墜落部屋 - ウサギ穴
貴女の名前を教えて下さい。
【グリム】
グリムさん。
おはようございます。
……ふふっ。可愛らしい寝ぼけ眼ですね。……けれど、眠気は醒めやらぬといったご様子。
いいのですよ。貴女の物語が始まるまで、もう少しばかり時間がありますから。
それまで、もうあと少しだけ――安らかにおやすみなさい
大事な、大事な
体なのですから
*
愛恨めしきアッシュ・リィン
どこへなりとも訪れろ
たおやかな指先で久遠に敵え、
縹渺もろとも砂を撒け
我が名を悠遠く、どこまでも
おまえの足を刻みつけるから
*
むせ返るような鉄の臭いが脳髄に染みる、その不快感で目が覚めた。
どのくらい眠っていたのかはわからない。わからないが、少なくとも短くはないということを頭の中を泳ぎ回る微睡みが教えてくる。
ここはどこなのだろう?
見渡せば骸骨の山がゴミのようにあたり一面に散らばり積まれていた。私が敷布団にしていた床に広がるドロリとした赤黒いものが、かつて骸骨たちの体内に廻っていたであろうものだということは容易に想像がついた。
空っぽの胃がひっくり返って、食道が逆流しかける。
二度、三度えずきなから私はなんとか立ち上がった。血泥に濡れた長い髪の毛がべたりと肩に背中に貼り付いてひやりとした。
目の前には扉。足を引きずりながらその扉を開けようと試みるが、矢っ張りというか、施錠されていて簡単には開きそうにない。
閉じ込められていた。
前は牢屋で、今度はごみ溜めか。
一度あったことが二度ある可能性は限りなくゼロに等しい。救いの手が訪れることに期待するのは早々に諦めて、この扉の鍵が少女の力でも壊せるくらいに風化していることに賭けて、私は何度も扉をがちゃつかせた。数えるほどに四つ、五つ……六つ?
「……………――――――」
想像以上に頑固なボロ扉に苦戦を強いられる最中、私の耳に遠吠えのような音が届く。
取っ手から手を離し、上を見上げる――その瞬間。
「――――ぁぁぁああぁぁぁあぁぁあああッッッ」
一秒、絶叫を奏でるそれと目が合って――
びしゃっ。
あまりにも残酷な速度で落下してきた人間が、私の真横で砕け散った。
人の大部分が水分で出来ていることを知らしめる絶命の音が響き渡る。人の死体は見慣れていたが、人の形を保てなくなった死体はそれなりに新鮮だったし、何よりどんなのだろうと何度見ても気持ちのいいものじゃない。起きがけであれば尚の事。
……まだ、夢を見ているのだろうか。
一刻も早くそんなものからは目を離したかったけれど、彼だったものの腰だったであろう部位に光るものが見えて、それが私の興味をひいてしまった。
鍵、だった。
生暖かい血液で濡れそぼったそれは、つい先ほどまで私が苦戦していた相手を奇妙なほど容易く手懐けた。
扉の先はずいぶんと高かった。
柵の一本も立っていない、壁に沿って申し訳程度に足場と階段が取り付けられた奇怪な道を、無数の時計と家具に睨まれながら昇っていく。
足を滑らせれば一貫の終わり。私もさっきの彼のように、盛大な水音を奏でてびしゃりと絶命するのだろう。
いや、死にはするけれど、終わりはしない。
……いや、それでも死には死ぬんだ。死ぬのは、何度経験しても慣れることはないし、慣れたくもない。
血まみれの鍵を握りしめて階段を上がりながら、ひとり思う。扉を開けて、階段を昇って、足を滑らせて落下して、死ぬ。その流れが、この場所で何度繰り返されてきたのだろう?
