……誰かが呼んでいる。
愛らしく綺麗で、薄く透明感のある声だ。
耳に馴染むその声色は、自分のものとよく似ていて。
深い海の底から意識を拾い上げて、ゆっくりと目を開き――その声の主と、顔を合わせた。
そう。
そこに居るのは、私の――
「おかあさんっ!」
愛しき娘――だ。
「おかあさんっ、おばーちゃん、連れてきたよ!」
愛娘は相も変らぬ鈴を鳴らすような声で、私の心を和ませてくれる。
川の岸辺に立って、私に向かって大きく手を振る彼女に小さく手を振り返し、水浴びを終えて岸に向かい歩き出す。
「もう……この子はっ、どうしてそう足が速いのかしら……?――お待たせ、『グリム』。ほら、着替え。持ってきたわ」
ありがとう、お母さん――朗らかな笑みをたたえる愛しき母にそう微笑み返し、タオルを受け取って体を拭う。
川の水を浴びているうちは気付かなかったが、照り付ける日差しがじりじりと肌を焼いてくる。もうそんな季節なのか。その恰好は暑くないかな、お母さんも浴びてきたら――ううん、私は大丈夫……自分の分の着替えもないから――そんなような他愛もない話を繰り返していると、ああ、みんなここに居たの――と、また聞き覚えのある声がした。
「お弁当の用意が出来たから、みんなを呼ぼうと――って……お、お姉さまっ!?そ、そそその恰好はぅっ……?!」
何やら大きく膨らんだバッグを提げた、愛しい妹がやって来た……と思ったら、彼女は私の姿を見るや顔を赤くして動揺しだした。姉妹の裸なんて見慣れたものだろう、とは思うのだが……最近になって彼女は私の裸体に思うところが出来たらしく、最近は湯浴みや水浴びも一緒にしてくれなくなってしまった。
そんな、少しばかり寂しい思いを抱きながら、ああ見苦しいものを見せちゃったね――と母が持ってきてくれた着替えで体を隠す。妹は、いえいえとんでもない眼福にすぎますとか妙に褒め称えながらもやっぱり見ようとはしてくれず、いやいやそれならばもっと良く見ても――と私が悪戯っぽく笑って見せながらずいずい近づくと、頭から蒸気でも噴くみたいに妹は顔を真っ赤にしてあわあわと身動きが取れなくなっていった。……これもこれで、なんだかちょっと面白くはある。
「もう、そんなにこの子をいじめてあげないの。……それで、繧「繝ェ繧ケ?その手に提げてるのは……」
あなたも早く服を着なさいと母に軽く叱られて、仕方がないので足を止める。
「ぁ、ぅうん、もうちょっと見せてもらっても……ごほんっ!――四人分のお弁当と、シートを持ってきたの。もうお昼も過ぎるでしょ?みんな、お腹が空いた頃合いかなーって……ね、繝ュ繝ェ繝シ繝お母さま?」
「あら、そうだったの?ありがとう繧「繝ェ繧ケ、それじゃあ……みんなでお昼にしましょうか?」
「わーいっ、お昼ごはん!おばちゃんっ、繧、繝シ繝?ぅ繧ケの分もあるっ?」
「おヴぁ」
いや。間違いではない。血縁上、呼び名はそうなるのだから。
私の脇でぴょこぴょこと跳ねて喜ぶ娘が口走った言葉に、ぴくりと片頬を吊り上げた妹をどうどうとなだめる。妹はなんとか笑顔と平静を保ったが、それでも若干目尻が吊り上がったままだった。
――母と、妹と、娘。四人で過ごす、静かで、甘美なひととき。
川のせせらぎや鳥の鳴き声を音楽として楽しみながら、ああ、こんな時間を過ごしたこともあった、と私は思い出した。
思い出した。
思い――――出した?
「……どうかしたの?繧「繧キ繝・繝ェ繧」?」
不意に食事の手が止まった私の顔を、母が覗き込む。
――いつか。いつだったか。こんなふうに、ここで誰かと過ごしたような、気がする。
誰かと……ううん、誰かひとりとじゃない。私がしていたように、みんなも、ここの川で水浴びを
「お姉さま?お姉さま……?」
ここは……
…………何処だ?
