第三章五節「参戦の理由」
奏美紗はその日、初めて早退した。
理由は男である。
と言うと不良少女に見えるかもしれないが、事件捜査中に出会った同じ学校の生徒の家にお見舞いという名の事情聴取を行いに行ったのだ。
無論、他の生徒や噂を知る教師陣は理由も告げない早退理由を逢引か何かだと思っただろうが、彼女の中では諸々の汚名を着る準備は出来ているので問題はない。
連続怪奇殺人の重要参考人。
イクス・ゼオ。
人間みたいにしか見えない少年の家はこじんまりとした館だった。
妙に奥まった場所にある以外はそう珍しくもない下級貴族の別宅にも見える。
これだったらウチの使用人の宿舎の方が立派だなと貴族(ブルジョワ)思考に陥りつつ、彼女は玄関前で止まった。
「あれ?」
子鐘(ベル)が無い。
ノック用の金具も無い。
明らかに訪問者を想定していないようにも見える。
どうやって中の住人に自分の存在を伝えるのか。
人嫌いなのか。
あるいは来訪者を歓迎していないのか。
どちらだとしても、ズカズカ他者の家に上がり込むような彼女でもない。
それどころか。
実は貧乏でドアに必要最低限の設備すら付けられなかったのかもしれないとすら、美紗は思い始めていた。
何故なら貴族にとって社交的かどうかは重要な要素だからだ。
見栄を張る以前の問題として、そもそも尋ねてきた相手が自分より格上だったらどうするのか。
貴族社会において礼節と寛容と社交能力は必須のものなのである。
困る事一分弱。
このまま立ち往生しているわけにもいかないと。
彼女は意を決して、ハシタナイながらも小さくドアの先に声を掛ける。
「誰かいませんか?」
沈黙。
数十秒待っても反応は無かった。
「ぅ……卑怯だわ。イクス・ゼオ……」
訪問者に居留守を使うなんて、貴族にあるまじき行為。
かといって上がり込めば、不法侵入罪である。
彼女の妥協点は敷地内をくまなく回って、少年がいるかどうかを確認する事で落ち着いた。
もしも、居留守ならずっとそのままにしている事も出来ない。
内部に隠れているなら尻尾を出すまで根競べしようと冷静に彼女は意気込んだ。
(よし、こっちから……)
館の横。
猫の額程の庭があるのに気付いて、美紗がそちらに回る。
内部からの音を聞き逃さない為にピンと耳を張り詰めさせての穏形歩行(スニーキング)である。
気配を完全に消しつつ、素足が音も立てずに庭へ入った。
(本当に居ないのなら、何処に行ったかって事になる……)
霧はまだ出ていない。
未だ都市には蒸気の煙ばかりだ。
ヒタヒタ壁際を移動しつつ、覗き込める場所を探していた彼女はすぐにテラスが庭に迫り出している事に気付いた。
(これなら中が……ん? 何か水音が……)
貴族達が住まう区画である。
静まり返った場所では小さな音も大きく響く。
そろっとテラスの内側を覗いた彼女は―――呆けて思考を停止した。
『イクス…ん、ちゅ…くちゅ…ん、ちゅ…ちゅ…ん、はぁ……はぁはぁ…イクス…イクス…』
水音。
チュルチュルと聞こえる音(ソレ)は硝子張りのテラスの空けられた窓から聞こえていた。
テラスには足の高い円卓と椅子が三つ置かれている。
その内の庭に向いた席の一つに二人いた。
二人座っているのではない。
一人の膝上にもう一人が腰掛け、いや……跨っているのだ。
『イイ? スキ? チュ、チュ、ぷぁ……ん、くちゅ、ちゅ…イクス、イクス』
(――――――ナニヲシテイルノデスカ!?)
視線は釘付けである。
真面目に生真面目、獅子少女(ライオン☆ガール)。
奏美紗にしてみれば、男女のイトナミとか、コンヤクとか、オツキアイとか、そのように言われるものはまだ一度も見た事の無い本の中の出来事であった。
唯一の例外は両親であるが、口付けする場面は子供の頃に一度見た切り。
警察の同僚達は同じ貴族でありながらも、高位の家である奏家に遠慮して、そういう話は殆ど彼女としない。
学校で色恋の話くらい彼女もするが、それは専らにして三文小説の内容であったりする場合が殆どで、生身の恋愛に関して彼女は素人も同然だった。
『くちゅ……ちゅ…イクス……ん、ちゅ…イクスぅ…』
甘えた声。
黒髪の少女。
唇と唇がくっ付いたり、舐めあったり、舌と舌が絡まったり、唾液が糸を引いたり、その染まった頬と女の笑みを見れば、破廉恥極まりない事をしているのは誰にだって分かるだろう。
何度も何度も名前を呼んではコクコクと喉が鳴って。
(ア、アンナ…ウ、ウレシソウニ…ノ、ノンデル…)
終わる気配が無い。
頬を染めた少女(シルルゥ)は目の前の少年だけを見て、少年の唇を自らの唇で啄ばむ。
その光景は雛鳥が親に餌を求めているようにも見えた。
(ア、アンナ、オ、オトコノヒトニ、マ、マタガルナンテ///)
どちらも制服姿だ。
美紗は破廉恥極まる濃厚な口付けに目を囚われつつ、グビリと唾を飲み込んだ。
あんなにも穏やかで甘えた声が女性から出るものなのかと。
男性に自ら密着して跨るなんて貴族の淑女としては羨ま―――目に余ると。
