。
まるで試練のように現われてはぶつかってくる諸々の問題に対しても同じように感じる。
誰が、何の為に。
それは別に定かではないし、定かにするつもりもない。
問題を与えるのが神様だろうと悪魔だろうと現実だろうと問題は変わらないのだから。
彼女にとっては特にそうだ。
問題はあくまで目の前にいつも唐突にやってくるものだし、誰かに責任を押し付けても解決に向かった例(ためし)がない。
兄は優しいが問題を解決してくれる人ではなかったし、母はそもそも家に殆どいない。
ならば、問題を解決するのは彼女自身でしかなく頼れる人もない。
故に試されていると感じた時、ハイダル・エス・トリアは常に行動する。
兄の真意は知らずとも団体を変な方向へ向かわせない為にマスコットキャラの販売に精を出したり、孤独ならば孤独なりに人生を謳歌する術を見つけようと足掻いてもみる。
子猫を失って泣いていた女の子。
まだ亜人も人間も区別なく接してくれる少女の為に一晩中都市を徘徊だってしてみせた。
けれども、新たに彼女の上へ落ちた試練は、その形は、あんまりではないかと彼女は思ったのだ。
夜中に起き出して水を一口。
明日は晴れたらいいと弾む内心を抑えて。
少年との楽しい学園生活を想像して。
硝子の器に水滴が滴るくらいボウッとしていた。
出会って間もない人と何かを通わせる。
その程度の事なのに。
「……えへへ」
嬉しくて。
嬉しくて。
明日は食事に誘ってみようなんて、大胆な考えすら浮かんでしまって。
『ああ、今後は後ろからよろしく頼む』
台所の傍。
【電子噐械学(エレクトロニクス)】製の中型無線機。
母が使うからと無造作に置かれていたソレを通して、彼女の兄は通信先の相手に報告していた。
何をか。
無論、彼女の事を。
『あの少年とは話を付けた。承諾してくれたよ。ああ、今後、ハイダルとは深く付き合わないでくれると。分かってる……これは確かに余計なお世話というやつかもしれない』
そして、彼女の友達の事をだ。
『だが、父さんに約束したんだ。家族を守ってみせると。あの子には残念な思いをさせるかもしれないが、この都市の事態に巻き込むかもしれない可能性は出来る限り排除しておきたい』
受話器の先から何を言われたのか。
いつもとは違う兄の声は暗さを伴って。
『彼は……イクス・ゼオは……たぶん、僕らの知らないところで朽ち果てる』
「?!!」
心臓を鷲掴みにされて。
何かの悪い冗談だと、口元を押さえて、彼女は震える足で半分開いていた扉の先を覗いた。
『僕だって、確信は持てない。だが、この“霧”は危険だ。もし、掴まれば……』
掴まればどうだと言うのか。
そもそも何が危険なのか。
『ジルムス……気を付けろ。もしもの時は保険を作動させて構わない。一応、この屋敷に使っているものの小型版だ。一昼夜程度なら、“霧”の影響も遮断出来る』
カタン。
『?!』
彼女は足をテーブルの横にぶつけていた。
「!!」
走った。
後ろで兄の声が聞こえていたが、気になんてせず、自分の部屋に飛び込んで、すぐに身支度を整えた。
泣いてはいなかった、と彼女は思う。
だって、泣いた所で何も変わらないのは自明だったのだから。
昔から言うまでもなく試されてきた彼女は己を知っている。
もしも、理不尽を覆そうとするならば、その方法は只一つ。
『おい!! ハイダル!! 話を聞け!! 此処を開けて兄さんの話を聞いてくれ!!』
兄の焦った声なんて何年ぶりに聞いたか。
自分でも笑ってしまうくらい、彼女は己が何も知らずにいた事を知った。
「イクスさん……私が“此処に来て”初めて出来た友達だったんです」
扉越しに何かを躊躇する気配。
『……ああ、知ってる』
言い淀むくらいなら、何故そんな事をしたのか。
「嬉しかった……この国で私にも友達が出来た…亜人とか人間とか種族とか、そういうのは関係なく。私に自然に接してくれた人だったから……」
『ハイダル……僕はッ』
「兄さんが何を心配しているのか知りませんけど、私、そんな風に……友達を失ってまで守って欲しくなんかありません!!!」
『ハイダル!! 話を聞いてくれ!! この都市に出始めた“霧”は―――』
身支度を整えて。
開いた窓を蹴ったなら、もう霧の海は目の前。
敷地内部には入ってこない霧のヴェールを潜り抜けて。
彼女は走った。
靴を進める先は決まっていなくても……感情のままに……。
*
早くも二日目の昼夜逆転生活を送る事になったジルムスは学生服の上に白の外套を羽織って都市中央までやって来ていた。
通信の途中でしくじった親友の尻拭いである。
家出娘の行動範囲をアーギストがすぐに絞れたのは僥倖だっただろう。
友達もいないのだから、誰かの家に身を寄せるとは考え辛い。
故に行き先は知れず。
しかし、飛び出した年頃の娘が賑わいのある歓楽街を選んで歩くとも思えない。
なら、昼夜変わらず比較的静かな行政区画が道行として最も確率が高い。
心の中までは見えずとも誰より傍で見守っていた兄はそう判断した。
そして、確かにその勘は当たった。
ジルムスは中央の行政区画ですぐエストリアを捕捉したのだ。
幾つかの想定外を伴って。
「何だ―――」
ジルムスは見てしまった。
その光景を。
亜人も人間もなく。
噴水の前で肉体が燃え上がる。
緑の炎。
花火めいた色合いにゾッと背筋を振るわせるより先。
誰かが人型になっていく儀式(シーン)。
服も燃え散り黒ずんだ肌。
顔を覆い始める屍蝋の仮面。
刻まれた黄金の文字列。
そして、それを前にして微動だにせず目を細めた少年。
その後ろで悲鳴も上げられずに固まる目標(エストリア)。
これだけ揃えば如何な親友と言えども何をせずに見過ごしたとて文句は言うまい。
しかし、ジルムスの流儀はそんな思考とは裏腹にその光景から逃げようとする己を退けて。
その足を逃げ出した少年へ向けた。
一段と濃くなっていく霧を照らし続ける緑の松明達。
その後を追えば、少女を片手で担ぐ少年を見失う事は無かった。
(何処に行く気だ?!)
