「──やあ、待ったかい?」
それなりの人混みの中、その声が鼓膜に届く。
カップルになったら如何にも言いそうな言葉だと、そんなことを思ったのは自分だけか。
相手の、どこか棒読み気味な言葉に耳を傾けて、それに応じる言葉もまた感情が籠らない。
「ううん。今来たところ」
スタイルの良い体躯をコートに包み、素材の良さを引き立てる少女が近づいてくる。
此方に歩み寄る姿は凛としており、周囲の目を惹く容姿は神に見初められただけはある。
男女問わず、やや女性の方を多く振り向かせるであろう端麗な小顔にはどこか張り付けたような余裕が見える。背筋を伸ばし、普段よりもやや大人びた衣服を着こなす彼女は長い金髪を揺らす。
一歩分の距離を置いて、彼女と向かい合う。
揃えた前髪から覗く大きく丸い瞳がジッと此方を窺うように見つめてくる。
「──。なんだ? 見惚れたか?」
「あっ、い、いや。そういう訳じゃ……」
「若葉は美人だから今日の服も凄い似合うよ」
「ん、ああ……、ありがとう。なんだか照れるな。亮之佑も、良いと思うぞ」
「ありがと」
照れ臭そうに顔を背けるのは、西暦時代にブイブイ言わせていた風雲児。
お世辞か、慌ててつけたような口ぶりに思わず苦笑するも、彼女の口調と普段の態度から、それが決して嘘偽りの類ではないことは既に見抜いていた。
女剣士のような雰囲気と普段よりもやや大人びた衣服を着込む彼女。
率直に褒められて、満更でもなさそうに頬を緩ませながらも、目線の先はやや不安定だ。
「そうじゃ、なくてだな」
「うん」
「き、君の方こそ似合っているな。まるで一輪の薔薇のようだ……」
「は?」
美辞麗句で着飾った物言いは聞いているだけで虫唾が走る。
僕の考えた最強の気障な男、それを体現したかのような台詞に思わず肺から息を抜く。
詩人のような台詞を告げる彼女は俺の顔に目を向けず、その美少女の視線は自らの手元。
ギッシリと書き込みがされたメモに、彼女の熱視線が注がれる。
「あー……そ、それじゃあ行こうか。僕のエスコートを受けてくれるかい? 愛しのハニー」
「────」
怒りと羞恥と混乱と不安が綯交ぜになった表情を彼女は見せる。
ハニーと呼ばれて、思わず息を止めた俺を目線を上げた若葉が見やる。
クシャリと握りつぶされたメモを見下ろしながら、数秒ほど視線を絡ませた。
──俺と若葉はデートをしていた。
始まりは勇者部からの依頼であった。
最高のデートプランを作りたい。
そんな、多感な年頃である中学生にとっては決して珍しいものではない依頼が勇者部に届いた。当然のように勇者部としては出来るだけ現実的な内容となるようにデートプランを練って部員より選ばれた数組が実際に実践を行い、レポートを作成することにした。
ただ、問題は、誰と誰がカップル役を行うのかということだが──、
「では、若葉ちゃんは……そうですね、亮之佑さんと」
「「「な!?」」」
うふふ、と頬に手を当てる巫女の提案に勇者部は揺れた。
一体何が起きたのかと、若葉を愛する一人の巫女に疑惑の目が向けられた。
だが、それを予期していたかのように、口八丁手八丁な彼女により騒動は即座に鎮圧。
いとも容易く、若葉とデートをするという行為は勇者部公認で成立したのだ。
「──分かったよ、ダーリン」
「ダッ!?」
「ダーリン・若葉」
羞恥を瞳の色に絡める彼女はやはりどこかぎこちない。
普段の凛々しさよりも状況に対する困惑が上回っているかのように、握り締めたメモ一つに翻弄される人形のようなチグハグな言動を見せていた。
こんな言動を見せる彼女だが、ファンクラブが出来るほどに人気がある。
バレンタインでは、80個のチョコを貰った伝説を残し、その全てをひなたに管理させる少女だ。
「そもそも、なんで若葉がエスコートする感じになってる訳?」
「ん? それはこの台本に書かれているだろ?」
「ハニーっていうなら、若葉じゃないのか?」
「私がハニーな訳ないだろう? そういうのは柄じゃない」