そもそもこんな真昼間から一体どうして男女の睦み事をしているのかと。
制服姿でスルなんて何を考えているのだと。
『ァア、イクス…イクスぅ…ウレしい…やぁ♡」
チュ、チュ、チュル、クチュ、クチャ、ピチャ、クチャ。
生々しい水音の正体を知った美紗の全身には言い知れぬものが渦巻いていた。
このまま二人の世界を続けさせれば、どうなってしまうのか。
興味はあったが、彼女は別に恋慕中の男女を覗きに来たわけではない。
いや、覗きには来たが、それは少年がいるかどうかの話であって、少年の私生活(プライベート)を見る為ではない。
「イクスぅ♡」
可憐な紅い舌がチロチロと少年の口元を這う。
汚してしまった己の唾液を舐め取って、少女は親愛を示すように唇を重ねる。
熱い吐息を零しながら、両者の小さな隙間には交し合う舌と唾液がテラテラと滑った。
美紗がゴクリと唾を飲み込んで見入ってしまったのも致し方ない。
貴族の淑女としての嗜みは侍女や母から教えられて心得ているものの、それはあくまで伝聞である。
ただでさえ、娘の人間らしい姿に将来を不安視している両親からすれば、色恋の伝授はもう少し後でもいいと過保護気味に彼女は育てられた。
父母は警察機構という男社会で働こうという娘の意思を尊重してはいたが、それも彼女の姿を利用して愛を囁くような悪い蟲が付かないようにとの逆説的な保護姿勢からだ。
警察のような組織ならば、逆に悪い男も付き難いはずだとの目算である。
実際、相棒が出来たと彼女が喜んだ当時、父親はその権限をフルに使ってヴァルの内偵を行った。
職場での良き同僚達にも同様の事をして彼女にバレ、顰蹙を買ったのはそう遠い日の話ではない。
普通のお嬢様とは多少違う形だが、実際には立派な箱入りとして美紗は育てられたのだ。
そんな少女にとって男女の口付けは刺激が強過ぎた。
そもそも女性がそんな甘えた声を出すなんて彼女の智識には無かった。
頭を撫でられたり、頬を手の甲で撫ぜられたり、口付けした後に上気し、蕩け切った顔でもっともっとなんておねだりまでしてみせる。
それでは娼婦や男性に仕える奴隷のようではないかと彼女は背筋を震わせた。
仮にも貴族である身の上で、品位や貞節よりも快楽に身を委ねる。
それでは人間そのものだ。
世俗にも親しんでいるとはいえ、彼女は間違いなく貴族主義の中で育まれてきた世間知らずのエリート。
社会的な現場に出ていて、多少の融通は利くとはいえ。
それでもまだ美紗は乙女であり、少女であった。
母からさりげなく伝授される知識は基本的に曖昧な部分が多く。
家庭での性教育なんてものは受けていない。
精々がお嫁に行く為の作法止まりである。
なので、夢中で少年に媚びるシルルゥに怒りとも焦りとも付かない感情を膨れ上がらせたのも道理だろう。
あんなに小さな子が自分よりも進んでいるという事自体が彼女には混乱してしまうほどに驚きだったのだ。
「―――」
カタッと庭にある石に躓いて音が響いた。
『?』
「!?」
少年と視線がバッチリ合った。
しかし、少年の唇に夢中なシルルゥは気付かず。
『ん、シルルゥ』
『なぁに? イクス』
トロンと女の顔で少女が甘えた声を出す。
『ありがとう。十分貰ったから、今日はこれでお終いにしよう』
『ンゥ……ナンデ?』
少し頬を膨らませて。
上目遣いで不満を表明するシルルゥの微笑ましい仕草に少年は頭を撫でた。
『学校。午後からは出ないとアルゥさんに怒られちゃうよ?』
『またハハサマの話……イクス、キライ』
プイッと横を向いてむくれるものの、それもまた愛らしく。
少年はただ頭を撫でるだけで、それ以上何も言わなかった。
やがて、シルルゥが少し残念そうにしながらも少年から離れる。
『……分かった。ハハサマがっかりさせたくないからイク』
『お利口さんだよ。シルルゥ』
また頭を撫でられて恥しそうに身を捩(よじ)った少女は笑みだけを残して。
先に登校するからと手を振ってサロンから出て行った。
「もういいですよ」
居心地悪そうに外に続く硝子張りの扉から美紗が入ってくる。
室内を汚さないようにと、その足には魔術が掛けられ、一歩踏み込む時にはもう綺麗になっていた。
「……ふ、不純よ!! イクス・ゼオ!!」
「えっと、話があるんじゃ?」
「ご、誤魔化そうとして!! あ、あんな純朴そうな子をどんな手を使って誑かしたのか言ってみなさい!!?」
「……学校に行かないと…」
「あ、貴方ねぇ?!」
惚けようとする少年に美紗の目が吊り上がる。
「民事不介入が警察機構の原則じゃなかったですか?」
「うぐッ?! む、無駄な智識まで仕入れて!!?」
「それで一体何の用ですかって聞いた方がいいなら、そうしますけど」
「くぅ!! い、いいわ!! 今のは見なかった事にしてあげる!! でも、あの子を泣かせたりしたら、婦女暴行罪で訴えてやるんだから!! いい!!」
「大切にするので問題ないと思います」
「あ、後!! 本性を見せなさい!!」
