※この作品はR-18です。

聖娼館ハルトゥム   作:Anacletus

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第三章十一節

第三章十一節「未見の邂逅」

 

 は~い。

 

 今日も始まりました。

 

 アルンの思い出相談室。

 

 今日も皆さんの恥しい思い出を全アイウィス市民にお届けしちゃいまーす♪

 

 ではでは、今日の一番目のお便り逝ってみましょう。

 

 PN.アルンさんの大ファンさんからでーす。

 

 いや~照れちゃうなぁ~。

 

 大ファンだなんて。

 

 まだ駆け出しの私にファンがいる。

 

 それだけで十分嬉しいのに大なんて付けられたら嬉しくて胸がキュンキュンしちゃいますね。

 

 え~何々。

 

『初めまして。僕はアルンさんの大ファンです。この番組が始まって以来ずっと聞いています。このコーナーに投書するかどうか迷いましたが、僕の少し昔の思い出を聞いて下さい。僕は昔から体が弱かったのですが、一年程前に教会での治療がようやく終わって元気に走れるようになりました。将来は陸上の選手になりたくて嬉しかったのですが、やはり治っても中々体を激しく動かす競技は控えるようにと言われてしましました』

 

 そっか~。

 

 凄く辛かったんだね。

 

 私も中々売れなくて燻ってた時があるから、その気持ち少し分かるよ。

 

 自分の夢に手が届かないって哀しくてもどかしいものがあるんだよね。

 

 ハッ?!

 

 いけないいけない。

 

 此処はしんみりじゃなくて元気で明るく逝かないと♪

 

 続き続き。

 

『僕はそれでも陸上の選手に成りたくて、部のマネージャーをする事にしました。辛い決断でしたが、前よりも一歩、陸上に近付けた気がしています。完全に体が成長するまでは激しい運動は止められていますが、それでもこれからも陸上に関わって、自由に走れるよう努力していきたいです』

 

 うん。

 

 大変よい投書でした。

 

 君の気持ちが凄く伝わってきたよ。

 

 これからも相談室で私はお葉書待ってます。

 

 じゃあ、今日の一曲目逝ってみよ~♪

 

 大陸中央諸国のヒットチャート。

 

 星の数だけいる吟遊詩人のトップ。

 

 近頃は七教会の広報部でご活躍中の―――。

 

 *

 

 キュルキュルと音がする。

 

 音声の早送り。

 

 目的の地点から再生が再開される。

 

『そろそろ三曲目を……?』

 

 ガッシャーンと遠方で何かが割れる音。

 

『え、どうしたの? そ、外が変? それどういう、あ、ご、ごめんなさい。まだ放送中なのに。でも、今、外で何かが起こってるらしいの!! 非常事態だって事だから、ちょっとだけ席を外すね。三曲目が終わった後にまた』

 

 バタバタと足音がフェードアウトして曲が流れる。

 

 早送りされた音声が数分後、再び復帰する。

 

『ッ、はぁはぁはぁッッ?!! な、何なのアレ!? ど、どうなっちゃってるの!!? 外!! く、暗くて雲も掛かってない。ね、ねぇ!! ディレクター!! 七教会の治安部隊に連絡は!? え、そ、そんな……連絡取れない? そんなはず!! だって!! 此処の機材って最新なんだよね!! そう言ってたじゃない!!』

 

 先程までの穏やかな番組はもう続いてはいなかった。

 

『う、うん。うん……そ、そうだよね。誰かが助けに来るよね……分かった。じゃあ、みんな? まだ、聞いていてくれるかな? 途中でこんな事になっちゃってごめんね。でも、外の異変はアイウィス中に広がってるみたいなの。これが届いているかどうかは分からないけど、此処で急遽、番組内容を変更して、緊急放送に切り替えたいと思います。まだ通信が届いてる魔力波塔施設からの報告だと空やアイウィスの端の方は完全に暗くなっちゃってるみたい。魔術が使える人の話だと普通の異相じゃないって事ですが、確認は取れてません。ただ、闇へは近付かない方がいいって事だから、この放送を聞いてる人は絶対に暗闇に近付かないで。どうなるか誰にも分からないから……今、塔の人から連絡があったよ。どうやらアイウィスの合同庁舎に避難命令が出たみたい。この放送はまだこのまま続けるから、持てる通信機器か専用の魔術が使える人は避難しながら聞いてね』

 

 少しずつ流される情報は取るに足らないものばかり。

 

 だが、確実に少しずつ何かに追い詰められていく事が如実に分かるものだった。

 

『い、今、自警団って人達が来ました。どうやら、予備の【高格外套】を持ってるみたい。北部にある七教会の植物研究施設に有ったらしくて。これから避難が遅れてる地域を回って行くって。え? で、でも、まだ放送を聴いてる人がいたら……で、でも……分かり、ました。じゃあ、一番最後にしてください』

 

 しばし、怒号が飛び交う。

 

 それでも涙交じりの声だけはハッキリと響いた。

 

『っ……ご、ごめんね。聞き苦しいところまで聞こえちゃったかな。でも、アイウィスで唯一通信施設が通じる此処が動かなくなっちゃったら、避難にも差し障りがあると思うの。だから、限界まで此処で放送は続けるよ。聞いてる人がいたら、早く中央の合同庁舎に避難してね。七教会の部隊が助けに来るまで持ち応えられるくらいの備えはあるって話だから、きっと助かるよ』

