第三章九節「橋上の一線」
文明の進んだ都市の夜には光が満ちている。
そう思う者は実のところ、半分しか側面を見ていない。
使い古された物言いでいいのなら、光が満ちる所には影もまた満ちているのだ。
如何に大陸でも有数の発展を遂げる国の首都であろうとも、明文化されない闇は今も多い。
世の盛り場の大半がそうであるように。
酒と席さえあれば、其処は何処だろうと男女の出会いの場である。
無論、未だ学生の少年少女がいて良い場ではないが、同伴者がガタイの厳つい男に如何にも怪しげな魔術師ルックな青年ともなれば、文句の一つもない。
半ば地下一階となっている店の名は【厳戒亭】。
最奥には幾つか個室も用意する南部赤線街の渋めな店だ。
落ち着いた店内には踊り場も併設するが、静かに飲みたい者はカウンターのある仕切りの内で一杯やる。
遮音を魔術で行っているにしても仕切り越しは騒がしい。
貴族、民を問わず、若者達が踊っている。
優雅にステップを踏む者も狂ったように腰を振り乱す者も其処では等価だ。
小さな窓越しに静かな個室で“外”を見たエストリアは楽しそうだな、と若者らしい感想を抱いた。
飴色の家具で満たされた空間を照らすのは紙越しに柔らかくなった灯り。
ふんわりと漂う微かに甘い匂いは店側の配慮か。
少女にとっては落ち着く場所だろう。
四方で十畳程の部屋には四人。
少女と少年と青年が二人。
さて、これから霧の境界を越えようと集った者達である。
イクス・ゼオ。
ハイダル・エス・トリア。
ジルムス・デダル。
アーギスト・エス・トリア。
全員が南部の一角で時間を潰していたのは境界が最も不安定化する時間を見計らっていたからだ。
街のあちこちに設置した不可視の魔術中核が今もアーギストの脳裏に複数の数値を吐き出し続けている。
時間がくれば、歩きながら西部へと向かい超える事になるだろう。
既に門は破壊されている。
橋を渡るのに何の障害もない。
「“境界”の揺らぎを確認。予想通りだ」
アーギストの事務的な声に未だ堅いものを感じて。
エストリアが罰の悪そうな顔をする。
少年に付いていくと無理を言っているのは明らかにエストリアで、境界の探索は我侭にも等しい。
それでも危険を承知で妹をサポートしようという兄の気持ちはそれなりに汲むべきだと、彼女自身は感じていた。
「こちらは外側からの支援に移る。ハイダル。兄さんとの約束をもう一度確認してくれ」
テーブル越しに向かい合う兄に少女は大きく頷いた。
ようやく認めてもらったのだから。
それくらいはと大真面目に兄妹の間で交わした制約は口にされる
「一つ。誰か一人でも欠けたら、即座にこちらの世界に離脱する」
チーム内から死人が出たら、言うまでもなく終わりという事だ。
「一つ。境界が閉じると判断したら、最優先事項は帰投とする」
あちら側に閉じ込められたら、長時間は持たないのだから、止むを得ない話である。
「一つ。自分の身の安全をいつでも最優先にする」
兄とっては言うまでも無い事かもしれない。
「ああ、そうだ。約束だ……」
「……はい」
片手の小指と小指が結ばれ、切られた。
東部式の制約の仕草に微笑ましいものを感じながら、少年は静かに回りの三人を見る。
誰が頼んだわけでもない。
事情的に“境界”へ突入する理由なんて誰も無かった。
それでも来ると言った彼らを死なせぬよう。
少年に出来るのはそう誓う事のみである。
「何をニヤニヤしているのかな。イクス・ゼオ」
微妙に刺々しいアーギストの言葉に肩を竦めて、少年は何でも無いと答えた。
「では、ジルムス。後は頼んだ。出来る限りのサポートは外部からもするが、基本的にはお前だけが頼りだ」
一切少年がいなくてもエストリアを連れて帰ってこれるよう。
アーギストは親友に様々な迷宮(ダンジョン)攻略用(クリアー)の品を渡している。
外套が膨らみ、常より二回りは図体が太くなったジルムスの総重量は装備品だけでもかなりのものだろう。
各種薬品から防御用の方陣を刻んだ武装やら通信用の機材やら全てを白い羽織の中に取り込んでいるのだから、本人自体が生きた拠点にも等しい。
ジルムスの力をよく知っているからこそ、動きを大きく削がない限界を見極めて準備を整えたアーギストの手並みは魔術師としてさすがと言わざるを得ない。
「此処から通信を行う。帰還したら各種の検査を行う用意も既に手配済みだ。とにかく五体満足で帰ってきて欲しい」
「わぁった」
「兄さん。行って来ます」
立ち上がったエストリアに手を伸ばし掛けて、アーギストは虚空で留めた。
「まだ、行くのに納得したわけじゃない。だが、お前が本当に見極めたい事があるなら、邪魔はしない。ただ、もしも、本当に命が危険だと客観的に判断したら……分かってるな?」
「……はい」
大きくエストリアが頷いた。
(見極めたい事って何だろう?)
