「グリム様」
いつだったか、シロクマの工房で道具を選別していた私に、不意にノーデがあることを伝えてきたことがあった。
曰く――
「この国には、昏き底より出でる四つの悪夢が存在します」
燻り狂えるバンダースナッチ。狂鳥ジャブジャブ。屍竜ジャバウォック……
そして、紅城フリッセルの暴君、心臓の女王。
「もし相見える事があれば……グリム様、魂を奪われないようお気を付けください」
その四つの名には聞き覚えがあった。
心臓の女王、即ちハートの女王は不思議の国のアリスの登場人物であり……バンダースナッチ、ジャブジャブ、そしてジャバウォックの三体は、続編である鏡の国のアリスの作中に登場する詩、ジャバウォッキーにて語られるものだ。
「以前」
強化石の欠片を手に取り、指の先で弄びながら、背中越しに私は問いかける。
「五人の、魔姫と呼ばれる脅威と対峙したことがあった」
欠片に映るノーデは、相も変わらず人形のように手を組んで静かに屹立していた。
「あれらに、匹敵するものと考えても?」
少しの間を置いてノーデが答える。
「脅威の度合いとしては――遥かに、上回るかと」
「そっか」
そのあたりで私は振り返り、彼女と目を合わせた。
「知ってるんだね。あの人たちのことを」
ノーデはわずかに目を細め、私から視線を外し――表情にわずかな感情らしきものを浮かべた。
「……貴女様程、熟知しているわけでもありませんが……」
「当たり前だ」
知っている筈が無い。そして私は、忘れる筈も無い。
形を無くして尚、彼女たちの寵愛と怨嗟は、私の心の中に残り続けているのだから。
兎も角――そう区切り、欠片を商品棚へ置き直しながら、ノーデに伝えられたことを復唱する。
「バンダースナッチ、ジャブジャブ、ジャバウォック、心臓の女王。この四体に出くわす可能性がある時は、相応の覚悟が必要……と」
「はい。どうか――お気をつけて」
四体の悪夢の話は、たしか……そんなふうに終えた、覚えがある。
*
紅城フリッセルに足を運ぶと決めた、その時点で、幾度となく殺される覚悟はしていた。
心臓の女王がどれほどの脅威なのか……幾度となく屍を重ねることで知ろうと、そのつもりでいた。
首を刎ねられるか四肢を裂かれるか、さて私はどのように死ぬのだろうと思い描きながら、霧をくぐった先――
フリッセルの女王の間で、私が目にしたものは
「っ……ひぐっ……えっく…………ぅ……っく……」
「……………………」
玉座に縮こまり、手首と腕で目をこすりながら泣きじゃくる――幼女の、姿だった。
「ぅ……えっく……ひっく……っ、なん……でっ……なんでぇえっ…………」
くしゃくしゃの黒髪。着崩れた紅色のドレス。がくがくと震える裸の足先が、玉座のシーツをぎゅうと握り締めていた。
それはあまりに細く、儚く、弱弱しく。かつて相対した脅威たちを思い浮かべていた私の心に、大きな困惑をもたらした。
――訝しげに、私は階段を上る。少女の泣き声が近づいてくる。
頭上にあったそれが、今は眼下にある。手を伸ばせば届くほどまで近づいたとき、それの矮小さを改めて知った。
これが――女王?
何があったの。
そう問いかけようとして、手を伸ばしたとき。自身の背後に鎮座する、何者かの気配を感じ取った。
「どこもかしこも」
振り返り、見下ろした先。玉座へ続く階段のもとで、艶やかな青碧の髪をした少女の眼が、私を見ていた。
あまりにも不釣り合いな大きさの両手剣を、片手で握り提げているその姿は――何者とも形容し難かった。
「魔獣、ばかりだわ………………」
誰だ、と問いかけかけた私の口が、ぴたりと静止する。違う。その問いは、正しくない。
少女は両手剣を引きずりながら、一歩ずつ階段を上がり始める。あどけない顔立ちをしておきながら、何て――おぞましいまでからっぽの眼をしているんだ、あれは。……あれは……
――あれは……私じゃないか?
確信めいた焦燥が、私の狂気を蝕む。あれは、あれは私だ、しかし、だが――
いつの――――私だ?
