――アグガギは幼い頃、橋から落ちて溺れた事があるらしい。
そこに棲んでいた湖棲神によって彼は奇跡的に助かったらしいが、その日を境に肌に棘が現れ始めた。
最初は小さな棘だったが日を重ねるうちに大きくなり、やがては全身を覆い、まるでヤマアラシのような姿になっていった。
近隣は彼を悪餓鬼と蔑称し、そのうちアグガギは人を憎むようになったという。
精神病棟で目にしたことのあるあの文章は、おそらくはあの獣についてのことなのだろう。
「幼い頃」がいったい何年、何十年前のことなのかは定かではないが、かつては人間だった彼を獣たらしめるには十分な年月が過ぎたと見える。
『硝煙の匂い――血の匂い』
肌に生え揃った無数の棘。それに収まらず、彼の体は最早ヒトのそれを著しく逸脱し、巨大な頭と体、そして比較的小さく見える両の腕と脚はまさしくヤマアラシのようで、唯一、その顔面と軋む歯が歪に人間らしさを残していた。
アグガギはもう人間ではない。己を蔑んだことへの怨みは、いつしか人間という種そのものへ向けられるようになった。己の中で暴れまわる情動を、鬱憤を晴らすためだけに見境なく人を襲う、その存在は正しく――
――憂さ晴らしの獣と呼ぶに相応しい。
『戦場こそ、俺の家だ……!!』
憂さ晴らしの獣の傍らより、真っ先に駆け出して噛み付こうと飛び掛かる腐れた犬の一匹に銃弾を叩き込む。
吹き飛び、転がる犬に向けて、醜いアヒルの子は爆弾を投げつけた。爆破の衝撃が橋を揺らし、余波が体の隅々まで伝わってくる。
沸き立った煙の中へ体を飛び込ませ、足下から憂さ晴らしの獣の眼球めがけ銀の短銃の銃爪を引く。放たれた弾は一直線に獣の眼へ向かって行くが、着弾の直前に獣は瞼を閉じ、弾丸は硬い皮膚を貫くことなく弾かれる。
獣の棘だらけの足が私を踏み潰さんと迫るのをどうにか躱し、姿勢をかがめて走り抜け、獣の背後を取る。十五の少女の小さな体に今は少しだけ感謝した。
もう一体の腐れ犬が振り返って私を狙うが、アヒルの子はその隙を逃さない。犬の後頭部――うなじへ向けて狙いをすまし、一秒とかかることなく撃ち貫いた。反動を受けて転がってきた犬の頭を踏み潰し、今一度憂さ晴らしの獣と睨み合う。
――普段ならば迷わず敵の背に刃を突き立てたものだが……今回ばかりはそうもいかない。
憂さ晴らしの獣の体は背部に至るまで硬い棘がびっしりと生えそろっている。前面よりも背面の方がよほど危険に思えるくらいだ……闇雲に斬りかかればあの棘全てに突き刺される。どこへ、どう攻めるべきか、僅かに考えあぐねた。
その迷いの隙を突き、憂さ晴らしの獣が私に飛び掛かる。巨体からは考えられないような速度で己の体を射出させ、前足と思わしき部位で私の体を切り裂いた。
「ッ――――!!!」
衣服が裂け、鮮血が迸って獣の棘を紅く染める。追撃を喰らうまいと私は後方へ跳んで距離を空けたが――その棘を突き刺そうと試みたのか、あるいはバランスが崩れたのか――憂さ晴らしの獣は飛び掛かる勢いを殺さぬまま、ごろごろと私に向け転がり始める。
走るッ――いや、間に合わない――追いつかれて潰されることはあの速度から簡単に解る――失敗したのか?このまま潰し殺されまた最初から――――
『たかが獣一匹に何を恐れる必要があるッ!!!それでも狩人か、貴様ッ!!!』
――――獣を挟んだ向こう側から、吼えるような声が聞こえた。
その声に反応し、弾かれたように走り出す。後ろではなく前へ、転がって来る獣と距離を詰める。
たかが獣一匹――まさしくその通りだ。魔獣ならいくらでも狩ってきた、巨大な図体を持つものには大きな隙が伴っていたし、逆に小柄な体の魔獣は図体だけでは推し量れない脅威を孕んでいた――お前がそうだった――ッ
獣の体が襲い掛かる刹那、走る勢いを乗せたまま跳躍。転がる獣の棘に足を突き刺されながらもその背を一瞬駆け、獣の体を飛び越える。穴だらけになった足ではそのまま駆けることは難しく、石橋の上に落下した私は転がり進んでアヒルの子と並び立った。
ハーブ瓶を開け、穴だらけの足と切り裂かれた胸に中身を振りかけながら、すまない――そう呟いた。
『みすみす死に恥など晒してくれるな、晒すならその貧相な胸だけにしておけ――来るぞ』
肉体は治るが服は直らない、悪かったなと吐き捨てて、頭をこちらに向けて体勢を整える獣を一瞥し――屈み、一丁の機関銃をアヒルに差し出す。
使えるか?