 

 放送は続く。

 

 避難が遅れた地区。

 

 通信が届く限りの場所から情報を掻き集めては発信するの繰り返し。

 

 少しずつ疲労が濃くなっていく声。

 

 そして、一人ずつ放送機材を操作する者が欠けていく。

 

 それでもまだ最低の人数で放送は続く。

 

『今、このスタジオ以外の人達は全員が退避しに行きました。もう限界みたいです。避難している人達もお疲れ様。みんなで一緒に生き残りましょう。では、これで』

 

 放送が一旦途切れる。

 

 いや、語る者は無くても機材を止める暇は無かったのだろう。

 

 僅かな雑音だけが遠く響いていた。

 

 しかし、数分後。

 

 バタンと扉が閉まる音と共に放送が再開される。

 

『―――はぁはぁはぁッッ?! な、何なの……何なのよアレぇ?!! どうしよう!? どうしよう!!? 逃げられない!!? あんなのがいたら逃げられないよぉ……!!!』

 

 全速力で走ってきた者の息遣い。

 

 そして、涙声。

 

『た、助けてください!! だ、誰か助けて!! ま、まだ放送続いてるよね?! まだ、誰か聞いてるよね!!? ね!!? い、今、私は第三スタジオにいます!! ほ、他のひ、人…人は…あ……ぅ…ッぐ…ぅ…やだやだ……助けて、助けてよぉ……み、みんな…あ、あれに……あれにぃ…!!……ぅ……最後まで放送なんかしなきゃ良かった…助けて、助けて助けて助けて……』

 

 もはや呼び掛けではなかった。

 

 それでも放送は続く。

 

 無残に泣き崩れた顔が容易に想像出来るような声が助けを求め続ける。

 

 しかし、誰も来ない。

 

『い、今、音した? 音、し、したかな? う、ぅ……あ、明かり!! 明かり消さなきゃ!! 気付かれちゃう!! あ、アレに気付かれちゃ―――ひッ!! 早く早く早くッ!!?』

 

 バツンと何かのスイッチが落される。

 

『はぁはぁはぁ……まだ、声届いてますか? まだ、誰か助けに来てくれる? 今、外で、怖いものが……みんなを……あんなにした怖いものが……居ます……助けてください。お願い……助けて…助け…』

 

 ドズン。

 

 鈍い音が響いた。

 

『ヒッ!? ま、まさか、入ってきた?! そ、そんな!? 入ってきたら、きたらッッ!!?!』

 

 それからガチャガチャとマイクと機材が何かに擦れる音と小さな荒い息遣いと何か重低音が時折響くだけとなった。

 

『あの時……避難してれば良かったのかな……あはは……もぅ…遅いよね……』

 

 すすり泣く声は小さく。

 

 重低音がする度に潜められる。

 

『そう言えば……こっちからも機材弄れるんだっけ……』

 

 何かが闇の中でフッツリと切れたのか。

 

 まだ少し、しゃくりあげながらも声は独り言のようにブツブツと呟いていた。

 

 音が少しずつ大きくなっている事に気付いているのかいないのか。

 

 無言で作業を終えた声の主はもうプロの声に戻っている。

 

『……こんな事しか考え付かないなんて……私、ダメだなぁ……』

 

 ゆっくりと声が、優しく語り掛けるように、マイクへと囁き始めて。

 

『もう、助からないかもしれないから。最後に二つだけ録音しておきたいと思います。一つ目は遺言です……』

 

 数秒の間が空いた。

 

『お父さん。お母さん。お姉ちゃん。ありがとう』

 

 その声にあるのは恐怖ではなく。

 

 明確な感謝のみ。

 

『あれ…?……これ以上、考え付かないや……』

 

 もっと、言いたい事があったに違いなかったが、人間本当に伝えたい事なんてそう多くない。

 

 声の主の本当に伝えたかった事は感謝。

 

 彼女はきっと家族愛に溢れた者に違いなかった。

 

『此処からは私以外の人が助かるかもしれないから遺します。外に向けて発信し続けるのは私の操作じゃ短い録音時間しか無理みたいです。もう足が此処から動かなくて……ごめんなさい』

 

 その謝罪には真摯な色が困っている。

 

『―――こちらアイウィス放送局。誰か助けてください。我々は未だ生きています』

 

 その直後、建材が上げる悲鳴と壮絶な異音が鳴り響き、全ての音声は途絶した。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

『……』

 

 四者四様。

 

 少年は静かに黙祷し。

 

 エストリアは唇を噛み締めて項垂れ。

 

 ジルムスは苦々しい顔で溜息を吐き。

 

 美紗は痛ましそうな表情で目の前の機材への魔力供給を止めた。

 

『整理しようか』

 

 アーギストの声が周辺に響く。

 

「するまでもねぇ。此処には最初から誰もいなかった。そういうこったろ?」

 

 ジルムスの何処か溜息がちな声。

 

『……我々はあくまで個人的な理由で此処に来ただけだ。この記録を何処にどんな手段で届けるか。あるいは届けないか。それは帰ってからの課題にしたい。時間差はこちらで現在二十分弱。そちらは一時間以上だろうが、初回の探索はこれで終了としよう。それともまだ見て回るか? イクス・ゼオ』