ジルムス・デダルは確かに一般人相手には無敵番長なんてダサい呼び名で通っているが、自分が言う程に強くない事は自覚していた。
家業で特殊な武術を修めていても、それは変わらず彼の中にある答えだ。
今の時代。
現実的にかち合う可能性のある最も強い戦力は七教会の兵器だ。
ジルムスが十人いても高格外套には及ばない。
それなのに超危険であると自身の勘が告げる化け物をどうこうしようなんて思考あるはずもなかった。
だが、それでも彼は追い掛ける。
明らかに武力でしか押し通れないと見える状況でも諦める事はその内にない。
(……おかしい。外灯が全部消えてる、だと? それにここらは警察機構の巡回ルートのはず)
早くも自分が“境界”を踏み越えている事に気付き始めたものの。
足は止まらなかった。
敵が狙う少年あるいは親友の妹。
どちらだろうとまずは合流しなければと追い上げる足が速まる。
「ちッ、この借りは高く付くぞ。アーギスト」
愚痴ったと同時だった。
燃える人型達が20m近く手前で止まった。
少年が追い付かれたか。
ならば、助けなければ。
そう肉体が動き出そうとし―――。
背後に感じた熱量にジルムスが反射的な回避行動を取る。
ドンッ。
爆裂した蒸気。
それに混じって【源理粒子(イデアル)】が反応する際の昇華光が彼の肉体から吹き上がる。
「グゥ?!!」
0.03秒弱。
半自動で起動した“保険”の稼いだ刹那をジルムスは全力での横っ飛びに当てていた。
振り向く事なく真横に飛び退いた次の瞬間には炎が今まで身体のあった場所を通り過ぎていく。
「クソ、あの炎やべぇ臭いがしやがる……」
勘でしかなかったが、感覚的には触れたらアウト。
天性のセンスとも言うべきものがジルムスの命を救っていた。
制服の胸ポケットが蒸気の噴出に破れている。
上着の下。
肉体の形を模った導線を張り巡らせた中枢。
それは【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】を組み込まれたメジャーのようにも見えた。
導線がシュルシュルと胸ポケットの四角い鋼の塊に戻っていく。
「恨むぜ……親友!!!」
ジルムスが前に出た。
戦闘をするのが未知の化け物。
それも一般人が変容した何か。
それだけでも十分に躊躇う理由ではあった。
しかし、彼の思考はあくまで冷静。
戦えるか。
戦えないか。
戦う理由はあるか。
戦わない理由はないか。
それだけで目前の標的を品定めする。
今までは戦えなかった。
何故なら相手の攻撃に対するリスクが高過ぎたからだ。
一撃でも貰えば即死かもしれないとなれば、親友の頼みとは言えど、ジルムスは冷静に躊躇う。
しかし、防御用の装備は意思に反して最も重要な場面で起動した。
保険とアーギストは言っていた。
だが、一秒すら稼がなくとも、彼には関係が無かった。
相手の攻撃を刹那遅延させる。
たったそれだけの効果しかない装備だろうと、彼の心理的な後押しをするには十分な備えだ。
そういう機微を踏まえた上でアーギストがそれを渡していたとすれば、悪魔と呼んでいい。
生死を掛ける未知の相手との戦い。
そんな争い普段のジルムスなら決して行わない。
少女一人を見殺しに出来るくらいには冷静で合理的な判断だって下す。
しかし、“救って無傷で帰れる可能性”を与えれられたならば、逃げ出すような輩でもない。
「シッ!!!」
息を短く吐き出して。
彼の腕が短く虚空でジャブを打つ。
まるで太鼓でも叩いたような音が未だ遠い“黒逝者”達の一体を吹き飛ばした。
直接打撃では勿論ない。
打撃を媒質を使って伝播(でんぱ)させたのだ。
不可視の攻撃。
感知不能の一撃。
それは超常の力や魔術を使用する戦者にとって基礎的な技能(スキル)であり課題だ。
上級者向けと言えるが別段珍しいものでもない。
魔力で空気中の打撃を遠方に送る方法は数多いし、本当の達人は身一つでも打撃の長距離化を行う。
過去、それらが戦場で主要な攻撃方法の一つとして威力を発揮していた頃、火砲は存在しなかった。
周到に用意された魔術でも戦場では発動するのに人の意思を介在させる余裕があり、必ずしも最速ではなく。
そのような打撃や斬撃を遠方に飛ばす技能は牽制として威力を発揮していた。
だが、攻撃中に人の意思が介在しない火砲の砲弾が相手では“人を制する事”が出来ない。
言うまでもなく打撃より銃弾の洗礼の方が速いからだ。
結果、機先を取る戦場での中距離戦闘で駆け引きは失われて久しい。
素人でも相手に重症を追わせられる銃器の発達は物量の絶対をそれなりに強化したのだ。
そういった常識からすれば、今や学ぶ者も少ない武術指向の遠距離攻撃は戦者にとって然程重要ではない。
そんな技能を十代で修得しているというだけでジルムス・デダルは他の武芸術を行うような学徒とは一線を画していると言えた。
「―――スゥ」
彼の打撃延長術はスタンダードな自己魔力形質に依る型。
それも魔術で打撃を波動に変換して行うものだ。
不可視である運動エネルギーの変換力場。
それを掌に刻んだ魔術方陣で虚空に的として置いているのである。
力場は拳の運動エネルギーを魔力を媒質とした波動に変換。
後に視界を用いた視線誘導で刻印(マーキング)した空間に収束。
こうして彼の拳は20mもの距離を0.1秒以下で超え、相手を打つ事に成功する。
喧嘩上等な学徒同士の抗争なら、こんな高度な技を使うまでもない。
しかし、相手の炎を警戒した判断は概ね正しく。
“黒逝者”達は距離を詰めるまでに四体が面を殴り壊され消え去った。
喧嘩で顔面を殴る癖が功を相したのは皮肉かもしれない。