『嘗めるな』
羽だか腕だか区別のつかないそれを広げて、私の手からハンスの機関銃を取り去る。
『お前に扱えて、俺に扱えない代物があるか』
アヒルは私よりもずっと小さなその体を屈め、構えた。その銃口が突き付けられる先へ、獣が四本足で駆け出すのと同時に私も駆ける。
ぎりぎりと軋ませていた歯を大きく開き、巨大な口が私に迫る。瞬間、背後から連続した射撃音が聞こえ――憂さ晴らしの獣の口内へ無数の鉛弾が叩き込まれた。激痛に悶えて獣が頭を振る、その隙を突いて棘だらけの首に刃を滑らせた。鮮血を噴き上げながら獣が倒れ、橋の上を滑る。背中に生え揃っていた棘が幾本も叩き折れ、飛んできた一本を掴み取った。
刻んでやった切創は深いが、奴の命を刈り取るには至らなかった。感触でそう直感し、振り返った時には――既に遅く。
『が――……ぁぁぁああああッッ!!!』
憂さ晴らしの獣の牙が、醜いアヒルの子の体に突き立てられていた。――噛み付かれ、捕らえられている。
その口を離せ、と咄嗟に獣の顎――その関節を狙い撃つが銃弾は通らず。天を仰いだ体勢で、獣はまたぎりぎりと歯を軋ませ、アヒルの口から苦痛の絶叫と血が溢れ出た。
――成す術は、無いのか。いや、諦めるな。今再び憂さ晴らしの獣に向かい、駆け出したその時。
『――ッ……俺を――――待つ、のは――家族じゃ……ねえッ…………』
――っ……!?
『戦場――だけだッ……!!!そうだ、奮い立てッ!!俺はまだ死んじゃいねえッ!!!ありったけの敵意を向けてみろッ!!!』
アヒルの子が両の腕を広げる。残された上半身には、無数の爆弾がくくり付けられていた。
――まさか。駄目だ、止せッ――――!!
『狩れッ!!!姫ぇええええええええッッ!!!!』
口に咥えた獲物が絶命していないことに気付くと、憂さ晴らしの獣は再び口を開け、それを口の中へと放り込む。がギッ――――と、上下の歯が噛み締められる歪な音が響き渡った。
橋の上に風が吹く。一瞬――ほんの僅かな時間、静寂が訪れる。その間に、むき出しの瞳がぐるりと動き……私を睨んだ、瞬間。
「が――――ブぁぁあガッッバァァアアアアアアアアァッッ!!!!!」
獣の腹部へ放り込まれた爆弾が、一斉に爆散。ひときわ大きく腹を膨らませた直後、獣はその口から爆炎と煙と血反吐を吐き散らし、ぐらりとよろめき――倒れた。
石橋が大きく揺れる。私の目の前に、血反吐と内臓をドロドロと溢し続ける獣の顔面が叩き落ちる。
その眼は未だむき出しのまま、私を睨んでいた。まだ生きている。グラグラと揺れるその眼、その眼球へ
「――ぅぅうおおぉおぉおおおおッッ!!!!」
握りしめていた棘を、深く、深く突き刺し――続けざまに、その棘に蹴撃を叩き込んだ。
憂さ晴らしの獣が痛みの反動で顔面を大きく上部に反らす、その瞬間――刻んだばかりの切創に向け、もう一撃。獣狩りの鋸は巨大な大動脈を捉え、今一度――切り裂いた。
