人を――
殺す、ことに、抵抗を覚えなくなったのは、いつからだろう。
私には『ひと』であった頃の記憶がない。生まれた時から不死人であった気がするし、そうでなかった気もする。ただ漠然とした、十五の少女が持ち得るであろう常識や倫理、学ぶであろう生活や世間の様相と言った『身に覚え』がどういうわけか存在していた。それによれば私は、十九世紀の英国で暮らしていた、それなりに身分のいい少女であった――らしい。
だから、はじめて敵を手にかけた時は何度となく吐きそうになった。牢獄にいた獣顔の看守は無論、羽虫のような小ささの妖精を殺した時でさえ、その光景が頭の中に焼き付いて離れそうになかった。『わたし』にとって自身が不死人である事実と、ロストエンパイアという世界で戦い続けなくてはならないという環境は、あまりにも苦しかった。
殺し、殺し、殺され、殺され。それから殺して、私は生きた。
もとより存在していた倫理や常識など、投げ込まれた環境の歪さの前に容易く消えていった。
だからときどき思うのだ。倫理のカケラも存在しない敵と相対した時、それを問おうとして、私はどうやってそれを失ったのだろうと――。
「――ああ、そこに居たのかい」
ひたひたと足音を立て、彼が……切り裂きジャックが近づく。
深く切り裂かれた左肩からはだくだくと血液が溢れ出て、私から明瞭な意識を奪い去っていく。止血剤を塗り込み、輸血薬を打って応急処置をするが、傷が塞がるよりも早くあれがここに来ることは確かだ。力の入らない左腕を垂らしながら、右腕には鋸を握り、彼の眼前へと私は姿を現す。
「逃げないでおくれ、狙いが定まらない――大丈夫、俺は楽に殺す術には長けているんだ。どうかそのまま、じっと動かないでいてくれないか……」
刹那、空気が揺れる。秒と経たず迫り来る彼の切っ先が私の喉をかすめた。
あともう僅か、後方へ跳ぶのが遅れていたら、私の頸動脈は真っ二つになっていた――体勢を整え、次に来る連撃を鋸で弾き、その刃の重さにひやりと汗を流す。
速い――私よりも、ずっと。そして一撃が重い。守り、後退すればするほどじりじりと体力を奪われるようだ。鋸を振るう右腕が痺れて感覚を失いはじめたあたりで、私は前に出た。
退けば、恐れば……迷えば敗れる。殺さなくてはならない、確実に。
あれがコインを殺した者である為だとか、そういった理由はそこには介在しない。私が殺されないために、あれを殺さなくてはならない。それだけだ。だが――。
前進しながら振りかざした鋸が、ジャックが振るう刃に弾き飛ばされる。右手に重い痺れだけを残し、がきんッ――と壁に吹き飛んだ鋸がぶつかって奏でた金属音を耳にして、その瞬間に漸く私は自分の手から武器を奪われたことに気付く。
「はッ――――ぁ」
蛮勇による前進が、私から戦う力を奪い去った――。それに気づくより早く、貫くような衝撃が腹部に奔る。あらゆる臓腑が破裂して、逆流する血液が噴き出る速度を超えて、私の体は後方へ吹き飛んでいった。
――蹴り飛ばされた。のか? 私は?
敷き詰められた石煉瓦の上を小石のように転がりながら、全身を打ちのめされる痛みに気を飛ばしそうになりながら理解した。家屋にぶつかり、骨に無数のヒビが入る感触を覚えながら、私の体は停止する。
立ちあがる――どころではない。激痛の重圧に押しつぶされそうで、身動きひとつ取れやしない。横隔膜がせり上がって、呼吸すらままならない。空気を求める喉の奥から、ごぶっ――と血反吐を吐き散らした。
「がっ……ふぇっ……!! あ――っ……か………………」
「だから言ったんだ。すまないな。痛くするつもりはなかったのだけどね……」
びくびくと痙攣する私のもとへ、ジャックが歩み寄る。赤さびた刃をかざし、私に向けながら……一歩ずつ、ひた、ひたと。
また……死ぬのか? コインと同じように、体を貫かれて……?