「…………お前も、どうせ……そうなるのでしょう……?」
わたしはやがて私の眼前へとたどり着くと、鎧を履いた騎士が手にしていたあの両手剣を天へ向けた。
……そうか、と理解する。
私は、こんな顔をしていたのか、と。
「ぃ、やだっ……ゃだ……!!殺さないで、お願い、お願いっっ――!!」
心臓の女王の泣き声はいつしか明確な意志を持った言葉となって、私の脳を揺らしていた。
それは正しかったのか?私は間違ったのか?眼前の少女は依然として無垢なまま私ごと女王を殺さんとしている。選択を迫られたとき、私は、私の意思でそれを選び取ることが出来ただろうか。いつだって――いつだって、あの笑い声が木魂している。すべてが彼女の手のひらの上だったというなら、そこから零れ落ちることだって出来た筈だ。
弾かれたように踵を返す。縮こまる女王に向け、両手を突き出し――その小さな体を抱き締める。
「ぇ――――っ…………ア――リ…………」
かつてのわたしが、その選択をしたというのなら。
それは間違いだったと、罅割れた私の心が証明している。
なればこそ、私はわたしが出来なかった選択を、今すべきなのだろうと。
振り下ろされる刃に裂かれる肩と砕ける脊髄と逆流する血液と分かたれた半身の喪失感を噛み締め乍ら
私は、私ごと、私の迷いが断ち切られるのを感じた。
*
「――ぃ……おい……おいっ……!」
……。
「ぃ、いつまで寝こけるつもりだっ、痴れ者っ!わ、私の体から離れろっ!ええい、この、このっ!」
……ぺちぺちと頭を叩かれる感触で、意識を取り戻す。
私は……何を見ていた?
泣き虫な女王はもう泣き止んだろうか、そう思って体を離し、じっと彼女の顔を見つめた。
「な……何だ?何を見ているっ!むざむざか細い首を晒しおって……わ、私をいきなり抱きしめるなど……そんな無礼、騎士たちが生きていればすぐにでも首を刎ねさせたぞっ!」
泣き腫らした跡はあるが、声色ははっきりしているし、表情にもどこか余裕が見て取れる。大丈夫そうだ。
私は彼女の足下に膝をついて頭を垂れ、古くから傅いていた従者のように無礼を詫びた。
「……えっ?え、あ……そのっ……ふ、ふんっ!人並み程度に作法は心得ているらしいな……まあ……いいだろうっ……」
ちらりと頭を上げて表情を窺うと、妙に照れ臭そうにしている女王の顔が見えた。魔姫たちにさんざん罵られながら殺されて覚えた作法故、間違いはそうそうないと思いたいが……従者が従者であるが為に、案外こうして真っ当に女王として敬われることには慣れていないのかもしれない。
それならば話は簡単に出来よう。私は従者を演じたまま、ここで何があったのかを問うてみた。
「見ればわかるだろう、反逆だ。謀反と言ったほうがいいかもしれないな。連中……どういうわけか、私のことを突然アリスだと呼び始めて……ぁ、あろうことか、襲いかかって衣服を剥ぎ取ろうとしてきたのだっ!幸い、服の端を千切られるくらいで済みはしたが……そうだ、奴らはまだ生きているのかっ!?生きているならまだっ……」
いや。皆、死んだ。
「……えっ」
正しくは私が殺したんだ。
暴れまわる連中を鎮圧することは酷く難しかったから、致し方なく――
「……ひとり……残らず、か?」
恐らくは。確認は出来ていないが、こうして女王の間に誰も足を運ばないということは……
「そうか……」
女王はそう呟くように答えると、こくりと黙ってしまった。
数秒程度の沈黙だったが、なんだか妙に長く思えた私は、耐え切れず顔を上げてしまう。瞬間、目にしたのは
「……く、くくっ、ふふふっ……!!ひとり残らずときたかっ!くくくふふっ……!!」
……??