憂さ晴らしの獣は暫く悶え苦しみながら、橋の下、下層の街へ血の雨を降り注いだ後――そそり立たせていた無数の棘を寝かせ、絶命した。
獣のソウルと一冊の童話が私の手に残る。ふと死体の向こう側へ目をやると、彼に渡したハンスの機関銃が黒く光りながら転がっていた。
……噛み付かれる瞬間に、手放していたのか。
死体を乗り越え、遺された機関銃のもとへ歩き……転がされてばかりのそれをそっと拾い上げて、骨粉を撒く。
醜いアヒルの子。
お前が本当はアヒルの子などではなく――美しく気高い白鳥の子であることを。
この国で、私だけが知っている。
*
機関銃のメンテナンスと弾薬補給、それと諸々の物資の調達を済ませてから、改めて私はドジソン橋を渡る。
破れた服の代わりは無い為、急ごしらえではあるが、多少はマシな装いの紳士から服を剥ぎ取り、紳士服をコートとして羽織っておくことにした。サイズの合っていない紳士服を羽織り、下半身はロングスカート――と奇抜な姿にはなったが、この国で装いなど気にしてはいられない。匂い、も……少女らしい匂いを多少消せるならよしとしておくことにする。
……私に対し匂い立つなどと言ってくれたが、奴等の方がよっぽどじゃないか。早々に鼻が慣れてくれることを祈ろう。
長い、長いドジソン橋を渡り切ると、森に出た。木々の間を縫う形で作られた道を行き、分かれ道の中心で篝火を見つけ、灯す。
久しぶりに……本当に久しぶりに木を見た。ほんのわずかに風が吹くだけで、木々は波立ってざわざわと揺れる。篝火の暖かさに身を委ねながら、人工物でないものから感じられる何かを存分に堪能した。
ふと見上げた先、枯れ木の上で猫が寝転がっている。ここにもチェシャ猫は来るのか。
「ここじゃあみんな気が狂っている。チェシャ猫も狂っているし、君も狂っている」
まあ、そうだろう。最初から狂っていなければ、この狂った世界で正気を保つことなんて到底できやしない。
狂気に支えられた正気など笑い話にもなりやしないが、だがこの世界ではそれが正しい。市街で生きている彼らも、きっとそんなような気で生きて
「特にその紳士服、前を開けたら乳が丸見えになるとかマジでどうかしてると思う」
うるせえ。お前の毛皮を剥いで着こなすぞ駄猫。
「あ、にゃあ」
取り繕ったように一声鳴いて、チェシャ猫はニタニタ笑いすら残さず消えていった。
……。チェシャ猫すら洒落た服を着ているが、この国の連中はああいう服をどこで仕入れてくるのだろう。私が知らないだけで、ラドウィッジ市街の積み木のひとつに仕立て屋があるのだろうか……?
あまり訪れたくない場所ではあるが、次に足を運んだときにでも探してみよう。立ち上がり、さて次はどこへ向かうべきかと考えた、時。
「ぐおおお…………んがっ……!」
どこからか何者かのいびきが聞こえた。
思わず、どこから聞こえた声なのかとあたりを見渡す。が……人らしい影はどこにも無い。猫は消えたし、あるのは枯れ木と、なんだか禍々しい井戸と、カボチャと……
……ん?