チラチラとメモという名の台本に目を向ける若葉。
今回の依頼に対して、数組のカップルとそれらに合わせた台本が存在する。脚本家である少女たちが目一杯考えた『最高のデート』には乙女の願望が詰め込まれている。
精神的にはとっくに中学生を超えていい歳した女が、いったい、何をしているのだろうか。
「──イケイケ若葉ちゃん最高です!」
「……配役、逆じゃないの?」
「乙女若葉ちゃんも良いですが、やっぱり鉄板であるイケメン若葉ちゃんが見たいですから。今回、亮之佑さんには女性役をして貰いましょう」
「どうしてこんなカップリングにしたのよ……」
どこからか、落ち着いた声色、聞き覚えのある少女の声を耳が拾う。
陰口や噂話を拾わんとする地獄耳は、少し離れつつも此方に視線を向ける存在を察知した。
相手が此方を見ている時、既に此方は相手を捕捉しているのだ。
明後日の方に目を向けた俺に、おずおずと男性役である若葉が話しかける。
「あっ、それで、だな……」
「緊張してる?」
「え? 別に緊張なんて……、いや、どうだろうか」
監視及び、自らが作った台本の出来栄えを確認する必要があり興味本位ではないのだろう。
遠くに隠れ、揺れ動く黒髪を目端に捉えながら若葉を見やる。
彼女も今の自分が道化、或いは他人の糸に操られる存在であることを自覚しているのだろう。苦笑混じりに丁寧に結われたブロンド髪に手を置いて、俺の目を見て普段通りに告げた。
「その、依頼とはいえ異性とデートする機会は無かったからな。今日はよろしく頼む」
「……。こちらこそ、ダーリン」
「いや、ダーリンはやめてくれ」
「その台本みたいに本格的にハニーをやって欲しいなら出来なくもないけど」
「……どういうことだ?」
「女装というか変装して、ひなた製台本の通りに行動しても良いと言ってる」
「ああ……コスプレか」
「はい。5点減点」
「え」
「不用意な一言で彼女の機嫌を損ねた。次コスプレって言ったら引っ叩くんよ」
「引っ叩く!?」
本日はデート日和。化粧道具も変装道具もバッチリ用意している。
この世界に来る前に加賀亮之佑以外の自分を演じる必要がある、そういう時期があった。その過程で見苦しさのない、どこに出しても恥ずかしくない変装技術を取得したのだ。
決して宴会で見るような適当なお遊びではない。
コツコツと日々磨いてきた、特技と呼べる代物なのだ。
「確かに今のは軽率だったな。すまない」
「……いや、こっちも面倒臭い彼女みたいなこと言って悪かった。千景とかひなたさんが言いそうだったかな?」
「いや、どうだろうか……。私は亮之佑がたまに見せる変装技術は凄いと思う。園子や結城にあんな風になりきり、あまつさえ周囲の人間を欺く術は私にはない。本当に凄い。尊敬している」
「ふーん、そうなんだ」
「ああ」
「じゃあ、今日は女装してデートする? 千景になりきろうか?」
「……いや、それは大丈夫だ。今日は誰でもない、亮之佑と一緒に歩き回りたい」
「────」
「変装して誰かになりきる亮之佑じゃなくて、亮之佑本人とだ」
そうして此方に手を差し出す彼女は男前だ。
男女問わず惚れさせるような微笑を浮かべる若葉の手は小さく女性らしさを感じさせる。
此方を見つめる端正な小顔に照れはなく、素面で他人を惑わせる言葉を放つ若葉。
「──。そうして何人の女を堕としてきたんだ?」
「なっ!? 人聞きの悪いことを言うな! それにどちらかと言えば……」
「冗談だ」
彼女の手を取って歩き出す。
ゆっくりと、讃州市からわざわざ離れた土地は見知らぬ場所が多い。
「ああっ!? あんな平然と手を握り合って!! 私の考えた台本で、私の若葉ちゃんが他の人と……なんでしょうこの気持ちは……」
──どこか遠くで声が聞こえた。
「ところで、どうして千景なんだ?」
「最近の業界では『わかちか』という言葉が流行ってるんだ」
「わか……なんだそれは?」
「なんでもない」
