第三章六節「災禍は突然に」
「じゃあ、明日の夜に」
「うん」
「今日みたいに遅刻してきちゃダメですからね? イクスさん」
「ごめん……」
「ふふ、怒ってませんから。顔を上げてください。あ、そろそろ次の特別教室に行かないと。では、また」
手を振って朗らかに講堂から出て行ったエストリアを見送って。
少年は悪い事をしたなと少し反省した。
ついに“境界”の先に行く日が明日に迫っている。
その細々とした予定の最終確認に少女は午前中から来ていたらしかった。
昼過ぎに登校して自分の席で萎びた菜っ葉みたいになっている彼女を見つけたのは少年自身である。
「……勉強しよう」
とりあえず。
講義に頭を切り替えて、鉛筆が握られた。
数時間後。
今日は夜まで用事がない少年は放課後の鐘を聞きながら外を眺める。
近頃は指定席に近い窓際からはまだ霧も確認出来ない。
「……」
“境界”を越える準備は前日に全て終わってしまっている。
寝不足は大体昼休みを当てて調整した甲斐あってか然程でもない。
さて、どうするかと立ち上がろうとした少年の横に人影が落ちる。
「あのーこれそろそろ提出だって事務の人が。じゃ」
何かと浮いている少年に獣人のクラスメイトが近付いてくると紙を一枚置いてソソクサと去っていった。
「……『部員招致活動への参加日数不足』」
読み上げた紙には少年が殆ど参加していなかった部活動への体験入部だの部活見学への注意事項が数行に渡り記されている。
曰く。
一日でも参加しないと健全な学校生活を送る意思が無いと見なされて減点対象となる、らしい。
「ええと……」
さすがにまったく参加していないのは問題視されるらしいと気付いて、少年はポリポリ頬を掻いた。
今からでも部活見学するという手もあるが、多くの生徒はもう招致活動への参加も見学も終えてしまっているのは構内の様子を見れば一目瞭然だ。
もう締め切っている部活が殆どであるのは確実。
見れば、通達の日数は二日前。
わざとなのか。
それとも単に近づき難いと思われていたのか。
どちらにしろ。
少年は急いで部活を回らなくてはならなくなったのだ。
「行こう……」
そういう事となった。
*
国立最高学府であるアルヴァス・カレッジは事実上の自治権限すら有する総合教育機関である。
初等中等高等と三学府に別れ、その上は元老院の各派閥が運営する私塾と研究機関や高等職に就く為の各機関への実地研修、または軍への入隊のどれかとなる。
政治家を目指す貴族の子弟達の大半は元老院の自分の関係者がいる塾へ。
向上心を持つ文系の子女子弟は研究職や高等職に就く為に実地研修へ。
体育会系で戦闘能力の高い氏族は軍の尉官クラスで入隊してエリートコースへ。
どれもこれも国の次代中枢を担う人材として国の各地に散らばる。
故に何かしらの特技や技能を有する事が奨励され、カレッジでの部活動は盛んに行われているのである。
(何処か……まだ開いてるところは……)
膨大な設備投資を背景に多くの生徒達は何かしらの部活動に所属して功績を残さんと日々勤しんでいるが、そんな事情とは無縁の少年が一人。
文系も体育会系もほぼ全滅。
開いているところからは“九十対十”がこんな時期に来てもお断りだと暗に拒否された。
となれば、フラフラ彷徨うのが道理である。
殆ど人が寄り付かないものの、まだ回っていない部活があると少年は最も旧い特別校舎にまで足を運んでいた。
新設された部活用の特別校舎は殆ど敷地の反対側。
それを見れば、其処が如何に錆びれた部活の吹き溜まりかが分かるだろう。
反対側の校舎とは活気が違う。
何より誰もいない。
部活の生徒で溢れているはずの特別校舎に人気が無い時点で言うまでもなく廃部真直の部や幽霊部員オンリーの部ばかりなのだ。
それでも人が居れば、既成事実は作れるとくまなく見て回った少年は最後にようやく人気がある部室を見つけた。
何故か大陸東部の【東象文字(イースタン・キャラクター)】で四文字。
武芸術部、とある。
ドアには曇り硝子が嵌っていて内部までは見通せない。
しかし、誰かがいる気配だけはあった。
コンコンとノックを二回。
『どうぞ』
