第三章十節「黄昏る都」
『こちらアーギスト。通信に異常は無いか?』
「ああ、通信にはな」
『引っ掛かる言い方だが、安心した』
ノイズも無く聞こえる親友の声に溜息とも安堵とも付かない心持となったジルムスが、その巨躯を微動だにせず。
周辺を頭部にある全ての目で確認していた。
「綺麗……」
そう彼の前で呟いたのはエストリアだ。
軽装の少女は初めて知る異界が思っていた以上に幻想的な様子を見て、不謹慎だとは思いながらも呟いてしまっていた。
海龍【墓標(ピエタ)】の消失と共に巨大な鉄橋の果て。
都市へと至る道は完全に開かれた。
本来ならば、不意の大物との戦闘に小休止を入れて一旦戻る事も視野に入れていた彼らだったが、そうもいかなくなったのは入ってきた一方的な通信のせいだ。
助けて。
まだ生きている。
そう伝える声に全員がそのまま都市への突入を決めた。
アーギストにしてみれば、妹に無茶はさせたくなかったものの、実質ジルムスや美紗は戦闘を行っていない温存された状態だった事もあって、進むのを許した。
少年を前衛に進んだ彼らは呆気なく都市への入り口、橋の終わりを跨ぎ。
ジルムスの第一声に親友は安堵したわけである。
『今、経路の調整が終わった。映像と周辺の地図生成(マッピング)が再度開始される』
「せいぜい驚け。オレはもう腹一杯だ」
ジルムスの視界にアーギストから送られてくる情報(データ)が重なった。
『これは……無傷のままか?! いや、だとしても、夕暮れだと?』
ようやく失われた都市の一角を目の辺りにして。
驚くのも無理はない。
屍蝋の仮面を被る化物達の住処である。
もはや荒れ果てた廃墟を想像していたのはアーギストもジルムスも同様だった。
それがどうだろう。
街並みは如何なる破損も見受けられず美しいまま。
黄昏の夕景は絵画さながらに残っている。
瀟洒な街並み。
如何にも大陸中央諸国の観光地にありそうな赤煉瓦と瓦屋根の建造物が燦然と整列し、道路は土埃一つ上がらぬ石畳。
もし、其処に人の生活の匂いがあったなら、街並みは多くの人間を惹き付けて、一時の安息を約束するだろう。
「此処が消えた都市……俄かには……」
美紗が目を細めながら近くの構造物に手袋越しで触れた。
建造物が劣化しているかと強めに握ってもザラザラとした感触のみ。
(経年劣化していない?)
疑問に思うのも無理は無い。
まるで新品の構造材には聊かの罅もない。
阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっているかと思っていた彼女からすれば、拍子抜けの光景だった。
「アイウィス一番街……」
少年が街角の標識に目を止めていた。
『残念ながら、アイウィスの地図は入手出来なかった。魔術師仲間に聞いてみたが、どうやら七教会の情報封鎖の影響で当該地域の資料は意図的に厳重保管されているらしい』
「仕事が早いですね。兄さん」
妹からの思わぬ賛辞に声が僅かに詰まった。
『ま、まぁ、な』
「では、まだ生き残ってる人々の救出に向かうという事でよろしいですね? アーギストさん」
美紗の言葉に少年が三人の下まで戻ってくる。
霧がかなり晴れた都市内部は見通しが良い。
少なくとも薄らと掛かる程度だ。
「標識の通りなら、このストリートの6km先に放送局があると思っていいと思う」
ジルムスと美紗とエストリアが頷いた。
『一応、全員に確認しておく。あくまで救出が目的で戦闘は二の次だ。もし、途中で大規模な攻勢に遭った場合は迂回路を探すか撤退。無茶な行程は避ける。いいな?』
全員が同意するとジルムスがエストリアを片手に抱えた。
『では、速やかに移動して状況を確認。もし、生存者を発見した場合は……イクス・ゼオ。任せる』
