鈴。
一か月程前、学園内で偶然出会った女性。
教員といえば教員だし違うといえば違う、微妙な立場にある人物。
自分および触れた者を他者の認識から妨害する能力と、観察した対象について深く知る能力――少なくとも二つの能力を持つ『落とし物』。
初対面で知尋のペニスをしごき、二回目に会った時にはセックスを要求してきた放蕩娘。
ロングヘアと豊満な肢体を持つ、知尋のセックスフレンド。
「手を切れ、というのは……」
「言葉通りだ。今後一切、会うのも話をするのも止めて他人になって欲しい」
ごくり。
知尋は唾と共に鳳の言葉を飲みこんだ。
彼女が何かしら訳ありなのは言動から感じ取っていたが、まさか理事長が彼女に関わっているとは。
……いや。
考えてみれば、鈴と二度目に会ったログハウスは学園の施設だ。
鈴があそこに寝泊まりしているとすれば、それは学園のトップ、理事長から特権的な立場を与えられているということに他ならない。
『耳年増だけどね。ゆーちゃんがうるさいから実践する機会はなかなかないの』
ゆーちゃん、と呼ばれていた相手の正体は今目の前にいる鳳――鳳由司(おおとり ゆうじ)だということか。
『湯瀬君に神代君……それに和泉知尋くん、か』
初めてこの理事長室を訪れた時、鳳が知尋のことを気にしていたのもそのせいだったのだろう。それ以前に鈴から知尋の話を聞いていたから、神代達とは反応が違っていたのだ。
経験からそこまでを推測し、そのうえで知尋は鳳に尋ねた。
「どうして理事長先生が鈴さんのことを?」
「……彼女からは何も聞いていないのか」
鳳が重苦しい呟きを漏らす。彼は口調を変えないまま「女性を軽々しく下の名前で呼ぶものじゃない」と知尋に告げた。
それに倣い「鈴は」という主語を省いて知尋は答えた。
「あまり話したくないみたいだったので、プライベートなことは聞いていません」
「なるほど。鈴らしいな」
知尋に釘を刺した傍から鈴を名前で呼ぶ鳳。
……嫉妬、なのだろうか。
無意識なのかもしれない。もしそうだとしても、大人の男性が高校生の少年に対して向けるには重苦しく不格好な感情だと思えるが。
そうしなければならない程の事情、想いがあるのかもしれない。
二人の年齢的に親子というには無理がある。
だとすれば。
「私は彼女の保護者をしていると思ってくれればいい」
鳳の返答は知尋の考えを裏付けるものだった。
保護者という言葉も曖昧ではあるが、彼が鈴を庇護する役割にあることは間違いないだろう。
自ら宣言する以上、義務と責任を放棄するつもりもない。
むしろ積極的に干渉しているからこその『耳年増』だったのだろう。
そんな、大事に守ってきた鈴を、ぽっと出の知尋がほいほい穢していった。
「……僕は悪い虫、というわけですね」
「話が早いな」
ふん、と鳳が鼻を鳴らした。
彼の方も随分と直截な物言いだ。全校集会などで話をしている時とは口調からして違うように思う。
こうして理事長室で向かい合ってはいても、今は個人として話しているからか。
「あの人は自分の意思でああやっているんだと思うんですけど」
「だからといって、何もかも許して与えるのが正しいか?」
返答は早かった。
若干、こういう答えにうんざりしている感すらある。
……愛しているのだろう。
鈴を愛しているからこそ厳しく接する。あのログハウスや冷蔵庫の中身のように与えるものは与える一方で、例え彼女が望もうと決して与えない物もある。
保護者という名乗りは伊達ではない。
彼は責任を持って知尋に口を出してきている。
「……わかりました」
だから、そう答えた。
「僕からは会いに行きませんし、会った時もできるだけ話をしないようにします」
「連絡先は?」
「交換していません。合い鍵とか、そういう物も貰ってません」
「いいだろう」
鳳は頷いた。
彼は懐に手をやると、何やら細長い形状の機械を取り出した。携帯用のICレコーダーのようだった。
……今の会話を録音されていたのか。
出会ったのは偶然だったと思うが、実は待ち伏せていたのか。あるいはいつも持ち歩いているのか。いずれにせよ周到なことだ。
「二言はないと信じているよ」
どの口が、と思わなくもなかったが飲みこんで頷いた。
「はい。お約束します」
答えて知尋は立ち上がった。
鳳もまた立ち上がり、先回りするように理事長室のドアを開けてくれた。素直に頭を下げてドアをくぐる。
「失礼します」