「お……ぉ?……篝火が灯っている?おお、誰かは知らぬが礼を言おう、お陰でよく眠れたよ」
カボチャがぐらぐら揺れたかと思いきや、こもった声を発しながらおもむろに立ち上がった。
……かぼ……カボチャ!?鎧を着こなして、腰には剣まで提げたカボチャがそこに居た。……カボチャ。カボチャだ……。
「フフフ、よほど某の頭が珍しく見えるようだな。言っておくが被りものではないぞ?」
いやにグラついたように見えたが、被りものではなく本物らしい。……立って喋るカボチャなど初めて見た。
しかし、あまり物珍し気に人……人、人を見るべきではない。ぱちぱちと何度か瞬きをして、奇抜なものを見る目で向けていた視線をそっと落とした。
「ふむ……しかし、かような場所に少女が一人とは。この国に似つかわしくない見目麗しい出で立ちを見るに、外からの客人か?」
客人――という言い方が正しいのかはわからないが、少なくともこの国の出身ではない。
私はグリム、狩人だ……そう名乗り、獣狩りの鋸を担ぐ。カボチャ頭の騎士は胸に手を添え、深々と頭を下げて挨拶を返してくれた。
「某はパンプキン・オー、旅の騎士である。……原理はわからぬが、この国には外からの者がよく迷い込んでくるものでな。その多くが野垂れ死ぬか、あるいは狂人の仲間となるか……グリム殿はそうはなってはならぬぞ」
身に染みている。狂人ならばこれまで何人も手にかけて来たし、その内に己が狂いかけたこともあった。
パンプキン・オー氏はこくりと頷き、窺い知れない表情でわずかに安堵したような声を出した。
「受け答えにも異質さを感じぬな。その正気……けして手放すことなかれ。この国において、グリム殿。貴公の麗しさと正気に勝る程価値のあるものは二つと無い。どうか――己を大切にな」
無限にある命と言えど、価値を貶めるような所業に手を染めるつもりはない。ありがとう、と礼を言い――ところで、と私は繋ぎ、橋を越えたらしいアリスについてを問うてみた。
ここを通って行った少女は、私の外にいないか――そんなような言葉で。
「少女?……いや……某がここに足を運んでから、足音らしきものを聞いた覚えはない。これでも騎士だ、たとえ微睡みの中にあろうと聞き取れる。故に――すまない」
そうか。……らしい者どころか、人の気配も無かったと。
「だが――この先に少女が足を運ぶようなところは無かったとも某は記憶している。森を抜ければ池が、池を抜ければ茸が群生する森があり、道に沿って行けばリポン大聖堂、その先には紅城フリッセル――どうだろう?貴公の探し人が足を運びそうな場所はあるだろうか?」
……。記憶している童話たちを辿り、その奥に眠る一冊の童話を開き、思い返す。
アリス・イン・ワンダーランド――或いは、不思議の国のアリス。彼女が不思議の国へ落ち、足を運んだ先……
オー氏。そう呼びかけ、ふむと私に顔を向ける彼にひとつ質問を投げかけた。
紅城フリッセル――その城の城主は、どのような人なのだろうか?
「――。暴君……いや……」
オー氏はわずかに口ごもり、少しの沈黙のあと、また口を開いた。
「紅城フリッセルでは、市街にて数を増した住民の処刑が連日昼夜行われている。裁判にかけられた後、誰もが首を刎ねられ、無罪判決となった者はひとりもいない。……あの城はそのような場所であり、そして、そこの城主となれば――想像に難くないのではないだろうか」
首を……刎ねられる、か。
トランプの兵ではなく、人間が。……成程、実にこの国らしい。
充分だ、ありがとう――そう伝え、何か謝礼に渡せるものはあっただろうかと懐を探る手を、必要ないとオー氏に止められた。
「某は何もしておらぬよ。ただ眠気覚ましに口を動かしたのみ」
しかし、それでは何というか……私の気が晴れない。
この国の何をも知らぬ私にとって、地理や状況を知っている彼の言葉はソウルにも代えがたいほど重要な情報だ。この身で果たせることならば、如何なことでも叶えよう。胸に手を当て、そう口にする私に、それならば――とオー氏は言った。
「いつか某の拠点――いや……家へと足を運ぶことがあったら、妻に善くしてやってくれ。我侭ばかりを口にする癇癪持ちであるが、恩をタダでは返さぬ女だ。彼女もまた必ずや貴公の力となろう。約束する」