本来は相手の戦意を削ぐ目的で顔に一発入れる。
それが彼の多数対一の喧嘩術だ。
それが今は弱点である仮面を一撃で破壊し、相手を霧へ融かすという結果に結び付いている。
「シッ!! シッ!! シッ!!」
連打されるジャブで更に二体の仮面が破壊され、“黒逝者”が霧に没していく。
経験値として仮面が弱点だと学んだジルムスは機械のように正確な視線で相手の面を追って、向かって来る全ての敵の顔面を殴り壊した。
「ふぅ。これで全部か……」
ジルムスは命が掛かった実戦に冷や汗を掻いていた己を自覚して、苦く笑う。
この程度で喧嘩上等を名乗るなら看板を下ろさなければならないかもな、と。
(ビビってるのは本当だしな)
僅か震える足にガンッと拳を叩き付けて、彼が前を向く。
外灯も無く。
目印である人型達もいなくなって。
月明りだけとなった道には誰もいなかった。
「おーい!! 大丈夫かぁあああ!!!」
しかし、その声に応える者は周囲に存在しない
「おいおい。まさか、行っちまったのか?」
少年達が向かって行った方角に嫌な気配を感じたジルムスはあからさまに渋い顔となる。
「……戻ったら山程奢らせてやる」
愚痴って。
巨躯が再び走り出した。
闇と霧を切り裂いて。
全てが違っていく夜へと。
*
何処から湧き出しているのか。
緑炎の人型達は汲めども尽きぬ泉の如き増えようで二人を追っていた。
もはや“境界”が遠い事を感じ取って。
少年はいつもとは違う世界と世界の狭間の現況に戸惑う。
人がいないのはまだいい。
外灯が付いていないのもいつもの事だ。
しかし、まるで夜を染め上げるように月が昇っている。
今までは無かった事だ。
そもそもが五年前から月というものを己の目で見た者は限られる。
絵画や篆刻写真。
劇の背景や書物。
七教会が近頃売り出した映像の入出力を行う機器。
それらにはまだ存在しているが、此処五年で生まれた子供達は今一ピンと来ないに違いない。
何故ならば、月と大地の間。
真空の海には眩くも昼夜無く煌めく星がある。
【天蓋蒼星(メイズ)】
月より余程に大きな星が子供達にとっての月であり、綺麗な夜空に浮かぶ象徴なのだ。
月夜なんて言葉が現実味も乏しくなる昨今。
それが浮かんでいる事なんて在り得ない。
“境界”付近で調査をしていた時もそんな事は一度も無かった。
だから、少年は包囲しつつある緑の輝きより上ばかり見ていたのである。
「あ、あのイクスさん!!」
「何?」
「お、下ろし―――」
「下ろしたたら死んじゃう可能性もあるから止めた方が……」
「し、死ぬって何ですか!? あの緑色の火で焼かれた人達どうなっちゃったんですか?!!」
「彼らは……」
言い淀んだのは優しさ故だ。
何となく少女だって解っている。
だが、現実感が無ければ何事だろうと本の中の話に過ぎないのが知性ある者の性であった。
「もう返れない」
「返れ、ない?」
怯えた表情で訊く少女に頷くしかない。
此処で全部悪い夢でしたと気絶させたとして。
それで守りきれるかどうかと言えば、かなり怪しい。
自分の意思で逃げ出せなければ、ずっと“境界”に留まる事にも成りかねない。
そうなれば、常人に過ぎない少女がどうなるか。
少年にだって予想が付く。
「な、何かの悪戯じゃ、ないんですよね?」
「うん」
「あの最初に追い掛けて来てた人達は……もう?」
「二度と戻れない」
「―――イクスさん……何なんですか? アレは……そして、此処は……」
抱き抱えられた少女が喚くでもなく沈んだ様子で泣きそうな顔になる。
「その前にいい?」
「なん、ですか?」
何処か警戒した瞳で少女が少年を見つめる。
「もし君が何もかも忘れて日常に帰りたいって言うなら、僕にはそれを実現する用意がある」
「え……?」
「記憶を一部連想から隔離して思い出す事が無い様に出来るって言った方が正しいかな」
「な、何言って!?」
「此処は怖い場所で、簡単に命が失われたり、消えたりする。何も無かった事には出来ないけど、忘れて日常を送る事は出来る。そういう事……かな」
「そんな?! あんな事があったのに忘れるなんて?!!」
反発する少女の顔が険しくなる。
「此処はただ忘れろって言っても忘れられるような場所じゃない。記憶に残ってるだけでも危険で、関わるだけでも人生は狂う。記憶を持ち続ければ、沢山後悔するかもしれない。そんな事になるくらいなら、何もかも忘れて平穏に暮らしてた方がずっといいと思わない?」
少年の瞳にある色を見て。
少女は決断を迫られているのだと知る。
正義巻。
罪悪感。
拒否感。
恐怖感。
ゴチャゴチャと交じり合う混沌とした心情の中。
少女の一番大切な場所は少年に切り返す言葉を決めていた。
「イクスさんは……」
「?」
「イクスさんの事も……ですか?」
「あ、はは……うん。一応」
兄が少年との関係を調整しようとしていた理由。
明晰な少女はそれが少年と迎えたこの状況なのだと理解しつつあった。
「君は本来なら此処に関わらず暮らせるはずだった。それが見えて聞こえるようになったのは僕と関わったからだと思う。僕の記憶と此処にいた記憶が想起されなくなれば、また前と同じように気味が悪い夜としか全てを認識出来なくなる。たぶんだけど」
「……一つだけ訊いていいですか……」
「いいよ」
「私達―――」
その言葉が発されるより先に少年が少女の口を押さえて立ち止まった。
月明りに照らされた箱のような街並み。
労働者階級の賃貸住宅群の最中。
明かりの一つも付いていない世界の中央。
少年の視線が捉えたのは明確なる異常。
(焚き火?)