「本性って言われても……」
「いいから!!」
少年が肩を竦めた。
「じゃあ、これからは……奏さん?」
ゾワッと鳥肌を立てて美紗がジロリと睨んだ。
「じゃあ、先輩で」
「妥協はしてあげる。でも、今日は聞きたい事を聞くまで帰らないから……」
少年が椅子を勧めた。
ようやく興奮が収まった様子で獅子少女がテーブル向かいの少年を真剣な瞳で見つめる。
「本題に入るわ。行方不明届けが昨日だけで二十件出てる。今も行方不明者の増加が止まらないって連絡があった。これは昨日、貴方が言っていた事と関係あるの?」
少年が溜息を一つ。
それが自分との会話ではなく。
行方不明者が出たという事に対するものだと感じて。
美紗は確信を深くした。
「やっぱり、行方不明者は……あの、化物になったのね?」
「たぶん」
「……霧が化物を生み出すって言うなら、霧から遮断されれば、影響は防げるんじゃないの?」
「防げるけど、完全じゃないんです」
「完全じゃ、ない?」
少年がテーブルの横。
台に置かれていた水差しからテーブルの上に置かれていたコップに水を注ぐ。
「?」
そして、少女のモフモフとした足の毛を根元から少し摘むようにして梳いた。
「な、なな、何してるの!? げ、現行犯逮捕するわよ!!?」
「分かりやすい説明が思いついたから……」
「は、はぁ!?」
美紗が睨むのも構わず少年がコップを持たせた。
「此処にあるコップが肉体。だとすれば、霧は……」
サラサラと美紗の足に付いていた細かな埃がパラパラと水面に落される。
「コップの中身は取り出せず、洗う事も出来ない」
水面に浮かぶ埃は水に混じり、もう飲めないと分かる。
しかし、少年の言いたい事に美紗は反感を覚えた。
「なら、こうやって蓋をすればいいわ」
コップに手が被せられる。
「蓋をしても掌から埃は落ちる。そして、それを取り除く術は限られてる」
「知ってるのね!!? なら、教えなさい!!」
コップがテーブルに置かれ。
少女が少年に迫った。
「……」
ブレザーからタイを抜いて少年が水面に付ける。
すると何かの魔術でも掛けられているのか。
埃がタイに吸着され始めた。
「こういうものは確かにあります。けど、それは誰もが持てるものでもないし、コップ自身に定着した埃を全て取り去る事も出来ない」
「定着…?」
「化物になる事を促す部分が肉体に出来るって事と考えてくれれば。そして、たぶん定着には個体差がある」
「個体差。つまり、そうなり易い者となり難い者がいるって言うの?」
「……数日前に犠牲者になった人を見ました」
「なッ!? その人達はどうなったの!?」
「僕が見たのは、土木作業員、夜遊びしていた学生、夜の店で働く女性、浮浪者の老人、バーテンダー、他にも色々いた。共通してるのは誰もが夜に外を出歩くような立場や職業だった事」
「!!?」
タイがプラプラと揺れ。
「もし、コレが手に入るとしても、僕が調べた限り、せいぜい国内で数百個前後。他の地域から集めてきても大陸全土で一万個もない」
絞られて水がポタポタとコップに落ちた。
「―――教えなさい。それは何なの」
「人化の秘宝、あるいは秘法」
「え……」
轟然とする少女に少年がそっとブレザーの衣嚢(ポケット)から小さなペンダントを取り出す。
「これはペンダント型。他にも指輪型と腕輪型。探せば他にもあるかもしれない。でも、元々が異種や亜人用。それも高度な魔術様式でどの氏族にも適応させるだけの力がある品だけに限られる。そうなれば、使えない物や不良品、一部の氏族にしか効果が出ない物も出てくる」
「聞いた事はあったけど、これが……」
ペンダントを目を見開いて美紗が見つめる。
「これさえあれば……」
魅入られた様子の少女に少年が溜息を一つ。
「な、何よ!?」
少年がペンダントをしまった。
「色々と調べた結果だけ言います。七教会に依頼する以外で、人化の秘宝を量産する術はありません」
「ど、どういう事よ!!?」
内心、今のアルヴァスの生産力や工業力、魔術のレベルなら同じものを複製出来るだろうと踏んでいた彼女の希望を打ち砕くような言葉だった。
「これは本来が人間以外を人間にするもの。当然、殆どの作は異種や亜人によるものです。でも、これを産み出した魔術体系や技術体系、能力の大半はもう失われて久しい」
「ッ」
ドキリと美紗の心臓が思わぬ程に強く打った。
何故か。
彼女は未だ失われていない旧き血統だったからだ。
アルヴァスの王家が廃滅した血統を保存する保管庫だとすれば、奏家は中身そのものと言える。
「これを創ったのは少なくとも千年単位前の“亜人”や“異種”で、混血が進んで統合の度に伝統的な魔術や技能が廃されてきた“現在の亜人”の力では完全な複製が出来ない」
「そ、それは……」
「魔術的な側面からだけ言っても、解析には大魔術師クラスの人間が百人単位必要です。亜人の人口比で大魔術師はアルヴァス全体でも五人未満。他の亜人国家や氏族に頼んでも高が知れてる。そもそも体系化されていない途絶した技能が多過ぎて、技術の復元が出来るとも限らない」
