嘆きの浜辺で口にしたスープの味は、クライスのそれとはまた別の暖かさがあった。
クライスのスープは家庭の味で、ウミガメモドキのスープはレストランの味……というのだろうか。前者はほっとするようなおいしさがあって、後者は、ああこれが欲しくてきたんだと思えるような味だ。ろくな材料も取れそうにないこの国で、よくこんなに質のいいスープが作れるなあと思う。
作り方や原料についても聞いてみたが、門外不出ということで唇に人差し指をあてられてしまった。であれば仕方ない、スープは今度クライスに聞こう。
他愛もオチもない雑談を三人で交わし、止まない雨音を聞き続けて、ふと思い至ったようにグリフィが立ち上がる。
「さてとっ、あまり道草を食んでいると、向こうの女王にしびれを切らされるかもしれないな」
「あ、もう行くの、グリちゃん……?」
「うんっ、これでも外交使者だからね。あの、外に出ることもかなわない愚鈍な陛下のためだ。気乗りはしないがやり遂げるさ」
いつになく真剣なまなざしと声色のグリフィに、何かあるのかと問いかけた。
「ああ、鏡の国へ向かうのさ。ここ不思議の国の隣国でね、王都が大きなテーマパークになっているのさ。行くついでに遊べるから、楽しくはあるんだが……向こうの女王もなかなか癖があってね。グリム君にもぜひ来てもらいたいところだが、グリム君は飛べないしなあ……かついでいくにも、私の筋力では海にぼちゃんがせいぜいだ」
ぼちゃんは困るな。……鏡の国、か。それにテーマパークときた。
およそこの陰鬱とした国には似つかわしくないものが揃っているようで、いたく興味がわいてきた。
どうにかして地上から向かうことは出来ないのだろうか?
「うーーん、周りが海に囲まれているからなあ……。あ、けど、ハノーヴァー駅から直通の電車が出ていたっけ……。お、……おお、おおっ! 思い出してきた、切符を持って駅に行けば着くはずだよっ!」
切符を持って、駅に。……なるほど。
なんというか、それはそうだろうと言いたくなるが、ことこの国においては異質なほど正常な流れである。切符もその駅で買えるのだろうか?
「わかんないっ! まあでも、確実に手に入れるなら公爵夫人の館に行くといいんじゃないかな? 切符好きで使いもせず溜め込んでるらしいから、クイーンランド行きの切符のひとつやほゃつ、気前よくくれると思うよっ!」
「……………………公爵夫人かあ……」
「あっ、ウミちゃんの前で出すべき名前じゃなかったかな!? ごめんよウミちゃんっ! 本人の前で本人の名前を言うのも失礼だったよね」
「ううん、大丈夫、気にしないでグリちゃ………………今なんて??」
頭の奥で巨大な頭のレーテ夫人が想起される。行くのはいいが、公爵夫人か……。私の知る童話の中のそれはたいそう気難しい女性だが、この不思議の国の夫人なら案外気前のいい女性かもしれない。そう信じよう。駄目だったら殺そう。
空になった皿をかちゃりと重ね、ウミガメモドキに差し出す。ごちそうさま、と一言そえて。
「お粗末様でした。……えと、グリムちゃんも行くの?」
行く宛てもないからね。テーマパークの方が楽しそうだもの。
多少着崩れたドレスを整え、鋸と短銃を取り出す。さて……公爵夫人の家はどこにあるやら。
「おっ、来てくれるかい、グリム君っ! 公爵夫人の館は空からも目立つからよくわかるよ、血の池を通って胞子の森を抜ければすぐさ!」
いつになく鳥頭が冴えているグリフィ。ちょっとだけあっけにとられつつ、ありがとうと返す。
しとしとと雨が降りしきる海岸へ出て、空を見上げた。激しくはないが、この延々と降り続く雨の中をグリフィは飛んでいくのだろうか? 心の内にふと浮かんだ心配を、ばさりと立ったグリフィの羽音が掻き消した。
「それじゃあお互い――ううん、きっと来てくれると信じているよ、グリム君っ! 空の上から、君の旅の無事を祈っているね!」
激しく、猛々しくもある羽ばたきだった。……ああ、これなら大丈夫だろう。確信じみた信頼が生まれて、こちらこそ、と手を振って祈りを交わす。
「ぁ、の……グリム、ちゃん」
レストランの入り口、扉の縁に手を添えながら、ウミガメモドキも私に手を振っていた。
さっきまではなかった小さな笑顔が、なんだかやけに可愛らしく思えた。
「また、来てね……。グリちゃんと一緒に……。……その、わたしも……無事を、祈ってるからね」
不思議の国の五つ星レストランだ、通わねばもったいない。
それに、店主の人柄もいいからね。
「また来るよ、ウミちゃん」
