あたたかな陽差しと、心地いい森の香りがあった。
一歩外に出れば色のない霧と亡者が国中を包んでいるなど想像だにしないほど、美しい静謐につつまれたその森の中で、私はかけがえのない仲間たちと共にいた。
グースと談笑をして、エルマが混じっては勉強がはじまって。
その流れをミランダにも伝えてみるが、それでも頭にはてなを浮かべる彼女に微笑んで。
今日は何を学んだとエリザベートに伝えれば、それは偉いと頭を撫でられ。
その様子を見ていたドロシーが、あまり甘やかしすぎるなとエリザベートに伝え。
けれども褒めることは何より大切だという彼女の言葉に、いつの間にやらジャンヌが賛同し。
心地いい気分のまま、紅ずきんに一言断りを入れ、ポロを連れて水辺に赴き。
先んじて水浴びをしていたカタリナと共に、時たま水をかけ合ったりしながら楽しんで。
体の汚れと疲れを流しきった頃に、ヴィクトリアが淹れてくれた紅茶を飲む。
それを眺める私は、ああ、これは夢なのだと気づいていたが。
その私の意思とは別に、夢の中のわたしは好き勝手に動いていて、二度と来ない時間をこの上なく謳歌していた。
うらやましいとは思わなかった。なつかしいとも思わなかった。
ただ、果てしない寂寞だけがそこにあった。
夢の中のわたしはお茶を飲みながら、どうしてかひどく泣きじゃくっていた。
彼女たちはさもそれが日常のひとつであるかのように変わりなくわたしと接していて。
わたしもまた、滝のような涙を流しながらも、それでも笑顔を作って紅茶を飲んでいた。
――そうだ。
夢とは、そんなものだ。
たとえそれが夢だと理解していても、自分の身ではどうすることもできない。
脳裏に流れる映像をただ見守る以外にできることはなく、思うまま歩くことすらままならない。
やがてわたしの意識は薄くなり、私の意識へと濃度が移り変わる。
ほんのわずかに暖かい、小さな想い出だけを残して。
私の意識は、夢の底から覚めていった。
*
扉を潜らない
扉を潜る
【扉を潜らない】
扉を潜る
*
地面に叩きつけられて肉塊となった私の体は、それから何者かによって回収されて、麻袋の中で川から海へと下っていったらしい。
上機嫌な鼻歌が聞こえる。ハイテンポかと思ったら途端に遅くなったりして、調子が整っていないからなんとも聞いていて気が抜ける鼻歌だ。ぼう、と灯った炎に暖められて、自身の形を取り戻した私は這い出るようにして麻袋の中から外へ出た。
ひやり、と床が冷たかった。のそりのそりと顔を出すと、一帯はとても冷え込んだ建物の中のようで――あたりに吊るされている肉や魚や野菜といったものを見るに、ここは食料を貯蔵しておく冷凍庫のようだ。
「……ふん、ふ、んふ……ふ――ふ? …………ん?」
鼻歌の主が私をちらと見る。
くすんでぼさぼさになった短い金髪。服を着ていてもわかるやせ細った縦に長い体。とろけた眼。
今まで出会った誰のものでもないその顔は、一瞬の硬直を経た後、みるみるうちに青ざめていった。
「…………ふっっびびびびゃああああぁああ!!? したっ、死体っ、やっ肉!! 肉がなんで!!? あれえ!!?!!? 誰え!!?!!?」
腰を抜かしてぷるぷる震えながら怯える彼女を見つつ、私は私の背後に篝火があることを確認した。
衝突の直前に頸動脈をかき切られ、死亡した私の体は地面に叩きつけられて四散し、その肉は私が図書室の夢にいる間に運ばれて……今、篝火の近くに来たことで蘇生したのだろう。
ここはどこだろうか? しつこいくらいの磯臭さとかすかな潮騒。海の近くなのはわかる。
私は変わらずぷるぷるしている少女に近づき、ここがどこなのかを尋ねてみた。
「はえ!?! へっ!? え、あ、ここはっ……ビリングズゲートの冷凍アパート……だけど?? なんで? なんで動いてんの?? あたしがかき集めたときは新鮮な生肉だったよね??」
食うつもりだったなら当てが外れたね。私は不死人だ。食ってたらその腹の中で人の形を取り戻していた。
「あ、あーー、え、まじ? じゃ加熱調理してもあたしのお腹ばーんなってあなたが飛び出す運命にあったんだ?? えっなにそれこわい、あたし死ぬとこだったんだ??」
食べてたらね。人肉の美味しさはわからないが、不思議の国ではメジャーな食品なのだろう。
思えば家畜らしい家畜もここにはいない。食べるとしたらそれになるか。
ビリングズゲートとは、不思議の国のどこに位置する? 私の知る場所だろうか?
