学院を卒業して何年が経っただろう。
見知った友人たちは皆結婚し子供を授かり、ひとりひとりが己の生の主役となっていった。
同じ教卓を見つめ、同じ教室の中で同じ話題で盛り上がり、同じ問題に頭を悩ませた、
あの頃の彼らはもうどこにもいなかった。
ただ私だけが、あの頃過ごした教室に心を置き去りにしていた。
結婚も出来ぬまま、薄暗く狭い部屋の中でひとり、趣味の執筆に没頭する。
ひけらかせる知識など何一つ持たないまま、木で作られた殻の中に閉じこもる。
たったひとつ灯りをともせるとしたならば、それは頭の中、
いつだろうと思い描いた明日への夢。
殻を突き破り生まれ直すことが出来るなら、私はどんな存在になりたいだろうか?
数多、書き連ねた主人公たちは皆己の生を手に入れて、
その誰もが私から生まれ私でないものへと昇華した。
彼らが昇華するように、私が昇華するとすれば、どんな人間になるだろうか。
もう永くないことは悟っていた。
治療のための費用も手に入れられず、イカれた自律神経が頭を痛めて瞼に痒みを生み、
過敏になった歯は黒ずんでずきずきと痛み続ける。
針の塊が埋まった足もまともに動かない。動かせるのはただ、両の手と思考だけだ。
そのふたつがあるならば、私はなんだって生み出せる。
ただ、しかし、決定的なものが欠けていく。時間だ。
それが尽きるよりも早く、私はこれを完成させなくてはいけない。
誰も愛することが出来ず、誰に愛されることもなく、
ただひとりで没する私が最後に生み出すのは、たったひとりの少女。
彼女に私のすべてを委ねよう。羊皮紙の上、踊り狂うインクだけが、私が私であった軌跡を残す
『……………………何、これ?』
『ろくな人生を送ることも出来ずに、最後に残したのがこれ? ……くっだらない』
『……。ああ、そう……そういう話なんだ。……へえ。…………。…………………………』
『…………』
『続き……』
『……ないんだ』
『未完で投げ出したまま死ぬとか……作者の風上にも置けないね。責任を持って焼き捨てておくよっ、この駄作は! きひひっ』
*
『図書室の夢』という隔離された世界を持つ私と、逆算的に存在を証明できる彼女が、今生きている最後の神だった。
彼女がとった手段は本当に最後の手で、「あらゆる世界に存在している、だからワタシは今ここにいる」という元の定義を、「ここに今ワタシがいるのは、あらゆる世界に存在しているから」というものにひっくり返したがために存在の存続を許したのだと聞く。
自身の定義を自に定めるか、他に委ねるかの違いは大きく、支配者グリムの手から逃れるために彼女はみすぼらしいまでに格を落とした。
もっとも……今の私は、それを笑う気にはなれないが。
私が居て、彼女が居たが故に、この計画は遂行された。
――計画と呼ぶのもおこがましい。彼女の言葉を借りれば、そう……賭けでしかないが。
不思議の国に取り残された、ただ二人の神が見出した最後の手段。
それが今、終わろうとしている。
図書室の夢の地下深く。屋根裏とは真逆の方向へ伸びた階段を下った先。
彼女の周回を記録した、彼女の本で満たされた部屋。
少女たちの祭祀場。
五芒星を描く形で均等に並んだ五つの椅子に、ひとつの空席を残し、四人の少女が座していた。
「あ、あーっ! ノーデさん、久しぶりーっ! 初めて会ったけど!」
ぶんぶんと手を振る少女に、こくりと頭を下げて答える。
「ええ、初めまして。そしてお久しぶりです。――――コイン」
「ふふふ、いいねぇ、この雰囲気! どんよりしてんだかそうでないんだかわかんない感じっ!」
「同窓会だね、まるで。集まったところで何をするわけでもないんだけどさ――」
ぼそりと呟いたのは、編み棒を交差させてマフラーを編んでいる、コインの向かいに座る女性。
「……集うことなど、ありえないと思っていましたが。貴女も来たのですね、クライス」
「来ないわけにはいかないだろぅ。僕だってアリスの端くれだ――何より……」
「ゲルマの頼みなら、来ないわけにもいかない」
言葉を遮った上で繋げたのは、コインの横の席に座る女性。
「残る器はふたつにひとつ。最後の空席には、彼女か、ゲルマの剣が来る」
「貴女方を集わせたのは、彼女でしたか。遠路はるばる、ですね……ガスト」
「………………どっちが……来るのかな…………」
凪にぽつりと水滴が落ちるように、一言呟いたのはクライスの隣に座る少女。
「二人とも……生きてて……ほしい、ん、だけ、ど……さ……やっぱり……」
「……そうですね。……私も、それならどれ程いいかと……思います。……メル」