高所から見下ろす骸骨たちはみんな定まった形をしておらず、様々な形に砕けてなんとも芸術的な屍となっている。あれら、みんな、墜落して死に重なって、ああなったのか。
墜落部屋だ。
心の内に、私はこの部屋をそう名付けた。
*
墜落部屋の頂上の扉には鍵はかかっておらず、軽く取っ手を傾けて力を込めただけでかちゃりと開いた。
扉を開けた瞬間にがんがんと響き始めるどんちゃん騒ぎの音。騒音に混じって肉を噛み千切るような不快な音も聞こえてくる。開けたくない。
けれど足を止めていたら、この墜落部屋から出ることはかなわない。意を決し、扉を開け放ったその瞬間
『美味しいぃいぃぃぃぃいいいぃぃ~~~~~ぃ!!!!!!!!!!がちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!ばりっばりっばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ぐちゃっぐちゃっばったんっ!ぐちゃっがちゃっ!がちゃがちゃっ!むしゃっむしゃっがちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!ばりっばりっばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ぐちゃっぐちゃっばったんっ!ぐちゃっがちゃっ!がちゃがちゃっ!むしゃっむしゃっがちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!がちゃっ!がちゃがちゃっ!ばりっばりっばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ばったんっ!ぐちゃっぐちゃっばったんっ!ぐちゃっがちゃっ!がちゃがちゃっ!むしゃっむしゃっがちゃっ!がちゃがちゃっ!』
頭の中を掻き乱されるような騒音と、軽快な音楽が鼓膜の中でぐちゃぐちゃに混ざり合った。
撒き散らされる鉄の臭いと獣の臭い。美味い美味いと絶叫を繰り返しながら死肉を貪る兎がそこらじゅうで食事をしていて、貼り付けられただけの扉がこの上なく上機嫌にせわしなく開閉を繰り返している。生きた人間の気配などどこにもなく、ただ哀れな残滓を残すばかりだった。
……なんだ。…………ここは。
私は……本当に、何処に来てしまったというんだろう…………??
一歩、踏み出してそのウサギ穴に入り、扉を閉じる。
幸い兎たちは食事に夢中で、侵入者である私に意識を向ける素振りはない。悪趣味なランチかディナーに没頭する彼らの横を。忍び足で通り過ぎようとした時だった。
ぴたり、と音が止む。
横を見ると、筋繊維のような糸を口から垂らしたままの兎が私を見ていた。
「アリスだ」
ぼたり。
口の中に残っていたわずかな死肉を溢して、兎はそう口にした。
「アリスが来た」「アリスだ」「アリスが居る」「アリスで?」「アリス?アリスアリス」「なんで」
「食べられるよ」「アリスはアリス?」「あああああありすりすりすえええへへへへへへええええへへ」
「いやだ」「あははははへへはへアリス」「ごげっ!!ごげげ!!!アリスが!!」「僕じゃない僕じゃない」
「アリスはウサギが好きなんだ」「おほっ!おほっ!おほっ!!ぅぇ」「はらからがたくさん殺された」
「うさぎの肉はうまいんだ」「そう焼くととろとろでとろとろとろろろろとろ」「バンダースナッチと一緒」
「食べるのか?」「アリスだからさ」「きっと食べるぞ」「ほぅ」「僕らもかい?」「僕らは違う」
「アリスはうさぎをたべるんだって」「なんでってそりゃあ貯金の為だろ」「わかるわかるわかるぐしゃぐ」
「たべるな」「たべるなよ」「僕らのだぞ」「そうだ」「アリスも人間だろ?僕らはなんだ?」「兎じゃね?」
「おいしそう」「アリスが居る」「おいしそう」「アリスだからな」「おいしそう」「きっとそうだ」
「アリス」「アリス」「アリス」「おいしそう」「アリス」「おいしそう」「おいしそう」「おいしそう」
いつの間にか、死肉を貪っていた兎達が一斉に私を見ている。
アリス……と呼んでいる?私の、ことを?
…………アリスとは誰だ?
…………誰のことを言っている?
向けられる食欲。沸き立つ焦燥と恐怖。物怖じに押しつぶされそうになる私のもとへ、一匹
「僕のだぞッッッッッ!!!!!!!!!」
牙を剥いて襲い掛かる兎。動物らしい瞬発力を大いに生かした攻撃だったが、既に『回避』の体勢に入っていた私には届――――
「……――――ッ……!!?」
――かない。筈。だった……のに。
「もぐっ もぐっ もぐっ もぐっ ごくんっっ」
兎と私の体がすれ違う刹那、左肩の肉を持っていかれた。
久方ぶりの激痛に思わず膝が折れる。右手で傷口を強く抑えるが、出血は止まらず、左腕が赤く染め上げられていく。
「ぁはっ……ぉひ♡♡噛めば噛むほど溢れ出てくる新鮮な血液♡アリスの血はおいしいなあそれに肉も最高だぁあハハっっ♡♡アリスのお肉のうま味が口いっぱいに広がる多幸感で、ぉほ♡ぁへえ♡……どおおおにかなっちゃいそおおおおのど越しっおおおおおおおさいこぉぉおぉっっおっおっおぉぉっっおおお♡♡♡」
私の肉を咀嚼して飲み下す喜びに打ち震える兎を睨み付けながら、荒くなる呼吸をなんとか整えようと試みる。
……前は。こうは、いかなかったのに。
思った通りに体が動いて、思った通りに戦いを進めることが出来た筈。なのに今は……思う様に動かない。
不死者としていくつもの戦いを潜り抜けて、 を した私が、 ……なんで――
…………………………?