そして蘇って…………どこへ行く? 私が殺さない限り、奴はずっとここに居続ける。気を奪い去りそうな激痛を感じながら、それでも無意識の内に奇妙な確信があった。
切り裂きジャック。この国に生きる無数の娼婦を殺して回っているシリアルキラー。獣人の膂力と狩人としての経験が、彼を無二の実力者へと成り立たせていた。巨大な化け物でも獣でもない、確かな実力を持つひとりの人間――。それが、これほどまでに、手強い。
「は……っ…………は…………っ」
武器。武器を持たねば。むざむざ殺されるわけにはいかない。戦って、殺さねば。
ストームルーラーは……振るえそうにない。ハンスの機関銃もだ。ならば何を持てばいい? 今の私は、何ができる……?
からん――。
と……スカートの内側から、私の意思に応えるように何かが零れ落ちた。足下に転がったそれは、ウサギ穴で最初に拾った……あの、折れた剣だった。
「……っ、く……ふ、ふっ……」
私の手に残ったのは……それだけか。
その絶望感に、思わず笑みが出た。くっくっと笑い、笑うたびに腹部に激痛が走った。
ああ、これだ。久しく忘れていた。あまりにも実力が違い過ぎる者と相対したときの、それを打ち倒さねばならないという、突き落とされるような絶望感。
炭鉱であれに殺されて逃したせいで、彼女が命を落としたな。そんなことをふと思い出す。走馬灯か? 不死人の私が笑えるな。思い出したところで、生き残る術などあるまいに。
ジャックの刃が、私の頭上に迫る。
何人の娼婦の腹を、それで裂いたのだろう。
私も同じように死ぬのか。これから先、何度も、何度も。
「綺麗な髪だ」
ぽつりと、ジャックが呟いた。
……この灰色がか? 何を言っている? 何を見て――
…………ああ。
「君を殺したくはなかったのだがな」
「リデル」
こいつも。今も、ずっと。
私でない、私を……見ているんだな。
その果てしない腹立たしさに、私の指の先がわずかに動いた。
*
『どうした? *****。剣が落ちたぞ』
……。
誰かの声がする。
ああ、またか。
また、身に覚えのない古い記憶か。
『学びたいという気があるのなら、いついかなる時も手放すな。死ぬまで、いや……お前の場合は、死んでもだ』
誰が言った。そんなことを、いつ、誰が言ったんだ。
私じゃない私の名前を呼ぶな。私の記憶の中でですら、私は私であれないとでも言うのか?
転がっている体勢では足下しか見えない。その黒い足の傍には、もうひとつ、小さな足があった。
からん、と音がした。
たぶん、剣を拾った音だ。
『そうだ、それでいい。絶対に手放すな』
男の声に、「私」が問いかける。
『……敵が……どれほど、強くても?』
『そうだ。どんな相手であろうともだ』
『わたしは……あなたに、勝てそうもない。それでも……剣を、持ち続けなくちゃいけないの?』
『不死人は死ぬ度に心を摩耗させるそうだな。オレは不死ではないから、わからないが……お前がお前で在り続けたいなら、何度命を失っても、それだけは失ってはならないものだ。戦う意思、剣だけは――』
『折れても……失くしても?』
『そうだ。剣だけは、握り続けるんだ』
ひどく、ひどく懐かしい声だった。
この声よりも理性的な、知性的な男の声を、私は知らない。
ほどなくして――キン、キンと剣がぶつかり合う音が聞こえ始める。
……私にも、そんな時があったのだろうか。
無意識に振っていた鋸。それを扱う技術を、剣術を……学んだ時が、あったのだろうか。
私の足下には、折れた剣が転がっていた。
『――お前の夢は始まったばかりだ』
師の声が聞こえる。魔術ではなく、剣を教えてくれた、もうひとりの師の声が。