ドアの奥から聞こえてくるくぐもった声に少年は怖気(おじけ)る様子もなくノブを回して押した。
すんなりと開いた扉の先。
黴の匂いが僅かにする埃っぽい一室には鎧やら刀剣が壁際に所狭しと並べられている。
その奥。
優雅な白い丸テーブルの上には紅茶のティーポットとカップが一つ。
鉄剣とお茶にどんな因果関係があるのか。
まったく調和しない家具には椅子がニ脚のみ。
黒い椅子に座る存在は古びれたアンティークの硝子細工の窓を開けて、夕涼みとばかりに穏やかな風を愉しんでいた。
鴉が鳴いている夕景の方が新入部員の獲得より重要なのか。
紅茶を一口。
芳香が少年の鼻にも薫った。
「あら、珍しいですわね。この斜陽の部に見学とは。生徒会の催促野郎かと思いましたわ」
「ええっと……」
少年は半笑いでどう返したものかと思案する。
彼女は恐ろしいくらいに高貴だった。
ツンと済ました百合の花を思わせる白い改造制服。
常人では到底持つ事も叶わないだろう床に付きそうな銀の巻き毛。
体全体から滲み出る貴族の気風。
雫が滴りそうな長い睫も少年より少し高い背も間違いなく美形の両親から生まれてきたとしか思えない端正な卵型の顔も女性からは羨ましがられるであろう目鼻立ちも、男の視線を釘付けとせずにはいられない豊満な胸も、全てが彼女を貴族と見せていた。
貴族の子女。
それをもしも具現化したら、こういう形になるだろうな、というのが少年の第一印象である。
「何か?」
「あ、いや、えっと……尻尾柔らかそうだなぁって」
プラプラと椅子の横に揺れる白銀のふさふさに思わず言及して。
少年は誤魔化した。
凄い貴族なんだろうなぁ、という頭の悪い感想を飲み込む為に。
「―――喧嘩売ってますの?」
「え?」
ズダァアンと少年が床に倒れた。
いや、正確には“何かに倒された”のだ。
「“九十対十”のわたくしの尻尾を見て『柔らかそうだなぁ』……ふふ、首を切り落とされたいんですの?」
フワリと少年の首筋に立て掛けられていた長剣(ロングソード)の一本がヒタリと当たる。
明らかに微笑んでいるが怒っている貴族少女。
少年はさてどうしたものかと困った。
「いや、ただの感想だったんだけど、何か悪い事したっけ?」
「ふ、ふふ、感想……このまま斬り落してもいいのでしょうけど、一応は機会くらいあげますわ」
剣が一人手に首から離れた。
少年が立ち上がると少女が背後に立て掛けてあった2m強の一刀の鞘を掴む。
「さぁ、此処にある剣ならどれだろうと構いません。取りなさい」
「それって……断ち合うとか、そういう?」
「ええ、勿論ですわ。無礼者を一方的に打ち首にしたところで腹の虫が治まりませんもの」
「此処で?」
「心配無用ですわ」
パチンと指が弾かれると周辺の景色が変わった。
何処までも続く平原と吹き抜ける風に少年は目を見張る。
「此処は空間創生【壷世(ムンディ・オラム)】の魔術具そのもの。四方10kmの空間内部でなら、どのような立ち回りも可能でしょう」
刀剣は大地に突き立った恰好。
銀尻尾が逆立って左右に揺ら揺らと揺れていた。
「一応、自前のがあるんだけど」
「そう……なら、お出しなさい」
「出さなきゃ、駄目?」
「そのまま何もせず真っ二つになりたいのならよろしくてよ」
「はぁ……」
溜息一つ。
何がそんなに気に食わなかったのか少年にはまったく分からなかったが、此処でバッサリ殺されるのもまずい。
不死者だって傷付けば痛いし、少年はまだ真っ二つになっても元に戻るか確認した事はないのだ。
それを今此処で体験したいとは思わないし、そもそも部活体験出来る場所を探しに来ただけで死ぬのはどう考えても理不尽過ぎる。
「えっと、条件的なものは?」
「……そうですわね。一太刀受け切ったら水に流しましょう。そのまま真っ二つになって死んだらウチの方で貴方の家の方には見舞金くらい出しますわ」
もう完全に殺す気だと誰にでも分かる発言。
脅す気もサラサラ無いという点で少年は貴族社会の恐ろしさを身を持って知った気がした。
「ちなみに真っ二つになる理由とか聞いたりしたら、怒る……かな?」
「知らずに言っているなら不躾で礼儀知らず。知って言っているなら侮辱しつつ賤しめる意図有りと取りますわよ?」
