今話からオリジナル要素、オリジナルキャラが色濃く表出ます。
この先、怒涛の独自設定と独自展開が待っているぞ……
「それ、なら……その……ええと」
使われた形跡がほとんどない、小奇麗で不釣り合いな大きさの椅子にぴょんと腰かけて、私はテーブル越しに向かいの彼女に問いかける。
クライスは温かなスープを口に運びながら、目線だけで私を見た。
同じものが私の前にもあったけれど、それを口にする気は起きなかった。
「貴女は、外をうろつく紳士や乞食を、殺して――それと――交わっ……て」
「うん」
「……ソウルを、集めていた……。だから、その」
「かれこれ二十年くらい前かなぁ」
私の言葉に耳を貸しているのかいないのか、クライスはそこで宙を見た。
「自分がネクロフィリアだと気づいたのは。それも、自分が殺した死体にしか、そぅいう気持ちは湧かなくてね。殺しに殺しに殺したよ。それから犯した。とても気持ちがよくて、夢見心地な気分だった。ああ!死んで、ぃる。さっきまで棒を振り回してきた連中が、爪をたててきた連中が、今はヒトのかたちをしたモノになって、ぃる」
恍惚とした笑みを浮かべ、頬を紅潮させていくクライスの姿は、背筋に冷たさを感じる程に淫靡だった。
「なんて美しいんだろう。そう、どこかで聞いたけれど、ヒトは死んだらカミサマになるそぅじゃないか。ぃや、ホトケサマだったっ……かな。それを僕は穢している。自分の手でカミサマに仕立て上げたそれを自分の手で穢すんだ。此れに勝る快楽なんてなかった。したいときにしたいとしたいようにした。そうしてそうして、繰り返し、繰り返し、繰り返してたら」
淫靡な笑みをぱたんと閉じて、クライスは自身の指の先にソウルを灯した。
マッチの火ほどの大きさのそれを、彼女はもう片方の手のひらに押し付けると、そこに何かを描くように指を動かし――指と、手のひらをふわりと離したとき。ぱさり、と踊るようにはためくハンカチーフが出来ていた。
両の手の指先でハンカチーフの端をつまんで見せながら、クライスは笑う。
「こんな芸当が、出来るようになっていたんだ。――ぉかしな話だろぅ?ひとかじりすれば、ほのかに甘くてとろけそうだょね」
それを――正気、と……呼ぶべきなのだろうか。
きっと、紛れもなく正気なのだろう。ただ、私が持っている……保っている常識に依れば、生まれてこの方殺人と屍姦を繰り返し続けてきたというその経歴を、くすくすと微笑み交じりに話す行為は、狂気でしかないというだけで。
けれど目の前のこの女性は、クライスにとっては、それは日常であり、それを狂っていると認識しない意識こそが、彼女が持ち得る常識なのである。
その意味で、飽くまでも、私が彼女と接することで得た感覚に基づけば。
――彼女は、外をうろつく市街の住民の誰よりも正気で、常識的だった。
「…………それで……仕立て屋を」
「そうそうっ。みぃんな、娼婦だけじゃつまらないってんで、新しい事業をやるもんだから。流行りに乗っかって、店を構えたのが六年前。そしたら、これが存外に盛況でね――ヴァルクフォーゲルのような女の子がこぞって服を仕立てに来た。男は、まあ見ての通りだけど……安心したし、楽しかったね。話せるやつもぃるんじゃぁないか、って」
人はソウルを失えば正気を失い、人ならざる魔獣へと堕ちる。
反対に、ソウルを集め続けて、保ち続ければ正気は失わず――内なるソウルの扱いに長けていく。
その、新しい事業というのは……。