それは、確かに私に向けられた言葉だった。そんな確信が、心の内に確かにあった。
瞬間――私の体は、弾かれたように跳ね動いた。
振りかざされた刃が空を切る。足下に転がっていた、折れた剣を掴み取る。
意識が、今へと還る。
私は……まだ、死ぬには早いらしい。
*
「……何?」
ふらつく体を無理やり立ち上がらせ、懐から一本のハーブ瓶を取り出す。
手に力が入らなくて、あやうくそれを落としそうになったが……そのふらつきを利用して、頭蓋にハーブ瓶をぶつけて叩き割り、頭からそれを被った。
全身に受けた傷が僅かずつだが癒えていく。……うん、大丈夫。これでいい。私の体はまだ動く。動かせる。
私の体は、殺された程度で折れはしない。
立ち上がった私に向かい、ジャックが二振りの刃を振りかざす。
私は、それを折れた剣の刀身で受け止める。久しく忘れていた、けれど確かにここにある輝きで。
「っ!? なんだ、これは一体ッ……!? 何に受け止められているんだ――ッ!?」
狼狽えるジャックの声を聞きながら、ぽつりと呟く。
「……ああ、きっと」
「っ……!?」
「ずっと――ここに、居てくれたんだ」
それは、澄んだ蒼と碧の結晶。そこにあるのは、己の刃。
剣の先に延びた光が、その剣をかつてのあるべき形へと還り咲かせる。
「我が師――」
「――導きの月光よ……!!」
それの名は、
我が師が振るった、祈りの大剣。
二振りの刃を纏った光で弾き飛ばし、続けざまに踏み込んで半身を前へ、顕れてくれたその剣を横薙ぎに一閃。
迸る月明かりの刃が宙を裂き、切り裂きジャックの脇腹を斬り裂いた。
月光刃。いつか見たその輝きを、私もまた飛ばすことが出来た。
「ぐッ――う……!? 何だ、それは……!? キサマッ――いったい何をしたッ!?」
……だが。
奇跡は、永くは続かない。ほんの一瞬、一振りだけかつての姿を取り戻した大剣は――やがて霧散し、折れた剣へと戻っていった。
けれど、それでも。それでも……。
「斬っただけだよ――。はじめての経験だった? 誰だって、はじめては痛いものね」
我が師の祈りは、今もここに。
折れた剣を構え、視界の中央に彼を捉える。紅い眼が輝き、マズルが剥けて牙が覗く。
「……ああ、やはりお前は、リデルではないッ……! 彼女はそんな顔をしない、彼女はそんな目で俺を見ない!! 彼女は、彼女は、彼女は彼女は彼女は彼女はカノジョはカノジョはカノジョはぁああああああああああぁあああああああッッ!!!!!」
吼える――瞬間、迫る。わかっている。
回転しながら私の体を切り裂かんとする刃に、折れた剣をぶつけて力をずらし――受け流す。
その一瞬、ジャックの体勢が崩れた。見逃す筈もないと、スカートの中を滑り落ちる一振りの剣を蹴り飛ばす。
「ぐぉァッ――!?」
ジャックの腹部へ、突き刺したのは螺旋を描く剣。不意の一撃にぐらついたジャックに近づき、突き立ったストームルーラーの持ち手を握り――切り裂く。腹部から肩目掛け、鋭い風を纏った刃で。
ジャックの体から鮮血が迸り、周囲を紅く染め上げた。半歩踏み出して更なる追撃を行うが、その刃は空を切り――目の前には霧だけが残っていた。
ストームルーラーを振るい、霧を払う。吹き荒れる風が視界を開かせた時、遠方に血液にまみれて立つジャックの姿が見えた。
「……ハァ……ハァッ…………」
ぶるぶると震えている。それは痛みか、怒りか、あるいはどれでもないのか。
ジャックは牙を剥き出して低く唸りながら、誰へ向けたのかもわからない言葉を口にし始めた。
「――笑える話だ……。国が滅亡する原因が……外敵の脅威などではなく、内部の奴らだとは……」
何の話だ?
