※この作品はR-18です。

不死人ちゃんのBlackSoulsいきなりⅡ   作:朝神佑来

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精神病棟 - 鈍色の大鷲

 ふと、どこかで

 

 

 白、色で塗り潰、された部屋に、人間は、閉じ込められると

 二、日や三日ほ、どで発狂に至る、という話を

 

 

 

 聞いた。

 

 

 

 ……………。

 

 床に、てん、てんと、つづく

 血、の色を見て

 安堵する自分を鑑みるにそれは正解に限りなく近いことがらなのではないかなと考えうる。

 

 

 戸。

 叩き壊すこと二十二回。

 破壊しても破壊しても次の瞬間には修繕されている扉を、くぐりぬけて、私はここにいる。

 手には薬。処方された薬。九十九日分。なくなったらまた来いというような胸のことを蔦えられた機が刷る。

 屈り日。鏡り美を見吊けて、手をかざす。たとえば、今のような。思考、感情、動悸、息切れ、重篤なアレストを引き起こすそれらを妨げる成分が多分に含まれているらしいこれは、説明をされずとも手に取るだけで用法用量を理解でき。

 

 

 ………………。

 

 

 一般に――

 清楚や、清潔、といったイメージをもたらす、白、という色であるが。

 それが四方八方どこまでもどこまでも続いていると、不思議なことに異様なまでの閉塞感に晒される。

 それは肉体が、という意味ではなく……肉体も、とも言い換えられはするが……精神的な意味で、私はここから一歩たりとも外に出ることはできないんだと、そう本能が理解してしまうような、そういったわけのわからない不安感を生む。

 

「げほっ……!!げほっ……げふっ……ぇほっ……けほっ…………」

 

 喉に残った異物感に咳き込み、口を抑えた手の平には、かすかな血と錠剤の破片が付着していた。

 ……飲み込んだのか。処方薬を。破片として散らばっているのを見るに、中途半端に噛み砕いて喉へ通したらしい。それに切られて、喉の内側を損傷したか。

 数秒前の自分が何を考えていたのか……まるで思い出せない。その部分だけがごっそりと頭からもぎ取られたかのようだ。篝火の暖かみに触れながら身をやつし、ちらと辺りを見渡した。

 

 白い。

 狂おしいほど。

 

 てんてんと散らばる赤を見るたび安堵する。

 あの赤がなければ、私は今ごろ繰り返し自傷して自らの血を見つめていたことだろう。身に付けている服は黒で、髪は灰と、私自身の格好には色味のかけらもないから。

 ……この国……この街の有り様に心を病んだ人間たちを収容する、白い牢で出来た地獄。形だけは、病棟のそれを模してはいるようだが……本来あるべき姿とはほど遠い。病的なまでに白く染め上げられたこの建物に、私は飽きるほど吐き気を催す。

 

 精神病棟――そう呼ぶべきか?

 

 手には銀の短銃と、鋸。それらは獣狩りのために作られたものではあるが、人間相手にもいくらか効果はある……寧ろ、まともな心を失った人間ならば、それは獣に等しい。ならば、狩れよう。

 

 握りつぶされそうな心を鼓舞して、どうにか立ち上がる。

 まともな心を保つため、まともでない薬に頼らざるを得ない状況は――辛いが。それでも、逃げるわけにはいかない。

 

 

 …………この場所には、何故か。

 私のことを呼びつける何者かがいるような、そんな気がしてならなかった。

 

 

 *

 

 

 『表情:毛顔。大きな特徴はない。

  話し方:主語がはっきりとしていて、理性的。

  了解:悪くない。

  疎通性:まあまあ、悪くない

  主訴:善悪の判断。イタチゴッコの繰り返し。

  数年前から記憶が飛ぶようになり、最近では症状が悪化するようになった。

  持病の血友病を抱えている。

  診断結果:ダーティハリー症候群、解離性同一性障害の可能性が高い。

  方針:極めて危険な為、集中治療手術を行った後、隔離。』

 

 

 ……カウンターの上に置かれた、なんとか読めるカルテをぱらぱらと捲る。

 患者のことをこうして纏めた書類があるということは、かつてのここは、形だけでなく確かに精神病棟として機能していたのだろうか?何があってこんな――狂気を煮詰める地獄の窯底のようなありさまになってしまったのだろう。

 最後の一枚の端。追記、と書かれた部分に、走り書いたような一文を見つけた。

 