少女の器を完成させる最後の手段。
それは最後に生き残った数人のアリスを、器自らに殺させるか。
あるいは――アリスたちが自ら魂を捧げ、ここに足を運ぶか。
十中八九前者になると踏んでいたが、今ここにある景色はそうではなかった。
アリス達は自らここに魂を捧げ、そして、今ここに座している。
理由は皆一様に、『ゲルマに頼まれた』――からだと言う。
ゲルマが生き、アシュリィが死ねば、ゲルマはアシュリィと、ここに居るアリス達の魂を得て支配者グリムに戦いを挑むこととなり。アシュリィが生き、ゲルマが死ねば――その逆となる。
どちらが勝利したとしても、彼女たちに未来は無い。それは、確かだ。
それでも彼女たちはここに居る。ゲルマに賭けたもの、アシュリィを信じるもの、そのどちらも。
彼女たちの視線を受けながら、私は、最後の空席に手をかける。
「ノーデ、は…………どっちが、来ると……思う……?」
……。
この席に突き立てられるのは――アシュリィ様の剣か……ゲルマの剣か。
「私は…………」
*
「――ワタシは勿論アナタに賭けるわ、アシュリィ」
ぐびぐびと何の卵が入っているかも定かでないドリンクを飲みながら、メイベルは言う。
「だって、このワタシが手塩にかけて育てた愛娘なんですものっ! ゲルマがどれほどソウルの質を高めていたとしても、アナタには劣るわ。曲がりなりにも、外なる者の直系にあるのだから――アナタの血筋は」
「……その、それなんだけどさ……」
「うん? どれ? あ、これ? 飲む? ノンアルコールだけれど」
「それじゃなくて。私が……貴女の娘、っていうのは……?」
そりゃ忘れてるかあ、と呟いて、メイベルはもちもちと吸い込んだ卵を食べ始める。
「アシュリィ。あなたは自分を名無し姫と認識しているけれど、それ以前の記憶はあるかしら?」
「……無いよ。だって、私はその童話から産まれたんでしょう? 私の……仲間たちみたいに」
「近しいけれど、正しくはないわ。アナタ――いえ、アナタの器はね、最初から存在していたの。メアリィ・スーはアナタの目覚めに手を貸しただけ。はじめにからっぽの器があって、そこに名無し姫の魂が与えられて――最後に、没になった役であるいばら姫の立場が与えられた」
メイベルはどこかから取り出したチェスの駒をテーブルにこんと並べ、指さして説明を始めた。
「――ことの始まりは、彼。終わらない物語に囚われた、哀れな王子様。彼は無限の周回を重ね、無限の時を無限に繰り返し続けた。その旅路の果てに――彼は彼を閉じ込めた元凶である、彼女を喰らった」
こん、とクイーンの駒をポーンが倒す。
ポーンはくるりと裏返り――キングの駒に「成った」。
「それ以前から、彼の強さは神すら凌駕する程だったわ。黒いソウルを喰らい続けて、誰の手にも余る強大な存在と化していて――まともな人の自我は僅かしか残っていなかった。その自我も、最後に彼女を喰らったことで消え失せたの」
キングは無数のクイーンを従えて、自身の周りに並べ立てる。
そして、ひとり、またひとりと踏み潰し、喰らっていく。
「彼に残った行動指針はただひとつ。――アリスを、求めること」
「……アリス?」
「ええ。彼はアリスを『愛するもの』だもの。神性の塊と化して、残ったのはひたすらにアリスを求める心だけ。そしてアリスを求める彼は箱庭の外にまで食指を延ばし――他に存在する、ありとあらゆる神々を喰らい尽くした」
盤上には黒いキングだけが残った。
それで終わるのかと思ったが――メイベルは、こんと白いポーンを盤の外に置いた。
「けれどね――『アリス・リデル』は自らを喰らい尽くされながらも、最後にひとりの娘を産んだの。終ぞ、自らを愛してはくれなかった彼のために。彼に愛されるにふさわしい、自分でない誰かを――彼に愛される少女の『形』を。ぽとりと産み落としたわ」
「…………」
「それは彼女がなるべきものだったかもしれないし、そうでないかもしれない。確かなのは、その少女の形には、決して彼女自身は成ることができなかったということ。……無垢で、純真で、誰を愛することも、誰に愛されることもできる、好奇心に満ちた可憐な女の子。『愛されるもの』」
「それが、アナタ」
メイベルは、手に取った白いポーンで私を指示した。
「……私が…………アリスって、呼ばれてたのは……」
私が、アリスを産み出すことができたのは。
「『アリス・リデル』が理想とした『アリス』の形だったから。アナタの核になっているのは、色の無いソウル。どんな色にも染まることの出来る、キャンバスの色。あの女は白い魂と呼んでいたけれど……色に当てはめるなら、アナタの色は『無』いのよ。それがアナタの色だから」