「さまざまさ。ビリングズゲートに行った子は漁師をやってるし、上層で娼婦を続けてる子は不動産屋を始めたっけ。そうそう、屠殺場で解体をやってる子もいる。公爵夫人のもとに働きに行った子は今も元気みたいだし、リポン聖堂に信者として迎えられた子は――ぁぁ、最近連絡がなぃな。ぁの子が使ってる櫛、もとは僕が送ったものなんだ。餞別に、って。大事にしてくれてるといいんだけど……そうだ、旅路で誰かと会ったりはしなかったかぃ?」
………………。
いや……知らない。彼女の口から聞かされた地名は、まだ行ったこともない場所も多かった。
この国で娼婦として生き延び続け、ソウルの扱い方を自然に身に着けた者は、市街を出ることも少なくないようだった。私からすれば狂いでしかないこの国でも、己として生きている者が確かに存在している。
――。この国は…………
「……ぅん?」
「……この国は――貴女に、とって…………」
不意に私の口からこぼれたその言葉に、クライスは即座に答えた。
「ふるさと、だよ。腐った屍と赤黒い血液が放つ鉄錆びた香りが、僕はいとおしくてたまらない。君ら旅人が何を言おうと、それだけは変わらない。僕が生まれ育った国はここであり、僕が生きる世界はここなんだ」
曇りのない眼差しの奥底に、そっと頭をなでるような、僅かな慈愛を垣間見た。
彼女は、これからも生きていく。この世界で、この国で――仕立て屋を経営しながら、時に男を殺し、まぐわい、ソウルを集め。
変革はないけれど、変化もない。激しい喜びも深い絶望もない、ただ地続きの日常だけが、彼女の未来には存在している。
未来。
聞き慣れない単語が脳裏をかすめて、漠然とした不安感に襲われた。
「君にも、ぁるんだろぅ?帰る場所は……」
「……………………」
私は、
幾度となく、いくつもの自分の未来を視た。
共に世界を牛耳る師は、異形に腹を食い破られて死亡した。
聖なる騎士として戦い続けた戦友は、魂ごと焼かれて炭になった。
小さな薬屋を切り盛りしていた友達は、殺人鬼として処刑された。
神を信じ、神に殉じ続けた聖女は、神の供物として神に殺された。
そのどれもが
なにもかもが
破滅と後悔で終わる、ただ後味の悪い終わりであったことを、黒く穢れた魂が覚えている。
「……?」
クライスが訝し気に私を見た。
私には笑い声が聞こえていた。
家庭を持つのが夢だった親友の子供が、死んだ母親を見て口にしていた笑いだった。
次の瞬間には身侭に殺されるその者が、死ぬ直前まで高らかに放っていた笑いだった。
出会った時から尽し続けてくれた従者が、私の子宮を喰らっているときの笑いだった。
止まない、止まらない、いつまでも、いつまでも響き続ける、からっぽな
妖精の、笑い声。
「わた――しに」
震える唇で、私は紡ぐ。
「帰る――場所、なんて――――」
「――どこにも――ない」
がむしゃらに何かを殺し続けることで押し隠し続けた心は、不意に訪れた日常のひとかけらに触れることで容易くあふれ出た。
どこかに帰るために戦っていた、わけじゃない。
ただ、どこにも帰れないという事実を認識したくなくて、目を逸らし続けていただけ。
――私という存在は、最初から、まっとうな人間ではなかったのだから。
それから、暫くの沈黙があった。
「ね」
変わらぬ声色で、クライスが問いかける。
「君ぁ、名前を何てぃうの?」
「…………」
グリム。
泣き腫れた喉で、なんとか名乗った。
クライスはそれを聞くと、じゃあグリム――と前置いて、
「ここは、どう?」
両手を広げて、小首をかしげてそう言った。
「…………どういう意味……ですか?」
「言葉の通りだよ、グリム。君も僕らと同じように、ソウルの扱いにも殺しにも長けているんだろう?なら、ここに住むのはどうかな」
住む??
……こんな、血肉にまみれた世界に?