 

「……いえ、今日はこの辺で」

 

『そういう事だ。今日はもう帰ろう。ハイダル……これはお前がどうこう出来る話じゃない』

 

 ジルムスの視線の中で俯いた妹を慮ったからこその声。

 

 それに項垂れるしかない少女はただ僅かに頷く事しか出来なかった。

 

 此処まで来て生存者無し。

 

 その事実、その実感、人々が化物か何かに押し潰される光景をありありと脳裏で想像出来てしまう感受性の強い妹の事をアーギストはよく分かっていた。

 

(優し過ぎるんだ。お前は……自分を傷付けてしまうくらい……)

 

 虚空を伝わる情報越しに青年は想定していた以上に妹がショックを受けている事を感じる。

 

 この探索に同行すると言い出した時も少年の末路を変えたいと此処までエストリアはやってきたのだ。

 

 本当にお人よしだと兄ながらアーギストは思う。

 

 善意というものを親身に他者へ感じる感性。

 

 それは大陸中央諸国の教会影響下の市民と聊かも変わらない。

 

 嘗て教会の下で生活していた両親の下でお祈りや礼拝(ミサ)にも参加していたのだから、当たり前かもしれない。

 

 今や七教会と敵対するような形になってこそいるが、エス・トリア家は本来が穏やかな血筋だ。

 

 その最たる妹の哀しみが彼には言いようも無く辛かった。

 

『では、そろそろ行こう。声自体は此方側で録音してある。何も持って行く必要はない』

 

 全員が複数の機材が置かれた部屋を出て元来た道を引き返す。

 

 その道中、エストリアは一言も喋らなかった。

 

「イクス・ゼオ。これからどうするつもりなのか教えなさい」

 

 美紗がやはり帰りも先を往く少年の背中に問い掛ける。

 

「ただ、先へ進むだけです」

 

「あれを聞いて!! どうしてそんな事がッ!! 此処は彼方の遊び場じゃない!!」

 

 獅子少女の叫びは最もだろう。

 

「僕は僕の理由でこの場所に来る事へ命を掛けてもいいと思った。でも、その理由を他者に強要するつもりは毛頭ありません。要は自分次第です。先輩が国を救う為の何かがあるかもしれないと期待するように……僕は僕を呼ぶ何かを突き止めたいと願った。それを遊びだと言われても僕には反論する理由が無い。個人的動機を他者に理解して貰いたいと思っても、そう出来るような確信じゃないですから」

 

「ッ」

 

 美紗は言い返せなかった。

 

 もし、一人だったとしても、彼女は事実を知れば“境界”を越えただろう。

 

 それは果たして彼女の自己満足ではないと言い切れるのか。

 

 確実に国の上層部が動いている案件。

 

 本当は何もせずに見守った方が状況を悪化させない一助になるのではと彼女自身だって悩んだ。

 

 それだけではない。

 

 もし、一人で向かって今回の探索で生きて帰れたかは疑問が残る。

 

 少年は【墓標】の圧倒的な力にも眉一つ動かさなかった。

 

 それはつまり“自分を処する事”が出来ていたという事だ。

 

 覚悟があったという事だ。

 

 己の死すらも厭わず。

 

 己の理由に命を掛けられたという事に他ならない。

 

 だが、奏美紗はあくまで警官としての己で行動している。

 

 命を掛けて、不確かなものを追い掛けている。

 

 少年と違って、自分の行動が正しいという確信を持てていないのにだ。

 

「なら、彼方は求めていたものを見つけられたの? イクス・ゼオ」

 

「手掛かりなら」

 

「どういう事?」

 

 先程襲われた一角まで戻ってきた少年が踊り場で立ち止まる。

 

「此処には確かに誰かがいた。僕を呼ぶ何かがある。誰が呼んでるかは分からない。でも、あんな風にこの世界の中に埋もれた誰かの声はまだ生きてる」

 

「彼方の思い過ごしじゃないって確証は?」

 

 フッと少年が微笑んだ。

 

「ありません」

 

(随分と自信満々じゃない……)

 

 溜息こそ付かなかったが、美紗は苦々しい顔をした。

 

 そんな時だった。

 

 ジルムスから焦った青年の声が響いたのは。

 

『これはマズイぞ!!』

 

「どうかしたんですか? 兄さん」

 

 焦った声が緊張を孕む。

 

『来る道にばら撒いてきた情報収集用の魔術中核が一斉に途絶した!! 此処の主達がどうやら帰ってきたらしい!! 観測結果から推測して数百じゃ利かない数だ!!』

 

「アーギスト!! 脱出経路は!!」

 

『経路確保まで後十五分待ってくれ。そうすれば、その座標から転移でこちらまで帰ってこれる。それまでジルムス。絶対に死ぬなよ!! 経路を通す起点であるお前が倒れれば、その時点で脱出は不可能になる!!』

 

「テメェの手元にある写真を回収するまで死ねるかよ」

 

『ああ、そうだな。生きて帰ってきたら返してやる。それより結構な数がそちらに向かってる。敷地内に結界を張れ!!』

 

「了解ッ!!」

 

 全員が動き出そうとした刹那。

 

 ゴォオン。

 