「ぉいおぃおい食ったわアイツ」「ほう……アリス肉ですか……」「おいしそおおおいいなあああぁ」
「僕も食べたいっっっ」「いただきますの挨拶はしなきゃ」「膝も立てるなよ、美味しくなくなる」
「レース直前に愛食するウサギも」「肉だけじゃ物足りないわ、あの髪も」「灰色の綺麗な髪もいただこう」
「銀色のお目めもおいしそう」「デザートにぴったりだと思う」「リンゴふたつ分くらいかな?あのおっぱい」
「全身がしもふりで出来たありす」「女の子のお肉が不味いわけないだろ!!」「大たい骨しゃぶらせてよねえ」
「服は邪魔だね」「皮と一緒に剥げば?」「下着なら食べるよおいらが」「おまんこっっ!!!!かじらせて!!!!!ねえ!!!!!!」
…………私は
何を……したんだっ…………け……?
何か、何かをした筈なんだ。そう、いろんなところを旅して回って、いろんな人と出会った。
その全体像は思い浮かべられるのに、霧がかかったように細部を思い出せない。誰と何を果たしたのか、なにひとつだって思い出せない。呼びかければ駆けつけてくれる仲間たちがいて――だから私は、いつだってひとりじゃないことに背中を押され、支えられ続けていた、のに、今は
――ひとり?
急に、凍えるような孤独感に苛まれた。
ウサギに囲まれる少女がひとり。ああ、確かにアリスだ。ひとりぼっちで、狂気の渦中に放り出された少女。
言い得て妙だが確かにアリスだ。私は――アリス…………?
「ぁぁあああぁああもうやだああああああたべたいたべたいたべたいたべたいたべたいありすのおまんこたべたいいいいかじりたいいいいいいよおおぉおおおおっっっおっっおっっっぉおおお!!!!!!」
……膝をついて孤独に蝕まれる私のもとへ、また別の一匹が、わけのわからない慟哭とともに飛び掛かり
「がぺ」
首に牙が触れる寸前。薙ぎ払った右の拳が兎の頭を砕き、殴り飛ばされた兎はそのまま壁に激突した。
「あ」 「殺された」 「やられてんじゃん」 「は?」
五本の指を開いて、閉じて。右手に残る感触を確かめながら、思う。
うん。これなら、出来る。最初から致命傷を狙いに来るのなら、反撃の機会なんていくらでもある。
これは……いつも、やっていた。これなら……出来そうだ。
――狂気に戻れよ、グリム姫。
正気に飲まれてどうするっていうんだ。
続けざまに襲い来る兎たちを、一匹一匹丁寧に処理していく。首を狙いに来る奴には拳を叩き付け、足を狙いに来る奴は蹴撃を叩き込んで、ぴょんぴょんと跳ねまわる兎達の中心で私が踊る。一匹の首を掴み、口は開けさせたまま私の胸元へ飛び込もうとした一匹の眼球にその牙を突き立てる。地面に転がり落ちた二匹はその内共食いを始めたので、気色が悪くなって踏みつぶした。
左腕の傷は塞がったが失った血液は戻らず、びりびりと痺れて使い物にならない。最後の一匹の頭を握り潰し、漸く静かに――扉は未だに上機嫌だが――なったウサギ穴の廊下で、何か使えるものは無いかと頭を動かした。
墜落部屋で鍵を発見したときと同じように、連中の食べかけである肉塊に目をやってみる。それらの傍らにはいくつかの物品が転がっていて、折角なので拝借していくことにした。
使えそうな形を保っていたのは……折れた剣と、謎の薬品が詰まった注射器くらいのものか。
薬品は、見た限りでは血液のようにも見える。とするとこれは輸血薬だろうか?或いは毒か、麻薬か。いずれにしろ使えばわかる、その気持ちで左腕にその注射器を突き刺し、中の薬品を空の血管に流し込んだ。
……血が巡っていくのが判る。左の指先に熱が灯る。うん……確かに、これは輸血薬らしい。この先、どれほど血を失うことになるのか想像もつかない。転がり落ちている輸血薬を片っ端からかき集め、ようやく私は自分の足を進ませることが叶った。
廊下を歩いていると、一瞬視界が霧に包まれる。