「えーっと……えっと……ビリングズゲートは、魚市場だよ。だから海沿いにある……ちょっと行けば海があって……そう、あとレストランもあるし……えと、でもあんまりうろつくのは……最近、そう、そ、あの、魚人がさ、漁師たちみんな変なのになっちゃってる……からさ」
きょろきょろと視線をせわしなく動かしながら、しどろもどろになりつつ説明をする少女。
ここは海沿いの町で、近くにはレストランをはじめとする施設がある。しかしここの住人たちは曰く変なの……魚人といったか? それになっているから……危険、ということだろうか。
まあ、安全な場所などあるはずもない。私は一言お礼を言って、その場から立ち去ろうとした。
「あ、ま、待って……待って、不死人……ちゃん? ぁの、どこいく……の?」
……。
とりあえず、探索……かな。
少女は何やら手をすり合わせてもぞもぞやりながら、ちらちらと私を見る。
「い、行くあて、ないならさ、その……うち、来ない? 今ちょっと、人手が……たりてなくて。ほらっ、まともに話せる連中なんてえっらく貴重じゃない?? だからさ、その、ああっちゃんとお礼はするから、その」
まあ……話ができる相手は確かに貴重だけれど。
要するに手伝いが必要ということか。魚市場とあれば、仕入れや漁といった大掛かりな仕事が必然的に多くなる。競りは……しないだろうけど。
少女の格好も、よく見れば特徴的だ。記憶にあるものと照らし合わせるなら、それはセーラー服と呼ばれていた気がする。彼女の細い腕と大きな袖口との間に空間が空いている、ぶかぶかの作業服。
時計塔に居た頃、私には何かやらなければならないことがあった気がしていた。
それが図書室の夢を経てここに来た瞬間、まるで霧のようにその使命感は消えてしまっていて、あの悪夢との死闘も含めて真夜中の白昼夢であった気さえしてならない。
私は足を滑らせないよう慎重に歩きながら、ゆっくりと彼女に近づき、彼女の名前を聞いた。
「あっ……あ、うん。あたし、は……メル。ここで漁師をやってる。釣れるのは腹の膨れた魚ばっかだけど、ぇへ、さばくと意外とおいしいんだ……。まあ……あたし以外の人がそれ食べたら、みんな変なのになっちゃったけどさ……。だからそう、だから人手が足りなくて」
仕事の内容が何なのかはわからないが、断る理由もない。
私はア……………………。
「……? ぁの、えと……どうかしたの?」
…………。
(その名を口にしていいのか?)(以前、似たようなことがなかったか?)
(強制力により記憶ごと消された)(今も意識して口にできない名前がある)
(私は確かに私の名を覚えている)(だがそれはおいそれと口にしていいものか?)
(下手をすれば――ようやく得られたそれを、失うことになりかねない――……。)
数秒、思考して、私は自分の名を名乗った。
グリム。私の名前はグリムだよ。私のような華奢な女にできることなら、手伝おう。
「……ほんと!? わ、わ、たすかる……! ありがと、グリムちゃん……えへへっ」
メルは不健康そうな顔にめいっぱい笑顔を浮かべて、私に笑って見せた。
*
しんしんと雨が降り続く、満ちすぎた潮で足首まで海水に浸かり続けるような魚市場を歩く。
冷凍アパートを出る前にメルに「裸足になった方が楽だよ、ふへ……」と言われ、その通りにしてみたが……成程、靴を履きっぱなしだったらべちょべちょにふやけて気持ちが悪くなっていたところだ。いっそ裸足であれば、気を楽にして歩ける。
停泊している無数の船や、大きな家屋たちが並び立っている様相は、ラドウィッジのそれよりも幾分か常識的に思えた。潮の匂いも慣れればどうということはない。海が好きだと言えるなら、まあ、住むのも悪くない土地だろう。道を行き交ってはこちらに襲い掛かる、魚人やマーメイドの存在に目を瞑れば、だが。
投網を引き揚げると、大量の魚たちがそこに所せましと詰まっていた。
網にかかるということは、それまでせわしなく泳ぎ回っていたことの証明にもなるが……魚たちはみんな腹を膨らませて濁った瞳を見せている。明らかに死んでいる、それも死にたてではなく腹にガスまで生まれる程時間が経っている。
網を背負い、少し引きずるようにしながらメルを追い、その背中に向けて私はいつ網を仕掛けたのかを聞いてみた。
「ぇ……? ん、とね……今朝、だよ。あ、今朝っていっても、もうずっと雨だし夜か……。寝て起きた後だから、えっと……八時間くらいかなぁ……? それが、どうかしたの?」
この魚たち、明らかに死んでいるが。……漁としては、成功なのか?