「ここじゃあ何を食べる必要もない。眠る必要だってない。笑う猫は優しいし、眠る鼠は暖かいよ、グリム。ただ時々、外に出て狩りをして、ソウルを集めればそれだけでいい。それだけでいいんだ。それだけで、僕達は生きていける」
クライスは、そこで一口スープを飲んだ。
「すべては等しく娯楽なんだ。死ぬまでの暇つぶしさ。おあつらえ向きにここには腰を据えられる場所がたくさんある。屋根もある。どうかな?僕らが生きていくに不自由なことは、なにひとつだって無いと思うけれど」
俯く私に向かい、クライスは体を乗り出して、細い指先で私の目元を撫でた。
「――だから、泣かなぃでおくれよ、グリム。君くらいの女の子に目の前で泣かれると……僕はどぅしてぃぃかわかんなくなる」
彼女の指先には、確かに透明な雫がついていた。
泣いて、いたのか?私は……いつのまに?
……そうだ。腫らした喉で声を出したばかりじゃないか。なら、泣いていたに決まっている……
遠い昔、誰かに、お前は泣き虫だと言われたことがある。
私は、もう遅いだろうが――ぐぃっと手首で目元を拭った。そうだ、泣いてなどいられるか――私は
私は――――。
「……泣き、ゃんだ……かな……?……グリム。だぃじょうぶ……?」
――私はやっぱり。
存外に、たくさんのことを忘れているらしい。
大丈夫です、クライスさん……ありがとう。
でも、私は――ここに腰を下ろすつもりはありません。すぐに、発つつもりです。
「そっか。……そぅだね。この国で、確かなのは自分の意思だけだ。自分が何をしたぃのか、どぅしたぃのか――それだけが、自分を保ってくれる」
私は、そこで目の前のスープを一口で飲み干した。
深いコクのある、美味しいスープだった。
それが何から作られているものかなんとなく理解した上で、私はそれを喉に通し、胃袋へと納めた。
「忘れないでね。自分を救うのは、ぃつだって自分だから」
こくりと頷いて、応える。
続けざまに私は、自分の意識の中からあるものを取り出し、それをテーブルの上に置いた。
「……これは?…………――まさか」
私はここに、スープを飲みに来たのでも、談笑をしに来たのでもない。
もとより用のあったドドは新しい服を着てそうそうに帰ってしまった。今ならば、仕事の話が出来よう。
「精神病棟に居た、ある大鷲のソウルです――これを、錬成してくれませんか」
*
指揮者が指揮棒を振るように、ふわりふわりと踊る彼女の手の内で、錬成されていくソウルが衣装を形作る。
幾重ものフリルが重なった大きなスカートは、まるで広いバージンロードを歩くためのウェディングドレスのようでもあるが、けれどもその生地は薄汚れた灰色をしていた。腰や袖や胸元にいくつものベルトやボタンが巻き付いた、学徒の制服にも拘束服にも見えうるデザインのトップスとはまるで感じが違っていて、押し隠していた夢が溢れ出て足下を覆っているかのようだ。両腕を包む長い袖には浅黒い羽が装飾として施され、唯一首元だけが鮮やかな金色のボアで包まれていた。
私に合わせて仕立てられたその衣装は、小柄な私の体にぴったりと収まるのは無論のこと、思っていたよりも体に馴染み、不思議と着心地が良かった。
姿見を支えながら私の顔色を見ていたクライスが、悪くないといった私の表情を見て、ほっと小さく微笑んだ。
「そいつにぁ、鉄の加護がついてる。物理的な攻撃に対しては、君の普段着よかずっと耐性がぁる筈だよ」
それは助かる。身を守ってくれない衣服はもうたくさんだ。尤も、狩人の戦い方としては、受け止めるより回避することに専念するのが正しいのだが。
……しかし、新しい服が出来上がったのはいいけれど。身にまとった時から、頭の中でがんがんと重く響くものがある。
そのことについて問いかけると、クライスは声を少し低くして答えた。
「ソウルの持ち主の記憶だろぅ。……その声が何かは僕にはわからないが、わかったこともひとつある。あの子は――」
――三女イーディス・***は、王子様の夢を見た。
「僕には、この記憶の真偽を知る術はないが……イーディスは、寡黙で大人しめの子だった。近寄りがたい印象もあったけど、でも決して悪い子じゃぁなかったんだ。僕らの年代には珍しく、物語を考えたり、夢をみたりするのが得意な子で、馬鹿にするやつも多かったが、彼女が語る物語が――僕ぁ、好きだったんだよ」
クライスは突然、懐かしむようにそう語りだした。
……彼女を、知っているのか?