「し、七教会ならそれが出来るって言うの!?」
「大魔導師。魔術師を廃滅に追い込んだ張本人。魔導の祖にして究極の術者。彼女に頼んで何とかなるくらいだと思った方がいいです。でも、反七教会派のアルヴァスが七教会に依頼すれば、政治的にも難しい立場となる。だから、被害が出ても早急に霧の出所を突き止めて対処する方が安全だと国の上は考えた」
「そ、そんな事!! 国民を元老院が見捨てるなんて事あるはずが!!?」
「もし、この国が七教会に依頼したとしても、霧が消えたわけじゃない。事が公になれば、化物になるかもしれない霧が出る国土に誰が住みたいはずもない。人口や技術の流出から始って、七教会の人間奴隷を護る為の介入や霧の周知徹底が図られる事になれば、逃げ出そうにも大陸西部でアルヴァスの民は行き場を失う事にもなりかねない。五年前、人間達が汚染された国土から来る同胞を見限ったように、今度は亜人が行き場を失って難民化する可能性が高い」
「か、仮定の話じゃない!!」
「もし、仮にそうなれば、七教会は今までの対立も水に流して保護してはくれるかもしれない。でも、それは貴族制度、奴隷制度の崩壊を意味する。当然、既得権益層である亜人貴族も没落します」
「――――――」
美紗が完全に沈黙した。
少年の言う事は推測に過ぎない。
だが、その推測は常識に照らし合わせた場合、現実のアルヴァスの現状に即している事が分かる。
彼女は出来る事なら、×の呪いを解き、自分の立場をフルに使って人化の秘宝をどうにか集めようと考えていた。
しかし、例えそう出来たとしても、彼女を取り巻く環境は果たして彼女を放っておくだろうか。
それは無いと美紗は断じる事が出来る。
貴族の地位、貴族の利益、貴族の使命、全てを擲(なげう)ちたい者はいない。
彼女の両親だってそうだ。
国のどんな貴族に聞いても、今此処にある国を、貴族という制度を、手放したい者はいないだろう。
貴族の地位は国の為にと棄てられても、貴族の制度までは、自らの誇りまでは、棄てられないのだ。
「どうぞ」
「え?」
美紗の前に小さな指輪が出された。
銅なのか。
褐色の色合いは荒んでいて、とても装身具としての役割は果たしていない。
グッと少年が指輪を握って、テーブルの上に置く。
すると、ポタポタ血が指輪に滴った。
「?!」
彼女の目の前で今までのくすみが嘘のように指輪が輝きを取り戻しく。
「知った以上はそのままにしておけませんから。一つだけ」
「………何のつもり、よ……」
敵意とも強がりとも付かない視線を少年は冷静に見つめ返した。
「先輩はもう化物と戦った。そうである以上、“境界”が認識出来て、その中から湧き出すものを現実として知覚出来る。何も対策をしないまま夜外に出れば、化物になる可能性が高い」
「私が化物になるって言うの!!?」
ダンッと獣らしい爪を具えた両手が襟を掴んだ。
ギリギリと締まる首元も気にせず
「先輩は戦う人だと思います。もし、これからも関わるならつもりなら、それ無くしては命を落とす。今までの話を聞いて冷静に判断するなら、今の先輩にはコレが必要になる。違いますか?」
「ッ―――私は民を守る貴族よ。範を示す人間が真っ先に安全を得るなんて許されない!!」
「僕の話は僕の経験と今までの蓄積から話してるもので、絶対にコレが安全かどうかは分からない。民に範を示すなら、まずは危険を自ら克服するところから初めてみたらどうですか?」
「…………いいわ」
ドッと襟が投げ出されて、銅の指輪がテーブルから取られる。
「これは受け取っておく。でも、馴れ合おうなんて思わないで。私はこの事件が例え解決不能だとしても、絶対に諦めないわ」
「誰も解決不能とは言ってませんけど」
「……どういう事?」
美紗が目を細めた。
「もしかしたら、霧を止める方法が見付かる、かもしれない。そういう事です」
少年がブレザーの内側から一枚の紙の切れ端を彼女に差し出す。
「これは……」
受け取って。
視線を紙に落した美紗が見たのは日付と時刻。
「この間、“境界”の一部で“あちら側”への道を見つけました」
「あちら、側……」
「先輩がこの間経験した領域の更に先。霧が溢れ出る源の場所。国はもう気付いているか。あるいは突入準備の途中だと思います。でも、それよりも先にたぶん僕達はあの先に行く」
「僕“達”ですって?!」
「僕の道楽に命掛けで付き合ってくれるってお人よしで優しい人達がいて。“境界”が上手く開けば、侵入が可能になると踏んでます」
「そこに霧を止める術があるって言うの!!」
「それは何とも。何も無いかもしれないし、あるいはただ化物が屯するだけの領域かもしれない。でも、何の理由もなく“霧”が流れ込んできてるとも思えない。もし、その原因を突き止める事が出来れば、止めるか状況を固定、遅延させる術くらいは見付かるかもしれない……」
希望的観測に過ぎない。