「? 亮之佑も園子のようにたまに突拍子もないことを言うな……よくわからん」
兎にも角にも、こうしてデートが始まった。
事前に目を通した台本、若葉の言動に対する細かい言動を除けば、内容自体は普通だ。
「千景さん? わかちか、という言葉をご存知ですか?」
「し、知らないわよ」
──どこかで声が聞こえた。
ただ、互いに振り返ることなく俺と若葉は道を歩き出す。
讃州市ではない、彼女たち勇者の奮闘により解放された領域の一つ、若葉たちが当時活動していた丸亀市へと脚を踏み入れていた。
柔らかく、温かい若葉の手を握りながら、彼女の思い出話に耳を傾け、脚を動かす。
「……ここでは誰も空を見て怯えることはないんだな」
そう呟く彼女に、周囲の人間に目を向ける。
空よりもスマホを見ている方が多い彼ら彼女たちも西暦時代は違ったのだろう。バーテックスが襲撃してきてから空に対して異常なほどに怯える人が増えたという。
それを知らない俺と、知っている若葉。見ている光景は似て異なるのだろう。
「ところで、どうして丸亀市を選んだんだ?」
「うん?」
「いつも通り、讃州市でも良かったじゃないか。嫌という訳ではないが」
「うーん。なんとなく将来縁がありそうだったから?」
「なんだそれは」
此方の口ぶりに真面目に答えるつもりがないのかと、僅かに眉を顰める若葉。
雪は無くとも、未だに残る肌寒さに自然と肩を触れさせ合いながら、脚を進める。
台本通りに多少土地勘のある若葉に行先を任せ、丸亀市を二人で歩く。
「若葉たちのいた所ってあんまり知らないから。それに、今日は他の皆も讃州市でイチャイチャしているだろうからちょっと遠出したかった。鉢合わせするのも気まずいだろ?」
「まあ……そうだが」
どこか不服そうな彼女の顔色を窺いながら、徒歩で目的地へと向かう。
台本では、今話題の映画『うどんマン』の最新作を見るため、映画館に向かうことになってる。
「それに今日は……若葉とイチャイチャしたかったから」
「なっ!? お、お前はよくそんなことを平然と言えるな!」
「若葉も大体こんな言動をしていないか?」
「私がそんなことを言うはずがないだろ!」
数多の敵を退ける女騎士系女子も心は乙女。
ぎゅっと握る手に力が籠り、頬を朱色に染める彼女は視線を泳がせる。
「そっか……俺は今日、楽しみにしてたんだけどな。若葉とのデート。本人はそうじゃなかったらしいけど」
若葉は男女問わず人気の少女だ。
生前の頃の俺ならば手を握るどころか、こうして話をすることすらないだろう。
高嶺の花。そう呼ぶに相応しい立場と実力、容姿を持ち得た少女だ。天然なところもあるが、常に誠実であろうとする姿は尊く美しい。ファンも多いが誰も若葉とデートすることは叶わず、ひなたという防御壁を突破しなければ本来ならば今日という日は迎えられないのだ。
「だから、今日は本当に楽しみだった。若葉は違ったらしいけど」
「二回も言うな、二回も」
俺の嘆きをあしらう若葉は、しかしその手は離さない。
彼女にしては珍しく、僅かに躊躇いを見せる彼女は律儀に返答を聞かせる。
「わ、私もだな……その、今日は……」
「うん」
「……私も楽しみだった」
「…………」
「に、ニヤニヤするな! 撮るな!」
彼女の言葉にいつの間にか頬を緩めてしまったのだろう。
背後からの視線を感じながらも、若葉の照れ顔を携帯端末で撮る。
そのまま若葉大好きな巫女の端末に送るも、背後からの視線の圧は変わらなかった。
中身と違い、見た目が変わらないというのは制限もあれば僅かながらの恩恵もある。
映画のチケットが大人用ではなく、学生用の安価な料金で購入出来ることもその一つだ。
「む……」
「お手洗いはあそこだ」
「違う。良いのかと、そう思ってな」
俺の気遣いを無視する彼女の視線は自らの手に持つチケットだ。
隣り合う座席を予約しており、特に問題なく購入出来たそれを複雑そうな顔で見つめる。
「ほら、私たちは中身の年齢的に言えば、既に大人だろう?」