なんだか……妙に楽し気な笑顔だった。
「貴様っ!名をなんと言うっ?」
え。あ……ええと。グリム。グリム……と言い
「グリムっ!!実に大儀であるっ!!!あの狂った血族どもは近々根絶やしにせねばならぬと思い予定を先延ばしにしてばかりだったのだっ!いやはや、まさか代わりに成してくれる者が居ようとはっ!!ははははははっっ♪」
…………よくは、わからないが……
私はどうやら、この女王に褒め称えられて然るべきことを成し遂げていた、らしい。
……従者を皆殺しにされてこうまで喜ぶ女王がいるものなのだろうか??玉座に腰かけた彼女が伸ばした手にわしゃわしゃと頭を撫でられながら、頭の中がはてなで埋まっていく。
「して、グリム。お前はどうしてここに?お前のような年齢の女が行くところと言えば、娼館か精神病棟か屠殺場が定番だろう。まさか自ら首を刎ねられに来たわけでもあるまい?生憎と私の城では舞踏会など開いてもおらんしなっ!」
ああ――そうだ、忘れていた。女王様、私は
「ぁあいやわかったっ!わざわざ私の仕事を聞かずとも請け負ってくれたのだ、私の騎士に志願しに来たのだろうっ!?お前のような狩人がいれば心強いっ♪ジュドゲルトもキスカもピンもいなくなったが、グリフィとお前さえいれば当分はどうにかなるだろうっ?そうだ、丁度空席であった座に任命してやろう!早々に片割れを探すがいいわっ!ふふふっ♪」
おおおおう喋らせてくれないぞこの女王様。グリフィの早口は主君あってのものかちくしょう。
女王はぱんと手を合わせてそれは名案だと顔で示すが、それは早計だと私は彼女の言葉を遮る。
「え……?違う……のか?…………。」
目をぱちくりさせて静止した女王に、私は私がここへ足を運んだ理由をゆっくりと話した。
*
私の言葉に耳を傾ける女王の姿勢は先程とは打って変わり、この上ないほど荘厳なまでに凛としていた。
私はこの国の住民ではないことと、同じように迷い込んだらしい「アリス」を追い、彼女が来たらしいここへと足を運んだこと。
簡潔に、そして可能な限り正確にそれらの事情を伝い終えたとき、女王は
「……どうして、アリスを追っている?」
と、私に問いかけた。
私はそこで、この国において幾度となく自分が「アリス」と呼ばれたことを明かした。それが何を以てのことなのかはわからないまま、しかし、それならばアリスと自分には何らかの関係があるのではないか――その可能性を鑑みて、今はただ、がむしゃらにその少女の足取りを追っている、と。
女王はそれを聞き、ぱちくりと目を丸くした。
「アリス?お前が?」
この国の連中にとっては……そうらしい。
女王ははてなと首をかしげ、それはおかしい、と呟いた。
「アリスは金髪で、着ているのは青いドレスだ。それに何よりも、纏う気配がお前のようにおそろしくない。確かに、年は双方とも私と近くはある――のだろう――が、アリスはアリスだし、グリムはグリムではないか」
そう言うと彼女は背中を丸めて目を細め、んん……?とわずかに唸り、私の顔をじっと見つめた。まるで似ておらんではないか――そう心の内に物語っているような、そんな顔だった。
アリスはアリス、グリムはグリム。
女王が言ったその一言に、わずかに救われるような気持ちを覚えた。
「……生殖機能以外のなにもかもが退化した連中にとって、具合のいい穴っぽこが空いてさえいれば誰であろうと構わんのかもしれない、とは、私は思うが…………グリム」
……はい。
「アリスは処刑を免れ、街の方面へと逃げた。それだけは伝えておく。追うも捨てるもお前の自由――答えを出すのは私ではなく、お前の足だものな」
背を伸ばし、ぴたりと足を閉じた女王然とした姿で、けれども慣れ親しんだ友人に話すような声色でもって、彼女はアリスが向かった先を教えてくれた。その有り難い言葉に堅苦しく礼を口にしようとする私を、女王が制止する。