「本当かどうかはわかんないよ。後から付け加えられた記憶なのかもしれない。或いは幻覚が、他の想い出と並んで納められてるのかもしれない。だけど僕の中には、イーディスって女の子のことがらが生きていて、それに基づけば、僕も彼女も同じ学院で同じ勉学に励んでいたってことだ」
今の僕にとっては、今の僕だけが、信じられる確かなものなのだけれど。
最後にそう付け加えて、クライスは寂しげに眼を伏せた。
……学院、とは……何だ?
紅い彼女も似たような言葉を口にしていた気がする。
そうだね、とクライスはため息と一緒に一言溢し、
「君が知りたいなら、その服を着て、霧の公園を抜けて上層を越えるといい。嘘も誠も愚かさも正しさも、ひた隠された時間もそこにある。この国の不思議に飽いたなら――訪れてみるのも、ぃぃんじゃあなぃかな」
どこか疲れ切った顔で、そう伝えてくれた。
私は彼女の、あまり思い出したくない、触れたくない過去に、意図せず触れてしまったのだろうか。
心の内に申し訳なく思ったが、けれどもその気持ちを晒すわけにもいかず、私は礼を言って代金を渡そうとした。
「ぁあ、待って待って。ソウルはいらないよ、あんなに大きな仕事をさせてくれたのは君が初めてだ。とっても楽しかったし、いい経験になった――代わりといっちゃあ、なんだが――」
「大きなソウルが手に入ったら、ぜひとも僕のところへ足を運んでくれないかな。仕立て屋クライスが、全身全霊をもって錬成するから」
勿論だ。こくりと強く頷き、彼女に応える。
「ぁりがとね、グリム。……体に気を付けて」
部屋を出て、玄関の戸に手をかける。ゆっくりと開くと、からり、からん――と静かに鳴った。
「かねて知を恐れたまえよ」
最後に彼女が言った、その一言の意味だけは、どうしてもわからなかった。
*
時は春、日は
片岡に露みちて、
すべて世は事も無し。
霧の公園の入り口に立てられた看板に記されていた詩である。ざわめく虫たちの合唱に交じり、それを読み上げる私の声が、更地となった公園を覆う霧の中へと融けていった。人の声らしき声は全くもって聞こえてこない。市街部からずいぶん上へと階段を昇ってやって来たから、紳士と乞食が乱れて交じるあそことは大分距離があるようだ。ここには私を襲う男も爪を立てる女もいないから、居心地は悪くなかった。
その詩の意味はよく知らない。ただ、これを書いたのが英国の詩人であり、長編劇詩の一部分だということをなんとなく記憶していた。平易な詩句とのびやかで肯定的な主題の詩は、口で読み上げてこそ。唇と舌、それから喉で奏でる歌は、私に正気でも狂気でもない、穏やかで冷静な心を寄越すに十分だった。
と……そんなようなことを考えたのが、霧の公園へ足を運んだばかりの、たぶん数十分前のこと。それから私は大きな噴水やなぜか生えているサボテンなんかの間を通り過ぎ、歩いて歩いて歩いた後、見覚えのある景色へと戻ること数十回。
(…………迷った。)
ただでさえ霧に包まれて視界が悪い中、鋸で地面に描いた地図によれば、ある一定の箇所につくとループして最初の地点に戻される……らしい。厄介な仕組みをしたこの公園のど真ん中、もう何十回も見たあの看板と大きな噴水がある地点のベンチに腰掛け、私はがりがりと頭を掻いた。
ぼろぼろになって朽ち果てた他の看板や立札を見ると、この公園はかつてハイドパークとも呼ばれていたことがわかった。この広さだ、ここが公園の体を保っていた頃にはさぞ
この公園だけじゃない。この国にはいささか、足りないものが多すぎる。例えば――
「
――意識の外から、真隣に寝転がっていたチェシャ猫がそう言った。
何だって?手のひらを宙に向け、てしてしと何かを弄んでいるらしい彼女に、今一度聞き返す。
「にゃーはろー」
にゃーはろー。
「
チェシャ猫は相も変らぬ饒舌ぶりを発揮して、けれども不思議なくらいすんなりと意識に吸い込まれる言葉づかいで、目線も指先も私以外を向きながら話した。
「だからここはおかしいのさ。なんていったって、国そのものがアリスを求めているんだから。そこに渦巻く狂気も血肉も、あたりまえのものとして受け入れる住人しか生きていない。何のこともない、不思議ですらない、ただのいかれた滅びゆく国。ここはそんな場所でしかない。アリスのために築かれておきながら、その実、どこにもアリスがいないんだから。いるのは、それを探し求める連中だけ」
……アリスが、いない?