そう言い切ろうとしたものの。
美紗は今の自分に出来る事が殆ど無い事に気付いた。
少年は×の呪いを解こうとはしないだろうし、彼女は事実を報告するかどうかの時点で既に躊躇っている。
報告したところで少年の言う通りに情報が握り潰される可能は高い。
霧の街に出るなと人々に説いたとしても、その理由が言えないのでは話にもならない。
つまるところ。
彼女は一つたりとも事件を解決する為に有用な意見を持っていない事になる。
「……これだけは聞かせて」
美紗が立ち上がって少年を見下ろした。
その真剣な表情。
一つ言葉を間違えれば、首が物理的に飛んでもおかしくない事を少年が悟る。
「貴方は…その“あちら側”にどうして行こうと思ったの?」
肝心な事を避けて話されていた事は彼女にも何となく分かっていたのだ。
少年が“霧”に関わる理由。
“あちら側”とやらに行きたい理由。
それは一体何なのか。
「呼ばれてるって言ったら信じますか?」
「呼ばれてる……?」
少年が頷いた。
「何となく。そんな気がするんです」
「そんな―――そんな事で貴方は事件に関わってたって言うのッッッ!?」
美紗の毛が逆立った。
その怒気も当たり前だろう。
大勢の命が掛かった事件。
それに何となくとか。
そんな気がするとか。
呼ばれてるとか。
曖昧で意味不明な理由で関係しているとすれば、彼女が怒らない理由(わけ)はない。
「僕は“霧”が何か具体的には知りません。化物を生む。化物を溢れさせる。そういう効果がある事は知っていても、その原理までは知らない。それと同じです。それが具体的に何かは分からない。でも、その先に何かがあるとは思ってる。いえ、“知ってる”」
少年も立ち上がった。
テーブルの横に置かれていた革製の鞄が持たれる。
「“境界”が最も深くなる時間帯がその時刻と予測されてます。場所はハガス西部。霧を直進した先に大きな橋がある。その橋の先はまだ誰も入った事の無い“あちら側”の可能性が高い。探索出来る限界まで潜って帰還する予定になってます」
少年がもう言う事は無いとテラスから歩き出そうと背を向けた。
「もし、自分に何か出来ると思うなら、どうぞ」
「仲間になれって言うの? 貴方みたいな得体の知れない容疑者の仲間に!!?」
「調査に同行するかどうかは自由意志。誰も指図する人はいません。僕は僕の理由で“境界”を越える事を選んだ。僕の友達は僕を一人にしたくないと同行を望んだ。先輩が受け取ったのは切符です。でも、列車に乗るかどうかは自分で決められる」
拳を握り締めた彼女がテラスのドアを潜ろうとした少年の背中に声を掛ける。
「どうして。私に……話したの?」
何も言わず。
誤魔化し続ける事も出来たはずだ。
そのまま化物になってしまえば、死人に口無し。
そもそも霧から身を守る指輪まで渡す必要なんて何処にもない。
「困ってる女の子がいたら、助けてあげる。らしいですから」
「はぁ?!」
ドアがパタンと閉じられた。
今、何を言われたのか。
美紗には理解出来なかった。
困っていたら助ける。
誰かに手を差し伸べる。
そんな常識論を語られたのか。
まったく場に相応しくない言葉に彼女はしばらく立ち尽くす。
「助ける…助ける、ね……いいわよ。なら、助けてもらおうじゃない……」
すぐにテラスから消えた獅子少女は、その日初めて夜遊びをした。
仕事でも家の用事でもない初めての夜の外出。
彼女の事を心配する両親は共に「まるで逢引に行くようだ」と語り合い。
相手の男は一体どんな傑物なのかと親馬鹿な言葉を霧に溶かした。
奏美紗の指には送った相手に当て付けるように指輪が嵌っていた。
薬指の部分に……。
*
―――大陸西部宝崖都市シャンラより。
「みんな~~今日は愉しんでるかなぁ~」
『は~~~~い』
ドーム状のステージ。
七教会特設スタジアムの舞台で道化(クラウン)と兎の着ぐるみがダダダッと登場し周囲を沸かせた。
歓声は子供達のものである。
凡そまだ二桁を超えない歳の少年少女が目をキラキラさせて見るのは舞台(ショー)の主役であるフール君とマー君のコンビである。
彼らは恵まれない子供達向けに七教会が企画する娯楽舞台を飾る主役であり、実際この数十年ずっと戦争やら紛争の合間を縫って講演を続けてきたプロでもある。
その甲斐あってか。
二人組みの舞台はいつも満員御礼。
過去、彼らの舞台を見た大人達が自分の子供を連れてやって来て、子供顔負けに興奮してよく倒れるのはいつもの事だ。
そんなフール君とマー君の特別講演がシャンラで行われるのは実に三十年ぶり。
七教会の影響下に入ってから豊かになっている都市で講演が行われる異例の事態に大人達は興奮気味に幸運な事だと口々に子供達へ語っていた。
「いやぁ~今日も本当に楽しい舞台日和だよぅ」
「そうですな。本当にまったくどうしてこんな事をしているのか目を疑わざるを得ませんな」
「まったくツル――マー君は毒舌だなぁ~~ちょっ~~とだけ新作を試す機会を設けただけなのにねぇ」