高々(たかだか)と積まれた組樹を燃やして緑炎が猛(たけ)盛(さか)っていた。
その煙もなく轟々と天を突く勢いを恐れてか。
それとも何か特別な理由があるのか。
周囲の黒逝者達は一体も近付いてこない。
「あ、あれ……お、おかしく、ありませんか?」
カタカタと小さく肩を震わせて。
少女が組み上げられた黒いものを指差す。
よくよく見てみてれば、樹と思われたものの枝葉は必ず四つ。
右脚、左足、右腕、右脚。
「……」
悪趣味なオブジェの合間に炎が薄くなると屍蝋が見えた。
このまま横を突っ切るか。
あるいは戻るか。
戻ったところで少女を守りながらの戦いは不可避だし、行ったところで何があるか解らない。
『見つけたぁ!!』
背後から掛かる声に少年が振り向くとジルムスが寄ってきた黒逝者を片っ端から中距離化した打撃で殴り壊していた。
「無事だったか?」
周囲の敵を一掃した汗も拭わず。
白い外套一つでやって来た青年に半ば驚きを隠せず。
「ええ、まぁ」
「テメェに訊いてるわけねぇ。そこの家出娘。お前の兄貴に連日使われるオレの身にもなれ」
「あ、に、兄さんの使いで?!」
信じられないと目をパチクリさせてエストリアが絶句した。
この状況の中に突っ込んでくるのも大概だが、生身で武器一つ持たないジルムスが命掛けで追跡してきた事は更に少女を驚かせた。
「親友の人生の一大事だ。無謀な事は断るが、無茶くらいするだろ」
「す、すみ、ません……」
異常な世界にジルムスを引き込んだのが自分だと自覚してエストリアが泣きそうな顔をする。
「こっちへ来るまでに道すがら緑炎の連中はやっておいた。さっさと戻るぞ。此処は……ヤバ過ぎる……」
「は、はい!!」
少年がそっとエストリアを下ろす。
「あ、ありがとうございました。イクスさん……」
「僕が全面的に悪いんだから、謝る必要は……」
「で、でも、命掛けで助けてくれましたから」
「一応、処置に関しては此処を抜けてからにしよう。落ち着ける場所じゃないと話も出来ないし、ね?」
「は、はい」
「何の話だ?」
「あ、後で説明します。それより早く此処から」
エストリアがとにかく早くとジルムスと少年の袖を引っ張った。
「ああ、そうだな。じゃあ、とっとと帰るか」
踵を返してジルムスとエストリアが歩き出そうとした矢先。
少年が背後の気配に気付いて二人の背中を守るように剣をその手の方陣から引き出した。
「おい? 何やって―――」
ジルムスが少年の行動に気付いて振り向き、あまりの光景に背筋に冷や汗を滴らせる。
「え―――」
エストリアも同様だった。
蠢いた燃え盛る黒逝者達の塊が膨れ上がり動き始めていた。
「二人は走って。此処はちゃんと足止めするから」
「テメェ一人でどうにかなるかよ。アレが……」
「イ、イクスさん!! 一緒に逃げましょう!!? どうして戦う気満々なんですか?!! あ、あんな!? あんな?!!」
「誰かが残らないと。アレが“境界”を越えたらさすがに影響力が強過ぎて、さっきみたいな人が増えるかもしれない」
「そ、そんな?!」
エストリアが顔を強張らせた。
少年の背後で思い浮かべられたのは人々が化け物になってしまう場面(シーン)。
あれが繰り返されるかもしれないというだけで吐き気が込み上げてくるのはそれが生命への冒涜だからだ。
悍(おぞま)しさで身体が震えるのは知的生命の根源がアレを拒否しているからだと本質的にエストリアにもジルムスにも理解出来ていた。
―――ォォォオオォォォォォォオオオォォォォォオォォ。
呻くような声と共にソレが動き出す。
緑の炎に覆われた組樹の黒逝者達が人間を模倣するように人型となって立ち上がっていた。
その顔面の部分。
屍蝋の仮面がゴボゴボと溢れ出して定着し、金文字が業炎によって焼き付けられていく。
曰く。
【扉】
「扉、だと?!」
ジルムスが背後に少女を庇って戦闘態勢を取る。
「此処はいいから。僕がどうにかする」
「そんな!? あ、あんなのに勝てるわけないじゃないですか!!? イクスさん!!?」
悲鳴染みた声で制止するエストリアの声に少年は振り返らず。
「まぁ、子猫一匹助けるのと大差ないよ。それくらいの力はあるつもりだし」
「子猫って、あ、あの子の猫は此処で!?」
「動物も見える方なのは迷い込んで来てるみたい。此処に迷い込んで日が浅かったから帰してあげられた。でも、此処に長居したら動物だろうと亜人だろうと“ああなるかもしれない”」
少年の指の先にいる黒逝者の姿にゾッと二人が背筋を凍らせた。
「僕はどっちかと言うと化け物みたいな方だから、此処の干渉をまったく受けないっぽいんだけど。普通の人に此処の空気はお勧めしない」
ジルムスが目を細める。
「テメェの種族は何だ?」
「僕の後見人に聞いたら“不死者”だって」
「ふ、不死者って……」
「言ってる時間もないみたい。ジルムスさん。エストリアの事、頼みます」
まるで油でも掛けたように炎が急速に高まっていく。
「チッ!! またソレか!!? オレはお守りじゃねぇ!!」
その言葉に少女は前日の夜の事を察する。
「そ、それって昨日も!!?」
イラついた様子で吐き棄てたジルムスがガッと細い腰を小脇に抱えた。
「な、何するんですか!? ジルムスさん!!」
「黙ってろ。オレはテメェの兄貴に連れ戻すよう言われただけだ。あんなのと心中は御免だな」
「で、でも!!? こ、此処で止めなかったらアレが都市に出ちゃうかもしれないんですよね!?」
「警察機構だの軍だのが対応するだろうさ。何なら旧教会派ご自慢の【聖征者(クルセイダー)】だっている。そんなのは知ったこっちゃねぇな」