 そんな重低音が響いて、少年以外がよろけそうになった。

 

「こ、この音は!? さっきの録音で響いてた?!!」

 

 美紗が周囲を見回すものの、化物の姿は無い。

 

 しかし、少年が【墓標】との戦いでかなり欠けた剣を抜き放った。

 

「イクスさん?!!」

 

「そういう事か…」

 

 何を看破したのか。

 

 少年がジルムスに耳打ちする。

 

「んだと?! どういう事だ!!」

 

「とにかく。後は任せてくれれば」

 

「―――本当にいいんだな?」

 

「はい」

 

「な、何を二人で話してるんですか!!?」

 

 何も言わずジルムスがエストリアと美紗を片腕で抱いた。

 

「行くぜ。3、2、1ッ」

「え、ちょ、ちょっと?!!」

 

 美紗もさすがに驚いて抵抗しようとしたが、ジルムスの顔が予想以上に険しい事に気付いて暴れなかった。

 

「0!!!」

 

 ドッ。

 

 瞬間的に階段を飛び降りた巨躯がまるで暴走する馬車馬の如き疾走で瞬時に玄関先の硝子扉を破壊し、そのままの勢いで外まで飛び出していった。

 

 ゴォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛―――。

 

 重低音が一際大きくなる。

 

 それに合せて建造物全体に罅が入り、微細な破片が少年の周辺に降り注ぐ。

 

「疑問はまず三つ。どうして都市は綺麗なままだったのか。どうして破壊されたはずの録音機材やスタジオ内部までもが完全な状態だったのか。どうしてこの廊下にはさっき破壊されたはずの硝子が落ちてないのか」

 

 剣が手が白くなる程に握り締められた。

 

 大きな階段の手摺が一気に根元から外れて、まるで蛇のように両側から少年の頭上を取る。

 

「最初はそういう場所なのかと思ってた。でも、違う」

 

 手摺が両側から少年に襲い掛かった。

 

 それと同時に階段の踊り場がバックリと中央から裂ける。

 

「どうして無いはずの月があるのか。いや、そもそもそれは月だったのか」

 

 一瞬の跳躍で虚空へと逃れながら、少年の手にある剣は既に魔力の光で刃を補うように形成していた。

 

 まるで薄い水晶(クリスタル)。

 

 鈍色の剣が最初からのその形だったかのように超大化していく。

 

 まったく重さを感じさせない剣捌きで周囲の壁に剣先が突き入れられた。

 

 オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛ン。

 

 そのまま壁に着地し、走り出した少年に沿って、剣が全てを切り裂いていく。

 

 灰色の建材も、魔術具の灯も、様々な番組のポスターも。

 

 重力を無視し壁を疾走しながら、少年は続ける。

 

「たぶん、この地方都市で最も魔力の置換や変換の機材が揃っていたからこそ、此処は化物に襲われた。あの録音があの部屋で行われたなら、機材の破損で全て失われていてもおかしくない。でも、実際には録音は少しも失われていなかった」

 

 重低音はまるで騒音に近くなっていく。

 

「不自然な点が多過ぎた」

 

 階段の終点であるホール入り口正面。

 

「さすがに脚色し過ぎだよ。この時間が早く流れる世界に有って、外で五年以上経ってるのにまだ積層魔力が残ってて、録音が放送されてるだなんて」

 

 剣がアイウィス放送局と書かれた壁のエンブレムへと突き刺さった。

 

「純粋波動魔力。この世で最も幅広く活用される魔力なら、機材次第では都市を覆い尽すのに十分。この“過去の空間自体を復元してる干渉”の起点は此処」

 

 ギオ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛?!!!!

 

「【アイウィス放送局】だ」

 

 巨大な構造物のうねりが少年を飲み込んだ。

 

 *

 

「なッ?!! なんだアリャァアアアアッッ!?!」

 

 ゴロゴロと二人を抱えて放送局から転がり出たジルムスは放送局周辺の敷地を覆う結界の発動因としてアーギストからの指示をこなしながら、その光景へ釘付けとなった。

 

「ま、まさか?!!」

 

 美紗がようやく気付く。

 

 巨大な放送局そのものが地面から引き剥がされるようにしながら持ち上がってうねり出した。

 

「あ、あれ見て下さい!! あの看板!!!」

 

 エストリアが指差した先。

 

 放送局の玄関先の看板の色が変質していた。

 

 屍蝋の色に青の文字。

 

 曰く。

 

【欺瞞(フラウデム)】

 

「この構造物、放送局自体が化物だったってのか!!!」

 

『ジルムス!! 看板をよく見ろ!!』

 

「あぁん!!?」

 

 全ての瞳が今にも倒れ込んできそうな化物の仮面である看板を凝視した。

 

「ッ―――マジかよ!!?」

 

「どうかしたんですか!!? ジルムスさん!!」

 

 エストリアに話すべきかどうか。

 

 迷ったのは一瞬。

 

 嘘を付いたところでどうなるものでもないとジルムスは素直に教える。

 

「見えねぇかもしれねぇが、あの看板に仮面が何十も張り付いてやがる。喰らったんだよ。あの【欺瞞】て化物に同化されたんだ!! あの“境界”で見た【扉】みたいにな!!」

 

「――――――ッ」

 

 それはきっと録音に残っていた犠牲者。

 