「ぅん、今日も大漁だよねぇ……ぇへへ。み、みんな、屠殺場のお肉ばっか食べるからかな、お魚はたっぷり獲れるんだぁ……。そだ……うち、帰ったらさばいてあげるね。大丈夫、おいしいから……」
いや、どう見ても死んで……。
……やけに上機嫌な彼女の様子を見るに、魚の生死……というか、鮮度は問わないらしい。
私も不死人とはいえ、食べるものくらいは選ぶ。薬草は苦手だし、毒消し草はいつもてんぷらにして食べる。この魚、は……なんだか濁った瞳でこちらを見つめてくる気がしてならないし……正直言って食欲が湧くようなものではとてもないのだが……。
「あんまりたくさん獲れるもんだから、もしかしたら、海の底で誰かが放流してくれてるのかもなー、なんて思うことが、あったり、ぇへ、なかったり……。…………。ぁ、今のは、ジョークなんだけどさ……」
メルは顔を真っ赤にしながら、にへらと笑いつつそんなことを言っている。
人と話すのがよっぽど久しぶりなのだろうか、話したくて仕方ないけどうまく話せないといった様子である。
私は町並みを確認しつつ、それに対して無難な返事をする。案外適当な言葉を返しても、勝手に笑ってくれるから楽なものである。
そんな会話をしていたら、町の奥地らしき地点へと着いた。メルは腐りかけた木造の住宅に足を運び、私に向かって手招きをした。そこが彼女の住居らしい。
「ブーツ、ただいま……」
どしゃっ――と、メルが網を下ろすのとほぼ同時に私も下ろした。詰め込まれた魚の重みで浸食している海水が波立つ。
メルが挨拶をしたのは人間にではなく、壁にかけられた衣服に対してだった。メルのセーラー服よりもずっと頑丈そうなそれは……彼女のものとはまた別の、船員服? ……だろうか?
「ぁ、これね、前に住んでた人の形見なんだ……。形見って言っても、みつけたのはあたしだけどね……。ぁ、っとね、ブーツって言うんだけどね、ほんの数年前まではあたしと一緒に住んでたんだよ……。まあ……この間、気付いたら死んじゃってたけど……」
……気付いたら死ぬものなのか。いや、きっと病でも患っていて、それで天寿を迎えたのだろう。
こんな国だ、心体ともども病んではそうそう治せまい。何よりも死が軽い。それは変わらぬ調子の笑顔で話を続けるメルの姿を見ることでも再認識できる事実だった。
メルは何やら壁沿いに置かれた大きな木箱の蓋をがちゃつかせ、どこでもいいからと私に着席を促した。座れと言われても椅子もテーブルもない、あるのは海水の浸食を免れている足場だけだ。……とりあえず、そこにぺたりと座ることにした。
「や、ほんとに助かったよ、グリムちゃん。見かけによらずぱわふるだねえ……ふひゅひゅっ。あ……これ、お礼。どれでも好きなだけ持ってっていいよ?」
かたん、と木箱を開けてメルが見せたのは――
「……………………」
銀色に輝く、無数の強化石の数々だった。
貴重、かつ有用に過ぎる品の数々に思わず面食らってしまう。
「きれいでしょ……? ブーツが後生大事そうに抱えてたんだ。ブローカーの置き土産だ、って。……ブーツは居ないし、あたしも、使い道がないからさ……。……ぇ、あと、いらないなら……い、いらないでいいからねっ?」
とんでもない。全部欲しい。しかし全部は……使いきれそうもないな。
ちなみにだけど、この強化石以外だったら……報酬は何になる、かな。
「ぅんとね、お魚さんのお刺身盛り合わせ、十年分」
オーケー。強化石で大丈夫だよメル。ありがとう。
*
メルに断りを入れて一度図書室の夢へ戻った私は、そこでシロクマに頼んで獣狩りの鋸の強化と修理をしてもらった。