どういうことだ、とチェシャ猫の尻を叩く。ぶにゃうん、なんていうような鳴き声をあげて、チェシャ猫が答えた。私ならここに居る……そう言った私の言葉を受け止めた上で。
「いないから、たてるしかない。受け入れるしかない。妥協するしかない。つくるしかない。国が国であるために、アリスはどこだ、と尋ねる者たちに、アリスはここです、と言うしかない。そして生まれたアリスどもはみぃんな、不思議の国に喰われちまった。当たり前だよね、彼女らには帰る場所がどこにもないんだ。どこにもないから、ここにつくるしかない。そうしてアリスは生まれてはいなくなって――求められて求められて求められ続けた果て」
チェシャ猫が、すっ、と立ち上がる。
木のベンチの上に、凛と立って――私の両頬に両手をそえて、私の眼を覗き込んだ。
「君が、来た」
その、瞳の向こう。
チェシャ猫が見る私の顔が、私の髪が、私の服が――
顔を黒く塗りつぶされたアリスのように、見えた。
きっと消える。そう思って、私がチェシャ猫の両頬を両手でつかんでやった。
なにがしにつままれたような顔をするチェシャ猫へ、私は問いかける。
「私は、アリスなの?」
「君が望むならね」
にたりと笑って、そう答えて……チェシャ猫は霧に融けていなくなってしまった。
未だ手の中に残る肌の手触り。人のそれと遜色ない筈の感触が、今はどうしてか、ふわふわとした毛並みを撫でた後のような甘い痺れとなって残っていた。紫色の艶やかな毛並みを、やさしく撫でた、あの時の。
……。あの時とはいつだ?私はいつのことを思い出している?両の掌を見つめると、数本、紫色の猫毛がそこに付着していて――指には、見覚えのない指輪がついていた。
君がそう望むなら。彼女はそう言った。そして私には、あるはずのないアリスの記憶がふつふつと湧きかけている。無数のアリスが生まれては、ここに居場所を作り、アリスではない住人と成り果てた。私も、そのうちのひとり、なのか?
痺れの残る両手で頭を掻きむしり、クライスの言葉を反芻する。
『本当かどうかはわかんないよ。後から付け加えられた記憶なのかもしれない。或いは幻覚が、他の想い出と並んで納められてるのかもしれない。だけど僕の中には、イーディスって女の子のことがらが生きていて、それに基づけば、僕も彼女も同じ学院で同じ勉学に励んでいたってことだ』
記憶など、後からどうにでも書き換えられる。そうして物語を改竄し、思うまま世界を蹂躙した存在を私は知っている。記憶を持って五分前に生まれた事実を否定できないように、私という存在は、きっと飴細工よりも儚く脆いものなのだ。お前はアリスだと言われて、それを信じれば、私はアリスになる。アリスにさせられる。行く先々で、この国中で、言われ続けたように。示され続けたように。
――ばかげている。
両の手でベンチを押しのけ、立ち上がり、今一度私は鋸と短銃を手に取った。
私は、私だ。私にある記憶の全てが、改竄によって与えられたものだとしても、私が私であることだけは――辞めたくなかった。
足を止めないこと。前に進むこと。それこそがお前の持つ唯一の強さだと――そう師に教えられたから。…………。
「……ああ…………」
不意に思い出したその記憶に、息をついた。