「んん、礼を言わなくてはいけないのはこちら側なのだぞ、グリム?あの狂った血族どもを皆殺しにしてくれた功績はそれほどまでに大きいのだ。――私を、守ってくれたのだからな?だから、そこまで固くならなくてもいい、し……その、なんなら、そのー……」
後半、妙に照れ臭そ
ヂッ
悪夢は取り除かなくてはならない。
ヂ
うな様子で、女王は私にもっと柔らかな態度で接しろと言ってくれた。
しかし女王――と口にしようとした返答もまた、女王が身を乗り出してつきつけた手のひらに止められる。
「あー……『ロリーナ』、で……いいわ。なんだか、もう誰も私のことを見てないんだって思うと、くすぐったくなってきちゃった」
そう言って朗らかに笑う彼女の顔は、はじめて――漸く――年相応の少女らしい顔に見えた。
凛とした女王の顔も、無邪気に笑う幼女の顔も、そのどちらとも彼女が被る仮面のひとつであって――それでいて違和が無い。けして演じているわけではなく、どちらも彼女……ロリーナという少女が持つ一面だったのか、と。
形を変える彼女の在り方を、私の意識がすんなりと受け入れていた事実をたった今実感した。
包み隠さない少女の顔になったロリーナに、私も言葉の殻を剥いて接することにした。ついていた膝を立ててゆっくりと立ち上がり、片手は胸元へ寄せ、彼女の微笑みに私もぎこちない笑みで返した。
――ありがとう、ロリーナ。
それでも、アリスを追いかけてみることにする。……今の、ところは。
ロリーナは、うん、と頷き
「不思議の国は広く、大きい。足が疲れた時は、いつでも遊びに来てくれていいのだからね?……近い年の女の子と話ができる機会なんて、そうそう無いんだから」
と、名残惜しそうに笑いながら言った。
……お互いにね。
小さく手を振るロリーナに、背後へ振り返りながら私も答えた。
「あなたの無事を『祈っている』から」
背中から聞こえたその言葉を背負い
私は女王の間を後にした。
*
城門を出て、石橋を渡りきったあたりで私はふっと振り返り、今一度人殺し城を見上げる。
けばけばしい赤色で塗りたくられた、巨大なミニチュアがそこにあった。
従者もいない。騎士もいない。高貴な血を持つ王族も、それとともに生きている者もいない。
居たのは――たったひとりの少女だけ。
「……っ…………」
私は、内の頬をわずかに噛みながら、それを見上げ続けた。
うかつに探りを入れて、彼女の正気を殺すまいと、不要な話題をできるだけ避けてきたが……矢張り、気にかかる。
彼女は何者で、いつからここに居て、どうしてそこに居るのか。あの紅い女王がこの国で知り合った誰よりも少女らしかったからこそ、湧き上がる問いは濁流のように押し寄せてきて……そして、そのすべてを飲み込んで、私は今ここにいる。
あの子は、この国の様子を少なからず把握している様子だった。ならばどうして、正気でいられる?
年の近いものと話をするのは、とても楽しげな様子だった。ならばどうして、暴君だなどと呼ばれている?
考えれば考えるほど、次々と矛盾が生まれ出てもどしそうになる。あの子はずっとあそこに居なくちゃいけないのか。誰もいない城の中で、城主として、ただひとり。それに何の意味がある?女王である、ということに――どれほどの意味が介在する?
両膝をつき、片手をついて、地面に流れる髪を見た。
これがこの国なのだろう。何もかもが矛盾に満ちていて、それこそが正当とそこに生きる人々は口を揃えて、だから狂っているのは私だけ。わからない。何も……何もわからない。わかってはいけないのだから当然だ。きっと、きっとこれは夢なんだ。夢の内には根源たる真相があって、それを突き止めてしまえば、夢は終わる。終わってはいけないから、みんな、変わり映えのない狂いを謳歌する。だが――ああ。
頭の中で重く響く頭痛が、土を握りしめる感触が。
わたしが感じる何もかもが、これがいずれ覚める夢などではないと押し付けがましく教えてくる。
……あの子はずっと、あそこに居るのだろうか。
不意に、私が殺した大鷲のことを思い出した。
