「ん――?お前……」
つい先程まで脱力して眠たげな顔をしていた彼女が、私の抱きかかえている童話を見て、ぱっちりと目を開いた。
「これですか?」
「ああ。その本、少し見せてみろ」
私から本を受け取り、開いてぱらぱらとページを捲るドロシー。
流れるような動きで次々と内容を読んでいくその凛とした顔が、彼女の本来の顔なのであろうことがわたしにもなんとなく知れた。
「……子供向けの童話に見えるが、これは……召喚魔術の本だな。俺にも唱えられない魔術だ」
「あなたにも――唱えられない、魔術が?」
「なんだ?初対面の魔女をずいぶんと買うじゃないか……それなりには、な。大半は修める必要がないと判断したものだがね」
無用な知識まで入れておく必要はない、ということだろうか。
ぱたん、と本を閉じ、ドロシーは本を差し出した。わたしはそれを慎重に受け取り、同じようにぱらぱらとページを捲ってみた。
確かに……文面は、子供向けの童話に思える。……だが……
「召喚された者は一度倒されるとこの本へと還る。魔獣を召喚獣として扱うなんて聞いたことがないが――?」
その文面から、何かを感じた。
いや――文面からではない。文章を読むことで、その奥にある何かに触れている、そんな気がした。
「おい……どうした?」
「……――――……――――――…………」
物語を読み解けば読み解くほど、何かはわたしと深く繋がっていく。
その者が歩んだ歴史。その者が生きた世界。その者が感じた思い。その者がたどり着いた結末――
同調し、この世界に存在している「わたし」を媒介に、何かは自分の存在を強く主張し始めた。
「お前――まさか」
……そう……そうだ。
あなたの――――名前は
「――――――ぇ」
「むっっ」
「……。」
……。
その者の名前を呼んで――しまい、かけた口を、ドロシーの手に塞がれる。
「む……むぐ……もご……」
「……驚いたな。タマゴくらいには魔術の素養があるとは踏んでたが、まさか……召喚魔術の才能までありやがるとは」
「ん……んー。んーーっ!!?」
「その本はお前が持っておけ。いざって時に使うといい……間違っても、人の家で魔獣なんか召喚するなよ?」
「ぷぁっ……は……はい。気を……つけます」
ようやくドロシーの手が離れて、口が自由になる。うっかり名前を口にして、召喚を成功させてしまっていたら――
――また、あの双子と戦う羽目になったんだろうか?
「それでいい。……そら、用がなくなったんならとっとと行きな。それとも……まだ、何か?」
「……。あの」
召喚魔術について。知っている限りの知識を教えて下さいませんか。
――そう願い出て、私は彼女に弟子入りすることを選んだ。
*
この隔離された巨大な病室で、彼女がどれほどの時を過ごしたのかはわからない。
人ならざる魔獣に変わり果てた彼女を、迎えに来る者も介錯してやれる者も、未来永劫この世界には現れぬのだろう。
彼女はもしかしたら、永劫に近い時間をこの病室で過ごしてきたのかもしれない。
たったひとりで。飛べる翼がありながら、飛べる空を与えられぬまま。
その彼女の領域へ、私は足を踏み入れ――
ひりつく空気を裂くように、一冊の本を用いて召喚魔術を行使した。
鈍色の大鷲は狂ったように叫びながら、私の元へ鈍く光る嘴と爪を向けて飛来する。その攻撃を受け止めたのは――
『全テヲ抹消スル』
重低音を轟かせながら召喚された、鋼鉄の体を持つ魔獣。私を媒介にこの世界へと呼び出された鉄のハンスが、無機質な声を病室に響かせながら駆動を開始した。
大鷲は四本の足をばたつかせ、ハンスの体に爪を立てるものの、傷をつけるには至らない。
叫びながらばたつく大鷲の腹部へ、充填が完了したハンスの主砲が反撃と言わんばかりに放たれた。
『メガフレア』
その瞬間、隔離病室の冷たい床と壁と空気が一瞬にして高熱にさらされた。轟き渡る爆発音が体の底を揺らし、一帯につんざく大鷲の悲鳴が耳の奥にまで貫いて頭の中を掻き乱す。私はその悲鳴と轟音を聞きながら、右腕に機関銃を抱えて跳び上がり、今だ震動を残す病室の中でハンスの体の上へと登った。どす黒い病室の床へ叩き付けられた大鷲の肉体に高所から狙いをつけ、銃口から豪雨のように放たれる弾丸のすべてを叩き込む。