 『1888/10/13 追記

  患者が脱走。霧の様に消えてしまった。』

 

 …………。

 霧のように……か。

 まるで、あの猫のような話だな。

 

 

 何があったのかは知らないが、何かがあったことは確かなのだろう。

 カルテをカウンターに置き直し、私は後ろにある本棚にも目をつけた。ところどころ血に濡れてはいるが、濡れていない本なら読めるだろう。そう思って、綺麗なままの一冊の本を手に取った。

 日記のようだ。日記は、つい音読して読み聞かせるように読んでしまう癖が私にはある。

 

 「……ここは、触れ合い動物園か?患者共は……自分がおとぎ話の主人公だと思っていやがる……」

 

 どきりとした。

 

 いや。

 何故、今、心臓を冷やすような思いを感じたんだ?

 思うあてはなかった。なかったことにして、続きを読み上げる。

 

 「……ああ、滑稽だね。いっそ全員が脇役で、紙の屑溜めに埋もれた方がすっきりするだろうに」

 

 「チョッキを着た……ウサギ?……喋る、花?」

 

 ……数秒前の自分の思考を撤回する。在った。

 チョッキを着た兎も、喋る花も……私は実際に見たことがある。気が……する。

 それらと相対して何をした?私は――

 

 ――殺した……気が、する。

 …………。続きを、読む。

 

 「そんなもの現実には存在しない。お前は病気だよ。君のお姉さんが見たって?じゃあ姉妹揃って気が狂っているんだろうな――」

 

 …………。

 

 そうなのかもしれないな。

 そうなら、どれほど楽なのだろう。

 

 ぱたり、と本を閉じ、慎重に戸棚へ戻した。

 会話文を日記に記すということは、余程溜め込んだ思いがあったんだろう。これを書いた人物は、精神病棟の医者か何かで、「お前」とはその日に会話した患者のことを指している。姉妹というからには女性だろう。医者は彼女の妄言を、きっと飽きるほど聞かされて、しかし患者にそんな暴言を吐くわけにもいかず――溜め込んだ苛立ちはそのままこの日記の文言となった。書きながら思い返したはずだ、あの時、あいつにこう言ってやれれば楽だったのに、と。

 

 この先に道は無い。来た道を戻り、通路を左に……篝火から右に進んでい

 

 

 『ばりん』

 

 

 ……。

 

 尻餅をついた。

 ……。置き方が悪かったのか?ひとりでに倒れて割れた花瓶が、しおれた花と水を無残に吹き散らしていた。

 

 先に……進もう。いちいち驚いていたら身がもたない。

 通路の先は車椅子が置いてあるだけで、進めそうな道は無かった。……何者かの視線は感じたが。

 振り返った向こう側に狭い通路を見つけ、気は乗らないがあちらに進んでみようと足を運

 

 

 『ぎいいいいいいいいいぃいいいぃいいぃいいいぃいぃぃぃ――――バタン』

 

 

 …………。

 足を……運ぶ。重い足を。

 

 通路の先には一室だけ部屋があった。扉を開けて中に入ると、血と薬品の臭いはいっそう強くなった。

 机の上に並んだ薬品。試験管。顕微鏡。部屋の奥には椅子が並び立てられている。

 診察室……だろうか?電灯が切れかけていて、細部がよく見えない。ぴちゃぴちゃと靴底を血で濡らしながら進んだ部屋の奥――並んだ椅子と椅子の間にレバーを見つけた。

 

 ……動くんだろうか?

 罠かもしれないが、死んだところで死ぬだけだ。私は背伸びをして手を伸ばし、壁のレバーに指をかけ

 

 『がこ』

 

 レバーを下ろした。

 

 背後で、扉が開く音がした。

 足音がこつこつと響く。それもひとつやふたつじゃない。誰かが、侵入してきた?誰が?

 私は足音を殺しながら歩き、唯一の出入り口である扉の様子を窺った。電灯が完全に切れる。視界が闇に閉ざされる。

 闇に慣れた視界の中で、何かが見えた。細長い。今まで見てきたような兎や人間では断じてない、文字通りの異形ともいうべき何かが歩いていた。

 

 ……扉を……扉への道を、完全に塞がれている。

 殺す?どうやって?動物や人間なら首を裂けばなんとか死ぬ。だがあれの……首は、どこだ?