「まあR-18ウェルカムだな。何をしても問題ない年頃だと」
「その言い方はともかく、いつまでも本来の値段で購入せずに現状を甘んじて良いのかと、ふと思ってな」
ペラペラと揺れるチケット。
その紙面に記載された上映場所に移動しながら彼女は告げる。
「つまり私は立派な大人の女だから受付で微笑ましく見られようとも大人用のチケットを購入したいと。……気持ちは分からなくもないけど、この世界では見た目通りのまま年を取らないってだけなんだから深く考えるなって風先輩も言ってただろ?」
「……そうだな。すまない」
「謝らなくてもいいけど」
見た目と中身の乖離は年々と増していくばかりだ。
若葉のように精神年齢が上昇するに従い、中学生の身体との差異に違和感を覚え始める者も増え始めていた。
いつまでたっても変化しないことに対して、無意識化で何かを感じているのかもしれない。
当人ではない以上、気休めしか言うことは出来ないが、
「そういうのは気にしないとか、もしくは慣れるしかないんじゃないか?」
「慣れ、か」
「そう。自分の身体はこれなんだと。別に見知らぬ身体になった訳じゃないんだから」
加賀亮之佑とは俺だ。前世の俺も俺だ。
その違いは肉体が大半を占め、共通するのは同じ魂であること。
ゲームのようにアバターに入り込む感覚は最初は違和感を覚えるかもしれないがいずれ慣れる物だ。そういう物なのだと、自らに適応して、慣れていくのが一番なのだ。
そんな雑談をしながら、早めに座席を見つけて座る。
柔らかな座席に座り、一呼吸すると若葉が此方に顔を向ける。
映画館であり、静かにしなければならないという意識が働いているのか。
耳元に顔を寄せてひそひそと話しかけてくる。
「ところで亮之佑は映画は結構見る方なのか?」
「ん~。まあ、それなりに家で見るかな。若葉は鍛錬しかしないだろ?」
「決めつけるな。私だって鍛錬以外にも……」
「鍛錬以外にも?」
「……色々だ!」
「なら、今日から映画鑑賞も趣味に入れようか」
映画館の指定された場所は人気作なのか、それなりに人が多かった。
上映時間が近づくに連れて自然と周囲のざわつきも減っていく。
「意外にクソ映画も多いけど、時々人生が変わるような神映画に出会うと最高なんよ」
「それなら、これはどっちなんだ?」
「それはまあ、見てのお楽しみですよ若葉さんや」
「ああ、楽しみだな」
やがて、照明が消える。
映画が始まった。
「────」
ぼんやりと話題作である映画に目を向ける。
派手なアクション、少々のお色気、度肝を抜く展開は目を奪われる。光と音の暴力、しかし不快にならない程度のそれらに意識を向けながら、ふと隣に座る金髪の美少女に目を向ける。
「……」
ぽかん、と半口でスクリーンを見上げる端麗な小顔。
薄暗い密室。スクリーンの中で構築される世界を、その紫紺の瞳に焼き付ける彼女を見ながら、視線を僅かに下げる。
「そういえば」
ここまで、ずっと手を握ったままだった。
そして今も変わらず手を握ったまま。
恋人のようにねっとりと指を指を絡める握り方ではないが、握り潰すことのないように加減をしつつも離すことのないような力加減で若葉は俺と手を繋いでいた。
じんわりとした熱をを掌に感じながら再度若葉に目を向けると、ふと目が合って──、
「面白かったな」
ポツリと呟く若葉に、俺は目を向ける。
映画の余韻を楽しむ彼女に掛ける言葉はなく、そもそも口は咀嚼に使われている。
骨の部分を紙ナプキンで持ち、ホカホカの骨付鳥に噛みつく。
香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、肉汁が食欲を掻き立てる。
骨付鳥には若鶏の肉を使った『ひな』と、親鶏の肉を使った『おや』がある。歯応えと噛むほどに滲む味が特徴の『おや』を互いに好むのは事前に理解していた。
その為か、折角だからと若葉に誘われて骨付鳥の有名店に来ていた。
「まさか、他作品である筈のそばマンが加勢に来るとは」