少年は当事者でありながら、微妙に兄妹間でしか通じない会話に内心興味を覚えた。
「イクス・ゼオ。妹を頼むとは言わない。必ず、生きて帰せ。それが僕に出来る最大限の譲歩だ」
「覚えておきます」
サラリと返して。
少年は部屋を後にした。
「………」
それに付いていく二人の背中を見つめるアーギストの瞳にはまるで戦地に家族を送るような色が浮かぶ。
大規模な舞踏用の空間を持つ【戒厳亭】の内装は華美とは言わないまでも紅の絨毯がVIPルームに敷かれている程度には明るい。
それを踏み締める道すがら、少年は少しずつ聞こえてくる一般用出入り口からの歌声に少しだけ意識を取られた。
それと言うのも来た時には賑わっていた活況が嘘のように店内のステージ周辺には静寂が満ちていたからだ。
誰も彼も舞踊どころではないと言った面持ちで奥の一段高い場所での演奏に聞き入っている。
「あれって……」
聞こえてくる調べに少年は“境界”へ突入する寸前だと言うのに惹かれた。
後ろの二人も少年の見る人垣の先からの音色に目を瞬かせる。
「ああ、そういやぁ。何だったか。確か、有名な吟遊詩人が来てるとかどうとか」
「吟遊詩人さんですか?」
エストリアが少しだけ目を輝かせた。
大陸において最も躍進した職業の一つ。
特権階級や既得権益層の没落が激しくなった時期から文芸の復興と勃興は教会関係者にとって優先事項の一つだった。
その中でも吟遊詩人。
つまりは昔ながらの語り引きを行う者達は本が主流になるまで娯楽の代名詞として君臨していた。
本が普及した昨今は物語よりも音楽性を重視した様式が流行り出していて、教会の保護も厚い。
亜人の国だろうと人気そのものは変わらない。
若い者よりも年老いた者の方が好まれるのがアルヴァスと他の人間国家との違いだろう。
『明日を駆りて、地を蹴る者こそ』
『真理無き世に打ち立てんと欲す者なり』
『行方知れずの腕も』
『其処にあると言うのか』
声は皺枯れている。
老婆の声に何故、若者を惹き付けるだけの力があるのか。
少年には分からない。
しかし、確かな形を持って語られ、弾かれる弦の音が唱和した時、誰も口を挟みたくないと、邪魔したくないと、若人達は沈黙を持って彼女達を見ていた。
「ああ、確か名前は……【天謳(てんおう)】……だったか? 詳しくねぇんだが、ダチにやたら好きなのがいてな。何でも大陸各地を回ってる伝説の二人組みだとか。よく亜人や異種に弾いてるとか何とか」
ジルムスの声に幾人かの後ろの人間が反応してジロリと睨んだ。
その眼光は巨漢を目にしても怯む様子は無い。
睨まれたジルムスの方がやれやれと肩を竦め退散する事となった。
「天を謳う……」
少年は少しだけ聞き流して、己の心に囁き掛けるような音色に目を細めた。
「構ってる暇はねぇ。行くぞ」
「あ、待ってください!?」
聞き惚れるのも程々にジルムスが店外へと向かい、二人も後を追う。
妙に惹かれるものを感じながら、少年は霧の世界へと没していった。
*
ハガス西部。
都市を潤滑油のように巡る亜人の群れを囲う箱型の賃貸住居が軒を連ねる一角。
社会有機体論を説くのなら、彼らはハガスの血であり、無くてはならない存在だ。
警察機構が免疫ならば、犯罪者は病原菌となるだろう。
頭である貴族達は彼らの働きの成果を集約し、様々な行政、内臓を動かす者と言ったところか。
しかし、霧という肉体の全てを汚染する病に都市は今や人知れず侵されている。
それに立ち向かう者は未だ少なく。
薬の如き立ち振る舞いが出来る者もいない。
それでも彼女は諦めない事を誓った。
だからこそ、綿密な下準備をして一人、指定された場所(ポイント)で“境界”が曖昧になるのを待っていたのだ。
既に人の声は無く。
生活の匂いも無く。
外灯の灯りも無く。
蠢く者達が霧を掻き分けて徘徊する様だけが人々の営みにも似ていて。