立ち上がり、川の方へと歩き出す。
「おかあさん?どこ行くの?」
おかあさん……?
おかあさん……。
……わたしは…………おかあ、さん……?
岸辺に立つと、いつかの想い出が泡のように生まれては弾けた。
そう、みんな――ここで水浴びをしていた。私もそうだ。みんなと、輝くような一時をめいっぱい楽しんだ。
みんな……とは、誰のことだ?これは、誰の記憶だ?
俯いて、川を、覗く。私とは、誰だ。この記憶を持つ私は、私は――――
水面に、映る
私の、顔、は
かおは
*
「顔は」
……
…………。
「……グリム……様?いかが、なされましたか……?」
「…………ぁ」
顔……は。
……。
テーブルをはさんだ、向こう側。白い兎が、私を見ていた。
薄く開かれた眼に、ガラスのような赤い瞳。その瞳に、私の顔が映っていた。
首を曲げて、下を向く。手元に置かれたティーカップの中、ゆらゆらと揺れる紅茶の水面にも、私の顔が映っていた。
思わず、私の顔は見えているか、と兎に問いかける。
「……?はい。この上なく、明瞭に。貴女の、人形のような輪郭も、白い肌も銀色の瞳も、きちんと見えておりますよ」
そうか……。
ありがとう、と礼を言う。当然の如く、兎はぽかんとした顔をしていたが、私の様子からそれが単なる戯言でないことを察したようで、私が一口で紅茶を飲み干すのを見届けた後、
「……グリム様。どうか、ご無理はなさらぬよう」
そう言って、冷めてしまったティーカップに、また温かい紅茶を注いでくれた。
不死人である私に、完全な「死」が訪れることは無い。
その肉体が死亡しても、魂だけは消えることなく現世に留まり続け、その魂が還るべきところと定めた地点で私は蘇る。
本来ならば不死人は、死による精神の磨耗が肉体の再生に影響を及ぼし、蘇った直後は老人の死体がそのまま動いているような「亡者」と呼ばれる体で活動をしなくてはならないのだが――
生来、私は亡者と呼ばれるような不死人たちとは違い、死亡する前の綺麗な肉体と服装をそのまま構成し直すことが出来、「死に戻る」ことによって負うリスクは殆ど皆無に等しかった。――他の不死人と同じく、精神は磨耗し、消耗しているのに、だ。今まで何十、何百と死に、その度に綺麗な体で蘇ってを繰り返したが、それでも死ぬ痛みや苦しみを全て記憶した上で今一度蘇らされてしまうのは、齢ほんの十五もそこらの脆弱な女にとってはこの上ない拷問でしかなかった。
慣れはしないが、乗り越えられなくもない。
そんな瀬戸際を延々と歩き続けてきて、疲弊しきった私は――私の魂は、此度、どういうわけか来たことも見たこともない場所を「還るべきところ」と定めていたようで、焼死した直後に目を覚ましたこの場所は、今まで過ごしてきたどんなところよりも安寧と平穏に満ちていた。
この空間のなにひとつをも知り得ない状況下で、私は――そして、目の前の得体もしれない人間もどきの兎を見て――酷く、安らいでいた。
紅茶をまた一口、口に運び、飲み慣れた味のする銘も知らない紅茶で喉を潤す。
黒いドレスはそのままだ。灰色の髪もそのままだ。すんすんと袖のあたりを嗅いでみたが、獣の臭みも死臭のひとつも香らなかった。洗濯も湯浴みも必要ない、そのところは便利だと……思っている。
「ぁ……やだ、いけない」
とはいえ、湯浴みや洗濯の手間を省くためにいちいち自殺するのもいかがなものか――
――だ、などと考えていたら、兎が不意に口を開いたものだから、私は彼女の眼をじっと見つめて静止した。
「私は、その……グリム様のお名前は伺いましたが、自分の名を名乗り忘れていましたね」
その通りだ、と頷く。目覚めたばかりの私は、一方的に名を名乗った後、とりあえず喉が渇いたと押し付けるように言った。聞き入れた彼女が紅茶を淹れてくれて、今に至るまで小さな茶会に勤しんでいたところだった。
白兎は自分の胸に手をそえて、静かに名乗った。