そう答え、私は海岸の篝火に身をやつし、血の池へと向かった。
*
リポン大聖堂前の墓地から先に進み、ドドの居る血の池を目指す。
コーカスレースが終わってずいぶんしょんぼりしていたが、はたして第二回は始まっているのかどうか。鉄の臭いが強まるにつれ、ばちゃばちゃとせわしなく水を掻き分ける音が聞こえて来た。
レース中だろうか? 見ると、一匹のもふもふした獣がすさまじい速度でドドの立つ小島の周りを旋回していた。
「すごいすごーいっ! はやいはやいっ! あれなら独り勝ちしちゃうなあっ! よぉし、私も負けてられな――――あっ」
私を見つけるや否や、ドドはささっと両の羽で無駄に大きな胸を覆い隠した。
「うぉっほん! わ、我が輩に何か用かなっ、グリム! モーリシャス島の木の実の食べ方でも……ひゃうんっ!!?」
人の顔を見て隠すこともないだろう、同じ女なんだし。
ざぶざぶと池を掻き分け歩き、咳ばらいをしてみせる彼女の乳をわし掴みにしてみる。手が埋まる。すごいなこの胸肉。
ともあれ変わりなく息災のようで何よりだ。聞きたいことがあるのだが、いいだろうか?
「え? 我が輩に聞きたいこと……? ふ、ふふーんっ! もちろんいいとも、何でも聞いてくれたまえっ! …………あの、出来れば手を胸から離してくれるとうれしいんだけど……??」
私とあなたの身長差じゃ乳をどけないとろくに話ができないんだ。もうちょっとしゃがんでほしい、そんな意思表示から揉んでいる。
とはいえ、疑問には答えてくれるそうなので、もっちもっちと揉みながら礼を言った。
……本題だが、公爵夫人の館へはどう行けばいいだろうか?
「んっ……ぁうっ……ちょっと、触り方がっ…………こ、公爵夫人の? もちろんいいともっ! えーっと…………えーっと……………………」
………………。
ねじった。
「あひいぃいぃいいいっ!!?♥♥ あっわかった、胞子の森っ!! 胞子の森へ行けばいいんだよっ、あ、案内するからおっぱいから手を放してってばあっ!!?♥」
……いい反応をするなぁ……。わかった、じゃあ案内をよろしく頼むと手を放す。
もうちょっと揉んでいたかった。
「はーっはーっ……べ、べつに言ってくれれば触るくらいは……それよりもうちょっと優しくだね……。うぉっほん、じゃあ行こっか? ほら、おぶってあげるから背中にどうぞっ!」
促され、その大きな背中に身体を預ける。
……大きいな。思えば、こうして誰かに抱き着くなんていつぶりだろうか。暖かな人肌の感触に心地よさを感じ――――
「さあ、めいっぱい急ごうじゃないかグリムっ! とくとご覧あれ、これがドードー走りだ~っ!!」
る間もなくすさまじい勢いで血の池の景色が流れれれれれれれれれ!!!!!?!!?
速い速い速い速い速いちょっ崖飛んっこわっこわい!!! ドドもうちょっと速度を落としいいいいひゃああああああああっっ!!!?!!?
――――――――。
*
巨大なキノコが群生する、キノコで出来た森の中。
あるいは、巨大と錯覚してしまうのは胞子が見せている幻覚故か。ともあれ何にせよ、その巨大なキノコたちにじろりじろりと見降ろされているような気分になりながら、ドドの背中にしがみついてやってきたはいい、が。
………………どこだ、ここ。
「シーシャさん、こんばんにちはっ! 今日は友達をつれてきたよ!」
見慣れない景色、居慣れない空間。無数の茸が取り囲む、開けた空間の中心。
そこに、巨大な茸と一体化した、蛹のような銀と緑をした女性の姿があった。
……いや、正しくない。女性の形をした、彫刻にも似た、塊だ。
あれは何なのかと問おうとする私をよそに、ドドはそれに近づいて羽をぱたぱたと動かす。
「えっとね、前に話したかな、クライスさんのところに一緒に行ったんだ! それから服を仕立ててもらって、だから我が輩の服と彼女の服はいっしょなんだよっ! それからそれから、ここに来るにも我が輩がおぶってあげてね……」
そして、語る。まるで目の前にその「シーシャ」が居ると言わんばかりに。
蛹は無論、語らない。目を閉じたその表情は、静かに眠っているようにすら見受けられた。
背後に伸びている無数の糸で支えられながら、ぴくりとも動かない。蛹ならば、中でどろどろに融けて新たな形へ成長している筈だが……。
はじめまして。そう挨拶をしながら、彼女に近づく。返事は無い、当たり前だ。
触れてみても、ただ硬く冷たかった。命の暖かみはない。
――生きていない。
「あれ、どうしたんだい、シーシャさん? なんだか今日はやけに嬉しそうじゃないか!」
……?