彼曰く、これ以上の強化にはよほどのことがなければ不可能だという。時計塔の道中で拾った強化石の原盤も強化に使ってもらったが、あまり変わり映えはしなかった。更なる強化、もとい変質にはそれだけ劇的な変化をもたらす戦いが必要だということだったが……死闘は当分勘弁願いたいものである。
「おかえり、グリムちゃん。食べる?」
メルの住居へ戻った私を待っていたのは、無数の魚料理だった。
磯臭さが生臭さに支配されている。思わず腹の底からなにかが逆流しそうになったが、捌いた魚の切り身を差し出すメルの満面の笑みを見てなんとか押しとどめることに成功した。
……。え、えと。いや、食べてきちゃったから大丈夫。メルが全部食べて。歪みそうになる口角を押しとどめて笑顔を作りつつ、彼女にそう返す。
「そっかぁ……頑張ったんだけどな……はむ。……でも、魚料理が口に合わない人って結構多いし、仕方ないのかな」
人。……人、か。
それは、この国に住まう正気のないあの連中とは違う、自我を保った上で暮らしている住民のことだろうか。私はメルに、それとなく彼女自身の交友関係について問いかけてみた。
ここにはずっと一人? 誰かに会ったこともある? そんなような語調で。
「ん……んぇへへ、話しづらいこと聞くね。ひとり、だよ……ブーツが死んでからはずっと。友達、って言えるような相手も……いない、かな。時々、ラドウィッジから遊びに来てくれる子もいるにはいたけど、最近はめっきり会ってないし」
ラドウィッジからここへ? ……どう足を運ぶのかは不明だが、来れる者がいたのか。
「うん。この服はクライスって人に仕立ててもらったし、この家はガストって人に紹介してもらったんだ。シェア……? してもかまわないって人が住んでる、住居として申し分ない物件だって。住んでからは、その人の妹さん……コインちゃんって言ったっけ……その子も前まではちょくちょく遊びに来てくれてさ。楽しかったな……まあ……コインちゃんにお魚食べさせたら……ガストさんにどちゃくそ怒られて……しょげて……以来、あたしの方からあんまり遊ぼうとはしなくなっちゃったけど……」
……そっかぁ。
というかやっぱり体に悪いんじゃないのか、このお魚。メルはどうして食べて平気なのだろう。
「さぁ……? あんまり、気にしたことなかったな……。でも、人によって好き嫌いってあるからさ、ふふっ、考慮すべきだったな……コインちゃん、泣きながら『あじがきえないぃいなまぐしゃいいいぃ』ってしきりに悶えてて……悪いことしたなあって……グリムちゃんも……だめなかんじ?」
生魚は……うん……ちょっと。ええと、その……できれば、遠慮したい。
この魚、捌かれてピンクと灰色が入り混じった内側を晒していながらもまだ私を見てる気がする。
いったい何なんだろう……。
「そっか……はむ。……んぐ、むぐ。こくん……ぁ、でも、この先にあるレストランのスープは、絶品だよ……。お詫びにガストさんとコインちゃんをそこに連れて行ったら、大喜びだったもの。グリムちゃんも行ってみる? 名前は、ウミガメレストラン――って、言うんだけど」
メルはぱくりと魚の身を一切れ口にして、小さなビスケットでも食べるようにもぐもぐと何度か咀嚼してこくりと飲み込んだ。目の前でやられると、食べれなくもなさげな風に見えてしまうが……臭いと経験が危険信号を発している。食べたらダメだと。ニッコリ笑って手招きしている死神の姿が微かに見える。近寄って話しかければいつぞやのように黒いソウルを売ってくれそうなあいつの姿が。
しかし、ウミガメレストランと言ったか。そこの料理がコインやその姉も気に入るほどおいしいというなら気にはなる。この国に来て、まともに口にしたのはノーデの紅茶とクライスのスープくらいのものだ。空腹は感じないし食事も必要ないとはいえ、娯楽としての意味合いで欲しくなる。