「了解」
全員が魔力を足に伴って疾走し始めた。
道往く馬車くらいの速度での移動。
風を切る景色を目に焼き付けながら、エストリアは此処が化物の住処とは到底思えず。
まだ見ぬ生存者達を助けなければとの良心に駆られて、キュッと胸元の黒の正方形【崩燼機関】を握り締めた。
*
―――二日前。アルヴァス・カレッジ校長室。
えぇ、我が校と致しましては非常に由々しき問題であると認識しているわけではありますが、何分他の上級貴族の子息子女の方々も通っておられまして、事はそう単純にはいかないと申しますか、少しお時間の方を取らせてしまうかもしれないのが、真に心苦しい限りではあるのですが、とりあえずお茶でも―――。
「分かった」
アルヴァス・カレッジの学長室。
汗を掻き掻き自ら応対していたキリンのような獣人(ベスティア)だった。
その校内にあって理事達と同様、最大級の権力を有する学長は目の前の存在が立ち上がっただけで平伏しそうな勢いで頭を下げる。
相手は遥か年下なのだが、大貴族どころか元老院どころか王家にも近しい家の相手とあってはペコペコする以外ない。
「では、教師役ではなく学徒としての籍を求める。一応、氏族の数え方ではまだ最上級生の歳だ。学習は本家において博士課程までは修了している。何か質問は?」
「い、いぇえ!!? もう!! まったく問題ありません!! す、すぐさまにご用意致しますので、平に平にご容赦を……」
「制服とその他のものは本家に届けてくれ」
「はい!! 勿論でございます!! 何卒お父様によろしくとお伝えくださいますよう……」
「ああ」
相手が部屋を後にするとドッと突かれた様子で学長がその長い首を伸ばして溜息を吐いた。
「寿命が三年は縮まった気が……やはり、血は争えないという事なのかもしれません」
その日、ひっそりと転校生がアルヴァス・カレッジに追加された。
*
亜人独自の文化圏において人間社会と違う点を幾つか上げるとすれば、それは結局のところ人間の業を認めるかどうかという点に終始する。
人間が持つ悪徳を排除する事で亜人達は人間との差別化を図るのである。
故に悪しき慣習と呼べるものが極力排除されながら亜人達の社会は進展してきた。
無用な生贄を捧げるだとか。
同胞を理由無く殺生するだとか。
持つ者が持たざる者に与えないだとか。
貴族という特権階級を未だ要しながらも国民の間で革命や貴族制の廃止が囁かれないのにはそれなりの理由がある。
貴族制が悪しき慣習と見なされない理由は以下の三つが亜人国家において知られているからだ。
一つ。
議会制民主主義の語る多数決の論理が緊急を要する案件では柔軟に機能しない事。
二つ。
実力主義と貴族制が両立される世界では腐敗や不正が民主主義国家よりも格段に出難い。
三つ。
力持つ者の義務、高貴の資格持つ者が与えられる力は厳然たる優秀さのみによって維持される。
つまり、貴族が名実ともに理想の貴族足らんと常に欲している亜人国家において、人間社会の貴族は貴族を続けられるような者達ではない、という結論となる。
人間社会の貴族主義の没落の原因が特権階級の腐敗にあるのは明白であり、そんなものとは無縁の実力社会であるアルヴァスで“貴族を続ける事”はとても難しい。
代を重ね続ける事が出来る家は数少なく。
力が無いと自らを認めれば、己を処して庶子に下る者もいる。
同時に庶子も貴族に成れる可能性は常に有り、功を立てて立身出世する者は多い。
現在進行形で貴族を十代以上続けている家はアルヴァスの貴族総数の百分の一以下。
ずっと貴族を続けられている家の血統は偉人や英雄、奇才や秀才で溢れている。