 急所はあるのか?血は流れているのか?そもそも死ぬのか?あれは?見たこともない異形を前に頭がぐちゃつく。どくんどくんと胸の奥で心臓が吐血する。体の中の血管がいくつも弾け飛ぶ。殺さなきゃ。殺さなきゃ?何を?

 あれは看護師だ。職員だ。ならば部屋の様子を窺いに来たのは当然だ。だって、ほら、耳をすましてみろ。談笑が聞こえるだろう?

 きっとネズミか何かが――ネズミなら扉を開けられない――ああやだ怖い――他愛もない会話をしながら歩きまわっている。なんだ。看護師なら、怖がる必要なんてない。ただちょっと、見つかると怒られるかもしれないな。部屋を抜け出して、せんせいのお話を聞こうとした、なんて……きっと

 

 「あ」

 

 看護師のひとりと目が合った。

 

 いけない。

 

 あそこ――と言いながら、看護師が私に指を指

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 …………。

 数分前の自分が、何をされたのか。思い出そうとして思考が止まる。

 何をされた?何を……されて……私は今、篝火の前に居る?

 

 

 ……指を、指されたことは覚えている。その指の先が、妖しく光ったかと思いきや――

 いや――――駄目だ。思い出そうとした瞬間にまた頭の中がぐちゃぐちゃになりそうになった。もとより、この世界は常識では片付けられないものしか存在しない。何をされたかなどどうだっていい、重要なのは、私は――

 

 通路を徘徊する看護師を、ちらと見る。

 あれに指を指されれば、私は死ぬ。ということだ。

 

 ……レバーを下ろしたのが、原因か?

 人の気配のひとつもなかった病棟内は、今や無数の看護師たちが徘徊する魔窟と化した。あれらに見つからぬよう、或いは目を合わせぬよう、今から私は姿を隠しながら進む外無い。

 篝火を見つめながら、一度帰還すべきかとも思ったが――いや、ここには私を呼びつけるものがいる。それに会うまでは逃げるわけにもいくまいと、私は膝を押して立ち上がった。

 ……胡椒がもつだろうか。体に振り撒き、姿を消して、うろつく看護師達が外の紳士ほど鼻は効かぬであろうことを祈りながら、重い足を動かしてどうにか私は先に進んだ。

 

 

 行き止まりであった筈の通路の奥に、扉が出来ている。

 

 進まなくては。

 

 あの子が、呼んでいる。

 

 

 並び立つトゥイードルダムとトゥイードルディの微笑みに、私も微笑み返した。

 二人の横を通りすぎるころにはもう居なかった。

 

 

 

 *

 

 

 

 頭の中の痒みがとれない。頭の中の音が止まない。

 治療を施されたばかりでろくに寝てもいないせいか、著しく整わない息と指先に痺れをきらす。壁の上を歩きながら横を見ると、無数の顔のない患者たちが私を見上げていた。

 身体検査でもやっているのか?性器のない人間は楽でいいな。私は薄膜一枚を守り通すのに何百回と死ぬ羽目になった。自業自得な死に様も中にはあったが。知ってるか?私はな、その気になれば神様だって殴り殺せたんだぜ。顔のない患者は顔のないまま私を見上げる。本当なんだ。信じてくれるひとはみんな居なくなったけど。

 

 堂々巡る思考に身を任せて進んでみたが、これ以上いくと戻って来れなさそうだ。ずぶずぶと狂気に浸かる前に処方薬を噛み砕いて飲み込んだ。今度は喉を傷つけないよう慎重に。

 苦いかと思ったら味すらしない。白いだけじゃなくしっかり無味だ。よく出来ている。不味い。

 扉の先にも顔のない患者は大勢居たが、処方薬を飲み込んでまばたきをひとつするだけでみんな消え失せた。やはり幻覚だったらしい。分かれ道の横に扉をひとつを見つけ、開け放った瞬間、美しい鼻歌が聞こえた。頭の中で歯車がぎぢぎぢと鳴った。

 

 胡椒をまいて、姿を隠す。どうか、見つかりませんように。

 乱雑に並んだベッドの下に光るものを見つけた。手を伸ばしてそれを手に取ってみる。なんだろう?

 長い。棒か?いや、剣だ。武器だ。ありがたい、そう思って拾い上げ、て、みつめ、

 

 

 「…………………………」

 

 

 

 え?

 

 

 ――。

 

 なんで――これが、ここにある?