それが……私の魂の正体、だったのか。
「ここまで大丈夫? これからも結構長いけど」
大丈夫――という意を示し、こくりと頷く。
「なら良かった。――産み落とされたアナタは自我を持たないまま、ワタシの箱庭であるシャトランジに匿われたわ。支配者グリムが神々を喰らう中、ワタシもどうにか生き延びて逃れてね。それから、けっこう長い間……アナタはワタシが世話してたのよ。いろんな世界、いろんな知識を言って聞かせたわ。覚えてるとは思わないけどね」
…………私が、やけに様々なことに関する知識を持っていたのは、そのためだったのか?
「さて、そうしているうちに支配者グリムは晩餐を終えた。メインディッシュの白痴すら喰らい殺し、白痴の権能すら成すがままとしたわ。今……このワンダーランドが存続しているのは、彼が持つ白痴の権能のおかげ。彼がこの夢を見続けていることで、ワタシたちはここに居続けることが出来る。裏を返せば、この世界には彼が見ている夢以外のものは存在していない。『外』なんて、どこにもない」
「……彼の目覚めは、つまり」
「そう。『白痴の目覚め』。何もかも消え失せた無の中で、不死人である彼だけが生き続ける、世界の果ての果て。それを防ぐため、免れるため――夢を見ている彼を殺し、世界を創り直す計画が発案された」
――メイベルは、それから盤上に白いポーンをこんと置いた。
「アリス・リデルが産み落とした最後の娘を、過去改変によりロストエンパイアへ送り」
――魂を持たない少女は、過去の箱庭へ送り込まれ。
「認識の改竄を用いて、メアリィ・スーに『主人公』としてアナタを使わせ」
――メアリィ・スーは、没となったいばら姫の役にわたしを置き。
――テストプレイと称して、そのいばら姫に旅をさせ、旅路の果てに「グリム」と共に最後の敵としてわたしを迎え撃った。
「ロストエンパイアの旅を経たアナタを、もうひとりの『グリム』に仕上げ」
――そしてたどり着く結末のことごとくを、わたしは否定した。
――否定する度に、眠り、目覚めることで世界をやり直す……いばら姫の権能を使い、幾度となく周回を重ねて。
「最後に黒山羊を殺し、箱庭の檻を砕いたアナタを、ノーデが『今』の時間軸へ迎える」
――そしてわたしは、たどり着いた。
「ここまでが計画の第一段階。――『1』、ね。そして、今からが『2』よ」
――この時間へ合流したわたしに、ノーデはその計画を明かす。
「かの支配者と交わり、子を成してください。あなたという存在を無数に分け放ち、永劫を経た後に、再び集うのです」
――メイベルが口にしたものと、まったく同じ言葉を聞いて。
――わたしはそれを、承諾した。進む道があるのなら、往くと答えた。
「支配者グリムは、元をたどれば様々な作家の集合体。あらゆる魂が集って形作られた、メアリィ・スーの粘土細工。アナタに子を産ませ、産まれた子の成長を待ち、アナタと同じだけ強くなった後に――アナタに殺させ、喰らわせる。アナタをあらゆる少女の集合体――疑似的な『グリム』の再現とする」
――そして今。
――私は、ここに居る。
「支配者グリムに対し、疑似的なグリムの再現を創造し、それをぶつけてグリムを殺させる」
「『あらゆる魂の集合体であるグリム』に対し」
「『あらゆる魂の集合体であるアリス』を向ける」
――それが。
「グリムを愛し」
「グリムが愛した」
「ただひとりの女」
「ノーデが描いた計画――『プロジェクトアリス』」
「一から十まで、何もかもが他人任せの、バカみたいな計画の全貌よ。……アシュリィ」
*
――自らが愛した男に、死という解放をもたらす。
そのためならば、どんなものも利用しようと心に決めた。
そうだ、あれが居た。すべての元凶である、愚かな女が最後に産み落とした少女。
あれならば――器にはもってこいだろう。
あれを使おう。あれを使って、最後の悪あがきをしよう。
すべては、私が愛した彼のため。
『帰りを待っているわ。ワタシの愛娘』
……貴女が産んだわけではないでしょう。
『育ての親よ、それでもね。母親面ぐらいさせて頂戴』
……ええ、そうですね。
そんな面を、私だってしてみたかった。
そうして、ロストエンパイアの旅を終えた彼女をここに迎え。
再び相まみえた彼女の姿は。
彼女の顔は。
彼女の瞳は。
彼に、よく似た。
揺るぎない覚悟と魂が、確かに宿ったものだった。
――私は。
彼女の姿が、彼によく似ていたから。
彼女のことも、愛そうと思ったのか?