ドド……何を言っているの? 彼女を見ると、その目ははっきりとシーシャの目を見ていた。
どこか、空虚さすら感じる瞳だった。…………彼女は何を見ている? どこを、見ている?
目の前にあるのは確かに蛹だ。それももう、生きてはいない。
……その筈だ。筈……なのに。
彼女の、蛹の表情が、わずかに動いているような気がした。
……というか、ドド。どうして私をここに? ……私は、公爵夫人の館に行きたいと言ったはずだけれど。
「え? そうだっけ……? あ、あーっと、だとしたらごめんなさいっ! シーシャさんがグリム君に会いたがっていたから、足が勝手に向かってしまったみたいだ!」
会いたがっていた? ……呼んでいた……とでも、言うのか?
ドドと一緒に、胞子の森を駆けていた私を?
「うんっ、ほら、今だって嬉しそうな顔をしているだろう?」
ドドの眼差しは依然として
私は、どこか心の底にひやりとした感覚を覚え、蛹に触れた手に感覚を集中させる。
撫ぜる。触れる。冷たい。……脈? 蛹の奥に、ほのかに暖かみを覚える。
寒気を覚える暖かさ。脈が強まる。生きていなかったはずのそれになにかが宿る。
「――――……、――! …………、…………」
どくん、どくん、どくん、どぐん、どぐんっっっ
数歩、後ずさって、蛹の全貌を見る。
蠢いている。彫刻にも等しかったそれが、脈打ち、膨張を始めている。
……ドドは、依然として会話になっていない会話をしたままだ。しかし、これは。
何か――――拙い…………っ!!!
「ドドッ!! 離れ――」
「えっ」
刹那――視界のすべてが、眩い閃光に包まれる。何が起きたのか、チャーチからソウルを得た今ならば確かに視認できた。
爆ぜたのだ。蛹が、内側から何かに突き破られて。その瞬間に、蛹を中心とした全方向へソウルの太矢が撃ち放たれた。
鋸を振りかざしいくつかは弾き飛ばしたが、それでも幾本かは体をかすめて肉を削り取っていった。太矢の豪雨が止んだとき、ばさり、ばさりと『何か』の羽音が響いていた。
孵ったのだ。
『何か』が。たった今。
「…………ぁ……え………………」
つるりとした少女の肢体に、巨大な四枚の羽根が上段と下段で互い違いに羽搏いている。
……蝶、だ。とてつもなく、巨大な。強大な。
体中に風穴を空け、血反吐をこぼし続けるドドの嗚咽を聞きながら、私は空に座すそれを見上げる。
「じ……じゃ…………ざ………………なん……ぶぇッッッ」
どぢゃッ。……自らの血肉を抱き、ドドが倒れた。
蝶は羽搏きながら、左右で別の方向を向く瞳をぐるぐると動かす。絶えず涎を垂らす口で、ぶつぶつと何かを呟きながら。
……シーシャ……。なのか……? ドドは、確かに彼女をそう呼んでいた。あれが、それなのか?
狂い輝く蝶はぎょろりと私を見下ろすと、片腕を振りかざしてソウルの矢を撃ち放った。
銃弾よりも速く、正確に私の脚を狙ったそれを着弾の寸前で後方へ宙返って躱す。翻した瞬間に短銃を抜き、片羽めがけて銃弾を放ったが、傷跡すらつかなかった。
蝶は両手を広げ、光を溜め込み始める。蛹から放たれたそれと似た輝きだった。
妨害の為に斬り込もうにも、対象は空だ。ハンスの機関銃では遅く、ストームルーラーも消耗が激しい、いずれもあれの速さには適応できそうにない。駄目だ、手段が無い。魔術を使おうにも、放つための武器がない。ああ――くそ。何のために師からそれを学んだというんだ。
蝶が広げた両手が、その胸の前で重なろうとしている。光と熱の密度が増していく。背を向けて逃げ出す以外の手段が、今の私には許されていない。
ここまでか? 私は?