「ぃぃぃぃぎぃるるるるるいぁぁあぢぢぁぁあぁぁアアアアアアアアアアアッッ!!!!!ぃぃぃぎぁあぁあああああああああああああァアァァァアァぁあああああああッッ!!!!!!」
腹部からおびただしい程の血を噴き上げながら、叫び声をあげてのたうち回る大鷲。頭から首にかけて生えた金色の体毛が、自身の血液で赤黒く染まっていく。無数の舌のようなものを嘴の中から蠢かせながら、それでもその眼は私を見ていた。
この程度では片付かない。あれの殺意も敵意も未だ健在だ。銃弾も火薬も未だ残ってはいるが、長らく放置されていたらしい機関銃はたった一度の射撃で過度な熱を持ち、その砲身を赤く光らせた。このまま撃ち続けては故障は愚か腔発の恐れすらある――そう判断し、機関銃を投げ捨てて剣に持ち変える。
ハンスもまた、続けざまに主砲を放つことは出来ない。放った直後は必ず隙を生む――そのハンスの隙を突く形で、大鷲は血を流しながらも翼をはためかせ、一直線に私に向かって飛びかかった。
――高く掲げた嵐の王が、風を纏う。
剣の先へ集った風は渦を巻き、巨大な刃を作り出し――大鷲が私の顔面に食らいつかんとする、その直前。
「――――はぁぁぁぁあああああッッ!!!!」
彼女がそうしたように私も叫び、集った嵐ごと剣を振り下ろし、その体へ叩き付けた。
乱れた気流は大鷲の体を傷つけながら回転させ、千切れ飛んだ羽の数々が宙を舞う。吹き荒れる風の中心に飲み込まれた大鷲の体は、激しく暴れまわりながら壁に叩き付けられ――恰好の的となったそれに、充填を完了させたハンスが再び主砲を撃ち放った。
場に残る風に主砲の熱が篭もり、吹き荒れる熱風に思わず両腕で顔を覆う。……敵として戦っていた頃から知っていたが、こいつは本当に容赦が無い。両腕の隙間から垣間見えた大鷲の姿は、長い首をぐったりと折り、大きく広げた両の翼もろとも壁にへばりついている……生命力の欠片も感じさせない様子だった。
流石に――事切れたことだろう。
「はぁ――はぁっ…………はぁ……はぁっ…………」
ハンスの召喚、機関銃を背負っての跳躍、射撃……そして嵐の王の行使と、連続して体力も精神力も消耗しきった私は、そのままハンスの体の上で両膝をついた。出せる限りの全力を出し切り、どうにか勝利をもぎ取った。大鷲の攻撃を一撃でも許していたら、それだけで敗北は決定的だったことだろう。桁外れの素早さと殺意に満ちた獣性は、そう確信させるに相応しかった。
乱れた呼吸を整える最中。駆動音を止ませぬハンスが一言、呟くように言った。
『標的ノ生命反応、未ダ健在』
………………
何?
『標的ハ興奮状態ニアル。直チニ生命ヲ――』
両腕の隙間から見えていたはずの、大鷲の姿が見当たらない。
病室の壁に大きな窪みと、無数の羽根を残し――その姿を消していた。
――――何処だ?何処に――消え
「………………――――ッッ」
耳鳴りのような、持続する一音が――段々と音量を増す。
小さかった高音はやがて大きな低音となり、それが単なる音ではなく、叫び声であることを知らしめた。
同時に。
「――――ぎぃぃぃぃぃぃぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!」
音は頭上から聞こえていると気づかされ。
上を向いた瞬間には――既に、大鷲の爪が振り下ろされている最中だった。
重力により加速し、速度と共に重みを増した大鷲の爪は、直撃の刹那に僅かに体をそらした私の左腕を容易く斬り飛ばし、その向こう側にあるハンスの体をも貫き――浮遊していたハンスを病室の床に沈み込ませる程強く叩き付けた。
斬り飛ばされた傷口から血液が吹き出て、正気を失わせるほどの痛みと喪失感が瞬時に襲い来る。失いかけた気をどうにか保ち、切創から激しく放電するハンスから咄嗟に跳び下り――病室の床を転がる。強すぎる痛みに思考も呼吸も出来ない。その私の耳には、ぶつ切れるハンスの低い声だけが届いた。