ウミガメレストランというからには、ウミガメのスープが料理として出されるのか? それともウミガメがレストランを経営しているのか? 少しずつ広げていく想像の中に、不意に鷲獅子の姿が現れた。
――そういえば。
『じゃあ私は、これからウミちゃんのレストランへ行くからっ!旅路に余裕があったら是非来てくれたまえよっ!グリムのことは私から紹介しておくからねーっ!!』
以前、グリフィがそんなようなことを言っていた。
もし仮に、その「ウミちゃんのレストラン」が「ウミガメレストラン」だとするなら……行ってみたい興味と行く理由が同時にできることになる。
「お、行ってみる? 場所はね、そんなに遠くないよ……ここを出てすぐにある、おっきな船が停泊してる空き地を過ぎたとこ。その先に海岸があるから、海岸を歩いていけばすぐに着くよ……。案内とかは……だいじょうぶ?」
大丈夫。それさえわかればすぐに行けそうだ。
そうと決まれば長居は無用だろう。私は強化石のことと、話に付き合ってくれたことのお礼を彼女に告げた。
「いいよいぃよ、そんなの……あたしも、久々に誰かと話せて、たのしかったし。ふひゅっ……気を付けてね、グリムちゃん。……っ、そだ、あと、あとね、グリムちゃん」
家の外へ出ようとしていた私を呼び留め、メルはひとりの人間の名前を言った。
「冷凍アパートの方へ向かうときは……『チャーチ』に気を付けて。あそこからつながる、屠殺場に住んでる子だけど――新鮮な人間を見たら……すぐに殺そうとするから。いい……チャーチに……気をつけてね」
覚えておくよ。
私は再びお礼を言うと、強化したばかりの鋸を持って魚市場へと戻った。
*
からんからん――――からん、からん。
町を歩いていると、しきりに鐘の音が聞こえてくる。いったいどこから鳴り響いているのだろう。
ここが魚市場であることに基づけば、この鐘は停泊している船のいずれかに載せられているものだということは想像に難くない。鐘はもともと布教の意味合いを持つ宗教のシンボルであったが、それが後々時間の流れを示すためのものへと変移していった。そのうちに鐘と船は切っても切れない深い繋がりを持つようになり、その名を刻んだ船鐘はあらゆる船舶のシンボルとなった。
だからこの鐘も、魚市場に停泊しているどこかの船のシンボルなのだ。潮水と魚人に支配されたこの町で、尚も自分は生きていると主張している声のような気さえしてきて、私はなんだかやるせなくなった。
この国でまともに生きている者など居なく、生きている時点でまともではない。
鐘の音もいつか鳴り止むときが来るのだろう。それまでせいぜい、届かぬ声を叫ぶといい。
からんからんと響き続けるその声に人知れずそう祈り、魚人を狩りながら私は魚市場を歩く。
市場の名の通り、この町には無数の屋台が並んでいた。瓦礫の山と言うほうが正しいのだろうが、少なくとも私には活気の跡を残す店たちに見えた。
潮水に満ちた道の上で横たわる人の死体。魚人と魚だらけのここでは随分珍しく思える死体だ。私が使ってやれるものはあるだろうかと思い、その死体を探ると、水に浸かってふやけた魔道書が出てきた。
(…………読めない……)
わかっていたことだが、開いてみてもあらゆる文字がふやけて歪んでいて使えたものではない。
読める部分とそこから読み取れる文脈を見るに、対象の強化状態を解除する……というような魔法らしい。魔法によってかけられた強化は無論、狂気等による一時的な肉体の増強もこれで解除が可能なようだ。習得と使用が叶えば、随分と役立ったろうが……。
「もしもし、おねえさん?」
……?
