五分も休むと、起きて歩く程度は可能になった。
痛みを堪えつつ校医のところへ行き、治療を受けるとかなり痛みが和らいだ。翌日にはほぼ気にならなくなっているだろう。
「もっと身体に負担のかからないトレーニングをするように」
しっかりお小言をもらい、着替えて教室に戻るとHRは既に終わっていた。
連れ立って入室した二人を教室に残っていた生徒が振り返る。その中には愛華の姿があった。
「和泉君、ふらふらしてるけど大丈夫?」
彼女は知尋の姿を見ると心配そうな声を上げ、すぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫。ある程度治して貰ったから」
「そっか。……でも、せっかくだから私にも治させて」
微笑んで言いながら真里亜へ視線を送る。
真里亜は黙って頷いて自分の席へ戻っていった。自分は無関係だという主張にも、愛華に任せるという意味にも受け取れた。
知尋は愛華によって近くの席へ座らされ、制服とワイシャツのボタンを外された。きゃー、と、ギャラリーからわざとらしい悲鳴が上がる。
見れば、愛華もほんのりと頬を染めていた。
「和泉君、思ったよりは筋肉ついてる」
「……えっと。まあ、一応、全く運動してないわけじゃないから」
「あ。そ、そうだよね。ごめんなさい」
きっと、愛華は女の子のような身体を想像していたのだろう。
そう思うと悲しい気分になりかけたが、なるべく顔に出さないようにしつつ愛華の治療を受ける。
高槻愛華の能力はヒーリングだ。
真里亜と違って対象は任意。怪我の他、軽い病気や肉体疲労も癒すことができる。代わりに精神力の消耗が大きく、現状では劇的な治癒力もないためランクはD。しかし、限りなくCに近いDと言われている。
愛華が知尋の胸に手をかざすと、手のひらからほんのり光が生まれる。
光が当たった部分からじんわりと熱が全身に広がり、ふっと身体が楽になる。治療は数秒で終了し、愛華が首を傾げながら知尋に尋ねる。
「どう? 少しは違う?」
「うん。すごく楽になったよ。……ありがとう、高槻さん」
「そう、良かった」
にっこり笑う愛華。
目が合うと、彼女の慈愛が胸に直接伝わってくる。
ほっと息を漏らして視線を逸らすと、真里亜がこちらを見ていることに気づいた。何やら微妙に不機嫌になっているようだ。
……帰宅時間が遅くなるのを気にしているのだろうか?
知尋の反応に気づくと、真里亜は素知らぬ顔で視線を逸らした。鞄を持って立ち上がり、クラスメート達に挨拶をして教室を出ていく。
なら、知尋もあまり長居せずに帰った方がいいだろう。
「あの、和泉君。私ね、さっき李狐ちゃんのことも癒したの」
「……え」
李狐も教室に来ていたのか。
荷物が置いてあるのだから当然といえば当然だが、ということは、愛華は李狐の怪我も見たことになる。
知尋は目で確認できなかったが、音からしてあちこち腫れたり、あるいはそれ以上の状態になっていたはずだ。
「校医の人のところにも行かなかったみたいで、どうしたのか聞いても教えてくれなかったの。李狐ちゃんと、何かあった?」
「……ええと」
何と言うべきか迷う。
正直に言ってもいいのだが、その場合、咎められるのはいったい誰だろう。
李孤の言っていた通り、真里亜に矛先が向いたりはしないか。
「ただの訓練だよ。……ほら、西崎さんはあの性格だから」
反撃されればヒートアップする、という説明はある程度説得力があったらしい。
実際、この説明でも大筋では間違っていない。
「……そっか」
愛華は俯くように頷き、表情を曇らせた。
「でも、あんまり危ないことはしないでね。私たちには特別な力があるけど、万能ってわけじゃないんだから」
「……うん。ありがとう、高槻さん」
知尋は学園を出て真里亜のマンションへ向かった。
合鍵を使い部屋に入ると、真里亜が居間で待っていた。既に私服に着替えてお茶の用意を済ませている。
「ごめん、お待たせ」
「いいえ。……それじゃあ、あの子のこと、知っていることを話してくれる?」
「うん」
着替えは後回しになりそうだ。
知尋はブレザーとネクタイだけを外して座った。ペットボトルのアイスティーと、お茶請けにクッキーが差し出される。
喉を湿らせ、クッキーに手を伸ばしながら、知尋は頭の中を整理する。