思い出しきれないが霧には嫌な思い出があるようで、私は反射的に顔をしかめた。霧が晴れて、私は私を見下ろす猫のような女性と目を合わせた。
「…………」
紫色のもこもこした髪が特徴的な女性だった。首には「DIE」の文字が書かれた首輪をつけている。
紫猫女は私を見下ろしながら、ぱちくりと目を見開いて
「アリス?」
と呟いた。
またそれか、と私は怪訝そうな顔を続けたまま、それは違うと自分の名を名乗った。
「……グリム」
そう。それが私の名前。……たぶん。
「いや、失礼。さっきのは蟻の巣って言ったんだにゃ。ただちょっと噛んだだけにゃ。……聞かなかったことにしてくれりゃー、贈り物のひとつでもくれてやろうか?」
チェシャ猫は何故か妙に偉ぶった態度で鼻を鳴らすと、ひとつだけ欲しがれ、と言っていくつかの物品をぱらぱらと落してきた。
……指輪、鍵、骨粉……これは何だ?……胡椒の入った小瓶と……飴?
あの顔からして全て拾って持ち逃げることは難しそうだが、かと言ってこの中に私が求めているものはなく。
「決まったかにゃ」
直接、交渉を試みてみる。
「武器」
「は」
「武器を寄越せ」
「…………………………」
消えた。
……床に落ちた道具諸共。
あの猫野郎。
仕様が無いので、先に進むことにした。赤い扉には鍵がかかっていたので後回しにして、その先の曲がり角の向こうへ。
道の先には首の無い死体が椅子にだらりと腰かけていて、すこし嫌な予感がした私は、遠方から様子を窺うことにする。
「血気盛んなティーンエイジャーのアリスもどきへの贈り物は、アタシからよか他の連中から貰った方が得だろうにゃ。特にウサギ穴の出口の方にゃ、お前さんに物を押し付けたい連中がごろごろ転がってるから、体をまさぐってやりゃあ喜ぶと思うにゃ」
不意にチェシャ猫の声だけが聞こえた。
見回してみるが人影は無かった。霧のように現れては散って消える、つかみどころのない猫だと思ったが……チェシャ猫というのだから当然なのだろう。彼女の言葉がどれほど本当なのかはわからないが、とりあえずは覚えておくこととする。……転がっているということは、他の探索者が装備もそのままに斃れた死体のことを言っているんだろう。
いくら眺めても首無し死体は矢っ張り動かなかった。近づくとこれまた矢っ張り動き出したので、蹴り飛ばして倒れ伏させてから脛骨を片足一本ずつ丁寧にへし折っておいた。這うかと思ったが、そのまま動かなくなった。壁に沿って並んだ戸棚を物色して、輸血薬を確保してから次の部屋へ。
血溜まりと死体にあふれた本棚が並ぶ部屋を、徘徊している懐かしい顔と鉢合わせぬように進む。小脇に小道もあったが、塞ぐように首の無い騎士が行ったり来たりを繰り返していたので、さすがにあれは素手で対処しきれないと置いておく。戻って来る機会があれば、先の赤い扉も含めてもう少し探索してみたいものだ。
言われた通りに死体を探り、輸血薬のほかに火炎壺を取得した。投げつけて割れば発火し、たちまち敵を焼き殺してくれるこれにはよく世話になった……気がする。飛んでくる頭を回避して、投げつけた彼女がおろおろと頭を探しているうちにそそくさとその場を後にした。壺の中から、もうひとつ火炎壺を拾った。
――――森が恋しい。
扉をくぐりながら、自分でも何を言っているんだと思うような気持ちが脳裏に浮かんだ。
霧の中、木々を潜り抜けて妖精たちを屠り進んだ、あの森が恋しい。少なくとも、ここよりはいくらか常識的な場所だった。遺棄されたもの、廃棄されたもので埋め尽くされた森は酷い悪臭で満ちていたが、ここの臭いを経験すると幾分かマシに思える。その森の名前も、その森で何をして誰と出会ったかも思い出せないまま、あの森を恋しく思った。
「おや、アリスじゃないか」
扉を潜り終えた先で、一匹の兎に会った。酷い――なんて言葉ですら言い表せないほど、鉄と腐臭に満ちた部屋。死臭のもとはこの部屋か?