理事長室に鳳を残して一人、階段を目指す。
……自然とため息が漏れた。
鳳の要求は鈴を思ってのことだが、見方を変えれば学園理事長が一生徒に直接、圧力をかけてきたことになる。
恐ろしいことだと思わざるを得ない。
知尋が約束を違えれば、鳳は知尋をどうとでもできる。彼にはそれだけの力があるし、同時にそうする理由もある。
逆らうことは、許されない。
再び階段にさしかかった頃。
背後からにゅっと伸びてきた腕が、知尋の首を両側から絡めとった。
むにっと、惜しげもなく押し当てられる双丘はかつて揉みしだいたことのあるもの。
「知尋くん、エッチしよ?」
退廃的な甘い声で鈴が耳元から囁きかける。
なんというタイミングで現れるのかと嘆きたい気分に陥りつつ、知尋は極力、重苦しい声にならないよう気をつけながら答えた。
「すみません。今はちょっとそういう気分じゃなくて」
「む。もしかして、もうお姉さんの身体に飽きちゃったの?」
今なら教室でだってエッチできるのに、と続く声にぞくりとしつつも、極力無反応を貫いた。
そのままゆっくりと階段に踏み出そうとして、
「ゆーちゃんの言うことなんて聞く必要ないよ」
「……聞いてたんですね」
鈴が現れた時点でそんな気はしていた。
思えば鳳の登場の仕方自体が唐突だったのだ。あれはきっと、鈴と一緒に歩いていた彼が知尋を見つけて声をかけたから。認識疎外の範囲から抜けた直後だったから唐突に思えたのだ。
その後の鳳の行動――ドアを開けておく時間が長かったのも、鈴が入室するタイミングを作るためだったのだろう。
「全部聞いてたよ。最初から最後まで」
鈴の手が首をホールドして振り返るのを阻止する。
手と声はかすかに震えていた。
「前にも言ったでしょ。わたしはわたしのやりたいようにするって」
「理事長はあなたのためを思って」
「だからって、それが本当にわたしのためになるとは限らないでしょ?」
それは、その通りだ。
本人の望みを全て叶えるのが正しいとは限らないように、保護者の言い分が常に本人にとって良いことだとは限らない。
『うちの親は碌でもないからね。ま、楽でいいけど』
李狐はあっけらかんとした態度で言うが、彼女だって過去には色々あったはずだ。
しかし、だとしても。
「理事長は、本当にあなたを思っていると思います」
「ないよ、そんなこと」
冷たい声が知尋の言葉を否定した。
「ゆーちゃんはわたしのことなんて思ってない。私をペットかお姫様みたいに大事にしまっておきたいだけ」
「そんなこと」
「あるよ」
ぎゅう、と身体が押し付けられる。
踏みしめた両足に鈴の体重を感じる。すぐ前が階段がある現状ではかなり恐ろしい体勢だが、鈴は気にしていないようだった。
いっそ転げ落ちてしまってもいいと思っているのか。
「知尋くん。わたしの処女を奪った責任を取って」
「……え」
背筋が冷える。
後悔しないと、セフレでいいと告げた唇が脅迫めいた言葉を紡ぐ。
首筋に水滴が落ちる感触があった。
「わたしの名前を呼んで。わたしを抱いて、犯して。ばれなければ大丈夫だよ。だから……結婚してなんて我儘言わないから、今まで通りわたしとエッチして」
「なんで、そこまで」
鈴は知尋に拘るのか。
知尋の『色』が珍しい色だったから……と、前に尋ねた時はそう言っていたが、単に興味があっただけのことでここまでするものか。
疑問に鈴が答える。
「前に言ったことは本当だよ。知尋くんの色が透明だったから。正確には、透明な色に何枚も違う色のフィルムが重なって見えたから」
「フィルム……?」
問い返してから気づいた。
本人の色に別の色が重なっていたというのなら、素直に考えてそれは別の人間の色であるはず。
おそらくは知尋と深い関わりのある人間――真里亜や愛華、李狐の。
少女達の色を重ねて、透かしている。
「だからね、この人なら受け入れてくれるって思ったの。誰も受け入れてくれなかったわたしのことを」
わたしの全てを。
鈴の告白は、普段の彼女とのギャップもあって重苦しく胸を打った。
……それでも。
「僕には、理事長を裏切れません」
「どうして?」
「裏切ったら僕自身が破滅するからです。それに、大切な人達も」
真っ先に考えられる処分は退学。
もしそうなれば、知尋は実家に帰らざるをえない。
真里亜や李狐、愛華とも今まで通りの関係ではいられない。特に、愛華と恋人関係を続けるのは外聞の問題からかなり困難になるだろう。