 その中にはたぶん、録音の主も入っているのだと彼女は理解した。

 

「さすがにこんなもんと戦う装備なんざしてねぇだろ!! 後、何分だ!!」

 

『今、大急ぎでやってるさッ!!! 絶対座標の確定と異相の貫徹まで残り五分だ!! 退避を最優先に入り口だけ作る!!』

 

「イ、イクスさんはどうするんですか!!? 今もあの化物の中にいるんですよ!!?」

 

『ハイダル。兄さんとの約束を忘れたのか?!』

 

「で、でも!!?」

 

 二人のやり取りの間にも巨大な数万トン以上の建材がうねり、捻れ、悲鳴を上げていた。

 

「あの化物……まさか、苦しんで?」

 

 美紗の呟きと同時だった。

 

 ビキビキと土と捻れた鉄筋を晒す構造中央部分が数mに渡って崩壊、巨大な孔が開いた。

 

 ゴッ。

 

 飛び出してくるのは化物ではない。

 

「イクスさん!!」

 

 喜びの声を上げるエストリアが着地地点へと向かっていく。

 

『ハイダル!!! 危険だッ!!?』

 

 しかし、そんな兄の声を歯牙にも掛けず。

 

 地面に膝を付いた少年に少女は駆け寄った。

 

「だ、大丈夫ですか!!? イクスさん!!」

 

「うん。ちょっと半分くらい潰されちゃったんだけど」

 

「そ、それ大丈夫って言いませんよ!!?」

 

「あはは、そうかも……でも、そうも言ってられないみたいだし」

 

 オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛―――。

 

 振り返った少年の視線の先。

 

 悶えながら、瓦礫を落としながら、巨大な腕の如き別棟が振り上げられていく。

 

「に、逃げッ!!?」

 

「逃げ場なんて無い。でも、戦い様はある」

 

 立ち上がった少年の足元に大量の紅の雫が滴り、血溜りを作っていく。

 

「イクスさん?!!」

 

「ちょっと、頼みがあるんだけど、いいかな?」

 

「え?! こ、こんな時に何を言っ―――」

 

「もし、僕が死んだら、ちょっとだけ口付けしてくれない?」

 

「なッッッ?!!」

 

「頼んだから。じゃあ」

 

 少年が駆け出した。

 

 ジルムスと美紗がエストリアを保護すると攻撃範囲圏内から離脱するべく。

 

 敷地の端へと退避していく。

 

「ジ、ジルムスさん!!?」

 

「悪いが、こっちは命が最優先て事になってる」

 

「わ、私の【崩燼機関(ソルヴァス・エンジン)】なら」

 

「それを設定してる時間が有るかッ。情けねぇが、あんなのにすぐ太刀打ち出切る方法を今のオレ達は持ってねぇ!! 焼け石に水だッ!!」

 

 美紗もジルムスも戦闘に関しては玄人に近い。

 

 いや、だからこそ、絶望的な戦力差というものを二人は少年に感じていた。

 

 何百トン。

 

 何千トン。

 

 何万トン。

 

 何百万トン。

 

 それだけの構造物が動くだけという事実が如何に理不尽な事か。

 

 魔術でも武術でも戦う術があるのは高位の存在のみ。

 

 如何に優れた血統と高度な戦闘技能を有する美紗だって、相手は人間型を想定している。

 

 ジルムスにしても武術が通じる相手の限界くらい見定める目は持っていた。

 

 その点で目の前で拳を振り上げる大質量構造体と打ち合う方法は無いと判断したのだ。

 

(せめて【崩燼武装(ソルヴァス・アームズ)】さえ手元に有ればッ!!!)

 

 美紗が歯噛みしたのも無理はない。

 

 現在修理中の得物があれば、彼女にも戦い様はあった。

 

 それ程に【崩燼機関】を積んだ武器というのは強力なのだ。

 

 出力限界さえ無視すれば、一太刀くらいは巨大な化物にも有効な一撃が放てたはずで。

 

 過去を悔やんでもしょうがないとはいえ、彼女は拳を握り締めるしかなかった。

 

「完全制御。痛覚遮断。右腕全壊を想定。左腕方陣敷設開始」

 

 天高く振り上げられた腕が数百mの頂きから一気に落下する。

 

 思わずジルムスは全身から汗を噴出させ、美紗は防御方陣を上方へ展開し、エストリアは叫んでいた。

 

「開放ッッッッ!!!!!!」

 

 右腕に持たれた刃欠けの剣が天井となって押し寄せる莫大な質量の一撃へ向けて真逆に打ち込まれる。

 

 ドッッッッッッゴボォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!