気付けば、公園を覆っていた霧はどこにもなく、真っ直ぐ正面に公園の出口であろう門と階段が見えている。ただのか弱い少女でしかなかった自分が、ここまで来れたのは……その師の教えあってのものだった。それをたった今、漸く思い出した。
「……?」
霧の公園の出口へと足を運び始めたあたりで、階段の上あたりに立っている人影に気付く。
近づかなくては気付けないほど小さな人影。体格が私と同じか、より小さいかくらいの少女が、こちらを窺い見ていた。
『いないから、たてるしかない。受け入れるしかない。妥協するしかない。つくるしかない』
チェシャ猫の言葉を思い出す。この先のラドウィッジ市街の上層部……そこに住まう、少女のひとり……だろうか?階段のふもとまで来て、その少女を見上げると、少女はスカートを抑えながらにっこりとこちらを覗いた。
鮮やかな長い赤髪がさらりと垂れ流れていて、後頭部にあるのだろう大きな白いリボンがぴょこんと見えている。黒ずんで汚れたエプロンドレスには二丁の拳銃が提げられていて、彼女がここでどう生きていたのかがよく理解できる風貌をしていた。
少女は大きな黒い眼で私を写し、はつらつとした声で
「ようこそ、お姉さんっ!これより先はラドウィッジ市街の上層部――霧の中から女の悲鳴が絶えず聞こえてくる、くそったれた地獄の娼館通りだよっ!」
そう、私に紹介してくれた。
*
霧の中、地べたを這う娼婦の成れの果てや淫婦を撃ち殺しながら、少女は自身を『コイン』と名乗った。
コインはずっと前からここに暮らしていて、姉と慕っている者と二人で生活しているのだと言う。客が来るのかも定かでない不動産屋を営みながら、毎日を姉とここで過ごしていると。
不動産屋の存在は、クライスからも聞いていた。私が自身の名を名乗り返すと同時にその名を口にすると、コインは
「仕立て屋さんを知ってるんだ!私のリボンも仕立て屋さんが仕立ててくれたんだよっ!」
と、この国に似合わない綺麗な笑顔を見せながら言った。
下層とは比べものにならないほど、瘴気と死臭と性臭に満ちた醜い街並み。それと全く足並みを揃えようとしていない、孤高にすら思えるコインのはつらつとした姿。私という少女の存在は、あるいは、下層の紳士たちにとってこのコインのように見えていたのかもしれない。ならば成程、求めたくも穢したくもなろう――コインに手を引かれて通りを走り抜けながら、私はひとり、そんな邪なことを考えた。
「ね、お姉さんも狩人なんだよね?」
半身を失いながらずるずるとこちらを追いかけてくる白衣の悪魔や、草むらから飛び出す道化女たちを撒き、入り組んだ路地裏に身を潜めていると、不意に振り返ったコインがそう問いかけてきた。
そうだよ、と答える。好きでやっているわけでもなく、ただ必然的にその戦い方になったのだけど。
「じゃあ、たぶんおんなじことができると思う。見てて――」
コインは人差し指を立てて、自身の唇にそっと押し当てた。何だろうかと思った次の瞬間、目の前を歩き過ぎようとしたサキュバスの背にコインが銃弾を叩き込む。派手な銃声と共に、不意の一撃を喰らって体勢を崩すサキュバス。その背に向かい、コインは――
「よい――しょっ、とッ!!」
どっぢゅッ――!!!