「お仕事が溜まっていますからな。怒り的な意味で毒舌かもしれませんな。凡そ五年分の決裁をしたのは誰なのか考えてくれれば幸いですな」
「兎は気が短いなぁ~」
あははーと笑うフール君と毒舌なマー君のやり取りに早くも暗雲が立ち込める。
「ではでは、そろそろ子供達に夢と希望と現実その他諸々な光景を見せちゃおっかなぁ。さぁ、まずはみんなで宇宙旅行に行ってみよう♪」
ざわつく子供達はまず最初に首を傾げた。
そもそも宇宙が何なのか殆ど知らなかったからだ。
七教会の影響下にある都市とはいえ、最新の学術には大人達も明るくない。
ただ、一割二割は宇宙という単語に空気の無い場所というものを思い浮かべて顔を引き攣らせた。
パチンとフール君が指を弾く。
すると、地上のスタジアムそのものがシャンラから消え失せる。
周囲に展開していた七教会の守備隊の一角が巨大な構造物の長距離転移の姿を目にして「おぉ」と驚きの声を上げた。
自走式の特殊車両。
積層魔力を使った自動運搬車。
搭載された巨大なコンテナの上で周囲の環境をチェックしていた高格外套【超克(ネガティオ・セイプスム)】達が転移後の空間計測情報を後方の天幕内部に送る。
『月面【臥龍(ソムノ・ドラクル)】自治区より北1733km地点に転移確認。後のコントロールは【外宙碩学師団】に一任。守備隊は各自周辺の封鎖後、速やかに“境界”の計測を実施せよ。オペレーション・シャットダウンを開始する』
「「「「「「「「「「了解」」」」」」」」」」
周辺だけで三十五人。
実質、大陸標準の師団十個以上の戦力がスタジアム周辺には集結していた。
転移で都市の各地に飛んだ彼らは鎧に搭載された機器から送られてくる情報が、視覚的に投影されると驚きに目を見張る。
それはシャンラ周辺に巨大な見えざる“孔”が幾つも領域(レイヤー)を広げていたからだ。
近頃、大陸西部で頻発し始めた“霧”は未だ人々の話題に上らぬ程度のものであったが、調べれば一目瞭然。
その“霧”の出所は明らかに通常の空間ではない。
『第一次観測終了。計測結果を元に階層化した異相を精査。侵食予測範囲出る』
「何だコリャァ!?」
部隊隊員の一人が思わず零した。
彼らの虹彩に埋め込まれた結晶が見せたのは表面上の空間の下。
まるで空洞のようにポッカリと開いた異相の有様だった。
地中を水が削って出来た隙間にも見えるが、実際には通常空間に隣接する幾層にも重なった別の領域である。
『各自、地脈上の秘孔(ポイント)に到達。特殊装備を設置せよ』
各隊員から了解の声が響き、彼らは自らの腰に装備(マウント)してた樹木の杖を大地に付き立てた。
都市の建造物の上や山の頂、路地裏、空き地の中央、公園のベンチ脇。
どれもこれもランダムに見えるが事実は地脈に干渉する場所ばかりだ。
『これより稼動させる。各自、全魔力を【聖杖(サクラ・ヴァクラム)】に注入。臨界と同時に現場から離脱。都市外縁部にて結界の発動に当たれ』
三十五人の鎧達が打ち立てた杖が輝きを帯びていく。
やがて、外灯にも近い光を放つようになると彼ら全員が都市を囲むよう人気の無い山中に転移した。
『【聖杖】全機稼動を確認。臨界同調まで三十二秒。地脈との同期を確認。周辺異相を巻き込んで潜行を開始します!!』
杖がフッと立てられた場所から沈んで消えた。
無論、地面内部にではない。
最も近い異相に向けて穿孔したのだ。
『+0.33から-43.22まで穿孔確認。侵蝕範囲と接触を開始。-46.33。-66.44。順調に穿孔中。全結界起動準備。異相復元及び結界深度を-342.33に設定。異相内部から粒子が噴出す可能性有り、“霧”に留意せよ!!』
【騎師】達の誰もが息を飲みながら視界の杖が予定深度に届くのを見守った。
『-340.00に到達。結界起動。結界起動。【聖杖】にアクセス。結界同期準備完了。発動まで4、3、2、1、起動!!!』
「「「「「「「「「「起動」」」」」」」」」」
都市を囲む三十五人が点と点を線として光の円環を築いた。
同時に都市三十五箇所から光が吹き上がり、彼らの張った円環と同期する。
『完全同期開始。侵蝕異相を矯正。補強中……全十二層次元境界域まで復元。異相内部に切り離された“霧”を確認。【聖杖】E57の設置点より排出を開始する。担当【騎師】は速やかに粒子捕獲を』
都市外縁の結界維持から一人抜けた。
街から少し外れた水源域。
葦の生えた沼地の上空に【超克】が転移で現われる。
『排出弁の形成を確認。対侵蝕用魔導防御方陣展開。準備よし』
杖が沈み込んだ地点からフワリと風が吹いて辺りに霧を漂わせ始めた。
「確保。空間凍結終了。侵蝕率0.00034%。これより帰還す―――」
ひひひ。
「何だ?! レコーダーオン!! 解析用魔導方陣駆動開始!!?」
ひひひひ。
鎧が周囲に響く声を警戒して剣を構え、周囲の探索用魔術ストックを開放した。
実に十種の探査用魔導。
光波、圧力、引力、磁場、粒子、元素、事象、法則、因果。