(どうすればいいの……こんなにも……沢山……きっと、今も何処かで……)
歯噛みに奥歯がキリッと鳴った。
常の冷静沈着と激情を持って犯罪に立ち向かう彼女らしからぬ感傷。
それも仕方ない事かもしれない。
もう元には戻れない被害者の成れの果て。
蠢く影は化け物というだけではない。
知らなければ良かったと思う自分がいて、知ったからこそ立ち向かえると囁く自分もいて。
そのどちらも本心だからこそ、彼女は建物の上から遥か前方に見える橋を限りなく睨み付けた。
“境界”を突破し、あちら側へと行けば、何かがあるかもしれない。
そう少年は言った。
何が無くとも行かずにはいられないだろう性格の彼女にそう言ったのだ。
(この先は教会が説く地獄? それとも化物になった者達の楽園? 私は…………)
不意に周辺の気配に生者のものが混じって。
久方振りに図れた獣人用の靴が建物を蹴った。
落下するまで4秒弱。
高所から地面に魔力も使わずに着地した彼女の目の前では一瞬で戦闘態勢を取ったジルムスが構え、少年がそれを手で静止するという光景が広がっていた。
辺りは深い霧で5m先も見通せない視界不良。
相手にしてみれば、黒い化物かと警戒するのも無理無い話だ。
それを知りながらも、そうやって登場して見せたのは少年に少しでも緊張感を与えたくて。
まるで子供みたいな癇癪にも近い行動だった。
だが、まったく悪いとも思わないのは彼女の中で目の前の相手が敵だと認識されているからに他ならない。
「来てくれたんですか? 先輩」
「私は自分の意思で列車に乗ろうと決意しただけよ」
いつもの制服に手袋が嵌められ、長い髪も大きなフード付きの外套に仕舞い込まれている。
左右に二本のカタールを携え、まるで獣の足そのものを模したような靴を履き、霧に触れる一部の隙間も無く衣装に鎧(よろわ)れながら、奏美紗は颯爽と答えた。
口元には布。
外套と鼻から目元辺りには何も付けていないが魔術で霧を防いでいるのは間違いない。
「その声は……確か、破廉恥女!!?」
「わ、私は破廉恥なんかじゃないわよ!!?」
思わず反論したものの。
防備どころか。
いつもの制服姿でジルムスの後ろからエストリアが信じられないといった様子で美紗を指差した。
「つ、ついにイクスさんを追い掛けて、こ、こんなところにまで?!!」
「ち、違ッ!? わ、私は個人的理由で探索に加わるだけ!! このどうしようもない××野郎になんて、これっぽっちも興味なんて無いんだから!!?」
「う、嘘!! だ、だって、クラスメイトが付き合ってるとか、イクスさんが棄てたとか、物凄い笑顔で講堂に押し掛けて『イクスさんはいらっしゃりません事?』とか言ってたって!! だ、大丈夫です!! イクスさんはこんな破廉恥××女には指一本触れさせませんから!!」
「バ、バツバツ女……」
ガバッと少年を後ろに庇ってエストリアが美紗を睨んだ。
『どうかしたのか? ジルムス』
「ああ、いや、その……人の恋路ってのはまぁ、何だ……厄介だよな」
『はぁ?』
ジルムスは今まで境界周辺をナビゲートしてきたアーギストに溜息がちに呟いた。
「ええっと、エストリア? 大丈夫だから。先輩はこの霧の事を放っておけないって協力を申し出てくれただけで」
「え、それ本当なんですか?」
「一応」
「………イクスさんに近付く為の言い訳じゃなく?」
ジッと美紗を胡散臭そうに見たエストリアだったが、少年の頷きに渋々引き下がった。
「えっと、アーギストさんに仲間を一人増やしたって伝えてくれますか?」
「だそうだ」
『……此処に来てイレギュラー……信じるに足るかどうか。今の僕には判断のしようもないな』
よくよく段取りを無視される事が多い青年の呟きはジルムスの周囲で静かに聞こえた。
「だが、このお嬢さん、来る気だけは満々そうなんだが」
『イクス・ゼオ』
「責任は全て僕が持ちます」