自分の意志すら不明瞭になった今でも、それは違うと解る。
私は彼を愛している。その上で、けして立ち止まることをしなかった彼女を愛した。
グリムを愛している。
アシュリィを愛している。
彼らが、生きてさえいてくれれば、それ以上に望むことはなく。
それが、最悪の形で叶わないことを、理解している。
「決まった? ノーデっ」
空席の縁をそっと撫で、コインの問いに答える。
「……ええ」
「ここには、アシュリィ様が来ます」
「――ゲルマの魂を……剣を、持って」
*
「る――ら…………り、ら…………ら」
「…………」
「らん、らん、らん――らぁ……る」
誰も居ない、無人のステージの上。
両の翼をふわりと広げ、歌い踊る鷲獅子がひとり。
それを鑑賞する、観客がひとり。
「グリフィ」
「らぁ――るぅ――る……ら…………うん?」
「知ってたの? ……赤の女王が、もういないってこと」
「うーん、そうだね、難しいけど」
グリフィはうんと悩んで、にこりと微笑んで答えた。
「知らなかった。知らなかったよ。でもわかってたんだ。ここに来なきゃいけないけど、ここには誰もいない、って」
「…………」
「聞いてみたわけじゃあないけどね。私以外も、みんなそうだと思うよ」
「みんな?」
「不思議の国のみんなさ。ここが、自分たちが本来居るべき場所じゃないってこと。本当の不思議の国じゃないってこと」
くるん、と一回転。羽が舞って、グリフィが舞う。
「なんでそうなのかは知らなくても、そうであることくらいはわかる。だからといって何をするでもないから、自分がしなきゃいけないと思う役割に殉じる。そうすることで、この国はかたちを保ってたんじゃないのかなあ」
私の胸の内で、ガストの言葉が反芻された。
「……でも、それももう、終わりだ」
「終わ……り?」
「うん。カーテンコールが聞こえるんだ。キミが居るからかな。私はもう、ウミちゃんに会うこともない。公爵夫人が深海に潜ることも、セイウチがカキを食い尽すこともない。これから起こるすべてのことが、起こり得ない確信があるのさ」
「それは」
「だから、どうやら」
「私たちは、自由みたいだ!」
ステージの中央で、スポットライドを浴びて。
グリフィは赤く火照った顔で、花咲くような笑顔を浮かべていた。
席を立ち、ステージに近づく私に向かい、グリフィも歩み寄り。
そして、膝を曲げて片手を私に差し出した。
「お手を。お姫様」
観客席に向け、傅く彼女の手を取ると。
私の体はふわりと持ち上がり、それから。
「らぁ――るぅ――り――ら…………らぁ……♪」
宙を舞う羽根と花びらのように、ふわり、くるりと舞い踊った。
誰もいないステージの上。
誰もいない観客席に向かい。
誰もいない、世界の中。
私達、二人だけが、ふわりふわりと舞っていた。
……ダンスの心得くらいはある。私の意思で、私のダンスを踊ることも出来る。
だけど私の体は、グリフィの掌に引かれ、されるがままに踊っていた。
彼女が私よりも踊り慣れているのもあるだろうけれど。
私が、踊らされたい気持ちも背中を押していて。
「グリフィ――――その――ぅ」
不意に片手と背中を抱き寄せられ、向かい合うのだと思った瞬間。
私の唇に、彼女の唇が重ねられていた。
「――――――――~~~~~~~~~~!!?!!!?!!?!!??」
事態を理解して、真っ赤に染まっていく私の顔から、そっとグリフィの顔が離れる。
「全く、キミは、本っ当に仕方ないね。あまりにも――『好きだらけ』じゃないのかい」
「は――はっ……ぐっ…………ぐりちゃん…………????」
「グリちゃんはキミだろうっ! ぁははっ、目が白黒してるね。まるでリバーシだ」