端に座る兎に近寄り、見下ろす。襲っては来ないらしい。
アリスとは誰だ、と問いかける。
「君に決まっているだろう、アリス。今目の前にいる君は紛れもなくアリスだ、なんたってパズルが出来上がっている。浮いた溝はこの際無視するとして、ところでアリス、どこへ行くかは決まったかい?」
私はアリスじゃない。だがこいつは延々と私のことをそう呼ぶ。
どこへ行くつもりもないが、アリスと呼ばれ続けるのは実に癪だ。
「行きたい場所があるなら迷わず進みなさいな。あの御方は君の匂いをオードブルに主食を待ちわびているからねげぶえ」
無駄に饒舌な兎の頭を踏み潰し、前を見る。道の先は霧が満ちていた。
霧……霧。濃霧の先は、いつだって何かが待っていた。
頼れる仲間は居ない。この手に握る武器も無い。進めばきっと殺される。だがそれは終わりじゃない。
そんなこと、今まで幾度となく繰り返してきたじゃないか。
ろくな装備も揃えぬまま、私は前に踏み出した。待ち構える敵が何なのか、死ぬまでに知っておこうと思った。
それが不死人の戦いだ。濃霧を潜り抜け、張りつめた空気の中で一息――深呼吸をした。
目の前には巨人の背中。辺りには首の無い死体の山。
転がる死体達は、成程……着の身着のままの探索者と騎士。血に錆びて使えそうにないものから、まだ新しい使用に耐えうる獲物もある――
――横目で窺う最中。突然、巨人の頭が消えた。
「ぐしゅあ」
肉を噛み潰すような音がして、巨人がぐらついて横に倒れる。足下には一匹の兎。
……。…………こいつが……喰った、のか?
様子を窺うだけで何もしようとしない兎に、拾い上げた長剣の先を向ける。動かない。
剣を振り上げる。動かない。剣を振りかざす。動かない。剣が、兎の小さな体に突き立てられる。動かな――
「……………………なっ」
長剣が兎の肉体を貫いた瞬間――兎の体が沸騰するように泡立って膨れ上がる。そのあまりのおぞましさに、思わず数歩後退した。兎は尚も膨張を続け、小動物らしい愛らしさなど消え失せた形相で私を見る。腕が生えて爪が伸びる、脚が生えて爪が伸びる、口を開いて牙を剥き、だらだらと涎を垂らしながら兎は
――――首狩りの獣は、呻くような声を震い響かせた。
わずかに動いた獣の腕を見た瞬間、反射的に体を縮める。その私の頭上を獣の爪がかすめた。一面に広がる血の海の上をばしゃばしゃと転がりながら、兎に角傷をつけねばと手に触れた武器を獣に振りかざした。
感触はあった。だが浅い。私の非力に加え、突き立てた刃が短刀では当然と言える。短刀の刃を突き立てた直後、お返しと言わんばかりに獣が私に牙を立てた。
「ぁッッ――ぐ……!!」
咄嗟に跳ねて回避しようとしたものの間に合わず、脇腹の肉を削がれる。襲い来る激痛に一瞬身悶えたが、一時たりとも獣から目を離すわけにはいかない――爪による追撃の前兆、その動作を見、真横に転がっていたハルバードの柄で振り下ろされる獣の前足を受け止めた。数秒、持ちこたえたものの――獣の剛力に耐え切れず、ハルバードが折れると同時に私の胸を獣のつま先が浅く切り裂く。痛みは走るがまだ小さく、脇腹の激痛に塗りつぶされて消えた。両脚を振り上げて体を持ち上げ後転、着地と同時によろめきながら立ち上がる。
「はっ――はっ……はっ……はぁっ……」
しゃり……しゃり…………しゃり……しゃり…………
――首狩りの獣が唸る。焦点の定まらぬ両目で私を見ながら、何かをしている……何を?