 

 【欺瞞】の振り下ろした腕が激音と暴力的な爆風を伴って止まった。

 

 しかし、その代償は高く。

 

 少年は消し飛んだ自らの片腕の残滓に全身を血化粧されながら、吹き飛んだ右上半身、半ばアバラと鎖骨が粉々に混ざった身体で笑った。

 

(剣は全壊。右半身の骨、内臓、全部ダメか……動くのは左腕と……潰れた腰骨が少し……十分だ)

 

 声はまだ出る。

 

 ならば、まだやれる。

 

 そう、判断した少年はゆっくりと持ち上がっていく【欺瞞】の腕の下で瀕死の重傷を感じさせない声で謳う。

 

「【どうか、彼方を慰めさせてください】」

 

「イクスさぁあああああああああああああああああああああああああああんッッッッ!!!!!」

 

 少女は泣き叫び。

 

「【その杯に彼方の夢が満ちるまで】」

 

『馬鹿な?!! あの聖言は―――』

 

 通信の先で青年は目を剥き。

 

「【世は晩生の贄なりて】」

 

「そこまで、そこまでして、何がやりてぇんだッ。お前は――」

 

 呆然と呟いた巨漢は自分に無いものを少年が持っていると認め。

 

「【彼方を包む久遠の頚城】」

 

「イクス・ゼオッッ?!! どうして彼方はッッ!!?」

 

 喉を干上がらせながら、覚悟が、決意が、何もかもが、少年に追い付かないと獅子少女は知り。

 

「【尽き果てる亡者を救い給え】」

 

 施設周辺に張られた不可視の結界に阻まれた化物達は一斉に少年へ視線を集め。

 

「【永久の楽土へ還し給え】」

 

 今、また一撃を見舞おうと腕を上げていた屍蝋の仮面達は羽虫のように潰れた何かを看板の上から見下ろして。

 

「【その清き御名を持って】」

 

 全ての存在に見つめられた中。

 

 少年は残った隻腕を高く掲げた。

 

「七詩篇。確かに捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。いと高き者―――」

 

 瞬間。

 

 少年の腕に緻密な魔術方陣が浮かび上がった。

 

 それは通常の大陸規格である【秘儀文字(アルカナ)】を使わない。

 

 それどころか文字を用いない、象形のみを使用した壮大な絵の螺旋。

 

 つまりは伝説を伝える壁画のようなものだ。

 

 交わる蔓の中に描かれるのは人が発生して後。

 

 教会が出来てから今日まで歩いてきた秘蹟。

 

 歴史そのものである。

 

 本来、教会が持っていた歴史文献。

 

 それらを唯一神に捧げる劇として編纂したのが、その術の起こりと言われている。

 

 今や七教会でも使用可能な者は少なく。

 

 また、旧教会派ですら唯一神の消滅という事実を広めぬようにと運用を禁じられた。

 

 古の法術。

 

「【聖祝詞(キャヌント・サルテム)】」

 

 教会の法術体系で通常扱われる術とは根本的に原理が異なり、唯一神の消滅を証明してしまうという点でこの十数年一度たりとも大陸では使用されなかった、本来ならば万分の一以下の出力も得られないはずの、そんな失われたも同然の聖言が、顕現する。

 

 オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ――――――?!!!!!!!!!!!!!!

 

 屍蝋の仮面達が戦慄く。

 

 白き翼が、彼らを覆っていた。

 

 それは誰かのものではない。

 

 己の背後から出るものである。

 

 彼らは……“天使の根本”へと同化され始めていた。

 

 ガラガラと猛烈な速度で【欺瞞】と都市中の建材が崩れ落ちていく。

 

 黄昏が割れ、光りが満ち、世界が震え、都市を覆い尽し、偽装していた波動が失われていく。

 

 屍蝋の仮面達が涙を零した。

 

 それは開放からか。

 

 あるいは自らの消滅故か。

 

 崩落する巨大構造物の余波で結界が崩壊し、ジルムスと美紗はエストリアを連れて虚空へと飛び逃れる。

 

 化物達が猛烈な勢いで崩れて行く雪崩の如き石の雨に打たれて潰れていった。

 

 瓦礫の雨の最中。

 

「……」

 

 少年は何とかなった事に満足して瞳を閉じる。

 

 本来、天使達の構造原理に対して干渉する事は唯一神以外に出来ない。

 

 それを行う為には神への許諾と許可が必要となる。

 

 唯一神の力の残滓が幾ら力を法術に供給しようと、唯一神そのものが存在しない以上、術は力を失い、契約は果たされず、許諾も許可も下りない。

 

 教会の神の代わりに居座る七聖女クラル・リテルですら、天使そのものは統括出来たが、天使の改変権。

 

 つまり、神としての代理では到底届かない“唯一神そのものとしての権利”は受け継げなかった。

 

 故に発動しても効果が解決される事なんて在り得ないはずの法術だったのだ。

 

 それが、偽りの都市に光りを満たしていく。

 

 オ゛オ゛オ゛ォ゛ォォォォォォォォォォ………。

 

 天使へ。

 

 “唯一神が祝福し、天へと揚げた人間の根源心理”へと還されてゆく者達から仮面が剥がれ落ちた。

 

 その素顔。

 

 全員が男かと思われたが、一人だけ女性のものがある事をエストリアは最後の瞬間、目にした。

 

 その顔には何故か。

 

 安らかな笑みが浮いていて。

 

 白き翼が咆哮にも似た唸りを上げて上空へと昇っていく。

 

 空間への直接干渉。

 

 巨大な磁力、重力、因果の坩堝。

 

 天使へ繋がろうとする力の塊が、巨大な虚空とその先にある現実へと孔を開け、異相の“境界”を剥き出しにする。

 

『経路確保!!! このまま転移させるぞ!!?』

 

「ま、まだイクスさんが残ってま―――」

 

 ジルムスがエストリア首筋に手を当てた。

 