『耐久……性……下降……機体、維持……不可――――戦闘続行……不可……能』
『エラー、エラー……え――る…………ぁ』
声が途切れる、その瞬間――ハンスの体は爆発、四散し――その爆風に乗ってか、大鷲は再び高く飛び上がった。
爆風に流されて、私の体もわずかに転がる。転がりながら、残った右腕を伸ばした先……指の先に、何かが触れた。
病室にまた高音が響き渡る。高音は段々と低くなり、鈍く震える悲鳴に変わる。
暗く高い、あるかどうかも不明瞭な天井から、きらりと光る大鷲の目と嘴と爪が見える。
――ああ……矢っ張り
こう、なる、んだ…………な。
左腕があった部分から多量の血が流れ、霧に包まれたような思考がぼんやりと浮かぶ。
どれだけ戦いを重ねようが、私の体は所詮、十五もそこらの少女に過ぎない。脆く、弱く、壊れやすくて朽ちやすい。そしていつだろうと、訪れる死が怖くてたまらない。そんなに死にやすいくせをして、何度も何度も経験させられる死が、恐ろしくてたまらない。
大鷲が迫る。鈍色が迫る。イーディスが――迫る。
魔獣化した連中はみんな、衝動に突き動かされて暴れるばかりだ。それは私も同じだった。
奴等が何かを殺したい衝動に突き動かされ続けるように、私もまた――
――死にたくないという衝動に、いつまでも突き動かされ続けてきた。
懐から一本の輸血薬を取り出し、それを腿に突き刺す。巡る血液と甦る激痛が、私に明瞭な意識と正気を取り戻させた。
先程指の先に触れたものをどうにか必死で手繰り寄せ、抱き留めて形を確認し――それが、今しがた投げ捨てたハンスの機関銃であることを確かめる。
飛来する大鷲が空を裂く音を聞きながら銃口を立て、狙いを定めることも必要とせず、私は寝転がった体勢のまま――
――炎熱とともに噴き出される鉛弾の豪雨を、地上から空に向けて撃ち放った。
大鷲が、銃弾を喰らう。大きく開かれていた口の中へ飛び込んで来たそれらを、血反吐を噴き散らしながらそれでも喰らう。体内で捻じれた無数の銃弾は、大鷲の体のありとあらゆる部分を貫き通り――その肉を四方八方へ散らし続ける。やがて大鷲は、全身から血を流しながらきりもみ回転を始め……私の横へ、べしゃりと音を立てて力無く落下した。
そのあたりで、失くした左腕の痛みと喪失感がようやく麻痺し始めて、私はようやく立ち上がれた。
赤熱する銃身部分に触れないよう、慎重に機関銃を置き……
右手に、獣狩りの鋸を取る。
「……ぉ…………ねェ…………ぢゃぁぁぁ…………ん…………」
イーディスはまだ生きていた。
それでも、じきに事切れることは明らかだった。
私は彼女の長い首に刃をたてる。
「イダぃ…………いだィ……よぉぉ………………ぉ……ね……ェぢゃあ……」
そうだろうね。
でも、もう大丈夫だよ、イーディス。
もう苦しまなくていいの。もう悲しまなくていいの。
「お……ねぇ……ちゃん…………?」
だって、ここには
――あなたのお姉ちゃんなんて、居ないから。
「ぎぁっっっ」
大鷲の首を裂く。
あれだけ出血したというのに、体内にはまだ血液が残っていたようで、裂けた頸動脈から溢れんばかりの血が噴き出した。
その血に濡れないように死体から離れ、飛ばされた左腕のもとへ向かい、その途中でハーブ瓶の中身を口に含み――
拾い上げた左腕を傷口にくっつけて、口に含んでおいたそれを接合部分に吹き掛けた。
「……ぃ……っづ…………、…………」
癒着する瞬間もじんわりと痛んだが、やがて痛みは消えていき、左手の指先に感覚が戻った。
握り、開きを繰り返し、問題なく動くことを確認し、振り返って死体の様子を見る。もうぴくりとも動かなかった。
「…………?」
羽が抜け落ちた左の翼で、何かがきらりと光った。
羽のない翼の根は、まるで人の腕のようになっていて――その、指?……のような部分に、指輪がはめられている。私はそれをそっと引き抜いて、手に乗せて観察した。
何の変哲もない指輪だったが、何故か、どこか――妙に心惹かれるものがあった。
私は、その指輪を懐に仕舞い
骨粉を撒いて、精神病棟を後にした。
