生まれ出づる姉妹たちが生涯を共にすることが出来たなら、どれほど幸せなのだろう?
複雑怪奇に絡み合う私達の狂乱。名状し難き支配者の物語。されど、終焉からは誰も逃れられない。
――血だまりと死骸の中で少女は目覚めた。
おびただしいまでの死の様相。それらを喰らう兎たち。
自分は恐ろしい悪夢の中に居るのだろうか。
こんなものが現実だと、到底認め受け入れることなど出来やしなかった。
けれど、少女には記憶がなかった。
たった今生れ落ち、零れ落ちたばかりの少女には、自分が誰で、何者であるのかさえ許されなかった。
自らも、それを取り巻く世界すらも定かでないままで、少女はただ歩く。
やがてたどり着く、血溜まりばかりの積み木の街で、少女はたくさんの少女に出会う。
家を紹介してくれる少女がいた。共に遊ぼうと手をひく少女がいた。
衣服を仕立ててくれる少女が居た。スープを振舞ってくれる少女が居た。
救いはあると説き続ける少女が居た。この手でお前を護ると宣した少女が居た。
それらのすべてが、強く強く生き抜いたがためにそこに居て。
名もなき少女には、それが赦されることはなかった。
高所から足を踏み外し。魔獣の爪に引き裂かれ。地を這う亡者に犯され。
貴婦人に脳を食われ。星の精霊に命を啜られ。月の魔物に叩き潰され。
当たり前のように存在する無数の死に、名もなき少女は抗うことができなかった。
いつからだろう。
国中にてんてんと撒かれて存在する『それら』が。
その、故も知らぬソウルたちが。
生まれながら、生きることを許されなかった
四百と二十七の内の、名もなき少女の成れの果てであると気づいていた。
*
「はむ」
「…………」
「んぐ、んぐ……ふむ」
公爵夫人の館の最奥、巨大な食堂の巨大なテーブルを囲み。
私は夫人――公爵夫人マルガレーテ・フォン・ティロルの対面に座していた。
「ありますわよ、ええ。確かに、ここに」
「…………!」
皿の上に乗せられた分厚い一枚肉をナイフで切り分け、フォークで口に運びながら、レーテ夫人は私の質問に答えた。
不躾ではあるが、この国ではなりふり構っていられない。癇癪でも起こされたら即座に殺害に走ろうと思っていたが、彼女が比較的穏やかな方で助かった。
レーテ夫人はナプキンで口の端を拭うと、私の顔をちらと横目で伺い見る。
「しかし――必要だからと言われて、であればと即座にぽんと渡すものでもありませんわ。これが誰も欲しがらない茸村への直通切符だったとしても、欲しがるものにとっては相応の価値がありますの。故に私は、このクイーンランド行きの切符に対し、あなたが持つ価値の程度を知らなくてはなりません――」
両手を組み、しんと背中を立てて、夫人は私を見つめた。
その佇まいに、思わずこちらの背も伸びる。ぎゅっと縮こまってしまう。
「その教訓は『タダより易い物は無し、唯より難い物も無し』。――さて、グリム嬢。あなたは私に、対価として何を捧げますの?」
対価――。そう、そうだ。それは考えるまでもなく当然のことだろう。しかし、この国で長く過ごしすぎた私にとっては、その言葉はあまりに常識的すぎて、肌にじわりと冷や汗を浮かべさせた。
私は、切符の所在だけを問いに来たつもりだった。あるか、ないのか、ただそれだけを。ないのならどうにかして海を渡る必要があるし、あるのならなんとしてでも手に入れるつもりでここに居た。その、なんとしてでもという手段の中に、対価を用いて交渉する、という選択肢を鑑みていなかった。
……時には、正気に毒されることも必要か。
私はレーテ夫人の目を見つめ返し、胸元に手を添えて、一言。
「対価は……――貴女が望むものを、なんなりと」
「…………」
夫人の眉がぴくりと動く。