 気を失った少女の身体がくったりと力を失う。

 

「それで、いいんですか?」

 

 美紗の声にジルムスは唇を噛む。

 

「この状況で捜索出来るもんならそうしてる。だが、このまま此処に留まって助かる保障は無ぇだろ?」

 

「……行きましょう」

 

 その同意の声に通信越しの声が何事かを呟く。

 

『転移開始!!!』

 

 そうして三人の姿は化物の跋扈する都市から消え失せた。

 

 *

 

「ほぅ? まさか、こんな場面に立ち会う事になるとは。これだから人生というのは面白い」

 

 今や黄昏が消え失せ。

 

 瓦礫と闇と化物に飲まれた異相都市の上空で。

 

 ドクトルを自称する男が目を輝かせながら拍手していた。

 

『巨大な魔力動体が現在こちらに向かい高速接近中』

 

 彼の前に身に付けた機器から出力された魔力光の文字が浮かび上がる。

 

「どくとる?」

 

 傍らの制服姿の影が一人。

 

「まぁ、気持ちは分からないでもない。だが、此処で引き合わせるのは得策とは言い難い、か」

 

 パチンと指が弾かれる。

 

 すると。

 

 そろそろ閉じそうになっていた空の虚無と現実へと続く穴がギチギチと悲鳴を上げて固定された。

 

「今日のところは帰りたまえ。だが、また何(いず)れ会おう。その時は一緒に自己紹介でもしながらお茶でもしようじゃぁないか。百数十年振りの再会だ。 君に覚えられていないのがとても残念だが、そういう趣向もたまにはいいかもしれないな……“イーギルフィスト”……」

 

 未だ瓦礫と土煙に覆われている放送局跡の一角から光の筋が延びて孔を飛び越えていく。

 

 それを見送った二人はそろそろ来るだろう聖なる使者に見付かる前にその場から姿を消した。

 

 十数秒後。

 

 化物達が押し寄せてくる放送局の上空へと到達した影。

 

 いや、輝きの塊が一人。

 

『た、確かに此処から反応が?!!』

 

 辺りを精査しても誰も存在しないという事実。

 

 それが示すところを聖なる者は感じ取った。

 

『―――この都市には何かが………』

 

 呟きはすぐ羽ばたきで埋もれていく。

 

 空を渡って、闇に紛れて、新たなる化物達が飛来する。

 

 それは鴉の群れ。

 

 今は屍蝋の仮面を付けた音速を超える槍にも等しき動物の成れの果てだった。

 

『まずは此処を掃討。それから次の領域へ………探索は……随時……最初の行動指針はこれで……』

 

 その背に後輪が広げられた。

 

 先程まで化物達を浄化していた天使創造の秘術にも似た光りが。

 

 戦うまでもなく。

 

 都市全域の化物達が跡形も無く消滅したのはそれからたった十秒後の事だった。

 

 *

 

 三人が降り立ったのはアルヴァス・カレッジの裏山。

 

 巨大な鳥居がある一角である。

 

 ジルムスは鳥居より離れた場所にエストリアを抱えて着地し、美紗は驚きに固まった。

 

「此処は……!?」

 

「何とか着いたな。おい!! アーギスト!!」

 

『怒鳴らなくても聞こえてる。ハイダルの様子は?』

 

「気を失ってるだけだ。すぐに目を覚ます」

 

『……そうか』

 

「決断しておいて後悔してんのか?」

 

 少年を置いてきた。

 

 エストリアが目を覚ませば、どんな事をしてでも戻ろうとするのは確実。

 

 妹の生存を最優先にしたとはいえ。

 

 最愛の家族の心に一生の傷を付けたかもしれない決断をしたのだ。

 

 さすがのアーギストもその自覚はあった。

 

『……一生恨まれるとしても、僕は正しい事をした。家族にとって』

 

「テメェのそういうところは見習うべきなのかもしれねぇな。ただ、その言い訳は妹の為に残しておけ」

 

『ああ……そうす―――異相からの再干渉を確認!!? 構えろジルムスッ!!!』

 

「クソがッ?! まだ追って来るのがいるのかよ?!!」

 

 反射的に美紗へエストリアを預けて。

 

 巨躯が戦闘態勢(ファイティングポーズ)を取った。

 

 すると、鳥居からボッと吐き出されるような恰好で血だらけの外套が勢い激しく転がり出てくる。

 

「ッ、アーギスト!!」

 

『ああ、分かってる!! 今、精査中だ!! 終わるまでは近付くなよッ!!』

 

 二人が即座に治療へ向かわなかったのは少年の顔が確認出来なかった事と仮面が浮き出ているかどうか確認する為である。

 

 不用意に近付いて襲われないとも限らない。

 

 シビアな計算と打算が出来る点で二人は似た者同士かもしれなかった。

 

『……大丈夫だ。化物の反応は一切無い。というか、まだ生きてる。治癒と復元の術符がある。早めに処置すれば助かる可能性が高い』

 

 ジルムスが急いで駆け寄るとテキパキと外套内部に保存していた治癒の魔術中核を仕込んだ鉄符(カード)を取り出して両腕が根元から無い少年に貼り付けていく。

 

「どういう戦い方すりゃぁ、こうなる……肺と心臓と肋(あばら)がグチャグチャだぞ……」

 