「不躾な礼儀知らずにも自分の命が真っ二つにされる理由くらい知る権利は在ると思う……」
困った笑みの少年に目を細めて。
彼女は笑みを消した。
「不躾で礼儀知らずで、ついでに“知る権利”なんてのたまう七教会被れ……わたくし気が遠くなってしまいそう」
ギャラァアアアン。
そんな音と共に刀が一瞬で鞘から抜き出された。
2mはある大太刀。
それを一息で抜く力量は常識的に見て達人の域。
(あれって……ええっと、図書館で見たような……)
馬上から振るうものにも見える刀の長さよりも、少年はその中央。
鎬地(しのぎぢ)と呼ばれる部分に掘り込まれた長文に目が吸い寄せられた。
書かれているのはやはり【東象文字】である。
【東征冥利大天将技神ノ太刀(とうせいみょうりだいてんしょうぎしんのたち)】
一体どんな意味なのか。
微妙に分かるような分からないような。
とにかく少年はポリポリと頬を掻いて、己の万難に空を見上げた。
夕景には鳶が飛んでいる。
「さぁ、お出しなさい。出すまでは待って差し上げます」
「一つ」
「?」
少年が人差し指を立てた。
「その…もしも、僕が勝ったら?」
「…………ッ……ふ…ふふ、あはははッ、あはははははは―――」
最初呆けたような顔をした後。
貴族少女が淑女に有るまじき口の開けようで大笑いし始める。
「何か、まずい事言った…かな?」
その笑いの意味が取れず。
少年が首を傾げる。
「いいでしょう!! もし、貴方がわたくしに勝ったら、わたくしを好きなようにしなさい。どんな事でもして差し上げましょう。如何なる要求にも答えましょう。わたくしの出来る限りの事をしてすると誓いますわ」
「え、いや、そこまでしてもらうのは悪い気が……」
「いいから出しなさいッッッ!!!! わたくしの気が変わらない内にッッッッッ!!!!!!!!!」
その怒声に少年は完全に怒らせてしまった事を悟る。
相性が悪いのか。
それともそもそも少年が悪いのか。
どちらにしろ。
もう刃なくして解決しないだろうと少年は掌から“霧”の中で使ってる剣を抜き出した。
「行きますわよ!!!!!!」
貴族少女の気迫に少年は何となく『刀より剣の方が似合いそうだな』と緊張の欠片もない事を思い、心臓以外の全ての筋肉を弛緩させた。
長い長い剣が鞘も無いのに抜刀時のように構えられ、手が虚空に無いはずの鞘を掴む。
「――――ッッッ!!!!!」
速さ。
正確さ。
そのどれもが少年の予想を上回った。
大太刀。
いや、殆ど長太刀のような馬を倒す為に用いる長さの一振りは狙い違わず。
7m弱在った距離を十の四乗分の一秒で通り抜け、その常人には見えも聞こえもしないだろう斬撃で少年の首に迫った。
それから一秒後。
周囲の地面が削れ、舞い上がり、土埃となって空間を埋め尽くす。
「……ふぅ」
その溜息は少年にとって霧の中で戦う時よりも深いものに違いなかった。
(……ちょっとヒリヒリする……かな……)
純粋な斬撃を極めると最終的には刃が焼け付く断熱圧縮が発生し、刃が通り過ぎた後には衝撃波が生じる。
魔力を纏う一撃だったなら、首は飛んでいただろうと少年はゾッとしない未来(IF)に首を竦めた。
土埃は衝撃波が生じ掛けた事を意味する。
しかし、激しい土埃そのものが斬撃の失敗を暗示していた。
もし成功したなら、土埃なんてすぐさまに衝撃で流れ去っていくはずなのだから、斬撃の威力が途中で殺されたのはその手の魔力刃を用いる術者には一目瞭然である。
さぁっと風が土埃を浚っていく。
束の間。
沈黙が流れ。
ヒュンヒュンと上空から鋼の刃が回って落ちてきた。
切っ先より50cm以上はあるだろう。
半ばから断ち切られた刀の破片はサクンとあっさり地面に突き立った。
「……うそ……嘘、です……わよ……」
少年の前で未だに刀を振り抜いたままの姿で硬直する貴族少女が呆然として、刀すら見ずに呟く。
「大丈夫?」
思わず聞いた少年の声はまたしても侮辱だったのかどうか。
ジワリと今までの激怒に吊り上がっていた目尻に透明な玉が浮かぶ。
「そんな……事……あるはず……ないじゃない……わたくしの……我が流派の……」
