「すみません、鈴さん。お待たせしました」
知尋が全ての用事を終えてマンションに帰ったのは昨日とほぼ同時刻だった。
理事長室を出た後、知尋は鈴にマンションの場所を教え鍵を渡した。
ここで大人しく待っていて欲しいと伝えると、鈴は恋人の部屋の鍵を渡されたかのように――実際には真里亜の部屋なのだが――微笑んだ。
『うん、わかった。待ってるね』
いったん別れた後はすぐ真里亜達にメールを送信。
話の成り行きから鈴を連れ帰る必要が生まれたこと、知尋が帰るまで鈴にはマンションにいてもらうことを連絡してから午後の授業に出た。
幸い、授業や実行委員会、生徒会では何の問題も起き無かった。
……どうやら、鳳にはすぐさま強硬手段に出る気はないらしい。
今後どうなるかはわからないが、鈴ができるだけ長く『人質』として機能してくれることを願うしかない。
と、玄関の扉を閉めて廊下に上がると。
「お帰りなさいー、知尋くんー」
「知尋ぉ。ちょっとこの人なんとかしてよ」
居間から上機嫌な鈴の声と李狐の悲鳴が聞こえてくる。
何事かと思って居間に行けば、なんと、鈴がビールの空き缶をいくつも転がして酔いつぶれていた。
服装がセーターとジーンズになっていること、見慣れないトランクが隅に置かれていることから私物はマンションに運び込んだようだが……ビールはログハウスの冷蔵庫から運んだのか、わざわざ買ってきたのか。
なんだか気が抜けるのを感じつつ、顔を真っ赤にした彼女へと歩み寄る。
「飲み過ぎじゃないですか?」
「いいじゃない、これくらい。それとも知尋君も飲む?」
「いえ、未成年なので」
「そっか、残念」
鈴には悪いが、ここで警察に捕まるリスクまで増やしたくはない。
「……ええと、それで李狐達は大丈夫?」
居間には李狐の他に真里亜、愛華、華とメンバーが勢揃いだった。
華が不満顔なのは連日呼びつけられているせいだとして、李狐がエプロンを着けて疲れた顔をしているのと、真里亜や愛華が呆れ顔をしているのは何故だろう。
「あたし高校生なのに、おつまみなんか何種類も作れるかっての」
「あー……」
言われてみればテーブル上に空の皿が何枚も置かれていた。
マンションに帰ってきたのは李狐が一番最初だったが、彼女が戻った時点で鈴は既にさきいかやピーナッツをつまみに酔いまくっていたらしい。
そこから食事の支度をする傍ら、おつまみ作りに追われていたと。
「それで、知尋様。何がいったいどうなったのでしょうか?」
「うん、説明するよ」
鈴がこの調子では碌に事情も把握できていないだろう。
知尋は手早く着替えだけを済ませ――私服を見た鈴が「なんだか新鮮」と呟いていた――席について事情を話した。
説明が終わると皆、困惑気味の表情になる。
全員を代表して華が尋ねてくる。
「え。それは大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫」
「あ、すみません。あなたには聞いてないんで黙っててください」
「……いじめられた」
茶々を入れた鈴はばっさり切り捨てられた。
一応、彼女が一番の当事者なのだが、華は酔っ払いが嫌いなのかもしれない。
苦笑しつつ代わりに知尋が答えた。
「まあ、当初の目的が果たせた……とも言えると思う」
鳳を問い詰めて情報を得るつもりで赴いた結果、一足飛びに鈴を味方に引き入れることができた。そこだけを見れば大戦果だ。
代わりに、これ以上なく鳳を刺激してしまったのが予想外だが。
「彼女が釘を刺した内容は一定の効果を上げるはず、ですね」
「それに期待するしかないかな」
ついでに、鈴がここにいるのだから情報も引き出せる。
ぐでっと机に突っ伏している鈴を振り返る。
「鈴さん。今、話せる状態ですか?」
「気持ち悪い……」
駄目そうだ。
李狐が水を汲みに席を立ち、愛華が困ったように首を傾げた。
「私の力は毒とかアルコールには強くないから、役には立てないかな」
「……大丈夫、少し休めば」
鈴が呻くように言った。
李狐がコップに注いだ水を一息に飲み干し、身体を起こして椅子の背もたれに身を預ける。
「じゃあ、先にご飯とかお風呂を済ませようか」
鈴が休んでいるうちに交代で風呂に入ってしまう。
寝間着など楽な格好に着替えを終え、李狐がメインで調理した料理が食卓に並ぶ頃には鈴の顔色もそこそこ良くなっていた。