それらを観測するものの中で唯一因果律を計測する【因痕(キカトリクス)】の探査魔導だけに反応が掛かる。
急激に収束していく【因痕】の波。
原因と過程と結果の不一致。
それは“無いものが現われる”前兆。
【ひひひ】
「?!」
担当【騎師】にも声が確かに届いた。
クリアーな響きは直に聞いているような音質。
耳元に囁かれているような笑い声。
【お腹空いた】
彼は声がした背後を直感に従って鉄剣で切り裂く。
並みの高位魔族ですら当たれば致命傷の一撃。
それがチョコンと指先で止められていた。
「こちらチャーリー!!! 聞こえるか!!! 目標ダークエルフ!! 繰り返す!! 目標はダークエルフ!! 年齢十代!!! 性別女性!! 金色の仮面を被っている!! 衣服は白い布を直接纏う形態!!」
明らかに自分より格上と悟った時点で、彼は己の命よりもまず現状の報告とレコーダーに残す文言だけを正確に言葉とする。
必ずや己の同僚達が仇を取ってくれると信じて。
【ナーリヤ。お腹一杯】
「な、に……?!」
彼は自分の姿がもう外套を着込んでいないという事に驚愕する。
攻撃された様子は無かった。
そもそもいつ脱いだかも分からない。
果たして如何なる能力か。
それとも幻術の類か。
『+0.33から-43.22まで穿孔確認。侵蝕範囲と接触を開始。-46.33。-66.44。順調に穿孔中。全結界起動準備。異相復元及び結界深度を-342.33に設定。異相内部から噴出す可能性有り、“霧”に留意せよ!!』
「―――?!!」
ナーリヤと名乗ったダークエルフの少女が口元に笑みだけを貼り付けて一言一句違わず言ってみせた。
【異相内部から粒子が噴出す可能性有り、“霧”に留意せよ!!】
【異相内部から粒子が噴出す可能性有り、“霧”に留意せよ!!】
【異相内部から粒子が噴出す可能性有り、“霧”に留意せよ!!】
【異相内部から粒子が噴出す可能性有り、“霧”に留意せよ!!】
リフレインする言葉に現実が捻じ曲がったような錯覚。
『どうした!! チャーリー応答せよ!! 霧の噴出を確認?!! 霧の噴出点を探索―――嘘?!! 何処にも出てる場所が無いって言うの?!! 全隊員に伝達!! 作戦中止!! 繰り返す!! 作戦中止!!! オペレーション・シャットダウンを一時凍結!! 連絡が―――全周波帯で原因不明の妨害を確認!!? そんな!!? 応答してください!! 繰り返します!! 応答してください!!! 全オペレーション・スタッフに通達!! 現時刻を持って現場を破棄!! 非戦闘員はただち―――』
「そうか。オレはもう……」
鎧の中にいないのは当然だ。
ダークエルフの少女は言っていた。
もう、お腹一杯だと。
【ひひひ。ごちそうさま】
彼はようやく自らがもう生者の列に加わっていない事を自覚し、これから共に彷徨う事になるのだろう黒い人型達を霧の中に確認する。
口の奥から、耳の奥から、目の奥から、鼻の奥から、何かが、不吉なものが湧き上がってくる感触。
「すみません。ここまでのようです」
彼は視界を早くも覆い始めた屍蝋を剥がす事も出来ず。
己が仕える聖女の名を呼んだ。
「ユアン様」
肌が黒く爪先から変わりゆこうとして。
『情けない』
パキリと仮面が―――霧に蠢く人型が―――割れた。
「え?」
霧の中。
半分の視界。
その先で刀の唸る音がした。
空を裂く音色。
しかし、それは虚すら裂くかもしれず。
白が、ただ二つに別たれた。
天と地を斜めに走る一線
一太刀を終えた刃が流麗極まる黒髪を撫ぜ、チンッと鞘に納まる。
「閃剣が奥義の一つ【留斬(るざん)】」
決着は当の昔に付いていた。
ダークエルフの頭部が傾ぎ、ズレ、崩れる。
斬り払われた白霧が瞬く間に失せていく。
其処は葦原。
沼地の上に裸で“彼”は立ち尽くす。
全ては夢幻。
そのようにも思えて。
しかし、現実だと周囲の全てが教えてくれる。
沼地の地面には何処までも続く一線が刻まれ、空気にすら、ズレが存在した。
明らかに斬れていると分かるズレは空間に縫い止められたものか。
はたまた空気すら聖女の下に切れぬはずないという現実か。
空間が歪んだような引き攣りが延々と世界を隔てていた。
その中心にいるダークエルフがクルリと振り返る。
ひひひ。
そんな声が半分しかない瞳と三分の二しかない唇から零れる。
「?!!」
彼は悲鳴こそ上げなかったが、少女の傷に息を呑んだ。
ギチギチと何かが引き摺られるような音と共に少しずつ少しずつ、落ちた頭部が虚空を昇って顔に引っ付こうとしていたからだ。
「【留斬】を無理やり繋げるか」
ガッチリと腰の刀の柄を掴んで身を捻った黒髪の麗人。
七聖女ユアン・クオは強かに微笑んだ。
「元に戻るとは大した復元力だ」
斬撃による傷を無理やり“遺し続ける”一撃。
【留斬】の原理は閃剣の奥義【心斬】に近い。
一つ違うのは相手の心に刻むのではなく記憶に刻む斬撃である事か。
知的生命の肉体はその状態を精神的部位に多く預ける。