「私はノーデ。この図書室の司書を務めております。……グリム様。貴女は私達の、大事な大事なお客様です。貴女様の渇求を満たせるよう――どうかこのノーデに、なんなりとお申し付け下さい」
そのまま、深々と頭を下げるノーデ。つられて私も頭を下げた。
――この図書室の夢には、旅の拠点たりうる要素が奇妙なほど確りと揃っていた。
まず一番に篝火の存在。みっしりと詰まった本棚から飛び出して、いくつも本が山積みになったこの部屋で火を焚くのはいかがなものかとも思ったが、これが無くては話にならないので、兎にも角にも有り難いものと捉えておく。
そして二つに商人の存在。人語を解す謎のシロクマが、これまたどこから仕入れてきたのか謎な物品を取り揃えていて、ソウルと引き換えにそれを売ってくれる。そういった売買に限らず、なぜか彼は武具の強化まで出来るらしく、ウサギ穴でいつのまにか拾っていた強化石の欠片で私の鋸を少しだけ強化してくれた。
確か以前は、ソウルでの買い物は黒い兎とやっていて、武具の強化は専門の者に頼んでいた覚えがある。その役割をひとり――と勘定するのが正しいかはわからないが、彼に対する敬意としてそう数える――で果たす彼は徹頭徹尾謎でしかないのだが、これまた深く考えず有り難いもの、と……捉えて、おく。
最後に――白兎、ノーデの存在。祈りを捧げ、ソウルを私の力へと変換してくれる彼女だが――その彼女が淹れる紅茶は実に美味なものだった。交わす会話にもどこか暖かみを感じさせてくれるノーデという女性は、疲弊した心を休ませられる拠り所としてこの上なく、またこの場所へ帰りたいと思わせるに充分な魅力を持っていた。
……初対面であるはずの彼女に、どうしてそこまでの信頼をおいてしまうのかは謎だ。だが、今はこの安寧を享受しなければ、私の飴細工にも等しい精神は容易くへし折れるであろう事は明白だった。故に、私はこの図書室の夢という場所で過ごす時間を、甘んじて受け入れることに決めた。
小さな茶会を終えた後、旅の支度を済ませて篝火に触れる。
「発つのですね、グリム様」
留守を頼む。そうノーデに返して、私は図書室を後にした。
一瞬、何故家主のような言葉がさらりとこぼれたのか疑問に思ったが――主人の帰りを待つようなノーデの佇まいが私をそんな気持ちにさせたのだろうと、そう思うことにした。
*
「積み木なら子供の頃に必ずしもやるままごとだろう?」
屋根の上に転がりながら、ニタニタ笑いで私を見下ろすチェシャ猫が言う。
「鍛えられた創造と想像が後の作品に繋がるけど、このクソみたいな家積みの家は相当な芸術品だにゃ」
確かに、見上げるほど高く積まれたこの家々は見事なバランスを保っている。ラドウィッジと名のついたこの積み木の市街は、聞けばここ不思議の国の中心部に位置するらしい。狂気を正気として生きている住民たちは、皆この積み木のひとつを帰るべき居場所として過ごしているのだそうだ。
修練や鍛錬の果てに、人の才は必ずなにかに行き着く。どこかで変革を得たそれは、やがてあるべき形へと昇華する。
しかしこれは――その修練や鍛錬、いや、そのもっと前。興味が湧いて、それらしい「遊び」に手を出した……その「遊び」の範疇からすらも抜け出ていないように私は思った。狂ったように正しく積み上げられた、積み木の家。それは文字通り積み木でしかなく、木を積む手が幼児の柔肌から老人の枯れた指先へ変わって尚、成していることは何一つ変わりない。
さながら、手足を生やそうともせず、頭と尾だけで巨大に成長した御玉杓子か……
葉を食い続ける、蛹になることを忘れた芋虫か。
私の眼に映るラドウィッジ市街という街は、そんな、停滞という名の狂気の産物に思えた。
と……いうような旨の感想をチェシャ猫に伝えたが、彼女がそれに対してなにかしらの返事をすることはなく、ただ心なしか、先程よりもニタニタ笑いが大きくなったような気がした。
――そういえば……私は、何故こいつを当たり前に「チェシャ猫」と呼んでいる?