承知した。強く頷くと、オー氏は安堵したように息を漏らし、再びその場に座り込む。
「姫よ。また会おうぞ」
それだけ言い残し、間もなくして彼はまた静かに寝息をたて始めた。
……彼がどれほど長い間旅をしているのかは知り得ないが、余程疲れているのだろう。幸い、周囲からは獣の気配も感じない。まして篝火の傍となれば、充分に休息を得られるはずだ。一礼し、石煉瓦が敷き詰められた街道へ戻り、私は大聖堂へと向かった。
*
道の先には花畑があった。花に囲まれてもぞもぞと蠢く蛇とも人とも取れぬ異形を斬り殺し、錆びた鉄格子の大扉を開け放つ。
そこで私は、無数の花が咲き乱れる墓地を歩き回る無数の亡者たちを見るよりも、それ以上に――
――見上げるほどに荘厳な、大聖堂の外観に心を奪われた。
思わず、息が漏れる。
規則正しく並べられた墓石たちを見下ろすように鎮座するそれは、紛れもなく聖なるものであろうが、しかしてこの国に在るという事実が真逆の印象をも私の心に知らしめる。
見上げながら、瞬きを繰り返した。異様なまでに夜が似合う。人の気から離れた亡者ばかりのこの場所で、人が行きつく至高である芸術を目の当たりにするとは、何たる皮肉だろうか。それが魔であれ聖であれ、その建築の美しさに私はわずかに頭を垂れた。踏み出す足に、先ほどまでは無かった筈の重みすら感じた。
……真正面には大聖堂の正門らしき扉が見えるが、突っ切るにはあまりに亡者の数が多すぎる。迂回し、墓石と墓石の間を通りながら正門を目指すことにする。意外にも墓地は人の手によって管理されているようで、門の外側に咲いていたものと同じような花たちがいくつも咲いていた。足の踏み場がないほど花で満ちている。それを踏み荒らすことに少しの抵抗を覚えたが、足を動かさねば進めまいと、私は花たちに申し訳なく思いつつ花弁と茎を踏みしめる。
暴いて何の得があるのかは知らないが、墓荒らしもここに来るらしい。延々と土を掘り荒す男の背後へそっと近づき、その首を裂いた。見つかれば襲って来るのは明白故、ここで殺しておいた方が後々楽だろう。噴き上げた血飛沫が、花々を赤く染め上げた。
「………………ん……?」
ふと、血に染まる墓石に刻まれた名前を見て、ぴたりと足が止まる。
ぼろぼろに風化していて、まともに読めたものではなかったが――それでも苗字らしきものは読み取れた。
【*** ****・リデル ****~****】
……リデル?
脳裏にあの獣顔が思い浮かぶ。彼に問いかけられたものと同じ名がそこに刻まれていた。
彼もその名を聞いてきた。ならば彼の探し人か、あるいはその血族がここに眠っているのだろうか?
もしも探し人ならば残念なことだな――そう思って通り過ぎようとした時、また別の墓石の名前が私の目に留まる。
【*** ***・*****・リデル ****~****】
「…………え?」
明らかに同じ苗字が、そこにも刻まれていた。
……冷たい墓石を撫で、感触を伴って確かめる。
リデル。その横にある墓石にも……リデル。もしやと思って別の墓を見ても、また、リデル。どれだけ風化しようと、どれだけ崩れ落ちていようと、その名前だけがはっきりと視認できた。リデル。リデル、リデル、リデル、リデルリデルリデルリデルリデルリデル。
リデルとは何だ。リデルとは誰だ?苗字だとするなら、この国の住民、いや、ここに眠る者たちは皆総じてリデルの姓を持つのか?何の意味があって?
唾を飲み、流れる冷や汗もそのままに思案する。いや。駄目だ、考えるなグリム。狂気に戻れ――だが――しかし
この国の誰もがリデルだとするならば、リデルとは国を表す名なのか?国籍にも等しい意味を持つのが、リデルという名なのだろうか?いや。それはあまりにも正気的すぎる。くだらない、そんな筈がない、この国がそんなに律しているわけがない。だとするならばもっと狂気的な、もっと常識はずれな、もっと、倫理も人道も踏み荒らすような理由が、リデルにあるというならば
この国の住民の、誰もが――――
――リデルの、子?