「話すといっても、正直僕も西崎さんのことはそこまで知らない。初対面は入学してからだし、見た通り仲がいいわけでもないから」
「あの子の虐めは、いつも今日みたいな感じなの?」
「虐め、か」
そう言われると何となく、多少の違和感があった。
しかしそれには触れず、真里亜の問いに答える。
「いや。いつもは武器までは使わなかった。口に物を詰め込まれたのも。……あそこまで痛めつけられたのは初めてだよ」
「……そう」
真里亜が小さく頷いて目を細める。
どうやら何かを考えているようだった。
「じゃあ、彼女から初めて敵意を向けられたのは?」
「……初めての実戦訓練の時だったかな」
あの頃はまだ、知尋も少しだけ己の能力に自信を持っていた。
柴鳳学園、知尋と同じ『落とし物』のための学校であれば、能力を使っても咎められることはないと思っていた。
しかし西崎李狐と対峙した時、その幻想は崩れた。
『……あんた、見たの?』
初めて李狐の心を読んだ時、彼女はそう言っていたのを覚えている。
直後、苛烈な攻めで痛めつけられ、知尋はあっさりと敗北した。
それからである。
李狐は知尋のことを「気持ち悪い」と形容するようになり、それに数人の生徒が同調した。以降、他の生徒達も心を読まれること忌避し始め、知尋は他人と目を合わせないよう、下を向いて生活することを余儀なくされた。
また、李狐は訓練でも日常生活でも知尋にきつく当たり続けた。
彼女をそうさせた理由はよくわからない。ただ、知尋を痛めつけることで彼女が優越感を抱いていたことは確かだと思う。
「……優越感、ね」
真里亜がつまらなそうに呟いた。
「確かにそうなんでしょうね。あの子はそうしないと自分の価値を確かめられない」
自分の価値。
「……そういえば、初めに西崎さんの心を読んだ時は、『優越感』は読み取れなかった」
「じゃあ、何を感じたの?」
ぴくりと、真里亜が反応を見せる。
彼女の真っすぐな視線を、今は努めて受け止めないようにしつつ、知尋は答えた。
「劣等感」
「……まるで正反対の感情ね」
「うん。だから不思議に思ったんだ」
まして、知尋が彼女の心を読んだのは、まともに交戦する前のことである。
李狐が知尋に劣等感を抱く理由がわからなかった。
もしかしたら別の誰かに対する感情だったのかもしれないが、それが誰なのかも知尋にはわからない。
戸惑うしかできないまま、突然敵意を向けられて叩きのめされた。
成程ね、と真里亜が頷いた。
「――嗜虐的な態度は、内心の不安感の裏返し。それを最初の読心で悟られたと、彼女は思ったんじゃないかしら。だから怒った」
李狐が攻撃的になったのは知尋が心を読んだから。
少なくともそれは間違いない。
なら、そこに読まれたくない何か、弱みがあったと考えるのは確かに自然だ。
「……でも、あの西崎さんが?」
躊躇なく知尋に暴力を振るい、嘲笑する。
脳内にあるイメージとのギャップからいまいちしっくりと来ない。
すると真里亜はテーブルに置かれた紅茶に視線を落とした。彼女がつん、と指先でグラスの淵に触れると、静かだった水面が揺らめく。
「あなたのイメージは、初接触の後の彼女でしょう? 初めて心を読んだその時点まで……攻撃を受ける前までの印象はどうだった?」
「それは、髪は染めたから近寄りにくさはあったけど、でも、心の中には劣等感があって……普通の、僕と同じ、入学したばかりの女の子だ……って」
思い返してみれば、当時はそう思っていた。
知尋の言葉に真里亜はにっこりと微笑んだ。
「きっと、それが答え。彼女は誰か……生徒の誰かか教員か、あるいは『自分以外の能力者全員』にコンプレックスを抱いていた。それをあなたに見透かされたと思ったから怒り、必要以上の攻撃を加えた」
けれど「心を読まれた」という事実は消えない。
それによって、知尋もまた李狐の劣等感の対象となった。何しろ、知尋は「李狐が弱い」ということを把握することが可能なのだから。
だから李狐は知尋を痛めつけ続けた。
知尋に上回り続けることで精神の安息を得るために。知尋をいたぶり続けることで、弱い自分を否定するために。
だとすれば、李狐の知尋への攻撃はきっと永遠に終わらない。
そして、きっと徐々にエスカレートしていく。知尋が真面目に力を蓄え、李狐に反抗しようとすればスピードはより加速する。
止める手段は、知尋が学園を辞めるか、あるいは死ぬか。
