金髪に赤のジャージ……李狐がいつの間にか二人の近くに立っていた。彼女の視線は知尋に向いているものの、目は合わないよう僅かに逸れている。
「何か?」
知尋より先に真里亜が反応した。
すると、李狐は彼女を軽く睨みつける。
「悪いけど、深海さんに用はないんだよね。用があるのは和泉」
悪い予感がした。
また何か罵倒なり嘲笑なりをされるのではないか。
そんな予感は当たらずとも遠からずだった。
「和泉、あたしと訓練して。一対一、何でもありの実戦形式で」
李狐が淡々と、用件を口にする。いつもなら口元に浮かべているであろう薄笑いも今はない。何か、普段と様子が違うようだった。
「……どうして、和泉くんと?」
冷えた目がちらりと真里亜を見た。
「深海さんには関係ないでしょ? あたしは和泉に言ってるんだから」
その言葉に真里亜が眉を顰める。
相手の少女への認識を改めるように、目をすっと細める。
「関係はあるわ。私が先に訓練を申し入れていたもの」
「ふうん。だから?」
李狐の態度は素っ気ない。
どうでもいい、とばかりに切って捨て、知尋に向けて言う。
「まだOKしてないんだったら関係ないよね。ね、和泉。どっちと訓練する? まさかどっちも嫌だとか言わないよね?」
空気が、妙に張りつめていた。
「あたしとするか、それとも――逃げて深海さんとおままごとする?」
「それは……和泉くん、乗る必要は」
「黙って」
あからさまな挑発だった。
誘いを受ければ、李狐はまず間違いなく知尋をいたぶろうとしてくるだろう。
今は基礎トレーニングの時間。
生徒同士の合意があれば実戦形式での訓練を行っても問題はないが、無駄な怪我や疲労は避けたところで文句を言われる筋合いはない。
学生が、一般人が己の身を案じることは「逃げ」でばない。
しかし――。
知尋の脳裏を、今朝の真里亜との会話がよぎる。
『頑張って、私のご主人様』
頑張る、と知尋は決めたのだ。
塵も積もれば、できる範囲で努力をすると。
……それに、昨日だって李狐と正面から向かい合えた。
知尋はぎゅっと拳を握り、頷いた。
「わかった。やろう」
「和泉くん、あなた……」
「大丈夫」
なんて。
勝算があるわけでもないのに、知尋は真里亜にそう告げた。
はあ、と。
真里亜が息を吐いて李狐を振り返った。
「見学させてもらっても構わない?」
おそらく拒否されるだろう、と知尋は思った。
わざわざこのタイミングで知尋を呼び出す以上、いつも以上に激しく嬲るつもりのはず。なら、ギャラリーを増やす必要はない。
そう思ったのだが。
「好きにすれば」
李狐はあっさりと真里亜の同行を認めた。
三人は屋内の個室訓練場へと移動した。道中、担当教師に行き先を伝え、同時に李狐が「帰りのHRには出ずに訓練を続ける」旨を申告する。
こうしておけば授業終了後も訓練を続けられる仕組みになっている。
……そこまでするのか。
個室訓練場は剣道の試合場にプラスアルファした程度の広さだ。
ばたん。
最後に入室した李狐が音を立てて入り口を閉じる。併せて施錠を行うと、無言のまま振り返って隅の用具入れから木刀を抜いた。
彼女が知尋との戦いで武器を使ってきたことはあまりない。もしかしたら初めてかもしれない。
それならと、知尋も同じように木刀を手にする。
先程屋外で使っていたものは返してしまったが、この木刀も規格は全く同じ。感覚はまだ残っており、握ると手になじんだ。
――柴鳳学園で使われている木刀は、威力を下げるため刀身部分がゴムのようなカバーで覆われている。それでも扱いには注意が必要だが、一発当たっただけで大怪我するようなことはない。
真里亜は部屋の壁際、真ん中あたりに立った。
「開始の合図くらいはしてあげるわ」
「ん、ありがと」
心の籠もっていない声で答える李狐。
彼女はジャージを脱いで適当な壁際に投げた。