潮水でどろどろの魔導書とにらめっこをしていた私に、誰かが声をかけた。
人の声とは珍しい。メルかと思ったが、彼女よりずっと落ち着いた声をしている。
「ああ、よかった。ちゃんと生きてる、それにお魚さんに堕ちてもいないみたい」
深い深い紅色をした髪の、にっこりと微笑んだ女性が立っていた。
頭のてっぺんにぴょこんと一本、跳ねた髪の毛がある。首から上は美麗な女性だ。その下には……素肌の上から重ねるように、血に汚れたぶかぶかのオーバーオールがあった。
胸の膨らみが一切無いのが余計に危ない。横から覗けばすぐに見えてしまう。そんな出で立ちに数秒硬直してから、ようやく私は声を出せた。
「……あの……私に、何か?」
そう私が訪ねると、彼女はぱあああっと口と目を開ける。
「…………――――! しゃべれるのね……ちゃあんとしゃべれるの! へぇえっ、へぇええぇえっ!! あの錨女以外にも、ちゃんと言葉をしゃべれる子が居てくれたんですね!!!」
「え……? ぇと、あ、あのっ……?」
「くすくすくすっ、ぅふふふふっ……匂いをたどってきてよかった……そうよね、まだ居るはずだもの……! ありがとう、お嬢さん!! 僕、今、とぉっても嬉しいっ!! また、また、また」
「――…………っ!!?」
両の眼を見開き、横に大きく口を開け。
紅髪の彼女は、私を見ながらつんざくような笑い声をあげた。
「――また、心置きなくばらッッッばらに出来る女の子に会えたわっっ!!!」
脳で考えるよりも早く、脊髄が命令を下す。――屈め、と。
頭上を巨大ななにかが横一閃に過ぎ去った。見上げた先にあったのは、その女性の身の丈よりも巨大な肉断ち大斧――いや、それすら凌駕した『なにか』。
殺気も殺意も感じなかった。ただ直感した身の危険ひとつでそれを躱せた。その幸運に感謝する間もなく、左手に取った短銃で彼女の足を撃ち貫く。
「ぁはっ!! ははははははははっっ、痛ぁあいっ!!! 活きがいいのね、とっても……!!」
体勢を崩したそれの脇を走り抜け、潮水に足を取られて転ばないよう慎重に足を運ぶ。
何だ、誰だ、あれは!!? 殺す気なんて欠片ほどもないままに私を殺そうとして来た、あまりにも得体が知れなさ過ぎる女――!!
走りながら背後に目をやる。大斧の彼奴は足を撃たれておきながら、痛覚が存在しないとでも言わんばかりに私を追ってきている。片手には巨大な斧を持ったまま、まっすぐに私を捉えて。
「そうっ、そうそうちゃあんと逃げるの、そうしたら体があったまって血流もいっぱい激しくなって、血がどばぁああっって出せるようになるから!!! すぐに失血できないと痛くて痛くて辛いもの、いっぱい血を出す準備をしてね!!!」
やけに饒舌に叫び散らす様はまさしく不思議の国の住人だ。私が躱した魚人の体は、そのまま背後の彼女の斧にぐしゃりと潰される。素早く泳ぎ回るマーメイドですら的確に捉え、満足に振れないはずの大きさの斧で叩き潰している。
拙い、拙い拙い拙いっっ!! 頼むから死んでくれ、そう願って走りながら脇腹の横から銃弾を放――っ
――ぱんっっ!!!
はっっ!!!?
素手で、弾いっ――!!?
「くすくすくすっっ、魔獣狩りの弾丸が人間に通用するわけないじゃないっ!! はあ、ほんっとうに可愛いっ――潰したい千切りたいもぎたい食べたい……!! ふふっ、ふふふふふっ……!!」
いや、いやいやその理屈は明らかにおかしい!! 何なんだこの女性は!!?
メルの住居の前を走り抜けた瞬間、脳裏にメルの言葉が思い起こされた。
――『チャーチ』に気を付けて。新鮮な人間を見たらすぐ殺そうとするから。
「ふふっ、ぅふふっ、どこから千切ろっかな……あのもちもちした足? それとも、細い腕? 首は最後にしておかなきゃ……僕が一番大好きなかわいい顔が見れないもの……!!」
あれが――その、『チャーチ』!? 冷凍アパートの方面へ、見落としがないかなあなんて思って引き返した自身を呪うっ……!! さっき彼女は匂いだとか口にしていた、市街の紳士と同様の嗅覚でも以て私を追ってきたのか!?