飛べる翼をもったまま、飛べる空を与えられなかった鷲が居た。
どこへでも赴ける足を持ったまま、どこへも行かせない城を持たされた女王が居た。
大鷲の名は何と言った?イーディスだ。女王の名は何と言った?ロリーナだ。
何の変哲もないその二つの名前がどこか気にかかる。その二つを結ぶものがあったような気がする。それを私は知っていた筈なのに、記憶を参照する度、ぽっかりと空けられた穴を覗いているかのようだった。
名前。名前を結ぶもの……――苗字?ファミリー、あるいはミドル、この国に散らばっていた無数の名前は、確か……そう…………
……………リ
「――ぉうい、おういっ?よっぽど土の寝心地が気に入ったのかい、グリムっ?君の自由だから私は束縛しないが、その綺麗な髪を土くれまみれにするのは勿体ないと思うんだがなぁ……」
……………………。
いつの間にか体勢を崩し、地面に横たわっていた私の耳に、不意に聞き慣れた声が届いた。
腹の奥から漏れ出る呻きを口にしつつ、声の主の顔を見上げる。この子は心配そうな顔をさせれば大層可愛らしいが、心配させてばかりでは気の毒だろう。のそりと起き上がり、大丈夫――と一言、鷲獅子の騎士へなるたけ明るめの声色でそう伝えた。
眠たかったわけじゃないんだ、ただちょっと……混乱してた。
グリフィはほゃるるぅ……と小さく鳴いて、私の髪や顔、服についた土を羽毛で払う。
「あの女王に何か言われたのだろう?彼女、あれほど大層な態度をとっておきながら、自分で命じた処刑さえ目を逸らして見ようともしない臆病者なんだ。それでいてプライドだけは私が飛べる空より高いところにあるものだから、自分のことを非の打ち所のない女王だと思い込んでいて自分の非を認めようとしない。だから言うこととやったことと、あまつさえ当人の記憶すらみんな矛盾する。だからねグリム、あい――彼女の言葉は話半分に聞いた方がいい。それこそ私のように、三度回るか三歩歩くか三回羽ばたいてぼぅっと忘れてしまうのが一番さ。覚えておくには勿体無い」
グリフィはすらすらと、それでいてきっぱりと女王に対する自身の評価を言い切り、ふんっと鼻を鳴らした。
――これまた、私の中の女王像をくちゃくちゃに掻き回す言葉だった。私は、ああとかうんとか煮えきらない返事だけして、私が見たロリーナの姿を伝えることはしなかった。互いに混乱するだけだと思ってのことだった。
「ところでグリム、これからどこへ?」
街の方へ戻るつもり。今一度、情報を集め直す必要がありそうだから。
そう伝えるとグリフィは、ああそれならっ!とぽんと手を叩き、
「『仕立て屋』さんを訪ねるといいっ。私もあそこには三度と言わずお世話になってるし、大抵の人が大抵足を運ぶんじゃないかな?酒場も悪くないが、君にとってはあっちの方が役立つだろうしね!」
と、頭の上にぴこんと光る電球を浮かべて言った。
仕立て屋?ラドウィッジ市街に?
そんな店があるだなんて……知らなかった。ありがとう、それで場所は――
「じゃあ私は、これからウミちゃんのレストランへ行くからっ!旅路に余裕があったら是非来てくれたまえよっ!グリムのことは私から紹介しておくからねーっ!!」
――っと聞くよりも早くグリフィは羽を羽ばたかせて……って、ちょっ、とぉっ!?待っ!?仕立て屋もレストランもどこにあるかわからなきゃ行きようがっっ…………
……………。
……風も吹いてないのに、なんて速さだろう……。
羽根の数枚だけをこの場に残して、空の彼方へさっさと消えていってしまったグリフィを見送り、私は私でのそのそと地面を歩き出した。
仕立て屋。彼女が教えてくれた、その名前だけ頭の片隅に置いたまま。
*
禍々しい雰囲気の井戸がある、オー氏と話をした分かれ道。
本来ならばそこを左に曲がって市街へ行くところを、私は右の道、森の中へと足を運んだ。