「で、でも……」
少年が剣を正眼に構えた。
ズシン。
一歩、炎の巨人が道を陥没させて歩き出す。
「ごめん。記憶どうにかしてあげたかったんだけど、もし僕が戻らなかったら、僕の後見人にどうにかして貰って。名前はアルゥ・ゼオ。学校の理事をしてるからすぐに居場所は解ると思う」
「イクスさん!!」
「もう待てねぇ!!」
ジルムスが暴れようとする少女をガッチリ掴んで走り出した。
霧に巻かれて見えなくなった二人の声と足音が遠ざかっていくのを確認して。
少年は微笑みを零して巨人を見据えた。
基本不死身とはいえ、炎に巻かれたらどうなるか想像したくないなぁと暢気に悲観しつつ。
戦いは始る。
「二人は追わせない」
その足が地瀝青(アスファルト)の道を蹴って跳んだ。
*
「下ろしてください!!」
「出来るわきゃねぇだろ!!」
「イクスさんが!! イクスさんが死んじゃいます!!」
「不死者って言ってたろ!!」
「で、でも、あ、あんなのと戦ったら!!!」
「それをあいつは選んだ。オレ達二人を逃がす為に。無駄にする気か?」
もがいていたエストリアが途端大人しく項垂れる。
「それは……」
元来た道を正しく覚えていたジルムスの足は速い。
「あんなのの仲間入りかもしれないってだけで此処を離れる理由は十分だ」
「そ、そうかもしれませんけど、でも」
「いい加減にしろ。兄貴に迷惑を掛けた結果が今だ。あいつがいなかったらアレが追ってきてたかもしれねぇ。今度はあいつが死ぬまで迷惑を掛けるか?」
「―――ッ」
何も言い返せず。
拳が白くなる程に握り締めて。
少女は涙が今にも零れそうな顔をジルムスに向ける。
「テメェの命はテメェだけのものだ。だが、テメェの命を守る為に苦労してる連中の想いを無駄にするな」
「それって、兄さんの事、ですか?」
「アーギストの野郎の頼みを命掛けでオレが請け負うのはな。オレの命をあいつが救ってくれたからだ」
「え……」
「あいつは昔から魔術の腕だけは冴えてた。当時、ヤバイ連中に喧嘩売って死に掛けたオレをギリギリの場所で治療してくれたのはアイツだった。もし治療してた事がバレれば、命も無かっただろうに……」
「兄さんが、そんな事を?」
応えず。
ジルムスが少女を腕から下ろした。
「……テメェがもしも戻るって言うなら止めねぇ。だが、それには覚悟ってもんが必要だ。化け物になって殺されるかもしれない。兄貴に二度と会えなくなるかもしれない。もう普通に生きられないかもしれない。惨たらしい姿で後悔しながら死ぬかもしれない。それでも、いいんだな?」
「――――――」
訊かれて。
少女の意思は揺らぎに揺らいだ。
誰だって自分の命が惜しい。
それを失くしては何事を語る事も出来はしないのだ。
自分を生かしてくれた人々を裏切る。
それは人によっては死ぬよりも恐ろしい。
「まだ……」
「あん?」
「まだ、一週間も経ってないですけど」
少女は零れそうだった涙を手で拭いた。
拭いても拭いても、後から袖が濡れていくとしても。
「まだ、何にも知らないかもしれないですけど」
グッと嗚咽になりそうな引き攣りを抑えて。
「私の事、友達だって、言ってくれたんです」
少女はジルムスの瞳を見つめる。
「あのまま、死なせたく、ないんですッッ!!」
決意なんて年頃の少女には似合わない。
種族の事はどうあれ。
最上級に近い公的保護を受けるエストリアの家ならば、その気になれば一生それなりに暮らせるだろう。
何故、命を掛けて誰かを救う必要があるのか。
目を瞑って、耳を塞いで、異議を唱える声を上げなければ、平穏な生活が今後も待っている。
それを蹴る理由に少年が足りるというのか。
それは少女にしか解らない。
しかし、ジルムスはそんな瞳をする者を知っている。
見付かったら自分が殺されるかもしれない状況で荒くれの馬鹿を治療した男はお人よしだった。
金で雇う護衛なら吐いて棄てる程いる。
それなのに「君みたいな奴をちょっと御用聞きにしたくてね」なんて馬鹿正直に言う男がいた。
「テメェはやっぱり、あの野郎の妹だな」
「……兄さんの事は知りません。でも、これが、私の偽らざる気持ち、いえ……決断です」
「チッ、わあった。最後の確認だ。本当にいいんだな?」
「はい!!」
少女は頷いた。
*
二人が戻ってくるとは露知らず。
少年は一人戦っていた。
いや、正確には一人と一匹、だろうか。
「マ~~ヲ」
グダグダ少年少女が話し合っている間、一言も発さなかった黒猫は眠っていたらしく。
微妙に寝惚けた様子で今は少年の生え際に爪を立てていた。
本来なら止めて欲しい旨を伝えていただろうが、そんな余裕も無く。
巨躯が生み出す炎に触れぬよう少年は苦心しつつ剣を振る。
まず目標の身長が10m弱。
その肉体が動いて走って腕を伸ばしてくるだけでも脅威だと言うのに、全身を覆う炎は恐ろしい威力で少年を近付けさせなかった。
周辺の賃貸住宅群が炎に炙られた瞬間には蒸発しているのだ。
尋常ではない。
ただ、炎の温度が高いのではなく、緑の炎自体が常識では測れない性質を持っているらしいと途中で少年も気付いた。
魔力も感知出来ない炎の実体が何であるか。
未だ解らない。
だが、通常の物理法則や超常の力と言った能力の範疇ではない事だけは確かなようで。
回避している少年の服は焼け焦げている様子もないのに、内部の肌だけが所々蒸発して下の筋肉を露出させていた。
(筋肉自体に熱傷はない。対象だけを焼滅させる炎? この子は何とも無いみたいだし……)
「マヲ~~?」
欠伸しつつ、ムニャムニャ言っている呆けた猫ではあったが、少年が受け切れなさそうな一撃や炎の直撃に対し、魔術方陣が時折展開していた。