「ふうん――? あなたは、私が欲するものを何であろうと持ち出せると?」
「はい」
夫人が最後の肉切れを口に運び、皿が空になったのを見て、私はこれを好機と判断した。
「――面白いことを言うのね、グリム嬢。であるのなら……いいでしょう。私……今とてもお腹が空いておりますの。この空腹という渇望を満たす、極上の肉を用意なさい。今ここで、この食卓に、貴女が並べるの。退席など許しませんわよ、グリム嬢?」
私がめぐらせた考えは概ね正しく、レーテ夫人は毅然とした態度で対価を求める。
空になった皿。広い食卓。目の前には夫人と、相対するは私がひとり。
……あとは、うん。覚悟を、決めるだけ。
私は……どうしてもぷるぷると震えてしまう手で、ゆっくりと、自らの衣をはだけさせていき。
「………………――」
困惑し、チェシャ猫そっくりの顔になるレーテ夫人の目の前で。
生まれたままの姿を晒して、食卓の上へ膝立ちになってよじ登る。
恥ずかしい。
いや。
予想以上に恥ずかしい。
顔から火が出そうになっているが、それはそれとして。
……見えざる胡椒を、自身の前に、こんと置き。
「不思議の、国に……ふたつと、ない……生娘の……肉、です」
「……ほぅ――――」
「ご賞味……くださっ、ぃ…………」
死ぬ。
いや、これから死ぬけど。
さんざ犯されて死んでおきながら何が生娘だと言いたくなるが、事実は事実だ。
極上の肉というなら、これをおいて他にあるまい。さあ食べろ。はやく食べろ。私が羞恥で舌を噛み切る前に。
……伏していた顔をそっと持ち上げると、夫人と目が合った。
「そう、そうね……これは、確かに……紛れもなく、極上ですわ……」
「…………!!!?!!?」
なぜか。
私と同じく素っ裸になっている夫人と。
「え、いや……ふ、夫人??」
「それを召し上がるのなら、その教訓は……こちらも脱がねば、無作法というもの――」
「えっ、えっ?? なに、なにを――!?」
「ご心配なく、グリム嬢――いいえ……グリム」
「――少女をいただく、作法は……心得て、おりますの……♥」
「…………――」
食われた。
*
改めて確認したが、うん、純潔かどうかという基準は行為の経験によるものが大きいらしく。
女性との交わりであっても、例外なく私は死んでいた。
食事……。うん、あれはきっと食事なのだろう。何せ食卓の上で行われたのだから。食べられた私はころりとこと切れて、夫人の食卓がある部屋よりも外れた小部屋の篝火で目を覚ました。
お腹の奥がじくじくと疼く。痛みがあるわけではない。ないが……膜を傷つけず、痛みも与えないまま、ああも乱れさせられるとは思わなかったというか、レーテ夫人のテクはいったいどこで身につけたのか、ぅぅ駄目だ感触を思い出そうとするとそれだけで達しそうになる。ふと上を見上げればチェシャ猫と顔があった。ニタニタ笑いというより困り顔に近かった。
「あー……っと……チェシャ猫がなんで狂ってるか? それはだにゃー……」
「ダイナ」
ぱきん。
と、何かの音がした。
壁、天井、床、空気、空間、あらゆるものが視線を伴って、私を見た気がした。
「……」
「貴女は、まだ私を導くの?」
視線は私から正気を拭い去る。
黒い狂気に満ちたこの世界で、白い正気こそが異物である。
故に私の存在は際立ち、少しずつ、少しずつ、脳髄の内側から狂気がにじみ出て、私を喰らおうと試みる。
ダイナは相も変らぬ困り顔で、何を口にすべきかといった様相だった。
うかつなことを口走れば消し去られることは明白だ。それは異物なのだから、世界を保つためには失わなくてはならない。そうして消えたものが、いったいいくつあっただろうか。
「意地悪なことを聞いてごめんね、ダイナ。けど、この通り」