…………願わくば、二度と来る事のないよう。祈る相手は居なくとも、そう心に想わざるを得なかった。
*
図書室の夢で暫くノーデの耳を弄び、心を癒した後に再びラドウィッジ市街を訪れた。
バグパイプ……ともコンサーティーナとも違う、だがどこかで聞き覚えのある、街に流れている音楽の音色を聴きながら迷路のような道を行く。殺したはずの紳士たちもすっかり元通りで、元気そうにまたたむろしていた。
シロクマに頼み、修繕してもらったばかりの機関銃を唸らせ、彼らを人間から肉の塊へと昇華させていく。上空から私を狙いに来る鴉たちの相手は集わせた嵐たちに任せた。
精神病棟で得たこのふたつの武装は、記憶にあるように強力無比な代物だ。だが相応に代償というか燃費は悪く、機関銃はシロクマに頼まねば弾薬を補充できないし、ストームルーラーは一撃を放つ度に結構な量の精神力をもっていかれる。どちらもおいそれと使えるものではない。主な武装はやはり――鋸になりそうだ。
街の中を散策している内に、酒場の看板を見つける。チャールズ、という名前の店のようだ。
店の前を這っていた全裸の女を片手間に撃ち殺し、店の戸を開ける。一瞬、鼻が曲がりそうになるほどの腐臭がしたが――開いて中を見てみれば、店の中は外よりは幾分かマシな雰囲気で満ちていた。
「はぁい、いらっしゃ――…………!?」
来客に反応したバニーガールがくるりと振り向いたかと思いきや、その笑顔は途端に強張った。
特に気に留めることもなく、私はすたすたと店に入り、カウンター席に腰かける。何にしますか、と片言な言葉で問いかけてきた店主らしき異形に、とりあえず飲めるもの、という注文をした。
「ぁ……あなた、ど、どこの子……かしら?その恰好……もしかして、お城の方から……?」
バニーガールはおずおずとした様子で私の身なりを訝しんだ。
そんな彼女に私は、帰る家が無いので旅をしていると正直に答える。バニーガールはいっそう目を丸くして、口をぱっくりと開けたまま停止してしまった。
異形の店主は手慣れた動作で私の前に木製のカップを置く。中にはなみなみと……よくわからない液体が入っていた。
「娼婦の子供かしら……いや、でも、外をうろつけるわけがないし、ドレスなんて誰も――」
バニーガールは相変わらず混乱している様子だった。情報交換にうってつけと聞いてきたが、客は皆食事や会話に勤しんでいる。今のところ会話が出来そうな者はいない。
唯一話が通じそうなのは彼女くらいだが、どこから来たのかと聞かれて、夢だともロストエンパイアだとも答えるわけにはいかないし……かと言って精神病棟から戻ってきたなんて言うわけにもいくまい。カップの中の液体を揺らして暫く弄んでいたが、ひとまず、地理について問うてみようと思い至り、私は口を開く。
「え……?あ……ええ。……ここから橋を渡れば、大聖堂とお城に繋がってるわ。街の東側、娼婦館の通りには霧の公園があって、公園から市街の上層に上がれる……けれど。…………。」
成程。……さて、どこへ向かうべきか。個人的な興味としては、霧の公園とやらに赴いてみたいものだが……
カップを口に運びながら、私はここに来てから再三勘違いを受けるアリスという少女について聞いてみッッ
「ぁ、ちょっとっ、それはお酒――」
不っっ味ッッッ!!!?!?!?!?!!!??
「げほっ!!?げほっ、ごほっ!!ごほっ、げふっ、えふっ、けふっ!!」
「わ、わぁあもうっ!?だから言ったのに……ウチじゃああなたが飲めるようなものは出せないわよ!?大丈夫!?」
思わずせき込み、背中をバニーガールにさすられる、いや、なんだこのミードはッ、不味いなんてもんじゃない、こんなもの飲み下したら頭がどうにかなる……っっ!!
口の中にわずかに残った水滴ですら不味過ぎて喉を通せない、唾と一緒に吐き出していたら涙が浮かんできた……
「大丈夫……?お嬢ちゃん、落ち着いた?……それで何だったかしら、ええと……アリス、のこと?」
……そう、アリス。みんな、私のことをそう呼ぶんだ。彼女について、何か知らないか……?
