真里亜はとても動ける状態ではなかった。
昨夜は殆ど眠れなかったはずだし、疲労と痛みがピークに達しているのは『自己治癒』の停止を見ても明らかだ。
愛華はすぐさま治療を開始し、華は寝室を出てミネラルウォーターとゼリーの残りを運んでくる。
「真里亜ちゃん。さっきの言葉、もう取り消したりしないよね?」
「……ええ」
一応、念押しのために確認してから水と食事を与えた。
ペットボトル半分の水とゼリー一パック――失ったエネルギーに足りるはずもないが、それでも無いのとでは雲泥の差。
補給前と比べて表情が格段に良くなった。
少なくとも話ができそうな状態になり、どこか憑き物が落ちたようにも見える。
愛華の治療は大きな傷跡が全て消えたあたりで限界を迎えた。愛華自身、ここまでのやりとりでかなり疲れているから無理もない。
引き続き、華が『治癒』を『略奪』して真里亜の治療を続けてくれる。
その間に知尋達は会話を始めることにした。
「実行委員会でのこと、もう一度聞かせてくれるかな?」
なるべく強い口調にならないように尋ねる。
真里亜はしばし逡巡を見せた後、ゆっくりと答えた。
「……ごめんなさい。高槻さんや李狐が言った通り、私はきっと皆が羨ましかったんだと思うわ」
「思う、っていうのは」
「自分でも把握しきれていなかったから。……これは、本当よ」
本人も完全には自覚していなかったこと。
それが、あれだけ頑なだった理由の一つのようだ。
ぽつぽつと、真里亜は自らの気持ちを確かめながら語ってくれる。
――夏休みが明けて以降、真里亜はずっと心にわだかまりを抱えていた。
明確に言葉にできないもやもや。
『それ』は奇妙なことに昼間――学園内では強く胸に蠢いている癖に、夕方帰宅してからは殆どなりを顰めてしまう。
不可解だが害はなく、最初はさほど気にせず流していた。
しかし、わだかまりは日を追う度に段々強くなっていく。いつしか、校内で原因不明の苛立ちを抱えては家で解消するのか常態化した。
もやもやの原因を少しずつ理解し始めたのは、知尋と神代の試合があった頃だった。
知尋を見ていると辛くなる。
より正確には、知尋と誰かが楽しそうにしているのを……だ。
疑問だったのは何故、家では平気だったのかということ。それは、しばらくして「真里亜自身の立ち位置」の違いだと理解した。
愛華達が当前のように知尋の傍にいる一方、真里亜は離れていなければならない。
他ならぬ知尋の言いつけだから破ることもできない。
主人のために尽くすのが奴隷なのに、何かあった際――例えば、知尋が怪我を負った場合でも「特に親しいわけではないクラスメート」としてしか対処できない。
それが気に食わないのだと思っていた。
「……でも、違ったのね」
理屈の上では、これ以上知尋が目立つと良くないのはわかっていた。
なのに、いつの間にか思考がねじれてしまっていた。
自分も知尋の傍にいるべきだ。けれど知尋達に相談すれば論破されるに決まっているから、黙ったまま既成事実を作るのが手っ取り早い。そう思って舞阪からの依頼を受けた。
……渦巻くもやもやの正体、自分の本当の気持ちに目を背けたまま。
「矛盾には、少なくとも高槻さんから反発された時点で気づいていた……と思うわ。でも、認められなかった」
ぽた。
再び真里亜の瞳から涙が零れ落ちた。
それを見た華は治癒の手を止め、ぎゅっと背中側から真里亜を抱きしめた。
「辛かったですよね。真里亜ちゃんは悪くないですよ」
優しい言葉。
しかし真里亜は華の言葉に首を振った。
「いいえ、華さん。今回のことは私が悪いわ」
疲れを宿した微笑みが彼女の顔に浮かんだ。
すぅ、と。
愛華が息を吸ってから真里亜に尋ねる。
「じゃあ、真里亜ちゃん……認めてくれるの?」
「ええ、高槻さん」
答えた彼女は知尋へと顔を向けた。
全裸で座り込んだまま髪は乱れ、目にも隈ができている。しかし瞳には一定の強さを持った光が宿っていた。
深く、深く全てを飲みこむ闇が今はなりを顰め――代わりに恋という、種類の違う強い欲望が彼女を支配している。
「和泉君……ご主人様。私はあなたが好きです。心からお慕い申し上げております。奴隷としてではなく一人の女として。私はもう、あなたなしでは生きられません」
その言葉と想いは、どこまでも純粋で澄みきっていた。
プライド、嘘、思い込み……そういった不純物を全て取り除いた後だからこそ可能な、極上にして唯一無二の告白。
注ぎ込まれる。
見つめあった瞳を通して愛情が流れ込んでくる。小川の清流のごとく緩やかに、しかし確実に知尋の心を洗い流していく。
あの真里亜が。
こんなにも真っすぐに人を、自分を愛してくれるなんて。
「む」