そんな長年貴族の地位に付いて王家に近しい家柄として君臨する家が“赤鬼”の家系である。
非常時には前線で戦う武人。
平和な時には国王を補佐する貴人。
市井を束ねる日は誰もが納得する支配者。
多用な才能を持つ家としてアルヴァスにおいては絶大な影響力を持つのが、彼ら【フォイル家】だ。
近頃は現当主がひ弱な国王アルデルト・エスラ・ウィム・アルヴァスの守護者になっている感がある為、元老院での権力は日に日に増している。
彼女はそんな国王とは元々が幼馴染という間柄で育てられた。
二本角を自称する当主の長女。
エンシェン・イル・フォイル。
赤い肌。
頭部に突き出た二本の角。
生来の精悍な顔立ちと大きな体躯。
正に鬼。
しかし、それが男ならばまだしも女の皮を被って豊満な乳房まで持つならば、早い話がモデル上等、男前な美女という事になるだろうか。
女の身長が180もあれば、普通の男は多少なりとも引く。
しかし、一族の中でかなり小柄なエンシェンはお嬢ちゃん呼ばわりされるような立ち位置にいる。
毎年毎年、まだまだ小さいなぁと親類達に言われて育った者にしてみれば、他の亜人や人間達が発育不良なのであって、自分はとても標準か、それより小さいと信じて疑わない自己欺瞞(トリック)である。
「まったく。近頃の大人はウチの親類くらいには堂々としていて欲しいものだが」
そう愚痴った彼女はバサリと女らしさを強調する長い黒髪を後ろに流して好物を口にした。
ボギッ、グキャ、ゴリュ。
胡桃。
それも皮付きである。
酒の席でよく親類達が食べているものを普通に食べているだけなのだが、それすら何故か彼女に近しい亜人達は怖がる。
世の中はひ弱過ぎる。
そうなるのも国王がひ弱だからに違いない。
彼女がそう思えてならないのは幼馴染のひ弱さが国王にあるまじきレベルだからだ。
額に険を作りながらモグモグと壮絶に胡桃を噛み砕く鬼女が忌避されるのはたぶん此の世の理である。
しかし、大雑把な性格が多い赤鬼の気質に漏れず。
そんな事を聊かも気にした様子も無い彼女は【武芸術部】と書かれた教室を二度ノックすると相手の事も気にせず上がり込んだ。
「?!!!」
内部で驚きに目を丸くしているドリル髪の貴族女。
少年に数日前精神的にボッコボコにされた才女が驚きのあまりポロッと手の小麦菓子(クッキー)を落していた。
「な、なな、何を考えて?!! 此処は神聖な学び舎であって、あなたみたいな筋肉女が来る場所じゃなくってよ!!? エンシェン!!?」
式典用の黒の礼服姿(タキシード)。
それも男物を纏っている知り合いの姿に彼女はまったくもって狼狽した。
ただでさえ、つい最近は悪夢のような出来事があったばかりなのだ。
それなのに災厄が続けて来るなんて、呪われているとしか思えない。
「近頃は没落しつつ、貴族止めるって聞いていたが、まだやってたか」
「あ、貴女何をしに来たんですの?!!」
ズカズカと貴族女の前までやってくるとニッコリとエンシェンが微笑む。
「いや、少し用事が出来てな。此処でしばらく厄介になる。学籍は貰ったが、制服はまだなんだ」
「そ、そんな勝手に?!! こ、此処は武芸術部であって、貴女の寝床じゃありません?!!」
「気にするな。本来は警察機構に派遣されてたんだが、資料と報告は魔術で逐一頭の中に流れてくるというのでな。暇を持て余したから、しばらくは学生ゴッコでもしながら、友人の近況でも見守ろ―――」
「で、出て行きなさぁあああああああああああい!!!?」
ゴッと背後に立て掛けられていた長大な太刀が引き抜かれる。
「おぉう?! 最初から機嫌悪いな。あの日か?」
真剣に済まなそうな顔で言われて、真っ赤になった貴族女が怒りのあまりフラッと椅子に尻餅を付いた。