訝しむ私をよそにジャックは続ける。
「ふしだらな股ガバ女がボーフラみたいに沸き続けッ!! まぁぱこぱこぽこぽこ勝手に繁殖しやがるッ!! 今や――娼婦だけで11万人、だ……!! 精神病棟や屠殺場だけでは足りない!! これ以上不幸な赤ん坊を増やさない為にも、俺が、俺が――!!!」
「俺がァあッ!!! 駆除しなければならないんだッ!!! お前のような!!! 少女然とし続ける薄汚い女どもをォオオオオアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
怒り狂えるジャックの咆哮が、彼自身の体と共に私へ迫る。
回避は――不可能。ならば――と、私は剣を握った右腕を振りかざし、突き立てられる赤さびた刃を受け止めた。
「づッ――ぅ、あ……っ!!」
深く深く切り裂かれるが、ドレスに与えられた鉄の加護のおかげで断ちはしない。腱が途切れて力が抜け落ち、ストームルーラーが私の手を離れ、がらんッ――と音を立ててこぼれ落ちた。
刃を受け止められたジャックが次に取る行動は……何であっても変わらない。
「がっっぁぁぁあああああァァアアアァアアアアアア!!!!」
吼え、或いは叫び散らすジャックが再び足を伸ばす……その瞬間。
銃声が、鳴り響く。
「ぁ――っが…………!!?」
右手から剣を離すと同時に、左手に持った銀の短銃で、ジャックの足を撃ち抜いた。
直後、私の体は反射的に動いていた。体勢を崩し、崩れ落ちるジャックの腹部をめがけ――
――短銃を手放した左手を、力の限り突き入れる。
「ごぶぉッッ!!?」
「――死ねぇぇぇえぇええええええッッ!!!!」
私の口は、勝手に叫んでいた。
腸から心臓へ向け、肘までをジャックの体内へ埋め込み、あばら骨ごと内側からあらゆる臓腑を握り潰し、それをへし折りながらひきずり出す。掻き乱されて吹き散らされる心臓と肺と肝臓と腎臓と胆嚢と胃袋と大小腸が私の体を汚しながら踊り、石煉瓦の上へびちゃびちゃと散っていった。
臓腑の全てを失ったジャックの体は、ぐらりとよろめき。
そのまま、ばしゃッ――と、バケツからひっくり返された水のように血液を溢れさせ、私の足下へと倒れ伏した。
……勝利、した。
私は……成し遂げた。
全身の骨がようやく繋がりはじめたのを感じ、輸血薬を取り出して腿に打つ。
巡る血液が治癒を促進させ、体に満ちていた激痛はゆっくりと消え失せていった。……その、最中。
「――ぐ…………ぅ……あ」
未だ息を残しているらしいジャックが、私の足にしがみつき、呻いた。
「……リデ……ル……」
「君にッ――もう、一度…………逢いた――かっ……た…………――――――」
その言葉を残し、彼は二度と動かなくなった。
足から手を振り払い、獣顔を踏み潰す。
リデル、リデル。まるで私を姉と呼び続けたイーディスのようだ。最後まで、不快な男だった。
最も……彼があの時叫んだ言葉によれば、彼もまた、歪であれどこの国で己を保てていた強靭な精神の持ち主であったのだろう。
不思議の国で自我を保つことの難しさは、市街をうろつくあれらを見ればよくわかる。
弾き飛ばされた鋸と、落とした銃やストームルーラーを拾い直し、懐へ仕舞い。
私は、コインが案内してくれたあの門の元へと足を運んだ。
「………………」
倒れ伏し、物言わぬ屍となってしまった彼女の髪を、そっと撫で。
血に汚れて真っ赤に染まってしまった、白いリボンを手に取り――胸に抱き締めながら。
上層街のその向こう、さらなる上層へと……ひとり、向かった。
*
「正気も、狂気も」
「然程変わりないにゃ」
*
「…………」
その学院の門をくぐった先。
頭にあたる部分から無数の触手を垂らした怪物が、私に向かって頭を垂れていた。
近寄って、触れてみても反応はない。うねうねと触手を動かすばかりで、私に襲い掛かろうともしない。
私は――どうしてか、それを忌まわしいと思えず、つるつるとしたそれの肌をすりすりと撫でてやった。
怪物はぴくりと頭を動かし、驚いたように触手をしきりに動かした後、また同じように頭を下げた。
それを通り過ぎて、学院の戸に手をかける。
ゆっくりと、ゆっくりとそれを押し開けて、吹き込んでくる腐臭に顔をしかめながら踏み入った。
もうずっと昔に棄てられたのであろう、腐り果てた時だけが閉じ込められた学び舎。