思い込みという錯覚が傷すら生むように心すら斬れるのは、精神活動というものが生命活動の一部として深く物質と絡み合っているからに他ならない。
心に刻めば、その傷は永遠。
記憶に刻めば、その傷は無限。
生命力を波動に置換。
刃を利用し、魔術の一種として記憶中枢へ直接転写する【留斬】は見掛け上ただの斬撃だが、記憶上は現在進行形の傷痕となる。
脳そのものに打ち込まれた情報によって己自身からの干渉を受け続ける為、現実と現在の傷の現状は食い違い、本人にとっては一生治らない傷としてしか認識出来なくなるのだ。
そもそも閃剣の奥義は不死者を打倒する為に生み出されたものばかり。
知的生命として不死を獲得したとしても、記憶や精神には連続性が認められる。
ならば、それは変化しているという事だ。
肉体が如何に不死だろうと記憶に刻まれた傷までは消せない。
精神と肉体を両方から責め苛む斬撃は現実で幾ら治癒しようとも、認識上は斬られた時のまま、肉体と精神に食い違いと錯覚を生み続ける。
となれば、その傷の根本的治癒の方法は一つだけ。
記憶の削除のみ。
「“貴様等”への対策なら五年も前に済ませてある。生憎とウチの筆頭は手癖が悪くてな」
知的生物のように振る舞い、判断能力を有し、行動に連続性があるなら、情報を保存し、変化を刻む中枢が存在するという事。
ユアンの奥義が利かないとなれば、波動による記憶への刻印が浅いか。
あるいは原理的に情報の保存方法が人間が知る知的存在の大半とは異なっているかだ。
「もう一撃喰らってもらおうか」
ダークエルフの少女に抜刀の構えを見せたユアンだったが、瞬間的に彼の首元を掴んで離脱、跳躍した。
「ぐ!?」
「我慢しろ!!」
ボッと葦が急激な温度の変化に燃え上がる。
霧が晴れたかと思われた世界に再びの激変。
彼には割れた世界に緑の炎が噴出したように見えた。
「新手か? ならば、まとめて叩き斬る!!」
跳躍後。
虚空に放り出された彼が見たのは空に足を付いたような格好で静止し、構えを取るユアンの姿。
「刻め【曝―――」
ひひひ。
そんな声が周囲に響いて。
手品のように炎が収束した。
「……逃がしたな」
呟いたユアンが虚空で跳躍して地面に落下寸前の身体を抱えて着地した。
「聖女の大半が“上”に昇っている時にコレか……」
渋い顔をしながら、ユアンが大の男をお姫様抱っこから解放すると空を仰ぐ。
一面焼け野原となった沼地に大きな影が近付きつつあった。
七教会の飛行戦艦。
それも一個艦隊にも等しい十数隻の船底が空を覆い尽していく。
「しばらく休め。今後、藩落方面への大規模な異動がある。もし、まだ戦えるなら席は残しておく」
「は、はい。ユアン様……あ、ありがとうございます」
男が片膝を付いて頭を垂れた。
「……他の人員は甲型武装の連中が異相から引揚(サルベージ)中だ。そんな恰好で出迎える気か? とっとと迎えに着替えを貰ってこい」
連れない様子で去っていく背中。
月下美人と湛えられる長い黒髪の聖女の後姿は美しかった。
「ああ、それと“付けておいた”が、一応は医者に行け」
あの屍蝋が顔を覆い尽そうとした刹那。
割れたのは仮面だけでは無かったのだと。
その時初めて彼は気付き、納得した。
真に全てが断ち割られていたのだ。
彼の髪も血も肉も骨も脳髄ですら。
そして、それでも生きているのは目前の聖女の技故だ。
刃の達人による芸には野菜を両断しながら、斬られていない状態へと戻す技があると言う。
あらゆる細胞を傷付けずに切り分け、細胞の薄い治癒力が状態を斬られる前と同様に保持する。
殆ど不可能の神業だ。
しかし、人間の頭部を斬り裂いて尚生かすのは如何なる技と例えるべきか。
それを知るからこそ、人々は彼女を讃えるのだ。
閃きに似た太刀使う者。
真に人の守護者たる刃の使い手。
七聖女ユアン・クオ、と。
七人中、最も弱いと自分で周囲に漏らす女は戦艦の両脇から降下してくる兵達が周辺を封鎖していく中、自分が斬った者の行く先を遥か遠方に見据えて目を細めた。
「―――この先は確か……」
彼女が見ていた方角。
千km以上先にある国家は今や霧の国と西部では評判である。
「フルーに伝えておけ。しばらく師団を離れる。統括は師団長に一任。通常任務は全て破棄。非常事態以外では呼び出すなと」
『了解しました』
背後に降下してきたばかりの通常の高格外套達の一人が畏まって膝を折った。
「それと遊ぶのはいいが、マディクトを困らせない程度にしておけともな」
後ろからの言葉も聞かず。
聖女は己の足で歩き出す。
自らが斬った者の気配を辿って。
先にあるのが、魔王との大戦以来だろう強大な真に戦うべき“敵”との争いだと感じながら。
アルヴァスに特務護衛艦及び最精鋭一個小隊が派遣されたのは一週間後。
お忍びでやってきた七聖女の対応にアルヴァスの元老院は忙殺される事となる。
誰の脚本(シナリオ)か。
新たな争いの火種が都市に忍び寄りつつあった。