「大丈夫か? 薬なら持ってるが」
「う、ぐくく、な、何で……何でこう……」
もはや独白に近い。
カランと刀が落ちた。
「おっと」
サッと近寄ったエンシェンがドリル髪や尻尾に触れないよう背中を支えた。
「お前、熱でもあるんじゃないか? ご先祖の刀まで落す程、どうしたら此処まで衰弱出来る?」
お前のせいだと言いたいところだった貴族女だが、体に力が入らないのではどうしようもなかった。
近頃、ロクに食事や睡眠が取れていなかったツケが一気に怒りで押し寄せてきたのかもしれず。
自業自得と自嘲する事さえ今なら出来る。
「全部、もうどうでもいい……折れてしまったものは元には戻らないんですから……」
「……本当にどうかしたのか? お前らしくもない」
力なく項垂れた友人の視線の先に目をやって。
エンシェンがその日、初めて本当に驚いた顔となった。
「まさか、折られたのか?」
「そう。だから、もう全部……どうでもいいの……」
「………この太刀を折る? どんな猛者。いや、超越者だ?」
【東征冥利大天将技神ノ太刀】
それがどういうものか知っている者にしてみれば、それ相応の使い手たる貴族女が握っていて、折れるなんて信じられない事だろう。
「ただの部活見学者……それだけですわ……わたくしより、ずっと強かった……」
「部活見学って。学生か? 学生がこの太刀を折る? それは如何なる物の怪だ。それとも学生のフリをした魔族か?」
パタリと尻尾が垂れ下がった。
意識を失った友人を抱きながら、鬼女の顔には笑みが浮く。
「このエンシェン。俄然、学生生活とやらに興味が出てきたぞ」
恋する乙女も顔負けに武人の高鳴りを胸に覚えて。
エンシェン・イル・フォイルはその日、武芸術部に加入した。
ついでに生活用品一式が密かに広い魔術具内の空間に運び込まれたが生徒達は何を知る事も無かった。
全ては部長も知らぬ気絶していていた間の出来事である。
*
(何で……こんなに綺麗なのに……)
ジルムスの腕に抱かれて移動しながら。
エストリアは流れていく周辺の景色に何処か侘しさを感じていた。
人がいない。
気配がない。
そういう事だけではない。
都市に有って然るべきものが、アイウィスの街並みには欠けていた。
それは匂いだ。
一見して無機質には見えないはずの場所なのに風に漂うのは無臭という名の空虚。
雨の匂いがしない。
土の匂いがしない。
埃の匂いすら無い。
墓標の前ですら、石くれの間から漂うものは有る。
なのに、時間が感じられないのと同様に匂いが抜け落ちたような感覚がアイウィスにはあった。
見た目が変わらぬように見えるからこそ、その違和感は大きい。
どんな世界に住まおうと雑多な匂いは溢れるものだ。
それが無いという事は其処には何も無いというに等しい。
「大丈夫か?」
「は、はい」
ジルムスに答えながら、エストリアはボウッとしていた己を誡めた。
いつ屍蝋の仮面を付けた黒い化物に襲われるか分かったものではないのだ。
何か一つ見落とせば命取りにもなりかねない。
「大丈夫です……」
街の外れ。
随分と閑散としてきたストリートの先には巨大な郊外型の施設が見えてきていた。
『一部、資料を入手した。魔術師の仲間内で七教会の通信施設関連に詳しい奴がいてな。五年前、アイウィスは大型の通信施設として郊外に放送局を新設していたらしい。アンデリットの地方都市の幾つかにローカルな通信機器ネットワークを築く計画だったとか。教会のテストケースの一つとして、アイウィス各世帯には通信を使った音声のみの番組を配信する予定だったとか。色々あったようだ。だが、あの事件で計画はご破算。同じような計画が別の都市でやられた際には幾つかの改善がなされたと資料にはある』