「凄い展開だったな」
とり飯と共に骨付鳥に舌鼓を打つ。
暫く映画の感想を言い合い、腹を満たす。
「ふぅ……しかし、やはり骨付鳥はおやに限るな」
「そうだな」
「ふっ、流石に亮之佑は分かってるな」
満足気に吐息を漏らす若葉。
いつの間にか分厚いメモはコートに仕舞われていた。
「あまりガチガチに決めて行動するよりも、多少自然体な方がスムーズに行くだろう」
と、彼女なりの結論を出していた。
台本には従わない、自由を手にした若葉は清々しい笑みを浮かべていた。
既にレポートに書く内容は、その脳裏に浮かんでいるのだろう。
美食を美少女と共に味わう一時を過ごして、食事を終える。
「ところで、少し前にひなたさん達も帰ったしどうしようか?」
「うーん……」
本日の勇者部の活動は同時に様々な場所で行われている。
俺と若葉がデートしているように、他の場所でも他の少女たちがデートを楽しんでいる。何か問題が発生したら駆けつけ、問題なければ他のカップルの方に加勢することになっている。
不服そうだったが、ひなたは私情よりも依頼の完遂を優先することにしたらしい。
幾度も俺に写真を撮って送るようにと目配せをする巫女を不審の目で見る若葉を他所に、ひなたや千景は先に食事を終えて応援を要請する勇者たちの下へと向かったのだ。
「私たちも応援に行かなくて良かったのだろうか」
「それは本末転倒だろうし。残りの内容もキチンと行ってくれってひなたさんに釘を刺されたじゃん。小言も一杯貰ったじゃん」
「そうなのだが」
誰の目も気にする必要はなく、俺と若葉は店を出てぶらりと道を歩く。
ウィンドウショッピングや何やらと細かく指定された台本からは既に外れた行動をしていることは互いに理解しており、今更台本通りに行動し直すのもどうなのかと無言で視線を絡ませると、
「……そうだ。亮之佑」
「うん?」
「あ~……、私に何かして欲しいことはあるか?」
「どうした急に?」
唐突に彼女はそんなことを告げた。
映画を見る前とは一変した曇り空を見上げる彼女の意図を探ろうとして、
「その、今日は楽しかった。そのお礼というか、初デートの記念に何か一つ、言うことを聞いてやろうと思ったんだ! なんでもいいぞ」
恐らく台本に記載されていたのだろう。
何かしらデートの記念か何か、思い出に残る何かをするべきであると。
それを思い出して、若葉なりに考えて告げたのだろう。なんでも、という言葉を添えて。
「うーん」
とはいえ、唐突に言われた言葉に、咄嗟の返答が遅れる。
流石に直接的な欲望を口にするのは憚られる状況ではある。
しかし、ここで特にないからと断るというのも如何な物かと頭を回して、
「ん?」
「雨か」
ポツリ、と鼻に当たった雨粒はこれから小雨が降ることを予感させた。
事前に見ていた天気予報では雨の予定は無かったのだが、そんな予報など知らないとばかりにポツリポツリとアスファルトに黒いシミを作り始める。本降りが来そうな予感がした。
「取り合えずデートの定番で雨が止むまで休憩しよっか」
「そうだな」
「あそこにしよう」
「あそこは……──!」
断られたところで特に困ることはない。
視界に入った建物、それを指を差すと、その先に視線を向けた若葉が絶句する。
「ほ、本当に行くのか?」
「駄目か?」
「駄目というか……」
大人が休憩に使うようなホテルがあった。
その建物の雰囲気から、どういう場所なのかは素人目でも理解出来る。
天然な言動をすることも多い若葉だが決して馬鹿ではなく、色々と察したのだろう。
「あそこは……その……良いのか?」
「大人なんだろ? 問題ないじゃん」
「…………」
「休憩するだけだから」
かああっと顔を赤らみ、ジロリと半眼で睨む若葉と数秒ほど見つめ合う。
揺れる紫紺の瞳、逡巡する感情に唇を震えさせる彼女の手を取る。
やがて──、
「……あ、雨が止むまで、だからな」
と、若葉はラブホテルに入ることを了承したのだった。