骨を砕き肉を裂く生音を響かせ、サキュバスの背から腹部へ向けてその細い腕を突き刺し、また、ぶぢゅあッ――!!!というような音を響かせて、その内臓腑のすべてを引きずり出した。おびただしい量の血液が噴き散らされ、一帯を赤黒く染める。血液と臓腑に濡れたコインの細腕が、てらてらと輝いていた。
…………なっ……えっ……!?……何を、したんだ、と問うよりも早くコインは、
「今のが内臓攻撃。
大きな白いリボンをぽよぽよ揺らして、矢張り綺麗なままの笑顔でそう言った。
…………。成……程。彼女がここで生きていけている、その理由の一端を垣間見た気がした。
背後から不意の銃撃を叩き込み、空けた風穴へ腕をねじ込み、そのまま臓腑を引きずり出す。どんな頭をしていたらそんな攻撃方法が思い浮かぶのだろうと考えもしたが、ここに正気のまま生きる人間にそれを問うのは、たぶんナンセンスだというものだろう。それがたとえ、輝かしい笑顔を見せる少女であっても。
「そういえばグリムさんは」
血に濡れたまま、コインが私の名を呼ぶ。グリムでいいよ、と私は返す。
「ん!じゃあグリムは、どこへ行きたいの?ここからなら私とお姉ちゃんが住んでる娼館や、学院の方面へ向かう通りにも近いけど」
学院へ。用があるわけでもなく、ただ、行ってみたい――そんな好奇心によるものだけれど。
自分で言っておいて私は、まるでアリスだな、と思った。
「おっけぇ。学院へはね、おっきな門を通るの。って言っても、そこの学徒さんしか入れないようになってるから、行っても見学になると思うけど……ついてきて、グリムっ!」
屍を踏み越え、コインがぱたぱたと駆ける。這って襲いかかる娼婦や淫婦が多いここでは、せわしなく駆けるのが最も効果的な移動手段なんだろう――そんなようなことを考えながら、私も彼女の背を追って駆けた。
*
この上なく狂気的に描かれた世界が、楽し気にそこを駆ける少女の存在があるだけで、華やかな御伽噺となるように――
この国に存在しない、吹き抜けた青空を宿したような笑顔で活きるコインの姿を見ていると、こんな街で生きるのも悪くないと、ほんの少しでも思ってしまう自分がいた。
私とコイン、幼い少女が二人で駆け抜ける、異形と成って果てた娼婦たちが跋扈する街並み。この光景を見る第三者がいるとしたら、その者には、きっとこれすらも童話のように映るのだろう。姫や王子といった華やかなものさえあれば、どんな狂気も童が笑う物語になるのだから。
入り組んだ道ですらない路を行った先。少し開けた家屋と家屋の間に存在する空間。
大きな石造りの門を前に、コインは足を止めた。彼女に続いて、私も足を止める。
「お待たせ、グリム。この先がそうだよ」
この先が、学院?
「うん。私やガストお姉ちゃん、クライスさんにメルさん。私たちの誰もの記憶が束になって、ひとつに重なるところ」
くるり、と振り返って、後ろ手に手を組み、コインが笑う。
まるでチェシャ猫のような、私の脳に届かない意味を込めた言葉を紡いで、コインが笑う。
「……コイン?」
私が呼びかけるのと同時に、彼女は笑顔を消した。
「ガストお姉ちゃんによろしくね、グリム」
ひゅっ、と何かが風を切る音が聞こえた。
何を言っているのだろう、そう思って近づいた私の体を、コインがどんと突き飛ばした。
――私は。
彼女の小さな体に、血で赤さびた白銀の刃が、背から腹にかけて突き立てられる直前に。
「たぶん、私は、そろそろ」
そう、彼女が口にしているのを
確かに、聞いた。
「こふ」
一息、むせ返ったコインの口から、赤黒い血液が溢れた。
突き立てられた刃が引き抜け、糸が切れた人形のようにコインが無造作に倒れ伏す。
その背に立っていたのは、見覚えのある獣顔。少女の血を浴びて、静かに微笑む男の姿が、そこにあった。
目を見開き、僅かに口を開けて震える私に、男は静かに言い放った。
「ふむ。この欲望の吐き溜めがそんなに気に入ったのかい?……だとするなら、娼婦に堕ちる前に殺してやるのが情けというものか」
――鋸と、短銃を握った両の腕を、眼前で交差させ、私は構える。
「彼女によく似た君の服と体を血で汚すのも、きっと、俺が背負うべき責務というものなのだろう」
いつか見た、酒場の貼り紙に書かれていた殺人鬼の様相と、精神病棟に残されたカルテの内容が、目の前の男の姿と重なった。