分かれ道に差し掛かったあたりで、森の向こうから街や聖堂の方へと続いている無数の足跡を見つけ、加えて微かだがくすんくすんと女の子がすすり泣いているかのような声が聞こえたからだった。足跡の主たちはどこからどこへ向かったのか、すすり泣いているのは誰なのか――ほんのわずかな好奇心が、私をそちら側へと歩かせた。
鬱蒼とした森を抜けると、視界を包んでいた緑が、突如として鮮やかな深紅へと変わった。
一瞬、赤潮かと思ったが、むせかえるほど鼻につく鉄の臭いがそれを否定した。せせらぎを奏でる深紅の池へ足を踏み入れ、しゃがんでその水を掬いとってみると、それでも水は赤かった。どこまでも不透明な紅色。その上、まだ生暖かくすらある。
あたり一面を覆いつくすその池が、滝のように流れ出続ける血液で出来ていることに気付いたのは、しばらく呆けた後のことだった。
とめどなく流れ続ける何かの血。それに先程触れた手が、どこか艶やかさを得ている。
――あの人は、これを求め続けていたんだろうか。だとしても、裸になって全身で浸かりたいという気持ちまでは、そう湧いてはこないけれど。
「くすん…………ぅう…………」
ふと目をやれば、湖の中央に小島のような地面が隆起した場所があり、そこで一人の少女が泣いていた。
血の池をざぶざぶと掻き分け進み、縮こまってすんすんと泣いている少女のもとへ歩み寄る。
「んぅ……?わ、我が輩に何か用か……?生憎だがコーカス・レースはもう終わりを迎えたところだ……そして、みんな賞品が無いからと帰っちゃった。しょぼん……」
少女……少女……の筈。膝を畳んでぺたりと座り込んだ体勢……座高が直立した私とほとんと同じぐらいの長身で、実に暴力的な胸がふたつどたっぷんとくっついているが、その顔も雰囲気もあどけなさしか感じられないほど幼かった。
……これまたアンバランスなデカパイ鳥に会ってしまった。泣いている理由は今しがた彼女が話してくれたので、とりあえず泣き止んでと頭をふわふわ撫でてみる。
「ぅぅ……ありがと……」
しょげていては何も変わらない。次はちゃんと賞品を用意しておけばいいだけのことだろう。
失敗に次回に生かすべき教訓と変えて、また開催すればいい。
「ぅ、うむ、そうだな……そ、そんなにしっかり励ましてくれる人、我が輩はじめて出会ったっ!どこの誰かはわからないがありがとうっ!よいしょっ――あれ!?ど、どこ!?我が輩を励ましてくれたお方はいずこっ!?」
とりあえず、今の彼女に適当と思われる言葉を頭を撫でながらかけてみたところ、単純なのか立ち直りが早いのか……ぱっと元気を取り戻したようで、すっくと立ちあがった――瞬間、彼女は私を見失った。
ここ。ここだってば。目の前の引き締まったウエストをぽんぽん叩いて自己主張する。
「おおっ、そこに居るのだな!?………………あれ??」
彼女はおそらく私を見下ろそうとして、今度は自分の胸に視界を塞がれた。
なんか腹が立って、飛び上がって下乳に頭突きをかましてみた。
「あふっ!?」
思いの外重量があって、わりと頭が痛かった。
*
「うぉっほん!……それで、我が輩に何か用かな、おじょーさん?」
結局、自分と彼女の身長差を埋めるため、わたしが小島に立って彼女は池に降りて話す形になった。
それでもやっと同じくらいになるあたり、彼女の大きさがよく分かる。私は、本当ならば特段用事があるわけでもなかったのだが――彼女が着ている、彼女の体格にぴったりの服を見て、「仕立て屋」について訪ねてみた。
「シタテヤーー…………さん?………………ああ!も、もちろん知っているともっ!」
本当?よかった。なら、彼女が街のどこで店を開いているのかを教えてほしいのだが……
「えっ、お店なの!?…………。ふ、ふふーん!我が輩を誰だと思っているのだ!ド、ドっ……ドドであるぞっ!勿論知っている!何せ我が輩に知らない事はなーいっ!……のだからなっ!わはわはーっ……」
うん……それは……すごい。すごいなぁ。あこがれちゃうなー。
…………教えてくれませんか……??