こめかみに指をあてて、いつしか得た脳内の歯車を回す。
「私は――ここで終わらせるつもりなの。今、この周回で」
視線が消え失せ、白は黒に溶けていく。
際立っていた正気を狂気が塗りつぶし、その存在を曖昧にさせていく。
あれに見つかる前に、自ら狂気に落ちる。
そうすれば、多少の猶予はできるだろう。そう判断して出た賭けだが、無事に成功したらしい。
チェシャ猫はニタリと笑って、与えられていたらしい台詞の次を口にした。
「……故に、チェシャ猫は狂っているにゃ」
そう言い終えて、くるりと一回転。
たんと両足で着地して、チェシャ猫が私に駆け寄った。
「お前はアリスじゃない」
その顔に似つかわしくない、ふわりとした微笑みをたたえて。
「だけど、全盲白痴のあいつにとって、アリスから生まれたものはみんなアリスだ。お前から生まれたものも、お前を生んだものも、ぜんぶ、あいつにとっては等しくアリス。だからここにはアリスしかいない。ひとつのアリスが見つからない。全部がアリスでできてるから」
チェシャ猫はぽんぽんと私の頭を撫でると、けらけら笑って吐き捨てた。
「笑えるよね。あいつは、アリスの中でアリスを探してるんだ。探しては見つけて、見つけては犯して、犯しては見失って、また探して。本当に、笑えない」
やがて、力なく崩れ落ちて。
そのままぎゅっと、私の胸元に彼女は抱き着いた。
「――だからさぁ」
「もう全部、グチャグチャにしてくれにゃぁ。なあ、灰のお姫様」
そして、ふわりと霧になって消え失せる。
言われずとも。
「それが、アッシュ・リィンのお話だ」
*
食卓に戻るや否や半泣きになって何かの肉を食べているレーテ夫人の姿が目に入り、夫人は「生きてるゥ~~~~~!!!」と号泣しながら食卓を飛び越えて私に抱き着いた。うわあ抱き着かれてばかりだな私。なんの肉だったかは気にしないでおくとして。死んだ私の死体はきっちり残るってことはとりあえず忘れておくとして。
「うっうっうっ……も、もらうだけもらって対価を返せなかったらどうしようかと思っていたところですのよ!? 戻ってきてくれてよかったですわ……はいこれっ、グリム!」
「んぇ」
両頬をむにむにされながら胸元にすぽっと何かを入れられる。
取り出してみると、『ハノーヴァー駅→クイーン・ランド行き』と書かれた切符だった。
「約束の品ですわ。貴女は私が欲したものを用意してくれた。そしてあんなに素晴らしい経験までっっ……!! 切符一枚ではおつりが来てしまうくらいでしたけれど、それはこれからの良好な関係をもって返済していきたいと思いますわグリムっ!」
「あ、はい、ええと、その。こちらこそ、よろしくおねがいします……??」
ぎぅぅと巨大な胸を押し付けて私を抱きしめる夫人に、こくこくと頷き返す。
そろそろ離してほしいと彼女の背中をぽんぽんとタップすると、夫人はゆっくりと私を解放した。
「けれど……どうか、気を付けて。ハノーヴァー駅に向かうには、鏡の国へ行って名無しの森を抜ける必要がありますの。いえ、森自体はさほど危険ではないのですけれど……問題は、そこへ向かう鏡が置かれた池、ですわ」
「……池? それは、血涙の?」
ええ、と夫人は頷く。
「あそこには、もうずいぶんと前から狼が居座っていますの。巨大な紅い狼は、時折不思議の国を彷徨う以外はずうっとあそこに居座っていて……しきりに何かを守っている様子が見受けられますわ。だからグリム、そこを通るときはどうか気を付けて。胡椒を忘れずに振りまくんですのよ? その教訓は『この先、見えざる胡椒が有効だ』、ですわっ!」
なんとも具体的な教訓をありがとう、夫人。それだけ私の身を案じてくれている、ということなのだろうか?