『おかしい……すぐに再生が始まらない? ジルムス!! 右の十四番に秘薬が入ってる!! それを飲ませろ!!』

 

「ああ」

 

 的確に外套の内側に無数付いた衣嚢(ポケット)の一つから試験管(アンプル)を抜き出した手が上の封を指で捻じ切って、少年の口へと突っ込んだ。

 

『……どういう事だ?! 回復しないッ!! クソ!! 此処で死なせたらどうハイダルに言ったらいい!!?』

 

 傷が一向に回復しない状況にアーギストが焦った声を出す。

 

「ど…いてください。ジルムス…さん」

 

『ハイダル!? お前ッ!! もう起きて大丈夫なのか!!』

 

「いいから早く退いて下さいッッッ!!!!!」

 

 妹の本気の怒鳴り声に通信越しに兄が慄く。

 

 ジルムスが言う通りにすると少女の前には少年の惨状が広がった。

 

「―――イクス…さん……ッ」

 

 泣くまいと。

 

 歪む顔を無理やり立て直して。

 

 少女は上に覆い被さった。

 

『な、何をする気だ?! ハイダル』

 

「イクスさん……これで…いいんですよね……」

 

 そっと少女は自らの初めてを。

 

 女として初めての口付けを、躊躇い無く捧げた。

 

『なッッッ?!!?』

 

「おぅう?!?」

 

「エ、エストリアさん?!!!」

 

 その場の三人が驚きに目を見張り固まった。

 

 しかし、それよりも更に言葉を失う事になったのは数秒後。

 

 ふわりと。

 

 燐光が周囲に漂い始める。

 

『これはッ!? イクス・ゼオの身体から……どういう事だ??! 何故ッ!?』

 

 都市の住人。

 

 いや、アルヴァスという国家の人間ならば知らぬはずはない光。

 

「これは昇華光!!? どうして【原理粒子(イデアル)】の光が―――」

 

 美紗は脳裏で地下水路の迷宮で貫いたはずの“誰か”を思い出していた。

 

 あの時も貫いた後。

 

 つまり、重症を負わせてから燐光が吹き荒れた。

 

「イクスさん…イクスさん…ん……」

 

 名を呟きながら、必死に唇を押し付ける少女の下。

 

 溢れ出る光が周囲を照らし、立ち上っていく。

 

「見ろ。傷が……」

 

 ジルムスは目の前で奇跡の如き光景を目の当たりにする。

 

 傷付いて内臓から骨から何もかもが交じり合った両腕の付け根が少しずつ変化して秩序だった構造を取り戻していく。

 

 心臓と大動脈の再生。

 

 肺の回復。

 

 横隔膜の修復。

 

 筋肉の再構築。

 

 肋骨から鎖骨、肩から指先に掛けての骨の復元。

 

 血管が張り、血が回り、肉が膨れ、肌が取り戻されていく。

 

『【不死者(イモータル)】か……』

 

「あ…ぁあ…イクスさん…ッ」

 

 自らの下で生気を取り戻していく少年を見て。

 

 ポロポロと大粒の涙が、その顔に幾つも降り注ぐ。

 

「ん……」

 

「あ、だ、大丈夫ですか!! イクスさん!!」

 

 ゴシゴシと顔を拭って。

 

 薄らと目を開けた少年に少女は呼び掛ける。

 

「あ…エストリア……?」

 

「ッ、良かった……本当に……良かったッ……!!」

 

 キュッと少女に抱き締められて。

 

 少年はようやく自分が危ないところだったのだと察した。

 

「ありがとう。言う通りにしてくれたんだ?」

 

 もう涙で少年の胸元を濡らして声にならない少女はただ頷いた。

 

「大きな借りが出来ちゃった…かな…」

 

『んッ、んぅう。ごほ、ごほん、ごほん』

 

 虚空で咳払いが数度。

 そうしてようやく少年は見られている事に気付く。

 

「あ…あの…エストリア?」

 

「な、なんですか?」

 

「みんなが見てるから、これ以上はちょっと…」

 

「いいんですッ。見たい人は見てればッ!! それより今はこうしてたいんです!!」

 

「その…そういうわけで、もう少し…」

 

『……………』

 

 虚空の声が通信越しに沈黙する。

 

 青年が物凄い表情をしている気がして、少年は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。

 

 その様子にジルムスはヤレヤレと呟いて呆れ。

 

 美紗は一人難しい顔で少年と少女を見つめる。

 

(あの光は傷から溢れ出てるように見えた。どういう事なの……やはり、あの時の存在はイクス・ゼオ? でも、今までの言動が嘘を付いているようには見えなかった……一体……彼方は……)

 

 天高く蒼き星が輝いて。

 

 霧の中。

 

 温かな気配がその場を満たしていった。

 

 誰が敵で、誰が味方で、何が起こっていて、どうすればいいのか。

 

 誰も答えを持ち合わせず。

 

 而して初めての境界踏破は終了した。

 

 一部、様々な疑問と疑念と疑惑を残しながら。

 

 それでも。

 

 妹の無事と笑顔を得た兄は大きな息を吐いて。

 

 国に来て初めてかもしれない最愛の家族のとても明るい笑顔を素直に受け入れる事とした。

 

 それが例え、一時的なものに過ぎないのだとしても……。

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