「………………」
……。
……いいや。それこそ、ばかげている。
そもそもリデルとは誰だ。墓石に刻まれた名など――私の旅路に何の意味もないだろう。
汗を拭って立ち上がり、背後より忍び寄る墓荒らしへ振り返ることなく肩越しに射撃を放つ。どさり、と地面に男の肉体が倒れ込むような音がして、どうやら着弾したようだと安堵し――――
――…………。
突然、足下へ男の生首がごろごろと転がって来る。
脊椎ごと首を鋭利な刃ですっぱりと両断されていたそれがどこから来たものなのか、一瞬、考えて
直後、私の周囲が影に包まれる。
月光を遮る何者かが私を見下ろしている、反射的にそう気付き、咄嗟に鋸の刃で自分の首を覆った――瞬間。
真横から振りかぶられた斧らしきものを叩き付けられ、私の体は左方へ吹き飛んだ。
「ッッ――!!!?」
花弁を散らしながら私の体が地面をごろごろと転がされる。転がりながら姿勢を整え、鋸を突き立ててどうにか立ち上がった時、私の視界は血と肉に塗れたその異形に支配された。
「……なッ――ぁ…………っ――!!?」
――四本の腕。四本の脚。髑髏にも似た醜悪な顔と角、丸太よりも太く長い尾と体。
全身の緑色はそれの鱗か皮か、それが持つ本来の色なのだろうが、この一瞬で狩り尽くしたらしい墓荒らしの血によって殆どの緑は赤く染まっていた。
ほんの一瞬、首を守るのが遅れていれば――私の首も刎ね飛ばされ、その血液が鱗か皮を赤色に染めていたことだろう。今は互いに刃が届く距離ではないが、あの脚が数歩でも動けば一瞬で距離など詰められる――数秒、じりじりと睨み合い、異形の脚がわずかに動いたのを視認したその瞬間――機関銃の全弾をその関節へと叩き込む。
異形は体勢を崩し、前左足の膝から崩れ落ちる。作り出したその隙を利用し、大聖堂の正門へ向かい全力で駆け――――
「ッ――――!?」
刹那、何かに足をとられて体の前面が地に叩き付けられる。その衝撃で咳き上げが起こり、咄嗟に立ち上がることがままならなくなった。――不味い。
視界の端に見えた私の足は、地を這う亡者に掴み取られていた。振り払うことは容易だろうが、しかしその間に奴が来る。ずん、ずんと小刻みに揺れる地面の響きを 体全体が感じ、体に降り注いでいた月光がまた遮られる。駆け――いや、もう既に私に追いついて――ッ
振り上げられた大剣が空を裂く、駄目だ、逃げ――間に合わッ――死――――――…………
「……っ…………」
…………
「………… …………?」
……反射的に、ぐっと閉じた瞼を開く。
刃が――届いていない。体には傷一つない……だが、足下の亡者は奴に踏み潰されて既に……
ぐるりと体を返し、上を向く。目の前には確かに、あの緑色をした異形が居たが――
私に向かい振りかぶられていた四本の腕は、地面から伸びた無数の茨に縛られ……拘束、されていた。
「え……――っ……?」
茨の力は相当なもので、巻きつかれている腕のひとつひとつから異形の体液――血に相当するものか?――が流れている。尚も茨はぎちぎちと生々しい音を立てながら、その腕を締め付け続け――
――ぐしゅっっ
異形の四本の腕がほとんど同時に握り潰され、茨は憎悪すら感じさせるような正確な動きで潰れた腕を残らず引きちぎった。剣が握られている腕たちがバラバラに散り、ぼとぼとと地面に落下する。
異形は悶え苦しみながら膝をつき、ついたその膝や脚すらも茨に巻き付かれ、地面に縛り付けられた。
「………………」
冒涜的な嗚咽を漏らす異形の頭を、ゆっくりと立ち上がって見下ろす。
……苦しんで、いる。…………苦しんでいるのなら……楽に……させて、やらねば。
私の奥底で、私でないものの思考が浮上する。それはやがて私の体を奪い去り、困惑する思考をよそに、私の腕はそっと持ち上がって――
振りかぶり、下ろされる。
さながら、配下たちに指示を下すように。
次の瞬間には、花畑に咲いていたすべての花が茨と変わり、異形の体を埋め尽くす勢いで貫いていた。
「……何」
「これ…………」
じ
じじ、じ、じじじ
役割を終えた茨達が、吸い込まれるように地面へ帰っていく。
後に残ったのは蜂の巣と見まごうほど穴だらけになった異形の死体。ばしゃりと崩れ落ちたそれは地面に叩きつけられて砕け散り、墓石も花畑も、なにもかもが異形の血で染まり上げられた。
震える両手の平を見つめ、かたかたと歯が鳴った。
「私……今、何を…………し」
じじじじじじ、じじ、じじじ
じじ、じじ、じじじじ、じじじじじぢぢぢぢ
「ぁ――――ッッ…………!!!!」
呼吸するように何をした?