血を吐くような呟き。
今にも枯れてしまいそうな喉で搾り出す慟哭にも等しい声。
「ッ…ッッ……う、ぁ……うぁ゛……うぁああああああああああん!!!!」
「?!」
少年は首を切り飛ばされそうになった時より余程に狼狽した。
誇りと胸囲と意地だけは無駄に高そうな少女がポロポロと涙を零して大泣きし始めたのだから。
「え、ぅ、その…ごめん…少し落ち付い―――」
「う、ぅぅ、う゛あぁああああッ、ふぐッ、あ、ぅああああああああああ―――」
ペタンとその場でへたり込んでしまった貴族少女を腫れ物でも触るように困った様子で慰める少年が一息付いたのはそれから小一時間くらいしてからの事だった。
*
「………」
「………」
気不味い。
未だ魔術具の空間で少年は隣の少女をどう扱っていいのか困っていた。
泣くだけ泣いてから涙を拭って以来。
ズゥゥンと。
鉛より重い空気を垂れ流しながら、体育座りで顔を伏せているのだ。
「あのー」
それでも話し掛けたのは少年にとって切実な見学した既成事実の為である。
「………何ですの?」
顔は伏せられたまま。
その回答に少年は遣り難いと感じながらも今日の目的を告げる。
「何でもしてくれるって言った、よね?」
ピクリと貴族少女の肩が跳ねる。
「………ええ、言いましたわ」
「それじゃあ、その……見学したって学校側に書類提出してくれないかな?」
「え………?」
思わずまだ赤い目で少年を振り向いた少女が慌てて顔を再び伏せる。
「な、何を言ってますの?」
「いや、学校から部活見学を一回もしてないと減点対象って紙が来てて……その部長とかからの報告が無いと二日後から素行不良のレッテルが貼られちゃうらしいから」
何かトンデモナク場違いな空気が二人の間に溝を作った。
片やヘラヘラと困った笑みで。
片や人生の終わりを前にしたような人間の顔で。
「その……ダメ?」
「ダメなわけ……」
「?」
「ダメなわけないでしょう……貴方は我が武芸術部の部長たるわたくしを完膚なきまでに下したのですから…」
「え、部長だったの?」
「ッッッ」
ギラリと睨まれて慌てて少年が愛想笑いを浮かべた。
「え、えーっと……てっきり武芸術部って男の人ばっかりなのを想像してたから……」
「なら、何だと思っていたのかしら……」
「マ、マネージャーかなぁ……って……」
「う、ふふ、うふふふ、まねーじゃー……ふ、ふふふ、うふふふふ…そ、そうですわね…わたくしなんか……マネ、マネージャーで……」
ドス黒い気配。
もう暗黒面(ダークサイド)に落ちて魔族になりましたと言われた方がしっくり来るような落ち込みようである。
「その、それで落ち込んでるところ悪いんだけど、学校に書類だけ提出しておいてくれない?」
「ええ、分かりましたわ。当然ですもの。貴方はわたくしに勝った。勝者の言葉に従いましょう」
「いや、普通に部長として在った事をありのまま書類として提出してくれれば、何も問題は―――」
「問題ありますわよッッ!!! ありまくりですわよッッ!!!!?」
ガバッと少年の肩が掴まれる。
鬼気迫る顔で貴族少女が少年を凝視する。
「何なんですの!!? 貴方は一体誰なのですか!!? わたくしをこんなにして!!? こんなッ、こんな惨めに生き恥を晒すくらいならッッ!!!?」
ガッと衝動的に刀を取って喉に当てようとした少女がガクンと途中で止まった。
「――――?!!!」
「えっと、さ……君が何に絶望したり、何に怒ってたりしたのかは分からないけど、そういうのは短慮だと思うよ」
ポタポタと先程は一滴も滴らなかったものが少女の前で零される。
少年の手が刀の刃をガッチリと掴んで止めていた。
「いいんじゃない? 何かを失ったって。それが本当に大事なものだとしても。生きてるならまた拾うことだって出来るかもしれないし、別の大事なものが出来るかもしれない」
「大事なものなら今さっき失いました!! わたくしに残っていた最後の、たった一つのものをッ!!」
「君の刀が折れたのは単に君の実力が低かったからだし、伸び代はまだあるかと思うけど」
「わ、わたくしのッ、わたくしの技量が、実力が、低くて、あ、貴方にお、劣っている、と?」