今日のメインディッシュは豚のチーズ揚げ。薄い豚肉でチーズを巻きフライにした料理だった。
「あ、ビールに合いそう」
「え。あんた、まだ飲む気?」
李狐がやや間の抜けた声で言った。
第一印象が第一印象だっただけに年上と認識できないのか「あんた」呼ばわりである。
そんな彼女に鈴はふっと目を細めて呟く。
「飲まなきゃやってられないもん」
全員が微妙な表情で押し黙った。
冷蔵庫から新しいビールを出してきた鈴は、缶に軽く口を付けるとゆっくり言った。
「ゆーちゃんのお兄さんとわたしは婚約してたの。わたしが高校生の時からね」
☆ ☆ ☆
付き合い自体はそれこそ子供の頃から。
親戚のお兄さんに甘えるように、鈴は『彼』に懐いていた。だから二人の関係が婚約者に変わる時も「ああ、そうなんだ」と思った。
やっぱり、わたしはこの人と結婚するんだ。
歳はだいぶ離れていたが嫌ではなかった。むしろ腑に落ちる感覚。
そのうち彼に抱かれて彼の子を妊娠するんだ、と当然のように認識した。
「……あ。当時のわたしは今と違って真面目だったからね。身体も弱くて、保健室にしょっちゅう顔出すような子供」
「それ、自分で言うんだ……」
清純だった鈴も年頃の女子高生。
性への興味は人並みにあり、いつしか彼のことを思いながら自慰行為に耽ることも多くなった。
もしろ性欲が人より強いと自覚したのはその頃だ。
彼に抱かれたい。そう思い、化粧を頑張ったりそれとなくアプローチをした。
「でも、抱いてくれなかった」
そういうのは鈴ちゃんが大人になってからにしよう。
彼はそんな風に言っては鈴のアプローチを断り続けた。電話やメールはむしろマメな程くれるし、暇な時は必ずデートに誘ってくれていたのに。
セックスどころかキスもしてくれなかった。
「高校の卒業した日にね、抱いてってお願いしたの。もう子供じゃないからって。でも、やっぱり駄目だった」
大学に進学してからも交際は続いた。
当時、鈴は彼への愛情と不満を、毎日の自慰行為で発散しながら過ごしていた。そんなある日、彼から「病気でもう長くない」ことを知らされた。
併せて、結婚するつもりはないこと、誰か他にいい人を見つけて欲しいとも。
「僕は君に相応しい男じゃない、って言われた」
最後にあなたの子供が欲しいと願っても、彼は頑として首を縦に振らなかった。
結局、キスすらしてくれないまま、鈴を清い身体で残したまま彼は逝った。
「彼の気持ちが全然わからなかった。あの時のわたしには、彼以外の男の人なんて考えられなかったから」
これまでの人生を共に過ごしてきた彼以上の相手などいるはずがない。
半身に拒絶され、半身を失った少女は心に絶望を抱えた。
「……全部、どうでもよくなっちゃった。お酒飲んで寝て、大学は単位ギリギリで卒業するだけした」
数えきれないくらいオナニーをした。
そのうち実家からは見放され、両親は最低限のお金だけを振り込んで後は鈴のことを無視するようになった。
このまま一人で朽ちていけばいいと思っていた頃、鳳に拾われた。
彼は鈴に今の職とあのログハウスを与え、何かにつけて世話を焼くようになった。食事から掃除洗濯まで、あらゆることに手と口を出してきた。
「この人ならって思った。彼の弟で、昔は仲良かったし。もう一度だけ好きになれるかもって思った」
しかし、鳳は既に別の女性と婚約をしていた。
婚約したのは鈴が腐っていた時期。つまり何もかもが遅すぎたということ。鳳は、鈴と付き合う気など欠片もないのに彼女の世話を焼いていたということ。
事実、鈴が何度、セックスに誘おうと彼は乗ってこなかった。
――もう、何も信じないことにした。
信じるのは本能だけ。求められる最低限の仕事をこなしながら、後の時間は好きなことだけをして過ごす。
気持ちよくなるためのセックスを鳳に求めては拒絶され、どこかで傷つきながら何でもない振りをし続けた。
「くだらない人生でしょ?」
「………」
「………」
自嘲気味に鈴が笑い、一同が沈黙を保つ。
そんな中と、李狐が切なげに目を細めて首を振った。
「ごめん、あたしには『くだらない』かどうかわかんない。彼氏が抱いてくれないのがどれくらい辛さかなんて想像できないし」
「……私も」
愛華も瞳を潤ませながら同意する。
はあ、と華がため息をついた。
「そんなもんですよ、人生なんて。私達『落とし物』はそういう経験が力になったりもしますし」