少なくとも仲間とは思われているらしい。
そう感じつつも、何故頭から離れないのかは未だ謎だ。
道連れは少ない方がいいと思っている者にしてみれば、猫と言えども戦いに巻き込みたくは無かった。
「マゥヲ~~~」
変な声を漏らしつつ、黒猫がテシテシと生え際を叩く。
「どうかした?」
少年は急激に何故か膝を付いて倒れ込んだ“門”をチラリと見つつ、疑問を口にする。
「マヲ~~ゥ」
タタタタ。
そんな足音にまさかと思いつつも少年がチラリと振り返る。
『イクスさ~~~ん!!!』
「………ええっと、説明、したよね?」
頭部の黒猫は少年の独白に「?」と小首を傾げた。
前日の“巨人”の二倍は大きい“門”の攻撃は極めて大雑把な横殴りや両手による殴打。
それだけならばまだしも、少年の隙を突くように肉体の一部である黒逝者を弾丸のように飛ばしていた。
横っ飛びに回避し、跳躍で腕をすり抜け、飛んで来る炎に包まれた肉体を虚空の安定しない体勢で真っ二つにしつつ、少年は着地動作も忘れたような心地で呆れる。
「どうしよう……」
顔面から着地する前に左手が地面を掴んで肉体を捻った。
常人とは一線を画した身体能力と反射神経。
そして、肉体の負荷を省みないからこその芸当。
掌の皮膚が殆ど刮(こそ)げるのも構わず。
少年は折れた腕をクッションにして肉体への損傷を防ぎ、ゴロゴロと道を転がっていく。
「ひぁ!?」
自分の前に転げて来た少年が足に当たって、少女が転倒した。
「あたた……イ、イクス、さん? イクスさん!! 大丈夫ですか!!」
「あ、うん」
その勢いに思わず言いたい事も喉の奥に消えて。
少年はいつの間にか長髪が燃え落ち、サッパリと短くなった頭、ハッキリ見えるようになった顔で頷いた。
ペロペロと頭皮を舐めつつ、黒猫が無傷のまま鳴く。
「よ、良かった。まだ無事で」
「返ってきちゃったのは……その……」
少年は真面目で優しい少女が戻ってきた理由を察した。
「話は後です。一緒に逃げましょう」
立ち上がったエストリアが少年の手を引っ張り上げて起こす。
「言いてぇ事は山程あるだろうが、それはこっちも同じだ。あのデカブツが追い掛けて来るなら、それでもいい。さっさと警察だの軍だの呼んでドンパチしてもらえ」
何となく罰が悪そうなジルムスの顔に思わず少年は笑ってしまった。
「何がおかしい?」
緑炎の巨人がブスブスと煙を上げて膝を付いていた。
「何だか嬉しくって」
「はぁ? やっぱり、イカれてんのか?」
「ありがとう。でも、此処で倒さないと色々不都合が多いだろうから……ごめん」
「ど、どうしてイクスさんが戦う必要があるんですか!!? あ、あんな訳の解らないモノなんて軍とか国に任せておけばいいんです!!」
最もな反応。
「そうかもしれない。でも、今日は帰るだけで済ませられない」
「どうしてですか!?」
「あれが“門”だとすれば、外まで出たら“境界”が大規模に開くか、開きっぱなしになる可能性がある。あちら側に侵入するルートは逆にこちら側に侵入するルートでもあるから、ああいうのが沢山溢れ出すかもしれない。そうなれば、この国は……たぶん、消えて無くなる」
「そんな……」
「マジかよ……」
二人が予想外の大事に言葉を失った。
「あくまで僕の想像だけど、当たらずとも遠からず。少なくとも炎に飲まれた人達以上の被害が出るのは確実。そうしたら、学校とか通えなくなっちゃうかもしれないし」
「イクスさんは……ずっと守ってくれてたんですか?」
「違うよ。個人的事情であっち側を目指してるだけだから。でも、この国が無くなったら住む場所も友達も……全部、夢みたいに消えちゃうかもしれない。そんなのは誰だって嫌じゃない?」
「……解りました。なら、私も戦います」
「いや、あの」
エストリアの瞳が据わっている事に気付いて少年の笑みが困ったものとなる。
「魔術も武術も技術だってないですけど。私、あの人の妹ですから!! 心配無用です!!」
「でも、何て言うか」
少年にズイッと顔を寄せて少女は言った。
「信じてください!!」
言っても聞かないのは目を見れば少年にだって分かった。
「……うん。じゃあ、コレ」
既に肌まで再生した手がゴソゴソと懐から刺々しいペンダントを取り出してグッと握る。
ブジュッ。
血が滴るとエストリアの前で宝珠のように鎖が紅玉として連なっていく。
「これは」
「人化の秘宝とか。そういうの。猫とか入って来てたから、人とか入って来てもコレがあれば、この“境界”でも一定時間は侵食を食い止められるかと思って。通常空間で身に付けてても侵食された部分を修復してくれる効果が期待出来るかなぁと……」
「いいんですか?」
「無敵番長の人は何だか守ってくれてる装備があるっぽいし」
「何で解った?」
「見れば何となく」
「お前やっぱりヤバイ奴だな」
ジルムスはいつの間に保険(メジャー)の事を見抜かれたのかと少年に肩を竦めた。
―――オォォオオオオォォォッ。
「「「!」」」
三人が膝を付いていた緑炎の巨人を見る。
すると、何処からやって来たのか。
無数の黒逝者が誰も居ない街のあちこちから集ってくるところだった。
「イ、イクスさん……」
「ちなみにどういう事が出来るかポジションとか変わるんだけど、時間が無いから、距離で応えて。どんな距離なら戦える?」
少女の首にペンダントを掛けて少年が尋ねた。
「じ、時間は必要ですけど、ちょ、長距離ならかなりイイ感じだと思います」
「解った。じゃあ、僕が前衛。無敵番長の人が遊撃。エストリアが後衛で」