「軽い講義はありがたく受け取っておく。で、地図は?」
ジルムスの最もな声にアーギストが僅かに沈黙する。
『やはり、敷地内の見取り図は入手出来なかった。ただ、同様の計画で公開された施設の地図はある。一通りは似通っていると考えていい。今、投影する』
ジルムスの視界にフワリと目の前の大型施設と同系統の見取り図が重なるように映し出された。
「どうですか? ジルムスさん」
エストリアが訊ねる。
「ああ、細部は違うが、大体は同じに見えるな。内部構造が全部違うって事は無いか」
『この見取り図によると放送スタジオは全部で四つ。全て施設の奥、中央に在る。高価な機材が多いようでスタジオは外縁部に設けられなかったとある』
「じゃあ、中から探索するしかねぇな。どうする? 万一を考えて待機組みと先行組みに分かれるか?」
『いや、戦力の分散は出来るだけ避けたい。いつ敵が来るとも知れない空間だ。全員一緒に行動してくれ』
「了解だ」
ジルムスとアーギストのやり取りに頷いた少年が全員を先導しながら施設内部へとゆっくり歩いて行く。
施設の玄関前。
二階部分に付けられた新品の看板にはアイウィス放送局と大きく蒼い文字が描き込まれていた。
放送施設という事で遮りが少ないのか。
内部は巨大なエントランスと二階へと続く赤い絨毯の敷かれた中央階段で構成されている。
左右へ分岐する道はそれぞれが放送局の各部局に繋がっているらしく。
第一放送部、第二放送部と刻印され、周辺には売店やら受け付けが大きな幅を取っていた。
「……食い物まであるのかよ」
売店に近付いたジルムスが商品が並ぶ棚から小さな菓子袋を一つ取り出して繁々と見やる。
『分かっているとは思うが』
「食べるわけねぇだろ。だが、明らかに埃を被ってない。調べられるか?」
『いや、調べるまでもない。周辺の分子構造を解析しているが、空気その他、その空間内に存在する物質は一切の変質が確認されない。偽装されているか……あるいは何らかの干渉が存在すると見るべきだ』
「干渉だと?」
『考えてもみろ。その世界のものが経年劣化していないという事は時間が経っていないか。こちらの機器の観測結果が正しくないか。あるいは結果が正しいか。この三択になる」
「それで?」
『時間が経っていないというのは無い線だ。何故なら、都市周辺の地図生成(マッピング)で得られた情報からは時間がそちらではそれほどに変動していない事が分かる』
「んだと? 変動してるのか?」
『せいぜいが数倍程度だ。しかも、そちらの時間が早いだけで、こちらに戻ってくるなら、朝までには戻ってこられる程度の時間差に過ぎない。問題はそちらの時間経過が早いのに経年劣化していないという事だ。同時に結果が正しいのならば、その結果を導き出す原因が存在しているという推測が成り立つ』
「原因……さっきの海龍みたいなのがいるって事か……」
『まだ、断定出来ない。だが、どんな干渉を行えば、都市単位のものを保存出来るのか見当が付かない。そして、それが可能な存在がいるとすれば、確実に神格クラスだと言えるだろう』
「―――喧嘩はそこらのチンピラ程度がいいんだがな」
『気を付けろ。その空間内部にあるものは全て疑って掛かるべきだ』
「了解だ」
少年が周辺に敵がいないかを偵察してきたらしく。
大丈夫だと大きく頷いた。
ジルムスがエストリアを下ろす。
「狭いからな。此処からは徒歩にしてもらうぜ」
「あ、はい。ありがとうございます。ジルムスさん」
ペコリを頭を下げた少女を後ろに下がってジルムスが促した。
美紗がエストリアの横に付いて少年が案内するように歩き出す。
「何処まで見て来たのか教えなさい」