鈴の持つ認識疎外の力。
あれは誰からも煩わされないため――孤独な状態を無理矢理作り出すための能力であるとも受け取れる。だとすれば、生まれたのは比較的最近だったのかもしれない。
「僕も同じです。理事長の一方的なやり方は許せない」
「……みんな優しいね」
鈴が瞳の涙を拭って顔を上げる。
彼女は、唯一まだ反応を見せていない少女と目を合わせた。
「大丈夫、あなたは間違っていないわ」
真里亜は微笑んでいた。
「私にあなたを否定できるわけがない。きっと、あなたはある意味では私の同類なのでしょうし」
「ありがとう」
鈴がそれに微笑みを返し、それからぽつりと呟いた。
「真里亜ちゃんだっけ。こんなに鮮やかなピンク色は見たことないかも。頭の中、エッチなことしか入ってないの?」
「ええ、入ってないわ」
「あ、否定しないんだ……」
話が無駄に脇へ逸れたが、ひとまず元へ戻す。
「鈴さんと黒羽先輩は姉妹なんですか?」
「四葉? うん、血の繋がった妹だよ。最近は会ってないけど」
「会いたい、とは?」
「別に。あの子とわたしは違うもん。……顔は時々見てるし、全部、面倒くさいこと押し付けちゃったし」
ノブレス・オブリージュ。
持つ者の義務を、鈴は既に放棄している。今も誇りを胸に抱き続ける四葉とは考え方が合わないだろうし負い目も多いだろう。
四葉がどう思っているのかはわからないが、わからないから怖いというのもあるはずだ。
「ね、鈴……さん? これからどうするつもりなの?」
李狐が尋ねた。
鈴は彼女に首を傾げつつ答える。
「ここに置いてもらうのは、駄目?」
「それは構わないわ」
真里亜が即答する。他の面々も異論は唱えない。
今更一人や増えたところで、という面もあるだろう。
「うん、それはいいんだけどさ。理事長と喧嘩したままでいいの? 向こうも少しは頭冷えただろうし、今のうちなら仲直りできると思うよ」
鳳の基本スタンスはおそらく変わらないし、変えられない。
そもそも世間一般の常識から言えば正しいのは鳳の方だ。
しかし鈴が現状をよしとしていない――自分と、自分を取り巻く環境を変えたいと望んでいるのなら、まだ遅くはない。
自立したい、恋人を作りたいと望みをしっかり伝えればきっとわかってもらえる。
そのためには知尋と決別する必要はあるが。
「やだ、面倒臭い」
しかし鈴は一言で片づけ、ビールの缶を傾ける。
「……もう、なんなんですか。せっかくの美人が台無しです」
「わたしはだらだらしたいの。いっぱい甘やかして欲しいの。恋愛なんて面倒くさいことしたくない。そういう人間なんだよ、わたしは」
と、彼女はそこで立ち上がり、知尋のところまで回り込むと抱き着いてくる。
「どうしても彼氏作らなきゃいけないなら知尋くんがいい。知尋くんじゃなきゃ嫌」
「知尋君は駄目です」
愛華が慌てたように言った。
更に彼女まで遠慮がちに身を寄せてきて、知尋は食事の手を止めざるをえなかった。
幸いすぐに鈴がどいてくれたのでほっとしたが。
「わかってる。彼氏を作るなら、っていう話だよ。わたしはただのセフレでいいの」
鈴はにっこり笑って愛華達、四人の少女を見渡した。
どこまでも自堕落な発言だが、彼女にとってそれは単なる自暴自棄ではなく本質になっているらしい。
染みついた習慣がそうさせたのか、心の傷が生まれ持っていた性質を開花させたのか。
「みんなとも仲良くするように頑張る。みんな知尋くんのことが好きな仲間だもんね」
子供っぽい――だからこそ純粋な女性。
愛華が知尋に触れたままおずおずと呟いた。
「知尋君のことを取らないなら別にいいです、けど」
ちらりと視線を向けられた華達もそれぞれに頷いて見せる。
「……ま、いいんじゃないですか。好きにしてください」
「ん。あたしもいいよ。ちょうど今忙しいから、家事くらいは代わりにやってもらうかもだけど」
「あ、お料理とお洗濯は得意だよ。掃除と後片付けは苦手だけど」
鈴も家事を手伝うことにはあまり抵抗が無いようだ。
残った真里亜がくすりと笑った。
「私としてはセフレではなく、知尋様の奴隷をお勧めしたいところですが」
「あ、それでもいいよ。わたしを首輪で繋いでくれる、知尋くん?」
鈴が期待の籠もった瞳で知尋を見る。
「……一度繋いだら、簡単には離しませんよ」
「ふふっ。うんっ、もちろんいいよ」