息を漏らした愛華が抱き着いてきたことで視線が逸れる。
陶酔がふっと消えてなくると、今度は急に気恥ずかしい気持ちが押し寄せてきて、知尋はどうしていいかわからなくなった。
「知尋君、デレデレしてた」
「いやその。ええと」
決して愛華のことを軽んじていたわけではないのだが。
……しかし、あのまま。
心が真里亜で満たされていたら、どうなっていたかわからない。
「大丈夫よ、高槻さん」
「え?」
真里亜はふっと微笑むと、再び知尋に向けて告げた。
「だから和泉君。私を捨ててください。壊れた奴隷はもう、あなたには必要ないでしょう」
言われた意味を理解するのに数秒を要した。
捨てる、という単語が選ばれた理由について更に数秒。
震える声で問い質す。
「その後、真里亜はどうするつもり?」
少女は笑みを維持したまま答えた。
「実家に帰ります。このマンションと家具は全て、今までどおりお使いいただけるように手配します。ただ私があなたの前からいなくなるだけです」
「そうじゃない! 帰った後、真里亜がどうなるのか知りたいんだ」
彼女は自分を『捨てろ』と言った。
不要になった『物』が辿る末路と言えば。
真里亜がゆっくりと首を振る。
「大したことはありません。とある『落とし物』によって今の自我を消され、都合のいい記憶と人格を与えられた上で別の主に仕える……そんなところでしょう」
忘れてしまうのだから辛くはない。
壊れた物がリサイクルされるだけで、知尋が気に病むこともない、と。
直後、華が叫んだ。彼女らしからぬ大声で、
「駄目です、絶対に駄目です! 真里亜ちゃんは『あの人』のところへ行くつもりなんでしょう!?」
「……華?」
「それなら私が貰います。それでもいいですよね? だって、和泉君以外のご主人様なら誰だっていいんですから」
必死に首を振り真里亜を抱きしめる少女の瞳には恐怖が浮かんでいた。それは喪失、別れに対する恐怖なのか、それとも。
「駄目よ、華さん。それでは『あの人』も納得しない。このマンションの費用だって、私が自分で稼いだお金ではまだ賄えないのだから」
マンションの維持は交換条件ということか。
『あの人』という誰かに身を委ねる代わりとしてこの環境を残すと、真里亜はそう言っているのだ。
おそらくは、ある程度の財力か権力を持った人物なのだろう。
その正体は知尋には知る由もないが。
「どうして、そこまでするの?」
愛華の疑問に真里亜は苦笑しながら答えた。
「邪魔になるからよ。高槻さんにとっても私は敵になるし、今の私はきっと奴隷としての役割を果たせない。そうなったら和泉君にも、李狐にも、華さんにも迷惑がかかる」
恋心とは容易に制御できるものではない。
特に、真里亜の場合は主人――知尋への忠誠心と、己の強すぎる性欲、それらが恋愛感情と合わさって暴走してしまう可能性が非常に高い。
完全に理解していなかった、認めようとしていなかったこれまでなら良かったものの、次はきっと、今回の委員会騒ぎの比ではない騒動になる。
「それは、でも」
しどろもどろになる愛華。
彼女にはある程度、納得できてしまうのだろう。少なくとも、彼女にとって真里亜が恋敵になるのは間違いないのだから。
華もまた何も言えない。
内申点を気にしたり、知尋達からやや離れたスタンスを取ったりと慎重な面のある彼女は、騒動の懸念を無視できないはずだ。そしてそれを払拭するだけの力は今の彼女にはない。
かといって、真里亜に目の前からいなくなって欲しいというところまで無慈悲にはなれない。
しかし。
「ああ、もう。また面倒臭いこと言い出すなあ」
はあ、と。
ため息をついた金髪の少女は違っていた。
「李狐?」
「あのね、真里亜。ぶっちゃけあたしは……あと多分知尋も、そんな理屈知ったこっちゃないの」
きょとん、とする真里亜に李狐は遠慮ない言葉をぶつける。
彼女の顔に苛立ちはあるものの嫌悪や怒りはなく、むしろ声からは友人への親しみすら感じられた。
それは、深刻な色に染まりつつあった状況とは反するが――。
何やらいきなり胸を張って。
「どうせだから言わせて貰うけど、あたしだって知尋のこと好きだよ」
「なっ」
思わず、と言った調子で愛華が吹きだす。
「り、李狐ちゃん? いや、あの。知ってはいたんだけど」
そんな彼女にはひらひらと手を振って。
「あは。大丈夫、心配しなくていいよ。あたしは知尋の彼女になろうなんていう気は全然ないから」
これまでにも何度か聞いた言葉。
実際、李狐がこれまで恋人関係を求めてきたことは一度もない。
当然のことになりつつあったことだが、あらためて、真里亜は今ここで疑問を抱いたようだった。
「どうして、そう言えるの?」