何も取れる手段がなく、ただ殺される?
……そんなにも私は、無力だったのか?
「――――不思議の国の連中にも」
「ハナから『SENSE』が足りてない、やつがいる」
いや。それは、違う。
一か八か、触媒となる杖を使用しない魔術の行使を試みようとした瞬間――
銃撃音が背後から響き、私の頭上を銃弾がかすめていった。
『――――――――ッッ!!!!』
銃弾は蝶の光球を撃ち貫き、溜め込まれた力の奔流が暴発し、蝶自身に降りかかった。
空中で体勢を崩した蝶に向かい、今度は茸の影から何かが飛び出す。
黒い影。しかし黒いだけでなく、頭は――
「――姫ぇぇえええええええええッッ!!!!!」
――かぼちゃ、だった。
「オー氏っ……!?」
オー氏の刃は蝶の胸元を貫き、姿勢の制御がかなわなくなったそれを地面へ叩き伏せた。
ざくざくと背後からする足音に振り向くと、ひとりの女性が連装銃を構えて立っていた。
銃撃は彼女が。そして生まれた隙に、オー氏が斬り込んだのか。……しかし、彼女は……誰だ?
毛先だけが鮮やかな紅に染まった、白いセミロングの髪の女性。その後頭部には、どこかで見たような大きな赤いリボンが結ばれている。
その赤い瞳が薄開かれて、私を見た。
連装銃を回転させながら腰元に納めると、女性はゆっくりと私に歩み寄る。
「……貴女……はっ…………?」
私の質問には答えることなく、女性は何かに関して語り続ける。
「生まれ直しはせど、時間だけは地続きだ。やり直されることがなくて、だから時々、『自分が過ごした時間を実感してしまう』ものが、現れる」
「…………っ??」
「彼女もそう。四百と二十と七の周回を認識してしまうから、だから、孵る。何もかもを理解してしまうから。水煙草が煙に巻いていてくれたものを、この惨状の元凶を、知ってしまう」
「……元凶……って……」
薄く開かれた瞼から、きょろりと赤い瞳が私に向けられる。
「彼が求める貴女を殺せば、彼はまた、自分に触れてくれるかもしれない。そう願い続けてる。――幼虫も成虫も飛び越えて、あんな蝶になってまで、あのひとは」
「ガスト殿ッ!! 追撃をォッ!!!」
オー氏は刃を引き抜くと、あがく蝶が放った光弾が直撃する寸前に身を翻す。
呼びかけを受けて女性が駆けた。姿勢を屈め、背中にさした剣を抜き放って。
……剣。あの剣は……。そうだ――あれは。
――赤リボンの女性、ガストは引き抜いた
剣であったはずのそれは、瞬く間に鎌に似た形状へと移り変わる。そして、形状を変えたその剣を振りかざし。
「――産まれた責任を取ってね。アシュリィ」
一閃。
……に、見えた剣閃が、みっつ。
究み、極められた三段の斬撃が、蝶の肉体を切り刻んだ。
「なんて説明も……数え飽きたけど」
血飛沫が吹き上がる瞬間、私の体も飛び出した。
蝶の息がまだ絶えていないことを察知したためだ。跳躍し、蝶の喉笛を掴み、逆手に持ち替えた獣狩りの鋸でそれを削いだ。
蝶は断末魔の代わりに血液を噴き上げると、体中を強張らせ、びくびくと悶えてから力尽きた。
「ふぅっ! これで終いだろうか……いやはや、見事な手腕であったぞ、お二方!」
するりと剣を鞘に納めながら、オー氏が笑う。
……私は、二人から利をかすめ取ったにすぎない。あのままではむざむざ殺されるばかりだったから。
「死んでもやり直すだけでしょう? どうせそうなら、手伝った方が手っ取り早い」
がきん、がちんっ、と金属音を鳴らし、変形していた勇剣がもとの形に戻される。
その佇まいと纏った気迫から、目の前の女性がどれだけ背伸びをしても届かないほど高みに居ることを知らしめられる。赤いリボンの女性……ガスト、と呼ばれていた。
その名には聞き覚えがある。私が彼女に質問をしようとすると、ガストはくるりと踵を返し、どこかへ歩いていく。
「……あ、あの? ガスト……さん? どこへ」
「ガストでいいよ。コインみたくお姉ちゃんとでも呼ぶ? 別にいいよ」
ぴたりと足を止めるガスト。その足元には、先ほど息絶えたばかりのドドの死体があった。
風穴まみれでぐちゃぐちゃの死体に向けて跪くと、ガストは――…………!?