古ぼけた机と椅子、埃まみれのカーペット、散乱したノートや実験器具。私が今まで歩いていた場所とは明らかに違う、隔離された現実がここにあった。知を分かち合うという、真っ当な人らしい行いが行われていたことを感じさせる残滓たちが広がった世界。
一歩を踏み出す度にぶわりと立つ埃にむせながら、どこを目指すでもなく学び舎の中を歩く。机の上に残された、かすれたインクが走っているノートに書かれている文字から、ここがオックス・ウォードと呼ばれた場所であることがわかった。
『ジャンヌは今日も居残りですか? 精が出ますねぇ』
聞き覚えのある声が不意に聞こえて、振り向く。
輪郭のぼやけた影が……影たちが、談笑している。細かくは見えないが、そのシルエットにも声にも覚えのあるものばかりだった。
あの親友とよく似た声が、あの戦友とよく似た声と話している。
『まだまだ、わからないことばかりですから……そういう貴女は大丈夫なんですか?』
『あたしですか? そりゃあもうばっちりですよ。気付いたら講義が終わっているのでエルマにノートを写させてもらおうかと……』
『全くばっちりではないではありませんか……。それにエルマのノートと言えば――はあ……仕方ありませんね。私のを見せてあげます』
いつか、どこかで行われたやり取りのようだ。その記憶を、この学院が見ているのだろうか。
見渡すと、そこかしこに同じような影があった。声はだんだんとはっきりとしたものに変わっていき、無い筈の会話が作るにぎやかなざわめきがこの空間にせめぎあい始める。
思わず耳を塞ぐが、それらは私の頭の中へ響いているようで、声が止むことはなかった。
影が喋る。聞き覚えのある声で喋る。声が喋る。私が手にかけた者の声で喋る。喋る、喋る、喋る喋る喋る喋る喋る。
アシュリィ
『――の講義、どうだった? 私には、少し難しかった……』
アシュリィ アシュリィ
『けろけろ? そお? それなら復習してあげましょうか、ミランダちゃん』
『――――やく終わった! 早ぅ帰りたいのじゃ! 何故わらわがこのような――』
『はいはい、講義中はぐーすか寝てるくせして終わるとうるさいんだから……いい加減散髪に行くわよ』
アシュリィ
『お母さん、お待たせ。ごめんね、今日も迎えに来てもらって』
『大丈夫よ、レケ。気にしないで?美味しい紅茶のお店を見つけたから、帰りに一緒に行きましょうか』
アシュリィアシュリィアシュリィアシュリィアシュリィアシュリィアシュリィ
「……ぁあ……ああ…………あああああ、ああああああっっ」
うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。黙れ。黙れ! 何だ、この声は――この影たちは何だ。私はいったい何を見せられている? さっきから私を呼ぶ声は何だ? 私は何に呼ばれているんだ!
私を呼んでいるのは誰だ、誰だ!! たまらず駆け出す私の横を無数の影たちが通り抜けていく、あの声で、あの声で、あの声であの声であの声だ!! 何度となく聞かされた覚えしかないあの声たちだ!! その喉からひり出される悲鳴も嬌声も全部私の耳に染みついている!!
胃液が逆流しそうになって、片手で口を抑えて壁にもたれかかる。声はまだ聞こえてくる。あるはずのない、在らぬ日を描く影たちの声が絶えず聞こえてくる。やめて――やめて、やめて、やめて。これ以上私にそれを聞かせないで、忘れることで封じていたものがなにもかも溢れ出てしまう!!
『 ?』
ぽん。
と、誰かが私の肩を叩いた。
『学寮長が、図書室で待ってる、って』
名も、顔も知らない、学徒のひとりだった。
学徒はそれだけ言うと、小さく微笑んで、よろりよろりと歩いて行った。
……。ああ――そっか。
なら、行かなくちゃ、いけない? 私を呼んでいるのは、その人なの?
無数の影たちの声と影に紛れ込んで、私の輪郭もぼやけ始める。私は、私――そうだ……何を考えていたんだろう。
ここは学院で、私は学徒だ。彼女たちも、みんな、同じ知を分かち合う学徒じゃないか。
先生が、私を呼んでいるんだったっけ。過ぎ行く学徒の背中から、かすれた声で礼を言う。彼女は何も言わず、小さくこくりと頷いた。
図書室への行き方は知っている。像が並んでいるところに隠し部屋があるのも知っている。何度も何度も通った学び舎なのだから当然だ。私は学徒なのだから当然だ。あそこに隠れて、誰かと逢瀬を重ねたような気がする。ぁはっ――――そうだそうだ……先生は…………転勤になったのだっけ?