これまでは同じように――いや『似たような形で』奴隷を貫いてきた真里亜は、今になってようやく李狐の考え方の異常性を真に理解したらしかった。
「あたしは知尋の奴隷だからだよ。そう決められて、そう決めたから。あたしは知尋の奴隷でいるのが嬉しいし楽しいの。あたしの中では好きな気持ちと、奴隷でいることは矛盾しない」
「……そんなの、綺麗ごとよ」
「いや、超ドロドロしてるけどね。奴隷とか言ってる時点で」
複雑な表情で呟く真里亜に対し、李狐はあくまであっけらかんとした態度だった。
それを見た知尋はつい笑ってしまう。
「……あはは」
「和泉、君?」
「ごめん。でも、李狐の言う通りだよ」
李狐の作ってくれた流れを継いで、真里亜に言葉を届ける。
「迷惑とかどうでもいい。僕には真里亜が必要だし、李狐達だって真里亜がいなくなって平気でいられるわけがない。恋をしたら奴隷でいられないとか、そんなのは真里亜が勝手に決めたことだ」
身を乗り出そうとして右腕が痛み、仕方なく左手だけを精一杯伸ばす。
とてもじゃないが真里亜のいる位置までは届かなかったが。
「ここに居るんだ、真里亜。これは命令だよ」
「……ご主人、様」
何度目かの涙。
目を見開いて知尋を見た真里亜は、数秒の後にこくんと頷いた。
苦しそうに、右手を胸に置いて拳を作りながら左手を伸ばして。
「――かしこまりました。あなたの、仰せのままに」
これまでで最高に美しい笑顔を浮かべた。
これにはさすがに愛華も茶々は入れず、華が真里亜の邪魔をするはずもなく。
李狐の呟きもごく小さく場の雰囲気を壊さないものだった。
「まったく。たったこれだけのことでどんだけ大騒ぎすれば気が済むのよ」
彼女の言う通りではある。
加えて言えば、真里亜が口にした問題の殆どは何も変わっていない。
これで解決したと言うのは非常におこがましいが、それでも大事なことに決着がついたのは間違いないだろう。
どうしたいかが決まったなら、そうできるように動けばいい。
結論と過程が逆順になろうと誰に文句を言われる筋合いもない。
……その後、知尋達は真里亜にパジャマを羽織らせ食事をさせた。
「夕食、取っておいてくれたのね」
「ええ。音でわかったかと思ってましたけど」
「ごめんなさい。そこまで気にする余裕はなかったから」
きちんと食事さえすれば後は休息を取るだけで回復するだろう。
ただ、さすがに負担が大きかったため、真里亜は明日も学園を休むことになった。
明日開かれる二回目の実行委員会は欠席することになるが、それは愛華が自分から買ってでてくれた。
「私が代わりに行くよ。……実は、先生には明日はお手伝いできないかもってもう話してあって」
「……そういうことなら、遠慮しても仕方ないわね。高槻さん、お願いしてもいい?」
「うん。任せて」
そうして少女達は微笑みあった。
華は食事の片づけまで終えた後、知尋の腕を動く程度に治してから帰宅を宣言した。
気づけば日付が変わりかけているので危険な気がしたが、防犯ブザーくらい持っているから大丈夫と言って譲らなかった。
「華。さっき言ってた『あの人』って」
マンションの入り口まで見送りに出たところで尋ねると、華はふっと笑って首を振った。
「今は気にしないでください」
「……今は?」
「ええ。和泉君がこの調子ならそのうち嫌でも会うことになるでしょうし。それまではきっと、変な先入観は持たない方がいいです」
それだけ言うと華は去っていった。
謎の『あの人』。
華の口ぶりなら、真里亜に尋ねるのも止めておいた方がいいのだろう。
会う時は、いつか本当にやってくるのだろうか。
部屋に戻ると、李狐と愛華から寝室に行くよう促された。
「どうして?」
「いいから」
「行ってくればいいの」
何が何やら。
ごゆっくり、と言われ押し出されてドアを開けると、ベッドの端に真里亜がそっと腰かけていた。
いつの間にパジャマから着替えたのか黒のネグリジェ姿。
華が治療に励んでくれたおかげで肌にはもう傷一つない。深い疲労の方はどうしようもないが、それでも気丈に微笑む姿はしとやかな淑女――否、愛奴のそれに他ならなかった。
「ご主人様」
「真里亜」
今晩は二人でどうぞ、ということか。
知尋は寝室のドアを静かに閉じると真里亜へと歩み寄った。
「眠った方がいいんじゃ……っていうのは野暮かな」
こくん、と頷かれた。
思慕と情欲の二つが渦巻く――荒れ狂う瞳が知尋を見つめる。
「はい。どうしても今、この場で抱いていただきたいのです。でないと、とても眠れません」
「……なら、時間の許す限り楽しもうか」
まだ、決めなくてはならないことも多い中。
二人は余計なことを忘れるように唇を重ね合った。