『その言葉に相違無いな?』
「はい」
『……分かった。許可しよう。彼女の身柄に関して我々は一切関知しない。何処で野たれ死のうが、化物になろうが、危険だと分かったらジルムスに排除させる』
「十分ですよ」
どうやら話が纏まったようだと美紗が三人の横に付いた。
「行くぞ」
ジルムスが音頭を取って全員が歩き出す。
今のところ【黒逝者(レウス】が襲ってくる気配は無いものの、視界が悪い場所ではジルムスの攻撃範囲は狭まる。
全員に気を配る余裕は無い。
それが実情だった。
最後尾で前のエストリアを守るよう周囲へ視線を注いでいるものの。
入らぬ荷物が増えたとあっては顔が微妙に曇るのも致し方ない。
「………」
先頭に立つ少年は殿(しんがり)のジルムスと同じく危険なはずだが、余裕綽綽何処吹く風だ。
常に“境界”へ入り浸っていた経験値が、少年に余計な緊張をさせなかった。
「それでなんだが、あんたは何が出来るんだ。お嬢さん」
さすがにいきなり戦闘となってから聞くのでは遅過ぎるとジルムスが美紗に訊ねる。
「戦闘なら一通りこなせますから、安心してください。家の者に密封式の衣装を揃えさせましたが、薬や術符も数十枚程持参しています。集団戦闘となれば、前衛でも後衛でも戦えるよう警察機構では鍛えられましたから、もし必要があれば、言ってください」
美紗がスラスラと答えるに辺り、エストリアが微妙に眉間を険しくしつつ、聞き耳を立てる。
「そうか。そういや名前を聞いてなかったな。あんたの名は?」
「奏。奏美紗。警察機構貴族警邏隊所属です」
「おいおい。貴族警邏隊かよ」
ジルムスが溜息を吐いた。
「その反応……何か疚しい事でも?」
スッと美紗の瞳が細められる。
「補導対象だとか何とか抜かして時々うざったいからな。まぁ、そういう間柄だ」
「補導されるような時間帯に何をしてるんですか? 彼方」
「ジルムス・デダルだ。ジルムスでいい。ちなみに今の問いには答えられん。面倒事をこれ以上増やされても困る」
「そうですか。では、もしも、普通の夜に出会う事があれば、ジルムスさん。その時はお相手しましょう」
はぁ……とジルムスは溜息を付いた。
「……」
「?」
美紗が視線に気付く。
歩きながらエストリアが慌てて前を向いた。
「何でしょうか?」
「い、一応、この間も名乗りましたけど、ちゃんと名前……教えておかないと……危険な時、どうなるか分かりませんから」
エストリアがボソッと呟く。
「ハイダル・エス・トリア。エストリアって呼んでください」
「……分かりました。エストリアさん」
「さん付けなんてしなくていいです!?!」
ゾワッと鳥肌を立てて。
エストリアが少年の方へと寄って行った。
「……嫌われてる、ようですね」
「男女云々は此処でしてくれるなよ? まだ、死にたくねぇ」
「そ、それは……あの男、イクス・ゼオ次第です」
ジルムスの言葉に美紗が僅かに鼻白んだ。
『そろそろ橋に付いてもいい頃だ。警戒しろ。ジルムス』
「了解だ」
エストリアと距離を詰めた青年がアーギストの声に顔を引き締める。
緊張は伝播するものらしく。
エストリアも美紗も重要な場所に近付くというだけで何処か足取りがぎこちなくなっていた。
その例外は唯一少年だけである。
「付いた、かな?」
ポツリと漏らして。
少年はサァッと風が霧を浚っていく中で橋を見上げた。
「もう前まで来てたのか」
「大きい……」
ジルムスとエストリアが目を見開く。
霧が晴れたと同時に橋の巨大な柱が見えたからだ。
古来より橋は常世(とこよ)と隠世(かくりよ)を結ぶ場所だったと言う。
そう知る者ならば、決して化物の徘徊する“境界”より先に行こうなんて思いはしないだろう。
それは生者が死者の国に赴くという事なのだから。
ただ、そんな事を一同が考える余裕は無かった。