 

 

 『んんん――ん、んん――ん、んん……んんん』

 

 

 手に、取って。じっと、見つめる。

 渦巻く竜巻のような螺旋の刀身は、かつて振るったものと全く同じだった。世に二つとない特徴的なこの形状を、忘れるはずもない。

 嵐を統べ、意のままに操ることを可能とする嵐の王。それが何故……こんなところに?

 

 『んんん――ん……んんん…………んんん』

 

 白い牢獄。収監されている患者達。

 連中はみんな、自分がおとぎ話の主役だと思っていやがる――

 ――――そうなのか?

 彼女たちは、みんなおとぎ話の主役と――そう思い込んでいただけの精神病質患者だったと?

 ならば私の戦いはなんだ?すべてが頭の歯車を狂わせたが故にみた気を違えた泡沫の夢だったと?

 いや。そんなことはない。そんなはずはない。そんな結末、信じたくもない。私は確かに戦ったんだ、これを、この剣を振るって――

 

 

 『しんじていたのに』

 

 

 ともだちを

 手に、かけた。

 

 …………。

 

 鼻歌が止む。

 貴婦人は、その長い背を折り曲げて私を覗きこんでいた。

 

 ……。

 これは。あなたの、ものなのか?

 

 そう問いかけるよりも早く。貴婦人は私に向かって、その顔を歪

 

 

 

 *

 

 

 ――――……。

 

 

 ……ああ。

 また、やり直しか。

 

 

 

 *

 

 

 死ぬ度に胸の奥に消えない擦り傷が出来るようだ。

 酷く痛むが、体は動く。呼び声には、応えなくては。白い。白い壁に、私の心が吸い尽されるようだ。

 いくつも扉が並ぶこの通路は、その扉の全てがわけのわからない道筋で別の部屋に繋がっている。戻ろうと思って、今しがたくぐった扉をくぐり直しても、その先がまた別の部屋に繋がっている。幸い規則性はあるようなのだが、今の私の頭ではそれを把握しきることがひどく困難だ。延々とループを繰り返す部屋と部屋とを行き来する。その果てに――

 

 

 ――長い、通路に出た。

 

 

 歩き、歩き、歩き、進み。案の定行き止まりだったそこを引き返し、歩き、歩き、歩き。

 歩き、歩き、歩き、戻り。案の定帰る道などなく、そこを引き返し、歩き、歩き、歩き

 

 

 「…………ああ」

 

 今度は――お前か。

 

 血に濡れたマネキンの横に、乱雑に置かれた機関銃を持ち上げる。

 無知な王子は牢の鍵を開けてしまった。鮮やかな長い金髪を持つはずの王子は、三本足の馬にまたがることもなく、また魔法にかけられ山男にされた王でもない大量殺戮兵器を起動してしまった。

 懐かしい。ひどく、懐かしい。そうだ、彼にもずいぶんと世話になった。非力な私でも、火薬と弾薬さえ詰め込めばこの機関銃は私の辛苦ごと敵を一掃してくれたから。これが夢か現かなどどうでもいい。ただ今は――

 この胸の内にわずかに残る想い出に、浸っていたかった。

 それだけが唯一、私が私を私だと確かめることが出来る行いだった。

 

 

 *

 

 

 精神病棟に足を運んで、どれほど経っただろう。

 それほど時間は経っていないだろうが、時の流れを知るものが無い以上、ひどく間延びする体感時間だけが時を知る方法となる。それによれば、数日は彷徨っているように思う。

 

 文字が、読みたい。そう思い、看護師の目を盗んで本棚を漁る。一冊、また綺麗な本を見つけた。これも日記のようだ。

 

 「……先日入院して来たあの子……竜巻で家が吹き飛ばされちゃったみたい……帰る家も、両親も失っちゃって……可哀想に」

 

 久方ぶりに自分の声を聞いた。

 

 「あの子は、夜になってもめそめそ泣いている……。主治医から、『他の患者の迷惑になるから泣き止ませろ』と無茶な指示があった。クソ無能ロリコンハゲ、地獄に堕ちろ」

 

 病棟故、仕方のないことだろうが……ここの職員はよほどストレスに悩まされていたらしい。

 

 「あの子に童話を与えてみたら、少しだけ笑顔を見せるようになった。名前は」

 

 ……。

 

 ――ドロ……シー…………?