「……え、えーとっ…………」
ぐるんっ、ぐるんっ、ぐるんっ。
靭帯が断裂するんじゃないかという勢いでばゆんばゆん揺らしながらの三回転。
「おお、なんということだっ!鳥は三度回ると忘れてしまうという格言をご存知かい?そういう訳だから君、シタテヤさんは諦めっぃだいだいだいだいだいだい!!!ごめんっ!!!ごめんってばぁ!!!あっっ♥」
やっぱり無性に腹が立ったので、目立ちに目立つ乳の先端を千切り潰すような力で引っ張り上げた。
……後半、妙に甘ったるい声が聞こえたのは無視するとして。本当に知らない?服を作ってくれる人のこと。
「はーっ……はーっ……たっちゃった……え?服を作ってくれる人?ああなんだ、クライスさんのことかっ!ならばわかるぞ、ほんとだぞっ!?我が輩のこの服も採寸から何から何までクライスさんにお願いして作ってもらったのだからなっ!……まあ、布が足りなかったとかで、よくボタンが飛ぶのだけど……おっと」
ばつんっ痛っっ
……………………。ちぎれたボタンが私の額に直撃した。
それならよかった。ならぜひそのクライスさんのところに案内してほしいいいいなああああああああ
「いだだだだだだだだぃぃいまのはわがはいのせいじゃっっあっっ♥♥もっ、もっとやさしっっだだだだだ!!わかったっ、わかったからぁっ!!」
とてもたすかる。引っ張りに引っ張った地点で手を離したらこれまたたぷんたぷん揺れた。ちょっと楽しい。
「はーっっ……はーっっ……♥…………ぇえと、それじゃあ……今からでも大丈夫かな……?」
勿論、直ぐであればあるほど良い。私も話を聞くがてら、服を仕立ててほしいし……彼女、ドドと名乗っていたっけ?……も、新しいボタンが必要だろう。
ドドはひりひり痛むらしい胸を羽でたぷたぷと揺らした後、
「では向かおうではないかっ!!……迷子にならないよう、手は繋いでおこっか。」
と言って、手を差し出しながらちゃぷちゃぷと歩き出した。
伸ばされた彼女の手をとり、私もざぶざぶと池に降りて彼女に続き、街へと向かった。
……けして悪い人ではないのだろうが、どこか抜けているというか、けれども憎みきれないというか……
私が今まで出会ったことのない人格をした、このドドという少女に手を引かれるのに、なぜだか悪い気はしなかった。
*
血溜まりが転々と続く街路を行き、飛びかかる犬を撃ち殺して踏み入る路地裏の先。
淡い水銀灯に照らされて、かすかに読み取れる「仕立て屋クライス」の看板が提げられた扉が、道の奥のそのまた奥に確かにあった。それを見つけて、存外に軽い扉をゆっくり開くと、からん、からん――と錆び付いた鐘の音がわずかに響いた。
「クライス、さーん……おぅい……?」
店内は暗く、水銀灯の灯りがわずかに射し込み、辛うじて足下は確認できたが、その一歩先はどこまで続いているともわからない暗闇が広がっていた。
ドドが不安そうに声をかけると、人の気配など欠片もしていなかった店の奥から、
「んん………………?」
というような、眠気に満ちたくぐもった声が聞こえてきた。
人の声というよりも、寝起きの猫の鳴き声に近かった。
猫はしばらくああとかんあとか唸った後、ドドに声をかけられたのだということを理解すると、欠伸をしていたのか、息をたっぷり吐き出しながら、
「ヴァルクフォーゲル……またなのかぃ……?ぃったいいくつボタンを飛ばしたら気が済むんだ、君ぁ……こないだ仕立てたばかりじゃぁないか」
と愚痴をこぼした。
ヴァルクフォーゲル……和蘭語か?ドドの別の名なのだろうか。詳しくは知らないが、あまりいい意味合いの言葉でもなかった気がする。
ちかっ、と突然どこかが光った。眩しさに思わず目を細め、顔を手で覆っていると、光は断続的なものから恒常的なものへと変わっていく。明るさに目が慣れて、ようやく瞼を開けられたとき、私達の前方には、机とそこに置かれたランタンがあった。
光の元はランタンだ。だが、その内にある光は炎でも電球でもない。
「どうせまた成長したんだろぅ……?採寸するから、はやく脱いでくれ……って……おや」
ソウルだった。
そこにあるだけで店内を照らし尽くせるほどの光度を放つ、魔力によって練られたソウルが、灯りとして使われていた。
机を挟んだ向こう側。
深い青色をした髪の女性の目が、長い前髪と片眼鏡の向こう側で、私に向かってにこやかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。これはまた珍しいお客さんだ」
羽もない。尻尾もない。
獣の耳も生えてなければ、狂ってもいない。
本当に……何の変哲も、まるで無い――
「普通の女性」が、そこに居た。
・「仕立て屋クライス」
不思議の国、もといラドウィッジ市街で生まれ育った
11万人の娼婦の内のひとり。
男たちから搾り取ったソウルを弄ぶ内、
それを錬成し、物体へと昇華させる術を身に付けた。
現在は路地裏の奥でひっそりと店を構え、
代金として受け取ったソウルを衣服へと仕立てる商売を行っている。
固定客はそれなりに多い様子。
数多存在する、不思議の国の住人。
その内の一人に過ぎない。