少年だけが橋の下の底無しの虚無と上空の無いはずの月を交互に見やる。
「月が出てる」
「あ、確かに【天蓋蒼星(メイズ)】じゃないんですね」
少年の傍で上を見上げたエストリアが満月に驚きの表情を浮かべた。
前も“境界”では同じように月が見えていたはずだが、気にしている余裕は無かったはずである。
それ故の反応だろう。
本来、五年前から月と惑星の中間には巨大な蒼い星が浮かんでいる。
常識的に見られるはずがない。
「そろそろかと思ってたが、案外早かったな」
「え?」
ジルムスの呟きにエストリアが振り向く。
「集ってきやがった。この調子だと二分そこらで会敵だ。慎重に越した事は無いが、迅速に進まねぇと。この間みたいに囲まれるぞ」
「!?」
エストリアが蠢く影達が自分達に近付いて来ていると知って産毛を逆立てた。
「先導します。先輩達はエストリアを」
少年が手の方陣を起動させ、片手に剣を取り出して早足に歩き出す。
『気を付けろ。境界が不安定に――て――る。まだ大丈夫だが、異相を超え――通信は必ず――』
ジルムスが乱れ始めた通信に橋が異界との入り口なのだと改めて再認識した。
「やっぱ、長げぇな……」
四人が数百m進んでも一向に果てが見えて来ない。
霧が薄くなったとはいえ、それでも20mから先は窺い知れない。
全員が無言なのは死地が近い事を悟っているからだ。
何か一つでも間違えば、其処は死へと直結する場所だと。
「おい。今どの辺にいる?」
ジルムスの声に即座の応答が返る。
『位置は確認出来てる――は橋の入り口付――異相と異相の空隙に純粋波動魔力で経路を通したのは正しかっ――自動の記録術式も随時こち――へ情報を送――来ている。これな――地図生成(マッピング)も可――ろう。精度は落ちるが今、準備――だ。すぐに視覚へ送――』
「おい!! 通信が乱れてるぞ!?」
『問題無い。経路の補正は随時行ってる。これで橋を渡り切るまでは持つはずだ』
「……焦らせるな」
『相変わらず。肝っ玉だけは小さいな』
苦笑する気配にジルムスが渋い顔で舌打ちする。
「だろうよ。こっちはご立派な一般人様だ」
『今、空間の解析が終わった。半径15m先までは地形と動物体を感知して自動的に視覚へ送る。ただ、過信だけはするな。こちらで解析しながら周辺を記録している関係で時間の誤差は0.012秒。周辺情報の上書きも相手や地形次第では完全じゃない』
「了解だ」
ジルムスが視覚に直接魔術で送られてきた情報に周辺との誤差がどれだけあるかを把握しつつ、アーギストとの通信で解析結果を擦り合わせていく。
『今、重要な事が分かった』
何処か思い声でアーギストが通信越しに呟いた。
「あん?」
『その橋についてだが、送られてくる情報とお前の視覚情報の返送から幾つか類似が見受けられる』
「つまり、どういう事だ?」
『今すぐ引き返した方がいい。其処は橋の上だけで空間がクライン化。つまり、道の始まりと終わりが繋がってる!!』
「何ぃ!?」
全員がジルムスから響くアーギストの声に止まった。
「道の始まりと終わりが、繋がってる?」
美紗が僅か沈黙してから、手で弓を引くような形を取った。
その手に小さな魔力の光で形作られた弓と矢が現われ、放たれる。
ヒュン。
少年の横を通った矢が真っ直ぐに霧の奥へと消えていった。
それから十秒程経って、美紗が真横に手を伸ばす。
いつの間にか。
その手の中に矢が掴まれていた。
ジルムスは背後から飛んできた矢を知覚していたが、かなりの速さに冷や汗を掻いて溜息を一つ。
「速度と時間から計算しても1km程度で繰り返しているかと思われます」
「どうやって抜けりゃいいんだよ!?」
『今、計算してる。領域幅から言って異相の捻れではなく。何処かに結節点が置かれてると見て間違いない。何処かに術式中核に似た原因があるはずだ。何か見えないか?』
「何かっつったって……」