獅子少女の問いに振り返らず。
少年が階段の遠方を指差した。
「放送スタジオはたぶん二階奥の講堂横だと思います。一番奥にはホールが有って、その左右にスタジオが併設されてる形じゃないかな」
「そう……」
長い階段は足音が立たない。
静々と進む一行は周辺の静かさに緊張を高める。
天井がかなり高い為、開放感だけはあるが、その静けさは誰の心にも染みのような不安を覚えさせた。
近代的な灰色の建材。
洒落た魔術具の灯。
一部硝子張りの天井からは薄い霧を抜けて夕暮れの輝きがスポットライトのように降り注ぐ。
階段の中層。
数m程の踊り場はまるで劇場の舞台。
ならば、歩くものは歌劇の役者か。
必然とも思える襲撃は天井を破って行われた。
天井の異変に気付いたのはジルムスが最初だった。
屍蝋の仮面が四体。
同時に高速落下を開始した時点でエストリアを抱えて横へと回避し、続いて美紗が下げていたカタールを引き抜いて構え、少年は手の甲を輝かせて剣を掴み様に真上へと振り抜いた。
しかし、剣が貫いたのは虚空のみ。
「ッ」
少年は自分の横に降り立った黒の人型の仮面を視認して納得する。
屍蝋曰く。
【無線(ワイレス・ラン)】
通信を相互にやり取りする時、魔力を用いた波動で情報を虚空に伝わらせる術。
嘗ては細い通信用の管を使うものが主流だったとも言う。
実体の無い波動は剣で斬れない。
通常の人型と同様の形を取っていながら、黒い化物は聊かも傷付いた様子無く少年を伸びる手で薙ぎ払った。
「!!」
剣で腕を受け止めるものの、その勢いに吹き飛ばされて。
少年は壁に足を付く。
「イクスさん!!」
「こいつ攻撃される時だけ実体が無いのか?!」
『今、解析してる。後、三十秒待て』
(無線……魔術で創造された霊的な被造物に近いなら!!)
美紗が両手のカタールを振り被り様に口の中で幾つかの文言を呟いた。
伝統的な亜人に伝わる魔除けの言葉だ。
一種の呪い。
魔術にも成らない原始的な魔力運用である。
実体の無い荒ぶる祖霊や神霊を沈める一撃は嘗て戦乱の次代にアルヴァスの守護者として有名を馳せた血統に未だ残る【儀礼魔術】の一部だ。
無念を遺して死んだ者達の御霊と遺恨を正しき流れに戻す差配。
【獅子神(レオ・ラーバ)】と呼ばれた種との末に生まれた亜人である奏家は神の位こそ持たないものの、祖先から齎された魂魄鎮護の法を未だに伝えている。
名立たる主神や大神が世界中の魂の管理を行っている如く。
超小規模ではあるが、奏家も一国の魂の浄化を司る一家であった。
「阿毘羅吽欠蘇婆訶(あびらうんけんそわか)」
未だ東部の【陰陽】にも近い文言の構成は【東部文字(イースタン・キャラクター)】のものだ。
最初に神聖なる一語が無いのは攻撃という行為に用いられる為。
戦いとは穢れであり、それを治める為に振るわれる力は暴力である。
美紗の呪言は神意ではなく人意によって行われる不完全な救済を示していた。
斬ッ。
一体が美紗のカタールに撫で斬りとされて霧へ溶けた。
続け様に危険度が高いと判断した三体が襲い掛かってくるも。
二剣の前には風のように軽く。
一回転の間に三度、刃が人型達の表面を通った。
そのまま突撃した勢いのまま、形がズレ、バラバラになった影達は霧に融けて消失していく。
「凄い……」
エストリアが目をパチクリとさせて、これが貴族警邏隊に所属する者の力かと呆然。
ジルムスは国家権力に喧嘩を売らないようにしようと誓った。
「いつまで壁に張り付いている気? もう片付いたわ」
「え、うん……」
少年は次撃の為に壁に足を付いたまま固まっていたが、すぐに地面へ降り立った。
「……」
「な、何よ。イクス・ゼオ」
「いや、先輩って凄いんですね」