にこやかな笑みが頷いた。
「うん。だから、別に流派の看板とかには泥も塗ってない気が……ああいう技の流派ならまだまだ鍛えようとか結構あるんじゃないかなぁ、と」
とても肯定的に色々フォローしたに違いないと少年は内心の汗を拭う。
此処で自殺されては面倒に面倒に面倒が重なってしまうのだから当然だ。
と、言うか。
近頃、周囲からの評価が人間少女や獅子少女を誑かす人間少年というものなので、女癖の悪い人呼ばわりはそろそろ卒業したかった。
ギョロリと死人のような顔色で貴族少女が少年を睨み。
フッと倒れる。
「大丈夫?」
慌てて背中を支えたものの。
完全に気絶していた。
どうやら感情の針が振り切れたらしいと悟って。
これからどうしたものかと少年はキョロキョロ辺りを見回す。
すると、途端に周囲の景色が元に戻っていった。
潮が引くように景色が復元され切ると。
折られた刀と滴った血だけが生々しく床に残っている。
部室の端にある掃除用具を入れる箱が少年の目に止まった。
これ以上此処にいても得るものは為さそうだとすぐ掃除が開始され、それから部屋に一時間程が経過する。
「ん……んぅ……ッ…はッ?!」
いつも通りの席に座っていた貴族少女は思わず椅子を倒しながら立ち上がって日が暮れている事を確認した。
辺りには人気も無いし、窓は開いたまま。
紅茶は完全に冷め切っていて、部室は静まり返っている。
「………夢?」
あまりにも意味不明。
あまりにも理不尽。
あまりにも不躾で礼が無くて、こんな時にあんな事を言う恐ろしく女心が分からない男。
そんなものが自分の渾身の一太刀を受け切るどころか、流派伝来の秘宝を折ったなんて在り得ない。
悪い幻に掴まったものだと少女は後ろに立て掛けてあった【東征冥利大天将技神ノ太刀】を引き抜いて、笑みを固まらせた。
「………」
先から幾分か、無い。
パチンと指が弾かれ、魔術の光が灯される。
ティーポットの横にご丁寧にも置手紙と刀の欠片が置かれていた。
「『見学の件をよろしくお願いします。何か連絡があったら一年の××講堂のイクス・ゼオまで。PS.床と刀は雑巾で拭いておきました』……ぞ―――」
絶句しつつ、銀のドリルみたいな髪が幾本も逆立った。
誇りやその他諸々彼女の人生に等しい刀(モノ)は真っ二つにされた挙句雑巾掛けをされて、蒼い天蓋の星の輝きをキラリと反射させた。
その日、地獄の怨嗟にも等しい声で自分の名が響いたのを少年は知らない。
*
夜が忍び寄る時間帯。
“霧”が今日も都市を覆っていた。
都市の心臓である北部から南に行けば、赤線歓楽街がある。
急激に変化したアルヴァスの内情は旧き価値観と新しい価値観の鬩ぎ合いと言って差し支えない。
その情景が最も色濃く、また反映されているのがハガス南部だ。
元々が貴族御用達の娼館や食事処が軒を連ねていた場所である。
今では貴族以外も豪商や中流層までも客として扱っているが、その本質は変わらない。
つまり、人の業を満たす晩餐の場。
人間より高潔たれと説かれる亜人達の欲望を受け止めるのが其処なのだ。
昔ながらの氏族毎の独特の意匠。
蟲や植物、獣や鳥。
人間が好んで使う鉄剣や盾、十字架とは違った自然に根ざした象形が近代的な建造物の合間を埋めるように石畳や外灯、他その他様々な物に掘り込まれている。
高層建築には及ばずとも。
数階建ての大型のモールや豪奢な館が今も圧倒的な存在感を示す一角で少年はコツコツと足音を立てながら路地裏を歩いていた。
煌びやかなネオン。
魔術具の光が夜を昼に見せる装飾(レトリック)。
揺ら揺らと揺れる現代の鬼火は人の欲を食う場へ誘う。
それに酔っていたいものは貴族も庶民も一緒なのか。
大まかな客層の流れは道行によって異なるものの。
嘗ては在り得なかった貴族と市井の同居姿が街には溢れていた。
学校帰り。
貴族警邏隊も巡回する歓楽街の外側へと続く路地は暗い。
街の明るさを嫌ったようにすら感じられる薄暗さには静けさが伴う。
表通りの騒々しさとは裏腹だろう。
しかし、それを旧き亜人達が望んでいるのかもしれないと少年は思った。
(えっと、此処を左……)