ジルムスが全ての目を開いた状態で周辺を視認する。
「一ついいですか?」
『何だ? イクス・ゼオ』
その声が自分に対するものだと感じたか。
アーギストが応える。
「あくまで“橋の上だけ”なら何とかなるかもしれないと思って」
『ッ、そうか。確かにそれなら!!』
「どういう事だ?」
ジルムスがじれったくなったそうに訊ねる。
『橋から出れば、抜け出せる。つまり、其処から飛べって事だ』
「本気(マジ)かよ……」
『一旦、帰って橋の攻略法を考えられるだけマシだろう』
「わぁった」
ジルムスがエストリアを片手で抱上げた。
「はぅ!?」
「じゃあ、とりあえずは一度引き返―――何か来ます!! 周辺の警戒をッ!!」
少年の叫びに続いてジルムスの瞳とアーギストからの情報も同じく何かの接近を告げる。
それもそれは橋の外からだった。
虚無としか言いようの無いモノの奥底から霧を裂いて何かが欄干越しに全員の前を通過し、すぐさまに取って返して虚空で渦を巻いた。
「こいつは?!」
「な、何なんですかアレ?!!」
「化物。いえ、これはッ!!」
一足飛びに背後へ数m下がったジルムスと美紗が戦闘態勢を取り、一人だけジルムスの前で硬直しているエストリアがソレの眼光に思わず身を竦めた。
『反応が?!! クラインの中核はそれだ。ジルムス!!』
「クソがッ?!! 倒して行かなきゃならねぇのか!!」
三人の前で少年は一人剣を斜に構えて呟く。
「海龍(リヴァイアサン)……?」
長い胴体。
海蛇にも似た巨大な動体は幅だけで3m弱もあるだろう。
黒く長い胴体の先にある竜らしき頭部。
しかし、その顔面には屍蝋の仮面。
そして、蒼い文字が掘り込まれている。
曰く。
【墓標(ピエタ)】
「こんなものが?!! これも“被害者”なの?!! イクス・ゼオ!!!」
美紗が思わず怒鳴った。
そんな事、少年が知るわけもない。
「たぶん、何処かで此処に入り込んで……犬や猫みたいな動物も此処には紛れ込んでる。そうだとしたら、こういうものが居るのは何の不思議も……」
「イクスさん!!」
エストリアの叫びが掻き消されそうな程に橋が鳴動した。
【墓標(ピエタ)】
聖人を抱く聖女の絵図を名前に冠した海龍が全身を震わせて、雄叫びのように吼えたのだ。
振動に亀裂が入る橋の上でジルムスと美紗が虚空へと跳ぶ。
少年は空気の振動に肉体の奥底までも揺さぶられながら、それでも剣を仮面に向けた。
「どういう経緯でこういう事になったのか。僕は知らない。けど、此処で殺されてやるつもりもない。だから」
ブレる肉体。
定まらない軸。
それでも剣は震えない。
「君は此処で斬り落す」
少年が片手で剣を持ち、揺ら揺らと振り始めた。
その揺れは周辺を震えさせる【墓標】の雄叫びの影響を一切受けず。
故に虚空を魔力で蹴りながら距離を取った三人にはよく異質さが分かった。
「な、何をしてるの?!」
「ありゃぁ……どういう神経してんだ。あいつ!!?」
「イクスさんの剣だけ、振動が遅い?」
ジルムスに抱かれながらエストリアがありのままを言葉にした。
「何してるのか分かるの?!」
「お利口な警察機構の連中じゃお目に掛かる事は一生無い技だ。武術の中でも剣術。それも大抵が対軍で使う。ウチはちっとばかし、特殊な武術やっててな。昔、一度だけ見た事がある」
ジルムスが美斜に答える間にも剣の揺れが微細になっていく。
「振動ってのは要は運動エネルギーだ。固体だろうと気体だろうと媒質を伝って拡散、伝播する。だが、あの技は振動を剣に溜め込む。一瞬で分子構造が崩壊するだろう域の力を自分の魔力で強化した剣に封じて使うんだよ。魔力刃使う連中の師父(マスタークラス)の技だ」
少年の剣を真直で感じたからか。
海龍が一際大きく撓(しな)ると、まるでハンマーのように己の仮面を少年目掛けて撃ち落した。
ゴッッッッッ!!!!!!