迫る壁を見て左に曲がり、その先に満ちている白い霧などお構いなしに私は身を飛び込ませる。
瞬間、足がもつれて潮水の上へ全身が転がった。ばしゃりと水が立ち、全身が潮水でぐしょぐしょに濡れる。
「はっ、はっ、はっ――」
夢中で水を掻き分けて進んだせいか、足が重く動かない。当然だ、地上を走るよりずっと消耗する筈なのだから。
転がった体勢のまま、背後に振り返る。――呼吸をしているかすら定かでないチャーチが、ゆっくりと私に向かって一歩ずつ近づいてきていた。
「おつかれ、さま……♪ ……うん、クライスの服がとってもよく似合ってる……忌々しいわ……とっても。はやく、寿命を迎えて、死んでくれればいいのに……」
ざぶ、ざぶ、ざぶ、ざぶ――。
抱きしめるように大斧を構え、ぶつぶつとなにかを呟きながらチャーチが迫る。
死ぬのは、死ぬのは構わない。けど、違う。私が感じている恐怖はそれじゃない。
あの目は誰かを殺そうとしている目じゃない。甚振り、愉しみ、苦しむ様をより長く長く見ていたいと思っている者のそれだ。
あの女王のものだ。あの妖精のものだ。あの魔姫のものだ。見たことがある、確実に。
それによってもたらされる辛苦がどれほどのものかを、私はよく知っている。
――からんからん。からん、からん。
鐘が鳴っている。私の晩鐘だろうか。
船、船のものだ。チャーチがぴたりと足を止めた。
ふと、後ろを見る。無数の砲台を備えた、大きな船がそこにあった。
船は細い腕を船首から伸ばし、その手の先に鐘を持っていた。
鐘の音はそこから鳴っていた。
「…………さぃ…………さい、ぅ――さい」
ぶつ、ぶつ、ぶつ――と、チャーチの声が途端に静まる。
その目は既に私を見ておらず、私の頭上を見ていた。おそらくは、この船を。
「うるさい、うるさい――!! ああ、あああぁ、あぁああっ!!! 彼女が来たからって今更喋らないで、はしゃがないで!! 今から僕が殺すんだから、あなたは黙っていてよ!!!」
何……何を言っている?? 誰に向けて喋っている??
鐘の音に交じり、ぎぎ、ぎりっ――というような音がした。
船体に備えられた砲のひとつが、その口を下に向けた音だった。
「ねぇぇえぇっっ、わからないぃぃい……っ?? 邪魔なの、邪魔、邪魔ッ!! 何言ってるかぜんっっぜんこれっぽちもわからないし、そのわけわかんない言葉でだくだくだくだく話さないで!!? うざったいの、じれったいの、気持ち悪いの!! わかる!? ここはイギリスなんだからイギリス語で喋ってよぉぉおぉおおッッイギリス語でぇぇえええええッッ!!!!」
地団駄を踏み、船に向かって叫び散らすチャーチ。
がこん、がこんと何かが動く音。からん、からん、からん――以前として鳴る鐘の音。
船は、そのチャーチのまくし立てに応えるように。
「ああわかった、わかりましたッ!! あなたを解体すればいいのね!? 船体なんて解体するのは趣味じゃないけど!! いいですよやってあげますよ、その後で彼女を解体してアリスを減らッッ」
魚市場中の潮水が大きく波立つほどの爆音を轟かせ、チャーチに向けて大砲を放った。
「~~~~ッッ!!!!」
爆風の余波を受けぬよう、直前になんとか体勢を立て直したが、それでも私の体は木の葉のように吹き飛んだ。
ばしゃんッッ――と体が落下し、またごろごろと転がる。
ずきずきと痛む全身の節々に力を込め、立ち上がった私の真横を、ばらばらになった手や指がかすめて飛んで行った。
誰のものかは容易に理解した。
「おお少女よ(斧でなく鋸の少女のこと)、どうか聞いてほしい!(ローマ人や同胞は引用が好きだった)我々は二度三度(あるいはもっとたくさん)、スナーク狩りに向かおうとしたが失敗した!(スナークとはブージャムのこと)」
大砲の音に負けず劣らぬ大声に、私は船の甲板を見る。
巨大などくろを象った船首の先に、「それ」は浮いていた。
そして、その大声は彼の口から発せられているようだった。
「わが乗組員たちは集うことなく(頭文字がビーで始まる彼ら)、やって来るのは素性も知れぬわけのわからぬ女どもだ!(本当にどこの誰だか見当もつかない)だが、たった今その一人を殺したっ!(女の子は大砲で撃つと死ぬ)そして今、もう一人もこの手で殺す!(邪魔は困るからね)」
からん、からん、からん、からん。
ひっきりなしに響く鐘の音。つらつらと並べ立てられる亡霊の言葉。
「我々はスナーク狩りに向かう!(何度でも何度でも何度でも)もはや何度目かも数え忘れた航海だが、これは必ず成功させる!!(そしてそのために目の前のこの女を殺すのだっっ!!)」
船体に備え付けられた大砲のすべてが、一斉に私を見たとき。
(…………嘘……だぁ……っっ)
眼前の私の『敵』が、この巨大な船舶そのものであることを理解した。