「ちょっとっ、何をっ……!?」
「静かに、アシュリィ」
……ヴォーパルソードを振りかざし、その死体をばらばらに解体し始めた。
解体されたドドは手慣れた動作でどこかから取り出された麻袋に詰め込まれ、ひょいと持ち上げられる。
「……そ……れを…………どう」
狼狽える私の問いには、オー氏が答える。
「屠殺場か」
ガストはこくりと頷いた。
「あまり『本筋』と乖離しすぎると、グリムに気付かれる。奴の記憶をなぞっていかなきゃ、不思議の国すら崩れ去る。死んだドドはばらばらになって屠殺場。それがあいつの中での正しい在り方」
淡々と、簡潔な説明。その口調が彼女の生来のものなのか、あるいは繰り返し続けたが故にそうなったのかはわからなかった。
本筋? グリム? あいつ……とは、何だ?
その問いかけを私は今まで彼女に何度したのかはわからない。それでも問いかけずにはいられなかった。
「グリムはグリムだよ。この国を食ったの。それでもって、貴女を求め続けてる。……厳密にはそうじゃないか。まあいいや、とにかく……あいつの記憶の中にある『不思議の国』の形を、あんまり崩すわけにはいかないの。あれ、これは違うな、なんて思われた瞬間に、その周回は全部ぱあになる。今でもぼんやり見てるだろうし。だから、代わりをたてたりして正す必要がある」
…………。
グリム、とは……私のことじゃ、ないのか?
「
……嫌じゃ、ないけれど。
先ほどからおろおろと頭にはてなを浮かべているオー氏にはもう少し我慢してもらうとして、私はひとつ、聞きたくなったことを問いかけた。
代わりをたてる必要があると言った。その言葉に、コインの最後が重なった。
『たぶん、私は、そろそろ』――
――彼女は確かに、そう言っていた。
ガストは、静かに頷いて答える。
「殺される娼婦が必要だった。もとの形も流れも不明瞭なこの国で、それでも形をなぞって保つ必要があった。あいつに気づかれないために。創り直されないために。あの子自身も、わかってたことだから」
「――もう、何度も繰り返したことだから」
そう話すガストの目は、どこか遠くを見ていた。
先ほどまでのドドとは違う。確かに自らの意志で虚を見ていた。
まるで、その目の先にあるものこそが、唯一確かに存在するものだと言わんばかりに。
「……あー……すまない、お二方? もう、よいだろうか?」
ひょこっと視界にかぼちゃ頭が映り、そのぽっかり空いた目が私を見ていた。
ええと。まあ、その……聞きたいことは山ほどあれど、おおかた。だいじょうぶ、だと思う。
「ガスト殿も、人斬り潰しにとどまらず狂輝蝶の撃滅に助力いただき感謝する。しかし、まさか貴女の言った通り、姫までも襲われているとは思わなんだ」
怪我はないな、うむうむと唸りオー氏は私の体を見る。
……怪我はしたが、あれくらいなら自然治癒ですぐに塞がってしまう。しかしガスト、言った通りとは? 以前の周回でも、私はここへ来たのだろうか?
「きのこ取りに来たら、パンプキンがウィリアムと戦ってて、協力した。そしたらドドドドドドって足音がしたから、追いかけた。ドドが向かう先と、連れる人と言ったら決まってる」
……決まってる……のか。そっか。
「そもそも、パンプキンがひとりで戦ってるのがおかしい。本当は貴女が協力する筈なんだよ? 私が代わりにやったからいいけど」
何故か怒られてしまった。そう言われても。
ガスト……この人はどうにも、相手の理解を待たない女性らしい。煩わしいとすら思っているのだろうか。淡々とした喋り方とあの戦い方から、この女性の人となりがなんだか理解できた気がした。
それだけぶれてきてるのかなあ、と一人でぶつくさ呟き始めるガスト。
私は、公爵夫人の館の所在についてオー氏に尋ねることにした。
「なんと! そこな目的地は某と同じだ! 何せその館は某の拠点であるからしてなっ!」
「……じゃあ、手伝いのお礼ってことで。その子を案内してあげてもらっていい?」
「無論っ! ガスト殿、重ねて礼を言おう。貴女が居なければ、某はひとりで野垂れ死んでいた――」
ドドだったものを詰め込んだ麻袋を抱え、ガストは足早に蝶の居所から去ろうとする。
その背中へ、オー氏は叫んだ。
「――ガスト殿っ! また会おうぞ!」
ガストは少しだけ足を止め、片手を持ち上げ、手の甲を振って応えた。
*
役割――ガストはそう言った。
この世界は『グリム』に食われ、かつての在り方を失いながら、その「かつて」を模して動いていると。
そして、その役割は未だ生き残る各々に任せられ、私には、その『グリム』の役割がある。
『グリム』も同じく私のように旅をして、不思議の国を巡ったのだろうか。その果てに国を喰らい、自らのものとした――だとするなら私の目的は、その支配者と相成ってしまった『グリム』を殺すことなのか?