足を滑らせないように、慎重に廊下を歩く。途中、また顔を知らない学徒とすれ違った。小さく手を振って挨拶してくれる彼女に、私も手を振って返した。図書室はその先。本棚が並ぶ廊下を歩いて行った、その先の部屋。
私は、その戸に手をかける前に、こんこんと何度かノックをした。
『アリス』
私を呼ぶ声がして、その戸を開けた。
*
もう、何度も何度もあしげく通った場所だ。
見慣れた図書室の中にひとり、腰を落としてしゃがみこむ男性の姿があった。
「先生?」
私の口は、何故か彼をそう呼んでいた。
彼は――その戦士は、振り返ることもなく私に向かって呟いた。
『アリス。
ああ、アリス。
また僕の部屋に入って来たのか。
授業はどうしたんだい?』
しっとりと耳に馴染んでくる、その探索者の声に私は答える。
「授業なら、もう終わったよ。先生が私を呼んだんじゃない――何か……ご用だった?」
神殿騎士は微かに首を動かして、目線を私に向けた。
『おや、
ロビンソン君はとてもタメになる講義をしてくれるじゃないか』
その目は私を見ているようで、私を見ていない。
その声は私に向けられているようで、私に向けられていない。
「誰とお話をしているの、先生? 私はここだよ。わたしは……わたしは、ここ」
『勿論。
ただ、その前に写真を撮ってもいいかな?』
盗賊の腰がゆっくりと持ちあがって、私に向かって振り向いた学院を卒業して何年が経っただろう。見知った友人たちは皆結婚し子供を授かり、ひとりひとりが己の生の主役となっていった。同じ教卓を見つめ、同じ教室の中で同じ話題で盛り上がり、同じ問題に頭を悩ませた、あの頃の彼らはもうどこにもいなかった。ただ私だけが、あの頃過ごした教室に心を置き去りにしていた。
その大きな真っ黒い腕が私の頬に伸びる。聖職者はにっこりと笑って、指先を私の首筋へと這わせた。私は何故か動けないでいた。魔術師の目が私を覗いていると、動いてはならないと本能が言っているようだった。
狩人の手が私の胸をなぞりただ私だけがずっと変わらぬ夢を見ていた。私だけが夢をみていた。ほかの誰でもない夢をみていた。ほかの何をも許されぬ夢をみていた。夢をみていた。夢をみている、ぷちぷちとドレスをはだけさせる。されるがままでなくてはいけないと命じる本能に、いいやそれは違うと理性が吐き捨てた。
「ぃ――やっ…………!?」
するりと肩が脱げるあたりで、その手を掴んで拒んだ。今もずっと彼の顔が強張っていく。その黒い手が、黒い両手が、私のドレスから離れてずっと今も首を掴んだ。
「ぁっ……く……!! ……や、めっ――苦し……っ……」
呼吸が遮られる。ぎちぎちと両手が絞める。夢を私の首を、骨をへし折る勢いで両手が絞めつける。血流が阻まれ、せり上がって蓄積する血液で顔が熱くなって頭がぼんやりし始める。口からは嗚咽しか吐き出せない。苦しい。痛い。痛い、痛い――。だけど。……何故?
内腿が、ぐっしょりと熱く濡れていくのを感じていた。
彼に、首を絞められることが、次の行いを意味していると。
私のものではない心が、理解しているようで。
酸素を求めて開く口とは、別のものを求める子宮がじくじくと疼き出した。
ゆ め を み て い る
「――ぁ…………が――っ…………た――――す」
ごぶごぶと黒い液体を顔から絶えず流し続ける――騎士に。
私は、届かぬ許しを乞う。
誰にも届かざる助けを、求めた。
「――たす――――け――てっっ――――――」
――――ぐぢゅぁッッ!!!!!!
「………………――――え」
突然。
目の前のそれの頭が、振り下ろされた何かに砕かれた。
力を失った両手が私の首を離れる。開いた気道に空気がなだれ込む。
私の頭上の上にある、それは誰かの腕だった。太く、雄々しく、逞しい腕。
灰色をしたそれが人ならざるものの物であることは明らかだった。
私は…………没したそれを見下ろすよりも、先に。
私の背後に立っている、その者に――振り返った。
「…………せん……せい……?」
双肩から伸びる四本の腕と、頭の無い体。
私の記憶の中に、似たような姿の知り合いは存在していないけれど。
彼――と……それを呼称していいのだろうか?――は、私の頭をそっと撫でて、その大きな体に抱き寄せた。
「ぁ…………」
思わず――身を、委ねたくなるような……。
不思議な暖かみが、確かにあった。