「……そうね。お嬢ちゃんはあの子によく似てるわ。アリスなら、橋の向こうへ走り去っていくのを見たって人が居たけれど――でも」
橋の向こう、か。……大聖堂と城があると言うが、どちらに向かったのか。
「さあ……そこまでは。……お嬢ちゃんは……アリスの」
いや。血縁者でもなければ知り合いでもない。向こうも私の顔は知らないだろうし、私もそんな人間と会ったことは無い。……血縁者と思わしき魔獣は、殺したばかりだが。
しかし、成程。やはりアリスは実在の少女だったらしい。そして橋の向こうへ行ったと……聞けてよかった。
酒代のソウルを店主に渡して、残った酒は隣のバッタに譲った。席を立って、バニーガールに礼を言う。
「あ、ぁりがとうって……あなた、一体どこへ行くつもりなの?外は危険よ、あなたのような女の子が出歩いちゃっ――」
アリスを追いかけてみることにする。
ここが本当に不思議の国と言うなら、そのアリスが何かしらの鍵を握っていることに違いあるまい。
「っそれこそ無茶よ!!今、ドジソン橋には危険な魔獣が――っ」
――短銃に弾をこめ直し、獣狩りの鋸を担いで、外に出る用意を済ませる。
魔獣なら何度も狩った。私の命など、あなたが気にするようなことでもない。
アリスが行ったんだ、私が行けない理由もないだろう。ドレス姿の少女が、銃と身の丈の半分ほどもある鋸を手にしている姿を見て、バニーガールはようやく私に感じていた違和が消えたらしい。
「………… ……狩人さん……だった……のね」
そうだよ。
もう、ずっと前から。
扉を開けようとして、取っ手に触れた――時。
「ま
ま 」
………………。
何かに呼ばれたような気がした。
……。
気が……した、だけだ。
そう結論付けて、足早に店を出た。
*
霧の公園とはどんなところなんだろう?
霧。その言葉に私は呪われているのかいないのか、妙に気にかかってしまっていた。
橋へ行く道は頭に入れたが、すぐさま向かおうとはせず、折角だから街の東側も探索しておこうと思い、肉塊と化した紳士たちのいる交差点を東に進む。鉄格子の扉を万能鍵で開けて絞首台の広場を進み、這いまわる乞食の女とそれを犯す紳士を横目に階段を下りる。交差点から東にまっすぐ進んだ先にも広場はあったが、そこらを歩く肉膨れた連中とはまるで違う巨躯の男が遠方から私を見ていたので、その方向へ進むことは取りやめた。
相も変わらず乞食と紳士でいっぱいだ。中には延々と交わり合う者もいた。
娼館通りをどうにか切り抜け、トンネルを抜けた先。
「おや?」
私はそこで、鷲獅子の騎士に出会った。
「こんなところでどうしたんだい、君?一人かい?それはいけないな、君のような少女がふらふらと出歩いていては首が飛ぶし頭もトんでしまう。帰る道は思い出せないのかい?」
鷲獅子は一息でそうまくしたて、腰をかがめて覗き込むような姿勢で私を見下ろす。
霧の公園を探していた。この街には訪れたばかりだから。来た道は覚えているが、帰る場所は最初から無い。
「そうか。君も相当苦労しているようだね。だが喜びたまえ少女の君!君が目指す霧の公園は目と鼻と嘴の先だ、何せそこのトンネルを抜けて右に行けば階段が見える、その階段を上った先が霧の公園だからね!」
ばさばさと翼を広げ、これまた一息でそうまくしたてた。よく噛まないな、彼女。
しかし……ここから出て右と言えば、来た道じゃないか。振り切るのに必死で見えていなかったか。
ありがとう――ええと
「グリフィ。私はグリフィだよ、少女の君。ハートの女王陛下より外征の任務を与えられ、各地を飛び回っているんだ。君は?」
グリム。当てもなく彷徨うばかりの旅人だ。
「成程、その年で死んでいないとは実に素晴らしい。帰る家もなく屠殺場へ運ばれる子供が大半のこの街で、君ほど生気に満ちた少女は初めて見たよ」
珍しいだろうな。外の紳士たちもこぞって私を追いかけるし、乞食の女たちもこの上なく恨めしいと言った様子で私に爪を立ててくる。
話をしながら、横目でちらと橋の先を見た。流れる川をまたぐ形で建てられた橋の向こうに、宝箱がひとつある。
私が視線を橋に向けたことに気付いたらしいグリフィは、今度は珍しく短い言葉で私に問いかけた。
「渡りたいのかい?」
何があるのかは気になる。
「なら気をつけて渡りたまえ。この橋は大工が突貫工事で作ったものだから、つまりそう!不良品さ。ところどころ穴が開いているんだ」
穴?