「解った。後、その無敵番長の人ってのは止めろ。ジルムスでいい」
「じゃあ、ジルムスさん」
「さん付け不要だ。何が哀しくて野郎にサン付けされなけりゃならねぇんだ」
「じゃあ、先輩。期待してます」
「生意気だぜ? 後輩」
「エストリアの事、頼みます」
少年とジルムスが翳した掌を叩き合わせた。
「ああ、任せろ」
大気が鳴動する。
轟々と鳴り響くのは怨嗟の声か。
それとも一つとなった歓喜の声か。
更に巨大となった30m前後の巨人が立ち上がる。
「出来れば、肉体から飛んで来る黒逝者の迎撃は5mより手前で。それより距離が近いと炎に炙られて色々焼かれます」
「了解だ。遊撃は任せろ。暇があれば、お前に向いてる攻撃にチャチャくらい入れてやる」
「特大のをお見舞いします!! 二分持ち応えて下さい」
二人はエストリアの事を半ば戦力としては期待せず。
しかし、その言葉に大きく頷いた。
「期待せずに待ってるぜ」
「無理だけはしないで。エストリア」
「はい!!」
少年がいきなりトップスピードで巨人へと突撃を掛けた。
もはや怪獣。
いや、特大の石人形(ゴーレム)かと思われる巨体が唸った。
先程までは攻撃後、少しずつ威力が下がっていた殴打の威力は上限を失くしたかのように上がっていた。
ゴッッッッ。
一撃で10m近い打撃痕(クレーター)が道路に刻まれた。
罅割れ、捲れ上がる地瀝青(アスファルト)。
緑炎の噴出する大地。
それが自分の足を捉えるより前に少年が跳躍した。
一直線。
更に高くなった仮面まで最短距離。
跳び上がるまで約五秒。
だが、その途中で巨人の肉体が爆散するような勢いで弾け飛んだ。
「―――!!!!」
一体一体の力は低くとも。
ほぼ、弾丸並みの速度(スピード)で迫る殆ど面に近い攻撃。
炎が少しでも肉体を炙れば、どうなるか。
「貫け【射斬(いざん)】」
剣が胸元に引き寄せられた。
柄が相手と水平に保たれ、光が奔る。
刃に沿うような薄い輝きが剣の根元から横幅40mに渡って広がり、巨大な剱にも見える長方形となって押し寄せる黒逝者を切り分けた。
その距離は尋常ではない。
対象物を魔力刃で切り裂く技の多くは積層魔力を使う。
単純に言えば、莫大な魔力量が必要となる。
それを恐ろしく広く長い幅で巨大な面として顕現させたなら、それに使われた魔力量は個人では到底賄い切れないはずだった。
しかし、少年は不可能を遣ってのけた。
常識的ではない光景を実現した。
数十体の黒逝者達が散り散りになりながらもジルムスとエストリアへ向かう。
「やってくれるぜ。こっちもやらせてもらおうか」
グッと握られた青年の両拳が、腕が、消えた。
人体に捉えられない速度で軌道を描く打撃が虚空に置かれた見えざる的を打ち抜いて、ジルムスの視線に照準された大小合せて四十六体の目標を捕らえる。
約二秒間で相手の個体数と同等の拳が放たれた。
ビギッ。
至近弾である個体の仮面のみを打ち抜いたジルムスの胴体視力は常人を遥かに超えている。
瞬間的に霧に融けていく化け物達へは目もくれず。
更に青年は付近に落ちて獣のように迫ってくる者達を全方位の視覚で捉えた。
「ちッ、ちょっとグロイが黙ってろよ」
「え?」
バッと学帽が取られる。
「―――?!!」
エストリアが思わず口を押さえて凝視した。
後頭部に二つ。
項(うなじ)に二つ。
耳の後ろに二つ。
更に少女には見えていないが額に一つ。
通常のものも合せて九つの瞳がジルムスの頭部に現われていた。
それも人間的な代物とはかなり違う。
動物や海洋類、竜族とも異なる。
それは昆虫の無機質な眼だった。
「シッ!!!!」
打撃は前にしか打てない。
しかし、標的に長距離打撃を送る際、見えてさえいれば、魔術の原理上、方向は関係が無い。
つまり、ジルムスはほぼ全方位に対して完璧な視覚で攻撃が可能という事だ。
次々に自分達へ向かってくる化け物の炎が霧の奥で失せていく状況となれば、少女にも相手がどうなっているのか一目瞭然である。
「ジルムスさんは【蟲人(ベルミ)】なんですか?」
「ああ。人間の瞳以外が特別なのと、肉体の基礎(ベース)が動物とかなり違う事を覗けば、殆ど人間だな」
「それって殆ど違うって言うんじゃ……」
「顔が“九十対十(コレ)”だからな。亜人としちゃ半人前扱い。機能と外面じゃ、外面の方が優先てな話だ」
「ちょ、ちょっと怖いですけど、私……カッコイイと思いますよ。その、ジルムスさんの今の姿」
「……兄貴と同じ事言いやがる」
「え?」
「何でもねぇ。それより準備は出来てるのか? 生半可な攻撃じゃ、あの化け物の親玉はくたばりそうにねぇんだが」
「あ、はい!! 今、触媒と一緒に反応を限界まで引き上げてる最中で……」
「触媒?」
「純度が低いので空間圧縮の比率を上げて、撃発時の余白空間(サブ・クッション)を敷いてる最中です。でも、イクスさんが時間を稼いでくれれば、絶対お役に立ってみませす!!」
「何だか解らねぇが、あっちがくたばる前にしろよ。こっちはまだ余裕あるが、あっちはそう無さそうだ」
「はい!!」
エストリアは青年の数十m先、まるで踊るように巨人が周囲を手で払っている光景を手に汗を握って見つめる。
最初の攻撃(アタック)時、黒逝者の応射で勢いを殺されながらも少年は仮面に突撃し、虚空で急遽方向を変えた。
速度が落ちたのを好機と捉えたか。
巨人の両手が蠅でも叩くように迫ったからだ。
虚空で姿勢や移動方向を変えるのは骨である。
しかし、それは無理やりに行われた。
動魔術。
それも単純に加速力だけを考慮したものが方陣として展開され、下に少年を押し出したのである。