「幻影を作り出す能力。虚構、虚飾。人を騙し、飾り立てることで自らの強さを演出する。……私の考え方に基づけばそうなるわ」
「そんな。じゃあ、西崎さんはずっとそんな気持ちを抱えたまま、ってこと?」
「ええ。でも、和泉くん?」
真里亜が知尋の顔へ手を伸ばし、頬をぎゅっとつねる。
「あなたに、彼女の心配をする余裕があるの?」
「それは、でも」
「でも、じゃない」
目が合う。
怒り、いや憤懣か。
真里亜は知尋の態度に憤りを感じているようだった。
細められた目が知尋を射抜く。
「悔しくないの? あれだけいたぶられて、靴下を口に詰め込まれて。彼女はあなたが降参できないようにした上で、どこまでも嬲るつもりだったのに?」
「っ」
真摯な言葉が胸を打つ。
知尋は唇を噛みしめると、重い息を吐きながら答えた。
「……悔しいに決まってるよ」
「………」
「痛かった、苦しかった、殺されるかと本気で思った。……いや、真里亜が助けてくれなかったら本当にそうなっていたかもしれない」
強くなりたい、と。
願い、昨日はほんの小さな、確かな成果を得た。
なのに。
前へ進もうと意思を定めた結果、これまで以上の屈辱と敗北が待っていた。
悔しい。
胸の奥には煮えたぎる怒りがある。
ずっと前から、知尋の胸の中にあった。
『あなたに欲望は、嫉妬は、憎悪はないのか聞いてるの』
二日前、雨の道でもそう問われた。
その答えが、これだ。
「勝ちたい。西崎さんに勝ちたい。今までされたのと同じくらい。……いや、それ以上に痛めつけてやりたい。そうできる力が欲しい」
さっきの読心で触れた真里亜の怒りが呼び水になったのだろうか。
気づけば感情が、言葉が止まらなくなっていた。
知尋は決して聖人君子などではない。人からお人よしと呼ばれたこともあるが、恨みもするし妬みもする、ごく普通の人間だ。
……いや。
もしかしたら、普通の人間よりも欲深で、醜い人間かもしれない。
知尋はこの数日で、真里亜の欲望に何度も触れた。
激しすぎる女の情欲。あれに触れたことによって以前よりも明確に「女を犯す」ことについてイメージできるようになっている。
それは、暴力で他者の命を奪うことと似てはいる。
けれど実際には別次元の、別ベクトルの事柄だ。
人として決して越えてはいけないライン。越えてしまえば、それはもう人ではなく獣と同じになってしまう。
そう、わかっていながら。
したい、と望んでしまう。
くすっ。
「良かった」
ドロドロした感情を吐露した知尋に対し、真里亜は微笑む。
両の手が知尋の頬を包み込む。
「教えてくれてありがとう。とても嬉しいわ。……それに、とても安心した」
「安、心?」
「ええ。やっぱりあなたは私に似てる。どうしようもない欲望を抱いてしまえる、こっち側の人間なんだ、って」
絡み合ったままの視線を通して、真里亜の感情の変化が伝わる。
いつも通りの彼女。
あらゆる被虐を望む、どうしようもない本性。
「本当はね、昨日と今日、感じていたことがあったの。あなたの欲望はヌルすぎる、って」
知尋が契約を交わした相手。
彼の人生を変えてしまった少女が、あまりにも蠱惑的な声で、包み隠さぬ本心を語る。
「二度のセックスは、殆ど普通の男と同じ。いいえ、積極性で言えば並以下。そういう意味では失望すらしていたの」
辛辣な言葉。
しかしそれは知尋の心に真の安らぎをもたらす。
何故なら、言葉と裏腹に、真里亜の表情はどこまでも蕩けているからだ。
「でも大丈夫。あなたはちゃんと堕ちてくれる。時間をかけても、最後には必ず。ね? そうでしょう、ご主人様?」
どくんどくんと心臓の鼓動が早くなる。
ああ、彼女の言うことは正しい。
知尋という存在を、最も奥底にあるドス黒いものまで含めて肯定してくれる。
彼女はいったん知尋から手を離すとアイスティーを手に取り、一気に飲み干す。
その手が今度はクッキーを掴むのを見て、知尋もその意図を理解した。後を追うように飲み残し、食べ残しを全て片づけてしまう。
真里亜が立ち上がって両手を広げる。
「さあ、和泉くん。西崎さんにしたいこと、全部私で試して? 大丈夫、このマンションは防音で、私の身体はそう簡単に壊れないから」
むしろ、壊して欲しい。
一番強い感情を読み取る知尋の力は、言い訳を許さず、少女の淫らな欲望を剥き出しにする。
ぷつん、と。
知尋は、自身の理性の箍が外れる音を聞いた気がした。