「貴族警邏隊は伊達じゃない。この一件が片付いたら絶対立件してやるんだから……」
「覚えておきます」
四人が互いに大丈夫かと確認し合った後。
後続が来る前に片付けようと足早に踊り場を去った。
彼らは気付かない。
何故、屋根から人型が振ってきたのか。
どうして屍蝋の仮面達が“境界”よりもずっと少ないのか。
その答えが今正に自分達の数十kmも頭上で繰り広げられているという事に。
*
統合神経末梢まで掌握。
魔力抵抗値0.00009未満。
親和性クリアー。
儀骸精度誤差0。
各部可動域連動率50.434。
細胞構造の偏差0.443未満。
魔力抽出速度毎秒2094単位。
上昇中。
概念域接続。
経路獲得まで残り34分。
固体情報を表層保存開始。
神経伝達を法術置換開始。
唯物原理作動。
干渉遮断。
変質率0。
高速機動。
基本運用開始。
―――汝は須らく賞賛する者。
―――翼持つ者も翼持たぬ者。
―――御使いにして唯一を崇めし者。
―――世より御霊を引き剥がし、天高く挙げる者。
「第一被観測呪法【崇唯(タウヒード)】」
歯車が回る音。
動物の息遣い。
蟲の翅鳴り。
風音の奔り。
壮絶なる人型達の軍勢。
いや、救いを求める者達。
空一面。
黄昏よりも高き世の果てで。
“境界”へと強制的に突き刺さる矢の如き存在。
【聖征者(クルセイダー)】
彼(か)の者は群がる亡者の列を十字架で切り裂きながら落下し続けていた。
未だ姿も現さず。
霧の“境界”を強引に突破しようというのだから、化物達が押し寄せようというものだろう。
異物の排除は世界の原則。
それが如何に捻じ曲がった世だろうと真理は早々に覆らない。
だが、人型達はもはや無い記憶と意識の残滓に感じずにはいられなかった。
魂すらも変質した成れの果てでありながら、人の根幹を揺さぶる光り。
それを目の当たりにして、屍蝋の仮面の下から塩水を流さずにはいられなかった。
巨大な歯車。
螺旋くれた猛獣。
人飲み込む羽虫。
風と共に舞う亡霊。
黒き肌と人の形保つ仮面の申し子達。
誰も彼もが仰ぐ。
巨大な十字架から発されるものが遍く死と天昇る階であると感じて。
人以外の魂すら統べた唯一神。
その御影に浴する多くの種はどんなに変わろうと完全な変質を遂げない限り、その影響力から逃れられない。
今は無き神の威光。
それは輝きのみによって全てを圧する降臨の秘儀。
本来は唯一神を祝福する為だけの最下級天使達の御技だ。
しかし、今のそれは全てを平らげ、和を呼ぶ昇華の輝きに他ならない。
強制的に魂を引き剥がして霧散させる無への誘い。
世界の根幹原理。
森羅万象流転の法則に従わせる正統な循環を齎す力。
『おお、畏れよ』
『汝が見るは審判を告げる曙光である』
『然り。然り。汝ら須らく世を満たす空と成らん』
『終わりは始まりと信ずれば、喜びは満たされる』
虚無に響いたのは如何なる者の声か。
十字架に追走する全ての影が蕩けていく。
喜びの声を上げながら、失われていく。
そして。
ギヂィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッッッ!!!!
まるで薄い膜を捻じ切ったような音と共に十字架は黄昏の下へと付き抜けた。
未だ救いを求めて群がる軍勢の大方を虚無の霧海に置き去りとして。
アイウィス南部。
永劫収穫される事の無い田園地帯の稲穂の中へ聖なる者は落下した。
案山子にしては随分と大きな被造物(オブジェ)に違いなく。
新たな戦いを予感させて。
その様子は剣が大地を射止めたようにも見えた。
そうして、ようやく。
一騎にして教会戦力三分の一以上と謳われた旧き戦者の戦いが始まる。