それから私はわしゃわしゃと暫く夫人に頭と顔を撫でられつくし、おいおいと泣きながら手を振る彼女に手を振り返し、公爵夫人の館を後にした。
紅の狼。
彼女が口にしたその単語が、やけに頭にこびりついて離れないのを感じながら。
*
彼女との出会いは、ずいぶん昔に遡る。
ひとりきりだったわたしは仲間を求め、様々な場所を駆け巡った。
師を得て、従者を得て、友達を得て、戦友を得て、母親代わりの女性を得た。
そしてある時、小川の向こう側から小さな船がやって来た。
聞けば、もともと森にあった小船が流されて、自分の家の前までやってきたものだから、川の向こうには何があるのだろうかと、なんとなく足を運んできてみたらしい。
彼女は自分を「****」と名乗った。
わたしも、その時は「グリム」と名乗った。
わたしが何度世界をやり直そうと、どうしてか、彼女だけはそれを知覚していた。
正しく言えば、今のわたしが何度目かのわたしなのかを語るとき、彼女はすんなりとそれを理解するのだった。
わたしは――
幾度となく彼女を殺めて。
幾度となく彼女と共に戦って。
いつしか、肩を並べて戦える、かけがえのない対等な存在となっていた。
『わたしの名前はね』
『アシュリィ、って言うんだ』
最初にわたしが名乗ったのも、彼女だったと思う。
普段は仏頂面を極めている彼女だけれど、この時だけは小さく微笑んで。
『じゃあ、私のことも、***って呼んで』
わたしに対し、同じように本名を明かしてくれた。
何度、何度、何度繰り返そうと、彼女だけは――
互いに互いを高め合う、かけがえのない相棒であり続けてくれた。
*
血涙の池の水をざぶざぶとかき分けて進み、いつかのことを思い返す。
ああ、そうだったな、と。私の剣術は、この不思議の国に来てから磨かれたものもあるけれど、彼女と共に戦って学びあったことも多かったと、ようやく私は思い出す。
血涙の池の奥地には、さらに多くの血液と、無数の拷問器具の残骸が散らばっていた。
ざああと血液が流れる音が一帯を占めている。無音ばかりが聞こえるここにおいて、この喧騒は珍しかった。拷問器具の残骸が池を埋め尽くしているから、ビリングズゲートほど動きづらいということもなかった。
物言わぬ器具たちの上を歩いていると、やがて彼女は私の前に姿を現した。
朽ち果てた拷問具の女王が、そこにいて。
もう一切の生気も憎悪も失い、からっぽになっているのであろうそれに、身を寄せて体を伏せている一匹の巨大な狼がいた。
背中にまとった紅の外套。傍らに突き立てられた巨大な片刃の剣。そのすべてにないはずの見覚えがあって、私は、ぎゅっと唇を結ぶしかなかった。
来客に感づいた狼は、むくりと起き上がって、二本の後ろ足と一本しかない前足でよろりと歩き、私に顔を向ける。
幾たびかくんくんと匂いを嗅ぐと、ぴたりと静止して――そして。
「――――――――――――――」
高く、高く――遠吠えを、あげた。
スカートを翻し、舞い上がって姿を現すノコギリと短銃を両手に持つ。
それと同時に、狼は後方へ跳んで突き立てられていた剣を咥え抜く。
戦闘態勢に入ったのは殆ど同時。私たちの間を繋ぐのに、どんな言語も意味を成さない。
頭蓋のうちにある歯車を稼働させて、私は
何者にも邪魔をさせないために、狂気じみた正気で自らを包む。
ありったけのSENSEを消し去って、眼前に立つ紅の狼を睨み。
――私達は、互いに、互いの介錯を果たさんと駆け出した。
*
刃と刃がぶつかり合った瞬間、拷問器具の残骸で構成された地面が砕け、底に詰まった血液たちが円形に吹き上がる。
中心部分――私と彼女が立つ場所が最も深く陥没し、互いを弾き飛ばして距離を離せば、波打ってどぶんと中心部に残骸ごと血液が吹き上がる。
血液。そう、血液だ。強化石の原盤を用いて強化を果たしたノコギリを握っているとき、いつも私は自分の内側になにかを感じていた。正しくは、自分の内側を巡る、血液に。
紅の狼は上体を横に曲げ、口の奥から火炎を吹き出し、剣に炎を纏わせて私に振りかぶった。
刃が届くその刹那――私は地面にノコギリを突き立て、刃にたっぷりと血液を吸わせる。そして引き抜き、振りかぶって撒き散らされた血液は、それその物が強固な刃となって狼の剣と鍔ぜり合った。
一瞬だけ形作られた血液の刃。それは炎を纏った片刃に打ち砕かれて飛散したが、迎えていた刃が形を失うことで狼の力は行き場を失い、がくりと大勢を崩す。瞬間、私は彼女の懐へと飛び込み、その肉を大きく削いだ。
「――――――――ッッ!!!!」
肉を削がれ、狼が嗚咽を漏らす。
その隙を見逃さず、削がれた肉から噴き出した血液を、ノコギリを媒介して先ほどのように操作する。
血液は一瞬の凝固を得て、鋭い刃となって傷口を中心に狼の身体を切り裂いた。
「~~~~ッッ……!!」
同時に、このノコギリが持つ力の正体に確信を得る。
消耗は激しいため、そう何度も行使はできそうにないが……切り札たりえる強力な力であることは確かだ。おびただしい数の獣、魔獣を狩り続けたノコギリは、その血肉を啜り喰らい続け、纏った血液すら己の刃とすることを可能とした。切れ味など端から存在しないであろうこの刃で、それでも魔獣を狩り続けられたのは、このノコギリが持つ血液を刃とする力のためだろう。
ブラッドエッジ――安直だが、そう名付けようか。
しかし、同時に私は刃に触れさせない遠隔操作がひどく体力を消耗するため、実戦にはとても向かないことを知る。
ぼたぼたと出血しながら、狼は距離を取って私を睨む。再度駆け出し、刃を振りかぶるだろうかと――その私の予測を覆し、狼は炎ではなく氷結の魔弾を剣の先端から撃ち放ち、薙いだ。
何発かは短銃によって打ち砕いたが、私への直撃を免れた魔弾が足元に詰まった血液を凍てつかせた。
(これは――ッ)
……ブラッドエッジを、封じた?