「君には見えないかい? あの黒い穴が。落ちないようにするには左側に沿って進むんだ。いいかい?左、だよ。左以外に進むと落ちるからね!」
……なる、ほど。穴らしきものなど見えないが……注意して進むとしよう。
ありがとうグリフィ。そう礼を言い、言われた通りに橋の左側へ足を踏み出
「あ」
*
…………
………………。
「あー……ええと……違うんだ、私から見て、その」
…………
「……悪かった!悪かったから!顔をあげてくれ、びしょ濡れの体のまま目の前で蹲られては罪悪感が尋常じゃないっ!!」
……川の水に濡れた髪をもふもふとした羽毛で撫でられる。
この服、一枚しか無いんだから。駄目になったら死に戻るか全裸で過ごすしかないんだぞ、このやろう。
「ほゃ、ほゃくるる……詫びを入れるのが騎士の務め、どうかこれで機嫌を直してはくれまいか……?」
そう言ってグリフィは一粒のキャンディを取り出した。むくりと顔を上げ、それを受け取って口に含む。
…………。
「……ど……どうかな?口に合うといいんだが……」
…………、……。
ほゃくるるるぅ。
「え!?何だって!?それは……どういう、ほゃくるるるぅなんだい!?というか君も発音できるんだ!?」
ほゃくるるぅ。
……先程、尋常でない不味さのミードを口にしたこともあって、キャンディの甘さが身に染みて小さな幸福感をくれる。
許してやらなくもない。そんな意を込めて、唇と巻き舌を使ってほゃくるるるぅ。
「ああ、それならよかった。……何をするでもなく蹲られるだけの行為がこうも心にクるとは思わなかったよ……篝火でも焚こうかい?」
いや、大丈夫。篝火に関してはすぐさま戻る道具を常備している。
「なら――いいが、よどんだ空気にあてられて風邪なんかひかないようにね?……さてと、君も機嫌を直してくれたことだし」
屈んで私の頭を撫でていたグリフィは、立ち上がって空を見上げた。
その翼でどこかへ向かうのだろうか?
「ん?ああ。街も平常だし、もう用はないからね。時間は無限に有限だ、そそくさと行動を起こさねばすぐにへそを曲げてしまう。それじゃあっ」
翼がはためき、グリフィの体は地上から空へと高く飛び上がっていく。
それを見上げる私をグリフィは見下ろし、いっそう大きな声をあげた。
「死んでいなかったらまた会おうっ!だから、どうか死なないでおくれよ、グリムっ!」
そっちこそ。小さく手を振り、飛び立つグリフィを見送る。
真摯に――とまで言うと自惚れかもしれないが、しかし、あそこまで素直に生を望まれたのは久々だった。
少しだけ心に暖かみを抱いたまま、私は骨粉を撒く。霧の公園へ向かう道も覚えたところで、私は改めてチャールズ酒場の先にあるドジソン橋へと向かうことにした。
*
橋の上は予想外に高かった。
積み木の街は、上にも下にもまだまだ続いていたらしい。血溜まりばかりが続く橋の上を歩き進み、吹きつける冷たい風を感じながら、今は遠き宿敵の咆哮を思い出す。
――ああ、そうだった。あいつと戦ったのもこんな場所だった。
冷たく淀んだ風が吹く高所で一度。そして橋の上で二度。空の向こうを眺めると、今にもあいつが飛んできそうに思えた。
……無論、来るはずもない。
橋の半ばほどまで来ると、その先は白い霧に覆われていた。傍らにはまた一冊の本が浮いていた。
私は本を手に取り、霧を潜る。
――ずしん。ずしん。ずしん、ずしん。
『それ』が一歩を踏み出す度に、橋が揺れる。
黒色と灰色で構成された体の、全身に硬い針を纏った獣。その顔には怨嗟が満ちていて、見開いた目で私を観ながらぎりぎりと歯を食いしばっている。
私は奴を知らないし、奴も私を知らぬだろう。だが、奴にとってそんなことは重要ではなさそうだ。あの体は、たぶん――
憂さ晴らしのために、動いている。
獣は傍らに腐れた犬を二匹連れ、一歩ずつ私に近づいて来る。
私は本を開き、記された文面を読み解き――いつか殺したかの者の名を、もう一度呼ぶ。
来たれ夢霊。ここがお前の居場所であり、帰るべき家だ。血と硝煙の匂いにまみれた、醜い――
『醜いアヒルの子』。