進路だって厳しくなる。
知尋が持つ一番の長所は『落とし物』であることだが、柴鳳を退学処分になっては『落とし物』としての進路は大きく狭まるだろう。
「だから、鈴さんを切り捨てれば済むならそうします」
「っ」
脇腹辺りを掴んでいる手に力が籠もる。爪が立てられ鋭い痛みが走った。
鈴は割と爪が長い。面倒くさいとか言って切るのを怠っているのか。
「嘘つき」
非難の言葉が囁かれる。
「どうせわたしのために言ってくれてるんでしょ」
「嘘じゃありません」
口にしたのは本心だ。
もちろん、保護者に逆らってまで関係を続けるのは鈴のためにならない、そう思ったのも事実だし、それぞれの理由の比率がどれほどのものかなんて、知尋自身にも正確にはわからないのだが。
沈黙が降りた。
今の時点でも既に数分間、階段前に立ち尽くしてしまっている。鈴の能力のお蔭で人に見つかる心配はないのだろうが。
「わかった」
やがて、暗い声で鈴が言った。
……きっと、彼女の心には深い傷が残っただろう。
そう理解していながらも、知尋は鈴が諦めてくれたことに安堵した。
「もういい。何を言われようとわたしは諦めないから」
「え」
それは、どういう。
尋ねようとした知尋を、鈴は腕を離す動きを利用してぐるっと反転させる。二人は階段前で向かい合う形になり――。
どん。
足元がふらつく。
浮遊感と共に身体が落ちていこうとする中、手がぐいっと引かれて移動ベクトルが逆向きになった。
階段前の床に倒れ込む形となった知尋は周囲を見渡すが、どこにも鈴の姿は発見できなかった。知尋の代わりに踊り場に転落した、などということはないはずだが。
理事長からの脅迫。
豹変した鈴。
連鎖する混乱の予感。
己の足場が急速に崩れていくような感覚に、知尋は戦慄を覚えた。
☆ ☆ ☆
「……そう」
鈴に突き放された後、知尋は重苦しい足取りでマンションまで戻った。
マンションには最近、訪問率が上がりつつある愛華と、それから真里亜と李狐がいた。
「話があるんだ」
かすかな既視感。
居間に揃っていた彼女達に告げて事情を話した。
真里亜が息を吐いて眉を顰める。愛華は表情を暗くして黙り込み、李狐は難しい顔をしつつも真っ先に口を開いた。
「その鈴さんってさ、知尋を階段から突き落とそうとしたってこと?」
他の確認事項を飛ばしに飛ばした疑問だが、大事なことだと彼女の瞳が語っていた。
だから、知尋も先程の出来事を思い返しつつ真剣に答える。
「……いや。もし突き落とす気だったら、わざわざ助ける必要がない。本当に突き落とす気はなかったと思う」
覚悟を示す、という意味では『本気』だっただろうが。
と、剣呑な推測については敢えて口に出さなかった。
更に、真里亜が冷静な声で李狐を嗜める。
「いずれにせよ、今回はその女性を殺すなり犯すなりして解決する問題ではないわ。どちらにしても『不干渉』という前提を崩すことになるのだから」
「……そうだよね」
神妙な顔で李狐が頷くと、愛華が顔を上げて抗議した。
「待って。その前にその、殺すとか犯すとかを前提に話すのがおかしいよ」
「愛華さん。そうしなければいけない場合もあるのよ」
「いや、無いよそんなの!」
「見解の相違ね。優先順位の問題、と言った方がいいかしら」
知尋様以上に優先すべき事柄などない、と真里亜。
愛華はやはり納得できない様子だったが、今この場の論点はそこにないからといったん突っ込みを止めた。
はあ、と真里亜がため息。
「厄介な女性ね。……知尋様、こうなった以上、私達は彼女をひとまず敵と考えます。もし彼女が知尋様に危害を加えるつもりなら、その時は知尋様の無事を優先します」
「……知尋君に、危害?」
「ええ。思いつめた女はそれくらいしかねないと、愛華さんも知っているでしょう? ……もしそうなったら、どうする?」
「っ」
想像したらしい愛華が唇を噛み、きゅっと両手を握った。
それを見た真里亜は満足そうに微笑むと全員に告げた。
「とりあえず、私達にできるのは様子見。警戒と情報収集、それに根回しといったところかしらね」
有事の際には団結して対応する。
いざとなれば実力行使も辞さない。
……これまでやってきたのと同じこと。今回は愛華も加わっているが、先程の真里亜の言葉があるからか、彼女もやる気を見せている。
そんな中、知尋の胸には常のような冷めた思考とは違う、不定形の想いが芽生え始めていた。