強烈な振動と共に振り下ろされた一撃。
橋が一気に撓み、巨大な亀裂が周囲に奔る。
「イクスさんッ!!!!?」
「大丈夫だ!! ただの打撃でどうにかなるもんじゃねぇ!!」
思わずジルムスの腕から身を乗り出そうとしたエストリアが次の瞬間に見たのは爆発。
いや、それに近しい激烈な破裂音だった。
ズォオオオオオオオオオオオオオオオオオ。
海龍の巨大な図体が霧を裂いて背後へと数m吹き飛んだ。
橋の中心でギラギラと輝くのは六角形(フラクタル)な網目状の模様を付けた剣。
その格子模様が一欠けした剣の先端からは煙が立ち上っている。
「対軍戦で先陣を斬る連中の中でもアレが出来る奴は火砲での殲滅対象だった。一度でも近距離まで近付かれたら、アレで薙ぎ払われて前衛に大穴が開くからだ」
少年が跳ぶ。
20mは昇っただろうか。
上空から一気に動魔術で下方へ加速した。
猛烈な打ち下ろし。
【墓標】がようやく爆発の衝撃から立ち直った時にはもう遅かった。
「砕けろ【歯斬(しざん)】」
仮面を真正面から捉えた剣が連鎖的に爆発していく。
内部に溜め込まれた力が格子の一欠け毎に仮面の表層で弾け、動魔術による加速も相まって猛烈な連撃を叩き込んだ。
ビギッ。
巨大な図体が撓み。
屍蝋が罅割れる。
―――ギィゥォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!?!!!
本来、仮面の厚さで【黒逝者(レウス)】を上回っていた海龍は思ってもいなかっただろう。
首を落とす以外で自分の顔面を破壊出来る者がいるとは。
仮面に食い込んで、鍵状に欠けた剣が長い図体の下まで唐竹割にした。
まるで噛み跡のような傷が刻まれていく。
刹那。
霧に融けて海龍の姿が失せ。
虚空で足場を失った少年は動魔術の逆行で重力を無視すると一足で橋の上へと戻った。
『クライン化の解除を確認した。これで先に進め―――』
「おい。また通信が」
『違う。少し黙っててくれ。何だ……ノイズではない。これは……まさか……』
「どうした? 何か不具合か?」
『全員傍にいるか?』
「ああ、今橋に戻る」
自分達の出番が一切無かったジルムスと美紗が何処か情けない顔で橋に降り立った。
ジルムスの腕の中から駆け出したエストリアが少年の傍まで行くと「痛いところはないですか!?」とベタベタ体を触っては苦笑されている。
『聞いてくれ。まさかとは思ったが、あちら側から純粋波動魔力での発信があるようだ』
橋に響いたアーギストの声に少年が僅かに驚いた顔をした。
『解析し終わった音を流す』
多少、間が空くとザラザラとした雑音と共に音声が響いた。
―――こ…ら……ス放送局……。
「おい?! 今、放送局とか聞こえたぞ?!」
ジルムスが全員の驚きを代弁した。
―――こちら……く……誰か……か……助け……わ……は……生きて……。
「これって、誰かが助けを求めてるんじゃ」
思わずエストリアが呟いていた。
『いや、それは確かに有り得るが、それより問題なのは相手の名前だ』
「名前? 兄さん。どういう事ですか?」
アーギストは答えずに溜息を吐いた。
―――こ……アイウィス放送局……か……け……我々は…だ、生きています……。
「そんな?! この先にある都市はまさか?!!!」
驚いた様子で美紗が橋の先。
霧が晴れつつある月明りに照らされた都市を見つめた。
『ああ、どうやら、そうらしい』
アーギストが同意した。
「どういう事なんですか。兄さん? 知ってるんですか。この先にある都市を……」
『ジルムスとハイダルには説明が必要だろう。君にも必要かな。イクス・ゼオ』
「いえ、名前だけは聞いた事があります。大陸中央諸国最大の惨事。一地方都市の完全消失事件……」
『ああ、そうだ。中央諸国の中堅国アンデリット。その地方都市アイウィス。五年前、七教会の治世が完全ではないと知らしめた教会施設へのテロ行為。その一環と見られる超大規模広範囲の転移喪失現象。俗に【アイウィス事変】と呼ばれた史上最悪の事件現場だ』
その場の全員が沈黙する中。
また音声が響く。
―――こちらアイウィス放送局。誰か助けてください。我々は未だ生きています。
月灯りに照らされて尚、闇は深く深く、彼らの往く手に蟠(わだかま)っていた。