当然のように何を行った?
たとえばそれが何であろうと間違いに違いは無い。
「痛いッッ――いだぃ、いだいぃだいいだぃいぃだいぃいぁぁぁああぁぁあッッ!!!!!」
震えていた両手で頭蓋を抑えて脳漿を喰らい尽されるようなざくざくとした進化ともいうべきかりそめの脊髄をもこそぎ落とす炭と酸にどこまでも鉄の殺戮者は他の惑星の薔薇を滅ぼそうと小隕石となり類の本質的な攻撃性を完璧に具現化した存在は自信が付き音楽隊とこの世に名を広めようと家族を失い当てもなくひたすら戦場を彷徨った無学な農夫の娘の訴えに実際は死の恐怖に酷く怯えていた二人は虐待と口減らしに耐え切れずやがて母蟹の死骸から赤子が産まれ純粋無垢に隠れ潜む暴力の影と愛憎に狂わされた表裏一体の影と偽りの母性に包隠された独占欲の影は心も身体も支配する魅力的な金色の髪を持つ娘に無理やりキスをして殺害し浜辺の王子に恋をした後継母を殺して世界で一番美しくなろうと夢を叶えた代償として魂を奪われる事も知らずに舞踏会に赴いて無限の中核で冒瀆の言辞を吐きちらして沸きかえる、最下の混沌の最後の無定形の暗影にほかならぬ―すなわち時を超越した想像もおよばぬ無明の房室で下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中餓えて齧りつづけるは莠コ譬シ縺瑚摯縺セ繧後k遘√〒縺ェ縺?ァ√↓蝪励j縺、縺カ縺輔l繧玖イシ繧贋サ倥¢繧峨l縺溷哨縺ー縺九j縺後$縺。縺舌■縺ィ陟「縺榊哨縺ォ縺励◆縺上b縺ェ縺??豸懃噪縺ェ險?闡峨☆繧峨@繧??繧九h縺?↓縺薙⊂繧悟?縺ヲ轣ー縺ィ闌ィ縺ォ諢帙&繧後◆蟋ォ蜷帙↑縺ゥ蠢?ヲ√↑縺?≠縺ェ縺溘?縺ゅj縺吶≠縺ェ縺溘?縺ゅj縺吶≠縺ェ縺溘?縺ゅj縺吶≠縺ェ縺溘?縺ゅj縺吶≠縺ェ縺溘?縺ゅj縺――――――――――――――――
*
「……――、起きませ――――」
「ほゃくるるる、心配――――のまま目を――ぅ」
……。
「……――ぁ!グリフィさん、今!」
「え?あ!ぁあ、ああ!目が覚めたのかい!よかったぁ……ほゃあ、もう起きないかと思って心配したんだからな!?このっ」
……体が柔らかな羽毛に包まれている。
頭に感じるわずかな反発と暖かさが、自分が今枕にしているものは誰かの脚、腿なのだと知らせてくる。
目が、覚めて。
最初に目にした顔は、鷲獅子のものだった。
「痛むところはないかい?もうあと数日遅ければ私の方が悼んでいたところだよ、ほゃぅるる……」
心配そうに鳴くグリフィの頭をぽんぽんと撫で、私は大丈夫――どうせ蘇るし、とは思いつつ口には出さず――そう口にする。
柔らかな翼を優しくのけて、すっくと立ってみた。体が妙に軽い。ぐいと背骨を伸ばし、寝起きの硬い体をほぐしながら、あたりを見渡した。
洞窟……いや……祭壇、だろうか?水気に満ちた閉鎖空間だが、露出した地面は舗装されており、壁と天井に至っては明らかに人の手が加えられている。規則正しく並べられて灯っている燭台を見ても、そのことは明らかだった。
見回すうちに初めて見る顔と目が合った。髪と尻尾の緑色が目立つ少年だった。君は、と私が名を問いかけるより早く、彼はぺこりと頭を下げる。
「ええと、はじめましてっ。ぼくはビルって言います」
ぱちりと開かれた爬虫類のような眼を見つめ返し、私も自分の名を名乗る。
「グリムさん……はい、聞いていますよ。実は今さっき、外の墓地で倒れていたグリムさんをグリフィさんが運んできてくれたところだったんです」
……そうだったのか。
私が感謝を伝えると、グリフィはふるふると首を振った。
「気にしないで、これも騎士の務め……と言いたいところだけど、ほんとの所は君を助けたかったんだ。無事に目を覚ましてくれてよかった……あんなぼろぼろの土くればかりの場所で寝転がっていたら、体の外も中も悪くしてしまうよ」
――――…………。
土くれ、ばかりの場所?