 

 「………………。ドロシーは……見えない友達と、遊ぶようになった。ライオンと、案山子と、ブリキを、連れて……魔女をやっつける、とか……。……もう、ひとりでも――」

 

 ……何だ。

 何なんだ、ここは。

 どうして、こうも――私の、ただひとつの綺麗な想い出さえも、土足で踏み荒らす?

 ドロシーは相変わらず自分の世界に入っている。

 最近では最高の弟子が出来たとはしゃいでおり毎日弟子の話をしてくる。

 「本当に弟子が大好きなのね」とからかうと、満面の笑顔で元気いっぱい頷いてくれた。

 ドロシーが消えた。

 脱走したと推測されるがその痕跡は見つからない。

 あの子は本当におとぎ話の世界へ

 

 

 ――――っっ

 

 

 思わず、日記を投げ捨てた。

 ばたん、ばさり、という音に看護師が気付く。渦を巻くようなその顔がぴたりと合う。

 ゆっくりと持ち上げられる指先を視界に捉えないように下を向いて走った。来た道を戻った。くぐった扉を、もう一度――開け放った。

 

 

 「……――っ…………――――ッ」

 

 

 肩で息をしながら、読み取った情報を忘れようと必死で頭を振って髪を乱す。

 なんで。なんで、名前すらも同じなんだ。ライオンとカカシとブリキだと?そうだろうよ、彼らも彼女の弟子だからな、よく知っているよ私が殺したんだからッッ

 

 長いスカートを握りしめて皺を作り、食いしばって軋ませた歯をどうにか開けて――処方薬を投げ込んだ。噛み砕いて飲み込むと、いくらかマシにはなった。

 ……狂っていただけだった。おとぎ話なんてそんなものじゃないか。みんな夢を見て、本を閉じて裏表紙を目にして現実に戻るんだ。だからここは裏表紙だ。私が居るここは、私が過ごしたあそこの裏表紙なんだ。

 

 ……ああ、畜生。

 そうなら……また、戻らせてよ。閉じた裏表紙を、裏返して表に戻す方法を誰か教えてよ。

 

 目覚めと夢見は不可逆だ。知っている。優しい夢は……もう、終わったんだ。足下の壁と目の前の床を見つめ、ここに自分がいることにひどく安堵する。私はここにいるべきだと、そう言い聞かされているようだ。

 背後の扉に手をかける。通路の先にはまた別の扉がある。多分、あれが次のフロアに進むための扉なんだろう――そうなら準備をして戻らなければ。扉の迷路の解答は、すでに頭の中に入っているから。歩いて、篝火まで戻ろうと扉を開けた、時だった。

 

 

 

 「…………――――――――ぁ」

 

 

 

 ………………この病棟は。

 

 

 どれほど、人の心を蝕めば気が済むのだろう。

 

 

 *

 

 

 『お師匠さま!』

 

 

 『んあ……あ!?お前っ……なんだ、その恰好!?泥だらけじゃねえか……!?』

 

 『えへへ……カカシをやっつけるときに転んでしまって……。でも大丈夫、脳みそ取られませんでしたから、二回しか』

 

 『そうか……ぃや、二回取られたんだな??……よくもまあ、そこまで気丈に振る舞えるもんだよ。大したもんだ……それで』

 

 『はい。……臆病なライオンも、心失くしのブリキも、知恵遅れの案山子も。みんな、殺してきました』

 

 

 『……。よくやった。修行とこじつけたが……頼んだのは、暗殺だったな』

 

 

 そう言って、魔女は少女の艶やかな青碧の髪をさらさらと撫でた。

 人に頭を撫でられるのははじめてだったから、とても心地よかったことを覚えている。

 

 

 『わたしは課された責務を果たしただけです。それ以上は……聞きません』

 

 『そうか。……俺の責任を押し付けてすまなかったな。とりあえずあれだ、お前にはご褒美をやらんとな』

 

  

 そう言って彼女は重たい腰をあげようとして――いや、とぴたり体を止める。

 

 

 『お前、名前はなんて言ったっけ?』

 

 『え?あ……ええと。…………、【グリム】。【グリム】って言います』

 

 『じゃあ、【グリム】。お前、真っ当なのとエッチなの、褒美はどっちがいい』

 

 『え?あ、え?は?いや……真っ当な方で』

 

 『そうか……俺も今はこんなナリだが、元は男でな』

 

 

 『やぶさかじゃないんだが?』

 

 『真っ当な方でお願いします』

 

 