傷の治りが遅い。一本、何とか輸血薬を首から射し込むが、流し込まれる血液は体を巡る途中で脇腹から噴き出ていった。出血が止まらない。止血剤が……必要か。
しゃり……しゃり…………しゃり……しゃり…………
「はぁ……はぁ……はぁあ……はぁあぁっ……」
荒かった呼吸が、だんだんと深いものへ移っていく。……駄目だ。ぐらつく体を必死で抑えながら、辺りに転がる死体を見た。何か、何かないのか。使えるものは、何か――
しゃり
「――――ぁ」
刹那。首から炎が噴き出したような熱を感じた。
爪。爪の、軌跡が見えた。裂かれた二本の頸動脈から同時にごぼごぼと血が溢れ出た。
ああ
……爪を――――研いでいたのか。あの音は。
「ひゅ――――ひゅぅうぅううっ――ひゅっ――ごぶ」
たまらず両手で覆った、ぱっくりと空いた首から息が漏れた。呼吸すら満足に出来なくなっていた。血が溢れ出る。熱い、熱い、あづいぁづいぁづぃいだぃいだ、いだ、いゃだ、嫌だ
けものが近づく。獣が歩く。どしん、ずしん、と、ゆっくりと。涎を垂らして、ゆっくりと
しゃり……しゃり
ああ、まただ。またあのおとだ。さっきのは、刎ね損ねたんだと悟った。今度は、確実に、ころす、ため
「がばっ……ぁぶっ……ごぶ――っっか――――」
獣の、目が――その瞬間。私を、見て――――私と、獣の視線が、交錯した、瞬間――
――銃爪を
引いた。
「がッッ――――ぎぇぇええぁあぁがッッァアアアアアァアアッッ!!!!」
寸前、手に取ったのは転がっていた銀の短銃。奇跡的に、弾が残っていたらしい。
致死の瀬戸に立ちながら傷口に手を入れ、なんとか動脈が繋がったことを確かめる。引き抜き、自分の血で濡れたままの手で輸血薬をつかみ取り、何度も、何度も流し込む。あと少し。もうあとほんの少し、動けばいい。
眼球に弾丸を受け、転がり悶える獣に向かい、私は短銃の傍らに転がっていた鋸を手に飛び掛かる。ばたばたと暴れる獣の首へ、鋸の刃をあてがう。そのまま――強く押し込みながら、引く。
「がッッぶェアぁあぁごばッッごぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼッッッ」
まだ浅い。再び傷口へ向けて、削ぐ。とめどなく溢れる獣の血に構うことなく削ぐ。自分がどれだけ血に濡れようが、構わず、削ぐ。削ぐ、削ぐ……削ぎ、削ぎ、削ぎ――そして刻み込んだ深い切創へ火炎壺を押し込み、もう一つの火炎壺を、傷口に埋めたそれへ目掛け――叩き付けた。
ばりんッッ
破裂――発火。獣の肉体が体内から瞬く間に燃え盛っていく。脂に満ちた獣の血はよく燃えた。それに塗れた、私の体もろとも。
ずるり、と炎に悶え苦しむ獣の体から滑り落ち、地に足をつく。体中に炎を纏いながら、歩き出す。
首狩り獣の向こう側。ウサギ穴の出口へ、短銃と獣狩りの鋸を持って。
一歩、一歩――獣の絶命を示す悲鳴が消えると同時に、私は扉を開け放った。
……空気が吹き抜けるのを、わずかに感じて。
はためく翼の音と、笑い声が聞こえた。
私の意識は、そのあたりで霧散した。
『グリムちゃん』
肉体年齢は15歳。
素性はもこもこに近く、全体的にステータスが高いが所持品が皆無。
丸っこい輪郭と灰色の長髪、それと銀色の瞳が愛らしい少女。
眼はぱっちりと開けば年齢相応の少女らしく見えるのだが、
基本常になにもかもを睨み付けているので目付きは悪い。
不思議の国のアリスが着ていたソレによく似た
黒色のドレスを一張羅として着用している。
灰色の髪は死に続けるストレスで色を失った。