「うん?当然だろう、君はあの墓地で力なく倒れ込んでいたんだから。あそこは亡者たちのベッドであって、君が寝るべき場所じゃない。そのドレスだって、私やビルくんが綺麗にするまでは土まみれだったんだからね?」
あそこは……花畑じゃ
「花畑……?いえ、あそこの土はすっかり死んでしまっていますから、花や植物が育つ余裕はないんですよぉ。大聖堂が出来る前からそうですから、ずーっとかさかさの土地なんです」
…………。
……それに……ドレス……?
下を向き、確かめる。……確かに私はドレスを着ていた。いつも着ている、黒色のフリル――
……何故?どうして私は、このドレスを着ている?だって、ついさっきまで私は、確かにあの紳士のコートを羽織っ――
「縺ゥ縺?°縺励◆縺ョ縺九>縲√げ繝ェ繝?蜷幢シ滄。碑牡縺梧が縺昴≧縺?縺代←」
――ひっっ
「グリムさ……ひゃあっ!?」
ありもしない何かに本能が怯え、びくりと跳ねた体が重心を偏らせた。
どさり――と、倒れ込む私の体はビルに受け止められる。
「ゎひゃ!!?ぁ、あっぐ、グリムさんっ!?だいじょうぶれふかぁあっ!?」
……だい……じょうぶ。……。いや、君の方こそ。何故か顔を真っ赤にして慌てる彼を宥めつつも倒れ込んだことを謝り、改めて前を向く。
「……?ほゃくるるる……?」
目の前には、やっぱり不安そうに私を見るグリフィが居た。
……あの一瞬。なぜか彼女の姿が、この世のものとは思えない化け物に、見え――
「むむ……どうにもやはり万全には程遠そうだね。どうだろう、ビル君?彼女が落ち着くまで、大聖堂で休ませてやっては?」
依然として倒れ込んだままの私を抱き留め……いや……半ば抱き締めながらビルは答えた。
「そっ……それがいいかもしれませんね~……っ!ぁ……ところで、グリフィさんもここに用があったんじゃ……?」
「あれ?そうだっけ?……あー。あったような、なかったような……うん!きっと忘れた!倒れたグリム君を見つけて、三度と言わず私も頭を回したからね!まあ、大した用でもないから、思い出した時にでも来るとするよ!」
「……そうですかぁ……それなら、いいんですけどぉ」
「まぁ、忘れるってことは小蟲を炙るくらいちっぽけなことだったんだろうしね。さて、それじゃあ私もそろそろ行こうかな……今度はちゃんとふかふかのとこで眠るんだよ、グリム君っ!」
……そうする。寝たくて寝たわけでは、きっとないのだろうけど。
ぱたぱたと駆けてこの場を後にするグリフィの背を見送り、いつかまたきっちりと礼をしなくてはと……そう思った。
…………――――。
あれが、本当はなんなのか。聞こえた、冒涜的な言葉がなんなのか。自分の身に、何が起きたのか――
理解できない私ではない……けれど
……その正気を、受け止めるだけの力が。
今の私には無いということも、熟知していた。
「ぇ、ぇえとっ……。リポン大聖堂は初めて、ですよね?」
……。うん。
「それなら任せてください~っ。こう見えてぼく、巫女ですからぁ……いろいろ教えて差し上げられま」
それはありがたい……けれど
そろそろ離してもらっても、大丈夫?
「ぁっ」
私の腰元をぐっと抱いていた手が、なんだかひどく名残惜しそうに離れた。