魔獣と化し、幾星霜の時が過ぎて尚、彼女の狩人としての知能の高さは健在のようだ。――そう、そうだろうとも。
そうでなくては、貴女は貴女たりえない。肉を削いで作った傷跡はすでに出血が収まっており、毛皮の内にある肉が覗いたまま治癒が済んでいる。
炭松脂を刃に塗着し、短銃を撃って着火。氷結という手段を取るのなら、私はこう応えよう。再び放たれる無数の魔弾を、切り裂き撃ち落としながら私は突き進む。
狙うは、治癒したばかりの懐の傷跡。炎を纏った刃を突き立てようと潜り込む寸前、彼女が振りかぶった刃が私をかすめるが、寸でのところで跳躍して回避――――ッ!?
「ッ!!!」
「が……ぁッ――!!?」
――振るわれる刃を追う形で狼の隻腕が薙ぎ払われ、宙にあった私の体が容易く叩き落とされる。
拷問器具の地面を転がりながら衝撃を緩和し、飛び上がって体勢を立て直す。ノコギリを前方に、伸ばした右腕に短銃を握った左腕を乗せ、構える。生じた致命的な隙に、狼が放ったのは――咆哮……いや。
空気が変わる。
……成程。あれは――号令だ。
だが、臆してたまるか。地面を斬り上げて血液を撒き上げ、それらをノコギリに纏わせる。
王の号令。彼女が持つ最大級の強化魔術。桁違いの筋力と耐久力と速度に対抗するためには、己自身がそれについていく他にない。
狼の巨大な体と刃が迫る。見極めろ、アシュリィ。ここが、今際と瀬戸の際だ!!
振りかぶられる巨大な刃に向け、膨張させた血刃でもって迎え撃つ――狼の隻腕が強く踏み込んだ、刹那。
その腕に、腰元から短銃を撃ち放つ。意識外からの一撃に、狼の体勢は容易く崩れ落ちた。
獣には炎と銃弾。お前も、例外ではなさそうだな。
無防備になった懐にブラッドエッジを放ち、傷跡に再び深い切創を刻み込む。
そして今度はさらに深く潜り込み、肉薄する距離まで迫り――左腕を、その切創に突き入れた。
外傷は治る。だが――内臓はどうだ、紅ずきん。
内側にある熱い肉と臓腑の繊維を確かに握り、大きく上体を捻って引きずり出した。
「――――――――!!!!」
血反吐を吐き散らしながら叫び声をあげる狼。ああ、どうやらよく効いたらしい。
引きずり出したばかりの臓腑でノコギリを磨く。あと一撃、もう一撃――ブラッドエッジを放とうとした刹那。
伏せていたはずの狼の隻腕が突き出され、その爪が、私の腹部を貫いた。
「が……ぶぁ――――ッ!!」
受け身を取ることもままならず、投げ出された体はごろごろと器具たちの上を転がった。
ずん、ずんと響く足音で意識が戻り出す。私の真似事か、くそ。やるなあ、全く。
よろりと立ち上がって、ぼたぼたと臓腑をこぼしながら一歩ずつ歩み寄って来る狼を睨み、そして。
どうしてか、笑みがこぼれた。
「――ねえ……ッ、ごふっ…………レレケ」
「…………」
「こう、やって……本気で、殺し合うのは――はじめてだったり……しない……?」
「…………」
「わたし、さあ――」
腹部に開いた風穴は、そのままに。
右手に握ったノコギリを、逆手に握り変え。
「――楽しいんだ」
「誰かと、本気で、思いの、まま――戦う、ってのが……さあ……!!!」
その刃を。
自らに、突き立てた。