ノーデの言葉が思い出される。
『無数に分かたれ、確固たる『個』となった彼女たちを集わせ、『一』へと還った彼女をぶつける』
いったい、何にぶつけるのかと疑問に思った。
ガストの言葉を信じるならば――私は、『グリム』を殺す為に生まれて来た存在、なのか?
その私の最終目標は、不思議の国の支配者であるグリムを殺すこと。
その為にチャーチと同じように少女たちの白いソウルを喰らい、自らの力を昇華させ、支配者を殺せるまでに成長する必要がある。
……殺されるために育った少女たちは、何をしていた?
クライス。コイン。メル。チャーチ。ガスト。
四百と二十と六が生まれて、生き残った僅かな少女たち。
彼女たちは、皆――『停滞』を……望んでは、いなかったか?
『正しいことを成そうとするのなら、それも好いでしょう。ですが、間違ったことをしてはならない理由も、この国には存在しないのです』
…………ああ。
ああ、だから……ノーデは、そう言ったのか。
あの少女たちと同じように、停滞という選択肢を、私に示したのか。
『私には、もう』
…………唯
『貴女しか、いないのです』
私に、生きていて欲しいが、為に?
「随分と悩んでいる様子だな、姫よ」
並び歩きながら、じっと押し黙って案内を続けてくれたオー氏が、そこで口を開いた。
……悩んでいる。とても。
「……その」
「うむ?」
「聞いても、いいですか?」
「構わぬとも」
オー氏、あなたは……
「……足を進めることと、止めること。……あなたは、どちらを選びますか?」
……随分と……形を得ない質問になってしまった。
オー氏はそれでも聞き返すことはせず、ふむ、とだけ一言。そして、
「某はな、姫」
「妻が……幸せそうに食事をしている笑顔を見ゆるとき。この世の全てがちっぽけになるぐらい、彼女の胃袋がそうなるように、満たされるのだよ」
「…………」
「だから食材を運ぶのだ。珍味を求め、国中を駆けずり回る。すべてはレーテの笑顔を見ゆるため。あの笑顔の為ならば、命だろうと差し出そう。己が最後の珍味と言うなら、喜んで身を差し出そう。そこに彼女からの愛はないかもしれない。だが、それでよいのだ」
笑顔のためならば……他に理由はいらないと?
「左様。愛する妻がいて、彼女は食材を求めている。ならば――某が足を止める理由は、どこにもあるまい?」
カボチャの騎士は、誇らしげに、それでいてどこか照れくさそうに答えた。
「……そういうわけだ、姫よ! 足を運ばねば食材は探せぬだろう! 故にだ。某は止まることが出来ぬ! ……満足のいく、答えだっただろうか?」
…………。
「はい。とても」
「そうかっ! おお、そうこうしているうちに着いたぞ、姫よ!」
そう言ってオー氏が指をさした先には、確かに大きな館があった。
大きく、荘厳で、何物も寄せ付けぬような威圧を放つ館。……あれが。
「あれが、某の帰るところ。マルガレーテ・フォン・ティロルの館よ」
……足を止めない理由が、そこにあるのなら。
進むしかあるまいと、彼は答えてくれた。
私は、私がここに生まれた意味をまだ知らない。
ならばそれは、足を止めない理由となろう。
心の内にカボチャの騎士に礼を言い、私はひそかに決意した。
――アッシュ・リィンの旅を、はじめよう。
【狂輝蝶のソウル】
〇賢人は育たぬことを望んだ。積み重なった年月と啓蒙がそれを許さなかった