ドバンと空を割るような音と共に両手は閉じられ、挟まれる事を回避した少年は真下から更に攻撃を掛けた。
魔力を巨大な面として展開する【射斬】で相手の手足を重点的に切り裂いて動きを止めつつ。
肉体の何処からでも弾ける黒逝者の弾丸を周辺の建造物の上を動き回る事で回避し、今も仮面を割る隙を狙っている。
「イクスさん。凄い……」
慣性を無視するような少年の急激な転換に次ぐ転換を行う動きは明らかに常軌を逸している。
当然ながら、無茶な動魔術機動の代償は内臓の圧迫や破壊。
肉体を壊しながらの無茶を許容しているのは仲間達が後ろに控えているからだ。
一人での戦いでは肉体をギリギリまで温存しつつ、肉体限界以上の回避は最小限度に留めて戦っていた。
黒猫が守ってくれていた瞬間というのは殆どが肉体の破壊を前提とした回避行動を取る寸前だったのである。
それが今は魔力も体力も度外視で動いている。
未だ戦者よりも常人の域に近いジルムスには少年が払っている代償が手に取るように解った。
肺の不全、消化器官の破裂、筋肉の断裂、血管の破壊、血の逆流。
グチャグチャに肉体の中を掻き回されているに等しい動き。
骨も小さい物は砕け、大きい物には罅が入っているだろう事は想像に難くない。
「ん、後二十秒。最小深度35m四方。余剰出力全投入。波動収束率332%。触媒EMZ400単位。内部循環系をクライン方式に変更、【廃火弁(セーフティー・ベント)】へ直結。余白空間(サブ・クッション)セットアップ完了。最終フェイルセーフをシャットダウン。内部空間露出!!! 下がってください!!! 二人とも!!!!」
少年が青年が少女の声と同時に少女と巨人の射線上から引いた。
「いきますよ」
少女の左瞳の端。
目尻から一筋の蒼い曲線が顎まで伝う。
まるで涙のようにも見えるソレは魔術具の一種。
彼女が母から託されているお守り。
その一つだ。
瞳の奥。
視神経から視床下部まで直結された極細の魔術具は魔力を殆ど使用しない代わりに生命力を吸い上げて、直接的に神経伝達に介入、映像を出力及び入力するデバイスとして機能した。
思考で器具を操る魔術は大陸では常識的なものだ。
しかし、それが脳と直接的に直結されて使用されるような事は殆ど無い。
未だ七教会ですら、諸々の機器を操作するデバイスは瞳の虹彩に仕込む形で運用している。
それを脳に組み込むような行為は倫理的な問題から為されていない。
その意味でエストリアの目尻を輝かせる魔術具【視宝泉(ジェミス)】は七教会すら使用を躊躇う禁断技術の一つと言えた。
「開放」
ブレザーよりも下。
小さなネックレスが引き千切られ、掲げられる。
その中心に吊るされていた剥き出しの【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】が唸りを上げた。
外殻に鋼の糸で固定されていない黒の正方形。
その角が緑炎の巨人に向けられる。
ズォオオオオオオオオオオオオオ―――。
少女の手にした正方形より先に半径5m弱の不思議な光沢をした金属の輪(リング)が十個程束となって迫り出した。
それは本来機関と外界の空間を繋ぐもの。
【廃火弁(セーフティー・ベント)】と呼ばれる熱を逃がす機構だ。
水と共に熱量を放出して安全に余剰出力を内部から排出する為の部分である。
それがそもそも直径で10mもある時点で彼女の持っている【崩燼機関】が普通ではないのがジルムスにも解った。
「全出力、緊急排出!!!」
ポッと虚空に静止した輪の奥に光が灯った。
刹那。
―――霧が消し飛んだ。
「ふぁ!?」
「ん、だと?!!」
退避していた少年とジルムスが周囲に吹き荒れる暴風に翻弄されながら、更に後退を余儀無くされた。
少女の方へと走り出そうとしていた緑炎の巨人の頭部が綺麗に消え失せる。
控えめな光の線にも見えた攻撃が対象を通過した後。
周囲に立っていた建造物と道と霧を一緒くたにして焼滅させた。
怪獣のような巨大物体が一撃。
更に瞬間的に霧へ融けた肉体を通過した光線は遥か遠方、“霧”の何処まで行っても切りがないような空間を直進し、唐突に途絶する。
「ッ」
少年が光の途絶した場所を見て確信した。
アレが“あちら側”への出入り口だと。
「な、何だありゃ……」
ジルムスが少女の攻撃に驚きつつ、霧の晴れた直線の先にあるものを見付けて目を見開く。
其処には巨大な橋が存在していた。
本来、ハガス近辺に河はない。
水の殆どが地下水脈の汲み上げによって賄われている。
生活用水や工業用水もそこは同じだ。
故に直径にして数kmにも及ぶかもしれない近代的な鋼の吊り橋なんて存在しているはずがないのである。
だが、霧の先にそれはある。
ハガス東部に本来あるはずの端。
造成される住宅地とは別世界が境界の先には広がっていた。
橋の先は暗闇に閉ざされ見えない。
だが、その光景もすぐに移り変わる。
「え?」
自分で生み出した光景。
その先で暗闇に閉ざされていた橋の先がスウッと月明りに照らされて見えるようになったのにエストリアが目を瞬かせた。
「“門”が消滅したから……」
少年が瞳を細める間にも橋の先が露になる。
「別の都市……なのか?」
ジルムスが呆然と呟いた。
霧が薄くなった橋の先には三人の誰も見た事の無い街が広がっていた。
「これで先に行けるって事かな」
光景に圧倒されている二人に聞こえぬよう呟きが零され、消える。
その日、三人の若者達は無事、己の都市に帰還した。
誰も哀れな犠牲者達の如く変質せず、記憶もそのままに。
夜の霧が一層深くなったのは次の日からの事だった。