彼女が一度でもそう名乗ったことがあったか?
「…………――ぁ」
駄目で元々、そう思いながらその懐疑を猫へ向かい口にしようとした瞬間。
ごろん、ごろんッ――と何かが屋根を転がり、チェシャ猫と激突する瞬間、猫は霧散。私の目の前にひとりの男が転がり落ちてきた。
「ッ……!!?」
「ぅ……っぐ……!はぁ、はぁ……ッ……」
蒼い体毛の、獣の顔をした男だ。生きている。何故あんなところから転がり落ちてきたのか気にかかり、思わず彼のもとへ駆け寄った。
「っ……君は……?いや、それよりも……あの魔獣は……ッ!?」
魔獣……?
唸り声が聞こえて、彼が転がり落ちてきた屋根の上を見上げる。その向こう、先程私が下りてきたばかりの長い階段の先に、その獣は居た。
その口に巨大な刃を咥え、赤い外套を身に纏った黒い狼。これほどまで距離が空いていてもはっきりと視認できるほど巨大な体躯とその異質な風貌に、心底恐怖した。布を纏い武装する獣など聞いたこともない――あれだけの巨躯を持ちながら、明らかに知性までも有している。――なんだ…………あれは。
狼は二度三度あたりを見渡した後、そのまま何処かへ姿を消した。私は息をつき、負った傷の痛みに悶える男に、もう大丈夫だと伝える。
「そうか……ありがとう。長らくこの街に住んでいるが、あんな魔獣は初めてだ――」
野放しにするわけにもいかないが、しかし手も出せなかった――心底悔しそうにそう漏らす男に、無理に喋るなと伝えながら、懐から一本の輸血薬を取り出して男に渡す。男は、改めて目にした私の姿と、輸血薬を差し出されたという事実に二重に驚い、戸惑った。
「……すまない。しかし君は……何故ここに?この街は、君のような少女がいていい場所じゃない……」
どこに行くかなど自分で決める。それよりも、傷の手当てを早くした方がいい。
彼は私のような不死人よりも傷の治りは遅い筈だ。そう考え、手持ちの止血剤や包帯を使って、簡単にではあるが応急処置を手伝った。彼は暫く無言のまま、疑いに満ちた顔で私のことを見つめていたが、その内受け取った輸血薬を自身の腕に注し、治療を済ませた。妙に滑らかな動作だった。
「……。有り難う。どうやら、君はただの少女でもないようだな。深くは詮索しないが……気を付けたまえ。この街にはさっきのような魔獣や、狂人がわんさかと巣食っている。考えて行動するより、行動してから考える連中が多い……特に、君のような少女は奴らにとっては格好の餌だ。男は無論、女も――君を道連れにしようとするだろう」
……矢張り、ここはそんな場所か。死臭に入り混じる性臭から感づいてはいたが、居心地は悪そうだ。
忠告感謝する、そう言って離れようとした時、ぐっと抵抗を感じて立ち止まった。何故か、彼に服の裾を掴まれていた。
「…………」
まだ何か?
振り返り、そう問いかけた。
「いや。……何でもない。ただ……その…………何というか」
口ごもる彼の、続く言葉を待つ。
暫く沈黙が続いた後に、彼はゆっくりと口を開いた。
「リデル」
…………?