 結局、褒美にはお古の杖と共鳴召喚魔術を授かることになった。

 共に戦うはじめての仲間であり、慕える師が出来たことはこの上なく喜ばしかった。

 先に聖森に帰っている――そう言ってすたすたと先に行ってしまう師の背中を追い、一緒に帰りましょうっ、と手を繋ごうとして腕を伸ばし、振り返った師が仕方ないなとその手を握ってくれた。

 

 二階から降りて、共に家を出る二人の背を見送る。

 

 ぼろぼろな家だ。主に使っているのは二階部分で、一階部分はずっと放置されてきたんだろう。もしも私が住み込みで弟子として働いていたら、喜々として掃除を行っただろうに。

 ……やっておきたかったが、その前に猫に住みつかれてしまったんだったな。

 

 二度、深呼吸をして、止まった足を動かした。私の心がこの家に閉じ込められる前に、早々にここを出よう。玄関口へ立って、扉に手を伸ばした――

 

 

 

 「なんだ……もう行くのか?」

 

 

 

 ――。

 

 何かが聞こえたような気がした。

 

 幻聴か。あとでまた、処方薬を飲んでおこう。

 

 

 「つれねえなぁ……たまには一緒に飲まないか?昼間から飲む酒も、たまには悪かねえぞ」

 

 

 ……。

 ぎり。

 手に取った鋸の刃先が床を削り、そんな音がした。

 

 ゆっくりと、後ろを振り返り――構える。

 

 「お前のその顔も、ほろ酔いになれば少しは腑抜けて可愛げが出来るんじゃないか?くくっ……」

 

 想い出と、何も変わらないままの笑顔で歯を見せる彼女に、私は刃を向ける。

 偉大な恩師がそこに居た。椅子に腰かけ、机に酒瓶を並べて、すこしだけ赤らんだ顔を私に向けていた。

 ぼさぼさの髪も、じとりとした目つきも、その恰好も。何一つ、変わらないままだった。

 

 「……。いいから早く――――」

 

 いい加減にしろ。

 そう吐き捨てて彼女を睨む。

 

 「…………」

 

 お前がどこの何で、何のためにこんなことをしているのかは知らない。

 そんなことはすべからくどうだっていい。だがこれ以上、私の想い出を踏み荒らさせるわけにはいかない。

 

 この幻を消さぬというのなら。

 私は今すぐにでもお前の首を跳ね飛ばすつもりだ。

 だから失せろ。今すぐに、私の目の前からこの家ごと消えろ。

 その顔で、その体で、その声で、それ以上喋るな。それ以上――

 

 ――私の師を愚弄してくれるなッ!!!

 

 

 「……だよなぁ」

 

 

 師を模った何者かは、ゆっくりと立ち上がり、こちらに向けて歩き出した。

 ――敵意は感じなかった。私はそれに、これ以上ない程の憎悪を剥き出しにする。

 ――殺意も感じなかった。鋸を握る手に力が篭もる。今すぐにでも殺せと理性が命じて体が震える。

 

 「すまんな。少し……意地悪した」

 

 ――それを恨めしく想うことが出来なかった。だとしてもと食いしばった歯が浮いて鳴る。

 ――それを懐かしく想うことしか出来なかった。体中に満ちた熱がどこかから抜け出た。

 

 「そうだ、殺せ。それが正しい。死んだことにさえ気づけない哀れな死者はな、何度だって殺してやればいい。そいつが自分の死に気付くまで、何度でも、何度でも首をはねてやれ」

 

 ――――師は、私から少し離れたところで私を見下ろし。

 とん、とんと自分の首を指先で叩く。

 

 「ここだ。ここを裂けば、それで終わる。だから」

 

 

 

 「――こっちに来て、刃をかけろ」

 

 

 

 ――ああ。

 そのやり口を、知っている。

 

 その厭らしいやり口を知っている。そのわざとらしいやり口を知っている。

 その卑怯なやり口を――――――知っている…………。

 

 

 

 がらん――がら――り。

 

 熱と一緒に力も抜け出て、手から滑り落ちた鋸は床を跳ね回って音を鳴らした。

 その内に膝を立てていることも出来なくなった。両の膝をついて、うなだれて、震えながら静かに首を横に振った。

 

 「……。死者のために何かしてやれるなら――」

 

 そこに居るのは。

 そこに居るのは――

 

 ――彼女を呼んだのは

 彼女を、呼んでしまったのは

 