ダークイエローのウェア姿になると彼女のボディラインがはっきりわかる。真里亜ほどボリュームはないものの、形のいい胸と尻は十分に魅力的だ。
ただし、今はのんびり観察している場合ではない。
知尋は呼吸を整え、意識を切り替えて李狐と対峙した。構えは正眼。ややこしい型などはそもそも知らないし使えない。
「始め」
真里亜の静かな声が練習場に響いた。
直後、李狐が真っすぐに床を蹴る。知尋は無暗に前へ出ず、彼女の視線を辿ろうとする。
しかし、李狐の目や顔を突如、黒いサングラスが覆った。
幻影能力の応用だ。多少視界は狭くなるが、これで知尋の読心能力は封じられた。また、目の動きから李狐の行動を予測することもできない。
「驚いた?」
冷たい声にはっとした時には、李狐はもうすぐそこに迫っていた。
横薙ぎの一撃。なんとか木刀で防御するも、返す刀で大きく弾かれる。左手が離れ、右手がじんじんと痺れる。随分と強く打ち込んできている。
次撃は大振り。防御は間に合わないため後退。避けきれず顎をかすめた。
「がっ!?」
衝撃で頭がくらくらした。
今の攻撃、知尋がかわさなかったらどこに当たっていたのか。
戦慄しつつ木刀を構え、せめて一太刀と突く。
「はっ」
李狐はそれを鼻で笑い、木刀で強く叩いた。
衝撃に引かれるように知尋の体勢が崩れる。そこへ木刀を握る両手へ向けて続く一撃が見舞われる。
ばし、と鋭い音と痛みが走り、知尋は思わず木刀を取り落とした。
からん、と床に落ちたそれは李狐によって蹴り飛ばされて部屋の端へ転がる。拾って構え直すのは現実的ではない。
「やっぱり」
李孤の声に顔を上げる。
少女の顔は愉悦に染まっていた。
「昨日のはまぐれだっただけじゃん。和泉の癖に人を馬鹿にして。今日だって、高槻さんたちと楽しそうに話したりして」
性的快楽ではなく、弱者をいたぶる優越感から来る恍惚の表情。
身長的には知尋の方が高いのに、絶対的な高みから見下ろされている感覚。
この少女は、知尋を同じ人間だと認識していない。格下の存在、嘲笑すべき虫けらだと考えている。
それは、もはや狂気だとさえ思えた。
「反省してよね」
振るわれた木刀を咄嗟に左腕で防ぐ。
木製の刃が腕に食い込み、軽く軋んだ音を立てる。
ここで反撃しなければ、このままやられる。
「っ」
知尋は息を吐いて一歩踏み込んだ。
右手の拳を握って振り上げ、李狐に向けて突き出す。
拳は防御を抜けて李狐の肩に突き刺さった。軽いが、確かな手ごたえ。
もう一撃を加えようと拳を引き、構えて。
どん。
下腹部に重い衝撃が走った。
「あ……」
下を見る。
丈夫な運動靴のつま先が、知尋の股間にめり込んでいた。
学生間の戦いにおいては、たとえ「何でもあり」の試合であっても暗黙の禁じ手とされる行為――男性器への攻撃が行われたのだ。
そう、理解が追いついた瞬間。
「ああああああああぁっっ!!」
激痛。
絶叫せずにはいられない痛みが知尋を襲った。
知尋は蹲り、床を転がり、のたうちまわった。患部に触れれば余計痛みが増すだけ、しかしじっとして痛みを引くのを待つことなんてできはしない。
目がチカチカして何も映さない。
ほんの一撃で、思考の全てがかき消され、なすすべもなくなった。
「うわ、気持ち悪」
頭上から李狐の声。
どか。
振ってきた靴底が知尋の右手を踏みつけた。
どか、どか。
右足、左足。
「よいしょ、っと」
ごん。
まるでサッカーでもするように、頭へ全力の蹴りが入った。
「あああああああぁぁっ!」
再度の絶叫を上げる知尋を李狐は冷たい声で罵倒する。
「ああもう、うるさい。気持ち悪い。和泉のくせに」
何度も、何度も、何度も。
踏みつけられ、蹴りつけられた。
痛い。痛い。ただ痛くてそれだけしかわからなかった。
「西崎さん。もう止めなさい」
真里亜の声がした。
底冷えのする雰囲気の声。怒っている、のだろうか。
「あ? 何、見学者さん?」
「止めろと言ったの。止めないなら力ずくで止める」