「――――~~~~ッ!!!!!!」
結び、きしむ歯の間から、血液が噴き出る。
狼は、私の意思に応えるように――口の端から火炎を噴き出し、剣に纏わせ。
それを空高く放ると、掲げた隻腕でつかみ取った。
続く一撃が何なのかは、考えるまでもなく解る。
だから私も、自らが放てる最大の一撃を用意する。
心臓の脈動が、ノコギリに伝わって。
刃は刀身へと相成って、脈動は刀身に吸い込まれていく。
己自身が心臓に、臓腑に成り替わるかのような、強い強い脈動を感じながら。
熱く脈打つその『剣』が、変質していくのを確信しながら。
振り下ろされる炎剣を。
己が腹部を鞘と見立てて、居合抜かれた
否――――弾き、返した。
「…………――」
決着は刹那、須臾を裂き。
斬り上げることで振り上げた大剣を掲げ、一歩、踏み出し。
自らの体重を乗せた一刀で、紅の狼を斬り伏せた。
*
呼吸は落ち着いていた。
ずしゃり、どちゃりと肉が崩れる音がして、視線を上げれば、まっぷたつに裂けた狼の姿があった。
短銃を懐に仕舞い、空けた左手に折れた剣を握る。
空けた風穴はそのままに、止血薬だけを打ち込んで。
私は、その時を待つ。
「殺す」
「――殺す、殺す、殺す、殺す、殺す」
裂けた狼の内側から、姿を現す彼女を見つめ。
喉まで登ってきていた血液を飲み下し、声を張った。
「もう終わらせよう。レレケ」
どす黒く赤い血に塗れた少女は、どこからかアンドールの魔剣を抜き放ち、私に向けて構えた。
「……ええ、終わらせるわ……アシュリィ。……アシュリィ、アシュリィ……灰の姫君、いばら姫、六人目の、魔姫」
「…………」
「貴女も……あいつも……全て――なにもかもなにもかもなにもかもッッ!!! ――私の手で葬ッてやるッッ!!!!」
ああ、そうだ。
いつかした約束を、今ここで果たそう。
私もお前もここに居る。随分と待たせてしまったけれど、ここに集っている。
私は。
わたしは、私は――先へ進むと、決めたから。
いつかのように、貴女を殺そう。
二度と繰り返すことのないよう。
この決着を、確かなものにするために。
私は――
「ハインツッッレレケぇぇぇえええええええええッッッ!!!!!!」
「ァァアアアアアッシュゥゥゥリィイイイイインッッッ!!!!!!」
夥しい数の魔獣の血肉を喰らわせた大剣を右手に。
振るわれる初撃を、ブラッドエッジではじき返し。
続けざまに襲い来る二撃を、折れた剣の刀身で受け流し。
生じる一瞬の隙に、折れた剣へありったけの祈りを込めた。
怨嗟ではない、この国の住人たちから受けた、無数の祈りを。
神ではなく誰かに捧げてくれた、その祈願を、形に変えて。
――友の胸元へと、突き立てた。
『魔神狩りのノコギリ大剣』
おびただしいほどの血肉を啜り続け、変質した大剣
殺害数を重ねるほど力を増す
獣も魔獣も喰らい尽くしたそれが狩るは、神の喉笛
内なる穢れを消し去るには、更なる穢れで汚す他ない
『祈願の聖剣』
少女に願うもの達の、数多の祈りが込められた聖剣
誓約数を重ねるほど力を増す
かの黒騎士は、神にではなく誰かに祈りを捧げた
やがて祈りは刃となり、折れた剣に月光をもたらした