……彼女……彼女は。
「なんでいきなり――私に」
「なんでって」
「別れの挨拶には、ベーゼを手向けるだろう?」
「…………」
「あ、それとも何かい? もっとガッツリ行くべきだったかな? 君の舌をしゃぶるべきだった?」
「ぃやいやいやいやいや。流石にそれはやりすぎだよ。突き飛ばすよ」
「あはははっ! そっかあ、残念。一度くらいキミを抱きたかったなぁ」
「……女だよ、私?」
「ウミちゃんも女の子だよ、些事じゃないか」
……些事なのか。
グリフィは名残惜しそうに私の手を離すと、とん、とんと足音を立てて数歩下がった。
「……私も、そろそろ発つんだ。どこへ行くかは決まってる」
「……。そっか」
「君も来るかい? 紅城フリッセルへ」
「ううん」
私には、行くべき場所がある。
迎えるべき、人がいる。
「そっかぁ」
素っ気なく答えたグリフィの眼は、ひどく寂しそうだった。
「うん……わかった。だけど挨拶はこう言わせてくれ。またね、グリっっ」
羽搏いてクイーンランドを後にしようとした彼女の手を、ぐいっと引き。
がっと顎を掴んで、けっこう、いやかなり強引に、その唇を奪い返した。
「もご」
「………………」
「~~~~~っ、ぷぁ……! ……グリム、君?」
「アシュリィ」
「……えっ?」
「アシュリィって呼んで。グリフィ」
「…………。アシュ、リィ」
「うん」
掴んだその手を、その指先を、私の首に這わせ。
「いいよ」
ゆっくりと、ゆっくりと。
胸元に、運んで。
「私。死んでもいい」
彼女の手を、私の胸に押し当てて。
そう、口にした。
*
月の綺麗な夜だった。
それを覗けば、冒涜的な夢をみると伝えられた時もあった。
いつのことだか、誰が言い出したのかもわからない。
事実は、ただ単に月へ足を運べるというだけで。
そこにいるのは、月の魔物が数体程度。特段珍しい催し物があるわけでもなかった。
そんな、何の面白みもない綺麗な月を。
不思議の国の誰もが、見上げるような夜だった。
ハンプティダンプティの裂け目から、空を垣間見る雛鳥の瞳に。
双子が手をつなぎながら見つめる、病棟の窓の外に。
黒い翼を翻し旅する、暴魔が飛び去る夜空の内に。
深い海の底から捕食者が眺める、ゆらめく海面に。
月は、在った。
「面白おかしく暮らしただけの、女連中の人生なんざ――何の面白みもありゃしねえ」
灰色で染め上げられた、月面のもと。
「生まれて、生きて、死んで。それだけのことだ。それだけのことに、全てを賭けた」
黒い狩装束を纏った、ひとりの狩人が立っていた。
「それだけのことに」
「失った命が、多すぎた」
時の流れに踏み潰され、生まれた意味もなく死んでいった無数の少女の魂たち。
それらを集め、共に生き、共に在り続けた、最初の残滓。最初の狩人。
それと向かい合う、月と同じく、灰色をした髪と装束の少女。
最後の、アリス。
「待たせて御免ね。ゲルマ」
「待ってねえさ。楽しみではあったけどな」
そう言ってゲルマは、自身の恩師のそれを模した仮面を外し。
長い黒髪と、黒い狩装束を翻し。紅に燃え盛る飛竜の剣を振り抜き。
誰よりも『アリス』によく似た顔と、紅の両目を以て。
「俺達――アリス達の命を、その重さを」
「知るがいい」
――灰の少女、アシュリィと相対した。
「最後のアリス、ゲルマ」
最初の残滓である彼女は、最も長く生きながらえ
最も多くの命を狩り、最も多くの別れを経た。
自らと、アリスたちの命に
『道など無い-Dead Line-』でしかないことを知りながら、
それでも国と共に生きる道を探し続けた。
もうひとりの『灰の少女-Cinder-』である。