「はあ? これは訓練なんですけど? 何でもありなのは和泉も同意したし、まだ降参されてもいないんだから何しても自由でしょ? ね、和泉?」
あ、返事できないかぁ、と。
場違いなほど楽しそうな李狐の声が聞こえてくるが、彼女の言う通り、まともな声が発せられそうな状態ではなかった。
せめてあと少し。意識と呼吸を整えないと。
「あ、一応保険かけとこうかな」
何を、と思ううち、李狐の手が知尋の靴に触れる。
右足の靴と、靴下を脱がされる。
「うわ、気持ち悪」
口の中に、丸めた何かを突っ込まれた。布地の質感と汗の匂い、脱がされた靴下だ。
左足の靴下も同じように詰め込まれ、喋るどころか口で息するのもままならなくなった。
口の動きと舌だけで靴下を押し出すのは難しい。
「さて、辛くなったら降参しなさいよ、和泉?」
がっ、と右腕を蹴られる。
左手も念入りに踏みつけられ、両手の動きを念入りに封じられる。
次第に意識までが朦朧としてくる。
「止めなさい、と言ったはずよ」
「だからー、止める理由がないでしょ?」
「訓練とはいえ、必要以上の暴力は指導の対象になるわ。先生を連れて来ましょうか?」
「好きにすれば? まあ、センセーに告げ口なんてしたら……」
木刀の先端が知尋の首筋に置かれる。
そこへぐっと力が籠もると息が詰まり、全身からゆっくり力が抜けていく。
「どうしてもっと早く止めなかった、って深海さんも怒られると思うけど?」
「………」
真里亜の返事が聞こえてこない。
聴覚までどうにかなったのかと思ったが、そうではなかった。室内を歩く足音が聞こえたかと思うと、からんという音。
状況から考えると、知尋が使っていた木刀を真里亜が拾った……の、だろうか。
「何? それでどうするつもり?」
なおも人を馬鹿にするように李狐が言う。
「こうするのよ」
ひゅん。
室内の空気を斬る音と共に、ごっ、と重い音。
「なっ……」
「人には平気で攻撃する癖に、自分にされたら驚くのね」
淡々とした声と共に空気音が連続して聞こえる。
容赦のない滅多打ちは十数回にも及んだ。
音が止まると、再び真里亜の声がする。
「これ以上やるなら、殺すわよ」
「……っ」
李狐が息を飲むのがかすかに聞き取れた。
視界がかすんでいて良かった、と知尋は思う。言葉のインパクトだけでも十分に重いのに、仕草と視線が加わったらどれだけ恐ろしかっただろうか。
おそらく真里亜は本気だ。
殺すと宣言した以上は本当に殺す。
自身の破滅願望を抱いている彼女は、他人の生命が損なわれることに関する抵抗も、人よりずっと軽いはずだ。
真里亜の事情を知らない李狐がどこまでそれを察したかは不明だが。
数秒の沈黙の後、一つの足音が知尋の傍から遠ざかり、入り口の扉が開かれる音のあと再び、急速に遠ざかっていく。
李狐の攻撃が止んだことで、知尋の状態も落ち着き始める。
真里亜がしゃがみ込んで靴下を口から外してくれる。呼吸が楽になり、程なく視界もはっきりと戻った。
全身がずきずきと痛むのはどうしようもなかったが。
「………」
「……ごめん」
真里亜はしゃがんだまま、何とも言えない表情で知尋を見下ろしていた。
いたたまれない気持ちになった知尋は謝罪を口にするも、真里亜は首を振った。
「どうしてあなたが謝るの?」
「だって、あの時、真里亜が止めてくれたのに」
「それは仕方ないわ。自暴自棄になったわけではないのでしょう?」
そう言って、真里亜は訓練場の入り口を振り返る。
「……自暴自棄になっていたのはあの子の方かもしれないけど」
「……そうだね」
息を吐き、知尋は両腕に力を籠める。
そのまま身を起こそうとするも、ずきりと痛みが走って力を抜いた。
「少し休んでから戻りましょう。ついでに、聞きたいこともあるけれど」
「西崎さんのこと、だよね?」
「ええ。……それは、家に帰ってからの方がいいでしょうね」