 「祈りより忘却の方が、気持ち的には助かる」

 

 ああ。

 …………。

 

 ごめんなさい――そう言おうとして、涙に焼けた喉で言葉が詰まった。

 何か。何かを言おうとした。その何もかもが喉で詰まって反芻し、嗚咽だけが口からこぼれ出た。

 

 「お前は立派な弟子だから」

 

 違う。そんな、ことは、無い。

 だって。私は、ひとりじゃ何も出来ないんだ。みんなが居なくちゃ、何も出来ないんだ。

 だから私には何も出来なかった。みんな、居なくなって――何も、出来なかった。

 

 

 霧が

 

 霧が晴れないんだ

 

 ずっと。立ちふさがる敵を何もかも屠り尽くしても

 志を共にする仲間も友達も何もかも殺し尽くしても

 

 私に、終わりは、

 やって、来ないんだ

 

 

 「なぁ――――『     』」

 

 

 師は、いつかのように、私の髪をさらさらと撫でた。

 酷く懐かしかった。その暖かみをいつだろうと求めていた。

 

 

 「俺がいなくても、生きていけるだろ?」

 

 

 無理だ。

 

 涙に焼けた喉から、ようやく絞り出せた言葉はそれだった。

 

 

 「……そう言うなよ。冗談でも平気だって言うところだぞ?」

 

 解ってる。わかっているけれど。

 その言葉がどれほど師の心を楽にしてやれるのか、わからない私じゃないけれど、それでも

 その意も、込めて

 

 無理――なんだ

 

 頭に感じる暖かみが失せていく。

 髪を通る指先の感触は、やがて冷たい雨となって流れていく。

 

 

 「――じゃあな、馬鹿弟子。心が折れても、諦めるんじゃねえぞ」

 

 

 頬を伝う液体は、降りしきる豪雨に濡れて雨なのか涙なのかの区別も曖昧になった。

 風に吹かれ、雨に打たれ、感じていた暖かさは夢想の彼方、悠遠の中で縹渺へと変わった。

 

 俺が、そうしたように

 

 砕け散った瓦礫たちの中、かすかに声が聞こえた。

 

 

 立ち上がり、胸の中に残った一冊の童話を抱きしめて、私はその場を後にする。

 瓦礫の向こうに道は無い。だから、私が行くべきところはここじゃない。

 

 来た道を戻る途中で、あの処方薬を取り出す。残るは九十日分程度だろうか。あの患者たちに渡せばこぞって貪るだろう、そんなことをふと考えながら――

 私はその処方薬が詰まった袋を、崖の向こうへと投げ捨てた。

 もう、必要あるまい。

 

 

 *

 

 

 

 じ――――じじ――――じじじ

 

 

 じじ――じ――――じ――――じじ

 

 

 「ぁ……ぉねェ、ちゃん」

 

 

 じじじじ、じじ、じ

 じ、じじ、じじじ

 

 

 「ェへ。来て、くぇたンだ。ね」

 

 

 じ、じ、じ、じ、じ、じ

 

 

 霧の向こうから聞こえる声に、ああ、そうだと返事をする。

 その横に浮かぶ一冊の本を取り、開き、左手に持ちながら――霧の向こうへ足を運ぶ。

 

 

 「ォはなし。よんで、クれぅ、約束、でしョ」

 

 「ぅわたしより、好かれて。わたしより長生きして」

 

 「たくさん、おはなし、知ってる、もんね」

 

 

 顔も名前も知らぬ妹らしきその者に、ああ、読んであげると答える。

 ぴったりのお話があるんだ。あなたに聞かせるのに、ぴったりのお話が。

 

 「ホント?楽しみ!聞かせて、聞かせて!聞かせて!聞かせて、聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて聞かせて

 

 

 

 

   聞かせろ」

 

 

 鈍色の大鷲が両の翼を広げ、飛び立つ。

 

 右の腕に抱えた機関銃の銃口を向け、ああ、聞かせてやるともとその瞳を見つめ返す。

 その為に呼んだんだろう?私もその為に来たんだよ、イーディス。お互い羽を広げて、気の済むまで遊ぼう。

 

 かかって来い。

 

 ――童話のタイトルは

 

 

 

 「きぃりりりりりりりりゅるるりりりりりりししぅぃぃぃぁぁぁぁあぁぁあああああああああああぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!!!!」

 

 

 

    『鉄のハンス』

 

 

 

 

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