「という……名に、聞き覚えは……ないか?」
いや。首を横に振り、否定する。
私の名前はグリムだ。姓は覚えていないが、少なくともその名に聞き覚えは無い。
「……そうか。引き留めて悪かった――……街に向かうなら、南西の酒場に行くといい。君の口に合うようなものは出てこないだろうが、情報を集めるにはうってつけだ」
ありがとう。その情報に対しそう言い残し、私は足早にその場を去った。
――この国に来てから。
私を見る目で、私でないなにかを見られてばかりだ。
自分でない自分を求められているような居心地の悪さに、少しだけ辟易した。
*
さながら雨上がりの午後のような、至るところにてんてんと水溜りのある街。
その水の色が汚らしく赤黒い色に染まってさえいなければ、そんな説明で片付いたというに。
ばちゃばちゃと水溜り、もとい血溜まりの上を歩きながら狭苦しい街路を進む。積み木のように重ね建てられてるのは何も家だけではなく、ご丁寧にその階層に応じた高さにある街路が頭上でいくつも交錯しているため、街の広さとは無関係に酷い狭苦しさを覚えた。トンネルばかりでろくに空も見えやしない。もっとも、見えたところで気分が晴れるわけでもないのだが。
なんとか道を見つけて、道なりに進んだ先の交差点。そこでは紳士服の男達が六人ほど集まっていて、しかし何をするでもなく彼らはただ呆然と歩き回っていた。要するに何の脅威でもない障害物だ。彼らがその手に身の丈ほどもある鋏といった凶器を持っていなければ、の話だが。
「……―――が……か?」
「ぁ……――――、――」
歩き回りながらも何か話をしているらしく、わずかだが話し声がこちらにも届いてくる。外敵に対し、警戒状態にあるというわけでもない……ということか?
私は胡椒のつまった小瓶をひとつ取り出し、それを自分の頭から体へと振りかけた。見えざる胡椒、という名らしいこれには、使用者を誰の目にも映らなくするという効果があり、隠密行動をするにあたってこれ以上ないほど便利な品物だった。ただ一点、難癖をつけたくなる点があるとすれば――
「は………――っくちゅ……!!」
これが胡椒である、という点に限る。
*
「…………ぃか?」
「ああ……懐かし――……」
ぼそぼそと話を続ける紳士達の脇を、足音を殺しながら通り過ぎて行く。
見えざる胡椒が消せるのはあくまでも姿だけで、自身が鳴らす足音や声、呼吸音までは消せないし、こちらから物理的に接触すれば無論のこと気づかれる。それ故、足元の血溜まりを極力波立てないようにゆっくりと、動き回る彼らに触れないよう、細心の注意を払って移動する必要があった。
南西の方角を月の位置から推測し、交差点を右に曲がろうとした――時だった。
「匂う」
どん。
胸元へ伸びて来た腕に阻まれ、足が止まる。
突如として声を荒げ始める男達。支離滅裂な会話は単語の連続となり、そのすべてが姿の無い私に向けられる。
「匂い立つ、なあ」
「いや、香る」
「なんだ?これは」
私の胸元を抑える手が、滑るように脇腹から脇の下へ移すように体を撫で。
それが乳房に触れる、その瞬間
「ああ これは」
「少女の香りだ」
反射的に、振り向きざまに手の持ち主の首を削ぎ落していた。
首から噴き出した黒い血が降り注ぎ、私の体を染め上げる。惨状に気付いた残る五人が、一斉に私を見た。
気付かれた――否……もとより気付いていたのか。何に?私の何を――奴らは…………
…………匂い、だと?
「逃すかッッ」「少女――少女ォオオッ!!!!」
傘を構え鋏を構え紳士達が私に向かって襲い来る。一人はその隙をついて銃弾を頭蓋の奥に叩き込んでやれたが、残る四人は先程まで話していた相手が血を噴いて死亡する姿に目もくれず私に向かって来る。多勢に無勢だ、わかってはいたが、あまりに不利な状況だ。
振りかざされる鋏の刃を、同じように振りかざす鋸で往なしながら後退し、距離を取ろうとするが……鍔ぜり合う私と一体の間に割り込む形でまた別の一体が急襲し、突き出した傘の先端が私の脇腹を貫いた。
「美しいものをみれば心が安らぐ!!!処方薬など必要亡い我々には君だけが必要だッ!!!!」
「治してくれ我々を治してくれこの街を治してくれ治してくれ治療してくれ君の処女性でえええッッ!!!」
痛みに顔をしかめつつも、追撃を計る一体の胸元へ火炎壺を叩き付ける。燃え盛るそれは炎熱の苦しみに暴れまわり、あらぬ方向へと駆けた後に焼死。残る三体は相も変わらず喚き散らしながら私に獲物を振りかざす。
敵意――というより、これは、渇望?喚く言葉は私を求めているように感じた。応じてやるつもりなど更々ないが、求める相手に武器を振りかざすとはどういう――――いや
頭の中に、あの獣顔をした男性の言葉が浮かんだ。行動をしてから考える、ここに居るのはそんな連中だと。
……なるほど、こういうことか。求むるがあまり思考よりも先に欲求が体を動かし手が出ると?