これから赴く場所は同居している家主の知り合いの店だと紹介されている。
そこでとある用事を果たすよう“彼女”は言った。
曰く。
イクス・ゼオがこれから生きていく為に必要な事だから、と。
その極大の豊乳を震わせながら。
シルルゥ・ゼオの母親、アルゥ・ゼオは少年に悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いたのだ。
夜、帰ってこない理由を尋ねもしない家主は少年が何をしているのか知らない。
しかし、それでも何かを感じ取っていたのか。
それ故の好意らしかった。
何でも少年を喜ばせる趣向が在るとか無いとか。
「……あそこかな」
路地裏を数kmも歩いた先。
少年の目の前には大貴族の豪邸かと思われるような巨大な館が見えていた。
南部ハガスの端。
こんなところに居を構える物好きはどんな亜人かと普段なら思うところだが、生憎と少年の行き先は其処である。
広大な敷地の奥に立つ館には外灯も含めて薄明かり程度しか付いていない。
周囲を覆う囲いには鋼以上に堅そうな不思議な色合いの金属が使われている。
正門の鉄柵には大きな月が刻印され、周囲には獣に鳥に蟲と様々な意匠が鏤められていた。
その中央前に立つと一人手に扉が左右に開く。
本来は横の小門を使うらしいが、アルゥの客分という扱いで丁寧に遇されるらしいと少年は予め聞いている。
大きな道の先へと軽やかな靴音が進んで。
やがて噴水の前まで辿り着く。
「?」
噴水の反対側に館の明かりによって朧な姿が浮かび上がった。
迎えの者かと声を掛けようとした少年だったが。
「やぁ、イクス君」
縁を回ってやってきた同じ制服に目を見開いた。
「サイカ?」
「ああ、ようこそ我が家が所有する“庭”へ」
「庭?」
出てきた眼鏡姿の兎少年が頷く。
「此処はアンサル家が大昔からやってる店でね」
「そうなんだ。じゃあ、今はサイカのご両親とかが?」
「いや、今は僕と母で切り盛りしてる。父は僕が小さい頃に召されてるんだ」
「ごめん……」
「謝る事なんてないさ。さぁ、入ってくれ。僕の友人って事で皆にはもう紹介してあるんだ」
「え、あ、うん」
何が何やら分からず。
しかし、微笑む友人に水を差す事もせず。
少年は言われるがまま、共に玄関へと入った。
「……凄い」
玄関内部。
広大なエントランスには中央階段と左右に続く回廊。
飴色のアンティーク調の屋内の調度品は明るい色彩のもので固められていて。
四隅に置かれた異種の彫像や壁を埋めるように複数の絵画が中央のシャンデリアからの光に眩く輝いている。
しかし、最も客の目を引くのは中央階段の上。
一枚の巨大な裸婦画がだろう。
性器までも緻密に書き込まれた女性(にょしょう)。
腕を広げて。
全てを包み込むような聖母の笑みを浮かべる女は“九十対十”の亜人。
それも白い大きな二つの耳が頭部に二つ生えていた。
「これって……」
「あはは。いや、恥しいな。これ昔に父が書いた母の絵なんだ。商売柄、仕舞っておくのがもったいないって五月蝿いもんだから、今はこうやってエントランスに飾らせてもらってる」
「商売柄?」
「アルゥ様からは何も聞いてないのかい?」
「此処でおもてなしされてきなさいとしか」
「そうか。でも、君なら此処は大歓迎さ。今日は君の為に貸切にしてある」
「え?」
さぁさぁと連れられて中央階段裏の通路に通された少年は言われるがまま進んで一つの扉に行き当たる。
ギィイ。
軋んだ音がして。
扉が開くと内部は光で満たされていた。
『お待ちしておりました。イクス・ゼオ様』
唱和する声が四方から。
「さぁ」
サイカが導くように室内に少年を進めた。
通された先で少年が見たのは―――。
「…………えっと、此処って……」
「まぁ、世間一般で言うところの娼館ってやつさ。色々と違う処はあるけどね」
下はまだ年端の行かないような年齢から上は三十代程までだろうか。
百人近くの様々な氏族の女達が女給のような恰好で腰を折っていた。
明日には命掛けの探索であるはずの少年は少しだけ思った。
今日の夜はちゃんと眠れるのだろうか、と。
小さな国の大きな館で耀く泡沫(うたかた)が舞い始める。