馬鹿げている。これではあの兎たちの方がまだ理性的だ――思考しながら見上げた屋根の先で、鋭く光る紅い目と視線が交錯した。
「…………――――っっ」
瞳は間髪いれず私の方へ飛来する。それは鴉だった。鋭い嘴の切っ先が大きく開かれ、その中に生え揃う無数の牙がてらてらと光っていた。――回避、いや、間に合わない。その嘴に肉を裂かれる、その瞬間を覚悟しかけたその時。
「少女の処女は万能に効くッッ私のッ病みたる息子もきっとッきっとッッ!!!ぁ」
迫り来る男の一人が大きく体を乗り出して鋏を振りかざし――その刃が私に到達するより速く、飛来する鴉の嘴が彼の頭蓋に突き刺さった。
「ぁぁぁああぁあぁあぁッッ!!!あああああぁぁぁああぁぁッッ!!!!」
鴉が鳴く。男も嘶く。鴉の声なのか男の声なのか区別のつかない悲鳴が、市街に轟いた。
肉が裂かれて撒き散らされる臭いにつられたのか、別の屋根に留まっていた他の鴉たちもやって来て、残る二人の体を喰い漁り始めた。紳士服を着飾った、見かけだけは正常だった男たちは、瞬く間にウサギ穴の肉塊と同じような物体へ豹変していった。
……一歩間違えば、私がああなっていたのか。凄惨な光景に、思わず足が止まった。
足を――止めてしまった。
食事に勤しむ鴉の一匹が、動きを止めた私を見る。紅く光る目と再び視線が交錯する。
奴等の胃袋がどれほどの死肉を収めることが出来るのか、わかりはしないが――ただひとつ、理解できたのは
「ァァァアァアアアァアッッ!!!アアアアアアアッッ!!!!」
連中の欲求と同じく、彼らの食欲もまた、留まるところを知らない……ということだった。
踵を返し、どこへともなく必死で走り出す。死肉を貪るのに飽きた彼らは、翼をはためかせて私を追った。
髪を振り乱し、捕まってなるものかと物陰を目指すが、この通りに突き破れそうな壁も扉も無い、とにかく走るしかない。ばたばたとはためく翼の音がどんどん増していく、後ろを振り返る暇もない――ッ!!
「はっ――はっ、はっ、はぁっ、はぁっ――!!!」
時間にして数秒、感覚にして数分。走り続ける私の目の先に映ったのは、真っ白い巨大な建造物。
そこがどういう建物なのかを考える余裕もないまま、私の意識が視認したのは大きな扉。あれをくぐり、建物の中へと避難すればひとまずこの逃避行は終わる。そう判断し、私はその建物の扉に向かって突き破る勢いで飛び込んだ。
*
「っ…………っ……」
飛び込むと同時に扉は凄まじい勢いで閉じ、それ以上の侵入を許そうとしなかった。
……。
汗が、噴き出す。白い建物の白いエントランスの中央で、私はへたり込んで荒い呼吸を必死で整えた。
……ここは…………何だ?
「お次のお客様 左に見えます診察券をかざして開腹手術をなさります」
無機質で抑揚のない声が館内に響く。声に反応し、灰色をした顔の男が立ち上がって受付へと足を運んだ。
立ち並ぶ長椅子。力なくうなだれてそこに腰かける表情のない人々。充満する薬品と血の臭い。
薬を受け取るや否やそれをかき込んで飲み込み、しばらくのたうち回った後、びくびくと痙攣し……立ち上がり、また同じ座席に腰かける。呼ばれた、らしい男の一連の動きを見届けて、私は自分の記憶の中にあるかけ離れども似通った状況を必死で探った。ここは何処だ。ここは何だ。ここで自分の番を待つ彼らは、誰だ?
ここは――
「お次のお客様」
「服装が乱れておりますね。絶え絶えの動機息斬れは重篤なアレストを引き起こします、すぐにこちらへ、グリム様」
――病棟…………か?
私の名を呼んだ受付の人形と目を合わせ、私は、静かに息を呑んだ。